tag:blogger.com,1999:blog-8706459004233028342024-03-08T20:34:27.208+09:00ZEPHYR もう一つの物語ゼファー・石井敏弘の作品世界ZEPHYRhttp://www.blogger.com/profile/18267253818170282825noreply@blogger.comBlogger13125tag:blogger.com,1999:blog-870645900423302834.post-24744195952834081332018-05-11T12:25:00.002+09:002018-09-13T17:30:29.226+09:00桜餅 前編 いつもと同じ路線バスを降り、スーパーで買い物をした。<br />
一人分の買い物。すぐに終わるが、レジに向かう途中で桜餅があるのに気づいた。三個入り。それをかごに入れた。<br />
買い物の短い時間で、日はすっかり落ちてしまい、街は暗くなった。<br />
アパートまで五分の道のり、同じように帰宅途上の人の群れに混じって、塾帰りだろうか、中学生になるかならないかくらいの女の子がわたしのそばを駆けていく。<br />
「ママ!」<br />
そう言って戸建ての住宅の前で自転車を止めた女性のところへ。<br />
笑顔になって迎える母親。<br />
二人は一緒に家に入っていく。<br />
そんな当たり前の光景を見るたびに胸が締め付けられる。<br />
<br />
誰もいないアパートの部屋に帰宅。<br />
出迎えてくれるのは、下駄箱の上に置いている写真立てだ。いつも出かけるときに玄関に置くようにしている。<br />
その中で笑っているのは、わたしの夫であった人と離れている子供、そしてわたし。<br />
その写真立てをワンルームの部屋の中にある小さなテーブルに戻す。<br />
「ただいま」<br />
そう言ってみるのも日課だ。<br />
この日課があまり辛くなくなったのは、最近のこと。前は声をかけるたびに泣いていた。でも、声をかけずにおれなかった。<br />
何か音がほしいという理由だけで、昨年、寿退社が決まった同僚から譲り受けた古いテレビをつけた。<br />
ニュースをやっている。<br />
――本日11時45分ごろ、宮城県の沖合でマグニチュード7.3の大きな地震が発生し、津波注意報が出され、大船渡市などで0.6メートルの津波が観測されましたが、地震による大きな被害はありませんでした。気象庁は今後も余震が心配されるとし、警戒を……<br />
この頃、地震があちこちで多い。怖い。<br />
買い物を冷蔵庫にしまう。冷蔵庫の中から小鍋を取り出す。<br />
昨日作ったカレーはまだ二食分ほどある。今夜と明日の朝……いや、明日は残業確定なので、もう一度夜に回すことにしようと思う。<br />
鍋をコンロの上に置き、スーパーのレシートを持って家計簿をつけた。今月は5万入れられそうだ。自分名義ではない通帳を開き、次の入金でとりあえずの目標である7桁になるのを確認する。<br />
こんなこと自体、単なる自己満足かもしれない。<br />
でも、こんなことでしか罪滅ぼしができない。<br />
この二年半、いつか……ということだけを支えに生きてきた。<br />
万に一つもないと、頭ではあきらめている。<br />
でも、いつか、と思うしかなかった。そのために、何か形になるものを残しておきたかった。それが別れた夫名義の通帳だった。<br />
<br />
カレーの前に、お茶を入れ、桜餅を食べた。<br />
桜餅独特の甘さと塩味、それから懐かしさと苦しさが、ないまぜになり……胸の中に何かが立ち上がってきて泣いた。<br />
――桜餅、好きなんですか。<br />
若い夫の声と表情が浮かび、それから堰を切ったように、いろんなことを思い出し、よけいに泣いた。<br />
<br />
夫――聡史とは、大学時代に出会った。<br />
同じゼミで、春に仲間たちでそれぞれ好きなものを持ち寄って花見をしようという話になったとき、初めて親しく話をした。<br />
お酒が飲める学友たちはビールなど持ち込んでいたが、わたしはお酒が好きではなかったし、彼も一滴も飲めない体質で、しかも和風の甘いものが好きだという共通項をこのときに発見した。<br />
それもお汁粉とかぼた餅とか落雁とか。<br />
わたしは桜餅も持ち寄っていたので、彼は目を輝かせた。<br />
「桜餅、好きなんですか?」<br />
「あ、はい。おいしいですし、ほら、きれいじゃないですか」<br />
「俺も桜餅、大好物なんですよ。実家のすぐ近くに和菓子屋さんがあってね、そこのがすごくうまいんですよ」<br />
「よかったら、どうぞ」<br />
「やった。ありがとう」<br />
わたしたちの頭上には、満開の桜が淡い光の帯のように広がっていた。<br />
<br />
それからわたしたちは交際するようになった。<br />
大学を卒業後、それぞれに就職したが、交際は続いていた。<br />
二人が25歳になる年、結婚した。その二年後、子供を授かり、わたしは仕事を辞めた。<br />
翌年、生まれたのが亜弥だった。<br />
ちょうどその頃から、聡史に出張が多くなっていった。勤め先が急速にフランチャイズを拡大している外食チェーンで、彼は新店舗立ち上げに関わる部署で勤務していたため、一週間、あるいはひと月くらいの出張もざらだった。<br />
この頃、少し距離ができた。<br />
帰宅しても、聡史は疲れ切っていることが多く、夫婦の会話も減っていた。<br />
そして、わたしは不倫をしてしまった。<br />
<br />
何も言い訳はできない。当時の自分があまりにも未熟で、おかしかったとしかいいようがない。<br />
当時、わたしは何も楽しみがないように感じていた。特にこれといった趣味もなく、秀でた職能があるわけでもなく、ただ子育てをし、夫は仕事ばかりで見向きもしてくれないと、勝手に思い込んでいた。<br />
そんなとき大学時代の学友・明山と街で偶然に再会した。<br />
明山は聡史と共通の友人だったが、本当はわたしに好意を寄せてくれていた男性だった。聡史との交際中に一度告白されたが、もちろん断っていたし、そのためか自然と疎遠になっていた。<br />
明山はある自動車のディーラーで販売員として勤務していた。懐かしさもあり、しばらく話し込んで、連絡先を交換した。<br />
しばしばメールが来るようになり、日常の不満や子育ての辛さや細かい苦労を彼に相談するようになっていた。彼もまた既婚であり、奥さんとの関係での悩みを打ち明けてきて、お互いに癒やしを求めるような関係に。<br />
肉体関係になってしまったのも、そんなに時間がかからなかった。<br />
「まだ若いんだし、僕たちにだって楽しみが必要だよ。絶対バレたりしないし、家庭さえ壊さなければ何も問題ないよ」<br />
<br />
当時のことを思い出すと、そのたびにうめき声を上げたくなる。<br />
愚かな自分を責め、失ったものを悔い、なによりも夫を深く傷つけてしまった罪悪感で押しつぶされそうになる。<br />
<br />
でも、当時のわたしにはそんな危機感はなく、明山との交際に酔っていた。<br />
「家庭さえ壊さなければ――」という呪文を繰り返し心で唱え、壊れるはずもないと考えていた。<br />
自分が他で心が満たされる分だけ、気持ちのない夫にも優しくなれた。<br />
聡史はその頃からどこかよそよそしくなり、さらに会話も減っていった。疲れているといって、わたしとのセックスも拒むようになっていた。<br />
その反動で、わたしの心はよけいに明山に向かってしまった。<br />
明山とは心に深い絆が生じ、何でもわかり合える相手だと錯覚した。夫の留守中に子供を実家に預け、幾度も逢瀬を重ねるうち、「家庭を壊さない楽しめる関係」から、妄想が膨らんでいった。<br />
いつかお互いに離婚して、新しい家族になろう。<br />
何があっても僕が君を守る。<br />
わたしもあなたと暮らす日が一日でも早く来るのを願っているし、毎日の支え……。<br />
夢物語を言葉やメールで語り合っていた。<br />
<br />
わたしは明山との交際期間の半年、夫の変貌にほとんど気づかなかった。<br />
夫はその半年の間に、すごく痩せていた。体重にして、10㎏近く落ちていた。どこかで意識することがあっても、仕事が忙しいのだなということを、まるで他人事のように思っていた。<br />
でも、夫はすべて知っていたのだ。<br />
それも、ごく初期の段階から気づいていた。<br />
<br />
ある平日の昼間、わたしは明山を夫や子供と暮らす賃貸マンションに招き入れた。それが初めてではなかった。子供はうまいこといって、やはり親元に預けていた。明山とはディーラーの休日、水曜日の昼間に会うことが多かったのだ。<br />
毎回、明山がマンションにいた痕跡は完全に消していた。ベッドのシーツも取り替えていたし、部屋も隅々まで掃除していたし、性交渉に関するものはすべて自宅内から持ち出し処分した。その足で、娘を迎え帰宅すると――<br />
夫がすでにリビングにいた。ギクッとした。いつもは深夜帰宅が当たり前なのに――。<br />
「お帰り――」<br />
屈託のない笑顔。2歳になったばかりの亜弥が「パパ」といって駆け寄っていき、彼が抱き上げる。平静を装って尋ねる。<br />
「どうしたの。早いね、今日は――」<br />
「うん、だって、今日は結婚記念日だろ。定時で上がってきた」<br />
ショックを受けた。結婚記念日だということを、わたしはすっかり忘れていた。ずっと夫婦で祝ってきたし、子供が生まれてからも、その日は特別な日として、わたしはごちそうを用意したりしていた……<br />
「桜餅、買ってきたんだ。ほら、いつかいってただろ。駅前にできた新しいお店。あそこの」<br />
「あ、ありがとう。ごめんなさい。わたし、うっかりしてて」<br />
「いいよ。おまえだって、子育てで大変なんだから」<br />
「ごめんなさい」<br />
「じつはさ、寿司を取ってあるんだ。さっき頼んだから、もうすぐ届くと思うよ。それでお祝いしようよ」<br />
「ごめんなさい……」<br />
わたしは本当の意味で謝っていなかった。結婚記念日を忘れていた失態をどう取り繕うか、ごまかすか、そのための言葉だった。<br />
今日何をしていたかと問われたとき、なんと答えようとか、そういうときの言い訳は日頃から用意していた。でも、この日ばかりは言い訳を用意していながらうまくごまかせそうにないと感じた。<br />
けれど、夫は何も問わなかった。<br />
寿司が届き、夫は珍しくよく食べた。もうずっと夕飯は済ませてくることが多く、わたしの作ったものは口に入れてもすぐに箸を置いていた。<br />
この夜は、上機嫌で、これも滅多にないことなのだが、いつかの頂き物で冷蔵庫に収納されっぱなしだったビールを飲んだ。社会人になった後も、体質的にほとんどアルコールを飲むことはなかったのに。<br />
その夜、夫はわたしを求めてきた。<br />
夫はずっとセックスレスだった。明山に気持ちが行っていたわたし自身、それを好都合と感じていた。夫に抱かせたくないと、時々、明山が心配していたからだ。<br />
しかし、この日は拒めなかった。<br />
交際期間を通じて、きっと初めてだというほど、夫はわたしを強く求めた。幾度も。<br />
わたしはうれしかった。<br />
自分が忘れていた結婚記念日を大切にしてくれたこと。<br />
このところずっとなかったような笑顔を見せてくれたこと。<br />
こんなふうに自分を欲してくれるのなら……とさえ思った。その後ろ側で、同じ日の昼間、明山に抱かされていた罪の意識が胸を締め付けた。<br />
明山とは別れた方がいいのかもしれないと刹那、思った。<br />
<br />
翌朝、目が覚めると、ベッドに夫はいなかった。<br />
トイレに起きたのかと思い、リビングに出て行った。「あなた」と呼びかけたが、気配はなく、テーブルには昨夜の桜餅と、その横に一枚の便せんと緑の用紙が並んで置かれていた。<br />
<br />
――すべて知っています。<br />
<br />
頭が真っ白になった。<br />
わたしはたぶん、かなり長い間、その一枚の便せんの文字を見つめ、その場に凝固していた。そして、隣の離婚届に記入されている夫の署名と捺印を交互に見つめていた。<br />
「すべて知っています」という言葉の意味が、ちゃんと頭に入ってくるまでに、とても長い時間を要したように感じた。<br />
理解することを、たぶん拒否していたのだと思う。<br />
親権欄にも、夫の名がすでに書き込まれていた。<br />
<br />
ーー娘。<br />
あるとき、頭の中でつながり、わたしは寝室に駆け戻った。「亜弥! 亜弥!」と叫びながら、ベビーベッド(まだ体が小さいので、そのまま使っていた)を確認した。<br />
寝室の隅々まで確認し、次にはマンションの隅々を確認し、玄関のドアを開け、通路を確認した。<br />
そこからは我が家が契約している駐車場スペースも確認できた。そこにうちの車はなかった。<br />
このとき、わたしはわなわなと震えた。<br />
正常な思考はほとんど蒸発していた。<br />
夫に電話をかけた。出ない。幾度もかけた。出ない。<br />
次にしたのは、震える指で明山にメールを送ったことだった。今の状況の説明、夫が何かいってきていないかということ。<br />
しかし、早朝だったためか、明山はなかなか返信をよこさなかった。<br />
明山からの返信を待ちきれず、次に夫にメールを送った。<br />
どうしたの。どこにいるの。何をいっているのかわからない。誤解です。話をしたい。娘をどうしたの。お願いです。連絡をください。<br />
そんな内容のものを何十回と送った。<br />
その間に明山からのメール返信があった。<br />
なにもない。どうしたの、いったい。まさかバレたの? <br />
そんな内容だった。明山に電話した。<br />
「ばか。こんな時間に電話かけてくんなよ。気づかれんだろ」<br />
「だって……」<br />
「ちょっと待て」<br />
移動し、洗面所に入ったのか、トイレを流す音。<br />
「マジでバレたのか」<br />
「わからない。でも、すべて知ってるって。離婚届が置いてあって、聡史はもう記入してあるの」<br />
「とにかくしらを切り通せよ」<br />
「でも、もし本当に全部知られていたら」<br />
「僕はうまくやってたんだよ。そっちのことはそっちの責任で処理してよ」<br />
耳を疑った。<br />
「なによ、それ……。なにかあったら守るっていったじゃない」<br />
「今はちょっといろいろまずいんだよ。嫁さんの実家のこともあって……」<br />
後の言葉は、ほとんど耳に入ってこなかった。言い訳ばかりだったことは、なんとなく印象に残っていた。<br />
何かあっても個別の夫婦間のこと。<br />
配偶者にバレたのなら、それは本人の責任。<br />
だから、何かあったのならそちらで処理しろ。<br />
言葉は柔らかくだったが、いいたいことはそれに尽きていると感じた。<br />
<br />
電話を切られ、わたしは誰もいなくなったリビングで膝をついた。<br />
異常に呼吸が荒く、気分が悪かった。自分が真っ青なのがわかる。血圧が異常に下がっているような感じだった。<br />
床に頭を打ち付け、意識を失ってしまった。<br />
しばらくして、手に握りしめたままの携帯電話のバイブレーションで目が覚めた。<br />
意識が回復したとき、「ああ、夢だったんだ! よかったよかった!」と心底喜んだ。しかし、自分が倒れていた場所がリビングの床だったと気づき、これは紛れもなく「続き」なのだと知った。<br />
そのときの真っ暗な絶望感――<br />
今一度、意識が遠のきかけた。しかし、手の中で震える携帯電話のディスプレイにメールの表示があり、夫からのそれだと知り、慌てて開いた。<br />
<br />
「本日中に弁護士から内容証明郵便が届きます。以後は弁護士を通してください」<br />
<br />
<br />
そこから後のことは、もう思い出したくもない出来事の連続だった(思い出したくもないといっても、絶対に忘れることなどなどできない。むしろ終生忘れることなどできない)。<br />
わたしの実家から、内容証明を受け取った両親がその日のうちにやってきた。そして、力尽くでわたしを実家に連れ戻した。父に殴られた。29年(当時)の人生で、父に手を上げられたことなど、一度もなかった。<br />
父は涙を流して殴っていた。母も横で止めながら泣き叫んでいた。わたしを責めるよりも、わたしへの教育が十分にできなかったことの懺悔をしていたのが、父の手よりも痛かった。<br />
それから数日、わたしは抜け殻のように実家で過ごした。その間、幾度も夫にメールを送った。電話もした。しかし、何の反応もなかった。<br />
明山からはパニックのようなメールが大量に来ていた。彼の自宅にも内容証明が届いていて、奥さんにも知られるところとなっていた。気づかれたわたしのことをなじっていたかと思うと、一転して優しくなったり、口裏合わせしてなんとかごまかす算段を提案してきていた。<br />
両親に問い詰められ、すべてを告白してしまったわたしには無意味だった。<br />
こんな男にのぼせあがっていたんだ……<br />
自分に失望した。これほど深く失望したことはなかった。<br />
三日目のあるとき、わたしは実家を抜け出した。<br />
そして、住んでいたマンションに戻った。<br />
そこに夫も娘もいなかった。<br />
多くの家財がすでに運び出されていた。あるのは、わたしの私物だけだった。<br />
そして――<br />
<br />
寝室のダブルベッドが切り裂かれていた。<br />
シーツもマットも掛け布団も。<br />
部屋には羽毛布団の羽根が散乱していた。<br />
<br />
わたしは夫の怒りの強さを知った。そして瞬間的に悟った。<br />
恐ろしいことを――。<br />
あの結婚記念日――夫は、わたしが明山とマンションで会ったことも知っていた。このベッドで何が行われていたか知っていたのだ――。<br />
切り刻まれたベッドの残骸はそれを物語っていた。<br />
<br />
そう悟ってやっと、愚かにもわたしは「もしかしたら」と考えることができた。<br />
もっと前から夫は知っていたのではないか。<br />
だから、わたしの作ったものなど食べることができなくなり、日常的なストレスから痩せてしまったのではないか。<br />
眠るときもベッドはあまり使わず、リビングのソファで仮眠をすることが多くなっていた。ベッドはいやだったのではないか。<br />
もしかしたら、わたしが拒絶されていると思ったセックスも……わたしの不倫が先で、それを知ってしまったから……<br />
<br />
妻が浮気相手を招き入れ、行為をしているとわかっている部屋に毎夜戻ってきて過ごしていた夫の気持ちを想像し、ぞっとした。<br />
怖くて震えた。自分のしでかしたことのあまりの残酷さに。<br />
自分が怖かった。<br />
謝りたかった。ちゃんと夫に謝りたかった。<br />
ごめんなさいと叫びながら号泣した。そこで、何時間も泣いていた。<br />
<br />
<br />
弁護士に指定された面談会場で、ようやく夫に再会することができた。<br />
すぐに土下座した。一緒に来た両親も。<br />
決壊したように涙があふれ、みるみる床に水たまりを作った。<br />
わたしは自分が何をしゃべっているのかも、よくわからないほどだった。懺悔の言葉と許しを請う言葉を、えんえんと繰り返し吐いた。叫ぶように。<br />
どうか捨てないでほしい。なんでもする。一生かけて償います。<br />
しかし、夫は「お義父さん、お義母さんが謝る必要はないです。頭を上げてください。ちゃんと話をしましょう」といった。<br />
何日かぶりで聞く夫の声は、驚くほど冷静だった。いや、冷静というよりも、まるで心ここにあらずというような。<br />
夫は落ちくぼんだ目に、なんともいえない影を映していた。痩せていた。ガリガリだ。ぼーっとしているように見えた。その姿は、あの切り刻まれたベッドとはどうしても結びつかなかった。怒り狂った罵倒を浴びる覚悟で来たのだ。<br />
弁護士が冷静な言葉で、その後を進行させた。事情聴取され、事実の確認が行われた。嗚咽でうまくしゃべれなかったが、正直に何もかも語った。<br />
「ここ数ヶ月の不貞の証拠があります。こちらでわかっていることとの矛盾はないようですね」<br />
やはりそうだったのだ――<br />
いくつかの書類にサインを求められ、同時に離婚が提示された。わたしへ慰謝料請求をしない。共有財産の分与はあり。わたしが将来にわたって負担すべき娘への養育費なし。ただし、子供の親権は夫――。<br />
<br />
「お願いです。離婚だけは許してください。いやです。亜弥とも離れたくない……」<br />
弁護士は有責配偶者であるわたしが拒絶しても、裁判になれば離婚は確定するといった。<br />
父がそこで再び土下座した。<br />
「聡史君、すまん! 本当に申し訳ない! 私たちの教育が悪かったと思う。慰謝料も養育費もなしという話だったが、頼む! ちゃんと慰謝料を払わせてくれ。できるかぎりのことをさせてもらう。だから――だから、もう一度だけ、娘にチャンスを与えてくれないか」<br />
「お願いします!」 <br />
わたしも土下座した。母も床に手をつき、泣きながら懇願してくれた。<br />
「やめてください。顔を上げてください」<br />
物憂げに夫はいった。弁護士にもいわれ、わたしたちももう一度席に戻った。<br />
「離婚させてください。お願いします」<br />
逆に夫から請われた。<br />
「もう無理です」<br />
うつろな目をしていた。<br />
そして語った。<br />
わたしの浮気に気づいたきっかけは、共通の知人からの目撃情報だったらしい。ホテルから出てきたのがわたしに見えたと(これが、不倫のごく初期の頃だった)。<br />
信じられなかったが、わたしのことを信じたくて、悪いと思いながら少しずつ調べた。自分に対しては着用することもない、わたしの下着に派手なものが増えたこと。外出が増えたこと。いつも携帯電話のメールばかりしていること。その携帯を以前はリビングに放置していたのに、風呂場や洗面所にまで持って行くこと(携帯はロックしていたので見られていなかったし、わたしは明山とのメールや通話記録はすぐに削除していた)。<br />
出張がちだったため、決定的な証拠をなかなか見つけられなかった。結果、半年もかかってしまった。<br />
3ヶ月前、とうとう夫は出張と偽り、わたしの行動を確認したのだと打ち明けた。知らず、わたしは明山と会っていた。わたしの不貞にもひどいショックを受けたが、相手が大学時代の友人だったことで、さらに深く傷ついた。<br />
その後は興信所に依頼し、弁護士にも相談した。お金はやがて戸建てを購入するときのために二人で貯めていた資金を使った。<br />
出張で家を空けるたび、気が狂いそうになった。<br />
わたしの手で作る食事が汚らわしく思え、いつも吐いていた。<br />
3回程度、はっきりとした不貞の証拠があったほうがいいといわれ、待ち続けた。その間に、自分の中にあった愛情がカラカラに乾いてしまった。家に帰ると、何事もなかったように振る舞うわたしがいて、それを見続けているうち、あるとき、自分の愛した女性はもうこの世にはいないと思った。すると嫉妬とか怒りとかも、もうあまり感じなくなってしまい、だから、あの家に戻っても、なんとか平然と振る舞えた。<br />
――もうこの世にはいない。<br />
その言葉に打ちのめされるとともに、自分がいかに夫を長く、深く傷つけ続けていたか知った。罪悪感と自己嫌悪で胸が押しつぶされそうだった。<br />
<br />
娘だけが唯一の救いで癒やしだったと、彼はいった。 <br />
「お願いだから、娘を取らないでほしい。こちらに渡してほしい。娘だけが今の自分の生きがいなんだ」<br />
彼の言葉を聞きながら、わたしは泣き続けた。<br />
「わたしも……娘と別れたくない。あなたとも……」<br />
「君は亜弥が風邪で調子が悪かったときも、実家に子供を預けて明山と会っていたよね」<br />
特に責める口調ではなかったが、すごく痛い事実を突きつけられた。本当にどうかしている。なにをやっていたんだろう……<br />
「こないだ、最後に君と過ごしたけれど……。あれが自分の中の最後。あれは愛情なんかじゃなかった。むしろ怒りで抱いた。申し訳なく思う。仮面の笑顔で、あんなことができてしまう自分になってしまった。本当は嫌悪感でいっぱいで、後で吐いた。もう夫婦ではいられない。無理だと思う」<br />
わたしは号泣した。<br />
壊してしまった。この人を。<br />
わたしが好きだったあの笑顔、声。<br />
それは二度と戻らないと思い知らされた。<br />
<br />
わたしは離婚を受け入れた。<br />
当然のことながら、聡史は明山にも制裁を行った。慰謝料の請求。会社の勤務中の行為もあったため、管理責任が勤め先にも問われ問題になり、退職。やはり離婚。<br />
その後幾度か連絡があったが、わたしは拒絶した。馬鹿な幻想はとっくに覚めていた。<br />
<br />
月に一度、亜弥に面会することは許された。<br />
亜弥は聡史の実家で、親御さんのサポートを受けながら育っていた。<br />
今、5歳。<br />
<br />
亜弥に面会させてもらえるときの聡史は、いつも穏やかでいてくれた。<br />
過去のことを何も蒸し返すこともない。けれど、時折、すごく苦しそうな表情をすることがあった。<br />
あの病的に痩せた状態からは回復していたが、一番体重があったときよりもかなりスリムだった。<br />
独り身のままだった。<br />
<br />
いつか、もし、許してもらえることがあれば――<br />
<br />
どうしてもそれを考えてしまう。復縁など、そんなことを考えること自体、厚かましいと思う。<br />
あの苦しそうな表情は、わたしがそばにいれば、あのときのことを思い出してしまうからだとわかる。<br />
だから、彼のためには会うのもやめた方がいい。<br />
でも、やはり会いたい。彼にも娘にも。<br />
離れられない――わたしは自分勝手だ。<br />
このままの状態でいい。<br />
聡史と亜弥の幸福を願って、少し離れたところで見守っているだけでいい。それが許されるだけで感謝だ。<br />
<br />
桜餅を三つも食べてしまった。<br />
その間に、また盛大に泣いた。<br />
こうなって初めてわかる。愚かだけど。<br />
<br />
聡史と出会って、恋をし、<br />
ともに過ごし、結婚して。<br />
共働きして。<br />
喧嘩して、仲直りして。<br />
子供が生まれ。<br />
百日(ももか)の祝いを両家でして。<br />
ハイハイやタッチでともに喜び。<br />
<br />
ああいう思い出のすべてが家族であるということなんだ。<br />
<br />
当たり前に朝起きて、「おはよう」といい、帰ると「おかえりなさい」といえる。<br />
あの思い出たちの、そのままの先に行きたかった。<br />
<br />
でも、それはもうかなわない。<br />
わたしが壊してしまった。<br />
<br />
<br />
面会は毎月第二日曜。<br />
わたしは壁につるしてある2011年のカレンダーの前に立った。<br />
今日の日付、3月9日に×をつけた。<br />
面会の日は、3月13日――。<br />
<br />
4日後だった。<br />
<br />
<br />
――――「桜餅 後編に続く」ZEPHYRhttp://www.blogger.com/profile/18267253818170282825noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-870645900423302834.post-59800733426230170912018-05-11T12:24:00.000+09:002018-09-13T18:14:04.270+09:00桜餅 後編 面会日の二日前。<br />
あの日がやってきた。<br />
3.11――<br />
派遣で勤務していた会社のオフィスもパニックになった。余震の続く中、背筋が凍るような情報が次第に入ってきて、帰宅命令が出された。個別の会社の事情などよりも、この国が根底的に覆るような大きな危機感が直感的にあった。<br />
地震発生直後から、わたしは幾度も聡史の携帯電話にかけていたが、まったくつながらなかった。メールを送っていたが、それも届いているのかどうかもわからなかった。<br />
聡史と娘のことが心配でならなかった。<br />
<br />
交通網が麻痺した中、誰もがそうであったようにわたしはアパートへ歩いて帰った。踵のあたりがすりむけ、痛みに耐えながら歩き続けた。<br />
聡史の実家は、アパートからさらにその先にある。だから一度アパートに帰ってから、そのまま向かうつもりだった。<br />
時折襲ってくる余震が怖かった。それ以上に聡史と娘のことが案じられてならなかった。歩きながら幾度もメールをしていた。<br />
今、アパートに戻っている途中です。心配です。ごめんなさい。後からそちらへ伺ってもいいですか。<br />
しかし、アパートに戻れたのは深夜だった。<br />
いつも出かけるときに玄関に置く写真立てが下に落ちていた。ガラスが割れていた。胸騒ぎがする。<br />
そのとき、携帯電話が鳴った。メールの返事がようやく来た!<br />
無事です。亜弥も大丈夫。来てください。<br />
ほっとした。それにうれしかった。「来てください」という表現に――。<br />
わたしは動きやすい服に着替え、ぼろぼろの古いスニーカーに履き替えた。そして、再び歩き出した。<br />
離婚後、わたしは自分の実家を出た。あれだけのことをしでかして、両親に甘えて過ごすなど、とてもできなかったし、聡史の実家の比較的近くで生活をしたかった。あまり近くではきっと嫌がられる。そう思い、駅二つ離れたところにアパートを借りたのだ。<br />
深夜の道は、あり得ないほど人であふれていた。<br />
徒歩で帰宅する人々に混じって、聡史の実家にたどり着いたのは、午前3時頃だった。が、家を前にしてわたしは体がこわばってしまった。<br />
子供との面会の時は、たいていどこか外で待ち合わせる。自分の不貞発覚以来、この実家を訪ねるのは初めてだった。<br />
どの面を下げて会えるというのだろう。離婚が決定的になって、両家の話し合いが行われ、そのときにご両親に会ったきりだ。聡史のお母様の鋭い侮蔑に満ちた言葉や眼差しが、今でも心に焼き付いている。<br />
胸がドキドキした。<br />
無事が確認できたのだから、ここまで来る必要はなかったのではないか。訪ねていったら、不愉快に思われるのではないか。いや、そうに決まっている。来るべきではなかったのではないか。<br />
迷っていると、ふいに玄関の扉が開いた。<br />
聡史だった。彼はわたしを見つけると、ほっとした表情を浮かべた。<br />
「ああ、着いたんだね。中へ入って」<br />
心配で何度か外の様子をうかがっていた、ということだった。<br />
「い、いいかな」<br />
「もちろんだよ。さあ」<br />
非常時でなければ、敷居をまたぐことはなかっただろう。<br />
リビングにご両親がいた。慄然とせざるを得ない光景を幾度も映し続けるテレビの画面を見入っていたが、わたしが入っていくと気づいた。<br />
ああ、とお母様はわたしの名を呼び、立ち上がった。<br />
「来れたの! よかった。大丈夫だった?」<br />
手を差し伸べられ、腰から砕けそうなほど安堵した。<br />
「はい。ありがとうございます。あの、こんなときなんですが、来てしまってごめんなさい」<br />
「歩いてきたのかね。いやまあ、そうだろうな。疲れたろう」<br />
と、お父様も気遣ってくださった。<br />
「亜弥は……?」<br />
「今は寝てる」と、聡史。「ただ余震を怖がって、何度も起きてきた。僕らも眠れなくてね」<br />
「様子を見に行って、いい?」<br />
「ああ、こっちだ」<br />
案内された部屋で亜弥は眠っていた。寝顔なんて見るの、いつ以来だろう。閉じたまぶたや鼻筋にかけて、ますます聡史に似てきた。<br />
つい、そっと髪に触れた。<br />
ずしっという響きとともに、また余震がやってきた。かなり大きい。<br />
ぱちっと亜弥が目を開けた。おびえた表情の後、すぐにわたしに気づいた。<br />
「ママ?」<br />
「うん、ママだよ」<br />
ママだ、ママだ、といって亜弥は両手を伸ばしてきた。わたしは思わず娘を抱きしめた。涙があふれた。<br />
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ」<br />
娘にささやいた。<br />
「ママ、ここにいて」<br />
「うん。いるよ」<br />
しばらくそばにいた。娘は寝息を立て始めた。<br />
ずっと聡史は、同じ部屋の中で見守ってくれていた。<br />
眠りに落ちたことを確認して、わたしは立ち上がり、聡史に頭を下げた。<br />
「ありがとうございます。あなたや亜弥の顔を見て、安心しました。帰りますね」<br />
「今日はもう泊まっていったら」<br />
「え?」<br />
「まあ、泊まるっていっても、もう未明だけど。今日は土曜日だし、電車とか交通機関がもうちょっと正常になるまでいたら?」<br />
「でも、ご両親に申し訳なくて……」<br />
「心配ないよ。――ああ、少し話、できないかな」<br />
わたしは戸惑いながら、「はい」と答えた。<br />
聡史の書斎に案内された。そのとき、足を引きずっているのを見られてしまった。<br />
「どうしたの?」<br />
「あ、歩きすぎて、ちょっと……」<br />
「血が出てない? ああ、そこで待っていて」<br />
大学の交際時代に幾度か訪れたことがあった。聡史の書斎には、すごくたくさんの蔵書がある。わたしには理解できなさそうな科学や宇宙の本がたくさんあるし、小説も書棚をびっしりと埋めている。<br />
落ち着く感じがした。<br />
聡史はすぐに消毒液と大ぶりなガーゼ付き絆創膏を持ってきてくれた。<br />
「出して」<br />
「あの、自分でします。ありがとう」<br />
そんなことまで、とてもしてもらえなかった。<br />
消毒液を返して、もう一度礼をいった。<br />
そういう人だった――とあらめて思った。当たり前にわたしの些細な変化や表情に気づいて、「だいじょうぶ?」とか「どうしたの?」とかいってくれる人だった。<br />
わたしが浮気に走った頃も、それがなくなったわけではなかった。ただ、恋人時代や新婚時代のようにわたしが新鮮に感じなくなっていただけ、彼の仕事のために頻度が少なくなっていたというだけ。<br />
「あの、話って……」と、切り出した。<br />
聡史は悩ましい表情をしていた。いい出しにくいことを抱えているように見え、不安になった。もう面会させてもらえないとか、そんな話か――<br />
あるいは、聡史が誰かと再婚するとか。<br />
それは大いにあり得ることで、いつも不安に思っている。そうなったときには、わたしももうこんなふうには関われないのではないかとも。<br />
「こんなタイミングでなんなんだけど、復縁してもらえないかな」<br />
え――?<br />
「もし君がいやでなければ――それと、たとえば君に誰かお付き合いしている人とかいなければ」<br />
あまりにも唐突すぎて、頭で言葉がちゃんと理解できなかった。嘘ではない。本当に狼狽してしまってわからなかったのだ。<br />
「え? え? ごめんなさい。もう一度いって――」<br />
「だから、よかったら、もう一度結婚してほしい」<br />
「…………」<br />
「だめかな」<br />
ようやく意味が体に入ってきた。その言葉は、この二年半、わたしが心底望んでいたものだった。誰もが思うだろう。そんな言葉をかけてもらって、その瞬間にわたしが小躍りしなかったのはおかしいと。<br />
でも、なぜかそうはならなかった。<br />
「ど、どうして……?」<br />
「ちょっと前から考えていて、じつは明後日、話そうと思っていたんだ。ほら、1月にポリープの手術したっていったよね。そのときに、いろいろ思ったんだ。ああ、それに……こんなことが起きて、今の亜弥の様子を見て、よけいにね」<br />
涙が勝手に、どんどん頬を伝って落ちるのがわかった。だけど、わたしは馬鹿みたいにずっと聡史の顔を、目を、見つめていた。やがてそれは潤んで見えなくなってしまい、手でこすって、それでもなお、わたしは見つめ続けていた。これは夢? 本当のことなの?<br />
「あの頃、僕もいけなかった。僕は頭でいろいろ考えて、先々のことまで計画するのが好きなのは知ってるだろ」<br />
うん、と機械的にうなずいた。涙がバラバラとこぼれた。<br />
「何歳までにどうなって、いつ頃には家を建ててとか。そんな自分の考えにがんじがらめになっていた。それって、うちの親から受け継がれてるんだよ。そういう教育方針だったから。まあ、親のせいになんかできないけど、そんな性格だから、君の気持ちに応えられなかった。ちゃんとやってればわかってくれると思い込んでいた」<br />
「違う……それは違う……」<br />
「1月から時間も作れる部署に変わって、そうしたら娘もすごく喜んでくれた」<br />
彼は苦笑した。<br />
「そういうことなんだって、わかった。だから、前のようなことはないと思う。やりなおしてもらえないかな」<br />
「どうして……?」<br />
聡史は怪訝そうに見つめ返した。<br />
「どうして、そんなふうにいつもいうの!」<br />
わたしはつい、大きな声を出してしまった。<br />
「わたしを叱ってよ! 罵ってよ! わ、わた…わたし、一度も怒られてない!……あのときだって『離婚させてください。お願いします』だなんて――」<br />
呼吸がうまくできなくなっていた。息継ぎすら苦しく、次の言葉が出てこないほどだった。<br />
「あ……わ、……わたしがあのとき、どれだけ怒ってほしかったか……。わたし、罰がほしかった。徹底的に痛めつけてほしかった。そ…れなのに、慰謝料もいらないとか…ありえないよ! 亜弥にだって会わせてもらって、だから、亜弥は今でもちゃんとわたしのこと、『ママ』って呼んでくれて……。それは感謝してる。だけど、聡史がいけない!……ああ、ああ、違う! ごめん。違う違う! いけないのは、わたしなの。わたしが全部悪いのに。だけど…だけど…わたし、ああ…わたし、なにいいたいんだろ……」<br />
聡史は黙って待ってくれていた。ようやく、言葉を見いだした。<br />
「叱ってもらえないと、わたし、聡史のお嫁さんに……ヒック……もう一回なんて、なれないよぉお!」<br />
パシーン、と目が覚めるような一撃があった。<br />
一瞬、何が起きたのかもわからず、わたしは部屋の片隅を見つめていた。視野に聡史はおらず、自分の首がねじ曲がるほど、違った方向を見ているのに気づいた。<br />
「これでいいか」<br />
振り向くと、聡史が手を引っ込めるところだった。もう一度、彼はいった。<br />
「これでいい?」<br />
「はい……」<br />
わたしは呆然と、叩かれた左頬を触った。<br />
「じゃ、復縁してくれる?」<br />
「はい」<br />
わたしは起きた現実を、まったく受け止め切れていなかった。<br />
「あの……。これ……」<br />
わたしは持ってきた聡史名義の通帳を差し出した。もし何かこの地震でトラブルなどあれば、使ってもらおうと思って持ってきていた。昨日入金し、ようやく7桁に届いたばかりだ。<br />
「まだ、ぜんぜん少なくて、恥ずかしいんだけど。せめてもの償いだと思って、受け取ってください」<br />
聡史は通帳を開き、少し驚いたようだった。<br />
「わかった。ありがとう。受け取ります」<br />
そういって微笑んだ。その顔を見て、わたしはボロボロ泣き出した。<br />
「本当にいいの? 本当に復縁してもらえるの……」<br />
「本当だよ」<br />
「ありがとう……。ありがとうございます。今度こそ、一生かけてあなたを愛します。償いをさせてください」<br />
聡史に抱きつきたかった。すがりついて、おんおん泣きたかった。でも、我慢した。そんなこと、まだできる資格はない。<br />
彼はそれから、これからのことを話した。<br />
<br />
もうすでにご両親には、復縁の可能性を伝えていて、わたしさえOKならと納得してくれている(道理で当たりが柔らかだった)。<br />
この二年半、わたしが独りで頑張っていること、その中で聡史や亜弥のことだけ考えていること、口先だけでない反省をし、きっとこのままだと他の誰とも再婚せずに生きていこうとするだろうとか、そんなことを聡史は伝えていたらしい。<br />
見ていてくれた……。うれしかった。<br />
なによりも亜弥にとっても、やはり母親がいた方がいい、そのことは一番だと思ったと。<br />
ご両親も、だんだんとわたしを不憫に思い、同情的な態度を示してくれていたそうだ。復縁してやったら、ということも、じつはお母様が最初にいい出したそうだ。<br />
聞かされると、何か胸が締め付けられた。わたしなんかのことを、そんなふうに思ってくれていたなんて。<br />
ありがたかった。ありがたすぎて、申し訳なかった。<br />
<br />
ただ自分も迷いがある、と聡史はいった。<br />
前回のことはどうしても癒えないトラウマのようになって残っていて、今でも苦しくなることがある。離れていると大丈夫だったが、一緒に暮らすようになったら、時には怒鳴ったりイライラしたりして、感情的になってしまいそうに思うと。<br />
当たり前だと思う。それだけのことをわたしはしたのだ。<br />
そういうことがあっても我慢できる?と問われ、もちろんだと答えた。<br />
そういった感情的な不安感を軽減するために協力してほしいといわれた。<br />
「なんでもする。させて!」<br />
仕事や外に持って行くこともあるので、携帯電話はロックしても良いが、互いのロックナンバーを教え合う。許可なくそれを変更せず、いつ相手が見ても良いことにする。少なくとも自分は見てもらっても困ることは一つもないと聡史はいった。もちろん同意した。<br />
PCなどで使うメールも同様。<br />
仕事で遅くなるとき、何か別な用事で外出するときは、ちゃんと報告すること。もちろん、ちゃんとする。<br />
「一度失われてしまった信頼関係は、なかなか取り戻せない」と聡史はいった。痛い言葉だったが、それは当然だった。<br />
ゼロからではないと、わたしはこのとき感じた。わたしたちの場合、マイナスから回復しないといけないのだということが、このときの話でよくわかった。<br />
わたしは自分からも提案した。<br />
「もしこの後、また信頼を裏切るようなことがあれば、即離婚でいい。わたしの署名と捺印をした離婚届を用意しておきますから、それをあなたが持っていてください。でも、そんなことはもう絶対にしないと誓います。そんなことをしたら、わたし、自分で命を絶ちます」<br />
聡史はそのとき、何かすごく辛そうな表情をした。<br />
「命を絶つなんていうな」<br />
<br />
そうして、わたしと聡史の再構築が始まった。<br />
まずは少しずつならしていこうということで、最初は週末だけ実家にお泊まりするようにした(これは実質的に震災直後の土日からになった)。<br />
ご両親は寛大にもわたしを温かく迎えてくれ、結婚したての頃と同じように接してくれた。<br />
亜弥と過ごせる時間。<br />
家族で囲む食卓。<br />
わたしが取り戻したくて夢にまで見た光景だ。幾度も幾度も、その当たり前の団らんの中でうれしさのあまり泣きそうになった。<br />
<br />
だが、やはり聡史との関係は、すぐにすべては回復しなかった。<br />
以前のような、かつての友人関係から恋人になり結婚したときの、屈託のない関係ではなくなっていた。<br />
彼はやはり、時折すごく苦しそうだった。それは月一で会っていたとき以上に見えた。そんな彼に、わたしもどう接したらいいのかわからない。明るく振る舞っていた方がいいのか、気持ちに寄り添うようにした方がいいのか、あやまったほうがいいのか。結局、どれもできず……。<br />
ごめんなさいと、いつも心で詫びた。<br />
<br />
けれど、聡史は最初に自分で不安だといったような、感情の乱れはほとんど見せなかった。怒ることもないし、ほとんど苛つくこともない。<br />
あの何もなかった時代の態度とは違っていたが、すごく普通に振る舞ってくれた。気遣いもしてくれ、当たりも柔らかだった。笑顔も見せてくれる。冗談さえいう。そんなこと、普通できるだろうか……。<br />
そう、この再構築の時期になって、わたしは初めて考えた。<br />
もし、自分が逆の立場で、聡史が浮気をし、わたしが許さねばならない側になったのなら、こんなふうにできただろうか、と。<br />
絶対無理、だった。<br />
あまりにも身勝手な考えだけれど。<br />
わたしは聡史を信頼していた。絶対に裏切らない人だと思っていたので、もしそんなことになったら、怒りや憎しみも容易には消えなかっただろう。再構築になっても自分のコントロールなど、とてもできた自信がない。<br />
きっと些細なことで当たり散らしたに違いない。あれが気に入らないこれが気に入らない、わたしが気持ちが荒れるのもあなたのせいだ、と。<br />
それなのに、彼は――。<br />
<br />
すごいと、心底感じた。<br />
わたしは彼のことを、あらためて本当の意味で尊敬できた。自分で原因を作っておきながら、こんないい方は失礼そのものかもしれないけれど、わたしは昔以上に、毅然と律し続ける彼に恋した。前とは違う深い愛情を感じた。<br />
<br />
たぶん大丈夫だと思うというので、ひと月もたたないうちに完全な同居に移行し、婚姻届を提出した。<br />
伝えると、わたしの両親は手放しで喜び、すぐに聡史の実家に押しかけてきた。父も母も泣きながら彼に礼をいった。久しぶりに両家の家族での祝いをした。<br />
婚姻届を出すタイミングで、わたしは訊いた。<br />
「仕事、辞めたほうがいい?」<br />
わたしが外に出ない方が、きっと聡史も安心するのではないかと考えたからだ。しかし、意外にも「いや、仕事は絶対に続けてほしい」と。<br />
それどころか、「派遣でなく、正社員になって。そこは応援するから」とまで。<br />
戸惑いながらも、わたしは「なら、頑張る」と応えた。<br />
<br />
一番大きな問題は、夫婦生活だった。<br />
完全な同居に移行した夜、わたしはあらためて彼の前で手をつき、復縁してもらったこと、受け入れてくれたことの、心からの感謝を伝えた。<br />
彼は抱きしめてくれた。<br />
体が震えるほどうれしかった。<br />
けれど、できなかった。<br />
ごめんといわれ、わたしのほうがごめんだよと泣いた。<br />
<br />
わたしと聡史は、どちらもが奥手で、お互いが初めての相手だった。<br />
だからこそよけいに、彼は別の誰かに汚されたわたしへの心理的抵抗が強かったのかもしれない。<br />
<br />
それは幾度か続いた。<br />
思い通りにならない機能に、聡史はすごく悩み、苦しんでいた。「くそっ」と、このときだけは苛立った。それは、わたしへではなく、自分に苛立っているようだった。<br />
嫌悪感があるのなら、無理してくれなくてもいい。わたしはあなたと亜弥のそばにいられるだけで幸せです。それ以上の何も望まない。今のままで十分すぎるほど幸せです。<br />
そういった。<br />
そして、本当の思いを語った。<br />
「こんなこというの、少し恥ずかしいんだけど……今ね、もう一度あなたに恋をしてる。学生時代よりもずっと強く恋してる。こんなこと、誰だってそんなにできない。それだけで、本当に幸せなの。わたし、このままずっと片思いでいいの。命を終えるまで、あなたに恋し続けるから」<br />
苦しむ彼の背を抱いた。<br />
彼はガバッと振り返り、わたしを抱きしめた。<br />
もう一度、愛撫してくれた。<br />
そして、その夜、ついに結ばれた。<br />
おかしな話だけれど、痛かった。まるで初めての時みたいに、すごく痛かった。そういうこともあるのだと後で知ったが、出血もした。<br />
痛みの中で、彼とつながったとき、わたしはその痛みと喜びの中でわんわん泣いた。泣きながら彼の体に思いっきりしがみついていた。<br />
<br />
ようやく、元に戻った――いや、そうじゃない。<br />
彼と新しい夫婦関係を築くことができた。<br />
<br />
<br />
そうして――<br />
ああ。<br />
なんでだろう。<br />
お願いです。誰か教えてください。<br />
<br />
<br />
そうして、聡史はこの世を去った。<br />
<br />
<br />
信じられない。<br />
現実が受け入れられない。<br />
<br />
8月、彼は一度入院した。彼の中学時代の友人が勤める大学病院で手術を受けた。<br />
「大腸のポリープが大きくなっているので手術で切除します。なに、簡単なものですから、心配はいりませんよ」<br />
その友人医師の説明に安心していたが、思いのほか手術は長かった。術後、聡史はなかなか食が戻らず、辛そうだった。<br />
しかし、ひと月もすると以前とあまり変わらずに仕事をし、行動できるようになっていた。<br />
彼と亜弥と、手をつないで歩く。<br />
買い物に行く。<br />
幼稚園の行事。<br />
五人での日常の食事と団らん。<br />
一つ一つの当たり前の日常に幸せを感じていた。<br />
けれど、11月頃、再び聡史は体調を崩し、入院した。<br />
そのときにわたしは、夫が癌であることを知らされた。8月の手術も本当は癌で、友人医師は夫から口止めされていたとのことだった。<br />
「どうしていってくれなかったの」<br />
病室でわたしは泣きながら訴えた。<br />
「帰ってきてすぐ、癌になった夫の看病じゃ、かわいそうだから」<br />
「ばか! いってよ。いくらだって看病するよ! させてよ」<br />
「うん。これからはお願い」<br />
抗がん剤や放射線などによる苦しい治療が始まった。<br />
わたしは勤務時間を減らしてもらい、彼のサポートを続けた。<br />
冬、一時的に体調は持ち直したかに思えた。しばらく家族で過ごせる時間も持つことができたが、年が明けて、病状が深刻になった。<br />
入院。そのときに「もってひと月」という余命宣告を受けた。<br />
わたしはショックでボロボロになりながら、亜弥を連れ、毎日のように見舞いに行った。余命宣告を越えて、春を迎えた。<br />
夫は痩せ衰え、顔色も悪くなりながら、それでも妙に明るかった。<br />
「桜餅、食べたいな」<br />
そういわれて、わたしは昔聞いた聡史の実家のそばにあるお店のを買っていった。<br />
彼はすぐに気づいた。懐かしいな~と弱々しくいいながら、わたしが差し出すそれをたったひと口食べた。<br />
それが彼の人生最期の食事だった。<br />
<br />
その後、容態は急変。<br />
「ありがとう。君ともう一度、一緒になれてよかった」<br />
最期の言葉だった。<br />
<br />
あの人はこの世を去った。<br />
<br />
どうしてでしょうか。<br />
なぜ、わたしの愛したあの人は、こんなに早く死なねばならなかったのでしょうか。<br />
わたしがかわりに死にたかった。あの幸福な時のまま、わたしが死ねば良かった。そうしたら、わたしは満足なのに。<br />
彼の後を追いたかった。でも、できない。亜弥がいる。<br />
それにお腹の子がいる。<br />
<br />
お願いです。<br />
誰か――<br />
<br />
誰か教えてください。<br />
<br />
わたしのせいなのでしょうか――<br />
<br />
<br />
<br />
一年が過ぎ、わたしは社会復帰した。<br />
生まれた子は男の子だった。聡(さとる)と名付けた。<br />
妊娠と出産と育児の期間、頑張って資格を取った。夫の死後、本当に死に物狂いで努力し、医療事務の資格を取った。そのおかげと、夫の友人であった医師の紹介もあり、派遣ではなく正社員として働ける職場を得た。<br />
亜弥と聡は、夫のご両親が変わらずサポートしてくれ、すごく助かっている。帰る場所も変わらず、夫の実家だ。<br />
ご両親は子供たちをすごくかわいがってくれる。<br />
<br />
わたしは33歳になっていた。亜弥はこの春、小学校に上がる。<br />
前年の7月に生まれた下の子、聡は成長が早く、先日、自分の足で立って、少しだけ歩いた。<br />
子供たちの成長だけが、わたしの生きがいだった。<br />
<br />
ある日、勤め先の病院の食堂でお弁当を食べていると、近くの看護士たちのひそひそ話が耳に入った。どうやら院内のある医師と看護士の不倫についての噂のようだった。<br />
病院はわりとそんな話が多いと感じる。けれど、不倫はこりごりだ。<br />
まして、今のわたしは聡史のことが忘れられない。もうずっと恋している。<br />
もう生涯、あの人でいい。あの人がいい。<br />
生きている間に会えなくても。<br />
<br />
わたしは同じ人に二度、恋をした。<br />
決して褒められない、人には罵倒されるような経験のあげくだったけれど。<br />
でも、二度目のすごく強い恋のさなかに、その人を亡くしてしまった。<br />
子供がいなかったら、そして仕事を応援するというあの人の言葉がなければ、わたしはあのときにもうだめになっていただろう。<br />
子供たちのために働く。そして聡史のかわりに、子らを一人前にして独り立ちさせる。<br />
そのときまで、あの世でも、天国でも、なんでもいい。<br />
待っていてほしいと思う。<br />
もしかしたら彼は迷惑かもしれない。<br />
けれど、許してほしい。わたしは彼の元へ行って、またあのときのようになりたい。そればかり切望してしまう。<br />
聡史のことが好きすぎて、今でも心底愛していて、他のことはもうどうでもいい。<br />
自分の償いは自分の役目を果たすこと。<br />
それだけが今の目の前にあること。<br />
いい加減にはしない。絶対に。<br />
亜弥も、聡も、めいっぱい愛する。育てる。わたしみたいな馬鹿な過ちを犯さない子に育てる。<br />
子らが大きくなったときには、わたしの過ちも含め、すべてを伝えようと思う。あなたたちのお父さんが、どれだけ素晴らしい人であったか。子供たちやわたしを愛してくれていたか。<br />
そうして……<br />
<br />
それを終えたら、もういいよね?<br />
<br />
<br />
一周忌の法要が執り行われた。<br />
お寺での法要には、親戚だけではなく、聡史の主治医であった友人医師の姿もあった。なんでも、親御さんに聡史が頼んでいたらしい。一周忌には必ず彼を呼んでほしいと。<br />
わたしは聞かされていなかったけれど、病床の彼からそんなことをいわれたら、ヒステリックに拒絶したかもしれない。わたしは最後の最後まで奇跡を信じたかった。けれど、彼はとっくに覚悟ができていたようだ。<br />
法要の後、近しい親戚と友人医師を交えての会食があった。まだ一年――湿っぽい会食だった。<br />
その最中、友人医師が「ちょっといいですか」とわたしに耳打ちした。<br />
わたしは席を離れ、友人医師と会食会場の外へ出た。<br />
彼は懐から封筒を取り出し、差し出してきた。<br />
「預かっていたものです。子供も生まれ、少し気持ちが落ち着いているようだったら渡してほしいと」<br />
「え?」<br />
「聡史からです」<br />
手に取ると、わたしの名前が聡史の字で表書きされていた。封はされたままだ。<br />
「お詫びしなければならないことがあります」<br />
友人医師は頭を下げ、告白した。<br />
じつは、聡史の癌の発覚は、本当は2011年の1月だったと。その段階ですでに手遅れで、手術をしたところで延命にしかならないとわかっていた。<br />
医師としては手術を勧めた。万に一つの可能性もあるといったが、やはり気休めだった。それは聡史もわかっていたようだった。<br />
この段階で余命半年、という診断だった。<br />
そこで聡史は、「このことは誰にも黙っていてほしい。親にも。手術は受けるが、ポリープか何かということにしてほしい」といった。<br />
聡史は会社に自分の本当の病状を伝え、部署の転属を願い出た。会社は過去の彼の功績を高く評価していて、これまで無理をさせてきた事実もあった。すぐに1月から時間の取れる部署に移ることができた。そして、この事実は会社にも秘密にしてもらったという。<br />
ポリープという名目で手術を受け、そして聡史は、自分の病状については黙したまま、そこから復縁のために動き出したのだと。<br />
「なんで、そんなことを……。なぜ主人はわたしやご両親にまで秘密にしていたんでしょうか」<br />
わたしは手紙を手に握りしめたまま、医師に問いかけた。<br />
「わかりません。あなたに負担をかけたくなかったのか、真意は自分も聞いていません。ただ、驚くべきことがあります。これは聡史から、絶対にあなたに伝えてほしいといわれていたことです」<br />
「なんでしょう」<br />
それは…と彼が語ったのは、復縁後、5月下旬の検診で、聡史の病状は奇跡的なほど持ち直したということだった。<br />
もしご要望があればカルテもレントゲンもお見せする。彼の癌はもういくつかの部位に転移していたのだが、一時的にそれが小さくなったのだと。<br />
その前月、わたしと聡史はもう一度ちゃんと結ばれることができていた。<br />
「もしかしたら、と思いました。このまま奇跡が起き、彼が回復するのではないかと、本当に思った」<br />
が、8月に再手術になってしまったのは、その癌細胞が再び大きくなってくるのが確認されたからだと。<br />
「聡史はいっていました。このまま癌で亡くなったら、かならずあなたは自分のせいで夫が亡くなったのではないかと思うと。たとえば復縁のストレスとか、そういうもので追い詰めたのではないかと」<br />
その通りだった。<br />
わたしのせいではないかと、ずっと思っていた。<br />
「ですが、そうではないんです。あなたとやり直せたことで、聡史の病状は回復していたんです。医学的にはほとんど奇跡的に。だから、あなたにこの手紙を渡すときに、その事実を伝えてほしいといわれていたんです。もっと早くにお伝えした方が良かったのかもしれませんが、お子さんの出産などもあり、タイミングを躊躇している内に今になってしまいました。申し訳ない。一周忌には招くように親御さんに伝えてあるので、遅くともそこでこの手紙を渡してほしいと依頼されていたんです」<br />
涙ながらに伝えてくれた。<br />
わたしは呆然と手紙を手にたたずんでいた。<br />
<br />
帰宅後、子供たちも寝静まってから、わたしは手紙を開封した。<br />
こわかった。手が震えた。<br />
<br />
なにがこわかったのか、よくわからない。今さらのように聡史から恨み辛みをしたためられているのではないかとか、そんな妄想も頭をよぎった。<br />
もちろんそんなことをする人ではないと信じていたが、わたしが過去に行った罪の根深さが、そんなことさえ思わせた。<br />
<br />
愛する――<br />
そう、そういう書き出しとわたしの名への呼びかけで始まっていた。<br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> これを君が読むとき、自分はもうこの世にいないはずです。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 最初に言いたい。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> ありがとう。もう十分に償ってもらいました。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> たぶん君は、償いきれないうちに僕が死んでしまい、もしかすると僕の病気のことも自分のせいではないかと思っていると、推測しています。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 当たった? その通りじゃない?</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> ハハ。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 実は僕は超能力者なんだ。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> ていうのは嘘だけどね。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> その程度のことは、わかるよ。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 君のことは、よくわかってる。長い付き合いだから。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> それに、君が今の僕をすごく愛してくれて、僕や亜弥、それにお腹の子のことを、ほかのどんなことよりも考えて、自分を滅して、尽くしてくれていることがわかってる。両親への振る舞いをみていても、それはわかる。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> だから、まず言いたい。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> </span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> もう十分に償ってもらったよ。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 君の償いは、「僕がちゃんと再び君を愛せるようになったこと」です。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 言っている意味、わかるかな?</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 僕は今、ちゃんと君を愛せている。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 以前のように。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> いや、違うな。以前よりも、ずっと。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> 交際が始まった20歳の頃より、結婚した頃より、今の君が愛おしく、大切に思う。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> そうなれたのは、すごく幸せなことで、そうなれたのは君がもう一度、信じさせてくれたから。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> むろん100%の信頼なんて、普通にどんな夫婦だってなかなかできないけれど、以前、何も考えずに無条件で信じ込んでいたのと違う意味で、僕は君を信じられる。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> なんていうのかな。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> そう、君がもう一度僕に信じようと思う勇気を与えてくれた。</span><br />
<br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> 少し順を追って説明します。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 僕の癌は2011年の初めにはわかっていました。その段階で、余命は半年とあいつに告げられました。あの馬鹿医者です。ま、悪く言っちゃいけないんだけど(笑)。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> あいつはできのいいやつで、医者としても優秀らしい。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> そのとき僕が考えたのは、</span><span style="color: #8f20ff;">半年という限られた時間の中で、自分の残された命をどう使うか、何ができるのか</span><span style="color: #8f20ff;">ということでした。余命を宣告され、ショックだったけど、限られた残りの時間だからこそ、真剣に考えた。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 人は皆、本質的には限りある命なんだけど、本当に先のタイムスケジュールが見える形で突きつけられてしまった。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> 正直に言います。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 最初に考えたのは、亜弥のことでした。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 亜弥は一度、母親を失う経験をさせてしまっています。ごめん。君には痛い言葉だと思うけれど、どうか読み進めてほしい。そうさせたのも自分です。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 母親と離別、今度は父親の僕がこの世を去ってしまう。確実に。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 親を失うという体験は、人生のどこかで起きることだけれど、まだ幼い亜弥にとってはあまりにも酷だと思った。さいわい、亜弥は君のことが好きだ。今まで黙っていて申し訳なかったけれど、亜弥がパパとママと一緒にいたいと願っていたというのは感じていた。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> それができなかったのは、自分のせいです。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> あのときの心の傷が、どうしても癒えなかった。あ、これは、君を責めるために書いているのではなく、今はもう癒えたと感じているから、そうはっきり告げています。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> でも、とにかく亜弥のために、母親だけはそばに戻してやりたかった。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 余命を告げられなければ、君との復縁はまだまだずっとできなかったかもしれない。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> 亜弥の次に考えたのが君のことです。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> もしこのまま自分がこの世を去ったら、君はどう思うだろうと考えた。君はずっと僕たちに償いをし続けなければと考えていたよね。それは見ていてわかる。でも、僕が死ねば、君は償いをする対象を失い、またこのような形で僕が亡くなってしまったことにすら、きっとすごい責任を感じて、もっともっと深い後悔の中で人生を生きなければならなくなる。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> そんなふうになってほしくなかった。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> それに、僕自身、あのときのままの状態でこの世を去りたくなかった。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> それは、悔しいと思った。それでは、何か負けるような気がした。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 誰にというわけでもないんだけど。たぶん、自分自身にだと思う。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> だから、</span><span style="color: #8f20ff;">僕と君の関係を何らかの形で取り戻したかったんだ。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> それに、この残り少ない命を、より価値あるものにしたかった? なんかそんな思いもあった。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> あ、君との復縁は、癌になった自分のお世話をしてもらうためじゃないよ(笑)。そんなこと思ってないと思うけど、念のため。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> </span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 復縁を実行すると、君はもう一度、僕を失うことになって、すごく辛い経験になってしまうとわかっていた。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> そのことも考えた。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> でも、ここはわがままを通すことにした。ごめん。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 僕は君という存在を自分の人生に取り戻したかったし、それに矛盾しているかもしれないけれど、残された命で君を解放したかった。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 君が僕たちに償いをし続ける人生ではなく、君と僕がもう一度愛し合える人生にして終わりたかった。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> それが僕が最後にできることだと思った。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> 末期癌であることを隠していたのは、それを告げての復縁だったら、君は僕に対して償いという姿勢でしか関われないと思ったから。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> そんなんじゃない。もう一度、当たり前の夫婦になりたかった。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 生きている間にそれができるかどうか、癌と発覚するまでにできるかどうか、時間との闘いだった。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> でも、限られた命だからこそできると思った。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> それはできた、と感じている。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 僕は満足だ。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 悔いはない。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> あ、いや。違うな。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> もう少し自分の健康を管理しておけば、こんなことにはならなかった。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 仕事仕事で、少々の不調など無視し続けて、この結果だ。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> </span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> かわいい亜弥の顔をもっと見ていたかった。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> かわがってやりたかった。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 生まれてくる子にも会いたかった。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 子供たちの成長を見守りたかった。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 成人式。結婚式。孫の誕生。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> どれもこれも本当に見たいよ。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> でも、もう見られない。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 子供が手を離れてから過ごす君との暮らし。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> もう、その全部を見ることができないし、体験することもできないけれど、天国からは必ず見守る。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> 君も幸せになってほしい。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> もう僕からは解放されて。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> 僕は君を取り戻し、半年と言われた余命が、少し伸びたみたいだ。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 復縁して一年。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 人生最高の一年だったよ。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 僕も君にもう一度恋をした。大好きだよ。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> 君にはこれからの人生、きっと長い時間がある。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> その時間を大切に使ってほしい。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> </span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 子供たちのこと、よろしく頼む。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> そして、君自身が僕から解放されて、幸せになることを願う。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 本当に願う。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> だから、そんなチャンスがあったら、迷わずそれをつかみ取ってほしい。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> 遠慮なんかするな。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> それが僕の望みだ。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> まだまだ告げたいことはたくさんあるような気がするけれど、最後にかけたい言葉はやはりこれだけだ。</span><br />
<br />
<span style="color: #8f20ff;"> 愛している。ありがとう。</span><br />
<span style="color: #8f20ff;"> </span><br />
読みながら、手紙を握る手がぶるぶる震え続けた。<br />
泣いた。<br />
子供たちを起こさないように、声を押し殺していたけれど、読み進めるうちに我慢できなかった。彼の名を呼びながら、号泣した。<br />
<br />
<br />
月日は流れる。<br />
子供たちは成長していく。<br />
<br />
それでも――<br />
わたしはずっと聡史のことを思い続けている。それは何も変わらない。<br />
<br />
春が訪れるたび、桜が咲くたび。<br />
わたしはそこかしこに彼の思い出をあたためる。<br />
幾度も思い出し、泣いたりもする。少しずつ微笑めることもある。<br />
<br />
春の彼の命日には、いつもお参りをする。<br />
今年、早咲きの満開の桜の下、花びらがいっぱい墓に散っていた。<br />
彼岸から間もないが、<br />
あらためて掃除をし、<br />
水をあげ、<br />
花を取り替え、<br />
線香に火をつけながら、<br />
<br />
わたしは語りかける。<br />
「あなた、亜弥は今度もう6年生だよ。いいお姉ちゃん。聡は小学校に上がるよ。やんちゃよ。誰に似たんだろうね」<br />
「お義母さん、こないだぎっくり腰になってね、大変だったのよ」<br />
「お義父さん、あれでけっこう優しいね。今、家で看病してるの」<br />
「それからね、こないだ家に野良猫が来てね、亜弥がね……」<br />
些細なことから大きなことまで報告しながら。<br />
<br />
「桜餅、買ってきたよ。あなたの好きなお店の」<br />
供える。<br />
<br />
「ママ!」<br />
亜弥が呼び走ってくる。その後ろから、頑張って聡がついてくる。わたしは立ち上がり、少し腰をかがめて二人の子らを迎える。<br />
<br />
ざっ、と風が吹いた。<br />
桜の花びらが、たくさん舞った。なんだか、喜んでいるみたいに。<br />
<br />
<br />
――――「桜餅 fin」ZEPHYRhttp://www.blogger.com/profile/18267253818170282825noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-870645900423302834.post-4988109536664243032015-07-02T11:19:00.001+09:002024-03-07T20:38:26.709+09:00ヤオヨロズ プロローグ~放浪の神~<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<br /></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
プロローグ<br />
<br />
<br />
<br />
石造りの都市は、夜でも活気にあふれていた。<br />
繁華街にはさまざまな商店が並び、人が集まってにぎわいを見せている。<br />
雑踏の中を旅の商人らしきいでたちの三人が、かき分けるように歩いていく。三人とも長い皮袋の荷を背負っている。背高い男二人に挟まれるようにしている小柄な人物は、フードを頭からすっぽりかぶっていた。<br />
フードの下の大きな黒い瞳には、この地方で屈指の都市のひとつであるスサの様子が、次々に映し出されていく。<br />
酒を酌み交わして笑い声を立てる市民。その中には都市国家の兵士たちもいる。そんな男たちがはやしたて、音楽に合わせて体をくねらせる踊り子たち。軒を連ねた商店から呼びかける物売りたち。香ばしい匂いを放ちながら焼ける子羊。<br />
繁華街を抜け、しばらくすると人通りが極端に少ないエリアに達した。そこは貧民街だった。一度壊されて瓦礫となった焼きレンガを積み上げ、上部を木の葉で覆っただけのような家もある。戦乱が相次いで破壊され、再建されることもなく放置されている区画だ。<br />
職にもありつけず、路上に座り込んでいる者。痩せこけ、腹部だけが不自然に膨らんだ子供の飛びだすような眼が三人を追いかけてくる。あたりには糞尿の匂いが立ち込め、蠅が無数に舞っている。<br />
「ひどい……」<br />
フードの下の眼を思わずそらし、エステルは漏らした。すると、隣にいた弟、エフライムが疑いを抑えきれず、言った。<br />
「姉上……本当にこのようなところに、かの方がいらっしゃるのでしょうか」<br />
「ヤイルが傷を負ってまで得た情報です。信じましょう、エフライム」<br />
エステルは自分に言い聞かすように言った。<br />
このスサの探索と情報収集のためには時間もかけたが、多くの犠牲も払ったのだ。命を落とした者もいる。だからこそ、こんなところであきらめるわけには行かなかった。<br />
「エステル様、エフライム様、あれを――」<br />
眼のいいモルデがいち早く見つけ、ある家に走りだした。彼の指が触れる門には、赤い血糊が塗られていた。子羊の血だ。<br />
期待と不安が、一挙に高まって来るのをエステルは感じた。<br />
三人は顔を見合わせ、ほとんど眼だけでうなずき合った。周囲を窺う。無気力なスラムの住人の姿があるが、自分たちが特別に警戒されている様子はなかった。<br />
エフライムが意を決したようにドアを叩いた。耳を澄ますと、ほとんど聞こえるかどうか、呻き声のようなものが室内から聞こえた。ドアを開くと、室内はほとんだ真っ暗だった。<br />
三人の姿は、その闇に呑まれるよう、建物の中に吸い込まれた。それを見届けると、それまで路上に座り込んでいた男が立ち上がった。痩せこけ、飢えた目をした男だった。三人が消えた家を注視しながら、繁華街のほうへ足早に去っていく。<br />
<br />
<br />
瓦礫でできたような家だったが、歩を進めると奥の部屋に老人が座っているのが見えた。ランプの光が弱々しく室内を照らし、老人の皺だらけの顔にさらに濃い陰影を作り出している。ぎろっと眼が動くことがなかったら、死んでいるのかと疑ったかもしれない。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<br />
「賢者メトシェラ様ですね」<br />
エフライムが緊張を漂わせる、かすれた声で言った。老人は否定をしないという形で、それを認める雰囲気を伝えてきた。<br />
「われらは……」と、エフライムが続けようとしたとき、老人は手を挙げて、それを遮った。<br />
「そなたらが来ることはわかっておった……。そなたらの目的も……行き場を探しておるのであろう」<br />
三人はその言葉に打たれたような感銘を受けた。エフライムは熱を浴びた調子で言った。<br />
「いかにも。かの偉大な預言者、ダニエル様は何千年も先のことまで見通しておられたと聞きます。ならば、その叡智を受け継ぐあなた様は、きっとご存じのはず。我らに約束された、〝もう一つの土地〟のことを」<br />
メトシェラの顔にさらに深い皺が刻まれ、それは彼らに笑ったような印象を与えた。<br />
「ダニエル様はすべてを見通しておられた。世の行く末、終わりの時……人がやがて星のかなたに旅立ち、出会う生き物と叡智……ダニエル様は、まこと神の如き目をもっておられた。わしが知ることなど、ダニエル様の何万の一にすぎぬ」<br />
「なれど、我らが知りたいのは、そのような何千年も先のことではありませぬ。メトシェラ様、われらはこの命があるうちに、いや、せめて我らの子らの命があるうちに、神のお約束された〝もう一つの土地〟――エルツァレトにたどり着きたい。その場所をお教え願いたいのです」<br />
メトシェラはエフライムを見ていたが、やがてその視線を少し低いところへ移した。エステルの顔を、まっすぐに見つめてきた。エステルはフードを上げ、意志の強い、輝く瞳を持つ顔をさらして、メトシェラを見つめ返した。<br />
「そなたは……?」<br />
「王位継承者であるこのエフライムの姉、エステルにございます、賢者様」<br />
メトシェラは満足げにうなずいた。<br />
「そなたらはたどり着くであろう。〝もう一つの土地〟に」<br />
「ま、まことでございますか」<br />
「それはどこに?!」<br />
エステルとエフライムは競うように声を発した。<br />
「東に向かうが良い……」メトシェラは目を閉じた。「ひたすらに東に向かい、世界の果てにたどり着くことじゃ」<br />
「東……」<br />
「そなたらは還るさだめ……」<br />
「還る?」<br />
エステルは問い返したが、メトシェラは静かになった。<br />
「そこに〝もう一つの土地〟があるのですね?!」<br />
勢い込むエフライムに、メトシェラが答えることはもうなかった。彼はすでに息をしていなかった。伝えるべきメッセージを伝えた瞬間、果たすべき役割を果たした瞬間に、天に召されてしまったと確信させるほどのタイミングだった。<br />
「エフライム……」<br />
エステルは弟の二の腕に触れた。<br />
「行きましょう……姉上」<br />
三人はその場を離れた。<br />
メトシェラの住まいを出てほどなく、彼らは異変に気付かされた。<br />
夜陰に混じって聞こえる甲冑の触れる音。そして、何よりも明瞭な殺気。<br />
繁華街へ取って返そうとする彼らの前に、槍を持った巨漢のシルエットが二つ、立ちふさがった。三人は足を止め、背後を窺った。が、背後もすでにふさがれていた。それどころか、左右の建物の陰からも、スサの兵士たちが次々に出現した。<br />
「きさまら、カナンの民だな」<br />
槍をまっすぐに向けながら、前方の兵士が断定的に言った。<br />
「ただの旅の者」エフライムが返す。「すぐに立ち去ります」<br />
「ただの旅の者が、なにゆえにメトシェラを訪ねる? カナンの民ではあったが、メトシェラはそのたぐいまれなる知恵ゆえに、王より特別な計らいを受けていた預言者」<br />
「……道をお尋ねしたまで」<br />
「地獄への道か?」兵士の顔に凄惨な笑みが浮かんだ。「イナゴのように目障りな連中だ……殺せ!」<br />
いっせいに兵士たちは襲いかかってきた。三人は担いでいた荷の中から剣を抜き出し、応戦した。エフライムの剣はひときわ大きく、月明かりの中で異様な冴えた輝きを放った。それが振られると、空間に震動が走るような唸りが生じ、襲いかかってきた兵士を圧倒した。<br />
が、一人や二人ではない数だ。エステルはエフライムとモルデに守られるような状態で、やや小ぶりな剣をふるい、敵の強襲を辛くも払いのけ続けていたが……<br />
「エステル様!」<br />
モルデが叫び、突きだしてきた兵士の槍を跳ね上げ、そのまま剣を相手の喉へ突き立てる。危ういところを助けられたエステルも、ひるんだ敵の一人の腿を斬りつけた。<br />
わずかに開けた活路を三人は駆け抜ける。しかし、敵兵は喚きながら追いかけてくる。繁華街の雑踏をかき分け、時には商店をめちゃくちゃにしながら、彼らは逃げた。<br />
「あッ!?」<br />
エステルの体は、突如、宙に浮いていた。兵士に協力しようとした市民が、足を引っかけたのだった。前方に叩きつけられるように転がりながら、エステルの視野で城塞都市の風景がぐるぐる回った。<br />
「姉上!」<br />
エフライムの叫びが鼓膜を震わせる。次の瞬間、エステルが見たのは盾となった弟が、凶刃に貫かれる瞬間だった。背中にまで抜けた剣が、再びすうっと姿を隠すのと同時に、彼の体はぐらっと揺れてゆっくりとエステルの前に倒れた。<br />
「エフライム!」<br />
エステルは悲鳴のような声を上げ、弟に取りすがった。彼の胸から鮮血がとめどなくあふれていた。<br />
モルデも剣を弾かれ、同じ場所へ突き飛ばされる。<br />
兵士の一人が、エステルのフードをめくりあげ、言う。<br />
「こいつ、女か」<br />
「女は生かしておけ。後のお楽しみだ」<br />
嘲りに満ちた笑みが取り囲んだ。<br />
――もはや、これまでか。<br />
エステルは他の者たちの意見に耳を貸さず、スサの街に入ったことを、心底後悔した。結局、弟たちの足を引っ張ってしまった……それどころか、弟は……<br />
――神よ。お助け下さい。<br />
エステルは瀕死の弟を抱え、天を仰いだ。これほど真剣な願いを抱いたことなど一度もなかった。メトシェラは言った。彼らが約束の地へたどり着けると。<br />
<br />
ならばここで死ぬのは、絶対にありえない。<br />
<br />
焼けるような確信が、死の絶望と裏腹に立ち上がってきた。エステルは自分の胸元の衣服をつかんだ。その下にある宝珠と共に。<br />
「神よ!!」<br />
エステルの叫びは、満天の星の海を駆けのぼった。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhoAzyglzg737ybD3iGlaAN7LQW4brpkoqCCDRtEEerSyKiuoTzHSMowCA4tDueGrZW-RakGIS91gAK8ZOYM8VrkpOxfvjnuIxuC6TwptR_6q3TQXMM4rn7wtdmp8ERW59nq6Z7StZou5o/s1600/%25E3%2582%25A8%25E3%2583%2595%25E3%2583%25A9%25E3%2582%25A4%25E3%2583%25A0.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em; text-align: center;"><img border="0" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhoAzyglzg737ybD3iGlaAN7LQW4brpkoqCCDRtEEerSyKiuoTzHSMowCA4tDueGrZW-RakGIS91gAK8ZOYM8VrkpOxfvjnuIxuC6TwptR_6q3TQXMM4rn7wtdmp8ERW59nq6Z7StZou5o/s640/%25E3%2582%25A8%25E3%2583%2595%25E3%2583%25A9%25E3%2582%25A4%25E3%2583%25A0.jpg" width="456" /></a></div>
<div style="text-align: justify;">
</div>
<br />
光がひと筋。<br />
細い光が地上に立った。まるでそこにだけ、今はない太陽の光を集めたような、そんな強い光が地上に立ち、それがやがて広がって行った。その光は天まで届いた。<br />
唖然とする兵士たちから、どよめきが湧いた。<br />
<br />
神!?<br />
<br />
エステルは目を疑った。光の中に一人の男の姿が見えた。<br />
男は地にひざまずいていたが、ゆっくりと立ち上がった。<br />
「貴様! こ、これはいったいなんだ!?」<br />
兵士の叫びはエステルに向けられたものだった。<br />
「いったい、なにをやらかした。カナンの幻術か!?」<br />
光が薄くなっていった。現れた男は振り返った。<br />
エフライムにどことなく似た面差しだった。だが、心優しい弟に比べれば、その表情はあまりにも荒々しく、猛々しいものだった。<br />
「うおおおっ!」<br />
見境をなくした兵士の一人が、男に斬りかかって行った。が、男が何をしたのか。兵士は振りかぶった剣を下ろす前に後方へふっとばされていた。<br />
男は開いた手を差し上げ、ゆっくりとそれを握る仕草をした。すると、男の掌には光の横筋が走り、それが握りしめられた瞬間には、光は剣となって、実体化していた。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEinzY6498Eyx6_Xe4tH2CBxBxsbXRuhDnY3rJzUug0YVBnwnPz0YaEnaBpfvMuL5MRzTYtqRNpCSlI6oOihTK0Rz91fAI1ESc3tNzz7myLRmNZfAGm2cQT8QT0dhgbMixGR8ketkP88o6o/s1600/%25E3%2582%25B9%25E3%2582%25B5%25E3%2583%258E%25E3%2583%25B2500.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEinzY6498Eyx6_Xe4tH2CBxBxsbXRuhDnY3rJzUug0YVBnwnPz0YaEnaBpfvMuL5MRzTYtqRNpCSlI6oOihTK0Rz91fAI1ESc3tNzz7myLRmNZfAGm2cQT8QT0dhgbMixGR8ketkP88o6o/s640/%25E3%2582%25B9%25E3%2582%25B5%25E3%2583%258E%25E3%2583%25B2500.jpg" width="497" /></a></div>
<br />
<br />
<div>
</div>
<div>
信じがたい出来事に、兵士たちはパニックに陥るとともに、理性を欠いた攻撃に出ようとした。</div>
<div>
爆発が生じたようだった。緩慢な時間感覚が訪れ、エステルは不思議にゆるやかになった光景を目の当たりにしていた。が、それはほんの二秒か三秒の出来事だった。<br />
襲いかかる兵士たちの剣は、あっけもなく折れた。男が持つ剣にとっては、枯れ木の枝に等しかった。剣を持つ腕、あるいは首、上半身と下半身が、ありえないほどの鋭利さで切り離され、魔の風が吹いたかのように一瞬で、その場から戦闘意欲を持つ者が消え去った。<br />
残されたわずかな兵士も、瞬時に変化したあたりの風景に怖気を立たせ、硬直していた。 賑わいを見せていた繁華街は静まり返り、直後、悲鳴と共に市民も残った兵士も逃げ出して行った。<br />
猛々しさを全身から発散させるその男の背に、エステルは問いかけた。<br />
「あなたは……神の使い?」<br />
「神?」<br />
振り返った男は、その言葉を初めて耳にするように考えていた。<br />
「姉上……」<br />
エフライムが苦しげな声を上げた。今まさに弟が瀕死の重傷なのだという現実が、正気に返ったエステルを絶望させた。<br />
「ああ、エフライム、エフライム……ごめんなさい。愚かなわたしを許して」<br />
「いいのです、姉上……」エフライムは呻き、血を吐いた。「……そこなお方」<br />
男は近寄り、しゃがみこんだ。<br />
「お名前は……?」<br />
「名?」男は首をかしげた。「この世での名はない」<br />
「では、わたくしがお名前を差し上げたい。名がなくては不便ゆえ」<br />
「ふむ」<br />
「このスサの地にちなみ、〝スサノヲ〟と」<br />
「スサノヲ……気に入った」<br />
「助けてくださって、ありがとう……。どうか……姉上たちを……やくそくの……」<br />
「エフライム様!」モルデが詰め寄る。<br />
エフライムはまだ喋っていた。だが、もう声は出ていなかった。それを見て、エステルの双眸から決壊したように涙が溢れた。<br />
「エフライム……! ああ、エフライム、しっかりして!」<br />
呼びかけても閉じられた目が開くことはなく、それから数秒、エフライムの唇は動き続けていたが、やがてそれも止まった。<br />
弟の名を呼ぶエステルの叫びは、城塞都市の上空、蒼く澄んだ星空に吸い込まれていった。<br />
<br />
<br />
「行くのか?」<br />
エステルは、男――スサノヲの背に問いかけた。<br />
翌朝、スサの街から離れた丘陵地に、彼らはいた。<br />
「われらと共に約束の地へ行きませぬか」<br />
そのように言うモルデの態度には、スサノヲに対しての畏敬の念が込められていた。<br />
「俺は誰とも約束などしていない」スサノヲは言った。「あんたらが、その約束の地へ行きたいように、俺には俺で、行きたいところがある」<br />
「そうか。残念だ」と、エステル。<br />
「この世界は……」そう言いかけ、スサノヲはふんと笑った。「なんとも脆く、はかない世界だな」<br />
「どういう意味だ」<br />
「命はすぐに絶える。形あるものは消える」<br />
スサノヲは足で乾いた大地に転がる石を踏んだ。石はいくつにも割れ、砕けた。<br />
「ネの国とはこのようなものか」<br />
「ネ?」<br />
スサノヲの言葉は謎めいていた。<br />
「俺はこのネの国の片隅にある国に向かう。それが俺のもともとの願いだったが……」スサノヲは振り返った。「俺をこのネの国に呼び寄せたのは、あんたの力のようだ。それは礼を言う」<br />
「それはこちらのほうだ。わたしたちこそ、命を救ってもらい、弟の弔いにまで手を貸してもらって……」<br />
「ありがとうございます」と、モルデも同様に言った。<br />
「では……」<br />
スサノヲは歩き出した。<br />
エステルとモルデは、それを見送っていた。彼が朝日の昇るほうへ向かっていくのを。<br />
<br />
その頭上には大きな鳥が一羽、舞っていた。<br />
<div>
<br /></div>
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<br /></div>
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<br /></div>
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<a href="http://blog.with2.net/link.php?1759712:1664" style="font-size: 12px;">小説 ブログランキングへ</a>ZEPHYRhttp://www.blogger.com/profile/18267253818170282825noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-870645900423302834.post-28357765655477047222015-07-02T11:18:00.000+09:002016-12-02T21:02:05.899+09:00ヤオヨロズ第1章 ワの国<br />
1<br />
<br />
二年後――。<br />
エステルの姿は日本海を航行する船の甲板上にあった。潮風が彼女の髪をかき乱し続けている。同じように彼女の心はかつてなく高ぶっていた。<br />
「いよいよですな、エステル様」と、ヤイルが隣で言った。<br />
屈強な中年の男だ。額から左眼にかけ、刀傷が生々しく残っているのは、スサの探索中に受けたものだった。むろん左眼は失明している。<br />
ああ、とエステルは低く応え、腰に帯びた剣の柄に左手を置いた。弟、エフライムが使っていた形見の剣だった。二人の視野には島国の青くかすんだ姿が、しだいに、しだいに大きくなりつつある。それとともに彼らの期待は否応なく高まり、胸のざわつきが抑えがたいほどだった。<br />
「あれです。あれが目印です」カイが指差す。<br />
大きな島国の手前にちっぽけな島があった。<br />
「おーい、もう少し東だ!」と、カイは位置を確認して叫ぶ。櫂を漕ぐ者たちが「おお」と言葉を返す。<br />
彼らが選んだのは、大陸の半島から近いツクシという島ではなく、東に横たわる大きな島国の北岸だった。その後もカイの誘導で、舟は刻一刻と目的地に近づいていく。<br />
やがて陸地で男が叫んでいるのが目に入った。モルデである。彼が満面の笑顔で手を振っていたが、潮風にかき消され、声は耳には届かなかった。<br />
船は川を遡上して行く。エステルはそれにつれて見えてくる島国の様子、それにしゃにむに船と一緒に駆けてくるモルデを見ていた。<br />
「エステル様――!!」<br />
ようやくモルデの声が耳に届くようになる。周囲の眼を忘れ叫び返したい衝動を抑え、エステルは接岸を待った。<br />
「兄さん!」<br />
船首まで出て行き、弟のカイが叫ぶ。モルデとは四つ下のカイは、また若干、少年っぽさをとどめる若者だった。<br />
船が接岸するとエステルは真っ先に下船し、桟橋を渡り、陸地を足で踏みしめた。<br />
「エステル様――」モルデが前にひざまずく。<br />
「モルデ、ご苦労」<br />
労をねぎらう以上のことも口にしたかったし、目もしっかりと合わせたかった。が、エステルはあえて歩みを止めなかった。港近くに小高い場所があり、そこからの景色を眺めたかった。<br />
――それにしても、とエステルは思う。<br />
美しい。<br />
その想いは、丘の上に出ると、いっそう深いものになった。大陸の広大な風景とはまったく異なる。こぢんまりとはしているが、豊かで、何か神が作った小庭のような景観だ。周囲を取り囲む山々は、いずれも険しくなく、濃い緑に覆われていた。あまり目にしたこともないような鮮やかな赤や黄も山々を彩っている。入り江に流れ込む河川は清らかで、そしてその周辺には背を伸ばす植物たちが見える。<br />
<br />
葦だった。<br />
<br />
水中から何百何千もの細い茎が生え、風に揺られていた。<br />
葦の原がそこに広がっていた。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg6WBSDOLA3FxmRWIpgORm_7V8hPYpYhgzPL002lW8O-cpIERAfMxBtAH0JMvde4RuyALramOX9ZegzzQXDdX9q1swBGq7_y3NJzGHK7SHshoyJ6W-3MPWWfd2iox30PNDuPDlTRKgmRok/s1600/%25E3%2582%2582%25E3%2581%2586%25E4%25B8%2580%25E3%2581%25A4%25E3%2581%25AE%25E5%259C%25B0%25EF%25BC%2588%25E5%25B7%25AE%25E3%2581%2597%25E6%259B%25BF%25E3%2581%2588%25EF%25BC%2589.jpg" imageanchor="1"><img border="0" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg6WBSDOLA3FxmRWIpgORm_7V8hPYpYhgzPL002lW8O-cpIERAfMxBtAH0JMvde4RuyALramOX9ZegzzQXDdX9q1swBGq7_y3NJzGHK7SHshoyJ6W-3MPWWfd2iox30PNDuPDlTRKgmRok/s640/%25E3%2582%2582%25E3%2581%2586%25E4%25B8%2580%25E3%2581%25A4%25E3%2581%25AE%25E5%259C%25B0%25EF%25BC%2588%25E5%25B7%25AE%25E3%2581%2597%25E6%259B%25BF%25E3%2581%2588%25EF%25BC%2589.jpg" width="522" /></a></div>
<br />
しばし呆然と、エステルはその景色を眺めていた。<br />
自然と涙があふれ出た。<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
「エステル様……」そばに来ていたモルデが、遠慮がちな声を発した。<br />
「カイから報告を聞いておる」エステルは流れ落ちる涙さえ意識せず言った。「葦の原と呼ばれる美しい国だと。このワの国は、葦の原の国だと」<br />
「われらが祖国も、かつては葦の原……カヌ・ナーと呼ばれておりました」ヤイルが言った。<br />
そう。それが「カナン」という呼び名の由来だった。<br />
「われらが探し求めていた〝もう一つの土地〟――もう一つのカナン」<br />
つぶやくエステルの脳裏に、ここへ至るまでのすべてがよぎって行った。侵略によって国が亡び、神殿も街も焼き払われ、男は殺され、女は犯され、そんな中を命からがら逃げ延び、弟エフライムを喪い、はるか長い大陸の道を、仲間を引き連れ、踏破してきたことを。<br />
荒涼とした土地を旅する中、多くの者が病で亡くなり、ある者たちは脱落してその土地に根付き、ある者は戦って死んだ。<br />
大陸の極東に至り、そこから先にもはや土地はないと知った時の絶望感。そして、東海に理想郷があるという、伝説のような話を聞いたときの、一縷(いちる)の望み。<br />
ホウライと呼ばれる伝説郷は、あくまでも伝説でしかなかった。しかし、情報を集めれば、海を東に渡ったところに、さらに国があることはたしかだった。<br />
――ひたすらに東に向かい、世界の果てにたどり着くことじゃ。<br />
メトシェラの言葉だけが、常に心の支えだった。このときもエステルは、藁(わら)をもつかむ心地で、最後の選択に賭けた。<br />
東海にあるというワの国。そこにもっとも近接した半島までたどり着くと、エステルはモルデとカイの兄弟を核とした先発隊を放った。そして、数日前にカイが戻ってきて報告したのだった。<br />
「ワの国は、葦原の国とも呼ばれております。本当に葦の原が広がる美しい国にございます!」<br />
今、エステルは自分の眼でその言葉を映像として確認していた。<br />
感極まってエステルは、弟エフライムの剣を抜いた。そして、足元に深々と突き立てた。振り返る。そこにはモルデら先発隊、そしてたった今下船してきたばかりの大勢の仲間、カナンの民が集まっていた。<br />
「皆の者、よく聞け!」エステルの号令は、全員の肺腑(はいふ)を震わせるものだった。「我らはこの地に、新しいカナンの国を打ち建てる! ここ以外に〝もう一つの土地〟はあり得ぬ。いや、こここそが神のお約束された、もう一つのカナンの地なのだ!!」<br />
一瞬、間があった。それはエステルの信念が波動となって、全員の心にしみわたる空白だった。しかし、その後、彼らの心から噴き上がってくる熱はすさまじいものだった。<br />
――おお!!<br />
エステルの宣言に応え、彼らは一つの生き物のように声を発した。<br />
「まずはこの地に前線基地を築く! 半島に残してきている仲間を呼び寄せ、ここを拠点に勢力を広げ、やがてこの島国すべてを、我らの支配するところのものとするのだ!」<br />
再び、おお! という声が上がった。<br />
「さあ、家を作れ!」参謀格のヤイルが命じる。「食べ物も獲ってこい! 今宵は宴ぞ!」<br />
ヤイルは民を集め、指示を与えはじめた。カナンの民たちは、精気に満ち溢れていた。一人残らず、喜びと希望で眼を輝かせている。役割を与えられた者は、嬉々として駆け出していく。<br />
「エステル様、こちらへ」と、モルデが言った。<br />
彼は丘陵地の隅に小屋をすでにいくつか作っていた。木造で、屋根は茅で葺(ふ)かれていた。珍しげにエステルは観察しながら中へ入った。切り株を加工した椅子が用意されていたので、そこへ腰かける。<br />
「このワの国では、皆、このような家を作るようです」モルデが解説しながら、エステルの前に座る。「この国は木が豊富です」<br />
「火で攻められたら、ひとたまりもない」と、苦笑する。<br />
「ワの民は、あらゆるところに木を使っています。ああ……ですが」モルデは慌てたように付け加える。「城を築くのなら、考えねばならないでしょう」<br />
「モルデ……」エステルは目を細めた。<br />
これ以上、待つことは二人ともできなかった。互いに手を差し伸べ、指を絡めた。<br />
「エステル様……」<br />
二人は自然と顔を近づけ、口づけを交わした。離れていた分だけ、それを埋め合わせるような激しいものだった。<br />
「お前がここへ来ていた間、ずっと神に祈っていた……。お前の無事を」<br />
「私もエステル様が無事にここへ来られることを祈っておりました」<br />
「ワの国のこと、よく調べてくれた」<br />
二人は顔を寄せ合い、囁くように言葉を交わした。<br />
「私はここへ来て、確信しました。豊かな水の流れる葦原の国。こここそが、我らが探し求めていた土地だと。ただ……」<br />
「ただ?」<br />
「この国の民たちは、あまりにも私たちと違います」<br />
うっとりとしていたエステルの眼は、それで理性的になった。<br />
「違う、とは」<br />
「この国には、我らが信奉する唯一の神はおわしません」<br />
「それは……」エステルは眉を上げた。「どこでもそうだったではないか。我らと同じような、崇高なる唯一の神を崇める民は、この地上のどこにもいなかった」<br />
「ええ。この国の民も多くの神々を崇めています」モルデは立ち上がり、木造の小屋の中から外を見た。「木の神、山の神、火の神、川の神、太陽の神、月の神……。ですが、どこか、違うような気がするのです」<br />
「違う? 他の国々の、多神を崇める者どもと、どう違うというのだ」<br />
モルデは言葉を探し、「いや」と首をひねった。「よくはわからないのですが、そんな気がするのです。気にしないでください」<br />
「いずれにせよ、有象無象(うぞうむぞう)の神々など信奉する民には、救いもなければ叡智もない。我らがこのワの国を平定してしまえば、それで良い。聞けば、このワの国にはろくな集権国家もないという話ではないか」<br />
「いや、そのことなのですが……」<br />
モルデが言いかけたとき、ヤイルとカイが二人そろって小屋にやって来た。人の割り振りが終わったのであろう。<br />
「良い土地だ」と、ヤイルが満足げに言った。「まさに神が、我らのために残してくださった、格別の土地。開墾すれば、良い作物が実るだろう」<br />
「次の便で、馬も運びましょう」と、カイ。<br />
「ちょうどよかった。ヤイルも聞いてくれ。カイもだ」<br />
真剣な表情のモルデに、楽しい雑談をしている雰囲気ではなくなった。<br />
「じつは、カイをカラ国へ送り返した後、この近くで戦があった」<br />
「えッ?」と、カイは目を丸くした。「兄さん、このワの国にはろくな国はないとかいう話だったじゃないか」<br />
「そうだ」ヤイルも言った。「半島からの玄関口のナの国というのは、古くからの強国だが、それ以外はいずれもちっぽけな村々だと」<br />
「違ったんだ。ここは大陸で聞いたような理想郷ではない。それどころか、我らと同じように大陸から渡ってきた勢力が、バラバラに小さな国を作り、争っている」<br />
「うかうかしておれんということだな」と、エステル。<br />
「はい。中でも東にある〝オロチ〟という国が大きな脅威です」<br />
「オロチ?」<br />
「その国ではクロガネを自国で生産しているようです。もちろん剣も持っています。これをご覧ください」<br />
モルデは小屋の片隅に立てかけていた剣をエステルに手渡した。彼女は食い入るようにそれを見つめ、柄の握りや刃の鋭さを確かめていた。<br />
「殺された兵が持っていたものです。むろん、我らが所持する剣ほどの強度はなく、切れ味も劣ります。しかし、クロガネを量産できるだけの技術も持っているとなると、これは侮れません」<br />
彼らカナンの民が拠ったのは、ナの国よりも東にはずれた地域だった。情報収集をし、要らぬ争いを避けるため、力を持つ国から離れた場所に拠点を置こうとしたのだ。しかし、東にも脅威はあったのだ。<br />
「国造りを急がねばなりませんな」ヤイルが言った。「いかような事態にも備えらえるよう」<br />
「……いや」<br />
エステルは宙を見据えていた。彼女のつぶらな、非常に強い瞳は、ある種のカリスマ性を備えていた。でなければ、男性優位の父系社会のカナンの民の中で、リーダーになることなど、決してかなわなかったろう。<br />
「それでは遅いかもしれん」<br />
「遅いと言われますと?」<br />
「ヤイル、ここまでの旅で我らが幾度、苦い思いをしてきたか、思い出せ。こちらの態勢が整うのを待っていては、この約束の土地を追い出されてしまうかもしれん。我らにはもう、ここよりほかに行く場所はないのだ」<br />
「いかがなされます」<br />
「先手必勝。時間をかけて国造りをする必要などない。すでにあるものを奪えばいいのだ。モルデ、カイ」<br />
二人の兄弟は、はい、とエステルの前にひざまずいた。<br />
「明日から周辺の探索をしてくれ。まずは、この周辺のどこか、手ごろな小さな国を奪う」<br />
<br />
<br />
夜が訪れていた。月明かりが差し込み、虫の鳴き声が耳触り良く、響いている。<br />
こんな静かな心地よい夜を、エステルはここ何年も迎えたことはなかった。それは隣にモルデがいて、肌の暖かさを感じさせてくれているということがあるにしてもだった。<br />
その安堵感は、これまでどのような土地にいても味わったことのない、満ち足りたものだった。エステルは確信を深めた。こここそが、約束の地だと……。<br />
胸の上にあるペンダントの宝珠を無意識に握りしめた。<br />
「……不思議な形だ」耳元でモルデが囁いた。<br />
彼はエステルの指をほどけさせ、宝珠を掌に載せた。<br />
「なぜ、このような曲がった形をしているのかな」<br />
エステルは彼のたくましい肩に手をまわしながら言った。「父から聞いたことがある」<br />
「エリエゼル王が? なんと?」<br />
臥所(ふしど)を共にするときだけは、彼らの間から主従の関係は薄れたが、それでもモルデの態度からエステルへの畏敬が消えることは決してなかった。それがエステルには、少しばかり悲しいことだった。<br />
「この宝珠は、失われた王国の神殿にあったもの。言い伝えによれば、神(ヤー)を象(かたど)ったものだと」<br />
「y(ヤー)を? それで、このような形を? おかしいな」<br />
「なぜ?」<br />
「いや、だって……神は我らを自らに似せてお作りになったはず」<br />
「ああ……そうね」<br />
「だったら、私たちもこの形だということになる」<br />
「似てない?」<br />
「似てない」<br />
二人はクスクス笑い、キスをし合った。そして、再び睦み合った。<br />
エステルはやがて眠りについた。モルデのそばで、胎児のような姿勢になって。<br />
それは宝珠の形に似ていた。<br />
<br />
<br />
2<br />
<br />
美しい山野を清流が駆け下ってきている。深い緑の中に、黄色や赤の鮮やかな色彩が、ぽつぽつと生まれ、そして山自体がみるみる大きな一輪の花のように色づいていく。<br />
秋という季節の変化を、クシナーダはうっとりと見ていた。自然は愛に満ちていて、そして大小さまざまな「意識」に満ちていた。花の意識、樹木の意識、石の意識、川の意識、水の意識、山の意識、そして空の意識……。<br />
その中をクシナーダは全裸で駆けていく。<br />
生まれたままの姿で、そのすべての意識を感じながら。<br />
この世界に充満している喜びの波長。それを目や鼻や耳や、皮膚を通じて、体中で感じられることが、また深い喜びを湧き上がらせるのだった。そして彼女の口からは、喜びの歌が自然とあふれ出る。<br />
すべては美しく、すべては調和している。<br />
が、不穏な気配が彼女の足を止めさせた。と同時に、川は真っ赤に染まった。<br />
川のほとりから、草木が枯れて行った。<br />
愕然としてクシナーダは悟った。<br />
これはいつも見る夢だと。もう何年も前から繰り返し繰り返し見続けている夢の中に、また彼女は迷い込んでいた。<br />
川を赤く染めるのは、鉄穴(かんな)流しによる汚れた土砂だった。その赤い色はますます色を濃くし、やがては血のような真っ赤な色合いに変化した。<br />
川底から何かが首をもたげてくる。<br />
クシナーダは悲鳴を上げた。巨大な蛇がどろどろの真っ赤な血にまみれて現れたのだった。口を開き、牙と舌を見せつけ、シャー、と空気を毒々しく震わせる。<br />
立ちすくむクシナーダの周囲に、一つ、また一つと大蛇(おろち)の首が出現する。川の中から、あるいは地面を割って、あるいは山野を越えて。<br />
八つの首は威嚇しながら、クシナーダのほうへ迫ってきた。逃げなければ! だが、足が動かない。なんとか踵を返すが、体重が何倍にもなってしまったように、思い通りに動かすことができない。大蛇たちはぐるぐる回り込んできて、彼女を包囲した。<br />
夢だ、これはいつもの夢だ、とクシナーダは自分に言い聞かせた。恐れることはない。夢はここでいつも覚める――。<br />
クシナーダは慄然とした。夢は覚めなかったのだ。<br />
大蛇らはいよいよ獲物にありつける喜悦に踊るように、みるみるクシナーダへの包囲を狭めてきた。蛇の割れた舌先が彼女の身体を、ゾッとする感触で舐める。<br />
ひときわ大きな頭部が眼前に迫ってきた。真っ赤な眼が冷酷さの中にも、残虐な歓喜を映し出し、輝いている。牙がむき出され、口が彼女をひと呑みにしようと、裂けるほどに大きく開かれた。<br />
夢の中でありながら、クシナーダは死を覚悟した。<br />
が、大蛇たちは彼女を呑み込めなかった。<br />
雷が幾筋も走り、視野は一瞬、真っ白になった。と、ものすごい突風のようなものが渦を巻き、あたりの景色を一変させた。大蛇はいなくなっていたが、暗い空に竜巻が立ち上がっている。<br />
竜巻は虹色になった。<br />
虹が竜巻になっているのだった。恐ろしくも荘厳な景色だった。<br />
<br />
<br />
「!」<br />
クシナーダは勢いよく跳ね起き、目覚めた。心臓が胸の中で、暴れ狂っているのを感じた。<br />
――なんだろう。<br />
彼女は自分の胸を押さえた。怖い夢を見れば、どきどきするのは当たり前だ。しかし、それだけではなかった。怖いだけではない、なにか体の芯から震える、期待のようなものがあった。<br />
臥所(ふしど)を抜け出し、クシナーダはそっと家の外へ出た。<br />
黎明のまだ薄い光が、そっと包み込むように村を満たしていた。何もかもが青白くかすんでいる。昨夜の激しい風雨の名残が、湿った土とびしょ濡れのまま枝を下げている樹木の姿に感じられた。風が吹くと、ざーっと水滴が無数に落ちてくる。<br />
茅葺の家屋の間を抜けていくと、彼女はそこに杖をついて佇む古老を見つけた。<br />
「アシナヅチ様」と、声をかける。<br />
里の首長であるアシナヅチは、それでもしばし、反応を示さなかった。耳が遠いのではない。アシナヅチにはよくあることだった。心をどこかに飛ばしていると、戻って来るのに時間がかかる。<br />
「……クシナーダか」<br />
ややあって、アシナヅチは言い、わずかに振り返った。クシナーダはアシナヅチのそばで、膝を折り、低い姿勢を取った。<br />
「おはようございます」<br />
「おはよう。こんなに朝早くから、いかがした?」<br />
「夢を見ました……」<br />
「またいつもの夢か」<br />
「はい。あ、いえ……少し違っておりました。大蛇に食われるかと思いましたが、虹が大竜巻となって現れました」<br />
「虹が?」<br />
アシナヅチは口のまわりと顎を覆っている長い白髭をしごいた。考え事をするときの彼の癖だった。<br />
「あれを見よ」と、アシナヅチは東の空に向けて、杖を指し上げた。<br />
激しい雷雨だった昨夜と異なり、空はすっかり晴れていた。まだ太陽は稜線の下にあり、空がほの明るくなっているだけだ。その上空でひときわ輝くのは、明けの明星だった。しかし、見慣れぬ星がそのそばに、勝るとも劣らぬ輝きを放っていた。<br />
クシナーダは驚いた。明けの明星が金星であるということは知っていた。太陽の比較的近くを公転する金星は、夜明け、あるいは日没時に、そのそばに必ず位置しており、非常に大きな輝きを放つ。しかし、その金星以上に輝きを放つ星など、見たことがなかった。<br />
「アシナヅチ様……あれは」<br />
「天津甕星(あまつみかほし)……」<br />
「みかほし?」<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<br />
<br />
「あの星はわしの眼には、一昨年(おととし)から見えておった。次第に輝きを増してはおったが、ついに肉眼でもあのように輝きを放つようになった」<br />
「なんの兆(きざ)しでしょうか」<br />
「甕星は天に仇(あだ)なす凶星。おそらく、そなたが見た虹の竜巻と同じものであろう」<br />
クシナーダは魅入られたように、甕星の凛とした輝きを見つめていた。まるで魂が吸い込まれるような心地がした。自分がその星へ引っ張られているのか、それとも自分がその星を引き寄せているか、空間の感覚がまったく消えてなくなっていた。<br />
その光は一瞬にしてクシナーダの視野いっぱいに広がり、包み込んできた。<br />
刃物のような、厳しい光だった。しかし、なぜかクシナーダはその光に身をゆだねることができた。自分が拒絶することもなく、また光によって傷つけられることもなく。<br />
光の中でクシナーダは、広大な宇宙空間を視ていた。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<br />
宇宙は圧倒的な光芒に満ちていた。宇宙空間は闇などではない。すべてのもの生み出す創造の力に満たされた、母なる海だった。輝きを放つ無数の恒星、あるいは星雲の数々は、その海に育まれた命の輝きそのものであり、すべてが喜びを放ち、そのヒビキが絡み合い、手を取り合い、巡り合い、回りながら、壮大な交響曲を奏でていた。<br />
初めて見る光景ではない。アシナヅチの導きを受け、クシナーダは幾度もこの体験をしていた。だから、自分たちが暮らす地上が平坦な大地などではなく、球体をした青く美しい星であることも知っていた。<br />
――なんという麗しい星だ。<br />
想いが湧きあがる。<br />
と、同時に戸惑う。今のは自分の想い?<br />
――お母さん。<br />
激しい恋にも似た思いが募ってくる。いや、十五のクシナーダはこの時代の娘としてはかなり奥手で、まだ恋慕の情さえ経験したことがなかったはずだった。それもそのはず、巫女として特別な教育を受けてきた彼女は、ある意味で一般的な男性への恋愛感情をはるかに凌駕するものを、すでに得ていた。それは大自然への深い敬意であり、同時に大自然との交感の中でしか得られない、特別な悦びだった。<br />
――お母さん。<br />
その想いは、今、クシナーダが一体化している甕星の意識が発しているものだった。<br />
あまりにも〝個人的〟で、あまりにも原初的な、熾烈な恋慕の情の塊に触れ、クシナーダは全身がしびれる心地がした。生々しく、だからこそ、力にあふれた波動だった。<br />
光はクシナーダを包み込んだまま、青い地球へ到達した。その瞬間にクシナーダは二つのことを同時に味わった、<br />
それは光と一体化した自分が地球そのものになったこと。<br />
もう一つは地球そのものになった自分が、その光を受け入れたことだった。<br />
その衝撃は、これまでのどのような自然との交感よりも鮮烈で、自分のすべてを燃焼させるほどの狂おしい火が体の芯から突きあがってきた。<br />
そこでクシナーダは、現実に返った。垂れ下がるような長い眉毛の下からアシナヅチの眼が見つめているのに気づき、少なからず狼狽する。<br />
「甕星のヒビキに共鳴したか」<br />
クシナーダはうなずいた。そのとき風が吹いた。<br />
――ハハハ。<br />
その風に紛れて、女の笑い声が聴こえた。二人が驚いて見まわすと、桜の大樹の枝に腰かけた女の姿が頭上にあった。鮮やかな青と緋に彩られた衣をまとった、若い女だった。満面の笑みを浮かべ、口の端が釣り針でひっかけられたように、にっと曲線を描いている。<br />
「そなたは……」と、アシナヅチが数歩、歩み寄る。<br />
「ウズメ様……」<br />
クシナーダは畏敬の念に打たれながら、アシナヅチにしたような礼の姿勢を再び取った。<br />
「時が来たのさ」<br />
耳というよりも、胸を貫いて刺してくるようなヒビキの声だった。いったいどこから発声しているのかと疑いたくなるような、ありえない明るさと強さを持っていた。<br />
<br />
<br />
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<br />
「甕星はやって来るよ!」<br />
「甕星とは何者?」と、アシナヅチ。<br />
「すぐわかる」<br />
そう言って、ウズメはまた笑った。顔だけではなく、声をあげて笑った。おかしくて仕方ないように。<br />
「――ていうか、あんた、知ってるし」と、クシナーダを指差す。<br />
「え? わたくしが?」<br />
「そう、知ってる」<br />
そう言い放ち、ウズメは木の枝の上で、すくっと立ち上がった。まるで体重がないような動きだった。<br />
「楽しい♪ 嬉しい♪」<br />
ざっと木の枝を揺らして鳴らして、つむじ風が通り抜けた。ざーっと振り落されてきた水滴に思わず目をつぶった二人が、再び瞼を開くまでのその一瞬に、ウズメの姿は消えていた。<br />
「アシナヅチ様……」<br />
クシナーダは戸惑いながら、古老を振り返った。もちろん何がしかの答えを求めてのことだった。だが、アシナヅチは沈黙を守ったままだった。彼自身、はっきりとした言葉を持たないようだった。<br />
<br />
<br />
冷たい水と砂の感触が、意識が戻るとすぐに感じられた。視野を小蟹が横ばいしていく。<br />
スサノヲはかすかに呻き、起き上がった。ずぶ濡れた衣類が重かった。砂を払い落しながら、立ち上がる。<br />
波が勢いよく寄せてきて、彼の足もとの砂をさらった。<br />
見渡せる限りの砂浜だった。砂浜に沿って、ずっと雑木林が続いている。<br />
――ここは、どこだ。<br />
そして、なぜ自分がこんな場所にいるのか、記憶をたどった。<br />
彼は昨日、カラ国を出港する船に乗った。ナの国の商船だった。ナの国とは、ワの国の一部である。彼はそのワの国へ渡るために船に乗ったのだ。<br />
が、出港してしばらくして、天候が急変した。カラ国の珍品を満載した船は、荒れ狂う風雨の中で翻弄され、流され、そして――。<br />
ひときわ高い波に頭から呑まれたのが、スサノオの最後の記憶だった。<br />
船は難破したらしい。<br />
スサノヲは砂浜を歩き出した。どこだかわからないが、運よく彼は陸地に流されたようだった。<br />
また遠回りをしてしまったかと、臍(ほぞ)をかむ。<br />
カラ国に到達するまでも、相当に彷徨っている。大陸の中央を横断する商人の道があると聞いたのは後の話で、最初からその道を進んでいれば、数カ月は早くに到着できたはずだった。<br />
好奇心もあった。このネの世界のありようを知ろうと思い、気の向くままに歩き、出会う人やモノ、そして多くの国々を見ておこうとしたのだ。<br />
その旅の過程で、彼は知った。この世界の混沌と、はかなさを。<br />
争いのない国などなかった。一国の中でさえ、人は己の欲を満たすことに腐心し、他人を傷つけ、陥れること、場合によっては殺すことさえ平気だった。ましてや国と国は、より肥沃な土地や利便性の高い土地を巡って、常に戦争を行っていた。<br />
その一方で、もの静かに暮らす人々もいた。山野に溶け込むようにして、その日の生活を日の出と日没に合わせて生きる人々も。<br />
旅のスサノヲに親切に宿を提供してくれた者も、数えきれぬほどいた。<br />
しかし、善良な人々ほど、権力を持った抑圧者たちの被害者でもあった。その被害から逃れるためには、隠遁者となるしかなかった。<br />
ただ、どのような立場の人間にも確実に平等な出来事もあった。<br />
それは「死」が訪れるということだった。決して長くはない、はかない人生の繰り返し。<br />
本当に短い、ほんのわずかな時の栄華や幸福のため、人はこのネの世界を生きているのだった。<br />
スサノヲの眼から見れば、それは本当にはかなくもろい世界だった。<br />
ネの国。それは物質的な、有限の世界だった。そして、その中で呼吸をしている自分もまた……。<br />
少し歩くと先に岩場があった。そこへ上がると、どうやら山間(やまあい)に川があり、それに沿って道が続いているらしいのが確認できた。といっても、もちろんけもの道だ。<br />
とりあえず何がしかの集落でも、人のいる場所へ向かう必要があると、彼は判断した。<br />
そのとき彼は、視野の端に白いものを見た。<br />
岩と岩の間に挟まれるようにして、子供が横たわっていた。スサノヲは一段岩を飛び下り、子供のそばにしゃがみこんだ。年のころは六、七歳だろう。その顔と身なりに見覚えがあった。ナの国の商船で一緒だった子供だ。<br />
たしか親と一緒に乗り込んでいたはずだが……。<br />
周囲を見まわすが、他に打ち上げられた者はいないようだった。<br />
スサノヲは子供が息をしているのを確認した。<br />
<br />
はかない命。<br />
<br />
放っておいても、数十年で消滅する命。スサノヲは一度、それを捨て置こうと考え、その場を離れかけた。<br />
が、足を止めた。<br />
スサノヲは引き返してきて、その子供の胴に手をかけた。ひょいと軽々と抱き上げる。けもの道を歩き出した。<br />
そして、思った。<br />
――腹が減った、と。<br />
<br />
<br />
3<br />
<br />
スサノヲはすぐに後悔するところとなった。まいったな、と何度目かの困惑を胸に感じる。<br />
子供を前に。<br />
その子は今、河原の岩の上で座り込んでいる。<br />
スサノヲはといえば、熾火の上で獲ってきた川魚を焼いている。自分が空腹だったということもあるが、子供に食わせなければならならなかった。<br />
人は脆く、食べなければ死んでしまう生き物だ。<br />
スサノヲ自身、この地上で飲まず食わずでいられた時間は長くない。自分がこの地上のものになったのだということを教えてくれたのは、喉の渇きや空腹だった。<br />
身体の機能を維持するために、水や他の生命――植物であろうが動物であろうが――を体内に取り込まねばらないというのは、おそろしく面倒な作業だった。しかし、避けられない。自分だけでもそうなのに、子供をしょい込んでしまった。<br />
「ほら、焼けたぞ」<br />
スサノヲは熾火の上から、じりじりいっている火傷しそうな魚を取り出した。葉に乗せ、子供のいる岩の上に置く。しかし、子供は膝を抱え込んだままだった。<br />
<br />
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<br />
<br />
人は脆い。<br />
肉体だけではなく、心までもが脆い。<br />
この脆い人間の、しかも子供を助けてしまった。ほんの気まぐれに過ぎない。カラ国を出港する前、両親のそばで無邪気に騒いでいた子供の顔を思い出し、憐れに思ったということもある。が、一度助けてしまうと、今はもっと重大な問題になってしまっていることに、スサノヲは気づいていた。<br />
それは、見放すことができない、ということだった。一度助けてしまったが最後、子供を安心のできる環境に届けてやるまで責任が生じてしまっていた。<br />
どこか集落を見つけたら、子供はそこで引き渡してしまえばよいと、最初は安直に考えていた。ところが大きな河川に沿って存在していたであろういくつかの集落は、戦乱の跡地となっていた。誰も生き残っておらず、飼い主を失った犬がうろついているだけだった。<br />
どこだかわからないが、この地も平穏ではないのだ。<br />
結果、スサノヲは随分と川を遡らなければならなかった。人は水のあるところで生活をする。どの国でもそれは基本的にある。どこか無事な集落を見つけるまでは、子供の面倒を見なければならない。<br />
「食わねば歩けない。食わないなら置いていく」スサノヲは新しい魚を熾火の上から取り、熱々の身に噛り付いた。「お前の親は、もしかすると俺たちのように生きているかもしれない。ここがカラ国なのかワの国なのかわからないが……どうする? お前はこれを食って歩くか、それとも食わずに座っているか。どちらでも好きにするがいい」<br />
親が生きている可能性など、スサノヲは信じていなかった。が、今はこの子供を生かすことを考えなければならなかった。<br />
子供はゆっくりと手を伸ばし、魚に噛り付いた。<br />
それを見て、スサノヲは尋ねた。「お前、名前は?」<br />
「……スクナ」<br />
「俺はスサノヲという」<br />
スクナは黙って、魚を食べていた。<br />
「お前、女の子だな」<br />
食べるのがちょっと止まった。男の子のような身なりをしていたが、海岸で担ぎ上げたときに、スサノヲは気づいていた。<br />
「お父ちゃんが、そうしていろって……。男の子に見せていたほうが、連れて歩きやすいからって」<br />
「男の子のほうが安全か。お前はもともとワの国の者なのだろう。お前の親はそうまでして、なぜカラ国へお前を連れて行った?」<br />
スクナは答えなかった。<br />
「まあ、いい。答えたくなければな」<br />
スクナはスサノヲをおずおずと見た。「ここはワの国だよ」<br />
「なぜ、そう言える」<br />
スクナは近くの茂みを指差した。葉がぎざぎざになっている小さな樹木があった。青い実をつけている。<br />
「あの葉は、かぶれや火傷に効くの。あれはワの国にしかない。寒くなったら、実が赤くなる」<br />
「ほう」スサノヲは感心した。「お前、物知りだな」<br />
「お父ちゃんに教えてもらった……」<br />
そう言いながら、少女の目はまた赤くなってきた。両親の命が絶望的であることは、彼女が一番よく理解していただろう。<br />
「ほらっ。もっと食え」<br />
スサノヲは魚を取ってやった。スクナは目をこすり、がつがつと食べた。悲しみがあっても生きようとする健気な意志が、その様子からうかがえた。二匹の魚を平らげると、少女は山の斜面から川のほうに突き出している一本の木を見上げた。<br />
「あれ……採(と)れないかな」<br />
高い木の枝の先のほうに、何か果実のようなものが生っていた。ただ、その樹木の実ではなく、樹木に巻き付いている蔓性の植物のもののようだった。赤紫色の細長い果実がぱっくり割れているのが、いくつか群がるように生っている。<br />
木に登って、枝の先のほうまで行かないと採れそうになかったが、枝は細い。大人の体重にはとても耐えられそうにないし、飛びあがったところでとても届くような高さではない。<br />
「無理かな」と、少女は遠慮がちに言う。<br />
「あれ、うまいのか」<br />
「おいしい」<br />
「そうか」スサノヲは立ち上がり、果実の下まで行った。<br />
道具も何もなかった。スサノヲは丸腰なのだ。スサで生成した剣も、嵐で船が難破した時に失ってしまっていた。おそらくは今頃、海の底だろう。地上になじんでしまった彼に剣を再度生成する力はなかったし、ここで便利な道具を作り出すことなど、もちろんできなかった。<br />
スクナは眼を疑ったことだろう。スサノヲの身体は低く縮んだと思ったら、次の瞬間には宙へ跳ねあがっていた。優に身の丈の三倍は跳躍し、楽々と果実をもぎ取っていた。<br />
「すごい……」<br />
賛嘆の眼差しのスクナの鼻先にスサノヲは果実を突きだした。少女は驚きながらも喜んで、その果実を手にした。宝物を得たような表情がちらっとよぎる。外側の皮のような部分が二つに割れ、その裂け目に白い果肉が見えている。彼女はそこへ口を突っ込むようにして食べ始めた。<br />
「おいしい……」泣きそうなくらいうれしそうな表情だ。いや、泣いていた。「これはアケビ……いつもお父ちゃんが秋に採って来てくれた……おいしい」<br />
「そうか。そんなにうまいか」<br />
スクナは無言で、アケビを一つ、スサノヲに差し出した。本当に見たこともない、ちょっと気味悪い外観の果実だった。<br />
「カラ国にもアケビはあるよ」<br />
「そうなのか?」不信感でいっぱいになりながら、スサノヲは見よう見まねでかぶりついた。ぬるっとした果肉が、口いっぱいに広がった。<br />
そのとたん、衝撃を受けた。甘く、とろけるようなうまさだった。<br />
「うまい……甘くてうまい。なんだ、これは」<br />
呑み下し、また口に含んだ。<br />
「あ! ダメだよ、種を食べちゃ。糞詰まりになっちゃうよ」<br />
ぶーっと、スサノヲは種を吐き出した。「ふ、糞詰まり?」<br />
「この白いところだけを食べるんだよ。本当に知らないんだね」<br />
「先に言え」<br />
むっとしながらスサノヲは睨みつけた。まだ涙で濡れていたが、スクナの顔がくしゃくしゃになって、笑っていた。<br />
ふっと、スサノヲは笑った。そして少女の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。そして、そんな仕草をしてしまった自分に戸惑った。<br />
<br />
――気ヲツケロ。<br />
<br />
奇妙な声が聞こえ、はっとさせられる。スサノヲは旅の途中で、人語の真似をする奇妙な鳥を見たことがあった。ちょうどそのような声に聞こえた。<br />
「どうしたの?」<br />
周囲を見まわすスサノヲのことを怪訝に見るスクナ。少女には聞き取れなかったようだ。<br />
スサノヲは先ほどのアケビが生っていた木の枝に、大きな黒いカラスが止まっているのを見た。まるで人間のような思考力がある眼をしたカラスだった。一目で普通の野鳥ではないとわかった。<br />
「お前か……。スサからずっと俺のことをつけまわしていただろう」<br />
<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<br />
――ツケ回シテイタノデハナイ。案内シテヤッテイタノダ。<br />
カラスを通じて思念が飛んでくる。が、カラスなど媒体に過ぎない。どこかに本体が存在するように思えた。<br />
――ヨウヤク辿り着イタナ。ワザワザ遠回リバカリシオッテ。<br />
「よけいなお世話だ」<br />
スクナは唖然として、スサノヲがカラスと話すのを見ていた。むろん、カラスからの声は聞こえておらず、ただ一方的にスサノヲが語りかけているように見えたろう。<br />
「いつ焼き鳥にしてやろうかと思っていた。なんなら、これから焼いてやろうか」<br />
――ハハハ。ソンナ暇アルマイ。<br />
「どういう意味だ」<br />
――スグ分カル。<br />
ずん、という響きが、どこか深いところで生じた。そのとたん、大地が異様に鳴動し、いっせいに木々が悲鳴のようなざわめきを発した。ゆるやかだった川面もにわかに波立ち、河原の岩という岩が騒ぎ立てた。<br />
地震だった。<br />
スクナが短い叫びを上げ、慌てて岩の上から転げ落ちそうになる。スサノヲは危うくそれを受け止め、少女の頭を抱きかかえ、河原に伏せた。さすがに立っていられない。上下左右にむちゃくちゃに搖動する地面の上に、周囲の木々から葉や木の実が無数に落ちてくる。<br />
山々が鳴動し、メキメキ音を立てて老木が倒れた。大木でさえ、今にも折れそうなほどたわんでいるのが見える。川の水が、大蛇のようにうねった。<br />
さすがに肝が冷える瞬間だった。<br />
しばらくすると、暴れていた地面は沈静化した。しかし、まだ大地には余韻のような震動が、ずっと残っているように感じられた。<br />
「す、すごい地震(なえ)だった……」<br />
腕の中で、スクナが身じろぎをし、言った。スサノヲはアケビの生っていた木の枝を見上げた。すでにカラスはいなかった。<br />
「この頃、地震がとても多い。巫女様は前に言っていた。前触れだと。だから、地震がとても多いんだと」<br />
「巫女様?」スサノヲはスクナから離れ、尋ねた。「前触れというのは、なんのことだ」<br />
「ワの国には巫女様がたくさんいる。みんな、これは大きな前触れだと……」<br />
スクナの眼が、ある一点で止まった。その視線を追いかけると、川の対岸に一人の娘が佇んでいるが見えた。<br />
ススキが無数に立ち上がっている中に、長い黒髪を結った美しい娘がいた。臙脂(えんじ)の衣を身にまとい、手には竹で編んだ籠を持っている。つぶらな瞳を見張って、呆然とスサノヲらを見ていた。唇が動く。みかほし……なにか、そんなふうに言ったように聞こえた。<br />
「あの人……巫女様だ」と、スクナが言った。<br />
「そうなのか」<br />
「ほら、勾玉の首飾りをしてる」<br />
娘の胸元には大きな翡翠の勾玉が下げられているのが見えた。<br />
「ここはワの国か」スサノヲは大きな声で問いかけた。<br />
娘はうなずいた。「はい。ワの国です」<br />
その声のヒビキのあまりの心地よさに、スサノヲは戸惑った。<br />
「ワの国のどこだ」<br />
「ワの国のナカの国にございます」<br />
「ナカの国……」(※現・中国地方)<br />
「東の国と西の国の間の国でございます。ここはナカの国の中のトリカミの里」<br />
「真ん中ということか」スサノヲは振り返った。<br />
「トリカミなら知ってる」スクナは意を察して答えた。「たくさんの巫女様の中でも、一番古くてえらい巫女様の里だ」<br />
「ほう。――ならば、知っているか」スサノヲは娘に問いかけた。<br />
娘は首をかしげる。<br />
「このワの国には、ヨミの国に至る道、ヨモツヒラサカがあると聞く」<br />
「ヨミの国……」娘の顔色が変わった。<br />
「知っているのだな」<br />
言下にスサノヲは跳んだ。川幅は彼の運動能力をもってしても、ひとっ飛びにできるようなものではなかったが、途中の岩や中州を飛び渡ることで、水に濡れることなど一度もなかった。ほんの瞬(まばた)きの間に目の前に近づいた男を、しかし、娘はきょとんとして見、次には「すごい」と笑って褒めた。手でも叩きそうな表情だ。<br />
いきなり調子を外され、スサノヲは気を取り直さねばならなかった。<br />
「知っているのなら教えてもらおうか。その場所を」<br />
娘はまじまじとスサノヲを見つめ、顔を近づけてきた。逆にスサノヲは引かねばならなかった。かと思うと、急に娘は大きく何度もうずいた。自分ひとりで納得するかのように。そうしながら、周囲に散らばっていた鮮やかな色の木の実を拾い、籠に集め始める。<br />
「な……」<br />
うまく言葉が出なかった。警戒するとか怯えるとか、こちらが想定するような反応を、娘はいっさい示さなかった。どうやら拾っているのは、これまで収穫した木の実らしい。先の地震でまき散らしてしまったのだろう。<br />
それにしてはこの娘の気配をまったく感じなかった、ということをスサノヲは不審に思った。あれだけの大きな揺れだ、普通の娘なら悲鳴の一つや二つ上げてもおかしくないのに、この娘はどうしていたのだろう……。<br />
「一つ、いかがですか」娘は鮮やかな橙色の果実を差し出した。「お食事をなさっていたのでしょう?」<br />
<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<br /></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjTj0FmfhTWRQ5l6SCX5byjTr-XPiPEXnNUooZtE5BhWVoGQYnfxmudf7-NRKQUJwoSZ_hah4Aq-PHhOfxpX8FQ2yqe3FAbyFjYCdMb_TSpq_P6Y0lYCvjDTzBMgw2KPlOfilWNv6pL0Ag/s1600/%25E6%259F%25BF.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjTj0FmfhTWRQ5l6SCX5byjTr-XPiPEXnNUooZtE5BhWVoGQYnfxmudf7-NRKQUJwoSZ_hah4Aq-PHhOfxpX8FQ2yqe3FAbyFjYCdMb_TSpq_P6Y0lYCvjDTzBMgw2KPlOfilWNv6pL0Ag/s640/%25E6%259F%25BF.jpg" width="640" /></a></div>
<br />
<br />
「…………」<br />
うまく返事ができず、スサノヲは思わず娘が差しだす果実を手に取っていた。<br />
「おいしいですよ」と、娘が無邪気に言う。<br />
柿だった。スサノヲはそれを大陸でも見たことがあった。いかにもうまそうに見えるその果実は、しかし、口に入れると、とてつもなく渋かった。噛り付く気にもならず、手にしたまま凍り付いていた。<br />
「うん。おいしい」<br />
スサノヲが躊躇しているのを見てなのか、それとも自分が食べたいだけだったのか、娘はその同じ果実に噛り付き、頬張っていた。それを見て、スサノヲも口に入れてみる気になった。先ほどのアケビにも劣らぬ衝撃だった。大陸の柿とは別物だった。<br />
「うまい……。こんな果実があるとは」<br />
「あなた、お名前は? みかほし様?」<br />
「みかほし? いや、俺はスサノヲ」<br />
「スサノヲ?」娘は目を丸くし、その言葉を胸に落とし込むように、何度か小さくうなずいた。そして、振り返って言った。「わたくしはクシナーダと申します」<br />
クシナーダ、という言葉のヒビキは、スサノヲに少なからぬ衝撃を与えた。初めて聞いたような気がせず、なぜか心の琴線に強く触れるものがあった。その理由を探ろうとするのだが、どうしても自分の中には答えは見いだせなかった。<br />
「いいヒビキだ……クシナーダ」<br />
「知っていますよ」<br />
「え?」<br />
「ヨモツヒラサカの場所を」<br />
「やはり知っているのか。教えてくれ。どこにある、それは」<br />
興奮し、娘の両肩をつかんだ。が、彼女は怯えることもなく、まっすぐにスサノヲの眼を見つめ返して言った。<br />
「ヨミの国はさまよえる死者の国。なぜそのような場所に?」<br />
「そんなことはどうだっていい」スサノヲのほうが、やや狼狽せずにはおれなかった。「いいから、教えてくれ」<br />
「理由も知らされず、簡単に教えられるようなところではございません。そこらへんの原っぱに散歩に行くのとはわけが違います」<br />
きっぱりと言うクシナーダは、スサノヲの手を払いのけた。か弱い小娘だと思っていたが、意外に毅然としたところがあった。<br />
「ヨミへ行けば、生きて帰ってこられないかもしれないのですよ」<br />
「それは俺であって、あんたじゃない」<br />
「では、あの子はなんなのです」クシナーダが指差したのはスクナだった。「あの子は、あなたのなんなのです。あなたの子ですか」<br />
「い、いや」どうも調子がくるっているのを感じながらスサノヲは言った。「ただの旅の連れだ。船が難破して、近くに打ち上げられた」<br />
「どうして放っておかないのですか」<br />
言葉に窮した。<br />
「あなたはあの子を助けた。そういうことでしょう」<br />
「まあ、そうなる……」<br />
「あなたがあの子が死ぬのを放っておけないのと同じように、わたくしもあなたが死ぬかもしれないような行いをするのを放ってはおけません」<br />
これはスサノヲの分が悪かった。なぜこのようなことになってしまっているのか……ともかくクシナーダのほうに明らかに理があった。そしてそのような事態を招いてしまったのは、ひとえにスクナを助けるという行いをしてしまったからだと、スサノヲは気づかされた。<br />
「頼む。俺はどうしてもヨミの国へ行かねばならないんだ」<br />
戦術を変えることにした。優しそうな娘だ。懇願するという手段なら落ちるかもしれない――と思ったのは、まことに浅はかだった。<br />
「いずれ死ねば、皆、そこへ行けます。焦ることはありません」<br />
がん、と大きな岩で打ちつけられたようだった。<br />
クシナーダは、話は終わったとばかり、背を向けて歩き出した。慌てなければならないのはスサノヲのほうだった。<br />
「スクナ……! 火を消して、こっちへ……」と言いかけ、スクナには川を渡るのは難儀だと気づき、一度戻った。焚火に水をかけ、消火すると、スクナを背負い、川を飛び渡る。その頃には、クシナーダの姿はススキの影に見えなくなりつつあった。<br />
クシナーダは一度振り返った。そして、腰を折り、頭を低くして、礼の姿勢を取った。誰に向かっての礼だったのか……スサノヲには、彼女があのアケビが生っていた木のあたりに向かって会釈したように見えた。<br />
しかし、そこにはもちろん、誰もいなかった。<br />
<br />
<br />
三人が去ると、アケビが生っていた木の枝に、いつの間にか人影が二つ出現していた。細い枝の上に、肩幅の広い異形の男と、彼の身体に蔓がまきつくように寄り添って女が、二人もそろって立っているのは、体重を消せる術がない限りあり得ない光景だった。<br />
<br />
<br />
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<br />
<br />
<div style="text-align: right;">
</div>
<br />
「相も変わらず騒々しい男じゃ」と、異形の男が言った。鳥類を想わせる尖った鼻の面をかぶっていた。「山を鳴らせおった」<br />
くすくす、女が笑った。「面白い。楽しい」<br />
「ウズメ。そなたはなんでもそうやって面白がる」<br />
「いけませぬか、サルタヒコ様」<br />
「…………」<br />
笑い声をあげ、ウズメは枝から飛び降りた。そしてスサノヲたちの後を辿って歩き出す。<br />
同時に黒い大きなカラスが枝から飛び立っていった。<br />
<br />
<br />
4<br />
<br />
不思議な娘だった。<br />
クシナーダは歌いながら歩いているが、まったく気ままで奇矯に見えた。やることがおかしいのだ。あちこちで草花に話しかけ、急に笑ったりもした。誰もいないのに、誰かと会話している。<br />
「おかしな娘だ……」<br />
スサノヲがつぶやくと、隣でスクナが怪訝そうに見上げ、「スサノヲもだよ。カラスと話してたじゃない」と言った。<br />
言われてみるとそうだった。あのカラスの声は、スクナには聞き取れなかった。それはスサノヲが本来異界の存在であり、あのカラスの本体も異界のものだからだ。<br />
「巫女様は普通の人間が見えないものが見えるんだ。妖精とか神様とか」<br />
「そうなのか?」<br />
とすれば、クシナーダは人間でありながら、異界に通じることができるのだろうか。<br />
スサノヲは旅の途中で、異能を身に着けている人間たちに遭遇することがあった。精神的な力で体を宙に浮かせるとか、あるいは人の心を読んだり、遠くのものを見通したり、先に起きることを予知したりする能力を持つ者たちだった。彼らはある種の苦行を積み重ねることで、そうした異能を発揮するようになっていた。<br />
彼らの多くは、当たり前の生活から逸脱し、エキセントリックな個性を持っていた。日常を捨て、人間らしさを代償とすることでしか、そうした特殊な〝力〟を手に入れることはできないのかもしれない。だが、クシナーダはそんな連中のぎらぎらと何かに執着する雰囲気とは、まったくかけ離れていた。自由奔放であり、のびのびと、すこやかだった。彼女自身が妖精であるかのようだ。あるいは、もしかすると――<br />
「ただのおかしな娘なのか?」クシナーダはいきなり振り返り、言った。「そう思ってらっしゃるのでしょう」<br />
図星過ぎて返答できなかった。そんなスサノヲを見て、クシナーダはくすくす笑った。<br />
「もう少しです」と言って、また歩いて行く。<br />
――空気が変わった?<br />
いわくありげな巨岩のそばを通過してすぐ、スサノヲはふっと自分を取り巻く空気が、いきなり清々しいものに変わったのを感じた。吸い込む胸の中まで清らかになる気がする。<br />
――なんだ、これは。<br />
そう思ったとき、クシナーダが「ほら、もう見えてきましたよ」と片手を差し上げた。<br />
彼女の指し示す方向に集落があった。茅葺の屋根がいくつも見えた。歩き進めて高台へ登っていくと、集落の全容がだんだんと明らかになった。<br />
想像以上に大きな里だった。小高い丘の台地の上に、環状に広がっている。人が歩いてできた道が、三重円になっている。そして三重円の環状道に沿って、住居である茅葺屋根の建物が散らばっている。<br />
集落の中央には、大きな柱がそそり立っていた。見上げると、中天に差し掛かった太陽の光が柱のてっぺんの向こうにあった。大きな鳥が周辺を舞っている。空は急速に曇ってきており、黒い塊のような雲が太陽の光を呑み込んでいくところだった。<br />
集落で飼われているものだろう。犬が二匹、吠えながら走って来て、クシナーダの周囲に尻尾を振りながらまとわりついた。続いて、柱の周辺にいた子供たちが、わーっという歓声とともに走ってくる。クシナーダはそれをしゃがみこんで迎えた。<br />
<br />
<br />
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<br />
<br />
「お帰りなさい、クシナーダ姉ちゃん」<br />
「さっきの地震(なえ)、大丈夫だった?」と、クシナーダが優しく言う。<br />
「うん! アシナヅチ様が起きる前に教えてくれたから」<br />
「誰も怪我してないよ!」<br />
「でも、家の中、めちゃくちゃ」<br />
「一つ、倒れちゃった。あ、二つ!」<br />
「今、みんなで直してる」<br />
「わあ、柿だあ。ねえねえ、これすぐに食べられる柿?」<br />
「ええ、大丈夫よ。アシナヅチ様のところへ先に持ちしてね」<br />
「はーい!」<br />
「この人は?」<br />
「旅のお方よ。お迎えの宴をしましょうね」<br />
「はーい!」<br />
「ねえねえ、お客人、どこから来たの?」<br />
「ナの国? キビの国? それとも異国(とつくに)?」<br />
いきなり子供たちの好奇心に輝いた瞳に取り巻かれ、スサノヲは「あ、ああ、とつくにだが……」と答えた。わーっと、子供たちはまた盛り上がる。<br />
「異国だってえ!」<br />
「異国のどこ? カラ国? バーラタ?」<br />
「ねえねえ、バーラタには山みたいにでっかい生き物がいるって、ほんとう?」<br />
「あ、いや、それは……」<br />
象のことだろうと思ったが、山ほどではない、と答えようとしたら、すでに子供たちの間では言い争いが始まっていた。<br />
「そんな生き物、いるわけねえじゃん!」<br />
「いるよ!」<br />
「いないよ!」<br />
男の子と女の子が言い争いをはじめ、それぞれに味方するグループに分かれた。それもスサノヲを間に挟むように。左右からの甲高い子供の声に鼓膜が痛いほどだった。<br />
「やーめーろっ!!」ひときわ大きな声で割って入ってきたのは、クシナーダよりも少し若いくらいの少年だった。「お客人が困ってるじゃんか! アシナヅチ様だって言ってたぞ。熊の何倍も大きな、鼻の長い生き物がいるって」<br />
そうそう、それそれ、と思う一方で、スサノヲは不審にも思った。この島国の住人が、なにゆえに大陸の巨大生物のことを知っているのか……。いや、向こうへ渡って帰ってきた人間がいるのかもしれないし、もしかしたら伝聞としてはここまで知れているのかもしれない。<br />
「オシヲ、アシナヅチ様をお呼びして」クシナーダが言った。<br />
「わかった」声の大きな少年は、踵を返した。<br />
オシヲは柱の向こう側の小屋へ向かい、それとすれ違いに男が一人やって来た。<br />
「クシナーダ、誰だ、そいつらは」<br />
血気盛んで、腕っぷしにも自信がありそうな面構えだった。<br />
「イタケル、こちらはみかほし様とスクナです」<br />
「スサノヲ」と、訂正を入れた。<br />
「あ、そうです。この世でのお名前はスサノヲ様」<br />
クシナーダはそんなことを平然と言い、スサノヲを驚かせた。<br />
「船が難破されたとかで、難儀されておられました」<br />
説明を聞き、ふうん、とイタケルは眉を上げた。<br />
「スサノヲ――またふざけた名前を名乗りやがって。最近は大陸から次々とわけのわからん奴らがやって来て、このワの国を引っ掻き回してばかりだ。おめーも、そんな連中の一人か」<br />
あながち的外れな推測ではなかった。<br />
「そうかもな」<br />
「ほう。おめーもこの国に取りつく疫病神か」<br />
「イタケル……」クシナーダがいさめようとする。<br />
「疫病神というのなら、そうかもな」スサノヲは言った。「それも最強の疫病神かもしれん」<br />
イタケルの眼が剣呑さを鋭く増した。「なら、すぐに出て行ってもらおうか」<br />
「そうは行かない」<br />
「なんだと?」<br />
「お前には関係ない。祟られたくなかったら黙っていろ」<br />
「祟るだと?」<br />
「俺は疫病神なのだろう? 祟るかもしれんぞ」<br />
「面白え。祟ってみろ」とは言いながら、イタケルの表情はこわばり、少しばかり青ざめていた。<br />
「俺の祟りはわかりやすい」<br />
<br />
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<br /></div>
<br />
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<br />
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<br /></div>
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">
「おやめなさい」</div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">
クシナーダのふわっとした声が、握り固めた拳を相手の顔面に叩き込んでやろうというスサノヲの意欲を挫いた。</div>
「イタケル、失礼ですよ。スサノヲ様も、争い事を起こしては、あなたがお困りになるのでは?」<br />
その通りだった。スサノヲはヨモツヒラサカの場所を知りたくてついてきたのだ。<br />
「クシナーダ、こんな流れ者、むやみに信用するな」と、イタケル。<br />
「あら、悪い人ではありませんわ。現にこの子を助けて連れてきてくださったのですから」<br />
クシナーダはそっとスクナの肩に手を置いた。<br />
「坊主、どこの子だ」<br />
イタケルは膝を折り、スクナと同じ目線になった。スクナは少し後ろへ身を引く。<br />
「……ナの国」<br />
「この子は女の子だ」と、スサノヲ。<br />
「そうなのか?」<br />
イタケルは、顔をよく見るためにスクナの髪をかきあげようと手を伸ばした。スクナはスサノヲの背後に回って隠れた。すっかりスサノヲは庇護者にならされてしまっていた。<br />
「この子の面倒をこの里で見てやってくれないか。両親も一緒に船に乗っていたんだが、行方が分からない」<br />
「それはかまわないと思いますが……あ、アシナヅチ様」<br />
クシナーダが礼の姿勢を取って迎えたのは、杖をついた白髪白髭の老人だった。先ほどの声の大きな少年、オシヲとやって来る。ほかの里人たちは――子供たちに至るまで――、老人に多大な敬意を示した。里の首長だとはっきりとわかる。<br />
「アシナヅチ様、こちらはスサノヲ様。そしてスクナ……」<br />
これも白くなった濃い眉毛の下で、アシナヅチの眼がスサノヲを静かに見つめた。<br />
「どこからまいられた」<br />
「カラ国から」と、スサノヲは答えた。<br />
「その前は?」<br />
「大陸の西のほうだ」<br />
「その前は?」<br />
「…………」<br />
――こいつ、視(み)えているのか?<br />
そんな疑念がよぎった瞬間、里人たちに混乱が生じた。悲鳴が上がり、走り回る人影が交錯した。<br />
「なんだ?」イタケルがいち早く反応した。<br />
剣を持った男たちが十数名、里に乱入してきたのだ。しかし、彼らは襲ってきたという印象ではなかった。むしろ、何かから逃げ回っているような必死な形相をして、喚き散らしながら、剣をふりまわし、里の中へなだれ込んできたのだった。血を流し、傷ついている者もいた。<br />
「オロチのやつらだ」<br />
イタケルが猛然と走り出した。そこらへんにあった棒切れを手にし、対抗しようとする。が、彼が暴漢たちのところへ到着する前に、暴漢たちの背後におよそ倍はあろうかという軍勢が出現した。そのうちの半数が前面に出て、弓矢をつがえた。<br />
「放て!」<br />
いっせいに矢が射かけられた。ざあっと降り注ぐ矢は暴漢たちの背後から急襲したが、そのうちの何本かは里人を傷つけた。一本はイタケルの頭部をかすめたものもあった。<br />
クシナーダが衣を翻し、走りだした。傷ついた里人のところへ助けに向かったのだ。<br />
「かかれ!!」<br />
号令と共に、整然と隊列を保っていた軍勢は、一気に押し寄せた。見るからに鍛えられた剣を抜き、生き残った者を次々に血祭りにあげて行った。統制され、訓練された兵士たちだった。<br />
武装も異なる。兵士たちは金属製の甲冑を身に着けていて、盾さえ用意していた。だが、暴漢たちは皮の衣を身にまとい、できの悪そうな剣くらいしか持ち合わせておらず、剣戟では折れることすらあった。<br />
混乱した現場から里人が逃げ出していく。しかし、矢で脚を射抜かれた老人は身動きができなかった。クシナーダが駆け寄る。<br />
そのすぐそばで、今まさに甲冑の兵士が敵を切り殺すところだった。返り血を浴びた兵士はぎらつく眼を、クシナーダと老人に向けた。<br />
「お前らもオロチかぁ!!」<br />
剣をクシナーダに向けた瞬間、その兵士は吹っ飛んでいた。走り込んできたスサノヲの掌底が、わき腹を強打したのだ。<br />
それに気づいた数名が、スサノヲに対して反射的な敵意を向けた。左右、そして正面から取り囲む。傷ついた老人とクシナーダが動けないため、スサノヲはその場からは離れられなかった。考えるより早く、すっと身を低くした彼の右脚が地の上を弧を描いて一閃した。正面の兵士がそれで足元をすくわれて倒される。同時に彼は兵士の剣を奪い、回転することで視野に入った左右の兵士の一人の剣を弾き返し、もう一人は胴を蹴り飛ばしていた。<br />
「やめろぉ!!」イタケルが叫んだ。彼は殺された暴漢の剣の一つを奪い、スサノヲのそばに駆け込んできた。「なんなんだ、てめーらは!?」<br />
そのときにはすでに、最初の暴漢たちは全滅していた。ほんのわずかな時間の出来事であり、後から攻め込んできた軍勢にはただ一人の負傷者もなかった。スサノヲに弾き飛ばされた者以外は、すべて地を踏みしめて立っている。<br />
「ここはオロチ国の領土か」<br />
一人の背高い男が、前に進み出てきた。隊長格と思われる男は顔面に刀傷を持つ隻眼の男だった。<br />
里人の大半は、周辺の小屋に逃げ込んでいた。だが、腰を抜かしたようにその場に釘付けになっている者もいる。<br />
「答えよ」<br />
いつの間にか、アシナヅチが前へ進み出ていた。「ここはワの民の村、トリカミの里じゃ」<br />
「ワの民? オロチ国ではないのだな」<br />
「そっちこそ何者だ?!」イタケルが憤りをみなぎらせて言った。「このような傍若無人、許さんぞ!」<br />
「われらは神の民、カナン」<br />
「か、神の民だと?」<br />
あッ、と軍勢の中で声をが上がった。<br />
「どうした、モルデ」隊長格が振り返る。<br />
最初にスサノヲが掌底で突き飛ばした兵士を助け起こそうとしている一人が、驚きの眼でスサノヲを見ていた。<br />
「あなたは……スサノヲ様」<br />
スサの街で、エステル、エフライムと一緒だったモルデだった。彼はスサノヲのことを半ば気にしながら、「カイ、大丈夫か」と倒された弟兵士を気遣いながら立ち上がった。<br />
「モルデ、知っているのか」<br />
「ヤイル、この方こそ、スサでエステル様と私をお助け下さったお方」<br />
「エ、エフライム様に似ている……」<br />
ヤイルははたと気づいたように、スサノヲの顔をまじまじと見つめた。<br />
暗雲がにわかに濃くなった。<br />
そのとき馬に乗った人物が、数名の取り巻きを従えて里に入ってきた。甲冑に身を包み、腰には大ぶりな剣を帯びていた。<br />
「エステル様……」と、モルデ。<br />
馬上の人物はエステルだった。<br />
軍神――それも女性の軍神といった言葉がふさわしかった。カナンの兵士たちはエステルの入場に、皆、腰を落とした。<br />
馬を停め、エステルは周囲の状況を確認していた。そして……<br />
「お前は……」<br />
鞍から飛び降りた。そしてモルデと目を合わせた。<br />
「エステル様、スサノヲ様です」<br />
「まことか……。こんなところで会おうとは……」<br />
「奇遇だな」スサノヲは周囲の惨状をあえて見ながら言った。「ずいぶん派手なご登場じゃないか。会う場所では、かならず流血があるな」<br />
エステルは言葉に詰まった。「……こんなところで、そなたは何をしている」<br />
「俺はただ目的の地に辿りついただけだ」<br />
「では、そなたが言っていた〝ネの片隅〟というのもここだったのか。なんという偶然だ……」<br />
「そうやって侵略しているところを見ると、あんたらが言っていた〝約束の地〟というのもここらしいな。このワの国を征服しようとしているのか」<br />
征服という言葉に、その場に残っていたワの民たちに動揺が走った。<br />
「なんだとぉ?」イタケルが気色ばんだ。<br />
「当たり前だ」エステルは傲然と言い放った。<br />
<br />
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</div>
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<br />
「この葦原の国、ワの国は、われらのために神がお約束された〝もう一つ土地〟だからな。われらにはここを支配する権利がある」<br />
「ふざけやがって……」<br />
エステルはイタケルの怒りなど歯牙にもかけず、柱の立つ広場の中央、高台へ登って行った。そしてあたりを俯瞰(ふかん)した。<br />
雷雲がいつの間にか立ち込めていた。遠雷が響く。<br />
「ここは良いところだ。実りが多く、清らかな水が流れる土地。このような土地が、この地上にあろうとは……。こここそが、神のお約束されたカナンの地なのだ。ここにわれらはかつての栄華を極めた王国を再建する」<br />
エステルは腰に帯びていた長剣を抜き出した。そして、それを大地に突き立てた。あたかもその行いに呼応するように、すぐ近くで雷光が輝き、大空全体を轟き震わせた。<br />
「われらはこの国を貰い受けに来た。死にたくなければ国を譲れ。神の名のもと、この国の正統なる所有権はわれらにある!」<br />
「お前らの言う神ってのは、いったいどの神じゃ!」イタケルが噛みつくように言った。「山の神か、川の神か、それとも雷の神か!」<br />
「神は一つしかおわせぬ! どれもこれもない!」<br />
「他は否定するか」と、アシナヅチが言った。<br />
「当り前であろう」<br />
「それではやがてわが身を滅ぼす」<br />
「なに?」<br />
アシナヅチはスクナを連れ、そばまでやって来ていた。彼はオシヲほかの残っていた者に負傷している里人を運ばせ、治療するように指示した。クシナーダのそばにいた老人も運ばれていく。<br />
「そなたらは大陸のはるかか西のかなたからやって来たのであろう。国を奪われ、長く虜囚の憂き目に遭い、もはや帰るべき土地も多くの異民族に占拠されておる……」アシナヅチは瞑目していた。が、彼は何かを視ているようだった。「列強の国々が支配を繰り返す中、そなたらは故郷の土地で、その〝神の王国〟を再建することをあきらめ、別な土地を求めてここまで来た。そうであろう」<br />
エステルたちはしばし絶句していた。アシナヅチの言葉がことごとく的中していたからだ。<br />
「そなたらは根本的な考え違いをしておる」<br />
「なんだと?」<br />
「国や土地を得るためには、奪い取らねばならぬ。そう思うておるのであろう? 目には目を歯には歯を」<br />
「…………」<br />
「この国の土地は誰のものでもない。皆このワの島国で共に生きる。ただ、それだけのことじゃ。この島国は、はるかな昔より、多くの民が流れ着き、そしていつの間にか一つになって暮らしてきた。南方より黒潮に乗って来た者、凍てついた雪と氷の大地より下ってきた者、稲を持って渡来してきた者、そしてわれらのように古(いにしえ)よりここで暮らす者……。ここで生きれば、皆、共にワとなる。この国がワの国と呼ばれるのはそれゆえ。それゆえに――」<br />
「ゆえに?」<br />
「そなたらもここで共に生きるがよい。ただ、それで良い」<br />
アシナヅチの論法は、エステルのこれまでの理解を完全に超えたものだった。どう反応したらよいのか迷った挙句、彼女は笑った。<br />
「ふ……ははは。ワの民というのは、つまり争わぬということか」<br />
「さよう。そなたらと争う理由がない」<br />
「理由はあるぜ!」イタケルが言った。「こいつらは里の人たちを傷つけやがった!」<br />
アシナヅチは杖を持つ手で、イタケルを制した。<br />
「その若者が言うことには理がある。悔しければ戦ってみよ。そのほうが現実が骨身にしみるだろう」<br />
エステルは地に刺した剣を抜き、そしてそれをイタケルやアシナヅチに向けた。<br />
「やめろ」スサノヲが言った。「エステル、見ての通りだ。この小さな村には、ろくな武器もない。あるのなら、とっくに持ち出してきているだろう。平和に暮らしている人々から土地を奪わずとも、お前の目的は達せられるのではないか」<br />
「そうも行かぬ」<br />
「なぜ?」<br />
「この地は戦略上、重要な場所だ。東のオロチ国と対峙していくためには、ここを抑えておいたほうが良い。東西だけではなく南北にも通じる道がある。そのために今日は、この近くのオロチの重要拠点を叩き潰したのだ」<br />
「どうあってもここを取るつもりか」<br />
「取ると言ったら?」<br />
スサノヲはスクナが自分を見つめているのに気付いた。それは救いを求める者の眼だった。クシナーダもじっと見つめていたが、彼女の眼差しは色が違っていた。救いを求めるのでもなく、ただスサノヲの為すことを追いかけようとするものだった。<br />
「――ならば、仕方ない」<br />
スサノヲの姿はその場から消えた。人々は眼を疑ったであろう。彼はろくな助走もなく、ひとっ跳びにエステルの立つ場所まで飛びあがっていた。<br />
そして、すでに彼女の喉元へ剣を突き付けていた。<br />
「エステル様!」<br />
兵士たちに動揺が走った。<br />
「兵に引くように命じろ」と、スサノヲは言った。<br />
エステルは青ざめていた。スサノヲの常人ならざる速度は、スサの地で一瞥したものだったが、まざまざと自分の身でその恐ろしさを味わわされていた。<br />
「私を殺したところで、カナンの理想は潰えない。ヤイルやモルデがかならずこの国を制圧するだろう」<br />
「それは不可能だ」<br />
「なぜ、そう言える」<br />
「お前は知っている。俺がたった一人でも、お前の仲間を全滅させられるのを」<br />
それは掛け値なしの真実だった。<br />
「俺を敵に回さないほうがいい。でないと、神の王国どころではなくなるぞ」<br />
再び雷光と轟が生じ、二人の横顔を染めた。<br />
「……いいだろう」エステルの顔が笑みを浮かべた。ゆっくりと自分の剣を鞘に収める。<br />
それを見て、スサノヲも剣を引いた。<br />
「皆の者! 剣を収めよ!」<br />
エステルの命令で、兵士たちは安堵した。<br />
「そなたにはスサでの礼もできていない。そなたがそこまでご執心なら、この里には手を出さずにおく」<br />
「感謝する」<br />
「あのときの剣はどうした?」エステルはスサノヲの手元や腰回りを見て言った。<br />
「ああ、舟が難破して、一緒に海の中だ」<br />
「ならば、これを使え」と、エステルは自分の剣をベルトごと外した。「わが一族に伝わる霊剣だ。弟の形見だがな」<br />
「エ、エステル様、それは――」と、ヤイルが近寄ってくる。<br />
「よい――。さあ、これを使え」<br />
「いいのか?」<br />
「スサで一度、今日で二度、命拾いをさせてもらった。弟も喜ぶだろう。それに、その剣、私には少しばかり重くてな」と、苦笑する。<br />
「ならば、遠慮なく」スサノヲは長剣を受け取った。<br />
「だが、覚えておくがよい」その言葉はスサノヲだけに向けられたものではなかった。アシナヅチ他、ワの民にも発せられたものだった。「われらはこの島国に、カナンの王国を築く! 邪魔するものは容赦なく滅ぼす! 肝に銘じておくのだな!」<br />
エステルは高台を降りて行った。馬に飛び乗ると、号令した。<br />
「行くぞ!」<br />
カナンの軍勢は整然と里を出て行った。一度、モルデが振り返るのが目についた。<br />
雨が降り始めた。最初はパラパラッとだったが、すぐに切って落とされたような豪雨になった。アシナヅチの命で、殺された者たちが運ばれていく。どこかで弔われるようだ。<br />
びしょ濡れになって、スクナとクシナーダが待っていた。<br />
スサノヲは二人のところへ降りて行った。<br />
<br />
<br />
5<br />
<br />
人の気配がして、近づいて来るのがわかった。ばさっと近くの岩場に、衣類が放り投げられた。<br />
「着替えを持ってきてやった」イタケルだった。<br />
「ありがとう」<br />
「クシナーダに言われたからな」言い訳じみた言葉を口にし、彼は自分も着ているものを脱ぎ捨て、湯溜まりに飛び込んできた。<br />
渓流沿いに湧いている温泉の溜まり場で、スサノヲは湯船に身体を沈めていた。川から引きこむ水量が調整されていて、程よい温度だった。これまでの旅で、一度も味わったことのないような湯浴みだった。身体の芯からほどけていくような心地よさである。<br />
雷雨は、今は去っていた。ザーッという渓流の響きが、夕暮れの渓谷を満たしている。<br />
「俺はお前のことを信用したわけじゃないぞ。ほかの連中は、里を救ってくれたみたいに思ってるが」イタケルは乱暴に顔を洗った。「今日、お前が里に来る直前に地震(なえ)があった。そしたらあいつらがやって来た。あのカナンとかいう連中が。俺にはお前が災厄を連れてやって来たようにしか思えねえ」<br />
スサノヲは無言だった。イタケルの言葉は、さして間違っていないように思えた。これまでの旅の途上でも、似たようなことは幾度もあったからだ。<br />
「災厄というのはもっとほかにもあるのだろう?」スサノヲは言った。「〝オロチ〟とか言っていたが」<br />
「ああ。オロチはここ何年かででかくなった国だ。最初はもっとずっと東のほうにできた、小さな国だった。大陸を追われてきた連中だ。だが、クロガネを作り始め、たちまち周辺の国々を侵略し、まとめ上げていった」<br />
大陸から鉄器製造の技術を持った集団が渡来し、勢力を拡大しているということらしかった。<br />
「クロガネはすげえ。うちの里でもクワやスキに少し使うようになったが、まだほんの少しばかりだ。石や木で作った武器なんかじゃ、とても太刀打ちできねえ」<br />
「この里では作れないのか」<br />
「アシナヅチが許してくれない……」悔しげに言った。「作り方はだいたいわかっているんだ。里の中にも知っている人間がいる」<br />
製鉄の技術は大陸ではすでに広く知れ渡っている。この世界の果ての島国には、まだ到達したばかりという状態らしかった。<br />
「オロチ国はこの周辺に手を伸ばしているのだろう? エステルが近くの拠点を叩いたと言っていたが」と、スサノヲは尋ねた。<br />
「ああ」<br />
「ならば、なぜここはオロチの支配下に入っていない?」<br />
「ここは……特別なんだ」<br />
「特別?」<br />
「ああ、特別だ」イタケルはそっぽを向いていた。喋る意志はないという表明のようだった。<br />
スサノヲは湯船から出た。手拭いで身体を拭いていると、湯船の中からイタケルが言った。<br />
「あのカナンの連中とは、どういう関係なんだ」<br />
「カナンのエステルとは、ずっと西のほうの街で出会った。そのときあのお姫様の弟が殺され、俺は彼らを助けた」<br />
「なるほど。それであいつらは、あんたの頼みで、この里から手を引いてくれたってわけか」<br />
「そういうことだ」<br />
「あんた、いったい何者だ。どこから来た?」<br />
「逆に訊きたいが……」スサノヲはイタケルを見た。「お前は自分が何者なのか、答えられるのか」<br />
「え? お、俺か? 俺はこのトリカミのイタケルよ。いずれワの島国を一色(ひといろ)に染め上げる男よ」<br />
「国を一色に……」スサノヲは空を仰いだ。「なかなか野心的だな。つまりそれはエステルやオロチと同じことをやろうとしているということだな」<br />
「あたりめーだ。いつまでもいつまでも、やられてばかりじゃねえ。俺はあのオロチの奴らを、いつか滅ぼしてやる……」イタケルの眼に剣呑な光がぎらついた。口の端から、憎しみがこぼれ出ていた。<br />
「オロチに恨みがあるのか」<br />
「オロチには何人も殺された……」<br />
スサノヲは新しい衣を身に着け終えた。ほかの里人が身に着けていたようなシンプルな麻の貫頭衣ではなく、おそらく大陸から渡来したものだろう。金糸の刺繍があった。<br />
「このところ、ワの国は争いばかりだ。どこでもかしこでも戦(いくさ)ばかりやって、悲しい思いをしている人間が大勢いる」<br />
「それでお前は、自分が支配者になって、争いをなくしたいと?」<br />
「その通りだ。なあ、あんた――」イタケルの口調は、だんだん馴れなれしくなってきた。「その剣、一本、俺にくれないか」<br />
スサノヲはカナンの兵士から奪い取った剣とエステルから与えられた剣の二本を持っていた。エステルから与えられた剣を手にし、もう一本は、そのままイタケルの衣類のそばに置いた。そして、その場から離れた。<br />
「すまねえ! ありがとうよ! 恩に着る!」<br />
背後に聞くイタケルの声には、本当に感謝があふれていた。それだけ、これまでに悔しい思いを繰り返してきたという証明だろう。<br />
<br />
クロガネ。<br />
<br />
この島国は今、その力によって翻弄されているのだった。<br />
この、おそらくはもとは静かで平和だった国が。<br />
<br />
<br />
里の中心に戻っていくにつれ、あるリズムを持ったヒビキが大きく聴こえるようになった。鐘の音、太鼓の音、そして笛の調べ。<br />
スサノヲは目を奪われた。夕闇が濃くなりつつある時刻、四方に炊かれた篝火(かがりび)の中、人々が里の中心に聳える大きな柱のまわりを取り囲み、ゆっくりとある所作を繰り返していた。ひざまずいて両手を空へ捧げ上げるような動作を繰り返し、そして立ち上がる。ゆっくりと柱を中心に、所作を変えながら弧を描いて歩を進める。<br />
里の中心が打ち立てられた柱であるのは明白だった。三重円の環状路が出来上がっていたのは、このためだったのかもしれない。里人たちはこぞって外に出て、三重の円になって柱のまわりを回っている。ある時は反転して逆回転になり、ゆったりとした動きから、にわかに打ち寄せる波のように足早に回ったりもする。<br />
不思議な踊りだった。単調なようでして、強弱もリズムもある。難しい所作は何もない。<br />
中心には八人の乙女たちがいた。彼女らは柱のすぐそばで同じように舞っている。<br />
その中の一人にクシナーダがいた。<br />
<br />
神々(こうごう)しかった。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<br />
<br />
自分がそのような感想を抱くことに、スサノヲは激しい動揺を覚えた。ほかの乙女たちともクシナーダは格段に違っていた。一人だけ目に見えるがごとくオーラを放ち、彼女の周囲には違った空気が流れていた。ものみな浄化するような、澄んだ清流のごとき〝気〟だ。<br />
それは舞いと共に周辺に広がっていく。柱に一番近い円へ、その外側へ、さらにその外側へ。その波動は、スサノヲの立っている場所にも届き、彼はみずからが洗い清められるのを感じた。<br />
息を呑んだ。<br />
いまだ曇天であったはずの空が割れ、星空が顔を見せた。最初は月光かと思われたが、空に月はない。そうではなく、柱の上空から光の粉が降って来るのだ。<br />
「なんだ、これは……」思わずつぶやいた。<br />
「巫女様が亡くなった人を霊(たま)送りしてるんだよ」<br />
いつの間にか、スクナがそばに来ていた。顔や身体をきれいにして、着替えを済ませているため、少女らしくなっていた。<br />
「霊送り?」<br />
「あたしも初めて見た。あたしの国の巫女様は、ここまですごいことはできなかった」<br />
空から降りて来る光はどんどん強くなった。錯覚ではない。はっきりと肉眼で見えるような神々しい光は、白というのか白金のような輝きを帯びて、柱を中心にふわっと広がって行った。<br />
ぽつ、ぽつ、と新たに地上から光が出現した。それは里人数人が役目として抱え持っていたようだ。彼らの手を離れた光は鈍い光で、まるで自信なさそうな浮揚の仕方をした。<br />
降りてきている光の中から、もっと明瞭な光の珠が出現し、その鈍い光たちを迎えた。<br />
――人?<br />
そう。目を凝らすと、なぜかその光はいずれも人の形にも見えた。<br />
天から降りてきた光は人形(ひとがた)となり、そして鈍い光もまた人形となった。鈍い光はさきほどカナンの兵たちによって殺害された者たちだとわかる。それを迎えに来たのが、まばゆい光たちなのだった。<br />
クシナーダが鈴を鳴らした。<br />
<br />
シャンシャンシャン!<br />
<br />
里人たちが地から天へ送るようなしぐさを繰り返す。<br />
それからは素早かった。鈍かった光たちはたちまち輝きを増し、迎えに来たまばゆい光たちと一体となり、柱の上空へと駆け上って行った。<br />
そして、不思議な光は消えた。<br />
スサノヲは唖然としていた。多くの国、民族を見てきたが、このような鎮魂の儀式を執り行っている民にはお目にかかったことがなかった。しかもただの形式的な儀式ではなく、圧倒的な霊的リアリティを持っていた。<br />
まるで魔術だ。しかし、魔術というには、この場の雰囲気はあまりにも神聖で清らかだった。<br />
里人たちが役目を終え、散開し始める。クシナーダが柱の立つ高台から降りてくる。<br />
「湯浴みはいかがでしたか」と、笑顔で言う。<br />
「ああ、いい湯だった」<br />
「お似合いですよ」とも笑う。着替えのことを言っているのだ。<br />
「こんないい服を、いいのか」<br />
「それはアシナヅチ様がお若い時、大陸の……ええと、なんとかという皇帝から頂いたものだそうです」<br />
「ということは、アシナヅチもずいぶんと高貴なお方なのだな」<br />
「アシナヅチ様のお力は知れ渡っておりますから。さあさ、こちらへ」<br />
篝火が集められ、宴が用意された。里人たちは共同作業に長けていて、なんでも自然に連携できるようだった。子供から老人まで、自分ができることは率先してやっている。基本的に年寄りは敬われ、大切にされていた。しかし、元気な者は老人でもよく動いた。<br />
クシナーダはそんな中でも、よくくるくると動いた。ほかの里人は、若くともクシナーダに格別の崇敬をやはり抱いているようだった。この点は一緒に舞っていた他の乙女たちも同じで、彼女たちも「クシナーダ様」と呼んでいる。同じような巫女としても、すでに備わった格の違いは、権威としてではなく静かな物腰の中に自然体でにじみ出るようだ。だが、クシナーダ自身にはお高く留まったところはまったくなく、自分にできることはなんでもやっていて、焚火に入れる薪を大量に抱えて歩いてきて、他の者を逆に慌てさせたりしていた。<br />
その頃にはイタケルも戻って来ていて準備を手伝っていた。<br />
「スサノヲ様、さあ、こちらへ」<br />
「どうぞどうぞ!」<br />
乙女たちがスサノヲを席に案内した。異国から到来した若い男に、好奇心で輝く眼を隠そうともしない。<br />
やがてあたりには根菜やキジ肉を入れた鍋や焼けた魚の食欲をそそる香りが立ち込めはじめ、どこが始まりなのか分からないような流れで宴になっていた。<br />
酒がふるまわれ、笑い声も弾けた。<br />
「さあ、どうぞ。召し上がってくださいな」クシナーダが鍋の中身をよそった土器とお酒の入った竹のコップを持ってきた。「ミツハ、スクナにも」<br />
もう一人、ミツハと呼ばれた娘がスクナにも食事を運んでくる。<br />
「さっきはありがとうね」と、ミツハがスクナに言った。<br />
なんのことかと見ていると、クシナーダが説明した。「さきほど、怪我をした者のために、薬草を集めてきたりしてくれたのです。おかげできっと、傷の治りも早いでしょう」<br />
ああ、とスサノヲは納得した。<br />
「この子はすごく賢い子です」ミツハが感嘆する。「本当になんでもよく知っています」<br />
「坊主……じゃなかった。女の子だったな」イタケルがそばに腰を下ろして言った。「おめー、ナの国の人間なんだよな。どうする? 落ち着いたらナの国へ戻るか?」<br />
スクナは食べようとした鍋の器を膝の上に置いた。<br />
「どうした? 戻るなら、俺が送ってってやるぞ」<br />
「戻っても……誰もいない」<br />
「先ほどちょっとこの子から聞いたのですが」クシナーダが言った。「ご両親と三人で、しばらく大陸を旅されていたようです。ワの国に戻るのも三年ぶりとか。ナの国に戻っても、頼れる人がいないのでしょう」<br />
「なら、ここで暮らすか? おめー、頭がいいし、役に立つ。みんな、喜ぶぜ」<br />
「ほんとう……?」スクナはイタケルやクシナーダの顔を見た。<br />
「もちろんですよ。ここでお暮しなさいな」<br />
スクナはスサノヲのことも見、そして表情を明るくした。<br />
「よかったな、スクナ」と、スサノヲは言った。<br />
歌声が湧いた。男たちが歌い、女たちが踊る。先ほどまでの神聖な雰囲気とは違い、ぐっと砕けた調子で、男と女の恋歌が物語調に語られる。引き裂かれた男女の悲しい物語だったが、どこかユーモラスだ。ひょうきんな動きの男が踊りに加わり、笑い声がどっと弾ける。<br />
陽気な民だった。<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚遠く離れてしまった<br />
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ<br />
゚・*:.。..。.:*・゚空のかなたに昇って<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚二人隔てる天の川<br />
゚・*:.。..。.:*・゚涙が流れを深くする<br />
゚・*:.。..。.:*・゚想いの笹船流す日々<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚一年(ひととせ)に一夜だけ<br />
゚・*:.。..。.:*・゚川を渡るほうき星<br />
゚・*:.。..。.:*・゚たった一夜の逢瀬の時……<br />
<br />
「古くから伝わる歌です」クシナーダが説明する。「天の川をはさんで輝く二つの星の物語です」<br />
「天の川……」<br />
空を仰ぐ。気が付くと、上空はすっかり晴れていた。そこには空を渡る、大きな星々の流れが広がっていた。<br />
「引き離される悲しみは、恋だけではありません。天と地に引き離される、死の別れもあります。だから、いつも霊送りをした後は、こうやってこの歌を歌って宴をするのです。今日はスサノヲ様の歓迎もありますが」<br />
「霊送りと言っても、送ったのはあのオロチとかの連中の魂だろう」<br />
「そうですね。さいわい里人には亡くなった人はいませんから」<br />
「オロチの連中の霊送りなんて、してやらなくていいんだよ」イタケルはぶすっとしている。<br />
なるほど、それで湯浴みで時間をつぶしていたのかと思えた。<br />
「あら、亡くなれば、みな、同じです。帰るところも同じ」<br />
「身内が亡くなっても、こんなふうに騒ぐのか」と、スサノヲは訊いた。<br />
「はい。もちろん泣きもしますよ。でも、わたくしたちは知っているのです」<br />
「知っている? なにを?」<br />
「この地の者と天の者は、本当は離ればなれになるのではありません。この歌の隔てられた男女のように、悲しくもあり寂しくもありますが、いつでも想えば通じ、本当は会うこともできます。わたくしたちは皆、さきほど見た、あのような光です。それはオロチの者とて、例外ではありません」<br />
「俺は嫌だね」イタケルは酒をがぶりと呑む。「死んであいつらと同じところなんか行きたくねえ」<br />
「イタケル……」<br />
「クシナーダはなぜ奴らを許せる? アワジは奴らに殺されたんだぞ。イヨもオキも。ツクシ、サデヨリ、イキ、サド――みんな」<br />
そのとき初めて、クシナーダの表情は深く陰ったのをスサノヲは見た。悲しみ、憂悶。そんな色がありありと浮かんでいた。巫女として精神性の非常に高いところに上り詰めたであろう、そんな彼女でさえ、やはり人間的な葛藤は残しているのだ。<br />
「アワジはクシナーダの実の姉だ」イタケルはスサノヲにも分かるように言った。「守ろうとしたクシナーダの両親もその時に殺された。俺は絶対に奴らを許さねえ」<br />
「オロチはなぜそんなことを?」スサノヲは訊いた。<br />
「わたくしたちはこのワの島国でも、もっとも古くからの民です。わたくしたちは特別な役目を持って、このトリカミの地を守っております」<br />
「お、おい、クシナーダ」イタケルが慌てた。<br />
「いいのです、イタケル。すぐにお耳にも入りましょう。それに、この方には知っておいてもらいたいのです」<br />
「特別な役目というのは?」<br />
「それはスサノヲ様、あなたがこの地を訪れた目的にも関わっています」<br />
そのとき笑いで湧いていた宴の席が静まった。首長のアシナヅチが、近くの家屋から出てきたところだった。アシナヅチは身振りで他の者に宴を続けるように示し、再び歌声が響きはじめる。<br />
クシナーダは立ち上がって席を空けようとしたが、アシナヅチはそれも手で制して、自分はスサノヲの隣ではなく、顔を見やすい場所へ腰かけた。<br />
「まずは礼を言わねばならん。そなたがいなければ、あのカナンという者どもに、このトリカミは支配されてしまっただろう」<br />
ありがとう、とアシナヅチは頭を下げた。<br />
「いや……」<br />
「クシナーダから聞いておる。そなたはヨミの国へ行きたいのだそうだな」<br />
ぶーっと、イタケルが口にした酒を吹き出した。「な、なんだってぇ?」<br />
信じがたいという眼差しを向けてくる。正気を疑うと言わんばかりだ。<br />
「ああ。ヨミへ至る道、ヨモツヒラサカをクシナーダは知っていると言っていた。教えてもらいたい」<br />
「その身のままでヨミへ行けば、もはや生きて戻れぬやもしれん」<br />
「覚悟の上だ」<br />
「なぜ、ヨミへ行きたがる?」<br />
「…………」<br />
「愛する者がそこにおるのか」<br />
スサノヲは少なからず動揺した。<br />
「まあ、驚くようなことではない。古来、ヨミへ下った者は多くいる。その動機はほとんど同じ一つの理由じゃ」<br />
「じつはスサノヲ様」クシナーダが言った。「わたくしたちがこの地を守っているのは、そのヨモツヒラサカにも関わっているのです」<br />
「どういうことだ」<br />
「この地には神聖なる岩戸があるのじゃ。我らは代々、長きにわたりそれを守ってきた」<br />
アシナヅチとクシナーダは意を一つにしていた。そのことについてスサノヲに語るというのは、すでに彼らの間では取り決められていたものだったようだ。<br />
「その岩戸は天にもヨミにも通じておる。定められた時、それを開けば、ヨミへ至ることができる」<br />
「つまり……それがヨモツヒラサカ」<br />
「そういうことじゃ。ただし、開けることはわれらにしかできぬ。その場所を知ったところで、そなたが単独で扉を開けることはできぬ。いかに天界より下った者であってもな」<br />
「!」<br />
「まあ、そう驚くでない。そなたがやって来ることは、以前よりわかっておった」<br />
「て、天界より下った?」<br />
驚いているのはイタケルとスクナだった。クシナーダにとっては周知の事実だったようだし、近くに同席していたミツハという巫女も、なんらかの事前の知識があったに違いなく、さして驚いてはいなかった。<br />
「魂は、人を介し、母の胎(はら)を通じてこの地に生まれる……。しかし、ごくまれにそなたのような存在が、地に現れることがある。そう、何千年かに一度のことではあろうが」<br />
「驚いたな……」スサノヲは動揺を静めながら、苦笑を浮かべた。「とんでもない爺さんだ」<br />
「伊達に長生きはしておらぬゆえにな。それにわしの眼には過去未来、あるいは遠くのあの輝く星の様子でさえ映る」アシナヅチは杖を持ち上げ、天を示した。「星々の多くはまあるい玉の形をしておる。わしらが住むこの星も、あれらと同様。海よりさらに大きな、果てのない世界の中に、われらの星がある。われらはこの星の片隅で、命を与えられて、束の間の時を過ごしておる」<br />
心底、驚嘆すべき老人だった。スサノヲは多少の通力を得た人間には出会ってきていた。しかし、アシナヅチのように正確な世界観を持つ人間には、まったく出会ったことがなかった。彼はこの時代の人類が持つ認識を、はるかに超えた知恵を持っていた。<br />
「この星の寿命から見たら、人の命などはかないもの。それはカゲロウほどの長さもあるまい。しかしな、人の命のつながり、想いのつながりは、この星空にも匹敵する。なかなか馬鹿にはできぬものじゃ。人はやがて星の海へも旅立つ時が来る。しかし、その前に荒々しい時代に終止符を打ち、真のワとならねばならぬ……。そなたがここへ遣わされたのは、そのためかもしれぬな」<br />
イタケルもスクナも、息を呑むように会話を聞いていた。スサノヲは酒を呑んだ。<br />
「――そんな遠い未来のことはどうでもいい。それはあんたらだって同じじゃないのか。未来がどうであれ、今ここにある問題を片づけることが大事だ。そうじゃないか」<br />
「いかにも」<br />
「あんたらは岩戸を守る民で、それはオロチの連中のやっていることとも関係しているのだな?」<br />
「このトリカミの岩戸を守るわしら、そして何よりも巫女は、このワの国の中でももっとも貴ばれておる。それは古くからこのワの国に住む民なら、皆、知っておる」<br />
「オロチの奴らはこの島国全体を支配しようとしている。次々にいろんな土地を奪い取って支配を広げるやり方に反発する者も多い」イタケルが鋭い目を焚火の炎に向けて言った。「だから、ワの民全部にとって大事なこのトリカミの巫女を、毎年一人ずつ略奪し、見せしめに殺した……」<br />
彼の記憶の中では、これまで奪われていった巫女たち、その死の様がよみがえっているのだろう。<br />
「オロチがここを直接支配せず、放っておくのは、ここが特別な聖地だからです。ここを略奪したら、ワの民すべての反感を買い、支配するのは難しくなります。そのかわり、わたくしたちは人質として残されているのです」<br />
「つまりあんた――クシナーダも狙われているということか」<br />
「きっとこの冬のうちに今度はわたくしが連れて行かれるでしょう」<br />
覚悟を決めているかのような、あきらめのような静かな様子だった。<br />
「そこでじゃ。スサノヲよ、交換条件じゃ」<br />
「交換条件?」<br />
「この地を守ってもらいたい」<br />
「このトリカミの地をか」<br />
「むろんそれもあるが、違う。このワの国を守ってもらいたい」<br />
「な……」<br />
「約束してもらえるかのぉ」アシナヅチはにっと笑った。「さすれば、ヨミへの岩戸を開こう」<br />
「ずいぶんと足元を見た条件だな」<br />
「おや、そなたならできよう」<br />
ワの国を守るというのは身一つに課せられるには、あまりにも広大な要求だ。いかにスサノヲでも。<br />
大陸に比べれば島国は小さなものだ。とはいえ、決して狭くはないだろう。その端々まで守るという約定は、ほとんど実行不可能なものに思えた。<br />
「そもそも、そなたには選択権などない」<br />
「なに?」<br />
「もうこのトリカミには岩戸を開けるほどの霊力を持つ巫女はクシナーダしかおらん。この娘(こ)が連れて行かれたなら、もはやそなたがヨミへ行くことはかなわなくなる」<br />
「それなら、なぜ約束などと……」<br />
「そりゃ、わしがしてもらいたいからじゃ。約束を」<br />
アシナヅチはにたにた笑っていた。恐ろしく根深い魂胆を秘めた、悪戯好きの老人といった感じだった。老人には、スサノヲがワの国全体を守るなど現実的には難しいとわかっているはずだった。彼の言葉の意味には、もっと深いものが隠されているような気がした。<br />
スサノヲはその深いところにあるものに対して答えを告げた。<br />
「わかった。約束しよう」<br />
「この約束を守るためには、そなたはかりにヨミへ行っても、かならず生きて帰ってこなければならん」<br />
「もとより死にに行くつもりなどない」<br />
「よかろう。それならば、そなたはふた月ほど待たねばならぬ」<br />
「ふた月?」<br />
「ちょうど今日は朔の日じゃ」<br />
新月ということだ。<br />
「この次、さらにその次の朔の日。月がなくなる日の夜が、もっとも昼が短い季節の朔の日じゃ。その日でなければ、ヨミへ通じるヨモツヒラサカは開かれぬ」よっこらしょ、とアシナヅチは立ち上がった。「それまで、この地でゆるりと過ごされることじゃ」<br />
そう言って、彼は背を向けて自分の家屋へ戻って行った。<br />
燃え上がる焚火の中で、何かが爆ぜた。その音で正気に返ったように、スクナがスサノヲの腕に触れてきた。スサノヲは少女の頭に手を置いた。<br />
見るとクシナーダは珍しく硬い表情の横顔を見せていた。焚火の炎はその大きな瞳と頬を、あかあかと照らしていた。<br />
<br />
<br />
<br />
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<a href="http://blog.with2.net/link.php?1759712:1664" style="font-size: 12px;">小説 ブログランキングへ</a>ZEPHYRhttp://www.blogger.com/profile/18267253818170282825noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-870645900423302834.post-88521145999399897442015-07-02T11:17:00.000+09:002016-12-02T21:42:48.149+09:00ヤオヨロズ第2章 巫女たち<br />
1<br />
<br />
――国を譲れ!<br />
谷あいにエステルの声が響いた。<br />
――この地は神がお約束された、われらが支配する土地! 国を譲れば神の民であるわれらの下で、そなたらも繁栄が約束されるだろう! しかし、拒むなら神の裁きが下されよう! さあ、いかがする!<br />
沈黙を守る砦と集落に、馬上のエスエルが号令をかけた。カナンの軍はいっせいに弓を放った。火矢である。火は集落の家屋、そしてみるみる小山に広がっていった。<br />
カナン軍は三方に分かれて待機していた。砦の南の正面、北の背後、そして東側にある山の中で。西側は川である。<br />
焼け出された村人が外に飛び出してきた。そこへ容赦なく、第二の矢が射かけられる。火の手が迫る砦からも決死の覚悟で国の兵士たちが飛び出してくる。三の矢が冷酷に放たれ、戦力を確実にそぎ落としたうえで、カナン軍は突撃をかけた。<br />
カヤの国はナカの国を南北に結ぶ要衝だった。豊かな河川とその周辺に広がる平野部に農耕で使用できる土地を持ち、また河川は物質の運送にも使用できる。その砦も川に沿って築かれており、自然の小山を利用した、ちょっとした要塞であるが、周囲からはやや孤立したような地形をしていた。つまり焼き討ちをかけても、焼かれるのは砦とその周辺にある集落だけに留まる可能性が高かった。<br />
ひと山焼き尽くす結果になったとしても、豊かな土地はまるまる手に入る。おまけに焼け出されてくる兵を叩けばよいのだから、カナン軍の戦力の損耗は最小限。<br />
きわめて冷徹な戦略だった。<br />
まともに攻めたなら、落とすためには犠牲も多く払わねばならなかっただろうが……。<br />
「楽勝ですな」と、ヤイルが馬を並べて言った。<br />
エステルは黙ってうなずいた。彼女の眼は見つめ続けていた。圧倒的な戦力差の前に滅びる国の様子を。自軍の兵士たちによって無残に殺される敵の民たちの姿を。<br />
「女子供は生かしてやれ。命乞いをする者にもだ。憐れみをかけてやることで、民は使えるようになる」<br />
「はい」<br />
カナンの戦略は巧妙で、ここまで実にうまく機能していた。エステルはかならず取ろうとする国に対して、事前に恭順の意思の有無を確認してきた。自らの戦力の優位性と高度な文化を示すことで、ワの民をできるだけ味方に付けた。<br />
ここでエステルたちにとって、きわめて都合の良い情勢があった。それは東のオロチ国が勢力を拡大し続け、危機感を持つ国々が多かったという現実だ。<br />
神の使者として、暴虐なオロチどもから民を救う。そのような触れこみに、藁をもすがる思いで同調する首長も少なくなかったのだ。結果、カナンは極めて短期間で勢力を増長させ、少なくともナカの国の西側の広範で、強力な基盤を作ることに成功した。<br />
<br />
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</div>
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<span style="color: purple; font-size: x-small;">※九州はツクシ、中国地方はナカの国、四国はイヨなどと呼称される。</span><br />
<br />
あくまでも恭順しないものに対しては、武力を持って制圧行動に出た。しかし、手加減も心得ていた。あくまでも抵抗し続けるなら、徹底的に滅ぼしたが、そうでなければ生かしてやる道を残した。<br />
それはモルデの進言によるものだった。<br />
「いかに半島から同胞を呼び寄せたところで、われらの数には限りがあります。この地の民はできるだけ恭順させ、われらの国家の支配下に組み込むようにしなければなりません。文化的に遅れた彼らをわれらの優れた信仰と文化で魅了するのです」<br />
武力で圧倒的できることを証明したうえで、文化的に高度なものを示せば、野蛮な民たちは尻尾を振る。むしろ喜んでそれを受け入れて生きようとする。<br />
そのような読みはまさに図に当たっていた。そのおかげで、ワの各地から招集した兵を訓練し、使うこともできた。<br />
半島からは今も次々に、カナンの民が移送され続けている。<br />
エステルはそうしたカナンの民の中でもリーダー格に当たる者を各地に手勢と共に送り込み、司政官として機能させた。生活を豊かにするための様々な利器と共に。ワの民は戸惑いながらもそれを享受し、支配を受けて入れて行った。<br />
こうして傘下に入った国々には、先にオロチ国の支配下にあったところも多かった。寝返った理由の多くは、オロチ国の支配が恐ろしく強圧的なもので、人々を苦しめていたからだ。オロチは鉄産地を中心に各地に拠点を広げ、その周辺の国々を力で従わせていた。クロガネ作りのために必要な資源や労働力を供出させ、作物も献上させている。そのために疲弊している国も少なくなかったのだ。<br />
オロチの打倒。<br />
それはエステルたちがこの国に根付くための大きな旗印ともなっていた。<br />
そうした戦略を練ることもできたのも、モルデを筆頭とする先発部隊の入念な諜報活動の賜物だったのだ。<br />
「川に逃げたぞ!」という声が上がった。<br />
見れば小山の砦を脱出したとみられる数名が、小舟で川を下っていた。エステルの本隊がもっとも近く、親衛隊の兵士たちが弓をつがえるなど動く気配を見せた。<br />
小舟に見える人影は、女性ばかりだった。三人いる。そのうちの一人、もっとも若い娘は白い衣と勾玉を身に着けた巫女だった。燃える砦を見つめ、彼女は喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。<br />
「お父様! お母様!」<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiwAM-jECr-XdKg513Zj0MCiDMDq9NzADsoDzoZWgX9NoYFGK3OBOg8B5eILjhCHFDScwo5pDVPK9fs6t-RoKpkVJi9_tvJa6rT6DPsRRksotC1oLtcervOn6FUljOJcI7hyzcT5-Qzmlo/s1600/%25E9%2599%25A5%25E8%2590%25BD.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="560" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiwAM-jECr-XdKg513Zj0MCiDMDq9NzADsoDzoZWgX9NoYFGK3OBOg8B5eILjhCHFDScwo5pDVPK9fs6t-RoKpkVJi9_tvJa6rT6DPsRRksotC1oLtcervOn6FUljOJcI7hyzcT5-Qzmlo/s640/%25E9%2599%25A5%25E8%2590%25BD.jpg" width="640" /></a></div>
<br />
<br />
<br />
今にも船から飛び出しかねないのを、他の二人の女性が懸命に押さえている。<br />
彼女らからもエステル隊の動きは目に入った。矢で狙われると覚悟した女の一人は、「ヨサミ様!」と叫び、巫女を守ろうと覆いかぶさった。もう一人は死を覚悟しながらも立ち上がり、棹を取った。川底を押しやって、舟を加速させる。<br />
しかし、矢は降ってはこなかった。馬上のエステルが叫び、兵士の動きを止めたのだ。<br />
炎に包まれた砦が崩れ落ちた。ものすごい黒煙と火の粉が立ち上る。<br />
「お父様……」巫女、ヨサミの心を絶望がつかんだ。滂沱と涙があふれ出す。「うわああ……ああ――ッ!!」<br />
川を下るにつれ、ヨサミの視野をエステル隊がゆっくりと過って行く。舟の縁を爪が食い込むほど握りしめ、ヨサミは〝敵〟を凝視し続けた。燃え上がる砦の手前、正面にエステルの姿が入る。涙は後から後からあふれ出してきて、ともすれば視野をぼやけさせてしまおうとするが、彼女は涙を振り飛ばすように首を振り、瞬きを繰り返しながら、歯を食いしばって、馬上で傲岸に見下ろすかのようなエステルを脳裏に焼き付けた。<br />
許さぬ……。<br />
巫女として生きてきた彼女の人生の中で、生まれて初めて感じる熾烈で濃い、血が滴るような憎しみだった。<br />
<br />
<br />
――キビの国、アゾ。<br />
夕刻には、小舟はそこへたどり着いた。キビの国はナカの国の中でも、屈指の強豪国家――いや、ワの島国全体でも大国の一つだった。ヨサミのカヤは、その中の小さな一部に過ぎない。キビは広大であり、豊かな国だった。ナカの国とイヨの国を隔てる東西に長い内海の中継点であり、しかもナカの国の中では大陸との重要な窓口となっているイズモへの道も通じていた。<br />
キビは、古代のワの島国の動脈の接点となっている場所だった。<br />
うまい具合に山あいに開けた広い平野を有し、その近くまで入り込む内海と、海へ流れ込む大きな河川の二本は、このアゾ付近を通過していた。そのためキビの国の中でも古来、もっとも豊かで栄えた場所の一つがアゾの国である。<br />
「――ヨサミ!」<br />
迎え出た二人の巫女は、到着したヨサミと二人の侍女を見て、しばし絶句した。アゾの巫女アナトと、たまたま訪ねてきていたコジマのナツソである。<br />
「これはいったい――どうしたというのッ」<br />
港に到着したとき、ヨサミたちはすでに息も絶え絶えだった。男の船頭もいない状態で、河川を転覆させずに到着させるだけでも、彼女らにはとてつもない苦労だった。幾度か、あわやという事態があった。それに加えて、自分たちのカヤの国が滅ぼされたという精神的なショックが、やつれを際立たせていた。港の衛兵たちによって、アナトの居する祭殿に導かれてきたときには、全員が力尽きたような状態だった。<br />
「カナンに攻められました……」侍女の一人が答える。<br />
「カナン……あの神の民とかいう者どもかッ」<br />
「はい。カヤは焼かれました」<br />
「なんということ……」アナトのもともと白いその面(おもて)からは、ほとんど血の気が失せていた。衝撃の大きさを物語っていた。<br />
「ヨサミ、大丈夫……?」と、ナツソが傷ついた巫女に手を添える。<br />
もとより同じキビの地方のそれぞれの国を束ねる巫女同士。彼女らには親密な流があった。<br />
「わたしは……でも、お父様やお母様が……」<br />
「ミナギ様も?」<br />
ミナギというのはヨサミの母である。首長であるヨサミの父と婚姻関係を結ぶまでは、カヤの国を導いてきた巫女だ。幼少期から母譲りの素養が明確だったヨサミは、三年ほど前から国を統(す)べる巫女としてまつりごとを司ってきた。<br />
「とにかくこちらへ。さあ」<br />
三人はアナトとキビの国の者によって手厚く迎えられ、身体を清め、食事も与えられた。<br />
その間にアゾの祭殿にはキビの国を構成する首長と巫女たちが緊急招集された。<br />
「……すべてわたしのせいです」ヨサミはその席でそう言った。<br />
「なにを仰る」驚いたように言うタケヒは、やや老いが目立ち始めたが、長くキビ国をまとめてきた首長だ。<br />
「国が亡ぶのは巫女の責……でございましょう」<br />
自虐的な言葉に、タケヒとアナトは視線を交わした。<br />
「カナンの民のことを知らされたとき、山の向こう側の出来事と高をくくっておりました」<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjX20ZCg89-FTUw13Byw347VK3CZenx8Yupzp3v_U_F6YcdatEI147ZRAu3EwZUBB-2gTNUginajKTjH55XnME6KPVCHJiGQP7qzuQPZkaMd479wW_xxa4N3dYn8ojGccyP95JOHbowftw/s1600/%25E5%25B7%25AB%25E5%25A5%25B3%25E3%2581%259F%25E3%2581%25A1.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="466" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjX20ZCg89-FTUw13Byw347VK3CZenx8Yupzp3v_U_F6YcdatEI147ZRAu3EwZUBB-2gTNUginajKTjH55XnME6KPVCHJiGQP7qzuQPZkaMd479wW_xxa4N3dYn8ojGccyP95JOHbowftw/s640/%25E5%25B7%25AB%25E5%25A5%25B3%25E3%2581%259F%25E3%2581%25A1.jpg" width="640" /></a></div>
<br />
<br />
<br />
「それはわたしたちも同じ」と、アナト。<br />
カナンとオロチの対立は、ナカの国の中でも主に大陸とを隔てる北海に面した地域で発生していた。この南の地域との間には、深い山地が横たわっている。まだ対岸の火事といった印象しか抱けなかったのだ。だが、彼女ら巫女はそれでは済まされなかった。<br />
「このような事態が至ること、わたしたちのだれも予知はできなかった」<br />
「そうです」と、他の巫女からも声が上がった。<br />
キビは五つの地域から構成されていた。アゾが中心であり、カヤ、イソカミ、ワケ、コジマである。これらはいずれもキビ地域を流れる複数の大きな河川に沿った地域であり、コジマのみ、この河川の先に浮かぶ島であった。どの地域にも首長が存在し、そして巫女が存在した。<br />
アナト、ヨサミ、シキ、イズミ、ナツソ。<br />
キビはこの五つの国の巫女を中心にして結束した連合国家であった。<br />
「このところおかしいのです」と、シキが言った。「何か気が乱れてしまい、心がざわついてばかり。遠見や予知もうまくできないのです」<br />
シキは五人の中でも、際立って霊感の強い娘だった。この中で最年長のアナト――といっても、まだ二十歳になったばかりだが――は司祭としての能力や経験がもっとも秀でているが、シキは巫女としての能力なら、アナトに匹敵する力の持ち主だった。<br />
「それはわたしもずっと感じておりました。とくにこの半月ほどの間」ナツソがよく響く声で言った。音感に優れた巫女であり、彼女がもともとアゾに来ていたのも、神事に使う新しい楽曲を作るためだった。「神事の調べを作ろうと思っても、それもうまく降りて来ず、それで今日はアナト様のところへご相談に来ていたのです」<br />
「悪い予感はあった」アナトも自責の響きをにじませた。「しかし、わたしも具体的に予知はできなかった」<br />
「そのカナンというのはどのような民なのだ」イズミが冷静に、しかし鋭い目で言った。<br />
「唯一の神を信奉する……」呆然とヨサミが説明する。「そう言っておりました。この葦原の地、ワの国は神が約束された彼らのための土地だから国を譲れ……と」<br />
「ふざけた話だ」イズミは男のような調子で言った。もっとも若い巫女で、まだ少女といってもいいが、その素養を見込まれて今の地位に押しやられた。いつも反抗的なところを感じさせるのは、本意ではないことをやらされるためかもしれなかった。<br />
「わたしはまったく何も予感できませんでした。あのような災厄の訪れを、まったく感じることがなかったのです。それに……国を譲るように求められ、その判断も誤りました……」<br />
魂の抜け殻と化したかのように、ヨサミは語った。<br />
カナンはカヤに一日の猶予を与えた。国を明け渡すか戦うか、考える時間を。<br />
首長はそれぞれの国に存在はしているが、巫女は格別の影響力を持っている。ある意味、首長よりも頼りにされるのだ。巫女はその霊感によって常に宣託を下さねばならない。ヨサミはカナンの出現に非常に嫌な予感を抱いていた。むろんそれは巫女としての直感的なものとして鋭くあった。<br />
だが、国を譲れという傲慢で専横な要求に対して憤慨し、戦うことを決意した男たちを抑えることができなかった。いや、あまりにも強いその場に満ちた戦意に呑まれたのだ。<br />
以前であれば違ったかもしれない。しかし、オロチ国の傘下に入り、クロガネの剣が普及するにつれ、民全体の考えも変わって来ていた。力で解決できるという風潮が強くあり、とくに男たちは好戦的に逸(はや)った。<br />
結果、その全体的な機運の中で流され、ヨサミは戦いを抑えることができなかった。近隣に救援を求め、籠城して戦えば、切り抜けられる――と、彼女自身、判断した。それはすでに直感ではなく、願望であったのかもしれない。<br />
「このアゾへも救援を求める使者を送りました……」<br />
「こちらには救援の使者など来ておらん」と、タケヒ。<br />
「何もかもわたしの考えが甘かったのです。おそらく使者もどこかで待ち伏せされ殺されたのでしょう。カナンは最初からわたしたちの退路を断っておりました。逃げ場のない状態で火を放たれ、みな、亡くなりました……。わたしだけが父に無理やり舟に乗せられ……」<br />
「なんとむごい……」アナトの目にも光るものが滲んだ。<br />
比較的近い地域で仲良くやってきた国だったのだ。首長や巫女同士の交わりだけではなく、民の交わりも濃かった。<br />
「カナンの兵は非常に強力な弓矢や剣を持っております。カネでできた鎧や盾も身に着け、わたしたちの国の兵ではとうてい……」<br />
首長たちもこれには動揺を隠せなかった。ワの国はようやく青銅器から鉄器への変遷を始めたところだった。青銅器はどちらかといえば祭器としての役割が強く、鏡や鐸などは使われ続けている。武器としての鉄器はツクシやイズモで国内生産が始められたが、このナカの国にもようやく広まり始めたところだったのだ。<br />
どすどすという荒々しい足音が響いた。その足音だけで、一同にはそれが誰なのか分かっていたし、巫女の神殿でこのような傍若無人さを発揮する男は、そうそういるものではなかった。<br />
「カヤが落とされたというのはまことか」血相を変えて飛び込んできたのは、オロチ国からキビに派遣されている太守、イオリだった。<br />
タケヒがうなずいた。<br />
「貴様、おめおめと……。なにをしておった!」<br />
憔悴したヨサミをイオリは足蹴にした。悲鳴を上げて床に倒れるヨサミに、アナトたちは駆け寄った。<br />
「なにをされる! おやめなさい!」<br />
「カヤはイズモへ抜ける街道の守りだぞ! それを奪われてはッ……」<br />
「それこそが敵の狙いであろう」タケヒが言った。「敵はこのワの島国のことをよくよく調べておる」<br />
「おのれ、カナン……」ぶるぶるとイオリは両腕を震わせていた。今にも腰に帯びた剣を抜き放ち、暴れまわりそうな怒気を放っていた。「うかつであった。よもや南に手を伸ばしてこようとは……」<br />
オロチ国の現在の本拠はタジマにある。そこからイズモ一帯にまで勢力を拡大し続けていたのは、その地域が砂鉄の産地だからだ。そして同様な理由で、このキビにもオロチ国の王カガチは手を伸ばしてきた。とくにアゾの周辺やカヤの北では鉄が採れる。<br />
イオリはこのキビでの鉄生産という大きな役割を負わされて派遣されていた。しかし、ただそれだけではなかった。彼の本当の役目は、このアゾの近くに巨大な山城を建造することで、それはすでに八分通り完成していた。<br />
それはワの島国全体を支配するための布石なのだ。<br />
カガチはすでに東国の統合に着手していた。オウミやヤマト、キの国などもすでに傘下に入っている。彼の野心である島国の統一のためには、これら東国と西のツクシを結ぶ海上交通路である内海を掌握せねばならなかった。タジマやイズモは鉄資源こそ豊富だが、平野は少ない。大人口を養い、兵力を蓄えるためには、このキビは最適の地だった。正面にはイヨの島国がもっとも間近に迫っており、こことイヨを抑えてしまえば、東西の往来もさえコントロールでき、島国全体の支配が容易になる。<br />
それが王カガチの遠大な計画だったのだ。<br />
しかし、もしキビを失うようなことがあれば、計画は頓挫する。それどころか、海上交通を掌握したカナンによって、追い詰められるような事態も発生しかねなかった。<br />
いや、それ以前に――とイオリは考える。冷酷な王カガチは、イオリを無能として処断するかもしれなかった。<br />
「兵をかき集めて、カヤからの道と川を防衛させろ!」イオリは引きつったような表情になっていた。<br />
「すでにそのように指示しておる。みなも協力してくれておる」<br />
タケヒの冷ややかな言葉に、集まった首長もうなずいて見せた。オロチ国の傘下にこそ入っているが、誇りや自主性まで、何もかも奪われているわけではない。<br />
「タジマへはさきほど伝令の鳩を飛ばした。カガチ殿もすぐに知るところとなろう」<br />
「もう少しで山城も完成するというのに……」舌打ちし、イオリはその場を離れかけた。そうしかけ、一度、足を止めた。「ぶざまに国を明け渡すようなことでもしてみろ。トリカミを滅ぼすぞ」<br />
イオリは去って行った。<br />
キビの巫女と首長たちには、重い沈黙だけが残された。<br />
<br />
<br />
<br />
月明かりが焼け落ちた集落と砦を照らしていた。<br />
もはやどこも原形をとどめてはおらず、木材はまだ燻っている。煙と吐き気を催すような異様な臭気が立ち込めていた。<br />
エステルはそんな中を歩いていた。多くの死体はすでに片付けられていたが、木材の下には真っ黒に焦げた塊がいくつか覗いていた。目を背けたくなるような人であったものの炭化した姿だった。<br />
眉を寄せ、口元を抑えながら、エステルは歩いていく。ふと月明かりに白っぽく見えたものがあった。<br />
まだ熱を持つ灰をどかし、エステルはそれを拾い上げた。<br />
勾玉だった。<br />
それはエステルが持つ宝珠とよく似ていた――いや、同じものとしか思えなかった。<br />
<br />
<br />
2<br />
<br />
冴えわたる満月が中空にあった。今にも魂が吸い込まれそうな神秘的な輝きだ。玲瓏たる輝きが、蒼くタジマの山野を浮かび上がらせていた。<br />
他のものとは一線を画すほど高床の大きな建造物には、夜の静けさをかき乱す喧騒があった。女たちが音楽に合わせて身をくねらせるように踊り、男たちが卑猥な調子ではやし立てる光景が屋内に見える。その酒宴の中心にいるのは、黒頭巾の巨漢だった。壮健な雰囲気を身にまとい、ただそこに座っているだけで恐ろしいほどの力感が伝わってくる。しなだれかかる女の酌を受け、黙々と盃を口に運んでいる。<br />
「カガチ! カガチよ!」酒宴の騒ぎを割って、甲高い声と荒々しい足音が近づいてきた。<br />
黒頭巾の男は猛禽類のような鋭い眼を動かし、廊下から柱の間を抜けてくる男を見た。<br />
「カガチ! 大変だぞ」<br />
「何事だ、ミカソ。騒がしい」<br />
「たった今、キビからの伝令の鳩が。カヤがカナンに落とされたらしい」<br />
「なに?」<br />
カガチの形相が一変し、その場の雰囲気も一変した。凍りついたようになったのは、知らされた情報が驚くべきものだったこともあるだろうが、むしろそれを知らされたカガチが示す態度に、周囲が恐れおののいたからだった。<br />
「それで? キビはなんと?」<br />
「救援を求めているようだ……」ミカソも喉を詰まらせたように答える。<br />
「ヒメジから援軍を送るように伝えろ」<br />
「わ、わかった」<br />
そばに置いていた剣を取り上げながら、ゆっくりとカガチは立ち上がった。ほかの男たちよりも、頭一つか二つは背高い。小柄な女など子供に見えてしまう。カガチが剣を鞘から抜き、女たちが怯えて後ずさりする。<br />
「おい……」カガチは低い声で、女たちに取り囲まれていい気になっていた部下のひとりに剣を向けて言った。「貴様、なぜカナンの動向に気づかなかった。俺は命じたはずだぞ」<br />
「あ、いや……」<br />
「能無しが」<br />
カガチの脚が、びゅっと唸りを上げ、部下の頭部を払った。ちぎれるのではないかというほど首が伸びきった状態で、部下の身体は転がりまわった。鼻血と共に、うわああ、と何とも言えぬ呻きを上げ、もがき苦しむ。<br />
カガチは宙を見据え、忌々しげに毒づいた。「カナン……。後からのこのこやってきて、国をかすめ取る泥棒めが。この国は俺が作り上げた国ぞ!」<br />
カガチは半島での戦乱によって家族を失い、追われた身だった。同族はほとんど皆殺しにされ、筆舌に尽くしがたいほどの辛酸を舐めて生き延び、ワの島国に漂着した時にはほとんど身一つ、すべてを失った状態だった。<br />
さいわいに持っていたクロガネを作る技術だけが彼を救った。鉄文化の後進国であるワは、再起のためには絶好の場であった。クロガネ作りを普及させ、その利便性で民を魅了しながら、彼は富を得、勢力を拡大させ、今では力による恐怖支配の構造を作り上げていた。それもこれも、いつかは大陸のやつらに復讐するためだった。それをこんなところで……。<br />
「おいっ! 新しい剣はできておるのか!」<br />
次にカガチの憤りの矛先が向けられた部下は、蒼白になりながら慌てて言った。「も、もちろんだ。今までより強い剣を今、量産しているところだ」<br />
「急がせろ。強い剣さえあれば、数ではこっちがカナンを圧倒できるのだ」<br />
部下はがくがくと頷いた。<br />
「アカルを呼べ……。誰かアカルを呼んで来い!」<br />
怒声を浴びて一人が慌てて席を離れる。<br />
「そ、その剣のことだが、カガチ」もっとも信頼が厚い部下であるミカソでさえ、声が震えていた。「じつはちょっと見せたいものがあるのだ」<br />
「なんだ?」<br />
「これを――」ミカソは手にしていた麻布でまいた長いものをカガチに差し出した。<br />
怪訝そうにカガチは受け取った。自分の剣はその場に突き立て、麻布を開く。<br />
中から現れたのは、荘厳な輝きを持つ剣だった。<br />
「イナバの浜に難破船が漂着していた。船には誰もいなかった。たぶん皆、海の藻屑となったのだろう。だが、船の甲板にこれが突き立っていた」<br />
「これは……」カガチは目を奪われていた。絶世の美女に魅了された男のように、うっとりとした眼差しだ。「なんという見事な……大陸でもこのようなものを見たことがない」<br />
「不思議なのだ。おそらくその剣は何日も浜で潮風を浴びていたはず。なのに、まったく錆びてもいないのだ」<br />
「まことか……」<br />
「しかも、なんというのか、その剣には霊妙なものを感じる。持つと、なにかこう、手がしびれてくるような……痛いような心地がするのだ。俺にはとても長くは持ってはいられぬ。どうだ、感じぬか」<br />
「おおよ。感じる」剣を握るカガチに変化が生じていた。陶然となっていた顔は、灯明の中でさえはっきりとわかるほど、赤く照り映えはじめ、呼吸が荒くなってきていた。「ものすごい〝気〟を感じる。感じるぞ! なんという力だ! これは並の剣ではない」<br />
漲ってくる力がカガチの肉体を通じて、こぼれ出てくるようだった。誰もが息を呑んだ。錯覚ではなかった。カガチの肉体は変化し始めていた。もともとの巨漢が、さらにひとまわり、肉付きを盛り上げたように膨張し、すでに備わっていた力強さは、さらに凶暴な肉食獣の雰囲気へと変容していった。頭巾で隠されている頭部にも、なにか隆起してくるものがあるように見えた。<br />
<br />
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<br />
<br />
いきなりカガチは剣を一振りした。彼が床に突き立てていた剣は、あっけもなく折れた。<br />
にやりとカガチの表情が歪む。口元から長い牙のような犬歯が光った。そして彼は笑い始めた。笑いの衝動が突きあげてきて、こらえきれなくなったように笑い始め、やがて高笑いに変わっていった。それは狂気じみたものだった。<br />
全員が怖気(おぞけ)をふるった。<br />
「ミカソ……お前、でかしたな。よくぞ、これを俺のもとへ届けた」<br />
「お、おう」<br />
「これはこの世のものではない」<br />
言下にカガチは動いた。もともと機敏な男だった。だが、そのときの動きは灯明の中では消えたと思わせるほどの素早さだった。<br />
何が起こったのか、すぐに理解できた者は少なかった。さきほどカガチが蹴り飛ばした部下は、ようやく立ち上がろうとしたところだった。ところが、その男の上半身は、直後にすとんと床に落ちていた。その瞬間には彼はまだ生きており、いきなりまた低くなった視野に戸惑い、そして自分の下半身がないことに絶叫した。<br />
彼の身体は二つに分断されていた。彼の断末魔の絶叫と、女たちの悲鳴が折り重なって、夜闇の世界を駆け巡った。<br />
「これさえあれば、怖いものなどない……。とてつもない力が湧いてくる。これは鬼神の剣に相違ない。まさに俺が持つべき剣……ふ、ふはははッ! すごいぞ、これは。たまらぬ。たまらぬぞ!」<br />
噴出するマグマがしたたり落ちるような熾烈な欲望の奔流が、カガチの全身を貫いていた。凍りつく空気の中、その場の多くの者が、たった今カガチによって惨殺される予感を抱いた。彼は何かに憑りつかれていた。剣の凶暴な力に魂を奪われたのだと確信させるものだった。<br />
「おい、女ども」<br />
先ほどまで酒に酔い、歌い、踊っていた女たちは、小動物のようにすくみ上がった。<br />
「来い。伽(とぎ)の相手をせよ」カガチは歩き出した。<br />
が、女たちも怯えきっており、動き出せずにいた。<br />
「まいれ!」<br />
怒鳴りつけられ、弾かれたように動き出す。性の相手をさせられるだけではなく、嬲り殺されてしまうのではないかという恐怖が巣食っていた。<br />
女たちを引き連れてその場を去るカガチと、先ほどこの場を離れた部下と巫女が出くわした。呼びつけておきながら、カガチはその巫女を無視してその場を去った。<br />
アカルというその巫女は、すれ違うカガチを驚きの顔で見送った。まるで別人だったからだ。<br />
そして、その場の凄惨な有様を見、息を呑んだ。<br />
「ふつのみたま……」<br />
その言葉が、ふっと天から降ってくるように巫女の口を突いて出た。アカルは自分自身、この言葉に打たれたように、はっとしてカガチを振り返った。<br />
月明かりの下、女たちを引き連れて立ち去って行くカガチの後ろ姿に、魔性の気配が重なって見えた。<br />
<br />
<br />
――同刻、トリカミの里。<br />
スサノヲは同じ満月を見上げていた。秋の虫たちの調べが、競い合うようにあたりには満ちていたが、ほんのわずかな気配を彼は聞き逃さなかった。<br />
「どうした? こんな夜中に。眠れぬのか」<br />
その問いかけを受けたクシナーダは、ほとんど感じないゆるやかな風のようにやって来て言った。「はい。心がざわざわします」<br />
「満月は人の心を騒がせる力を持つようだな」<br />
「はい」<br />
スサノヲはその返事を聞き、クシナーダの顔を見た。「はい」という、そのヒビキ。<br />
「スサノヲ様も?」<br />
「その『様』というのは、やめてくれ」<br />
「はい」<br />
またスサノヲはクシナーダを見た。月光に照らされ、その白い頬がいっそうに透き通るようだった。<br />
彼女が「はい」という肯定の言葉を発するときが、なぜかスサノヲは好ましさを感じた。とても素直な反応としての言葉であるからだけではなく、なにか自分の存在を受け入れてもらえているという優しさを感じるからだった。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<br />
「では、スサノヲ――」<br />
「なんだ」<br />
「眠れぬ者同士、少しお話を致しませぬか」<br />
「なんの話を?」<br />
「天界のお話を聞きとうございます」<br />
ふっとスサノヲは歯を見せた。「なにを言うかと思えば……。クシナーダは知っているのではないか? アシナヅチも、そなたも、この世の人とは思えぬ目と耳と、そして意識を持っている」<br />
「わたくしはただの人でございます。この世のカタチに縛られた、肉を持つ身の一つに過ぎませぬ。感じることはできるのですが、天界のことはこのカタチの身では正確に理解することができないのです」<br />
「それは……そうだろう」<br />
「ですから、お伺いしたいのです」<br />
クシナーダはスサノヲのそばで返事を待っていた。やや躊躇しながら、スサノヲは「いいだろう」と答えた。その言葉を得て、クシナーダは笑顔を浮かべ、スサノヲが腰かけている大きな岩の隣の岩にそっと腰を下ろした。<br />
「ただ、今となっては俺も天界のことをうまく伝えることは難しい。それはコトバで伝えられる世界ではないからだ」<br />
「それでもお伺いしとうございます」<br />
うむ、とスサノヲはうなずき、考え込んだ。「何を話せばよいのだ」<br />
「スサノヲは天界ではどのようなお姿だったのですか」<br />
「姿はない」<br />
「やはり」<br />
「そなたが言っていたように、カタチというのはこのネの世界のもの。天界にはこれというカタチがない。どのようにもなり得る。強いて言うなら――」スサノヲは空を仰いだ。<br />
「言うなら?」<br />
「この月の光のようなもの。あるいは流れる水のようなもの。見えざるヒビキの調べのようなもの」<br />
「いかようにも変わるということ?」<br />
「そなたは頭がいい」<br />
クシナーダはにっこり笑った。<br />
「光はただ光であるだけでは、なにも映さぬ。そこにカタチがあれば、カタチを浮き彫りにする。水は流れて、川のカタチでいかようにも姿を変える。声も音も、ヒビキは響かせる存在(もの)によって変わる」<br />
「スサノヲ様は――いえ、スサノヲは――さぞかし強い光でありヒビキでしたのでしょうね」<br />
「光にもヒビキにも、いろいろある。いや、光もヒビキも、実は同じものなのだが――」スサノヲは言葉を選び、そして思案に沈んだ。適切な表現を探し求めながら、なかなか見つけることができない。<br />
言葉を待っていたクシナーダは、別なことを言い出した。「わたくしたちの民に伝わる古い物語には、天界で乱暴を働いた神のことが語られています。その神は姉であるヒビキの女神と争いを起こし、傷つけられた女神は岩戸に姿を隠します」<br />
「それはたぶん俺のことだ。わかりやすく人のような物語として伝えているのだろう」<br />
「すでに私たちに伝わっている物語が、今ここにいるスサノヲのことを語っている?」<br />
「不思議に思うだろうな。俺は今やってきた。その俺の物語は古くからある」<br />
「はい」<br />
「それがこのカタチの世界、ネの国の限界だ。じつは天界では『時』は存在しない」<br />
「『時』がない?」<br />
「すべてのものは混沌として、あやふやな状態で漂っている。なにもはっきりとした形を得ることはなく、なにでもなく、なんでもある状態として、ヒビキそのものとしてある。それが天界なのだ」<br />
それを聞き、クシナーダははっとなった。「わたくしたちの物語では、天地すべてを生み出した夫婦の神、イザナギ・イザナミ様はなにも定まらぬ漂った海から、カタチを作り出したと……」<br />
「それは真理をうまく伝えている」スサノヲは驚きながら言った。「その通りだ。天界では、すべては混沌としてヒビキとして漂っている。しかし、そこに意識が働きかけたとき、すべてが一瞬にして創造される。このネの世界の太古から今に至るすべてが瞬間的にすべて生まれるのだ」<br />
「つまりスサノヲの古い物語も、今ここにいるスサノヲも、同時に生まれる……?」<br />
「そうだ。そなたは本当に賢いな」<br />
驚きを隠さないスサノヲの言葉に、クシナーダははにかんだようだった。月光の中で、少し頬の色が変わったように見えた。<br />
「俺はこのカタチを、このネの世界のこの時間で得た。ただそれだけのこと。しかし、過去の世界のどこかでも俺を表現する別な存在がいるのだろう」<br />
「それが太古の物語を作った?」<br />
「それもあるだろう。が、おそらくアシナヅチやそなたのような者が古くからいて、天界で起きた出来事を、同じイメージとして感じ取って語り伝えたのだ。俺がこの地に降りた場所はスサという街だったが、そのはるか西にギリシアとかいう土地があると聞く。その国の旅人が教えてくれた。かつてウラヌスという天とガイアという地は一つに睦み合っていたが、憎み合って離れたと」<br />
「まるでイザナギ様とイザナミ様の物語のようですね」<br />
「大地の女神を傷つける海の神の物語。同じ大地の女神を怒らせ、隠れさせる冥府の神の物語。それはきっと、そなたがいうところの、ヒビキの女神を傷つけた弟の物語と同じものだろう」<br />
「面白い……」<br />
「そうか?」<br />
「はい」<br />
スサノヲは彼女が「はい」というたびに、胸がざわつく自分に気づいていた。が、それは無視して続けた。<br />
「その物語たちの大元は、天界で今、そして過去、未来でも起きているあることに関わっている。俺は天界ではあるヒビキであり、ある光としてあった。しかしもう一つ別なヒビキと光があった。大雑把にいえば、その二つのヒビキは、この世界……星の海までも生み出すためには絶対に必要なものなのだが……その……相容れぬものを持っている」<br />
うまく伝えるために言葉を選び続けねばならなかった。<br />
「たとえばこの世の男と女と同じような対極のものだ。そなたらも男と女が交わって、はじめて子が生まれるだろう。天界も同じような力の働きがあり、対極の働きが交わり、新たなものの創造が行われるのだが、それは対極であるがために強く引きつけられもするし、また時には反撥もする。そのヒビキがうまく均衡されたら、創造がうまく行く。しかし、時には均衡が崩れることがある。いや、それも崩れるようになっているのだが……崩れたときに、ヒビキの女神は岩戸に籠る。そういう意味では、ヒビキの女神を岩戸に籠らせたのは、たしかに天界でのヒビキとしての俺の働きだ」<br />
「それが神話の真相なのですね。わたくしたちの物語では、岩戸は開かれねばならぬようになっています」<br />
「ヒビキの女神を外に呼び出すため?」<br />
「はい」<br />
「面白いな」<br />
「はい」<br />
しばし、二人の間には沈黙が生じた。鈴虫のヒビキに包まれたその時間は心地よいものだった。「あ……」と、二人は同時に話し出そうとして、互いに遠慮した。<br />
「ごめんなさい。どうぞ、あなたのほうから仰ってください」<br />
「いや、たいしたことではない」<br />
「たいしたことでなくてもお聞きしとうございます」<br />
「あ……その……」言葉がうまく出てこなかった。「巫女というのは、この国では生涯独身なのか」<br />
何を聞いているのかと、スサノヲは自分を疑った。<br />
「そのように生きる者も多くございます。でも、巫女を捨てて男性と目合(まぐあ)ひを結ぶ(結婚)者もございますよ」<br />
「そなたはこの里の――いや、このワの島国の、もっとも貴い巫女なのだろう。そなたが巫女でなくなったら困るのだろうな」<br />
「巫女はわたくし以外にも大勢おります。この里にもミツハや、他にも育っているものがございます」<br />
「しかし、岩戸を開くほどの霊力があるのは、そなただけなのだろう」<br />
「今のところは……。ただ……」<br />
「ただ?」<br />
「その……性の交わりをすることで巫女としての霊性が失われぬ場合もございます。むしろ強まることさえございます」<br />
「ほう?」<br />
見ると、クシナーダは真っ赤になっていた。<br />
「それはどのような場合なのだ」<br />
「その男性との……その……ヒビキが合うということです」<br />
「相性ということか」<br />
「そうとも言えるのですが、その方が巫女としての資質を壊さぬ、清き心をお持ちであることも条件です。アシナヅチ様と、もう亡くなられた大巫女様は、そのようなご関係でした。ですから、お二人はお互いの力を強めあって、とても高いところへ達されたのです」<br />
「なるほど……。クシナーダは、何を?」<br />
「え?」<br />
「さっき、何を言おうとした」<br />
「ああ、あの……」<br />
火照りを鎮めようとするように、クシナーダは指先で自分の顔に少し風を送るようなしぐさをし、それを見てスサノヲは心の中である感情が強く動くのを感じた。それは彼女の存在自体が、すごく愛しいとか、好ましいとか感じる、心の動きだった。<br />
「すみませぬ。もしかしたら、お怒りになるかもしれないのですが」<br />
「言ってみてくれ」<br />
「スサノヲがヨミへ行かれるのは、母なるイザナミ様に会うためではないでしょうか」<br />
すぐに返答ができなかった。図星だったからだ。<br />
「やはり、そうですか」と、クシナーダのほうで結論を出した。「お気に触りましたか」<br />
「いや……」<br />
「なんのためにイザナミ様に会いに行かれるのでしょうか」<br />
もはやごまかしは無意味に思えた。<br />
「なんのために自分がこの世にあるのか、その意味が知りたい」<br />
クシナーダは絶句し、つぶらな瞳を見張った。その答えは彼女の想像していたものとはまったく違ったものだったからだ。ミカホシの光が地球に到達する幻視を得たとき、ミカホシは母に会うために来るのだと、クシナーダは気づいていた。<br />
それは母を失った子が、その母を恋い慕うのと同じだと、単純に考えていた。それはあまりにも擬人化した表現だったのかもしれない。<br />
根本にはそうだと言えるのかもしれない。きっと、それは「人」となったスサノヲの中にもある。<br />
けれど、ここにいるスサノヲは母の胎から生まれたのでもない。<br />
普通の子が母に感じる皮膚の感触や乳の味も、子を愛おしむ母の言葉も笑顔も、彼はまったく知らないのだ。だから、恋い慕う感情さえ、じつは彼には実感としてはないのではないか。<br />
彼は孤独なのだ、と痛切にクシナーダは知った。この世に、誰とのつながりもないままに生れ落ちて、超人的な力を代償のように得てはいるが、それすらも他のか弱き人間とは明らかに違うということを証明するだけではなかったのか。<br />
<br />
この男性(ひと)を抱きしめたい。<br />
<br />
ほとんどそれは実行しそうになるほど強い想いだった。クシナーダの精神は肉体を抜け出して、すでに彼を抱きしめていた。<br />
<br />
<br />
3<br />
<br />
巨大な滝の下にいるのかと思うほどの雨が、先刻から降り続いていた。モルデはものの役にも立たなかった蓑の雨具を取り払い、髪の毛をかきあげながら砦の中に入った。<br />
カヤに再建されつつある砦だった。もともと地の利を有する要害である。この地を拠点として利用しない手はなかった。突貫工事で進められ、基礎的なものは出来上がっている。<br />
土砂降りの雨の中でも休む暇なく、材木が運ばれ、組み合わされ続けている。もともとカヤの国の民で生き残っている者の多くは奴隷として強制労働させられ、疲弊しきっていた。ふらふらになって、材木ごと横倒しになる者もいる。<br />
カイがそんな奴隷を怒鳴りつけている。倒れた男はうつろな目で起き上がろうとするが、足腰が定まらない。鞭打とうする弟に向かって、モルデは叫んだ。が、雨音がすごすぎて聞こえず、一度二度とカイが鞭打ったところで、ようやくモルデは弟の腕を握って止めることができた。<br />
「カイ! 少し休ませてやれ!」<br />
「あ、兄さん」<br />
「食事は与えているのか」<br />
「ま、まあ、そりゃ」<br />
「休ませてやれ」<br />
「わかったよ」不服そうにカイは鞭を振るうのをあきらめた。<br />
「指示していた仕掛けはできているのか」<br />
「ああ。そりゃ、もうとっくに。川から水を汲み上げて、いざというときには上から砦に流せるようにしてるし、場合によっては攻めてくる敵に向かって流すこともできる」<br />
木材を使用するこの国の建物の弱点は火だった。だからこそ、カヤを落とすときにはそれが選択された。レンガを焼いたり、石を切り出したりして砦を作る方が安心だったし、もともとカナンの民の祖国は「石の文化」だった。しかし、それを悠長に行っている時間はなかった。いつ、オロチが攻撃をしかけてくるかわからない情勢では、短期にカヤの砦も再建する必要があり、それには木材を使わざるを得なかった。<br />
自分たちが行った火攻めを逆に仕掛けられないとも限らず、そのための消火機能を持つ仕掛けを作るよう、モルデは提言していたのだ。<br />
「敵の動きはどうなんだ、兄さん」<br />
「エステル様は?」<br />
「ヤイルと一緒だと思う。奥にいるはずだ」<br />
「お前も一緒に来い。アロン! アロンも来てくれ! ユダも!」<br />
モルデは目についた者に呼びかけ、肩を叩いた。アロンもユダも屈指の剣客であり、精鋭部隊を率いる指揮官だ。彼らを引き連れ、エステルの幕間を訪ねた。エステルはそこでヤイルと話し込んでいた。<br />
「おお、モルデ、帰ったか」と、ヤイルが立ち上がる。「どうだった、キビとやらの動きは」<br />
「簡単ではないぞ」モルデはなおも滴る水滴を拭いながら言った。<br />
彼らは円陣を組むように腰かけ、中央に木版が置かれた。モルデはそこに炭を使って図面を描いた。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<span style="color: purple; font-size: x-small;"> ※ この時代、岡山県南部の児島半島は、まだ「島」であり、本土との間には穴海が広がり、吉備の穴戸(あなと)と呼ばれていた。また島根県の沿岸の地形も相当に違い、斐伊川はまだ宍道湖には流れ込んでいなかった。</span><br />
<br />
「キビは五つの国からなる連合国家だ。そのうち一つはここ、カヤだった」モルデは自分たちがいる場所に○を描いた。「他の四つは今、この川の下流に大軍を配備している。そこは切り立った渓谷の出口で、もしこの川に沿って軍を進めるなら、そこを通過せねばならないが……」<br />
「敵にとっては、こちらを叩く絶好の場所というわけか」と、ヤイル。<br />
「そういうことだ。川に沿って兵も配置されている」<br />
「迂回する道はないのか」ユダが言った。「それができるのであれば、分隊を送り込んで、敵の側面から攻めれば……」<br />
「無理だろうな。ここらへんはかなり山深い。迂回路は険しい山越えとなるし、周辺にも見張りが置かれていて、何かあればすぐに本隊に知らされる」<br />
「どうやって知らせるのだ」<br />
「山の上で火を焚き、煙を上げるんだ。その山が見える距離の離れた山の上で監視が同じようにまた火を焚く。そうやって狼煙で伝達を送るようだ」<br />
「なるほど……」<br />
「ここを抜くのは容易ではないぞ」<br />
「エステル様」あまり多弁でないアロンが口を開いた。「もし軍を進めるのであれば、このアロンが先頭に立ち、かならず突破口を開いてごらんにいれます」<br />
「いや、しかし……。かなり犠牲が出るのでは?」カイが不安げに言った。<br />
「われらには神のご加護がある。下賤な異教徒どもなど何ほどのこともない」<br />
「川の下流には、かなりの数の水軍もいるぞ」モルデが付け加える。「キビの一つ、コジマの水軍らしい」<br />
「水軍か。われらの泣き所よな」ユダが言った。<br />
「だからこそ、この南の内海を手中に収める必要があるのだ」エステルが言った。「モルデ、そなたは言った。この島国支配の趨勢を握るのは、南の内海だと」<br />
「はい。今回の探索で、ますますその確信は深まりました。オロチがキビやヒメジなど、内海に面した土地に手を伸ばしたのも、同じ動機かと思われます」<br />
モルデはカヤ攻めにも参加していなかった。それ以前から探索に出ていたからだ。カナンがカヤやそれ以前の小国を攻め落とす戦略を効率的に進められたのも、モルデの情報収集能力によるところが大きかった。ワの国に先着した段階から、モルデはワの国のなかで〝使える人間〟を探し出しては教育し、自分のもとに情報が集まるようにしていた。むろんそれだけではなく、今回のようにみずから敵地の中に潜入することも行っていた。<br />
モルデには、島国の地図がおぼろに見えていた。話をつなぎ合合わせることで、すべての土地を検分せずとも、おおよそのことは見当がついた。東西に長い内海は、島国の海上交通の最大の要だった。内海であるために荒れることも少なく、陸路よりはるかに効率的に物資の輸送ができる。<br />
ところが、大陸側からのその内海への侵入しようとすると、西端の狭い海峡を抜けるしかなく、そこを防衛された場合、内海への侵入は容易ではなくなる。<br />
「つまり守られた内海ということか」ヤイルは隻眼を図面に落として言った。<br />
木版にはモルデがあらたに大きな地図を描いていた。むろんいい加減な略図だ。しかし、それを示しながら解説することで、一同は島国の構造とオロチ国の支配拡大とその戦略について理解を深めることができた。<br />
「この内海を制することができれば、島国の支配は容易になる」モルデは説明を続けた。「しかし、この内海を支配しているのはアマ族で、ムナカタとかアズミといかいった海の民が、内海を実質的に握っている。オロチ本国のあるタジマも、もともとアマ族の国だったようだ。カガチはこのタジマのアマ族の協力を得て、北海だけではなく、この内海支配ももくろんでいるのだ。そのためにヒメジやキビを手に入れた」<br />
「キビはイズモなどに比べて気候も温暖だと聞くが」<br />
「そのようだ。土地は肥沃で作物がよく取れる。しかも、クロガネもキビは自国で生産している」<br />
「まことか。なおさらに重要な土地だな」<br />
「だからだろう。カガチはキビに巨大な山城を造営させている」<br />
「山城?」<br />
「このカヤのようなかわいいものではない。あれを落とすためには総力戦となるだろう」<br />
「つまりこの渓谷を抜いたとしても、その山城があるということだな」その言葉はエステルから発せられた。<br />
「はい。これまでにない厳しい戦(いくさ)になるでしょう」<br />
「このまま無理押しに南下を進めれば、今度はイズモが手薄になり、領土を取り返される危険もあるな」ユダが言った。「そうなれば、最悪、北と南から挟み撃ちに遭う可能性もある」<br />
「今はあまり戦線を拡大すべきではないのでは?」と、カイが堅い表情で言った。<br />
「たしかにな。このまま南下すれば、危険は増す。キビを倒すためには、相当な犠牲も払わねばならんだろう」<br />
「臆したのか、ヤイル」と、アロン。<br />
「そうではない。戦略というものだ」<br />
「モルデ」二人の掛け合いを、エステルが遮った。「このキビは連合国家と言ったな」<br />
「はい」<br />
「分裂させることはできないか」<br />
「じつは私もそれを考えておりました。力押しで倒すより、内部から崩せぬものかと」<br />
「さすがだな」エステルは笑みを浮かべたが、その表情に信頼の色があった。「なにか良い考えがあるのか」<br />
「キビを調べていて不思議に思っていたのですが、キビはタジマを中心とするオロチ本国に匹敵するほどの力を持っています。それがなぜ、オロチの属国になっているのか」<br />
「なにか理由があるのか」<br />
「人質を取られているのです。それも二つ」<br />
「人質? 二つ?」<br />
「キビ国の領内から大勢の者がタジマやイナバ、イズモなどへ送られ、クロガネ作りのため強制労働させられています。彼らは人質でもあるのです。その中には国の首長の身内もおります」<br />
「なるほど。家族を奪われているのだな」<br />
「もう一つは、先のトリカミの里です」<br />
「トリカミ? あのスサノヲがいた里か」<br />
「あそこがオロチの直接支配を受けていなかったことが不思議でした。ところが、どうもあの里は特別なもののようで、ワの民にとっては一種の聖地なのです。その聖地を守る民や巫女があそこにいる」<br />
「だから、カガチもそこには手を出さずにいたということか」<br />
「はい。ただしカガチは、トリカミの巫女を毎年、一人ずつ殺しているようです。見せしめと脅迫のために」<br />
その話を聞くや、さすがに男たちの顔にも苦々しいものが浮かんだ。エステルはさらなる嫌悪を眉間に走らせた。<br />
「つまりそれは、われわれのかの聖なる神殿の土地が、異教徒によって土足で踏み荒らされるのと同じということです。キビはこのカヤも含め、五つの国すべてに国を束ねる巫女がおります。その巫女たちにとっても、トリカミは重要なのです」<br />
「巫女……」ふとエステルの目の奥に、何かが浮かんだようだった。「あの者たちか」<br />
「なにか?」<br />
「いや……。それで、モルデ、おまえは何を考えておる」<br />
「トリカミの周辺は今やわれわれが実効支配できる状態です」<br />
「今度はわれらがキビの巫女たちを脅すと?」<br />
「いや。エステル様もスサノヲとの約束をたがえるのは寝覚めが悪かろうと思います」<br />
「まあ、たしかに」と、エステルは苦笑する。<br />
「しかし、今やトリカミはわれらが守っていると伝えたらどうなりますか?」<br />
沈黙の後、エステルはにやっと笑みを浮かべた。「モルデ、わたしはそなたという者がそばにいることを神に感謝する」<br />
「畏れ多い……」<br />
「ただ、それだけでは十分ではないだろう」ヤイルが言った。「家族も人質なのだろう」<br />
「われわれと共闘すれば、家族が解放される日も近いと言えば? われわれがこれまでオロチから奪い取った里やタタラ場から、現にこのキビに逃げ帰った者もいるらしい」<br />
「なんと……」<br />
「われらは神の遣い。そしてこの国の真の支配権を持つ者。だからこそ、オロチの恐怖支配から解放できると伝えたら、このキビもまた寝返る可能性はおおいにある。――いかがですか、エステル様」モルデは女君主に目を向けた。「わたしをキビとの交渉に送り出してください。もしキビを取り込むことができたら、われらはこの温暖で肥沃な土地を手に入れ、内海の制海権を得ることにも足がかりを得ることができます。あるいはキビを構成する国に意見の対立を生み、一部だけでもこちらにつかせることができるかもしれません」<br />
「面白いな。しかし……あまりにも危険ではないか」エステルの瞳はさすがに曇っていた。「これまでの小国とはわけが違うぞ」<br />
「覚悟の上です。これはわたしにしかできぬ仕事です」<br />
それは衆目の一致するところだった。エステルはその中で判断を下さざるを得なかった。<br />
「わかった――。明日、キビとの交渉に」<br />
<br />
<br />
――同刻、アナトの祭殿。<br />
カヤと同じ豪雨が、あたりを騒々しく満たしていた。その中で、端然とアナトとシキが座っていた。二人とも、耳を澄まし、そうすることで豪雨の騒音は、むしろ意識の外へ押し出されていた。<br />
あたりには神気が満ちていた。特殊な〝力〟を持つ場でしか生じないものだ。祭殿はその上に建てられている。そんな空気の中で身体をゆるめ、呼吸をゆっくりと深く繰り返す。そして自分を空っぽにする。<br />
すっと、ヒビキが二人の胸に落ちた。<br />
――御霊(みたま)ヲ集メヨ。浄(きよ)メヲ急ゲ。<br />
二人の巫女は目を見開いた。<br />
「アナト様……」シキが蒼ざめて言った。<br />
アナトも同様に白い顔でうなずいた。無意識に胸の勾玉を握りしめている。<br />
血の気が引くほど、そのヒビキには鋭い警告が込められていたのだ。二人はお互いにまったく同じヒビキを受けたことがわかっていた。キビの国の巫女たちの中でも格段の霊力を持つ彼女らは、時には空間を隔てて意思を疎通させることさえできる。<br />
現実に意識を戻した彼女らの聴覚を、猛り狂ったような雨の音が満たした。雷鳴が遠くで轟いている。<br />
「急がねば、手遅れになるよ」<br />
豪雨にもかかわらず、強いヒビキを持つ女の声が、彼女らの耳朶を打った。<br />
はっとして振り返ると、庭先に女の姿があった。腕組みをし、降りしきる雨の中、佇んでいる。が、彼女はまったく濡れていなかった。<br />
「ウ……ウズメ様!」アナトは名を呼び、そして絶句した。<br />
ウズメはゆっくりと歩いてきて、二人に近づいた。豪雨は彼女の身体をまっすぐに通過して、地面に当たっていた。<br />
「手遅れとは……」シキが畏敬にかすれた声で言った。<br />
「〝死の力〟が解き放たれる」ウズメの声は相変わらず、あらゆる騒音を透過して届く。<br />
その双眸は二人の巫女を圧倒する強い輝きを放っていた。<br />
「クシナーダが失われたら、〝死の力〟は世を滅ぼすだろう」<br />
二人の巫女は金縛りにあったようになっていた。言葉さえ出てこない。<br />
「あんたらがぼやっとしてると、そうなるってことさ」ウズメはにやっと笑った。「踊れ! 魂で踊れ! そしてワのヒビキでこの世を埋め尽くせ!!」<br />
<br />
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<br />
<br />
パチン、と弾けたようにウズメの姿は消え、そこには血相を変えたずぶ濡れの男の姿が出現していた。祭殿を守っている衛兵のひとりだ。彼は大声で、たった今ウズメが立っていた場所で叫んでいたが、豪雨があまりにもひどくまったく耳に届かなかった。<br />
「大変です、アナト様!」<br />
近寄ると、ようやく聞き取れるようになる。<br />
「や、山が崩れました!」<br />
「え?」<br />
「アシモリの山です。下にあった集落がものすごい土砂で埋まってしまいましたッ……!」<br />
二人の巫女は、総毛立った。<br />
<br />
<br />
首長のタケヒと共に現場に向かうことすら容易ではなかった。<br />
雨足はすでに弱まっていたが、普段使っている道にどこから集まって来るのか、大量の泥水が流れ、歩行すらままならなかった。泥沼を歩くようなものだ。山から下ってきた岩や木が、いたるところで歩みを妨害した。<br />
それでもアナトとシキは、現場に向かった。この目で確かめずにはおれなかったからだ。<br />
そして彼女らは、凄惨な現場を目の当たりにした。<br />
これまで山としての形を持っていたのものが、まるで巨人の手が抉り取って行ったように、ごっそり陥没していた。その陥没した部分の土砂が丸ごと集落を呑み込み、ほとんどの家が泥沼の下になっていた。<br />
アゾからほど近く、多くの者が暮らしていた集落だった。それが……。<br />
土砂の直撃をまぬかれ、かろうじで生き残った人々が、丘の上に退避していた。その丘の上から確認できる風景は、アナトの記憶にあるものとはまったく違った、見るに堪えぬものだった。<br />
「巫女さまあ……」小さな子が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で近寄ってきた。「お父ちゃんとお母ちゃん、いないの。ねえねえ、お父ちゃんとお母ちゃんはぁ? ねえ? ねえ! 巫女さまだったらわかるんでしょう。ねえったら!」<br />
だんだん泣き叫ぶようになってくる子をアナトは抱きしめた。彼女の目にも涙があふれ、唇が震えた。だが、目を背けてはならないと思った。<br />
「クロガネなど作るからじゃ」泥まみれで、そこに座り込んでいる老婆が言った。「あれを作り始めてから、ろくなことがない。木を切って、禿山ばかりにするから、生き物も飢え、川は汚れ、あげくにこのざまじゃ……」<br />
老婆は独り言のように喋っていた。誰ともなく。しかし、その言葉はアナトたちに向けられた痛烈な批判そのものだった。<br />
堪えきれなくなったようにシキがその場から走りだした。目の前に広がる泥海の中へ身体を投げ出すように駆け込んで行き、細腕で折り重なった材木や岩をどかし始める。泣きながら、狂ったように。<br />
アナトも子供をその場に残し、シキと同じように探し求めた。もしかしたら生きているかもしれない人を……。<br />
「アナト様! シキ様! おやめください!」<br />
タケヒや他の男たちが止めに入った。<br />
「そのようなことは私たちが致します! 危険です! おやめください!」<br />
しまいには男たちによって羽交い絞めにされ、二人の巫女は現場から引き離された。そのときには彼女らは号泣していた。<br />
<br />
<br />
翌日、再びアナトの祭殿で、二人の巫女が呆然と座っている姿が確認できた。アシモリからの人々の避難、その世話と、二人は休む間もなく働き続けた。彼女ら自身、身を清め、泥だらけの衣装を着替えることができたのは、すでに夕刻に近かった。<br />
それぞれの国に戻っていたイズミとナツソも、災害の知らせを受けてそこへ現れたが、魂を抜かれたようになっている二人を見て愕然となった。疲労と悲しみが、痛々しいほどにじみ出ていた。<br />
「アナト様……」シキがつぶやいた。「わたしはずっと考えておりました。このままでいいのだろうかと……。やはり、わたしたちは間違っております」<br />
反論はできなかった。アナト自身、それはずっと胸にあった疑問だったのだ。<br />
オロチ国のカガチによってクロガネ作りの技術がもたらされ、その利便性の高さにどの国も魅了された。農耕にも、狩猟にも、また何よりも武器として、クロガネはこれまでの道具とはまったく一線を画するものであり、生活全体に一大革命を引き起こしていた。たったここ十年ほどの間のことだ。<br />
その利便性の代償は、決して少なくなかった。カガチは各地にタタラ場を作り、鉄穴流しを行わせ、その結果、川は魚が生息できないほどの有様に変わった。タタラの炉に使用するため、山から大量の木を切り出し、美しかった山野もみるみる無残な風景に変わった。<br />
樹木を失って丸裸にされた山。<br />
それがこの豪雨で崩れたのだ。<br />
「クロガネを今のような形で作り続けては、皆が不幸になります」<br />
シキの言葉はそのままアナトの内心を代弁していた。<br />
「しかし、カガチが許さないだろう」イズミが言った。「クロガネはわたしたちが作っているというより、カガチに作らされているようなものだ。作ったものの多くはタジマに献上している」<br />
「だからこそ、よけいにクロガネ作りのためにこのようなことが起きるのは、おかしいと思われませぬか」シキは話すことで、少ししゃんとなってきていた。「わたしたちはカガチにたばかられたのです。便利になると言われ、クロガネを作らされ、男たちもタジマやイズモへ送られ、今ではそのことで身動きできなくなっております」<br />
「たしかに今のわたしたちは、オロチ国の奴隷のようなものです」と、ナツソ。<br />
「だから? 今さらカガチの支配を離れられるとでも?」イズミは冷笑的に言った。「逆らえば皆、滅ぼされるのだぞ。わかっているのか」<br />
沈黙が落ちた。<br />
「わたしがあのとき、もっと強く警告していたら……」悔悟をにじませ、アナトは言った。<br />
オロチ国のカガチが、ヒメジを足掛かりにキビへの圧力を強めてきたのは、十年ほど前だった。すでにこの時、ワの国全体に、燎原の火のごとく、戦乱の雰囲気が蔓延していた。<br />
鉄器は大陸から伝えられており、とくにツクシやイズモを中心に広がりつつあったが、キビはこの点でかなりの遅れを取っていた。カガチはこの点での技術的な援助を申し出、見返りとしてタジマや支配を広げていたイズモでの鉄生産の労働者の供出を求めてきた。<br />
キビにしてみれば、周辺で生じている戦乱の火の粉を振り払うためにも、クロガネ生産に踏み切らざるを得なかったという事情があった。<br />
そのとき、この五人の中ではアナトただ一人が、すでに優れた巫女としてアゾの中心にいた。しかし、あまりにまだ若すぎ、人心を掌握するには至っていなかった。<br />
アナトはカガチの出現に、なにか金属を舐めるような嫌な予感を抱いた。鋭い痛みが胸の奥で発し、カガチを悪しき未来を呼ぶものとして、はっきりと拒絶すべきと感じた。<br />
そのまだ幼いと言っていい巫女の予感は、当時の「大人の事情」によって黙殺された形になってしまった。ほかにも同様な印象を抱いた巫女はいたが、いずれも現実に迫る脅威の中で、カガチと手を結ぶことを是とする空気には逆らえなかったのだ。<br />
だが、今やアナトの当時の予感は、そのまま現実のものとなっていた。文明の利器という甘い言葉で籠絡され、力を得たと思われたキビは、カガチによって送り込まれたイオリなどの太守やタタラ場の製作と管理を取り仕切る監督官たちによって、内側から貪り食われたような状態になっていた。<br />
国内で生産されるクロガネの多くは、タジマへ送られ、カガチのさらなる勢力拡大に役立っていた。結果、オロチ国はすでに連合国家キビでさえ逆らうことが難しい存在として増長していた。<br />
「どうしたの……?」<br />
その場にヨサミが現れた。髪が乱れ、やつれた顔をしている。かつての凛とした雰囲気は失われていた。<br />
「アシモリで山が崩れて、おおぜいの里人が亡くなったのです」と、ナツソが説明した。<br />
ヨサミは「そう」と言って、その場に座り込んだ。悲惨な出来事にもまったく無感動になっていた。<br />
他の四人の巫女たちは、ヨサミにかける言葉も失っていた。カヤを滅ぼされ、逃げ延びてきて以来、彼女は生ける屍のようになっていた。<br />
が――。<br />
そのヨサミのうつろな眼に、一瞬にしてぎらつく光がよみがえった。慌ただしく祭殿に現れたタケヒの言葉が、彼女の眼に火をつけたのだった。<br />
「アナト様! それに皆様! 一大事です」<br />
「何事です」<br />
「カナンより使者が参りました。話し合いたいと」<br />
水を打ったような静けさの中、ヨサミは音もなく立ち上がった。<br />
<br />
<br />
4<br />
<br />
「かならず無事で戻ってくれ」<br />
カヤを発つとき、エステルはモルデにそのように声をかけた。そして、そっと耳元に顔を近づけて、囁いた。「戻って来たら、知らせたいことがある」と。<br />
その言葉の意味を考えたのもしばらく間だけ、モルデは二人の護衛を連れ、急ぎカヤを南へ下った。昨日の豪雨のため、川は荒れており、舟は使えなかった。半日ほどかけ川沿いの道歩き、ようやくキビの勢力下である渓谷の手前までたどり着き、そこからは慎重に行動した。<br />
渓谷の中、そして出口で待ち構えているのは、キビの軍勢だけではなかった。オロチ国の軍も配備されていた。<br />
モルデが交渉に当たらねばならないのはキビであり、オロチではなかった。キビをオロチから離反させるためには、オロチに動向を知られるわけにはいかず、内密に事を進める必要があった。<br />
こういった判断も、事前のモルデの索敵と諜報活動があればこそだった。<br />
さいわいオロチ国の兵は、キビのそれに比べて全体に重装備だった。これはカナンの兵力に対抗するために、この頃増強されてきたものだ。見分けるのは難しい話ではなかったし、モルデにとって好都合だったのは、渓谷の上流にキビ国の中のコジマの兵士たちが配備されていたことだ。おそらく敵襲を受けた場合、水軍の彼らは小舟で一気に下流へ下り、本隊に知らせる役割を持たされていた。<br />
モルデは周辺にオロチ国の兵は存在しないことを確認したうえで、彼らの前へ堂々と進み出た。<br />
「カナンの使者、モルデだ! オロチ国に勝るとも劣らぬキビ国の兵(つわもの)よ、そなたらの国主と話がしたい!」<br />
その場を任されていたコジマの指揮官との話し合いは、思惑通りオロチ国の知るところとはならず、モルデ以下三人はその後、キビの兵士に連れられ、渓谷を避けた山道を使って川を下った。オロチ兵の目が届かないエリアの川幅が広くなったところで流れを船で下った。太陽が西へ傾き始めた頃には、アゾに到着していた。<br />
アゾはキビの中心地である。なだらかな山々が取り囲む広大な平野に、膨大な数の高床の建造物が並び、集落が取り巻いて広がっていた。物見やぐらでは常に警備する兵がいて、周辺の出入りを見守っている。<br />
索敵時に目にしていたとはいえ、その規模に舌を巻く。モルデに同行した二人の護衛は、これまでの小国とは異なるその景観に気を呑まれていた。<br />
案内されたのは、アゾの中心地にある大きな建造物の中だった。護衛の二人は外で待たされ、モルデは剣を預けるように指示された。それに従う。<br />
もし自分の身に何かあれば、カヤの民、そして砦の生き残りの命がなくなると伝えてある。恐れることはないと自分に言い聞かせる。<br />
やがて二人の巫女と国主らしき年輩の男が姿を現した。<br />
「首長のタケヒだ。こちらは筆頭巫女のアナト様、そしてヨサミ様」<br />
アナトは静かな、品の良い雰囲気を持つ巫女だった。ヨサミは燃えるような眼をして、モルデのことを凝視していた。<br />
また巫女か、とモルデは思った。ワの国は、どこへ行っても巫女に遭遇する。巫女たちの多くは政治の決断にも影響力も持ち、人心をまとめ上げる核となっているように思えた。そういうワの国の風土や習慣のことに理解はあっても、モルデにはワの巫女など、しょせんは劣った邪教の魔女に過ぎなかった。<br />
むしろ蔑みの対象でしかない。そんな思いは胸に押し隠しながら、モルデは言った。<br />
「カナンの王女、エステル様の名代として参りました。モルデと申します」<br />
「話というのは?」<br />
タケヒは穏やかな眼を持つ首長だった。しかし、いつでも強さを押し出すことができる者だということは、モルデも一瞥で実感していた。胆力のある男だった。持ってまわった話し合いをするより、こちらの肚(はら)を開いて見せるべきと考えた。<br />
「単刀直入に申し上げる。われらと同盟を結ばれる意志のあるや否や」<br />
「同盟?」<br />
「イズモ一帯は、今やわれらカナンが制圧しつつある。オロチ国の勢力は、今や中海より東まで退き、その後も東へ下がるのみ。この状況をキビの方々は知っておられるのか」<br />
「聞き及んではおる」<br />
「そのことが意味するものは何か、よく理解しておられるのか」<br />
「そなたが言うことの意味が、よく呑み込めぬが」<br />
「トリカミの里はすでに我らが守るところの土地という意味」<br />
タケヒの表情に、かすかに驚きがよぎった。<br />
「むろんわれらはトリカミの里が、そなたらにとっていかに重要な土地か、理解している。手を出すつもりはない」モルデは彼らをけん制しつつ、安堵も与えるために言った。<br />
が、なぜか、先刻からヨサミと呼ばれた巫女のことが気になっていた。同盟と聞いたときも今も、彼女の表情には氷のような冷たさと、その中に秘めたマグマのようなものが感じられた。この場の雰囲気のぎこちなさも、大半は彼女によるものと思えた。<br />
というのは、アナトやタケヒが、彼女の存在をどことなく気にしている雰囲気が伝わってきたからだ。この会談に、どうあっても自分もとヨサミが言い張って出席したことは、モルデには知る由もない。<br />
「トリカミの巫女は今や我らが守っているということ。それをキビは理解しておられるのか」<br />
「そういうことか……」タケヒは隣のアナトを見た。<br />
キビの筆頭巫女は、そのとき伏し目がちなまま微動だにせずいた。<br />
「このまま戦局が進めば、やがてはイナバやタジマもわれらに制圧されよう。イズモからタジマにかけて多くあるタタラ場で強制労働させられている者たちも、われらの力で解放される。そなたらの家族も」<br />
「このワの国の事情に通じておるようだな」<br />
「そなたらにとって悪い話ではないはずだ。このままオロチのカガチにこのキビが屈していて良いのか。それをお伺いしたい」<br />
「そなたの本心は、そのような親切心ではあるまい」アナトは静かに言った。<br />
「なんと?」<br />
アナトは床に目を落とす姿勢のまま、何かそこに書かれている文字を読むような調子で続けた。「キビを落とすことは容易ではない。これに力を注げば、背後が危うくなる。カヤを落としたのはいいが、そなたらは先へも後へも動けなくなっておるのだろう」<br />
たなごころをあまりに明瞭に見通され、モルデは返答に詰まった。<br />
「そなたらに絶対的に欠けておるもの。それは数。補うためには小国を併合し、人を集めねばならぬ。しかし、いかに人を集めたところで、今のままではそなたらには未来はあるまい」<br />
「なにを仰るのか」巫女に気圧されまいとして、モルデは肩と胸を張った。<br />
静かな中に潜んだ鋭利なものがアナトにはあった。鍛えられ、鋭く研がれた小刀のような気配だ。まだ若い小娘だと侮っていたし、邪教の汚らわしい巫女だとも蔑んでいた。それが思わぬ存在感と力を突き付けてきていた。<br />
「われらは神によって約束されたこの島国の真なる支配者。この国はわれらのものとなることが定まっている」<br />
ヨサミの眼が鋭く動き、光を弾いた。<br />
「まことにそのような成り行きになろうか」と、アナト。<br />
「われらには唯一の神がともにおられる。負けることはない」<br />
「唯一の神。そなたらの言う唯一の神というのは、いったいいかなる神なのか」<br />
「この地のすべてを創造され、支配されておられる神」<br />
「その神のどこが、われらの感じる神々と違うのだ」<br />
モルデは質問の意味が分からず、失笑した。何かも違うではないか。<br />
「このワの国では、多くの神々を信奉している。われらの民もさらに古い時代、そのような愚かな原始的な信仰を持っていた。が、今のわれらは違う。われらは唯一の神によって選ばれたのだ。われらは特別な民。そしてわれらの信奉する唯一の神はもろもろのか弱き汚れた邪教の神々とは異なる。われらの神を信じれば、みな、救われるのだ」<br />
「つまり今のままでは、われらは救われぬと?」<br />
「われらと同盟を結べば、そなたらにも救いはあろう。神の思し召しが」<br />
モルデのように大局を見る能力があり、理性的な判断が下せる人間であっても、まぬかれ得ぬものがあった。それは宗教の呪縛であった。神について語るモルデはその唯一神に確信を持ち、そしてみずからの信仰がやがてはこの下賤な島国の民どもも、多少なりとも救うと信じていた。<br />
自分たちのような選ばれた民ではなくとも、選ばれた民に支配されるものとして。<br />
くっくっく……と低く抑えた笑い声が聞こえた。<br />
ヨサミだった。彼女は背を丸くし、手で顔を抑えるようにして笑っていた。それは、やがて顔が上げられるとともに、甲高くて神経的な笑い声となって響いた。<br />
「アナト様、これがこの者たちの本音です! こやつらは、しょせん、自分たち以外は猿や虫けらのようにしか考えていないのです」<br />
「なにを?」モルデは気色ばんだ。<br />
「おまえの本音が読めぬと思うてか」ヨサミが立ち上がり、叫ぶように言った。「おまえの考えなど、われらには筒抜けじゃ!」<br />
モルデは蒼ざめた。考えを読まれている?<br />
「わたしはおまえたちに滅ぼされたカヤの巫女じゃ! 父も! 母も! 愛する同胞もみな、おまえたちに殺された!」<br />
この瞬間、モルデは交渉が決裂したのを知った。まさかカヤの巫女がこの場にいようとは……いや、そうではない。カヤから逃げ延びた者はいても不思議ではない。それ以上に、両者の間にはもっと深い亀裂があったのだ。<br />
それに気づかなかったために、モルデは判断を誤ったのだった。<br />
「わたしはおまえらを許さぬ……」<br />
「それは残念……」声がかすれた。<br />
モルデが緊張と怯えを感じるほど、ヨサミが放つ憎悪は濃度が高く、そして熱いものだった。人の思考さえ読み取るという巫女たちの力にも気圧されるものを感じていたが、こんなときでさえモルデが寄る辺とするのは神への信仰だった。このような者どもが、いかなる力を持っていたとしても、唯一の神にかなうはずがない……。<br />
神は自分とともにある。<br />
「話し合いにならぬようだな」モルデは席を立とうとした。<br />
そのときだった。騒ぎが起きたのは。「お待ちください」などという声が、悲鳴や絶叫に変わるということが繰り返され、アナトやタケヒにも動揺が走った。足音が近づいてきた。<br />
会談の席に現れたのは、黒頭巾をつけた山のような巨漢だった。酷薄そうな眼が底光りする猛獣のような雰囲気の持ち主で、手には血濡れた剣があった。<br />
「カ、カガチ……」タケヒが言った。<br />
カガチだと? モルデは腰を浮かせながら、珍しく逡巡した。<br />
「カガチ?」アナトの声は、むしろ疑念に満ちていた。いつの間にか見知らぬ存在へと変化を遂げていた相手を見るような、目にも表情にもそんな驚きと戸惑いがあった。<br />
「貴様がカナンの者か」<br />
まるで毒気のようだった。カガチが口を開き、言葉を発すると、禍々しい何かがあたりにまき散らされるようだった。アナトは胸を抑え、苦しんだ。<br />
それはモルデのように霊感的なものに無縁な人間にさえ、影響力を持っていた。なぜか力が奪われ、手足を萎えさせるのだ。<br />
「なぜ、ここに……」タケヒが言った。<br />
「なぜ? おまえらが窮地に陥っておるのだ。俺が助けにやって来ても不思議ではあるまい」<br />
まさかこの場に、オロチ本国からカガチがやって来るとは、誰も考えていなかった。<br />
「ましてや、コジマの水軍にはわがタジマのアマ族の手勢も多く紛れ込んでおる。俺がここへ到着したときには、すぐに報告がまいったわ」<br />
交渉がうまくいなかっただけではない。モルデは自分が致命的な失態を演じたことを思い知らされた。<br />
「さて、どう料理してやろうか」カガチはすでに何人かを血祭りに上げた剣を楽しげに振りまわした。血があちこちに飛び散る。<br />
モルデはその剣に見覚えがあった。ゆるいそりの付いた独特な形状をしていたから、すぐにわかった。<br />
「それは……」<br />
「ああん? この剣がどうかしたか」<br />
スサノヲが使っていた剣だった。<br />
「これはもうおまえの部下の血を吸うておる。おまえはどこから血を流したい?」<br />
「われらが戻らねば、カヤの捕虜たちの命がないぞ」<br />
「心配するな」ぐっと、カガチは顔を突き出し、笑った。人間のものとは思えないほどの犬歯が覗く。「おまえらに何かするほどの時間はない」<br />
不意を突いて、モルデは相手に殴り掛かろうとした。一撃でも浴びせて、この場から逃亡するつもりだった。<br />
が、カガチの動きはそれをはるかに凌駕していた。剣を持っていない左手が下から蛇の鎌首のように持ち上がり、モルデの身体を後方の柱に当たるほど跳ね飛ばした。下に落ちたとき、モルデは泡を吹き、気絶していた。<br />
カガチは哄笑した。圧倒的な〝力〟がみなぎっていた。それはこの場のキビの者が、かつて見知っていたカガチのものではなかった。そして、その〝力〟を目の当たりにしたとき、アナトとヨサミでは取る反応がまったく異なっていた。<br />
「カガチ様!」裏返るような声でヨサミが、カガチの巨体に駆け寄った。「こやつらを皆殺しにしてくださいッ!」<br />
「ヨサミ……」アナトは信じられないといった表情で、子供の頃からの友人の変貌を見た。<br />
ヨサミはすでに心を病んでいた。そのためか、まるで今この瞬間に明から暗に反転するような、異常な変化を遂げたのだった。<br />
<br />
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<br />
<br />
「おまえはカヤの巫女だったな」<br />
「はい。どうか、カナンの者どもを皆殺しに」<br />
「言われるまでもない。お前の国は取り戻してやる」<br />
「国などいりませぬ。もはや国はありませぬ……」暗い声。<br />
はっとしてアナトは幼馴染の娘を見た。ヨサミは全身を震わせ、拳を握りかため、その手からは血が滴っていた。爪が皮膚を破るほど握っているのだ。体中が抑えがたい衝動で、暴れ馬のようになっている。憎しみのオーラが、鼓動のように彼女の全身から発せられ、それがカガチの恐ろしい邪気と結びついていた。二匹の巨大な蛇がのたうち、交わるように。<br />
「もし傲慢なカナンの者どもを打ち滅ぼしてくださるのなら、わたしはなにもいりませぬ」<br />
「よう言うた」カガチは凄絶な笑いを浮かべ、ヨサミの顎に指をかけ、顔を上向かせた。「国もないのなら、わがものとなれ。そうしたら、おまえの望みをかなえてやろう」<br />
「喜んで……」<br />
冷水を浴びたような心地とともに、「ヨサミ!」とアナトは叫んだ。だが、カガチから向けられた怒気が、熱風のように彼女を圧倒した。<br />
「貴様ら……わが国をないがしろにして、カナンの使者となぜ会おうとした」<br />
「…………」<br />
返答ができなかった。アナトの心境には、カガチと袂を分かつことも一つの選択としてあったからだ。むろんヨサミの心情を思えば、安易にそのような選択は取れない。しかし、国の主としては考えなければならない問題だった。<br />
この場でモルデの心まで見通すことで、カナンと同盟を結ぶという選択肢はなくなったが、そうでなければあるいはこの先に……。<br />
「まあ、いい」カガチは言った。「明日、カヤに陣取っているカナンに攻勢をかける。すべての兵を集めておけ。いいか。明日からの戦には、おまえたちも参加するのだ」<br />
「わたしたちも!?」<br />
「そうだ。国の主であるおまえたちが先頭に立てば士気も上がろう。――このカナンの者を拷問にかけろ。交渉に出てきたほどの者だ。カナンの内情は詳しく知っておるはずだ」<br />
<br />
<br />
「待って」数刻後、アナトは、一人、カガチについて祭殿を去ろうとするヨサミに呼びかけた。「ヨサミ、考え直して」<br />
ヨサミは振り返って言った。「なにを?」<br />
今まで一度も見たことがないほどの凍ったような表情だった。<br />
「カガチについていけば、あなたは何もかも失ってしまう。巫女としても」<br />
「なにを? もう失っているわ、何もかも」<br />
「お父様やお母様が悲しむわ」<br />
その言葉は、いくばくか、ヨサミの胸に食い込む力を持っていた。だが――。<br />
「そんなことはわかっている……」地の底から吹き出すような憎悪が、眼と口元にみなぎった。「でも! わたしはカナンのやつらが憎くて憎くてしかたないのよ! 悲しくて悲しくて、どうしようもないのッ! この悲しみや怒りをどうしたらいいのッ!!」<br />
最後は絶叫だった。<br />
アナトはもはや言葉を失った。<br />
「もういい……」ヨサミは静かに言った。「アナトも、みんなも、もういらない。あなたたちは、本当はカガチと手を切りたいのでしょう。わたしにはわかる。きれいごとばかり」<br />
ヨサミは背を向け、歩き出した。その場にしゃがみこんだアナトの眼から涙があふれ出した。<br />
<br />
<br />
5<br />
<br />
カガチは言葉通り、翌日にはカヤに再建しつつあった砦を攻めた。川を遡上するルートだけではなく、東の山側からも大軍を押し寄せ、カナンの中核である精鋭部隊を数で圧倒した。しかし、それは数の問題だけではなかった。<br />
指揮を執るだけではなく、カガチは自ら先頭に立ち、砦攻略の先鋒に立った。大将が先陣を切るなど、あり得ない戦略だったが、カガチは降り注ぐ矢を払いのけ、押し寄せる防衛隊を蹴散らしてのけた。<br />
そこへオロチ・キビの連合軍が攻め込んだ。<br />
カナンに油断があったわけではなかった。が、これまでありとあらゆる戦局で、その眼となり耳となってきたモルデが失われてしまったのは、現実的にも心理的にも大きなダメージだった。戻らないモルデの身を案じる暇もなく、不意打ちで攻撃をかけられた形となった。<br />
エステルはモルデを交渉に送り出したことを心底後悔した。カナンの守りは機能せず、連鎖的に崩れ続けた。<br />
「ユダの部隊が全滅しました!」カイの絶望的な知らせが届いたとき、砦は陥落寸前だった。<br />
「エステル様、このままでは……」ヤイルが言った。「砦を捨てましょう。今なら間に合います」<br />
「しかし……」<br />
この場を去ってはモルデが……というのは私情だった。<br />
「イズモまで引き、体勢を立て直しましょう」<br />
「アロンがしんがりを務めます。エステル様」アロンも同様に進言した。<br />
苦渋の決断だった。<br />
「わ、わかった……」<br />
そのとき幕屋のそばで騒乱が起きた。見れば、そこには十数名のカナン兵に取り囲まれた、黒頭巾の巨漢がいた。巨漢はにたにた笑いながら、手にした剣の血糊を舐めた。カガチだった。<br />
うお――! と口々に声を上げ、兵士たちが斬りかかった。<br />
爆発が起きたようだった。<br />
そしてエステルは奇妙な既視感(デジャヴュ)を覚えた。それはスサの地でスサノヲが見せた圧倒的な〝力〟そのものとしか思えなかった。暴力的な嵐が渦巻き、カナン兵の肉体は寸断された。鎧の装備があろうが、まったく問題ではなかった。<br />
あの剣は……。<br />
「エステル様!」ヤイルが二の腕をつかみ、引っ張った。<br />
カガチは荒々しい踊りを踊っていた。その舞踏はすべてを破壊し、踏み荒らす足が着地するたび、世界が鳴動し、命が奪われた。<br />
破壊の神。<br />
カガチは吠えた。それは猛々しい破壊の欲望が、殺戮を重ねることでさらに高揚したためだった。<br />
激しい動きによって、黒頭巾がほどけ、ずれていた。<br />
半ばあらわになったその頭部に、エステルは見た。逃げ惑いながらも、はっきりと。<br />
<br />
その頭部には二本の角が生えていた。<br />
<br />
化け物……。<br />
凍りつくような恐怖がエステルの身体をこわばらせ、動きを鈍らせた。これまでどのような戦場でも、死に瀕したスサでさえ、このような恐怖を味わったことがなかった。<br />
あまりにおぞましさにエステルは吐いた。えづきながらも逃げた。<br />
「そこか……」<br />
その言葉が悪霊のように背後から迫ってきて、エステルの両肩をつかんだ。脚をわしづかみにした。<br />
<br />
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<br />
<br />
それこそ悪夢の中でしか体験できなかったものだった。黒頭巾の鬼神が発する黒い霧のようなものが、エステルを囲繞(いにょう)し、身動きさえ鈍くした。それはほとんど物理的な力を持っていた。そのために思うように逃げられなかった。<br />
非常時用の階段を辛くも登り切り、緊急用に作らせていた西側の渓谷へ抜ける吊り橋へ向かう。野獣の咆哮が下から迫ってくる。<br />
しんがりのアロンの一つ前にいたカイは、そのとき兄の命令で作っていた仕掛けを眼にした。ほとんど考えることもなく、その仕掛けを作動させるための綱を引っ張った。<br />
消火機能を兼ねた貯水樽がいくつも一気に裏返り、下へ向かって水を放出した。階段を上って来ていたカガチは、それで一度足を取られ、落下した。ずぶ濡れになりながら起き上り、階段を上がるというよりも、飛び上がっていく。<br />
「エステル様! 早く!」アロンが叫び、剣を取った。<br />
エステルとヤイルは数名の衛兵たちと共に吊り橋を半ばほど渡っていた。カイがそれに続く。<br />
「邪魔だ!」迫るカガチ。<br />
アロンは剣をまともに合わせることもできなかった。カナンで屈指の剣客である彼が、ただ一振りを受けただけで跳ね飛ばされた。吊り橋の蔓にしがみつき、体勢を立て直す。<br />
カガチは無造作にさらに二度、剣を振るった。最初の一撃でアロンの剣は折れた。そして次の刃が彼の首をはねた。<br />
「アロン! アロ――ン!!」<br />
エステルが叫ぶのと、ヤイルが吊り橋の蔓を切り落とすのは同時だった。<br />
橋は落ちた。<br />
さすがのカガチも、その渓谷を飛び渡ることはできなかった。<br />
だが、彼は笑いを浮かべ、剣をエステルに向けた。そして言った。<br />
「カナンのお姫様。俺から逃げられると思うなよ。どこまでも追いかけて、おまえのはらわたを食らい尽くしてやる! 覚悟しておれ!」<br />
<br />
<br />
その夜、ヨサミはカガチに連れられ、砦に戻った。カナンによって再建されつつあったカヤの砦に。<br />
そこはもはやヨサミの知る懐かしい場所でもなんでもなかった。累々たる屍が満ち、死にゆく人々の怨念や悲しみが満ちた空間だった。<br />
エステルが臥所に使っていた寝台に放り投げられ、カガチの巨体がのしかかってくるのを、ヨサミは他人事のように感じていた。飢えた獣に四肢を食われるようだった。やがて訪れた身を二つに引き裂かれるような激痛に、ヨサミは悲鳴を上げた。泣き、喚き、そして暴れた。<br />
脳裏を父や母、そしてアナトたちの顔がよぎって行く。裏切った。そんな想いが、抑えようもなく湧いた。すべて裏切り、すべてなくした。<br />
巫女としての使命より、おのが激情に身を任せることを選んだ。それこそがヨサミの、自らへの裏切りだった。味わったことのないようなこの苦痛。その痛みは倒錯した喜びでさえあった。<br />
一人、生き残ってしまった。その根深い悔悟と罪悪感を打ち消してくれるのは、この苦痛だけだった。<br />
苦悶にのたうちながらヨサミは血を吐くように口走った。「カナンを……あの女を……八つ裂きにして! 八つ裂きに……!」<br />
カガチはその大きな手で、ヨサミの顔をつかみ、眼を覗きこんだ。<br />
「ならば捧げろ。すべて」<br />
「……〝力〟をすべてあげる。わたしの全部を」<br />
「愛いやつじゃ」<br />
カガチは鬼神だった。それは黒頭巾に隠されていても、もはや明白な事実として知れていた。何人もの人間が彼の頭部に屹立するものを畏怖を持って目撃していたし、ヨサミにとっては彼の持つ〝力〟が鬼神のそれであることは、自明の理だった。<br />
その〝力〟と同化する。<br />
恐ろしさに身が震えた。その恐怖がカガチからくわえられる激痛と相まって、彼女を狂わせた。<br />
「目障りな」カガチは鬱陶しそうに言い、ヨサミの胸に光っていた勾玉をつかみ、首飾りを引きちぎった。<br />
放り投げられ、床に転がった勾玉は、淡い光を放ち、そしてその光を消した。<br />
<br />
<br />
――カヤの砦の外。<br />
落ちかかった半月が、西の空にあった。アナトたち四人の巫女が、星空の下、集まっていた。彼女らは手に首飾りの勾玉を載せていた。<br />
「ヨサミ……」アナトの声は震えていた。<br />
四つの勾玉は悲しげに明滅を繰り返した。<br />
<br />
<br />
――タジマの国。<br />
アマ族の巫女であるアカルは、同じ月を見ていた。月はなぜか赤く染まって見えた。<br />
勾玉が細かく、怯えるように震えていた。明滅を繰り返す。<br />
「これは……」アカルは胸元を抑えた。<br />
鋭いもので貫かれるような痛みが襲ってきた。<br />
「誰なの……。誰が……」<br />
見開いたアカルの眼の中に、幻視が生じた。<br />
「カガチが……」<br />
<br />
<br />
――カヤを北上した山中の洞窟。<br />
かろうじて逃げ延びたエステルたちが身をひそめていた。<br />
洞窟の中で焚かれる火の周囲に集まるたったの七名が、カヤを生き延びた生存者だった。<br />
信じられなかった。誰もが、たったの一日前まで、このような事態を迎えるとは想像していなかった。<br />
傲慢な彼らの思惑は、ことごとく打ち砕かれていた。<br />
洞窟の一番奥で、エステルは膝を抱え、ただ火を見つめていた。が、本当にその眼の中で見ているのは、昼間のカガチによる殺戮の光景の再現だった。幾度も幾度も、それは繰り返された。<br />
恐ろしい……。<br />
心底、思った。この東洋の島国に至るまで、辛酸を舐めつくしたはずだった。だが、ここへ来て、エステルの心の中にあった強固な芯が、ぽきりと折れてしまっていた。それほどのショックを、あの鬼神はもたらしたのだ。<br />
――俺から逃げられると思うなよ。どこまでも追いかけて、おまえのはらわたを食らい尽くしてやる!<br />
胸の奥から突き上げてくるものがあり、エステルは口を押えた。洞窟の奥の方へ駆け込み、背を波打たせる。もはや吐くものもなく、黄水だけが鼻の奥を痛くした。<br />
「エステル様」ヤイルが背をさすった。<br />
そのとき彼には、エステルの首から下がっている宝珠が、淡く光っているように見えた。<br />
<br />
<br />
――トリカミの里。<br />
スノサヲは夜、気配を感じて外に出た。冷え込みが厳しくなり、吐く息は白かった。<br />
西の空に半月はあったが、澄んだ空には星々があふれ出て、零れ落ちるように広がっていた。<br />
前の満月の夜、語り合った二つの岩のそばに、クシナーダの背中が見えた。<br />
「どうした、こんな夜中に――クシナーダ?」<br />
スサノヲは気づいた。彼女の丸められた背が震え、嗚咽を彼女が洩らしていることに。<br />
「どうした、どこか痛むのか」<br />
まさにそのように見えた。クシナーダはうなずき、そして首を振った。<br />
「どうしたというのだ」と、肩に手をかけた。<br />
振り返った彼女の眼から、はらはらと涙が零れ落ちていた。その表情のあまりの悲しみの深さに、スサノヲは息がつまった。彼女は自分の勾玉を両手で握りしめていた。<br />
驚くべきことに、勾玉は光を放っていた。青く悲しい光を明滅させている。<br />
「御霊(みたま)が……泣いております」クシナーダはそう言い、たえかねたようにスサノヲの胸に顔を押し付けてきた。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<br />
わずかな逡巡の後、スサノヲはクシナーダの身体をそっと抱いた。<br />
<br />
――この娘(こ)を守りたい。<br />
<br />
それはこれまで、この地上でどのような存在にも抱いたことのない、熾烈な想いだった。<br />
<br />
そして……。<br />
あと二人、勾玉の明滅を見守る巫女がいた。<br />
<br />
<br />
そのうち一人は、その夜、船上にいた。<br />
「ナオヒ様、寒くありませぬか」<br />
声をかけられた老いた巫女は、冷たい潮風を心地よさそうに浴びていた。甲板の上に座ったまま、「案ずるな」と言った。<br />
「いや、しかし、お風邪でも召されては」<br />
「無粋なことを言うでない」皺を引き延ばすように顎を上向け、東の上空にあるオリオンの三ツ星を見つめた。「せっかくの美しい星を楽しんでおるのじゃ」<br />
そういうナオヒの掌でも、勾玉は明滅していた。<br />
<br />
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<br />
<br />
もう一人は生駒から葛城へつながる峰の向こうに消えかかる月を見ていた。<br />
「シキが泣いている……」ぽつりとその背が発したように思えた。<br />
「シキ様が?」巫女の背後で待機している男の黒い影が答えた。<br />
「カーラ、わたくしはキビへ行きます」<br />
「カガチの要請をお受けになるので?」<br />
「表向きは。明日、皆を集めておくれ」<br />
「はい」<br />
「よくお聞きなさい、カーラ」<br />
「はい」<br />
「これから起きることは、このヤマトにも、ワの国全体にも大きな意味を持つであろう」切れ長の目を持つ巫女は振り返った。「いや、きっと生きとし生けるものすべてにかかわること。この大きな玉の上で生きるすべての者の未来に。それを心しておくのだ」<br />
「はい。イスズ様」<br />
ヤマトの巫女はカーラの横を通り過ぎて行った。<br />
その胸元でも、勾玉が明滅していた。<br />
<div>
<br /></div>
<div>
<br /></div>
<div>
<br /></div>
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<a href="http://blog.with2.net/link.php?1759712:1664" style="font-size: 12px;">小説 ブログランキングへ</a>ZEPHYRhttp://www.blogger.com/profile/18267253818170282825noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-870645900423302834.post-57359450341469513642015-07-02T11:16:00.000+09:002015-10-23T21:58:26.646+09:00ヤオヨロズ第3章 黄泉の扉<br />
1<br />
<br />
「オシヲ、クシナーダ様を知らない?」<br />
ミツハに声をかけられ、オシヲはドキッとしながら足を止めた。<br />
「あ、ああ。そういえば、さっきスクナと一緒に北田のほうへ行ったようだけど」<br />
「呼んできてくれる? アシナヅチ様のところにご来客なの。スサノヲ様も北田にいらっしゃるはずだから、ご一緒にお呼びして」<br />
「わかった」オシヲはミツハの頼みに応えられる喜びを胸に走り出した。とてもささやかなことだが、彼には重要なことだった。<br />
ミツハは十四、オシヲは十三である。幼いころから姉弟同然に育ってきたが、ある時期からミツハは巫女としての素養を見込まれ、他の子供たちとは違った育てられ方をするようになった。それ以来、若干の距離ができてしまったが、オシヲはずっと、少しだけお姉さんのミツハのことを、同じ里の中でも常に目で追いかけていた。<br />
おっとりとしているが、いつもにこにことして、優しい笑顔が絶えないミツハ。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<br />
ミツハに認められる男になりたい。そんなことも、いつの間にか思うようになっていた。<br />
だから、イタケルにもこっそり教えてもらい、剣を使う練習もしていた。里には今、以前カナンによって殺されたオロチの兵が持っていた剣が十本ほどあった。それを使って、日々、鍛錬していた。<br />
ミツハや里は俺が守るんだ。そんな想いが、日々、きな臭い雰囲気が里の周辺に蔓延するにつれ、強くなっていた。<br />
本当はスサノヲに剣を教えてもらいたかった。しかし、カナンの兵士たちがやってきたときに見せたスサノヲの身のこなしを見たら、あまりにもすごすぎて、とてもおいそれとは頼めなかった。比較的寡黙なスサノヲには、少し近寄りがたいところもあった。<br />
スサノヲはすげえ、と素直にオシヲは思っている。そして、最近のスサノヲとクシナーダの様子を見ていたら、二人がとてもいい感じなのも、好ましく思っていた。<br />
二人はお互いを意識し合っていた。それは、はたで見ていたらわかる。どこにいても、かならずお互いの姿を眼で探している。そう、それはオシヲがミツハに対してそうだから、すぐにわかる。そして、たいていその姿を発見すると、クシナーダのほうがさりげなく近寄っていく。<br />
二人が寄り添って立っているのを見ていると、ふとこのままスサノヲがこの里に留まってくれて、クシナーダと結婚して、共に里を守ってくれたらいいのに、という思いが強く湧いてくる。クシナーダは里の男たち全員の憧れのようなものだったが、一方でスサノヲがクシナーダにふさわしいということも、誰もが感じていた。<br />
北田へ行くと、とうに収穫を終えている稲田の畔に、やはりクシナーダとスサノヲの二人の姿があった。イタケルとスクナと一緒に話し込んでいる。スサノヲとイタケルは、新しく土地を開墾しているところで、腰を下ろして休憩中といった様子だ。汗が光っている。クシナーダとスクナは、彼らに水と焼き栗を届けに来たようだ。<br />
「たしかに今年はカメムシがひどかった。まるで俺たちが虫を養ってやってるようなもんだ」と、イタケルが焼き栗を噛みながら説明している。「――お、どした、オシヲ」<br />
息を切らしながら、オシヲは要件を告げた。<br />
「少しだけ待ってくださいね」と、クシナーダ。「スサノヲも今、ちょうど休憩されたところですから」<br />
「そのカメムシというのは?」と、スサノヲ。<br />
「稲を食う虫だ。くっせえ臭いをひり出しやがる。臭いがついたらとれねえ」<br />
「稲作が広がるにつれて、カメムシも繁殖するのは当たり前だよ」と、スクナが言った。<br />
「なんかいい手はないか、スクナ」<br />
イタケルはずっと年下のスクナにも意見を求めている。スクナは少女でも、今や大人たちも一目を置く存在だ。薬草のことだけではなく、大陸で様々な知識を習得してきていたからだ。<br />
とはいえ、スクナも「うーん」と悩んでいる。<br />
「臭い……虫」クシナーダは稲作を行う土地を見ながら、ふっとどこか遠くを見る眼差しになった。「……いいアイディアがあります」<br />
「あ、あいであ?」と、スクナ。<br />
「ああ、ええと、いい考えです」クシナーダは言いなおした。「畔にハッカを植えてみてください」<br />
「ハッカ? ハッカって、なんだ」<br />
「スクナはよく知っています。清々しい香りのする野草です」<br />
「それを植えたらどうなるの?」と、スクナ。<br />
「カメムシが嫌がるのではないかと」<br />
「ほんとか、それ」<br />
「やってみてください。スクナ、ハッカのたくさんあるところ、知っているでしょう?」<br />
「うん、知ってる」<br />
「イタケル、スクナや他の里の人と一緒にハッカを集めて、畔に植えるようにしてください。来年の田植えに間に合うように」<br />
「お、おお。わかった」<br />
クシナーダはスサノヲを振り返った。彼女の意を察して、スサノヲは立ち上がった。二人はオシヲを促して歩き出す。<br />
「スサノヲ、大丈夫ですか。お疲れでは」<br />
「大丈夫だ」<br />
クシナーダは、今日は緋色の衣をつけていた。スサノヲは藍色の衣を。どちらもクシナーダが野草や樹木の幹や葉から取った染料で染めたものだ。<br />
「もしかして、また未来を見たのか」並んで歩きながら、スサノヲが訊く。<br />
「あ、ばれちゃいました?」優しく笑うクシナーダの口の中に舌が見える。「ふっと幻視がやってくるのです。未来の稲田でこんなことをしている、こんなふうになっているというのが。ええと、なんというのか、こういうのを、かんにんぐ、というらしいです」<br />
「かんにんぐ?」<br />
「ずるをするというようなことらしいです」<br />
「なるほど。いつも、ずるができれば便利だな」<br />
「必要なければ見えませんよ」<br />
「意外に、そうやって歴史というのは作られているのかもしれぬな」<br />
そんな会話をしながら歩く二人は、本当の夫婦のようだった。<br />
歩きながらクシナーダが歌い始める。<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船<br />
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ<br />
゚・*:.。..。.:*・゚あなたの訪れ<br />
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた<br />
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船<br />
゚・*:.。..。.:*・゚長い年月<br />
゚・*:.。..。.:*・゚ただ、あなただけ<br />
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた<br />
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ<br />
<br />
星の物語の歌の一部だ。オシヲの胸の中にも、すっとヒビキが入ってきて、聞いているだけで癒される。クシナーダはこの歌が大好きで、幼いころからいつも歌っていた。<br />
クシナーダは恋をしている。オシヲは確信していた。彼女からは今、匂い立つような花の良い香りがするように思われた。全身で愛を表現している。<br />
その対象は、むろん、スサノヲだ。<br />
しかし、クシナーダのそれに比べ、スサノヲはあまりにも無愛想で、何も感じないかのように、平然とした顔をしていた。いや、そのふりをしているように思われた。<br />
オシヲはそんなスサノヲを見ると、後ろから蹴ってやりたくなるのだった。<br />
<br />
<br />
アシナヅチの居宅に近づくと、笑い声が響くのが耳に入った。中では年老いた巫女ともう一人の男が、アシナヅチと談笑していた。そのそばでミツハが柿の葉のお茶を入れている。<br />
「あら、ナオヒ様。お早いお着きですね」クシナーダは入るなり言った。<br />
「なんだ、クシナーダ、ナオヒが来るのを知っておったのか」と、アシナヅチが意外そうに言った。<br />
「はい。わかっておりました」クシナーダはミツハのそばにやって来て、一緒にお茶の用意を手伝いながら続けた。「ああ、ナオヒ様のヒビキが近づいて来るな~と」<br />
「言ってくれればよいものを」<br />
「アシナヅチ様も気づいておられると思っておりました」<br />
「クシナーダ、こやつもだんだん耄碌してきておるのじゃ」ナオヒは笑いながら指差した。「最近はこっちから〝語り〟かけても、ぜんぜん応えてくれん。ぼけじじいじゃな」<br />
「なにを言う。あんたのほうこそ、わしよりも三つも年上のばばあじゃないか」<br />
「女のほうが長生きで丈夫なんじゃよ」<br />
年寄り同士のなにやら異次元の会話がなされているのを聞きながら、スサノヲは老いた巫女の反対側に腰を下ろした。巫女の隣にいる男と目が合い、互いに目礼をする。三十代の壮健な男だった。<br />
「オシヲ、お茶の葉とお湯飲みが足りないの」ミツハが戸口のところに立っているオシヲに声をかけた。「わたしの家にあるから、取りに行ってくれる?」<br />
「ああ、いいよ」と、オシヲがよく響く声で答え、走って行った。<br />
「ところで、ナオヒ様。アソの大巫女様がはるばるいったい何の御用で?」クシナーダはお茶を出しながら言った。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<br />
「感じるところがあってな」ナオヒはお茶の器を手に取り、目を細めてそれを飲んだ。が、飲みながらその眼はスサノヲを見つめていた。「――さぞかし猛々しいやつかと思いきや、意外にも静かなヒビキじゃな」<br />
自分のことを言われているのだと知り、スサノヲはただ黙って見つめ返した。<br />
「じゃが、その静けさの中に火の山のような〝力〟がある。まるでアソのお山じゃ」<br />
「アソ?」<br />
「ツクシにあるものすごく大きな火の山です」と、クシナーダが説明する。<br />
「わしはこちらへ来る間、ずっと感じておった。恐ろしく猛々しい、憎しみに満ちた〝力〟が荒れ狂っておるのを。てっきり、そなたがそれかと思うておったが、はて……?」<br />
「フツノミタマのことでしょうか」<br />
「クシナーダも感じておるのじゃな」<br />
「はい。その言葉が繰り返し、繰り返し降りてくるのです。それはたぶん、今はキビのほうにあると思いますが……」クシナーダは遠慮がちにスサノヲを見た。「なにかこう、スサノヲが二人いるように思えるのです」<br />
「俺が? 二人?」スサノヲは戸惑った。「その、フツノミタマとは?」<br />
「わからん」と、アシナヅチが言った。「たぶん何かの憑代(よりしろ)のようなものじゃろう。わしにはそれが剣のように見える」<br />
ふん、とナオヒは鼻で笑った。「おや、じじいも気づいておったのか」<br />
「当り前じゃ」<br />
「しかし、問題はフツノミタマではなく、その〝力〟を悪しき思いで使う者がおるということじゃ。が、とりあえず、スサノヲ、そなたの姿を見て安堵したわ」<br />
――剣? スサノヲの心にざわつくものがあった。<br />
「すると、おぬしはわざわざツクシから、スサノヲの顔を見に参ったのか」<br />
「ああ、うるさいじじいじゃ。そればかりではないわい」<br />
二人はあきらかに互いにじゃれ合うように揶揄し合っていた。それが二人なりの楽しいやり取りなのだ。<br />
そこへオシヲがお茶の葉と器を持って戻ってきた。クシナーダがミツハとお茶を用意しようとすると、その背にナオヒが言った。<br />
「クシナーダ、聞いておくれ」<br />
「はい」手を止めて、振り返る。<br />
オシヲが代わって、ミツハの手伝いをする。<br />
「ツクシの争いは、それはひどいものじゃ。毎日毎日、各地で土地の奪い合いをしておる。ナの国も、イト国も、この争いを抑えることができぬ。ことに昔からツクシに住むクナ国との争いは、まこと惨いものじゃ」<br />
「痛ましいことです」クシナーダの声も沈んだ。<br />
「わしらは今日、ツクシを代表してここへ参った。この者は、イト国の皇子(みこ)、ニギヒじゃ」<br />
ミツハやオシヲが驚きに手を止めた。ニギヒはあらためてクシナーダに会釈をし、クシナーダは深く頭を下げた。<br />
「この百年じゃ。大陸から雪崩を打つように、多くの民やモノが流れ込んできた。あまりにも急な変化はさまざまな軋轢を引き起こす。変化を受け入れ、あわよくば利益を得ようとする者。あるいは変化を拒み、それまでの暮らしにしがみつく者。どちらにせよ、対立と分裂が生まれてしまう。このままではワの国は、二つに引き裂かれるじゃろう。東西、あるいは南北に。もともとワの民として、共に生きてきたわれらが、争い合い、憎み合い、それをずっと繰り返すようになるやもしれん」<br />
「まことに憂慮すべき事態です」と、ニギヒが後を続けた。「このままで良いとはだれも思うておりませぬ。が、止める手だてがございませぬ」<br />
「そこでイト国王は、このニギヒをわしのところへ遣わした。ツクシの中で、イト国がいわば渡来した者たちの代表、わしはもともとワの国に住まう者の代表というわけじゃ」<br />
「では、大巫女様とイト国との間で良いお話ができたのでは?」<br />
「なかなか簡単ではない。ことはツクシだけでは収まらぬ。もうそういう時代ではないのじゃ、クシナーダ」<br />
「と申されますと?」<br />
「ツクシではもう殺し合いが過ぎておる。家族や愛する者を殺されたから相手を殺す。そうしたら、また相手から殺し返される。そのような憎しみの連鎖が続きすぎておる」<br />
「それでも、ナオヒ様が大巫女として剣を収めるように命じられたら……」<br />
「わしとて、過去に幾度もそうして骨を折ってきたのじゃ。戦をやめるための協定は幾度も結ばれたが、その都度、破られてきた。土地が生む利益を求める欲が取り決めを破らせ、あるいは過去の怨讐がアソの噴火のように起きてな。今さらイトがわしを立てたところで、周囲は決して納得はせぬ。多くの者は、わしがいいように利用されたと思うじゃろう。この通りの年寄りじゃしな」<br />
「かといって、われら渡来系の国々がこのまま力で覇権を広げることも愚策です」と、ニギヒ。<br />
「そこでじゃ、クシナーダ、そなたに頼みがあるのじゃ」<br />
「いやです」<br />
は? というような空気が室内に広がった。ミツハやオシヲはお茶を全ての人間に出し終えるところだったが、そのまま固まってしまう。<br />
「まだ何も言うておらぬじゃろう……」<br />
「いやです」クシナーダは堅い表情のまま、きっぱりと言い切った。<br />
「まいったわ、こりゃ……」<br />
ナオヒは苦笑して、珍しく救いを求めるようにアシナヅチを見た。が、当のアシナヅチは眼をあらぬ方に向け、素知らぬ顔をした。<br />
「クシナーダ様」めげない意志を見せたのか、あるいは鈍感なのか、ニギヒが言った。「どうか、ワの国全体の女王になっていただけないでしょうか」<br />
この申し出に度肝を抜かれたのは、ミツハやオシヲだった。スサノヲもさすがに想定外のことだった。しかし、クシナーダは頑なな姿勢を崩さなかった。<br />
「ですから、お断り申し上げております」<br />
「なぜですか。あなたは今のこのワの国の至宝です。ツクシだけでない、このナカの国やイヨ、あるいはヤマトの先にある東国でさえ、あなたが女王として立つのであれば納得するかもしれない。それで多くの者が救われるのですよ」<br />
「ニギヒ様」<br />
「は、はい」<br />
「それでは逆にお尋ねいたしますが、ニギヒ様がこれから後の人生、皇子としての地位を捨てて、ただ一人のワの民として生きろと言われて、それはおできになりますか」<br />
「それは……」<br />
「そうすれば民が救われます」<br />
「ならば……そのように致します」<br />
「ご立派なお心がけです。しかし、生涯、たた一人で生きなければなりませぬ。それでも、おできになられますか。どのような伴侶も娶らず、生涯をただ一人で終えるのです」<br />
「それは……しかし、それで民が救われるのなら」<br />
「あなた様はとても高貴なお考えをお持ちの方でいらっしゃいます。素晴らしいお方です。しかし、ニギヒ様、それは言葉でいうほど簡単なことではございません。人は普通に誰かに出会い、そして誰かを愛するものだからです。わたくしには以前からわかっておりました。わたくしの未来には、大きく二つの選択肢があることを。その一つを、今日、お二人がお持ちになりました。その未来を選択した場合、わたくしがどのような命運を辿っていくか、おおよそのことはわかっています。幼いころからわたくしは、その日が来ないことをずっと祈っておりました」<br />
じっと見つめていたナオヒは、ちらっとクシナーダの隣のスサノヲを見、いきなり笑い出した。「そうか! そうであったか! はっはっはっは。このナオヒ、とんだ無粋者じゃ! なあ、アシナヅチ」<br />
「まあ、そういうことじゃな」そう言いながら、アシナヅチの視線もクシナーダとスサノヲの間を行き来した。<br />
「では、どうしてもお受けくださらないと……」ニギヒは落胆を隠せなかった。<br />
「俺のような部外者が口を挟んでもよいか」<br />
スサノヲが珍しく口を開き、周囲を驚かせた。<br />
「そなたらは人の命を盾に、クシナーダに要求を突き付けている。ワの国の戦争で死ぬ者がいる。それが救われる。だから、ワの女王になれと。それはこのトリカミの里や巫女の命を盾にとって支配を広げてきたカガチのやり口と、どう違うのだ」<br />
それはまったく意表を突く、重い衝撃を伴った指摘だった。ニギヒは言葉を失い、狼狽した。<br />
「……いや、形はそうでも、カガチとはまったく考えは違う。われらには大きな理想がある。カガチは自分が支配したいだけだ」<br />
「たしかに、そなたらはこの国を平和にしたいのであろう。しかし、クシナーダにこの戦乱の何の責があろう? そなたらの言い分は、クシナーダ個人の願いとか夢を犠牲にして成り立つものだ。まして、クシナーダが女王になったところで、本当に争いがなくなるのか? それははなはだ疑問に思える」<br />
「スサノヲの言う通りじゃ」ナオヒは言った。「クナ国はおそらく誰が女王になろうと、簡単には和することはあるまい。東国もしかりじゃ」<br />
「まして、カガチがクシナーダ女王を承認するはずがない」アシナヅチも口添えした。「それに、先来、渡来したカナンじゃ。唯一の神を信奉する彼らは、これには絶対に従うまい」<br />
「カナン……。聞き及んでおります」と、ニギヒ。<br />
「クシナーダを女王に担げば、むしろいっそうこのナカの国の争いに火をつけ、とてつもない混乱と人の死が生まれるのではないか。クシナーダはそういったこともわかっているのだろう」と、スサノヲは娘を見た。「彼女は心優しい娘(こ)だ。人の命がかかっていると言われているのに、そなたらの申し出を断るのも、本当はすごく傷ついているはず。よほど思うところがあるのだ。それをわかってやってはくれまいか」<br />
「ニギヒ、この話はもうやめじゃ!」ナオヒが笑顔で言った。<br />
「わかりました」と、ニギヒも折れた。<br />
「しかし、スサノヲ」ナオヒはずいっと前に出た。「そなた、自分のことを部外者と言うな」<br />
「……流れ着いた者ゆえに」<br />
「気持ちを察さねばならぬのは、そなたのほうかもしれぬな」そう言って、ナオヒは豪快に笑った。「アシナヅチ、わしはしばらくここで厄介になるぞ。なにやら、これから面白くなりそうじゃからのぉ」<br />
<br />
<br />
2<br />
<br />
「スサノヲ様」<br />
呼び止められたのは、その日の夕刻だった。トリカミでは、食事は毎回、里人全員のものが共同で作られる。収穫が多いときも少ないときも、それを分け合って食べるのだ。その用意がなされていた。<br />
通りかかった彼を呼び止めたのは、ミツハだった。彼女は抱えていた山芋をその場に置くと、小走りに近づいてきた。<br />
「どうした」<br />
「あの」ミツハは眼を輝かせながら無邪気に言った。「ありがとうございます」<br />
「なんのことだ」<br />
「さきほど、クシナーダ様のことをかばっていただきました」<br />
「ああ」なんのことかと思えば、という感じで、スサノヲはむしろ意外に感じながら応えた。「かばうというほどのこともない」<br />
「いえ。クシナーダ様は本当に喜んでおられました。スサノヲ様にああ言っていただいたことが、とてもうれしかったのだと思います」<br />
「そうか」<br />
「わたしも、とてもうれしゅうございました。ありがとうございました」<br />
「あ、ああ」<br />
「クシナーダ様を呼んできてくださいますか。もうすぐ晩御飯ですから」<br />
「わかった」<br />
ミツハはぺこりと頭を下げ、走って戻って行った。食事の用意をしている女たちの中へ入って行き、笑いながら山芋を洗いはじめる。<br />
無邪気な少女だ。素直な感情にあふれた表情がまぶしいほどだ。<br />
「かわいい乙女じゃな」いつの間にかやってきたナオヒが言った。そしてすごくまじめな顔で続けた。「わしにもああいう時があった」<br />
「…………」<br />
「なんとか言え」<br />
「いや……どう反応していいか、わからなかった」<br />
「小憎たらしいやつじゃ」笑いながらナオヒは持っていた杖で、スサノヲの尻を軽く叩いた。「天界から降った身には、地上の民などはかなく脆い命に見えるのじゃろうな」<br />
その通りだった。<br />
「その代償じゃろうな。そなたにはまだ大事なものがちゃんと備わっておらぬ」<br />
「大事なもの?」<br />
「感情じゃよ」<br />
思いがけぬ指摘を受け、スサノヲは言葉に詰まった。昼間の意趣返しをされたようなものだった。<br />
「それゆえに、そなたはこの地上で生きる人としては、はなはだ不完全じゃ。自分が空っぽだと感じるのではないか。ああして笑い、そしてあのように泣き……」<br />
子供たちが喧嘩して、一人が泣いている。母親が駆け寄って行くのが見えた。<br />
「そんな感情を人が持つのはなぜなのか。なぜ人はこの世に生まれるのか。よく考えてみることじゃな」<br />
ナオヒは謎かけをして、ひょこひょこ歩いて夕食の席に向かった。<br />
スサノヲはクシナーダの居宅へ向かった。ナオヒから受けた指摘は、痛いところを突くもので、彼の胸の中でじわっと根を張った。<br />
クシナーダは家の前にいた。大きな釜状の土器を火にかけ、その中で煮ているものを棒でかき回していた。もう夕刻は冷え込みが厳しいが、大きな焚火のそばで動いているので、彼女は額に汗を浮かべていた。<br />
「あら、スサノヲ」彼女はすぐに気づいて、作業の手を止めた。手の甲で額の汗を拭う。<br />
「精が出るな。また衣を染めているのか」<br />
大きな土鍋の中は、樹木の果実と麻の繊維でできた衣類だ。それを一緒に煮炊きして、色を付けているのだ。<br />
「はい。今日はクチナシの実で、黄色のいい色合いに染まりそうです」<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<br />
「好きだな、衣に色を付けるのが」<br />
「だって、楽しいじゃありませんか。いろいろな色があったほうが」<br />
「いろいろあったほうが……そういうものか。いつだったか、イタケルは自分がワの国を一色に染めるとか言っていたが」<br />
「それはつまらなくないでしょうか」<br />
「つまらない?」<br />
「全部が同じ色になってはつまらないと思いませんか。赤や青や緑や黄、黒や白……いろいろあるから楽しいし、面白いものです」<br />
「なるほど」スサノヲは納得した。たしかにその通りだ。<br />
「スサノヲはどの色がお好きですか」<br />
「ああ? いや、俺はべつになんでも……」<br />
「わたくしは赤や緋色が好きです。スサノヲは緑や藍の色がよくお似合いですよ」<br />
「そうか?」<br />
「はい」<br />
いつも彼女は、「はい」という言葉をそっと差し出すように言う。そのヒビキが、どれほどスサノヲの胸の中で、おかしな反応を起こしているかも知らずに。<br />
「そうだ。ミツハに言われてきたんだった。晩御飯だから呼んでくるように」<br />
「はい。もういい頃ですから、衣を引き揚げます」<br />
「ああ、それは俺がやろう」スサノヲは手を差し出した。<br />
彼女は「では、お願いいたします」と、手にしていた棒を渡した。<br />
沸き立っている土鍋の中から、熱された衣を棒でひっかけて引き揚げる。衣はものすごい湯気を立てながら、一度、近くの岩の上に置かれて熱を冷まされる。十枚ほどの衣を引き揚げ、クシナーダは杓で水をかけ、土鍋の下の火を消した。<br />
それから二人は並んで、夕食の席に向かった。<br />
「あら……」その途中、クシナーダが空を仰いだ。上に向けた彼女の掌に、雪が舞い落ちてきていた。「寒い寒いと思ったら、雪ですわ」<br />
「これが……雪というものか」<br />
「初めてご覧になりますの?」<br />
「ああ」と、スサノヲも手で受けるようにした。「遠くの山々にある雪は見たことがあるが、俺はずっと南のほうを通って来たので、こうして見るのは初めてだ」<br />
「そうですか」<br />
掌に落ちては、すぐに水となって消える結晶。スサノヲはそれをしばらく見つめていた。「はかないものだな……」<br />
「人の命のように?」<br />
ギクッとさせられる言葉だった。さきほどのナオヒの言葉といい、クシナーダもスサノヲの心を見通しているのかもしれなかった。<br />
「もうすぐですね」ふっと、クシナーダの声音に翳りが生じた。<br />
「?」<br />
「スサノヲがヨミへ行く日です。あと、十日もしたら、一番日の短い季節の新月です」<br />
ああ、とスサノヲはうなずいた。<br />
「どうしても行かれるのですか」<br />
「気持ちは変わらない」<br />
「かならず……戻ってきてくださいね」クシナーダは両手を胸の前で結びあわせていた。声音にも必死なものが滲んだ。「かならず、ですよ」<br />
「わかった」<br />
「約束してください」<br />
「約束する」そう言いながら、スサノヲはちょっと歩みをゆるめた。「一つ、訊いても良いか」<br />
「はい。なんでしょう」彼女も歩みを遅くした。<br />
「昼間言っていたことだ。そなたには大きく分けて二つの未来があると。その一つはワの女王になることだった。もう一つの未来は、どのような未来なのだ」<br />
「お昼間のお話を聞いてくださっていたのなら、おわかりくださるかと……」クシナーダの頬がみるみる紅潮した。「わたくしにも、未来のことが詳しく見えているわけではございません。こと、自分のことはよくわかりません。ただ、誰かのそばで生きるということはわかります」<br />
「それが誰かということは?」<br />
「わかりません。ただ……」クシナーダは歩みを止めた。<br />
見えない糸に引かれるようにスサノヲも立ち止まった。<br />
「未来というものは、今すでに固まって存在しているものではございません。わたくしたちが見るのは、そのいくつかの可能性の断片に過ぎません。今が未来を創造するのです。それはスサノヲもよくご存じのこと」<br />
「いかにも。未来はあいまいに漂っているものだ」<br />
「ですから、後悔することのない選択を、わたくしは今この瞬間にしたいのです」<br />
伏し目がちだったクシナーダは、はっきりと眼差しを上げた。その瞳に満ち溢れるものに、スサノヲは胸の芯をぎゅっとつかまれた気がした。<br />
「それが誰かということではなく、わたくしは決めてございます」<br />
「決めて?」<br />
「はい……。わたくしはもう自分のすべてを捧げる方を決めております」<br />
クシナーダはじっとスサノヲ見つめ続けていた。その眼差しの意味するところものは、いかに彼が鈍感だとしても伝わった。いや、とっくに伝わっていたものだった。<br />
二人の間に、雪はいっそう、白い妖精のように、無数に舞い落ちてくる。<br />
「クシナーダ……」<br />
「はい……」<br />
「この里は、いいところだ」<br />
彼女にしてみれば一世一代の告白を行ったのと同じだった。その返答を身を縮めるようにして待っていたのに、スサノヲのその言葉は彼女を戸惑わせた。<br />
「豊かで、実りも多く、そして何よりも皆、親切でいい人ばかりだ。心が安らぐ……」スサノヲは里の中心に集まっていく人たちを見ていた。「地に降りて以来、長く旅してきたが、そんなことを思ったのはここが初めてだ。ここを守りたい。俺は心からそう思っている」<br />
スサノヲが視線を戻すと、クシナーダは胸の前で両手を組み合わせたままで、息もしていないかのようだった。<br />
「だが、俺が一番大事に思っているのはそなただ」<br />
クシナーダの眼は大きく見開かれ、それからゆっくりと柔雪(やわゆき)が溶けるように、表情に鮮やかなものが広がって行った。<br />
「俺はヨミからかならず戻ってくる。だから……」スサノヲは言葉を探した。「待っていてくれるか」<br />
大きくうなずいた瞬間、クシナーダの瞳から溢れたものが零れ落ちた。喜びの涙だった。<br />
「はい……。信じてお待ちいたします」<br />
二人の距離は近くなった。眼と眼と合わせ、そして口づけを交わした。夕闇の中、小柄なクシナーダの身体が、背の高いスサノヲにぶら下がるように懸命に伸びあがる。<br />
そんな二人の姿を、少し離れた茂みの影から、イタケルとスクナが見ていた。<br />
スクナはイタケルを振り返り、にっこり笑った。「やったね」<br />
イタケルは仏頂面だった。<br />
「なに? 妬いてるの?」<br />
「違うわい。俺はクシナーダの姉ちゃんに頼まれてたんだ。妹が幸せになれるように、見守ってくれと」<br />
「クシナーダの姉ちゃん?」<br />
「アワジという、俺と同い年の娘だった。行くぜ」<br />
スクナは首根っこをつかまれ、引きずられていった。<br />
<br />
<br />
――カヤがカガチによって奪還されて半月、戦局は膠着状態だった。<br />
しかし、それは意図的に演出されたものだった。カガチはほぼ完成を見たキビの山城に拠点を置き、その北にあるカヤに大軍を終結させた。一方、オロチ本国のタジマとも頻繁に情報のやり取りをし、周到な根回しを行っていた。<br />
それはイズモに拠点を置くカナンを完全に殲滅させるための準備だった。<br />
「ヤマトのイスズ様がお見えになられました」<br />
知らせが届いたのは、その準備がほぼ整いつつある頃だった。カガチは配下のイオリとキビの巫女や首長たちを集め、酒宴を行っていた。隣にはヨサミをはべらせていた。<br />
「イスズ様が?」<br />
驚いて腰を浮かせたのは、巫女のシキとイズミだった。<br />
現れたイスズはその二人と真っ先に目を合わせ、それから冷たい雰囲気の中で行われている酒宴の中へ入ってきた。カガチの前に進み出て座る。<br />
「おまえは来ぬと思うておったが」盃を口に運びながら、黒頭巾のカガチは言った。「来なければ、お前やヤマトの命運もそれまでのことではあった。……だが、どういう風の吹き回しだ」<br />
<br />
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<br />
<br />
イスズの切れ長の目の奥には、深い淵のような艶やかなものが光っていた。その光が、カガチの巨躯の奥にあるものを透視するようだった。<br />
「わたくしが駆け付けたのは従妹たちの身が案じられただけのこと」<br />
「そうか。そういえば、シキやイズミとはそういう関係だったな」<br />
キビの巫女たちの内、シキとイズミはもともとヤマトやカワチなどと密接な縁故があった。キビの勢力が強大になり、東への影響力を強めていったとき、ヤマトを中心とする勢力との間に、瀬戸内の支配権も含め、良好な関係を保つために婚姻関係が結ばれた。シキの母とイスズの母は姉妹であったし、イズミの父親もその弟にあたる。<br />
シキやイズミという名も、それぞれの親の縁ある土地から取ったものだ。<br />
「手ぶらでは来ておりませぬ。首長のトミヒコは残らせましたが、国の兵(つわもの)を五十名、連れてまいりました」<br />
「たった五十か。が、まあよかろう。もうじきカナンどもを皆殺しにする大戦(おおいくさ)を始める」<br />
カガチの空になった盃に、ヨサミが酒を注いだ。その仕草は、もはや巫女のものではなく、女のものだった。<br />
「イスズ、おまえも戦に参加するのだ。なに、剣を取れとは言わぬ。国の主(あるじ)として兵士を鼓舞すれば良い」<br />
「わたくしが?」<br />
「皆、そうしてもらう。タジマのアカルも、おそらく明日には到着するだろう」<br />
「アカル様も?」イスズの顔に疑念が広がった。「そのようにしてまで、わたくしたちを集めなければならぬ理由はなんなのです」<br />
「戦いに勝利するためよ。言うまでもなかろう」<br />
「わたくしには、あなたが大きな〝力〟を得ているように思います。その〝力〟をもってすれば、カナンを滅ぼすことなど造作もないのでは」<br />
「そうかもしれぬな」ふんと、カガチが笑った。「だから、どうだというのだ」<br />
「〝力〟を得た代償に、人心を失いましたか。そのためにさらなる人質が必要なのでしょう」<br />
「人心など、もともと俺に執着はない。従わぬ者は殺す。ただそれだけのこと」<br />
「何が本当の狙いなのです」<br />
「おまえらは、俺の言うとおりにしておれば良い」<br />
イスズは音もなく腰を上げ、そして告げた。「これ以上、トリカミには触れてはなりませぬ。それをお約束ください。でなければ、わたくしは兵を引き上げさせます」<br />
「やってみろ……」むしろカガチは静かな調子で、しかも陶然と何かに酔うような調子で言った。「好きなようにしろ。だが、言っておく。おまえらが俺に指図できることなど、何一つないのだ。おまえらが俺に背くなら、この冬もトリカミの巫女……一人、殺す」<br />
イスズの顔は、かすかに蒼ざめた。それはカガチの発する邪気が、あまりにも濃いものだったからだ。<br />
<br />
<br />
<br />
「トリカミ、トリカミ。何かと言えば、おまえらはあの地のことを口にする」<br />
ヨサミはカガチの言葉を褥(しとね)の上で聞いていた。何か返そうとしても、まだ息が荒くて声も出せない。すっかり身体がなじんでしまった、とヨサミは感じていた。カガチの荒々しい愛撫や交合にである。<br />
もはや苦痛はなく、むしろ悦びさえ覚えている自分が恐ろしかった。それは以前にも増して、自分を責めさいなむ罪悪感を生み出していた。<br />
「なにがあそこにあるのだ」隣で横たわるカガチが尋ねる。<br />
「……知りませぬ」ようやく声を発することができた。<br />
「そうかな? タジマのアカルは何かを知っていた。俺がイズモへ支配を広げようとしたとき、アカルはトリカミだけには触れるなと、あのイスズのように言っていた」<br />
岩を削ったようなカガチの手と指が視野を多い、ヨサミの顔をつかんだ。みしっと頭蓋骨がたわむほどの力だった。顔を向けさせられる。<br />
「ワの民の間には、トリカミが失われたとき、恐ろしい〝力〟が解き放たれるという言い伝えがあるそうだな。それは真実(まこと)なのか」<br />
「ただの言い伝え。わたしは知りませぬ」ヨサミは指の間から、カガチの顔を見て言った。「知っているのなら、もはやカガチ様には隠しませぬ」<br />
ふん、とカガチは笑い、手を外した。型と痛みが残った。<br />
「おまえたちが守ろうとするトリカミだからこそ、俺はこれまで支配に利用してきた。だが、もはやそのような必要はない。俺には大きな〝力〟がある」<br />
「……トリカミをどうなるのですか」ヨサミは甘えるよう仕草で、カガチの胸板に手と顔を寄せた。<br />
「カナンを滅ぼすためには、あの地を素通りにはできぬ。予定通り、次の新月の日を持って、イズモのカナンどもに攻勢をかける。だが、もし……そのような恐ろしい〝力〟があの地にあるのなら、見てみたいものだな」<br />
カガチは牙をむき出し、笑った。その男の胸で、ヨサミは体が芯から凍えて行く心地を味わっていた。<br />
<br />
<br />
3<br />
<br />
西の海峡ナガトを迂回し、大小さまざまな島々が美しく生み落されている内海を抜け、ようやく目的地にたどり着いたとき、アカルは驚きを感じた。<br />
コジマのわきを抜け、穴海にそそぐ川を遡り、港に到着して見た風景。<br />
その目の前に開けるキビの風景の明るさに驚きを感じたのだ。タジマとはまったく異なる豊かな広がりを持つ、ある種の包容力のようなものが土地にあった。タジマやイナバなどを陰とすれば、このキビには明瞭な陽の〝気〟がみなぎっていた。<br />
しかし、よく見れば、そんな豊かなキビの風景には、あちこちに毀(こぼ)れ落ちたような無残な部分があった。緑を失い山肌を露出した、寒々とした山々。中には土砂崩れが起きたことをうかがわせるものもある。クロガネ作りの燃料のために乱伐した結果だということは想像がついた。<br />
衛兵たちに案内され、向かったのは巨大な山城だった。中心部のアゾの国から背後の山々へ分け入っていく。急こう配を昇る道もあり、肉体的に強いほうではないアカルは、何度も休まねばならなかった。途中には何カ所も攻め込んでくる敵に対して岩を落とす仕掛けがあり、要所には小さな砦に匹敵するような門も設けられていた。警備はとてつもなく厳重だった。<br />
難攻不落の山城といってもいいだろう。スケールが他の砦とはまったく異なる。<br />
カガチがやがて次なる本拠とすべく、この十年ほどをかけて造営してきたものだけのことはある。ようやく山の頂に出ると、峰の続きにカガチの居城が見えた。そこが最後の道のりだった。<br />
<div style="text-align: center;">
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<div style="text-align: center;">
<a href="http://zephyrus000.blog.fc2.com/img/20150124192140cd7.jpeg/"><img border="0" src="http://blog-imgs-73.fc2.com/z/e/p/zephyrus000/20150124192140cd7.jpeg" height="300" width="400" /></a></div>
<br />
山城に辿り着くと、眼下にはキビの平野を一望にできる風景が広がっていた。その美しさに息を呑まされる。<br />
「ようよう着いたか」<br />
カガチは上機嫌だった。若い娘をかわたらにはべらせ、昼から酒を呑み、軍議の最中だった。呑んではいるが、酔っている様子もない。<br />
彼の周辺にはそうそうたる顔触れがそろっていた。このキビの首長たち、巫女たちはもちろん、近隣の支配地から集めた軍勢の指揮官たちだった。その中に、ヤマトの巫女、イスズの顔もあることを知り、アカルはこれもまた驚きに打たれた。<br />
タジマとヤマトは昔から密接な関係にある。イスズとアカルはともに三十。同じ年に生まれた巫女であり、過去に幾度か面談を持ったこともあるし、意識の中では時折、通じ合っていた。彼女らは離れていても、時に応じては相手のことをわかることができた。<br />
しかし、イスズがこのキビに呼ばれることはあっても、よもやカガチに協力することはあるまいと思っていたのだ。カガチの強圧的な支配にやむなく組み込まれた形になっていたが、イスズのヤマトはこのキビのような絶対支配を受けるところまでは至っていなかったからだ。<br />
――なぜ、イスズ様が。<br />
そう問いかけたい想いに駆られたが、当のイスズは目を伏せ、意識も閉ざしていた。<br />
「遅くなりました。船旅をお許し下さり、ありがとうございます」と、アカルは礼の口上を述べた。<br />
「おまえは体が弱いからな。タジマの軍はもはや準備が整っておろうな」<br />
「ミカソ様と共にすでに大山(だいせん)の麓に集結しておりましょう」<br />
「水軍は?」<br />
「とうにイナサのあたりで待機しております。いつでも中海(なかうみ)に攻め込めましょう」<br />
「よかろう。これですべての駒が揃った――。コジマの水軍からも、明日にはイズモ沖へ到達するという連絡があった」<br />
ナツソが巫女としてあるキビのコジマの軍勢とは、アカルは途中ですれ違っていた。その時は、まだこの内海の範疇だったが、外海へ出れば、潮の流れに乗ってイズモ沖へ到達するのは早い。<br />
<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<span style="color: purple; font-size: x-small;">※ この時点でのカナンの本陣は、トリカミの里の北、意宇(おう)の湖(宍道湖)の近くにあり、現島根県の県境付近での勢力を維持していた。カガチの作戦の目的はこれを四方から攻めて、殲滅することにある。</span><br />
<br />
<br />
「明後日は新月。これで予定通りのカナン攻略に打って出られる」そう言いながら、カガチはかたわらの娘を見た。「のう、ヨサミ。待ちに待った時じゃ」<br />
ヨサミと呼ばれた娘には隠しがたい巫女的な所作が見られた。が、カガチのそばにいる彼女は、カナン殲滅作戦の話を楽しむかのような表情で聞いていた。<br />
「今日よりわれらもイズモへ向かって進軍する。同時に大山の麓からミカソの軍が侵攻する。カナンも馬鹿ではなかろう。おそらくわれらの動向に気づき、阻止しようと戦力を振り向けてくる。そこが付け目。東と南の防衛線を維持するので精いっぱいとなったカナンの背後を、タジマの水軍とコジマの水軍が突く。カナンどもは総崩れになるだろう」<br />
ふふ、とヨサミは笑った。少し神経的な笑いだった。<br />
カガチの用意した作戦は、イズモを中心として支配を拡大しようとするカナンを完全に包囲するものだった。<br />
巫女たちは例外なく、この場に居合わせるだけで気分が悪くなるような想いに耐えていた。それはものすごい悪臭を発するもののそばに寄るのと同じだ。<br />
カガチは怨念的な〝力〟の集合体のようなものだった。彼がもともと潜在させていた憎悪と欲望が、今はとてつもない熾烈なレベルにまで高められていた。その影響のために、巫女たちは胸がむかつき、ひどい頭痛に襲われていた。彼女らがもともと持つべきヒビキと、カガチの発するヒビキは、まったく相容れぬものだからだ。清浄なる〝気〟が、悪しきおぞましい〝気〟で汚染されそうになる。<br />
アカルは必死になって自らを守らねばならなかった。ただ、この場にいるというだけでだ。自然と巫女たちは自らのまわりに「結界」を張り、カガチの〝気〟からの影響をかろうじて排していた。<br />
なぜこのようなことになってしまったのか。<br />
アカルは変貌を遂げてしまったカガチを前に、自問せずにはおれなかった。<br />
<br />
<br />
あの日からすべてが始まった――。<br />
カガチと出会った、あの日から。<br />
――なぜ自分はあの男を助けてしまったのだろう。<br />
アカルは今に至るまでに、何十回何百回とそれを自問していた。その自問とともに蘇えって来るのは、十六年前の邂逅だった。<br />
アカルはもともとタジマ、タンゴあたりを支配する海族の巫女である。この海族の聖地がタンゴの沖合に浮かぶ冠島(かんむりじま)である。毎年一回、必ずその島で執り行われる儀式があり、当時巫女として立ったばかりのアカルは、生まれて初めてその島での祭祀を執り行った。<br />
そして帰還しようとしたその時、島の岩礁に打ち上げられた人影があることに気付いた。それがカガチだった。ぼろぼろの身なりで、生きているのが不思議なほど、痩せこけていた。<br />
冠島は神の島であり、基本的には無人島である。放置しておけば、死んでしまうのは明らかだった。アカルは伴の者に命じて、カガチを連れ帰った。<br />
カガチは翌日、意識を回復した。その知らせを受け、彼の様子を伺いに出向いたとき――。<br />
そう、そのときだったのだ。<br />
カガチはその眼を大きく見開き、しばらくアカルの顔を食い入るように見つめていた。信じられないものを目の当たりにしたという表情であり、彼の唇が何かをつぶやいて動いた。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<br />
「どうされました」<br />
アカルのその質問に、カガチは答えなかった。おそらくカガチは、アカルよりは二つか三つほど年上だった。アカルは当時、まだ十四。若い巫女の顔立ちの中に彼が見出したものがなんだったのか。今に至るも、その驚きの意味は伝えられていない。<br />
大陸を追われて逃げてきた。家族は皆、殺された。<br />
彼が言葉少なに語った事情に同情したアカルの父、タジマの首長が彼をみずからのもとで登用しようとしたとき、アカルは言い知れぬ胸騒ぎのようなものを感じた。それは明らかに巫女としての直観が、未来に抱かせた鋭い不安であり、警告だった。<br />
だが、アカルは父にそれをやめさせることができなかった。カガチと顔を合わせるたび、彼の眼の中にある憂愁の光が、初めて目と目を合わせたときの、あの彼の表情を思い出させたからだった。<br />
アカルの中に、何かを見出した。何かを必死に求めている。<br />
そんな若者の表情だ。<br />
カガチは製鉄の技術を持っていた。それだけではなく、非常に勇猛な男だった。年齢にしては体格も非常に大きく、その当時、ワカサで起きていた部族間の争いを、父の号令に従って見事に鎮圧してしまった。その功績を評価され、カガチはワカサ付近の国々を任されるようになり、そこを中心におもに北へ支配を広げた。その支配権の拡大は、しゃにむなものであり、カガチはみずからの国に「オロチ」という名を掲げた。<br />
タジマやイナバでは、タタラ場が次々に増産され、その鉄生産の〝力〟を背景に、カガチは支配を伸ばし続けた。カガチに協力的だったアカルの父も、この頃になると大きな懸念を抱くようになっていた。タジマがオロチの属国化しつつあったからだ。<br />
だが、その懸念を抱いたまま、父は病でこの世を去った。<br />
その瞬間に、タジマ・タンゴはカガチによって取り込まれてしまった。もはや彼に相対しうるほどの力の持ち主は存在せず、またたくまにカガチはホウキ(大山付近)あたりまでの領地を掌中にし、さらに鉄生産に拍車をかけ、その労働力を確保するために、オウミやヤマト、ヒメジなどへと手を伸ばし、そして最終的にキビをも支配下に収めて行った。<br />
この六、七年の間には、イズモに根強くあった勢力を排し、鉄資源の豊富なイズモに拡張しようとしていた。それがこの十六年の間に起きたことだ。<br />
彼にとって計算になかったのは、カナンの渡来であったろう。イズモ各地に建設していた新しいタタラ場の数々も奪われ、支配権はホウキあたりまで後退させられていた。<br />
カガチはそれを奪い返そうとしている。<br />
いや、カナンを完全に殲滅しようとしている。<br />
<br />
――多くの者が死ぬだろう。<br />
アカルは暗雲が垂れ込めるような未来を見ていた。その下には、累々たる屍が横たわっている。それはもはや動かしがたい未来に思えた。<br />
今のこの事態、そしてこれからの未来。<br />
アカルはそのすべてに大きな責任があった。<br />
あのときの、カガチの瞳の中にあったもの。<br />
たったそれだけ。その一つのことだけが、なぜかアカルの心をつかんで離さないのだ。<br />
自分が冠島でカガチを助けさえしなければ。<br />
カガチを登用しようとした父に警告さえ与えていれば。<br />
<br />
今のすべてはなかった。<br />
<br />
<br />
<br />
カガチ軍は山城を出立した。<br />
アカルは他の巫女たちと共に、部隊の中ほどに用意された御輿(みこし)に乗せられた。御輿は二つ用意され、アカルはイスズ、ナツソと共に、もう一つの御輿にはアナト、シキ、イズミらが乗せられた。運んでいるのは、彼女らの国から徴用されている兵士だ。<br />
すぐそばを、一人の男が両手を背後で縛られた状態で歩かされていた。身に付けている衣類はぼろぼろで、あちこちに血が滲んでいた。黒髪黒眼だったが、どことなく異国人らしい容貌に見えた。<br />
歩くのが精いっぱいで、兵士に鞭打たれている。<br />
「カナンの捕虜にございます」ナツソが言った。<br />
アカルやイスズが、その者を注視しているのに気づいてのことだった。<br />
「たしか、モルデとかいいました」<br />
「なぜ、あのような捕虜まで連れて行くのです?」アカルは尋ねた。<br />
「わかりませぬ。ただ、あの者はカナンの捕虜の中でも、かなり地位の高いものと思われています。カガチはたぶん利用価値があると考えているのではないでしょうか」<br />
「交渉に使うつもりでしょうか」<br />
「おそらく違うでしょう」イスズが言った。「カガチはもっと邪悪な考えがあると思います」<br />
「と仰いますと?」ナツソが訊いた。<br />
「あの者からは、彼の愛する者への想いが溢れています。あの者はおそらく、カナンの姫君……たしかエステルといいましたか、その御方を愛しているのです」<br />
アカルは舌を巻いた。イスズは読心にも長けている巫女だ。<br />
「カガチはそれを知っているのか、あるいは読み取っているのです」<br />
「読み取って?」<br />
「カガチには以前になかった〝力〟を感じます。一つは彼が帯びている剣、もう一つはわたくしどもにも似た〝力〟です」<br />
「それは……」ナツソの表情が曇った。「おそらく、ヨサミの〝力〟だと思います」<br />
「あのカガチの隣にいる巫女ですね」<br />
イスズとナツソの会話から、アカルもその娘が巫女だという事実を知った。が、巫女というには、すでに……。<br />
「ヨサミはカナンによって父母、カヤの国の同胞(はらから)を皆、殺されました。ヨサミは復讐のために、カガチにみずからのすべてを捧げたのです。ヨサミは読心もできますし、先視(さきみ)もできます」<br />
「その〝力〟は、おそらく剣の〝力〟によって、何倍にも高められているのでしょう」<br />
「イスズ様、カガチはなぜあのようになってしまったのでしょうか。以前より恐ろしいものを秘めた方でした。が、今のカガチはまさに鬼神そのもの……」<br />
「あの剣がカガチを変えたのです」と言ったのは、アカルだった。「カガチが帯びている剣は難破船と共に漂着したもの。わたしたちが作っているような、クロガネの剣ではありませぬ。あれはたぶん、この世のものではない霊剣です」<br />
「やりそうですか」イスズが言った。「フツノミタマの剣。そのような言葉が、ずっと降りてきていました。あれは荒ぶる神の剣です」<br />
「カガチは……もともと大陸の戦乱の中で肉親を殺され、半島を小舟で脱出してきた者です」アカルはみずからの知りうることを話した。「カガチはこの十数年、支配を広げてきましたが、それはいつか肉親を殺した大陸の国家に復讐するため……」<br />
「その怨念でヨサミとカガチは結びついたということでしょうか」と、ナツソ。<br />
「おそらくそうでしょう」イスズが冷静に言った。「鬼というものは、人の欲が生み出すものです。多くは切実なものです。たとえば飢えです。腹を空かせ、食べたいと思う欲求。あるいは眠りたいとか、あるいは愛欲などもそうです。これらは人間の生理に沿ったもので、否定できないものです。カガチは半島を逃げ出してくるときに、多くの悲しみや憎しみと共に、生き抜きたい、という本質的な欲求を強く抱くようになっていたのでしょう」<br />
「それは……わかります」アカルはうなずいた。「タジマへ来て以来、カガチはこの地で生きて行くため、必死であったと感じます」<br />
「鬼は欲望そのもの。誰しも鬼を心の奥底に飼っているのです。カガチの場合は、復讐への欲求があまりに強く、それが彼の今までの行動であったことは、わたくしも感じています。たぶん、フツノミタマの剣の〝力〟が、彼の中の非常に強い憎しみや本質的な欲求を膨れ上がらせてしまったのでしょう」<br />
「そして、カガチは鬼になった……」ぶるっと、ナツソは身を震わせた。<br />
キビの巫女たちは、最年長のアナトでさえ、イスズやアカルより年下だった。まだまだ少女らしい感性や未成熟なところを残していた。<br />
アカルは自分たちよりも年下で、しかし、すでにはるかに自分の精神(こころ)を凌駕している巫女には、ただ一人しか出会ったことがなかった。<br />
トリカミの里のクシナーダだった。出会ったのは六年ほど前で、クシナーダはまだ十歳ほどの少女だった。だが、そのときでさえ、すでに「かなわない」と感じた。<br />
――あなたはお母さんよね。<br />
少女のクシナーダの声が、ふっと脳裏をよぎった。<br />
「鬼となった者は、もはや救われないのでしょうか」と、ナツソが言った。<br />
イスズもアカルも沈黙していた。<br />
鬼が肉体に実体化するというのは、稀なことではあったが、現実にあった。単純に言えば、肉体は精神の実体化したものであるからだ。精神の力が物質化を遂げるほどになれば、それはあり得るのだ。<br />
しかし、一度、物質化して肉体と同化したものを切り離す術は、通常はなかった。<br />
「そう……ですか」ナツソは悲しみをにじませ、御輿の床に手をついた。<br />
「カガチが剣の〝力〟であのようになったとしても、それは本人が望んだ結果。なぜ、あなたがそのように悲しむのです」<br />
「ヨサミがかわいそうで……カガチと一つになっています」ナツソの手の上に涙がこぼれ落ちた。<br />
イスズは黙って、そんなナツソを見ていた。<br />
「イスズ様、お伺いしてもよろしいでしょうか」アカルは言った。<br />
「なんでしょう」<br />
「なぜ、イスズ様はこちらにいらっしゃったのです。このような殺伐とした場に」<br />
「アカル様」イスズは切れ長の目を捕虜の男に向けながら言った。「わたくしには、果たさねばならぬ責があるのです」<br />
「この争いに、イスズ様になんの責があると申されますか」<br />
「あるのです」<br />
アカルは知った。自分がこの戦乱に大きな責任があると感じているのとは別な意味で、イスズもまた何らかの大きな役割を持たされてここへ駆けつけたことを。<br />
山深い峠が迫っていた。<br />
この山々の向こう側。そこにカナンの軍が展開している。<br />
<br />
その大戦乱の火ぶたが今、切って落とされようとしていた。<br />
<br />
<br />
4<br />
<br />
――イヨイヨダナ。<br />
夜半から降り始めた雪は、勢いを増すこともないかわり、止むこともなく、ずっと静かに振り続けていた。すっかり葉を落としてしまった木の枝にも、わずかに雪が積もっている。その枝の一つに、大きなカラスの姿があった。<br />
スサノヲはうんざりしたようにそれを見上げ、毒づいた。「このストーカー野郎が」<br />
――ハッハッハ。ズイブント洒落タ言葉ヲ知ッテオルナ。<br />
「クシナーダが言うには、二千年ほどたつと、自分自身が生きることよりも、他人に執着して生きるよすがにする人間が現れるそうだ」<br />
――ソナタニ縁(ヨスガ)ハアル。ガ、ソレユエニ見守ッテオルダケノコト。ワレハ何モソナタニ要求ハセヌ。<br />
「楽しんでいるだろう」<br />
――ソレハワレデハナイ。ワレノソバニオル女子(おなご)ガ面白ガッテオルノダ。<br />
「ウズメとかいうやつだろう。クシナーダが言っていた。この頃、ずっとウズメ様の気配を感じると」<br />
――ウズメダケデハナイゾ。アラユル存在ガ見テオル。<br />
「鬱陶しい」スサノヲは言葉ほど苛立っているわけではなかった。むしろ、カラスとの対話を面白がっている様子すらあった。「なんのために、そのように見ているのだ」<br />
――ワレラガイナケレバ、ソナタラノ世界ハ存在スルコトサエ危ウイ。見守ル者ガアッテコソ、コノ世界ハ成立スル。<br />
「……そういうことか」<br />
――コノ根ネ世界ハ、ジツハトテモ危ウイモノダ。ウタカタノ夢。見守ル者ナクシテ、コノ世界ガ成リ立ツコトハアリ得ヌ。<br />
「しかし!」スサノヲは言葉を荒らげた。「ここで生きる者には、これは夢ではない。人の死や悲しみ、飢えや病や老いの苦しみ、すべてが現実だ」<br />
カラスは喉の奥で笑うようなヒビキを伝えてきた。<br />
――オウオウ。ソナタノ言ウ通リジャ。イイゾイイゾ。<br />
「なにが『いいぞいいぞ』だ」<br />
――よもつひらさかヲ抜ケ、イザナミ様ニ会ウテ来ルガヨイ。<br />
カラスは木の枝を飛び立った――いや、そのように見えた。実際には羽ばたいた瞬間には消えていた。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
静かだった。<br />
トリカミの里にはうっすらと雪が積もっている。巨大な柱が直立する場所から、広い里の風景を眺望すると、なにもかもが真っ白で美しかった。静寂が包み込んだ里を、里人が飼っている犬が歩いていく。<br />
あまりにも静かだった。<br />
スサノヲはアシナヅチの居宅へ向かった。そこからはすでに人の話し声が聞こえていた。<br />
「だから、俺も行くって」と、強硬に主張しているのはイタケルだった。「このところ里の周辺がおかしいんだ。例のカナンのやつら、妙に殺気立っている。なにがあるか、わかんねえ」<br />
「だからこそ、イタケルには里に残って、皆を守ってほしいのです」返すのはクシナーダだった。<br />
「岩戸を開けるのは、わしとクシナーダ、それにミツハがおれば良い。――お、スサノヲ、参ったか」<br />
アシナヅチの言葉を受けて、皆が戸口を振り返った。その視線を浴びながら、スサノヲは中に入った。クシナーダが少し動いて空けた場所へ座る。アシナヅチ、ナオヒ、クシナーダ、イタケル、ミツハ、そしてオシヲまでいた。<br />
「なにを……?」話し合っていたのか、という問いは、どちらかというと確認のためだった。<br />
「おめーをあの世に送るのに、誰が行くかって話だ」と、イタケル。<br />
「あの世……」<br />
「ヨミの国です」と、クシナーダが修正する。<br />
「同じだろう」<br />
「同じではありません」<br />
「お、俺も行かせてください!」<br />
オシヲが両手をついて、前のめりになって言った。が、アシナヅチは、「だめじゃだめじゃ」と一蹴した。<br />
「なぜですか。みんなを守るためです」<br />
「おまえごときがなにを守るじゃ」<br />
「いや、オシヲはこのところ剣の練習だってしてるし、へたな大人より、よっぽど頼りになるぜ」<br />
イタケルの言葉に、長く垂れ下がった白い眉毛の下でアシナヅチの眼が動いた。<br />
「剣の練習?」<br />
「あ、いや、その……」<br />
「イタケル、おまえはあのオロチ兵たちの剣を捨ててなかったのか」<br />
「――い、いや、だってもったいねえだろう」<br />
「お、俺がイタケルに頼んだんです! 剣を教えてくれって!」<br />
弁護に回ったオシヲに、アシナヅチとクシナーダは顔を見合わせた。<br />
「剣を持つ者は剣によって滅びる」と、口を挟んだのはナオヒだった。「アシナヅチ、そなたのいうこと正論じゃ。しかしな、ツクシの有様を見てみるがいい。毎日のように侵略を受け、生まれ育った土地や、愛する親兄弟を奪われ、それでも剣を取らずにすむほど、現実はゆるくはないぞえ」<br />
「わかっておるわ、そのようなこと」<br />
「スサノヲをヨミに送った後が心配なんだよ」イタケルが助勢を得て、勢い込んだ。「岩戸は里から離れた山ん中にある。そんなところにアシナヅチ様とクシナーダ、ミツハだけなんて、危険すぎる」<br />
「それはたしかにそう思うが」と、スサノヲはアシナヅチを見た。<br />
そしてクシナーダの横顔も同時に、その視野に収めた。彼女は表情をこわばらせ、白い顔をさらに白くしていた。彼女にしては珍しいほど、何か張りつめたものを感じさせた。<br />
「仕方ない……。イタケル、オシヲ、約束せよ」アシナヅチが告げた。「どのようなことがあろうと、自ら剣を抜くな。良いか?」<br />
「あ、ああ」<br />
イタケルとオシヲは顔を見合わせた。二人はうなずき合った。<br />
「わかった。約束する」<br />
「よかろう。では、二人に同行してもらおうか」<br />
やった、と言わんばかりに、イタケルとオシヲは互いの手を叩き合った。<br />
「わしは足が悪い。ニギヒと共にここで留守番しておることにする」ナオヒが言った。「そのほうがよかろ? アシナヅチよ」<br />
「そうじゃな。そうしてもらおう」<br />
「岩戸まで陽があるうちに着いたほうがいい。雪も降っているし、そろそろ出かけなくては」イタケルが立ち上がった。<br />
クシナーダも無言で腰を上げた。アシナヅチの居宅を出、雪景色となったトリカミの里を見つめる。その眼差しが何を見ているのか、スサノヲはひどく胸騒ぎを覚えた。<br />
気配を察してか、家に籠っていた里人がおおぜい見送りに出てきていた。トリカミの里人は、なぜか勘の鋭い人間が多い。<br />
「お気をつけて」<br />
「かならずお帰り下さいよ」<br />
そんな声があちこちからかけられた。そんな中から、スクナがやって来るのが見えた。<br />
「スサノヲ……」少女の眼はうるんでいた。「絶対、帰って来てよ」<br />
「ああ、心配するな」微笑し、頭に手を置く。<br />
「絶対だよ」<br />
「ああ」<br />
スクナにとって、スサノヲは親代わりのようなものだった。絶対のよりどころなのだ。<br />
スサノヲにとっても、スクナは小さな存在ではなかった。少女を助けることで、自分の中での何かが変わった。その後の流れもきっと変えた――。<br />
最初はあわれと思い、気まぐれに助けたにすぎなかった。<br />
しかし、助けるということが、自分のどこかに血を通わせた。それがきっと、クシナーダや今身の回りにいる人々とのつながりを生み出す源になったような、そんな気がしていた。<br />
「おまえは大切な存在だ」そういうスサノヲの眼はやさしかった。「おまえが俺に与えてくれたものは、きっととても大きい。だから、おまえのところに必ず戻って来るよ」<br />
うん、とスクナはうなずいた。泣きそうな表情だ。<br />
「準備はできた。行こうか」イタケルが声をかけてきた。肩に長い大きな縄のようなものを担いでいた。<br />
スサノヲはスクナをその場に残し、歩き出した。里を出て行く道筋に、ニギヒと彼の従者数人の姿が見えた。イト国の皇子である彼は、この場に逗留するというナオヒのわがままにつき合され、この十日ほど、トリカミに留まっていた。アソの大巫女一人を残して帰還もできないからだ。<br />
ニギヒは部下から何事か報告を受けていた。部下に指示を与え、その者が離れて行くのと、スサノヲたちが彼のそばに近寄るのはほぼ同じだった。<br />
「お気をつけて」と、ニギヒは言った。「ヨミの国なるもの……わたしも一度、この目で見てみたいものです」<br />
「そんなに気軽に行く場所ではない」と、アシナヅチ。<br />
「ナオヒ様がこの場におられる理由、呑み込めてきました。お留守の間、わたしもナオヒ様とご一緒に、この地をお守りいたします」<br />
「よろしく頼む」<br />
アシナヅチの言葉と共に、一同はニギヒをその場に残し、再び歩き出した。<br />
何かが起きようとしている。<br />
それは全員が感じ取っていた。<br />
<br />
岩戸への道。<br />
それはトリカミの里から川の支流の一つを、上流へと遡る道筋だった。獣道のような道を歩き、時に瀬を渡り、岩場を登らねばならなかった。大の男のイタケルでさえ、息が切れる道のりだ。とりわけ足腰の弱っているアシナヅチには厳しく、イタケルとスサノヲが交代で彼を背負う場面も多かった。<br />
途中、一行は一頭のクマに遭遇した。先頭を歩くオシヲが気づき、静かにして山の斜面を歩くクマが行きすぎるのを待った。<br />
「おかしいな……。もう冬眠している頃なんだが」イタケルがつぶやいた。「今年は栗とか、木の実も豊富だった。腹が減っているはずはないんだが」<br />
「彼らも気づいているのです」クシナーダが言った。「安心して眠れる状況ではないと」<br />
「山がざわざわしています」ミツハもそんなことを言い、自らの胸を抱くようにしていた。<br />
クマをやり過ごし、斜面の険しい道を登りきった彼らは、もう岩戸を目前にしていた。道を下って行くと、一度離れていた渓流沿いにまた近づくのが音で分かった。<br />
夕暮れが迫って来ていたが、眼下に川の流れが見えた。<br />
「あれが、岩戸じゃ」アシナヅチが指差した。<br />
それは……。<br />
まさに巨大な一枚の岩だった。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
<a href="http://zephyrus000.blog.fc2.com/img/DSC_0258.jpg/"><img border="0" src="http://blog-imgs-73.fc2.com/z/e/p/zephyrus000/DSC_0258.jpg" height="640" width="480" /></a></div>
<br />
それが渓谷をふさぐように、縦に突き刺さっている。<br />
谷間を埋める一枚の板のように。ただ、それは板というには、あまりにも巨大であり、岩盤の一部が切り出され、そこにはまり込んでいるように見えた。その一枚の大きな壁が、川を上流と下流で隔てていた。<br />
ただ、流れはその岩の下を通過してきているのだろう。とだえることなく、流れ続けている。<br />
が、視覚的にはその巨岩は、完全に渓谷と川を隔てているように見えた。<br />
巨岩のもとへと降りて行く道は、人の手によって明らかに手を加えられ、階段状になっていた。ここが祭祀場として、長く大切にされてきた証(あかし)だった。<br />
降りて行く途中、岩戸の前にの水場にいた白い影が動いた。<br />
「あ……」と、オシヲが小さな声を上げた。<br />
ふわっとその白い影は羽を広げ、岩戸の向こう側へと飛び去って行った。首の長い鳥だった。<br />
あまりにも幻想的な光景だった。その鳥は、まるで神の遣いのように見え、これから岩戸を通り抜けようとするスサノヲを導くようだった。<br />
雪は、今はやんでいた。<br />
しかし、木々の枝に乗っている雪が、風に吹かれては細かい塵のように舞い落ちてきていた。それが岩戸の前に小さな泉のようになって溜まっている水面に、音もなく吸い込まれていく。ただ波紋だけを広げ。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
<a href="http://zephyrus000.blog.fc2.com/img/DSC_0248.jpg/"><img border="0" src="http://blog-imgs-73.fc2.com/z/e/p/zephyrus000/DSC_0248.jpg" height="640" width="480" /></a></div>
<br />
言葉にできぬ霊気が、あたりには濃厚に立ちこめていた。<br />
――なんという場だ。<br />
スサノヲはこの地上に降りて以来、初めて感じるほど強い〝神気〟に全身の皮膚が粟立つのを感じた。<br />
こんな神聖な場が現実に存在しているとは、にわかには信じがたかった。いや、すでにここは半分、地上ではないように思えた。<br />
あたりは急速に暗くなってきていた。<br />
もっとも日照時間の短い季節。しかも深い渓谷。<br />
闇の訪れは、あまりにも速やかである。<br />
イタケルとオシヲが持ってきた火打石を使い、可燃性の高い木屑に火を起こし、それを松明数本に移した。このような時のために用意されているのだろう。岩戸の近くに小屋があり、そこには薪も蓄えられていて、焚火も用意された。燃え盛る炎が、神聖なるその場を、さらに神秘的な光でゆらめかせた。<br />
「用意ができました」<br />
小屋の中で着替えを済ませてきたクシナーダとミツハは、真っ白な衣装に身を包んでいた。ただ、クシナーダはその肩に、鮮やかな朱の領布(ひれ)をまとわせていた。<br />
「もうよいかな」アシナヅチは渓谷の隙間にある、わずかばかりの空を見上げた。<br />
そこにはすでに太陽の光はなく、目を凝らせば、雲の切れ間に見える星さえあった。<br />
「この岩戸の向こうに、ヒバという御山がある」アシナヅチは、スサノヲに向かって言った。「イザナミ様が眠る御山じゃ」<br />
「イザナミ……母が?」<br />
スサノヲは戸惑った。彼にとり母は、天界に存在した大きなヒビキそのものだった。人ではなく、物質でもない。<br />
「スサノヲよ、そなたが人の身としてこの地上に生まれた瞬間に、この地にも母なる存在が生まれたのじゃ」<br />
「どういうことだ」<br />
「母なくして、子は生まれぬ。道理であろうが」<br />
「それはそうだが」<br />
「スサノヲ、いつぞや、月の夜にお話しいたしました、わたくしたちの民に伝わる古い物語を覚えておられますか?」クシナーダが言った。「天界で乱暴を働き、ヒビキの女神を岩戸に閉じ込めた弟神のことを」<br />
「覚えている」<br />
「その神の名は、スサノヲ、と伝えられています」<br />
「な……」<br />
その神話上の神の名を、たまたまスサノヲはスサの地で、エステルの弟、エフライムによって与えられた――?<br />
――スサノヲ?<br />
初めて出会ったとき、その名を聞き、クシナーダが目を丸くし、何度か頷いていた光景がよみがえる。<br />
「あなたの物語が生まれた瞬間、母なるイザナミ様もこの地上にすでに在ったのです。歴史はすべて一瞬にして生まれたのです、きっと」<br />
「母が地上に……」<br />
「それがいつの時代なのかは定かではありませぬ。イザナミ様はこの地上のすべて、この星のすべてを生み賜うた母神様。そしてこの世を去られ、ヨミにおさまられた大神。スサノヲはその母のことを想い、天界で〝泣きいさちる神〟でした。母に会いたいと」<br />
「母に会いたいと……」<br />
「けれど、わたくしたちの物語は伝えておりませぬ。天界を追いやられ、母に会いに行かれたはずのスサノヲの物語を。スサノヲは――いえ、あなたは――」<br />
クシナーダの手が、スサノヲの胸に触れた。<br />
「その物語の本当の続きを紡ぎに来られたのです、きっと」<br />
クシナーダの掌から、熱いと感じるほどのものが伝わってきて、スサノヲの心臓を打った。<br />
クシナーダ、アシナヅチ、ミツハ、イタケル、オシヲ。<br />
十の瞳がスサノヲを見つめていた。<br />
「俺は……神などではない。ただ、天界から零れ落ちてきただけの男だ。少しばかり人より力に優れているにすぎぬ」<br />
「わかっています。今のあなたは天にある神などではありません。人です。ただ、稀有な生まれをしたにすぎません。なぜなら――」クシナーダは他のトリカミの同胞を振り返った。「人はみな、天から零れ落ちたものだからです。それはご存知でしょう」<br />
「それは……わかる」<br />
「わたくしたちは幾度も幾度も生まれ変わり、幾多の人生を生きる御霊の一つです。あなたも、わたくしも……」<br />
見つめるクシナーダの瞳の中に吸い込まれそうだった。<br />
「いつかの時代より、あるいは始源の時より、イザナミ様はあの御山に眠っておられます。天界の〝今〟は、この地上世界の〝すべての時〟……そうなのでしょう? スサノヲ」<br />
「そなたの言う通りだ。俺に母なるものがあるのなら、たしかにイザナミもこの地上存在していなければならない」スサノヲは振り返り、岩戸の向こうにあるはずの、すでに闇の中に沈んでいる山の姿を想った。「母があそこに……」<br />
「ヒバはヨミそのものとも言える」アシナヅチが言った。「これよりこの岩戸を開けば、ヨミへ通じるヨモツヒラサカも開かれる。したが、スサノヲよ。この岩戸を開いておれる時間、それは今宵限りじゃ」<br />
「今宵限り」<br />
「この季節の新月の夜しか、ヨモツヒラサカは開かぬ。夜が明ければ、岩戸は自然と閉じる。そうなれば、そなたはもはや地上には戻れぬ」<br />
「わかった。……しかし、どうやってあの岩戸を開くのだ」<br />
スサノヲは松明の炎に照らされる巨岩を仰いだ。それは決して動かすことなどかなわぬ重量感を備えていた。渓谷にがっちりとはまり込んでいて、たとえ二十人三十人の男たちが渾身の力をふるっても決して微動だにしないだろう。<br />
「ご心配には及びません。さあ、アシナヅチ様。始めましょうか」<br />
うむ、とアシナヅチはうなずいた。<br />
ミツハが手にしていた笛を顔の横に添えた。<br />
ひと呼吸あった。<br />
ミツハの奏でる笛の音が、冴えざえと渓谷に響き渡った。神気の漂う水場に、それは波長となって広がった。岩戸の巨岩の前にある大きな岩の一つの上にクシナーダが登る。ミツハの笛の調べに合わせ、ゆっくりと舞い始める。<br />
さながらそれは天女の舞いだった。彼女の身に付けている白い衣装が、ふわっと風をはらんで羽衣のようだった。<br />
最初、クシナーダは硬い表情で踊り始めた。が、やがてそれは柔らかいものへと変わり、表情には静かな悦びに満ちたものが広がって行った。踊ることに夢中になり、やがては忘我のような境地へと変わっていく。その時、クシナーダの身には何かが降りてきたように思えた。<br />
いや、実際、スサノヲの眼にはクシナーダの身体がすうっと半透明のようになり、その身体に重なり合って踊る女神の如き存在が〝視えた〟。<br />
その女神は輝くような裸身だった。<br />
あまりのその美しさに、スサノヲは呆然となった。女神は嬉々として踊っていた。その女神の喜悦が、今はそのままクシナーダへ伝播していた。<br />
その女神の姿が見えているのかどうか、イタケルとオシヲが声を上げた。<br />
「お、おい……あれ」<br />
見ると、岩戸の巨岩が透けはじめていた。あれほど密度が高く、強固そうに見えた岩盤が、まるで薄い紙のように透けたり、また元に戻ったりを繰り返していた。<br />
おおおおおおおお―――――!<br />
両手を胸の前で組み合わせたアシナヅチが、地の底から湧き出るような声を発した。老体の肉体を通じ、蒼白いオーラのようなものがほとばしり、それは二つに割れて岩戸の左右両端につながったように見えた。<br />
すると岩戸は透明化したままの状態で定着した。<br />
笛の調べは終わっていた。<br />
クシナーダは岩の上で、崩れるようになっていた。<br />
「クシナーダ……」スサノヲは岩に上がり、彼女の肩に手をかけた。「大丈夫か」<br />
「……はい。心配ありません」<br />
そう言いながら立ち上がろうとするが、消耗は隠しがたかった。スサノヲの手に支えられ、ようやく岩を降りてくる。<br />
「大丈夫です。ウズメ様と共鳴したので、戻るのに少し時間がかかるだけです。それよりもスサノヲ、これを――」クシナーダは肩からかけていた朱の領布を、スサノヲの首に回してかけるため、伸び上がった。「これがヨミの亡者たちからあなたを守ります。さあ、早く行ってください。時間が……」<br />
<br />
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<br />
<br />
スサノヲは自分の肩から掛けられた領布を握った。<br />
岩戸を振り返った。それは今も完全に透明化していて、その先の風景が見えていた。<br />
その先には岩戸を上から見たときにあった、岩戸に隔てられた渓谷の向こう側があるだけだった。<br />
「本当にこの先に……?」<br />
「何をしておる。ヨモツヒラサカはすでに開いておる」<br />
アシナヅチに叱咤され、スサノヲは動き出した。クシナーダから手を離すのが忍びなかった。が、このままではいられなかった。岩戸の前の水場へ、ざぶざぶと入っていく。水は恐ろしく冷たかった。<br />
岩戸の先には、ただの渓谷しかない。そこにあったはずの岩……手を伸ばすと、そこに吸い込まれたスサノヲの手は見えなくなった。引くと、元に戻る。<br />
あきらかに空間がそこで切り替わっていた。<br />
スサノヲは振り返り、一人一人を見つめた。<br />
「スサノヲ様、どうか御無事で……」ミツハが祈るように言った。<br />
「さっさと戻って来いよ」と、イタケル。<br />
スサノヲはうなずき、最後にクシナーダと目を合わせた。そして、彼女の目を振り切るように、水を撥ね、岩戸の中へ飛び込んで行った。彼の姿は、異なる空間に呑み込まれ、すぐに見えなくなった。<br />
「スサノヲ……」クシナーダは岩戸の前にしゃがみこんだ。彼女もまた祈るように。<br />
「イタケル、早くしめ縄を。その左右に張るのじゃ」<br />
アシナヅチに命じられ、イタケルが担いでいた縄を持って、「お、おお」と動き出した。彼自身、岩戸を開くところを見るのは初めてで、何もかも要領を得ているわけではなかった。岩戸の前に左右に張り巡らす。<br />
「これで、いいのか」<br />
「ああ、こうしておかねば、わしの張った結界だけでは心もとない」<br />
そのときだった。<br />
彼らの頭上に人の気配がした。甲冑が触れ合う音。男たちの話し声。彼らが松明の光を見つけ、やって来ているのは明らかだった。<br />
「こいつはやばいぜ」イタケルが言い、腰の剣に手をかけた。<br />
急な石段を降りてくる男たちは、四人の男たちだった。その武装から、一目でカナンの兵士と分かった。<br />
「おまえたち、このような場所でいったい何をしている……」<br />
降りてきた男たちはいずれも血濡れた剣を持ち、そして息も絶え絶えだった。血走った眼をぎらつかせ、警戒心をみなぎらせていた。傷を負っている者もいた。<br />
「わしらはたたこの聖地で供え物をしておっただけのこと」と、アシナヅチが言った。<br />
「こんな夜にか」<br />
「おい、こんな連中、放っておこう。追手が来るぞ」他の兵士が言った。「あの化け物みたいなのに襲われたら、ひとたまりもな――」<br />
ぶわっと黒い風圧が、空から降ってきた。カナンの兵士たちは、そこに出現した巨漢を見て、悲鳴を上げた。<br />
黒頭巾の巨漢は、残忍な笑みを浮かべ、両手を大きく広げ、カナン兵たちの前に立ちはだかった。<br />
カガチだった。<br />
<br />
<br />
5<br />
<br />
満を持して、カガチはカナンに攻勢をかけた。<br />
イズモの東方より、二つに分けられたタジマ、イナバ、コシを主力とする部隊、そして南からキビ、ヒメジ、ヤマトらを中心とする大戦力が侵攻し、それぞれ初期のカナンの防衛線を突き崩した。<br />
<br />
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</div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<br />
<br />
イズモを中心とするカナンは、この東と南二方向からの侵攻は、イズモの東側で合流し、そのまま西へ押してくるものと読んだ。それが地理的にもっともあり得る進路だったからだ。そのため、戦力のほとんどをその東の防衛に振り向けた。<br />
ところが――。<br />
「われらは西から峠を越える」<br />
総攻撃の前、直感のようにカガチは南のキビ方面から侵攻する部隊も二つに分け、そして西へ迂回する部隊の指揮を自分が執った――いや、カヤを奪還したときのように、自らが先陣を切った。数で勝るという確信があるからこその戦術だったが、なによりも己自身に頼むところが大きかった。<br />
ヒバの山の近く。<br />
カガチの部隊は中枢である巫女たちを抱えての峠越えを敢行した。脚を止められるほどの雪でなかったのが幸いし、侵攻の時期を合わせ、手薄なカナンの防衛線に襲いかかった。その峠はトリカミの南の山中にあり、エステルはトリカミに手を触れないというスサノヲとの約定を守っていたため、この南の峠についての防衛線は、きわめて手薄だったのだ。<br />
カガチの策略は、まさに図に当たった。南方からの侵攻への備えが十分でなかったカナンの守備隊は総崩れとなった。<br />
そして、ほぼ同じころ、タジマの水軍、コジマの水軍が北方より侵攻したため、カナンの動揺は甚大なものとなった。<br />
こうして幾多の山野で戦いが繰り広げられ、オロチの連合軍は巨大な大蛇の如き勢いを得て、それぞれの峠を越え、イズモへと侵攻を果たした。<br />
カガチ自身、今、トリカミの聖地、岩戸の前に立っていた。<br />
血に飢えた、破壊の欲望の化身として。<br />
<br />
「おや――これはアシナヅチ様。久しいのぉ」カナン兵を追って乱入したカガチは、そこにいる面々を見渡し、言った。「ほお。巫女様もおるではないか。たしかクシナーダと申したな」<br />
「カガチ……」イタケルはほとんど剣を抜きかけ、アシナヅチとの約束を思い出したのか、思いとどまり、ただクシナーダとアシナヅチを守るべく動いた。<br />
オシヲもそれに倣う。オシヲはミツハをかばうように立っていた。<br />
頭上から声が降ってきた。<br />
「カガチ様! カナンのやつらは!?」<br />
「ここにおるわ」<br />
オロチ兵たちが十数名、石段を駆け下りてくる。多勢に無勢。カナン兵たちの進退は窮まった。彼らの背後には冷たい渓流しかなく、川も岩場だらけである。<br />
「カガチ、ここでの殺し合いはやめるのじゃ」アシナヅチが言った。「ここはわれらの聖地。ここを血で汚してはならぬ」<br />
「どこであろうが、知ったことではないわ。――やれ」<br />
カガチの命を受け、オロチ兵はカナン兵に斬りかかった。剣の弾ける音。火花。そして、悲鳴。<br />
オロチの剣は以前よりも鍛えられていた。カナンとの剣戟に耐え、しかもオロチ兵たちは首や関節など、鎧の隙間を狙うよう訓練されていた。<br />
一人、また一人と打ち倒され、その地が聖地の水を赤く染めた。<br />
逃げ場を失っているカナン兵はしゃにむに突進し、囲みを破った。そのうちの一人はカガチによって、首を切り飛ばされた。が、もう一人は岩戸のある方、アシナヅチやクシナーダのいる方へ走った。今は消えている岩戸の先へ逃げようとしたのだ。<br />
だが、他のオロチ兵たちが追いかけた。<br />
「危ねえ!」イタケルが叫び、アシナヅチやクシナーダをかばいながら守ろうと動いた。<br />
殺到するオロチ兵が、カナン兵の背後から襲った。一撃二撃は鎧によって守られた。首を狙って横払いに振るわれた剣をかろうじてかわす。<br />
空振りに終わったオロチ兵のその剣は、結界のしめ縄を切った。<br />
「いかん! 結界が!」アシナヅチが大声を上げ、岩戸に近づいた。<br />
その瞬間、オロチ兵が突きだした剣が、動いたアシナヅチの胴を貫き、最後のカナン兵も別な者に首を貫かれた。<br />
息を呑む一瞬、そしてその直後、ミツハの悲鳴が上がった。<br />
岩戸の前に、カナン兵とアシナヅチは折り重なるように倒れた。<br />
「アシナヅチ様!」そばにいたクシナーダが取りすがった。「アシナヅチ様!」<br />
「……てめーら」イタケルは双眸を燃え上がるように光らせ、振り返った。「許さねえ……アワジや、みんなの恨み……」<br />
イタケルは剣をついに抜いた。振りかぶり、カガチに向けて叩きつけた。あっさりとカガチはそれを弾き返した。イタケルはもう一度、それを繰り返したが、次には剣が折れた。彼の手元には短い刃と柄しか残らなかった。<br />
カガチの持つ、ゆるいそりを持つ剣は、怪しい光を放っていた。<br />
「ちくしょう……」<br />
イタケルは素手で打ちかかって行こうとした。だが、オロチ兵たちが次々に攻撃を仕掛けてきて、逃げ回らなければならなかった。オシヲが以前のオロチの剣を持ち、加勢しようとするが、他の兵に「ガキがっ」と罵られながら、あっけなく剣を弾き飛ばされる。<br />
「オシヲ!」<br />
それを見たミツハの身体が、兵とオシヲの隙間に入り込んだ。自ら盾となって、彼女は真っ白な衣装を縦に割かれた。血しぶきと共にミツハはその場に崩れた。<br />
「おやめなさい!」<br />
渓谷に鋭い言霊(ことだま)が響き渡った。クシナーダがアシナヅチのそばで、その声の鞭をふるい、兵たちの動きを止めたのだった。さらにオシヲに斬りかかろうとしていた兵も硬直した。<br />
「ミツハ! ミツハ――ッ!!」<br />
喉が張り裂けるほどの絶叫をオシヲは上げ、彼女に取りすがった。<br />
「オシヲ……」彼女は先ほどまで吹いていた笛を手にしていた。それをオシヲのほうへ持ち上げる。<br />
オシヲは彼女の手を笛ごと握った。その手からすうっと力が失われた。<br />
「大好き……オシ……」<br />
彼女は息を引き取った。<br />
「ミツハ……おお……ミツハ――!」<br />
アシナヅチも息をしているのが不思議なほどの深手だった。そのアシナヅチから離れるのはあまりにも心残りだったが、クシナーダは立ち上がって、カガチと対峙しなければならなかった。<br />
「カガチ、わたくしたちの聖域を汚し、里の者を殺め……これ以上の何をしようというのですか」<br />
カガチの剣だ、とクシナーダは視た。フツノミタマの剣。<br />
あれはスサノヲの〝力〟だという、鋭い直観がひらめいた。そして今のカガチは……。<br />
〝鬼神〟であった。<br />
黒頭巾の下に隠してはいるが、カガチの全身からは禍々しい怨霊の如き〝力〟が溢れ出していた。しかし、その〝力〟はクシナーダの前には寄りつくことはできず、押し返されていた。<br />
その見えない世界の力関係は、カガチも感じているようだった。<br />
「トリカミの里には手を出す予定ではなかった」カガチは言った。「が、この冬も巫女を一人、貰い受けるつもりではあった。それもあって、この峠を越えてきたのだ」<br />
「わたくしは今、ここを離れるわけには行きませぬ」<br />
「ならば、この二人の男も殺す。あるいはトリカミの里へ行き、別な巫女をさらってきてもよい」<br />
今、自分がこの場を離れたら……クシナーダは冷水を浴びる心地で考えた。取り返しのつかないことが起きるかもしれなかった。<br />
しかし、拒否の選択はできなかった。<br />
それに……クシナーダは今のカガチの姿の中に、別なものを視ていた。それは彼を押し包む怨念的な〝力〟である黒い霧のようなものの中にあるものだった。それはきわめて透視しにくいものだったが、彼女には視えていた。その常闇(とこやみ)のような空間で、苦悶の表情を浮かべる男の……いや……<br />
――子供?<br />
泣き叫ぶ子供の姿が。<br />
「わかりました。一緒にまいりましょう。これ以上、トリカミの里には一指も触れてはなりませぬ」<br />
「約束しよう」<br />
「イタケル、オシヲ……アシナヅチ様のことをお願いします。決して短慮に走らず、スサノヲの帰りを待ってください。いいですね」<br />
そう言い残し、クシナーダはその場を離れた。そのときに、わずかにアシナヅチを振り返った。アシナヅチがうなずくのが見えた。<br />
「さすがトリカミの……いや、ワの国至高の巫女じゃ。おい、そいつらの甲冑をはぎ取れ。使えるものは使え」<br />
カガチの命令で、死体からカナンの鎧が奪われた。見ればすでに、カナンの鎧を着けている者もいる。カナンは明らかに劣勢なのだ。<br />
その間、クシナーダはミツハの亡骸のそばに寄り添い、涙した。そして、イタケルにアシナヅチのことを託した。<br />
カガチと兵らは、クシナーダを連行し、石段を上がって行った。上のほうが騒々しかった。やや遅れて侵攻してきているオロチの部隊と合流したようだった。<br />
「くそ……」イタケルはみずからのふがいなさを呪い、罵っていた。<br />
オシヲはずっとミツハの身体を抱きしめ、そして彼女が持っていた笛を握りしめ、闇をずっと見つめ続けていた。<br />
許さない……俺は絶対に奴らを許さない……。<br />
まるで呪文のようにオシヲの心の中で、同じ言葉が繰り返されていた。<br />
う……という呻きが上がった。アシナヅチだった。<br />
「アシナヅチ様……だ、大丈夫か」イタケルは駆け寄った。<br />
「大丈夫な……わけなかろう」<br />
「そ、そ、そりゃあ、そうだけど、だ、大丈夫だよ、俺が里まで運ぶから。すぐに良くなるさ。スクナがきっといい薬草、探してくれるからさ」<br />
まったく説得力のない言葉を埒もなくしゃべるしかなかった。彼は泣いていた。手は震え、やがて嗚咽が止まらなくなってきていた。<br />
「よいか。クシナーダに言われた通りにせよ……。一時の感情に呑まれてはならぬ」<br />
「あ、ああ、わかってるよ」<br />
「わかってなどおらぬだろう……おまえはいつも、いつも、やんちゃばかりしおって……言うことを聞かぬ洟垂れガキじゃった」<br />
「あ、ああ。そうだな」<br />
「わしの最後の望みじゃ……約束を、守ってくれ……」<br />
「わ、わかった。けどよ、アシナヅチ様がいてくれなきゃ、ダメだぜ。俺、叱ってくれる人、いなくなるじゃんか」<br />
「……失われるものなど、いっさいない……わしは十分に生きた。そろそろ、楽にさせてくれ……」<br />
アシナヅチは目を閉じた。<br />
「ア、アシナヅチ様……」<br />
滂沱と涙が溢れ出し、イタケルは、わあああ、と泣き喚いた。<br />
同時にオシヲもまた叫んだ。<br />
それは悲しみと呪詛の咆哮だった。<br />
<br />
悲しみと<br />
憎しみが<br />
満ちた。<br />
<br />
そして。<br />
岩戸は破れた。<br />
<br />
彼らの背後の岩戸から、何かが溢れ出してきていた。カガチが身にまとう黒いオーラにも似た瘴気のようなものだった。アシナヅチとクシナーダが張った結界の外へ、まるで長いカマキリの腕のような四肢が、空間をこじ開けるように、にじり出てくる。引き裂いたその隙間から、底光りする巨大な双眸が覗いた。<br />
お喋りが始まった。それは人語をものすごく高速化したようににわかには聞き取れない、甲高く神経に触る声だった。<br />
女のお喋りが聞こえる、とイタケルは思った。涙に濡れた顔を上げ、彼は不思議な思いにとらわれた。同時にものすごく冷たい、背中や首筋の皮膚に突き刺さってくる不快なものを感じた。本能的な嫌悪感と共に、彼は振り返った。<br />
何かがそこにはいた。<br />
イタケルには霊視などできなかった。が、その彼でさえ、その場に佇む異様な亡霊の如きものの存在は感じることができた。<br />
もし霊覚のある人間がいたならば、恐怖で卒倒したかもしれない。<br />
異様に長い四肢を備え、闇の毒気を衣装として身にまとった、ガス生命体のような存在だった。毒々しい瘴気が渦巻いてその身を形成している。<br />
イタケルは見た。誰もいないはずの水場が、何者かの足によって波立ち、そしてその足が前へ前へと運ばれていくことで水が撥ねる様子を。<br />
その数は増えていた。一人二人三人……。<br />
うっとイタケルは口を抑えた。耐え難い嫌悪が、胃の中身を逆流させたのだ。<br />
「オシヲ……」<br />
見るとオシヲは、両手で頭を抱えていた。割れるような痛みに耐えているのだ。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<br />
<br />
――ワレラニ触レルナ。<br />
――触レレバ腐レル。<br />
――ワレラハ死ノ使イ。<br />
――触レレバ死ヌ。<br />
――触レレバ滅ビル。<br />
――触レタイカ?<br />
――愚カナ人ヨ。<br />
――地ノ底ノ、ワレラ、死ノチカラ。<br />
<br />
八つの禍津神(まがつかみ)がそこに佇んでいた。<br />
彼らは封印を解かれ、世に飛散して行った。<br />
<div>
<br /></div>
<div>
<br /></div>
<div>
<div class="MsoNormal">
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<br /></div>
</div>
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ZEPHYRhttp://www.blogger.com/profile/18267253818170282825noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-870645900423302834.post-37495246255050477792015-07-02T11:15:00.000+09:002015-12-19T09:47:35.881+09:00ヤオヨロズ第4章 ヨモツヒサメ<br />
1<br />
<br />
濃密な闇が視野を覆い尽くしていた。<br />
まるで深い淵を覗きこむような、底も先も何も見えない闇である。<br />
その世界でスサノヲは、わずかばかり、自らの身体が発する光だけを頼りに歩いていた。そう、彼の身体はぼうっと微光を放っていた。直観的に思ったことは、それは彼が生きているからこその光であり、周囲のすべては死の闇の底にあるのではないか、ということだった。<br />
すべてが死せる世界。<br />
完全なる沈黙。完全なる闇。<br />
その〝死〟のあまりの濃厚さ、重さに、いつしかスサノヲは自分自身がそれに呑まれる恐怖を味わっていた。そして、それが彼を激しく動揺させた。<br />
――死?<br />
スサノヲは自分が死ぬということを、これまで一度も想像したことがなかった。常人と異なり、彼は超人的な肉体と力を与えられていた。ありきたりな脅威の前に、自らの存在が危うくなり、消え去る危険など、感じたことがなかった。<br />
が、この世界だけは違った。<br />
闇は果てしなく、どこへともわからず続いていた。いつまで歩けばよいのか、それすらわからない。そのためか、いつしか自分がこの闇の中に溶けて消えてしまうような、そんな恐怖がじわじわと心を侵食していたのだ。<br />
長い長い洞窟のようなものだった。しかし、距離感はまるでない。時間感覚もなくなる。どれだけ歩いたかということも一切想像できず、いつまでたっても闇が払われる気配もなかった。<br />
苛立ちと焦り。<br />
そして恐怖。<br />
スサノヲの心が乱れ始めてしばらくすると、闇に変化が生じた。<br />
初めて別な存在の気配が感じられ始めたのだ。<br />
――助ケテクレ。<br />
自分のほんの間近、頬や耳に接触するような感覚で、すうっと冷たい空気が流れていく。<br />
――痛イヨ痛イヨ。<br />
子供の声。<br />
――坊ヤ、アア、坊ヤ!<br />
母親の悲痛な叫び。病で子を死なせてしまった悲しみが、なぜかはっきりとそれと分かる形で伝わってくる。声の主の感情と状況が、そのままスサノヲに伝染してくるのだ。<br />
と、堰が切れた流れが押し寄せるように、大量の思念が彼にまとわりついてきた。<br />
――苦シイ。<br />
――熱イ! アア、体ガ燃エル!<br />
――水ヲ……。<br />
――許サナイ。<br />
――寒イ。<br />
――呪ワレヨ。<br />
それは声というより、想いだった。無数の人間の想いが、その人々が置かれている状況とともに生々しく伝わってくる。<br />
勝利と敗北。栄華と荒廃。<br />
この地上に勃興した多くの国々と、そこで生きた人々の人生、想い。<br />
それが今、とてつもない情報量となって、スサノヲの中に入って来ていた。彼らの悲しみや憎しみ、絶望、恐れの大群となって、怒涛のように押し寄せてくる。それは氾濫する大河の水を身一つで受け止めるようなものだった。<br />
その波涛はスサノヲを呑み込み、彼を粉々に粉砕しようとした。<br />
――死ニタクナイ。<br />
ある一つの想いが、スサノヲに憑依した。それは彼自身が強く想い抱いた感情そのままだったからだ。<br />
――ココデ、俺ハ死ヌワケニハイカナイ。<br />
走り抜ける無数の騎馬、馬車。戦乱。<br />
スサノヲは剣を抜いた。そして襲い掛かってくる兵士たちを切りつけた。だが、それはいつもの超人的な彼の技でもスピードでもなかった。鉛でも四肢に入っているのではないかというような、恐ろしく鈍重な動きだった。いや、彼にはそう感じられた。<br />
スサノヲが実感しているのは彼自身の人生ではなく、彼に憑依したある兵士の人生だった。強大な国家の侵略を受け、滅びゆく国。それに抗った男の想いが、そのままスサノヲの意識を占領してしまっていた。<br />
男には愛する妻と子たち、そして老いた母親がいた。そのすべてを守ろうとしたが、津波のように押し寄せる巨大国家の軍勢の前では、あまりにも非力であり、消し飛ばされてしまう程度のものでしかなかった。矢に射抜かれ、痛みに耐え、押し寄せる騎馬隊に立ち向かった。が、槍が彼の胸を貫き、打ち倒された彼の胴体と頭部を、荒馬たちの蹄がぐしゃぐしゃに潰してしまった。<br />
――死ネナイ。ココデ、俺ハ死ネナイ。<br />
原形をとどめぬほど損傷した肉体を離れた男の魂は、守るべき家族のもとへ飛んだ。が、魂だけとなった彼の目に映った光景は、侵略兵によって子らと母がたわむれに殺され、妻が犯される姿だった。<br />
<br />
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjPr-CJ2ckodaGQEu25l1mZYN6ZdvZZlBUnuMSiIjEHgfkBYOQtpnz72_EhdbnsmIM_DmsnDCMxmK0waUldoECVCV-A1OvdG1bqiiP3GTh5Fz51ZjX-8uxJcdzw0KW3anyh6A0tRfeBjJI/s1600/%25E9%25BB%2584%25E6%25B3%2589.jpg" imageanchor="1"><img border="0" height="456" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjPr-CJ2ckodaGQEu25l1mZYN6ZdvZZlBUnuMSiIjEHgfkBYOQtpnz72_EhdbnsmIM_DmsnDCMxmK0waUldoECVCV-A1OvdG1bqiiP3GTh5Fz51ZjX-8uxJcdzw0KW3anyh6A0tRfeBjJI/s640/%25E9%25BB%2584%25E6%25B3%2589.jpg" width="640" /></a><br />
<br />
絶叫した。それは魂の咆哮だった。<br />
スサノヲは男と共に、血の涙を流していた。愛する者を殺戮され、奪われ、愛した国もことごとく蹂躙される、その絶望と呪詛、自らの無力さへの呪いが、まるごと憑依した。<br />
怨霊となって――。<br />
<br />
――スサノヲ。<br />
<br />
光が。<br />
あまりにも広大で濃密な闇の中に、光が差した。<br />
まったく無意識に、スサノヲは自分の胸にある、クシナーダに与えられた領布(ひれ)をつかんでいた。右手には剣を持ちながら、左手ではその領布を。<br />
領布は明るい光を発していた。その光が、スサノヲを怨霊となった男の意識から切り離した。<br />
とたんにスサノヲは、たった今まで感じていた圧倒的で濃密な、〝負〟の感情の海から浮上していた。だが、それは危ういものだった。<br />
彼を呑み込んでいた大洋の中をかき分け、荒波の上にかろうじて這い出たようなものだ。<br />
ともすれば、海中に潜む怨霊たちは、スサノヲの足を引っ張ろうと手ぐすねを引いて待っている。それにもう一度つかまれてしまったらおしまいだと感じた。<br />
クシナーダ……。<br />
彼女の姿、彼女の仕草、彼女の笑顔。<br />
スサノヲは本能的にそれを想った。岩戸を抜ける前、胸に手を当ててくれた。その彼女の掌から伝わってきた熱さを想った。<br />
そして剣を鞘に納め、代わりにその領布を振った。<br />
<br />
闇が切り払われた。<br />
<br />
そこには、今や彼から分離された無数の怨霊たちが渦巻いている死の渕が見えた。<br />
彼らはそこで嘆き、悲しみ、そして呪い続けている。それはおぞましいというより、あまりにも悲哀に満ちたものに思えた。彼らはすべて一様に、救いを求めていた。<br />
考えるよりも先に、スサノヲは領布を振った。<br />
それは浄化の光を降らせた。それは霊送りを行ったとき、クシナーダが天界より降らせた、あの白金の粉のような光だった。<br />
シャンシャンシャンシャンシャン――。<br />
鈴の音が聞こえた。<br />
「ヨミの亡者たちよ、お前たちの還るべきところへお還りなさい」<br />
女の声が響いた。そして、さらに高く鈴の音が響き渡った。そのヒビキは、スサノヲが振りまいた光の粉を拡散させ、見渡すかぎりを埋め尽くすように覆わせた。それを浴びた亡者たちは真っ黒な塊から、ぽつぽつとほの明るい光へと変じた。<br />
その連鎖が見渡す限りへと広がり、あたりは眩いほどになった。無数の光の珠が、怨霊の海を離れ、上空へと昇って行く。<br />
上のほうに光の穴が開いた。そこへ光の珠は、吸い込まれていく。<br />
そして、すべて消えてなくなった。<br />
鈴の音が止まった。<br />
見ると、その鈴を鳴らしていたのは巫女たちだった。七人、いつの間にかスサノヲの周囲に広がって佇んでいた。いずれも清らかな乙女たちだった。<br />
「ようこそ、ヨミの国へ」もっとも年嵩に見える乙女――といっても、二十歳にもならないだろう――が言った。クシナーダのそれに似た声だった<br />
「そなたらは……」スサノヲは彼女らを一人一人見ながら言った。<br />
「わたしはアワジ。クシナーダの姉です」<br />
「アワジ……」衝撃を受けた。「カガチに殺されたという」<br />
「驚くにはあたらないでしょう。ここはヨミの国。亡くなった者がいて当然」<br />
「そ、それはそうだが……」<br />
「他の者たちも皆、トリカミの巫女だった者たちです。皆、カガチによって命を奪われました」<br />
呆然と見まわすスサノヲを、無邪気な笑顔が取り囲んだ。クシナーダやミツハと同じような、心地よいヒビキが周囲からふわっと寄せてくる。<br />
「そうか。そなたらがこれまでカガチによって命を奪われた七人の巫女……。しかし、なぜこのような亡者たちの世界に」<br />
「わたしたちはある役目を持ち、ここに留まっておりました」別な一人が答えた。<br />
「役目?」<br />
「それは、あなた様をお待ちすること」また別な一人が。<br />
「俺を?」<br />
「いずれ訪れるあなた様を助けるため」<br />
問答の受け渡しが続く。<br />
「わたしたちにはわかっておりました。失われるわたしたちの命が、きっと未来を作り出すことを」<br />
「そのために天に還ることなく、ここに留まっておりました」<br />
「あなた様に真実をお伝えするために」<br />
「真実とは?」スサノヲは巡ってきた言葉の元のアワジを見た。<br />
「それを知るために参られたのではないのですか」<br />
アワジがそう言うや、巫女たちはすうっと引き寄せられるように、それぞれの姿がアワジのもとへ重なり合って行った。彼女らは一つとなり、そして真っ白な光となった。目を開けていられないほどの輝きの中、スサノヲは自然と膝を折っていた。<br />
<b>それ</b>が誰なのか、問うまでもなく、わかったからだった。<br />
<br />
光が収束して行き、そこに顕現したのは、母・イナザミだった。<br />
<br />
このヨミの世界を壊すのではないかというほど、巨大な光の結晶としてイザナミはその存在を顕わした。<br />
――いとし子よ。<br />
そのヒビキ。慈愛に満ちたそのヒビキを受けるだけで、スサノヲは抑えていたものが堪えきれなくなった。仰ぎ見る目に、涙腺が決壊したように滂沱と涙があふれた。<br />
――母よ。<br />
――よう参られた。このヨミの国へ。<br />
――母さん……。<br />
これほどの人間的な情がどこにあったのかと、スサノヲは自分で訝(いぶか)った。およそ乾ききった、人としての情の失われた人形のような存在として、自分が地上に生まれたと感じていた。このような存在に、どのような存在価値があるのか。何の楽しみも、喜びも、逆に憎しみさえも抱くことのない人形に。<br />
――そなたは心なき、魂なき人形ではないぞえ。<br />
イザナミが告げた。<br />
――ここへ参られよ、それがわかる。<br />
イザナミが両手を広げた。<br />
それを見た瞬間、スサノヲはそれこそが自分が心底求めていた瞬間なのだと知った。<br />
――母さん。<br />
スサノヲは小さな光の珠となった。それは赤子のような……いや、胎児のようなカタチをしていた。勾玉のような。<br />
それは回りながら、すっぽりと大きなイザナミの両腕の中に抱かれた。<br />
そこは暖かく、安らぎに満ちていた。<br />
そこで彼は、ほんの小さな小さな、一粒の細胞となった。それが二つに分かれ、次には四つに分かれ、次には十六に分かれて……細胞分裂を繰り返して行った。やがてそれはまた、勾玉のようなカタチとなり、そして胎児へと成長して行った。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
<br />
母の海だ――と、スサノヲはとろけるような安らぎの中で、自分がかつてなく充足されていくのを感じた。母の胎内で成長しながら、彼は思い出していた。このヨミで体験した無数の人生を。<br />
<b>それはすべて、彼の人生であった。</b><br />
遥か歴史が刻まれる以前から蓄積されてきた無数の人生。幾度も幾度も生まれ変わりながら、時に喜びを、時に悲しみを得ながら生きてきた、当たり前の人としての人生。<br />
彼らすべての人生は、天界にたった今もあるスサノヲの大きな意識の一部として、この地上で生きてきたものだった。時には男として、時には女として。彼らすべての人生が、細胞の一つ一つとなって、今ここにあるスサノヲの中に組み込まれていった。<br />
そうすることで、スサノヲは真実、〝人〟となった。<br />
それは、新たな〝誕生〟の時であった。<br />
<br />
気がつけば、スサノヲは元の姿となり、イザナミの前にひざまずいていた。<br />
イナザミは圧倒的な光のピラミッドのような存在ではなくなり、普通の人の形をして岩の上に腰かけていた。そして周囲の石段には、先ほどの七人の巫女たちが控えていた。<br />
「いとし子よ」と、イザナミは言った。「よくぞ務めを果たされた」<br />
人のカタチとなったと言っても、その声音は厳かで、そして同時にやさしくもあった。<br />
「務め?」<br />
「そなたは思うておったろう。なにゆえに自分は、当たり前の人として地上に生まれなかったのか」<br />
「はい」<br />
「このヨミには無数の人の記憶が存在しておる。情報といってもよいし、残留思念といってもよい。今そなたが浄化し、天に送った者たちの情報は、そなた自身に由来する者たちの想いじゃ。それは浄化されぬまま、このヨミに留まっておった」<br />
「わかります」<br />
「それは普通の人にはできぬ技じゃ。クシナーダのような者たちでさえ、生身でこのヨミに立ち入ることはかなわぬ。おそらくヨミに入ったとたん、気が狂ってしまおう。当たり前の人は、ありとあらゆる悲嘆を一身に背負うことはできぬ」<br />
イザナミの語りとともに、ふっと幻影が現れた。三つの十字架。その中央の十字架にかけられ、苦悶に顔をゆがめる男。――ゴルゴダの丘――という言葉が、スサノヲの脳裏をよぎった。イザナミの想いによって、惹起されてきた情報だと分かった。<br />
「過去、このヨミに立ち入った者は、何らかの形で特別な〝力〟を備えておった。そなたの場合は、このヨミを訪れるため、特別に鈍感に作られたのじゃ」<br />
「鈍感……?」あまりにも意外な言葉に、スサノヲはあっけにとられた。<br />
イザナミはおかしそうに微笑(わら)った。<br />
「人としての情に共鳴しやすい者ほど、ヨミは恐ろしい世界じゃ。残留思念を際限なく引き寄せ、その者を崩壊させてしまう。そうならぬため、そなたはきわめて共鳴しにくい存在として、この地上に降りたのじゃ」<br />
「地上に降りた瞬間から、はっきりとした確信がありました。自分はヨミに行かねばならない。そして母に会わねばならないと。その想いだけは、絶対の使命として胸にありました」<br />
「それはそなたがその役目を負うて地上に降りたからじゃ。わたしに会うことこそが、そなたのお役目だったのじゃ」<br />
「なんのために、それが必要だったのでしょう」スサノヲは激しく戸惑っていた。「いや、俺は自分がこの世にある意味を知りたくて、ここへ参ったのですが、母に会うことだけが自分の存在意義なのですか」<br />
「そう急くな」イザナミは手をひらひらとさせた。「そうよの。もう一つ、重要な役目があるぞ」<br />
「なんでしょう」<br />
「ここへ来て、肩を揉め」<br />
「は?」<br />
「それも重要なお役目じゃ」<br />
七人の巫女たちがクスクス笑った。スサノヲは母にからかわれているのだと知ったが、「さあ、早う」と催促され、立ち上がり、石段を登り、母の背後に回った。そして肩を揉み始めた。<br />
「せっかくこうして人のカタチを得ておるのじゃ。ちょっとは人の親子らしいこともしておかねばのう。おお、良い気持ちじゃ」<br />
イナザミに年齢はなかった。言えば、肉体的な凝りなどあろうはずもなかった。七人の巫女と同じように若々しく、それでいて滲み出る雰囲気の大きさは、まぎれもない母性そのものだった。<br />
「母さん、あの、さっきの続きですが……」<br />
「相変わらずせっかちなやつじゃ」<br />
「すみません」<br />
「はっはっは。そしてくそ真面目じゃ。さきほど、そなたは二つのことを問うたな。一つはなんのためにヨミに来て、わたしに会う必要があったのか。そしてもう一つは、自分の存在する意味」<br />
「はい」<br />
「ヨミを訪れねばならなかったのにも二つの理由があるが、一つはわたしを慰めるためじゃ」<br />
「慰める?」思わず、手が止まった。<br />
「おお。今ここでこうして肩を揉んでおることもその一部というわけじゃ」<br />
なるほど…と、半ばほど納得して、スサノヲは肩揉みを再開した。<br />
「わたしはこの星のすべてを生み出したヒビキじゃ。人はそれを〝母〟〝地母神〟として認識しておる。しかし、創造の過程では常に澱のようなものが生まれる。人で言えば、そなたが先ほど浄化した残留思念がそれじゃ。それはすなわち、わたし自身の澱でもあるのじゃ。このヨミはそうした世界じゃ。そなたがそうであるように、わたしの大元のヒビキも天界にある。が、ここにあるわたしはきわめてネの世界のヒビキに近い。どういうことかわかるか?」<br />
「つまり、人間に近いということでしょうか」<br />
「その通りじゃ。そのため、時として慰めも必要なのじゃよ」<br />
「その役目を俺が?」<br />
「他に誰がおろう」<br />
「はい」<br />
そう言われれば、受け入れるしかなかった。<br />
「母を慰める者がいなければ、どうなるのですか」<br />
「恐ろしいことになる」<br />
「恐ろしいこととは……?」<br />
「まあ、考えてもみよ。どのような時代、どのような家族でも、母が崩壊してしまえばどうなるか」<br />
「…………」<br />
スサノヲが沈黙を守っていると、そばで見守っていたアワジともう一人の巫女が言った。<br />
「子は愛と居場所を失い」<br />
「男は暴走をやめず、あくなき破壊を繰り返す」<br />
「それが地球規模で起こると思えばよい」と、イザナミが引き継いだ。<br />
「それは……母さん、今、とんでもないことをさらっと言われましたね」<br />
「真の創造は陰の中、母性の中にこそある。抑えを失った陽の力、男の力は往々にして破壊に働くものじゃ」<br />
「俺がヨミを訪れなければならなかったもう一つの理由は?」<br />
「そなたがまっとうな〝人〟となるためには、ここへ来る必要があった。それは先ほどの体験で分かったであろう。かの者たちの人生を得ることで、そなたは完全となる。かの者たちの情報は怨念ばかりではなかったであろう。当たり前に生き、そして死んでいった者たちの人生の記憶じゃ。そのすべてが今、そなたの中にあろう」<br />
「はい」<br />
「わたしも慰められた」イザナミの片手が、そっとスサノヲの手の上に置かれた。「そなたを今一度身ごもり、そして生んだ。そうすることで、わたしも満たされ、そなたも満たされた。そうであろう?」<br />
「はい」<br />
不覚にも涙が滲んできた。母の優しさに触れることで、スサノヲは自分の中に欠落していた部分、風穴のように感じられたむなしさがなくなっていることを知った。<br />
「もうよい」と言われ、スサノヲは母の背後を離れた。そして、また前に膝を折った。<br />
「これでそなたは完全な〝人〟となった。もはや好きに生きるがよい」<br />
「え?」<br />
「この世に生きる意味、存在する意味。そなたはそう言うたな」<br />
「はい――」<br />
「そのようなことは自分で決めよ」<br />
あまりにも意外な言葉に、スサノヲは返す言葉を失った。<br />
「何もかも他に答えを求めようとするのは怠慢で、甘えじゃ。なんのために人に自由意思が与えられておると思うのじゃ」<br />
「いや、しかし――」<br />
「スサノヲ様」思い余ったようにアワジが言った。「今、地上は大変なことになっております」<br />
アワジの後、巫女たちは言葉を引き継いでいった。<br />
「ヨモツヒラサカの結界が破られ、ヨミに閉じ込められていた禍津神、ヨモツヒサメが外に出てしまいました」<br />
「ヨモツヒサメは人の悪しきものが凝り固まった存在」<br />
「この地の底には、人が決して手を付けてはならぬ〝死の力〟があります。ヨモツヒサメはその化身でもあります」<br />
「数え切れぬほどの人が死ぬでしょう。これまでの戦いにも増して」<br />
「ヨモツヒサメを放置すれば、世界は滅びます」<br />
「クシナーダもまた、今はカガチによって連れ去られました」<br />
「クシナーダが?!」血相を変え、スサノヲは立ち上がった。<br />
「さて、いかがする?」と、イザナミが問うた。<br />
「母さん、俺は地上に戻ります」<br />
イザナミは笑い出した。呆然とするスサノヲに、イザナミは言った。<br />
「そなたは今、何を考えた」<br />
「それは――戻って、クシナーダやみんなを助けなければと」<br />
「ならば、それが今のそなたの存在理由ではないのか」<br />
その言葉は、スサノヲの胸を突くものだった。<br />
「はい……」スサノヲは一度そう答え、そして目を上げ、もう一度、強く言った。「はい!」<br />
彼はイザナミ、ほかの巫女たちを見つめ、そして最後に今一度、母を仰ぎ見得た。<br />
「ありがとう。母さん」そう言うと、彼は踵を返し、もはや振り返ることもなく走り出した。その姿はすぐに闇に呑まれ、消えてなくなった。<br />
見送ったイザナミの瞳に憂悶が映し出され、揺らいだ。<br />
「……いとし子よ、すまぬ。せっかく〝人〟になれたというのに」母の顔がゆがんだ。その顔を隠すように右手で覆った。「そなたの役目は本当はあと一つ……。じゃが、あれはわが澱……わが怨念……」<br />
<br />
<br />
2<br />
<br />
岩戸を抜け出ると、愕然となる光景が目に飛び込んできた。足元を浸している水の冷たさ以上に、スサノヲは心臓が一瞬にして凍りつくような胸苦しいショックを受けた。<br />
二つの横たえられた亡骸(なきがら)――それが死体だということは、血に染まった姿で一目でわかった――。<br />
「アシナヅチ……ミツハ……?」<br />
スサノヲは篝火の中でゆらめくその横顔を認め、周囲を見まわした。亡骸のそばにあるのは、打ちひしがれたイタケルとオシヲだけだった。クシナーダの姿は、むろんない――。<br />
「スサノヲ……」暗い眼をしたイタケルが振り返る。<br />
水を撥ねて駆け寄り、アシナヅチの横にひざまずく。その白髪と白髭に覆われた、深い皺の刻まれた顔は、冷たい空気の中で凍ってしまっているようだった。<br />
――そりゃ、わしがしてもらいたいからじゃ。約束を。<br />
その顔が、あの人を食ったような悪戯好きな老人の笑みを浮かべることは、もうなかった。<br />
隣に横たわるミツハも、その白い顔は今はまったく血の気の失せた仮面のようだった。<br />
――わたしも、とてもうれしゅうございました。<br />
あの愛らしく無邪気な乙女の笑顔は、二度と見ることはできないのだと知らされた。<br />
「カガチがここへ来たんだ……カナンのやつらを追いかけて」イタケルが言った。「クシナーダも連れて行かれちまった。すまねえ」<br />
ぽたっ。<br />
地についたスサノヲの手の甲に、生ぬるい水滴が落ちた。それはスサノヲ自身の涙だった。幾度も生前のアシナヅチやミツハの、生き生きとした言動や仕草がよみがえってくる。そして、それがよみがえるたび、彼らがそれを見せてくれることは、もう二度とないのだと思い知らされる。<br />
「これが……悲しみか」スサノヲは、自らの顔を流れ落ちる涙に触れ、言った。そしてまた、その悲しみの底から突き上げてくるものを感じながら拳を握った。「これが怒りか……」<br />
「俺は許さない」魂の抜け殻のようなオシヲは、ミツハの笛を握ったままつぶやいた。「カガチもオロチの連中も……それにこのワの国を引っ掻き回したカナンのやつらも……絶対に許さない。あいつらがミツハを殺したんだ」<br />
それは今のスサノヲには、わかりすぎるほどわかる感情だった。ヨミで彼にもっとも強く憑依してきた男の生とその死にまつわる怨念。<br />
それと同じものをオシヲは抱き、そう、そしてイタケルもきっと、ずっと抱き続けてきたのだ。守りたい、愛すべき人を奪われた者として。<br />
「イタケル……俺はヨミでアワジという娘に会った」<br />
その言葉は、気落ちしていたイタケルに活を入れた。<br />
「アワジに?」振り返る彼の眼の焦点が合った。<br />
「他の娘たちも、皆、ヨミにいた」<br />
「なぜ、アワジたちがヨミに……」<br />
「役目があったのだと。俺を待っていてくれた」<br />
「アワジが……」<br />
「アワジたちは言っていた。失われる自分たちの命が未来を作り出すと」<br />
スサノヲの顔を見るイタケルの眼に、みるみるまた涙が溢れてきた。<br />
「アワジと俺は……ミツハとオシヲのような関係だった。兄妹同然に育って……そんで、俺はアワジのことが……」<br />
「だから、おまえはアワジの妹のクシナーダのことを見守っていたのだな」<br />
うん、うん、とイタケルはうなずいた。そして、戸惑うようにアシナヅチのほうを見た。「アシナヅチ様も似たようなことを言っていた。失われるものなど何もないと……」<br />
「イタケル、オシヲ」スサノヲは呼びかけた。<br />
オシヲも虚脱したような眼をスサノヲに向けた。<br />
「俺はヨミで自分の過去の多くの人生を知った。今、この身としてある前の数多くの一生だ……。俺はこの一つ前の人生で、カナンの民だった」<br />
「!」二人は度肝を抜かれたように目を見張った。<br />
「国を侵略され、妻や子供たち、母も皆、殺された……。この今の身は、そのときの焼き直しのようなものだ。エステルの亡くなった弟、エフライムに似ているのもそのためだ。もしかすると、どこかで血がつながっているのかもしれない」<br />
あの強大な国家(ペルシャ)の侵略を受け、無残に殺され、母親とわが子も殺害され、妻を凌辱された男の人生だった。<br />
「守るべき家族……妻や子を守れなかった、その悔いがたぶん、今もこの身には焼き付いている。どうだ、オシヲ、俺が憎いか? 前の人生でカナンの民だった俺が」<br />
オシヲは眼を見開いたまま、凝固していた。<br />
「俺は数多くの人生を、数多くの民の中で生きてきた。このワの民だったことも、幾度もある。おまえたちとこうして会うのも初めてじゃない」<br />
静まり返った岩戸の前の聖地に、しばし、時間だけが流れた。<br />
「俺が……他の民だったこともあるのかな」いつもは大きなヒビキのオシヲが、かすれた声で言った。<br />
「ある」と、断じた。<br />
スサノヲの瞳の中で、イタケルもオシヲも殺されたわが子たちだった。それは過去世の記憶を持つ今のスサノヲには、疑いようもない自明の理だった。彼らの姿を見ると、過去の子供たちの面影が重なって見え、得も言われぬ懐かしさが湧いてくる。<br />
「おまえたちも前の人生では、俺と一緒に過ごしていた」<br />
そしておおぜいの侵略兵に凌辱され、そのさなかで息を引き取った妻。<br />
<br />
それはクシナーダだった。<br />
<br />
「俺はもう二度と自分の愛する者を失いたくない。おまえたちと同じように、アシナヅチやミツハを殺された悲しみも怒りも、俺の中にはある。だが、これから俺が行うのは、復讐ではない。ただ愛する者を守り抜くための戦いだ」<br />
オシヲとイタケルは、圧倒されたように無意識に身を引いていた。<br />
あの静かだったスサノヲが……と、驚きがオシヲを満たしているのがわかった。それはスサノヲの眼の中にあるもの、全身からみなぎらせているものに感応してのことだった。<br />
「おそらく今こうなっているのは、前世の影のようなものだ。俺やおまえたちは愛する者との暮らしが理不尽に奪われる記憶を持ち、その記憶がここでまたもう一度影のように蘇えってきている。しかし、同じことを無意味に繰り返すのが人生ではない」<br />
「変えられるのかな……」ぽつりと、オシヲが言った。<br />
「かならず俺が変える。いや――」スサノヲは両手で二人の肩をつかんだ。「俺たちが変えるんだ」<br />
まずイタケルが、スサノヲの手をつかみ返してきた。<br />
「アシナヅチ様が昔、言ってたよ。未来はそれぞれの心が作り出すと。一人じゃなく、たくさんの心が集まって未来を作るんだと」<br />
「俺一人では未来を変えることはできない。だから、力を貸してくれないか」<br />
オシヲの手がそろそろと昇って来て、迷った後、自分の肩にあるスサノヲの手をつかんだ。<br />
「俺、ミツハに褒められる男になりたかった……」オシヲは自分の手の中にある笛を見つめた。<br />
「…………」<br />
「だから、悔しいけど……」オシヲの目から、ぼろぼろ涙が溢れ、こぼれ落ちた。「あいつら、どいつこもこいつも殺してやりたいけど……」<br />
息を詰めるような時間の後、オシヲは血を吐くように言った。<br />
「……スサノヲに預ける。そうする……。俺が復讐に狂ったら、ぜったい……ミツハ、俺のこと、褒めてくれねえもん……」<br />
わあああ、とオシヲは泣き出した。絶叫するようにスサノヲにすがりつき、苦悶し続けた。<br />
岩戸の聖地に、また雪が降り始めていた。<br />
それは彼らの悲しみも憎しみも、静かに覆い隠すような雪だった。<br />
<br />
<br />
「来たようじゃな」<br />
トリカミの里でナオヒが閉じていた目を開けた。<br />
それは、後退を余儀なくされたカナン軍と、追い打ちをかけてきたオロチ軍が、トリカミの里へ雪崩を打って侵攻してきた瞬間でもあった。<br />
トリカミは斐伊川の中流から上流にかけて、その周辺に広がる一帯である。その中心の里は現・雲南付近にあった。オロチは東から日本海沿いに進行する主力部隊と、それから枝分かれして現・鳥取の日南市付から峠越えをする部隊があったが、その枝分かれ部隊はキビからの連合軍と合流、万才峠を抜き奥出雲へと侵攻を果たした。<br />
それはヒバの脇を抜けて峠越えをしたカガチ部隊との合流を意味したが、それがスムースに進んだのは、いうまでもなく険しい山越えを行い、敵の背後をカガチが突くことに成功したからである。<br />
カナンは当初、山間部のいくつかの峠(現・島根県と鳥取県の境界線付近)で防衛線を張っていたが、カガチが南から防衛線を破り、北からはタジマと児島の水軍が攻めてきたことによって、戦線を維持することができなくなった。最前線の指揮官たちは撤退命令を出し、イズモに主力を構えるカナン本隊への合流を図ろうとした。<br />
その結果――。<br />
山間部のカナン軍が後退する場所は、必然的にトリカミになってしまったのである。<br />
<br />
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<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<br />
<br />
瓦解したカナンの軍は、斐伊川の上流からしゃにむに後退をし、トリカミの里を荒々しく通り過ぎようとした。だが、このときすでにカガチが率いる部隊が、大挙して押し寄せていたのである。<br />
里の中心部は、打ち建てられた柱と、里の周辺に幾何学的に配置された巨石によって、長く守られてきた。それらが里を守る結界としての機能も果たしてきたからだった。しかし、この巨大な土石流のような情勢の前には、もはや現実的な守りを果たせなかった。<br />
里人は知る由もなかったが、守りの要であったはずのアシナヅチの命が失われた今となっては、なおさらに――。<br />
わずかな時間に、静けさに包まれていた里の空気が一変した。甲冑を身に付けたカナンの部隊が、ふらふらになって里に迷い込んできた。それは、少し前にあった出来事の裏返しだった。かつてオロチがカナンによって攻められ、逃げ込んできた。その意趣返しのように、今回は後退するカナンをオロチが追いかけてきた。<br />
喚声が湧いた。怒涛のようにオロチ兵が侵攻し、カナン兵に襲い掛かった。<br />
里は血で染まった。<br />
カナン兵は鎧や、金属を縫いつけた防具を有していたが、この雪と寒さが災いした。重い装備は、深いものではなかったにせよ積雪の戦場では、移動にも戦いにも有利に働かなかった。むしろ兵の体力と体温を奪い、動きを鈍くする足かせだった。<br />
理性を失ったカナン兵は、やみくもに里の住居に逃げ込んだ。それを追いかけるオロチ兵は場合によって火矢をかけ(カヤを落とされた時のように)、炙り出されてきた敵を殺した。だが、その家にトリカミの里人がいて、逃げ出してきたとしても見境なく殺害した。<br />
「ナオヒ様、このままではここも危険です」山の天候のように、瞬く間に急変した情勢に、ニギヒは老巫女に強く言った。「われらに戦わせてください」<br />
「だめじゃ」<br />
「なにゆえに――このままでは、里人が皆殺されます」<br />
「そなたの手勢は十名ほど。そのような戦力でいかほどことができようか。無駄死にするだけじゃ」<br />
「しかし!」<br />
「剣で立ち向かえば相手を逆上させ、争いが広がり、よけいに里人の命が殺められる。それがわからぬか」<br />
ニギヒは言葉に詰まり、拳を握り固め、震わせた。<br />
「なら、せめて、守らせてください」血気盛んな皇子は、言葉を食いちぎるように発した。「里人を集め、われらに守らせてください」<br />
「よかろう。じゃが、ニギヒ、生きるより辛い思いをする覚悟はあるか」<br />
「なにを言われます……」<br />
「クシナーダが言うておったろう。立派な心がけじゃと、じゃが、言葉で言うほど簡単ではないと」<br />
「あ……はい」<br />
「そなたにそれができるかどうか、わしに見せてみよ。クシナーダはそなたよりずっと若い乙女の身でありながら、それを為してきた。そなたにそれができるか?」<br />
「どういうことでしょうか」<br />
「スクナという子がおるであろう」<br />
「スサノヲのそばにいつもいた……」<br />
「あの子を連れて、そなたは逃げよ。そしてスサノヲを迎えてまいれ」<br />
「!」<br />
「里人をここへ集め、そなたの手勢にここを守らせるように言い、そしてそなたはスクナと共にここから逃げよ」<br />
「なにを馬鹿なことを……そのような仰せには従えませぬ」<br />
ふ、とナオヒは笑った。「――ならば、そなたもそこまでの器」<br />
「言っておられることの意味が分かりませぬ」<br />
「よいか、ニギヒよ。失われるものなど何もない」<br />
老巫女の前にかしずき、その顔を見上げるニギヒの表情に不安定な戸惑い、逡巡が色濃く浮かび上がっては入れ替わった。<br />
<br />
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<br />
「失われるものなどないとしてもな、この世で生きておる者は失ったように錯覚する」<br />
「錯覚……」<br />
「命は錯覚ではない。無意味なものでもない。それを知るためにこのネの世界はある。すべては知るためじゃ」<br />
「知るため……」<br />
「実感するためといってもよい。錯覚の上に成り立つ……そうじゃな、これは遊戯じゃ」<br />
「遊戯……」<br />
「じつは失われるものなど何もない。それでもそなたは失われたと思うであろう。そなたの部下である兵たちを。彼らは死ぬやもしれぬ。しかし、クニの長たろうとするのなら、何を生かし、痛みを伴っても何を選択するのか、考えねばならぬ。時には自分の命を大切にせねば、多くの命を救えぬ時もあるぞ」<br />
「ナオヒ様、すみませぬ……。私には何をおっしゃられているのか……」<br />
「わからぬでも良い。わしの言いたいことは、痛みに耐える勇気を持てということじゃ。わしの言うことを信ぜよ。クシナーダ……あのような若い娘でさえできたことが、そなたにはできぬと?」<br />
「いえ……。クシナーダ様がなされたことなら、私もやってみせましょう」<br />
「なら、スクナと共に一刻も早くここを去り、スサノヲを迎えに行け。里人をここに集めよ。しかし、戦ってはならぬ。ただ、守るのじゃ。そのように兵たちに申し伝えておけ」<br />
「わかりました」<br />
「案ずるな。わしも、そなたの部下たちも、意外にしぶといものよ。生きておるやもしれぬ」にっとナオヒは笑った。<br />
<br />
<br />
3<br />
<br />
先行するカガチが率いる先鋒部隊からやや遅れて、ヨサミや巫女たちがトリカミに近づいた。<br />
近づくにつれ、真っ白な雪が覆った河原、丘、そして森林で、悲惨な光景が目につくようになった。<br />
トリカミの里へ近づくにつれ、黒煙が空に立ち上っているのも目に入った。クシナーダは事態を悟り、囚われの身でありながら、むしろ先を急いだ。そして目の当たりにしたのは、美しかった里が無残に踏み荒らされ、多くの死体と血が作り出す無残な光景だった。<br />
そこではまだ戦乱が続いていた。山境の防衛線から後退してきたカナン兵と、追い打ちをかけたオロチ軍が入り乱れての殺し合いが続いていた。そして、その中には足の遅い巫女たちを置いて先行したカガチの姿もあった。<br />
「カガチ、やめさせてください! トリカミの里には手を触れぬという約束です!」<br />
ヨサミはそのクシナーダの絶叫に、あのカヤを焼かれた時の我が身の悲嘆を重ね合わせた。<br />
カガチはその声を聴いたかもしれなかった。が、かすかに笑みを浮かべただけで、戦闘をやめようとはしなかった。<br />
襲い掛かるオロチの兵。逃げ惑うカナンの兵。<br />
乱入してきた兵士たちに吠えるトリカミの里で飼っている犬。その犬たちも兵の罵声を浴びながら、場合によっては凶刃の被害を受ける。<br />
里人たちは逃げ隠しているのか、姿はほとんど見えなかったが、おそらくオロチ軍は火を使ったのであろう。里の家屋の数棟から、燃え盛る音と黒煙が上がっていた。その中から逃げ出してくるカナン兵、そして里の人々。<br />
「殺(や)れ殺れ! 殺っちまえ!」<br />
嬌声が上がり、殺到するオロチ兵たちは、傷を負ったカナン兵たちも、また善意から負傷兵を助けていたであろう里人も、次々に凶刃の餌食にした。それを目の当たりにしたクシナーダは、兵士によって拘束された身をもがきながら、殺される里人の名を一つ一つ絶叫する。<br />
「ミナト! ヤヒコ! ミナワ!」<br />
クシナーダの叫びを聞いたのであろう、逃げ遅れている里人はすがる思いで、住居を出てきた。そのためにまた矢を浴び、剣で切りつけられる者が続出した。クシナーダは目をそむけ、そしてまた戻し、叫んだ。<br />
「出て来てはなりません! 皆、中にいるのです!」<br />
発声の限度を超え、声帯が破れてしまうような悲痛な叫びだった。家の中にいたからといって、助かるとは限らない。オロチ兵たちは逃げ込んだカナン兵を捜索し、次々に住居に踏み込んで行き、乱暴を働き続けている。土器の壊れる音や悲鳴が後を絶えない。<br />
ヨサミはその光景を呆然と眺めていた。なんの感情もなく。<br />
なにもかもがゆっくりと、時間が粘ったように見える。剣を突き立てられるカナン兵。絶叫。血しぶき。<br />
逃げ惑う人。人。子ら。あるいは動物たち。<br />
武器を持たぬ者でさえ、背後から無慈悲に切りつけられる。<br />
子供であっても、蹴られ、殴られ、そして踏みにじられる。<br />
泣き叫ぶ声。涙。恐怖。震え。<br />
そして――<br />
<br />
憎しみと絶望。<br />
<br />
ある時、ヨサミの感情のスイッチが入った。まったく無味乾燥な、白けた情景に見えたそれらが、いきなり色彩を帯び、生々しい現実感を伴って、五感すべてを覆ってきた。阿鼻叫喚が聴覚を満たし、生々しい真っ赤な鮮血が、積もった雪に飛び散るのが目に飛び込んでくる。<br />
「やめて……」震える声がひとりでに口を突いて出た。<br />
ヨサミは人形のようにぎこちなく、二、三歩前に踏み出した。今また戦闘の巻き添えになり、子をかばって抱いている母親の背が切りつけられるのが目に入る。火がついたように泣き叫ぶ赤ん坊。<br />
「やめて……こんな……」<br />
高熱を発した時のようにガクガクと全身が震えた。恐怖が全身を這いまわる。そしておぞましさと鋭い嫌悪が胸を鷲掴みにする。<br />
「こんなのをわたし、望んでない……。わたしは……」<br />
おぞましいのは自分だった。嫌悪を感じているのは、自分自身に対してだった。自らの憎しみと呪いが、この現実を生んだ。すべてではないにせよ、この現実の一部に、ヨサミは自分が根深く関与してしまい、自らの手を血に染めている自覚をはっきりと持った。<br />
ヨサミは叫んだ。カガチを呼び続けた。やめて、もうやめて、と。<br />
だが、戦いに没頭するカガチは、そのような言葉を聞き入れる耳を持たなかった。情け容赦なくカナン兵を殺戮して行く。<br />
ヨサミとクシナーダは叫び続け、そしてやがて力尽きて崩れ落ちるようにその場に腰を落とした。どちらの泣き顔も憔悴しきったものだった。<br />
二人の背後には、夜を徹する山越えを行ってきて、やはり疲弊した巫女たちがいた。彼女らもこの無残な光景の目撃者となることしかできなかった。<br />
彼女ら巫女は、いわばカガチの連合軍をまとめ上げる人質のようなもので、親衛隊によって守られているというよりも、事実上は拘束されていた。彼女らはそれぞれ打ちひしがれたクシナーダやヨサミのところへ行こうとしたが、その親衛隊に押しとどめられてしまっていた。<br />
「ヨサミ……」アナトらの目にも涙があった。<br />
ヨサミの受けている悲しみと衝撃。そして自責。<br />
それはすべてアナトらキビの巫女たちが共有するものでもあった。この戦闘に参加している多くの者も、キビの国から招集された兵士だからだ。その兵たちがいかに情勢とはいえ、トリカミの里人たちをも傷つけている。命を奪っている。幼子を槍で突き刺し、残忍に高笑いする。女を犯し、欲望を満たす。そして物を奪い、悦に至る。<br />
その狂気の連鎖がこのトリカミの里で演じられていた。それまでまっとうに生きてきた男たちであっても、殺し合いという恐怖と高揚の中で、狂わずにはおれないのだ。<br />
長く穏やかな暮らしを保ち、そしてカガチによる支配と横暴にもかろうじて耐えてきたこの里の平和が、ついに破られていた……。<br />
「アナト様」と、声をかけてきたのは、キビの中でもっとも年若いイズミだった。周囲の親衛隊の耳をはばかりながら小声で言った。「申し訳ありません」<br />
「イズミ……?」<br />
イズミの横顔には苦渋が浮かび、そして鋭い怒りのようなものが立ち上っていた。<br />
「わたしはカガチからキビが離れることに消極的でした。わたしのワケは、カガチの直接支配するヒメジなどからも近いがゆえに……。しかし、わたしは今、自分に腹が立っています。わたしは憶病でした。トリカミのこの様は、わたしたちの責……」<br />
「イズミ……」<br />
「策を練りましょう。きっと何か道があるはず」<br />
その時だった。アナトたちの背後で、イスズの声が上がった。「アカル様……いかがなされました」<br />
見ると、イスズが支えているアカルは真っ青になって脂汗を浮かべていた。両手で胸元を押さえて、苦悶に表情をゆがめている。身体が強くないのに山越えを強行したためかと思われたが、そうではないことがすぐにアナトたちにもわかった。<br />
彼らが踏破してきたヒバの山を遠くに見た瞬間、アナトはぞくりとする戦慄を覚えた。その山の姿そのものが、異様な鬼気をはらんでいたのだ。同時にうっと呻き声を発し、シキが両手で頭を抱えるようにした。アナトも激しい嫌悪感と頭痛に襲われ始めた。<br />
「あれは……」霊視能力に秀でているナツソが指差した。<br />
曇天の空は、今は降雪を止めていた。その空に、ヒバの山のほうから言うに言われぬ、真におぞましきものが近寄って来ていた。<br />
すうっと血の気が引いた。これほどの嫌悪を、かつていかなる毒虫や毒蛇にも覚えたことがなかった。アナトは瞬間的に嘔吐するほどのむかつきを感じ、かろうじて耐えながらその気配を自分の周囲から追い払った。が、それは闇の気配の濃厚さに対して、あまりにもか弱いものでしかなかった。<br />
「いや……いや! 来ないで!」ナツソが悲鳴を上げる。<br />
巫女たちはこのとき、一人の例外もなく凍り付いていた。<br />
触れてはならぬもの。<br />
開けてはならぬもの。<br />
ワの国の巫女たちの間でひそかに伝えられてきた絶対の禁忌――このトリカミが封印してきたもの――が、すでに解き放たれてしまったと知った瞬間だった。<br />
「ヨモツヒサメ……」口にしたくもないその名をアナトの震える唇が発した。<br />
巫女たちの動きや視線に、なんだ? というふうに親衛隊も空を仰ぐが、彼らにはその姿を確認することはできない。だが、巫女たちには〝それ〟の存在は現実そのものだった。<br />
ヨミから解き放たれた禍津神――その中でも、もっとも恐るべき〝死の使い〟であった。悪霊の集合体のようなものが、今やトリカミの上空に忍び寄り、漂っていた。それはただ一体でさえ、抗いがたいほどの強烈な〝負〟の磁場を放射しているのに、その数は八体を数えた。彼らは地上に発生する悲しみや憎しみ、そして絶望の想念を吸い上げていた。<br />
そして――<br />
<br />
笑っていた。<br />
<br />
その笑みを目撃した瞬間、アナトは発狂しそうになった。<br />
「アナト様!」<br />
声と共にシキやイズミが腕をつかまなければ、そのまま意識を飛ばされてしまったかもしれない。危ういところでそのがけっぷちに留まり、アナトはどっと放出した汗が一挙に凍りつく感触を味わった。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
「何を騒いでいる」親衛隊が不審げに言った。だが、そういう彼らにも、否定しがたい不調感が生じているようだった。顔が青ざめている。<br />
「アナト様、このままでは……」シキがおそらく無意識にだろう、勾玉を握りしめて言った。「この里の人は死に絶えます」<br />
頷きながらアナトは、自分も勾玉を握りしめた。<br />
「皆、心を強く持って。この里に結界を張りましょう」<br />
「アカル様、大丈夫ですか」<br />
イスズに支えられながら、アカルもなんとか身体を保持する。<br />
巫女たちは勾玉を掲げ、その光を空に発し、結界を広げようとした。だが、ヨモツヒサメのあまりにも濃密で強烈な闇は、それをみるみる押し包み、呑み込んでしまおうとした。<br />
<br />
――イイ餌ガアル。<br />
――ゴ馳走ダ。<br />
<br />
巫女たちの存在に焦点を合わせたヨモツヒサメの意識が飛んでくる。それは飢えた獣が、餌食となる生き物を目の前にして、涎を垂れ流すようなものだった。その邪悪さ、欲望の根深さは、巫女たちを残らず震え上がらせた。<br />
<br />
――コヤツラノ恐怖ハ美味。<br />
――ハハハハ!<br />
<br />
光の結界がたわみ、ぼろぼろに腐って行くのが見えた。その穿たれた結界の穴から、ヨモツヒサメの禍々しい〝力〟がどろどろと注ぎ込まれてくる。それはみるみる勢いを増し、土砂崩れのように襲い掛かってきた。<br />
食われる!<br />
アナトは死を覚悟した。<br />
<br />
その瞬間、事態に変化が生じていた。打ちひしがれていたはずのクシナーダが、いつの間にか立ち上がっていた。そして勾玉を掲げ、光を放っていた。<br />
その眩い光はヨモツヒサメたちの圧力を押し返し始めた。<br />
「すごい……」シキが感嘆の声を上げた。<br />
クシナーダは眼を閉じ、そして歌っていた。花の歌だった。<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚命は昇る陽(ひ)<br />
゚・*:.。..。.:*・゚光となりて<br />
゚・*:.。..。.:*・゚われらの大地を温める<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚命は巡る月<br />
゚・*:.。..。.:*・゚影となりて<br />
゚・*:.。..。.:*・゚われらの道を照らす<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚命はそよぐ風<br />
゚・*:.。..。.:*・゚息吹となりて<br />
゚・*:.。..。.:*・゚われらの身を生かす<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚命はうるわし花<br />
゚・*:.。..。.:*・゚愛となりて<br />
゚・*:.。..。.:*・゚われらの心を満たす<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚花よ花よ花<br />
゚・*:.。..。.:*・゚咲き誇れ<br />
゚・*:.。..。.:*・゚おまえの命のヒビキのまま<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚花よ花よ花<br />
゚・*:.。..。.:*・゚見せておくれ<br />
゚・*:.。..。.:*・゚愛がこの地を満たすのを<br />
<br />
その歌声がヨモツヒサメの邪気をみるみる中和して行った。<br />
「わたしたちももう一度」アナトは呼びかけた。<br />
巫女たちは〝力〟を合わせ、結界を今一度押し広げた。そのさなか、クシナーダの歌のヒビキとともに宙を舞うものをアナトは見た。<br />
天女? 一瞬、そう思った。宙を舞い踊るその女たちの姿は、羽衣をまとった天女そのものに思えた。が、アナトはすぐに気づいた。彼女らはこの里の巫女たちの御霊だと。<br />
その数は七つ――。<br />
すでに肉体を失ったトリカミの巫女たちの霊が、今も生まれ育った土地を守り続けているのだった。その巫女たちの舞いとクシナーダの歌声に勇気づけられたように、この地に息づいている草木、花、川、石や土の精霊たちが、地に姿を見せ始めた。それぞれの愛らしい姿で。<br />
彼らもまた、あらんかぎりの助勢を行っていた。悪しき猛毒の侵入を防ぐため、それぞれの光で、それぞれのヒビキで――。<br />
結界は拡大し、里全体を包み込んだ。そして、それはもともとこの里が持っていた清浄な〝気〟を維持するために巧妙に配置されたいくつかの巨石と中央の柱とリンクして、強力な結界を構成した。<br />
ヨモツヒサメたちはその外へ追いやられ、結界内には侵入できなくなった。<br />
「やった……」思わず巫女たちから声が上がる。<br />
その直後。<br />
「アカル様!」イスズの声。<br />
ぐったりと力尽きたように倒れかかるアカル。それをイスズが危うく支え、今にも二人とも倒れそうだった。アナトたちも慌ててアカルを支え、昏倒して怪我をするような事態は避けられたが――。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
「クシナーダ様!」シキの叫び。<br />
アナトが振り返った時、勾玉を捧げ上げていたクシナーダの姿はそこになかった。<br />
彼女は雪原に横たわっていた。<br />
<br />
<br />
4<br />
<br />
「こっちだよ。早く」<br />
小さな体のスクナが、山野を駆けて行く。ニギヒはそれについていくだけで精いっぱいだった。薬草取りのため、周辺の土地の獣道や抜け道のことも知り尽くしているというスクナは、時に子供でしか通れないような木々が折り重なった穴を抜けたりもした。華奢な少女とは思えぬほどすばしっこく、体力もあった。<br />
いい大人のニギヒのほうがむしろ息が上がりそうになったが、里をかなり離れたところでようやく沢に沿った歩きやすいルートに変わった。どうやらスクナは散り散りになったカナン兵やオロチ兵に遭遇する危険を考えて、およそ人が歩くような場所でないところをあえて選んでいたらしい。<br />
「岩戸はこの川の上流にあるんだよ」と、スクナが言った。<br />
「スクナはそこへ行ったことがあるのか」荒い息を整えつつ、ニギヒが訊いた。<br />
「うん。まえに薬草取ってて、たまたま迷い込んじゃったんだ。あとでアシナヅチ様に言ったら、そこが岩戸だって教えてくれた」<br />
「どれくらいかかる」<br />
「半日――ああ、もうちょっとかかるかもしれない」スクナは何気なくニギヒの足もとあたりを見ていた。ニギヒの足ではもう少しかかりそうだと踏んでいるのだ。<br />
「私のことなら心配するな。ついて行くから」<br />
「でも、スサノヲが戻ってきているんだったら、もしかしたらどこかで会えるよ」<br />
「なるほど。そう願いたいな――」<br />
茂みが騒ぐ音が二人の会話を中止させた。斜面の上方から鎧の立てる音とともに、男たちの話し声も聞こえた。<br />
ニギヒとスクナは顔を見合わせ、沢に転がっている大きな岩の背後に回った。<br />
カナン兵たちだった。五人いた。彼らは警戒しながら山の斜面を下ってきた。<br />
「大丈夫だな」<br />
「ああ、オロチのやつらはたぶんもうトリカミのあたりまで進んでいるはずだ」<br />
彼らはもともと峠を防衛していた部隊だった。しかし、戦況があまりにも不利だったため、一度戦線を後退させたところで、夜陰に道を見失った者たちだった。<br />
「ここからもう少し西へ迂回して、イズモのエステル様に合流しよう」<br />
「…………」<br />
「どうした?」<br />
「いいのか、それで」<br />
「何を言う」<br />
「この戦、俺たちは負けるぞ。あのオロチの大将の戦いを見たか。あの化け物には誰もかなわない」<br />
「なんだって……」<br />
「いや、シモンの言うことはもっともだ」<br />
「ヤコブ、貴様もか!」<br />
「いいか、カイ、冷静になれ」<br />
彼らは沢へ降りてきたところで口論を始めてしまった。<br />
「数だって違いすぎる。おそらくイズモも落とされる」<br />
「じゃ、どうするんだ。ここは俺たちのために神が下された土地だぞ。ここ以外にどこで生きるというんだ」<br />
「半島に戻り、もう一度、戦略を練り直すのだ」<br />
「馬鹿な、ここまで来て……」<br />
彼らが早く通り過ぎてくれれば何も問題はなかった。が、彼らは足を止めてしまった。このままでは目に留まってしまう危険を感じ、スクナとニギヒはさらに岩の裏側へ回ろうとした。そのとき、スクナのつま先が小石を突き動かし、これが転がり落ちた。<br />
「誰だ!」<br />
神経過敏になっていたカナン兵たちの反応は素早く、彼らの眼は岩陰に二人を見出した。<br />
「オ、オロチだな!」<br />
五人は剣を抜き放ち、いっせいに詰め寄ってきた。<br />
ニギヒも剣を抜き、岩陰から出た。背後にスクナをかばいながら。<br />
「われらはオロチの者ではない」と、ニギヒは言った。<br />
「オロチでもないのに、なんでこんなところにいる」そう叫んだのは、カイだった。<br />
「私はツクシの者だ。この戦いに巻き込まれたに過ぎぬ」<br />
「なんでもいい。俺たちがここにいたことを報告されたら困る」<br />
「ただの民がそんなご立派な剣を持つかよ」<br />
「きっとカガチの連合国の者だ」<br />
死の恐怖と戦い続け、ひと夜を逃げ延びた者たちは、保身しか頭になかった。喚き声をあげ、斬りかかってくる。ニギヒは剣を合わせ、押し返した。と思うと、すぐ別な者が剣を突きだしてくる。あわやというところでかわすが、岩場に足を取られ、尻餅をついてしまう。<br />
斬られる、と思った瞬間、ニギヒに迫ってきていたカイの顔面にこぶしほどの石が命中した。スクナが投じたものだった、頬骨のあたりを押さえるカイがひるんだ隙に体勢を立て直し、ニギヒは巨岩を背に剣を構えた。<br />
武装も違う。相手が五人もいては、どうにもならなかった。<br />
「スクナ、そなただけでも逃げろ。スサノヲを迎えに行け」<br />
「だめだよ、そんな!」<br />
「スサノヲだと……?」カイはなおも顔面を片手で押さえながら、ふと正気に返ったような反応を示した。<br />
その時、風が吹いた。山の斜面を風が茂みをざわつかせ、駆け下りてくる。それにつれ、木々に残る雪が舞った。<br />
その風は二人がよりどころとする巨岩の上に降り立った。<br />
「スサノヲ!」スクナが頭上に立つ影に叫んだ。<br />
スサノヲは抜刀すると、剣を無造作に一閃させた。その剣圧がとてつもない〝気〟となって、五人のカナン兵全員に強烈な衝撃波を叩きつけた。剣に触れるわけでもなく、彼らは残らず吹っ飛ばされていた。カイは沢に背中から倒れ、ずぶ濡れになる。<br />
ニギヒが驚嘆の眼差しを送る中、スサノヲは剣を鞘におさめ、二人の前に降り立った。<br />
やや遅れ、斜面をイタケルとオシヲが下りてきた。そして現場の状態を見て、目を丸くした。<br />
<br />
ヘックショイ! ヘックショイ!――と、幾度もカイはくしゃみを連発させ、鼻水を垂らしていた。しかも左頬は青あざを作って腫れあがっている。<br />
「ちくしょう、踏んだり蹴ったりだ」と、恨めしそうにぼやく。「スサノヲの知り合いだっていうのなら、先に言ってくれよ」<br />
「命があっただけでもめっけものだと思うのだな」スサノヲは冷たく言った。「五体をばらばらにすることもできたのだからな」<br />
カイが大げさに震えたのは、寒さのせいか、あるいは恐怖を感じたのか。<br />
「モルデ兄さんが言っていたよ。絶対にスサノヲと事を構えてはならぬと。よく分かった」<br />
彼らは沢の岩場で、しばし、話し合っていた。<br />
「アシナヅチ様とミツハが亡くなったなんて……」スクナがショックをあらわに、力なくつぶやいた。目に涙がある。<br />
「あのままにしておけなくてな、岩戸の近くに弔ってきた。それで戻るのに時間がかかっちまった。すまん」と、イタケルが言った。<br />
「トリカミは今どうなっているんだろう。父さんや母さん……それにナオヒ様も」<br />
オシヲの言葉に、ニギヒが答えた。<br />
「私が最後に見た時には、逃げ込んできたカナンはほぼ討ち取られていました。私の連れてきた兵たちは、祭殿に里人を集め、それを守っている状態だった。あのまま戦いが終わったのなら、ナオヒ様も、あるいは多くの里人も助かっているやもしれませぬが……」<br />
「しかし、それ以前にかなり里には被害が出ていたんだろう?」と、イタケル。<br />
「はい。里人は逃げてきた傷ついたカナン兵を助け、それが仇となったようです」<br />
「カナン側に付いたと思われたってことか」<br />
「かもしれません」<br />
「カガチのやつ……」オシヲの眼に暗い炎のようなものが揺らめいた。「クシナーダ様にトリカミには触れぬと約束したのに……」<br />
空気が変わった。<br />
沈黙が生じた。重い沈黙であり、それはその場に居合わせたカナン兵たちの胸にも、鋭く突き刺さって来るものだった。<br />
その静けさの中、一羽のカラスが彼らの頭上の木の枝に止まった。スサノヲは眼を上げ、しばらくその黒い影を見つめていた。<br />
「スサノヲ……?」スクナが気づいて、声をかけた。<br />
やおらスサノヲは、自分が首にかけていた朱の領布(ひれ)をつかみ、それをオシヲに差し出した。きょとんとして、オシヲは見つめ返した。<br />
「オシヲ、この領布を預かっていてくれ」<br />
「え……なんで?」<br />
「いいから。預かっていてくれ」<br />
「うん……」<br />
「未来を信じろ。この世を去ったミツハが、いつかおまえがこの世を去るとき――ずっと先だろうが――そのときには必ず迎えてくれるはずだ。そのときにおまえが、ミツハに誇れるおまえでいるのだ。そのことだけを考えろ」<br />
「ああ……」オシヲは戸惑いながら領布を握った。<br />
「カイ――」スサノヲは身を乗り出した。「カナンは償いをせねばならぬ」<br />
「償い……?」<br />
「〝殺すなかれ〟〝盗むなかれ〟〝隣人の家を欲しがるなかれ〟――おまえたちは、おまえたち自身の存在意義に背いている。おまえたちはいったい、この島国の何百、いや、何千人を殺した? どれほどのものを盗み、そしてどれほどの隣人の家をわがものとした?」<br />
「な、なぜ、十戒を……」カイは真っ青になった。<br />
「そんなことはどうでもいい」<br />
「そ、それは……。その教えは、わが同じカナンの民の中でだけで存在するもので……」<br />
「つまり異教徒の民には適用されぬというのだな」<br />
「そ、そうだ」<br />
「おまえらのいう唯一の神は、いったいどこまでを創造したのだ!」<br />
スサノヲの怒号は、その場の全員の体を地震のように動かした。<br />
「この地上のすべてではないのか! ならば、このワの国、おまえらが執着する豊葦原瑞穂の国も、おまえらの神が創造したということではないのか! でなければ、この国の権利を主張することなどできぬぞ!」<br />
「…………」<br />
「異教徒ならば殺してよいのなら、おまえらの神はこの地上のすべてを創造していないことになる」<br />
「い、いや、しかし、神は常に信仰に背く者は滅ぼし、選ばれた者だけを救ってきた」<br />
「かの洪水やソドムとゴモラのときのようにか」<br />
「そうだ。神はこの地すべてを創造されたが、神の教えに背く者がいるだけのこと」<br />
「つまり神の教えに背く異教徒なら殺してもよいと?」<br />
「そ、そうだ……」<br />
そう言ってから、カイは、そして他のカナンの兵士たちは、スサノヲやその場にいる、ニギヒ、スクナ、イタケル、オシヲらの顔を見た。動揺しきった眼差しで。<br />
「それで良いと本気で思うのか――と、エステルに伝えよ」スサノヲは静かに言った。「自分たちだけが選ばれた民、神に愛されていると者だと、世界中に声高に叫んでみろ。そして望むところすべてを手に入れてみようとしてみろ。未来でも同じような者たちが必ず現れ、いたるところに船出し、その土地を神の名のもとに得ようとするだろう。だが、おまえらと同じように、自分たちの神と信仰こそが唯一のもので、他は認めぬという民がもしおまえらとは別に現れ、おまえらに対峙したらどうなる?」<br />
「…………」<br />
「どちらかを完全に滅ぼすまで、その戦いと憎しみは消えることがなくなるのだぞ。それが神の意志だとでもいうのか? 何も知らぬ赤子や、善良な人々を、おまえらがこの地でいかほど殺したか。この先もそれを続けることを、おまえらは人としてそれを望むのか」<br />
「…………」<br />
「神ではない。人として考えよ。そのようにエステルに伝えよ」<br />
「わかった……」<br />
「ならば、行け」<br />
カイは周囲の様子を見ながら、ゆっくりと立ち上がった。同調したように、他の四人のカナン兵も立ち上がった。<br />
彼らは去って行った。<br />
「スサノヲ?」スクナが、今一度、不審げに言った。<br />
「みんな、先にトリカミに戻ってくれ。たぶん、そこはオロチ軍が占拠しているだろう。気を付けて、中の様子を探ってくれ」<br />
「スサノヲは?」<br />
「俺はここで一つやることができた。必ず追いかけるから、先に行ってくれ。イタケル、それにニギヒ、オシヲとスクナを頼む」<br />
スサノヲは上空を見ていた。誰もがその様子に不審を感じていた。今は一刻も早くトリカミに戻らねばならぬはずだった。それ以上に重要な使命はないはずだというのに、スサノヲは何か違うものに意識を向けていた。<br />
まさか――イタケルは立ち去りながら、嫌な予感に胸をつかまれ、思わず振り返っていた。<br />
その胸騒ぎ、嫌な感触は、アシナヅチとミツハが殺されたとき、岩戸の前で感じたそれを思い起こさせた。<br />
<br />
<br />
「これは……どうしたというのだ」<br />
トリカミに残存するカナンの兵士たちをあらかた血祭りにあげ、戻ってきたカガチは不審と戸惑いを隠せなかった。巫女たちは一カ所に集まり、気を失っているクシナーダとアカルを介抱していたからだ。親衛隊もこの異常な事態に、巫女たちの行動に制限をかけ続けることはできなかった。意識をなくした二人はまるで死人のような肌の色をし、冷たくなっていたのである。血の気というものがなく、かすかに上下する胸が呼吸があることを伝えてくるだけだ。<br />
「何があった」<br />
巫女たちは沈黙を守っていた。カガチは苛立ち、声を荒らげた。<br />
「アカル……アカル!」<br />
怒声のような言葉に、アカルは薄く目を開いた。だが、それだけだった。唇は震え、声を発することもできず、また目は閉じられた。<br />
カガチはみずから手を伸ばし、巫女たちの輪の中からアカルの華奢な体を抱き上げた。<br />
「おい、クシナーダも連れてまいれ」<br />
巫女たちは連合軍をまとめ上げるための人質のようなもの。死なせてしまっては元も子もない――という打算以上の動揺が、カガチには見られた。みずからアカルを抱き上げ、運ぶ横顔をヨサミはずっと見ていた。<br />
<br />
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<br />
さきほどまでの、戦場での悪鬼の如きカガチではなかった。トリカミの里の中心部にある家屋の一つに運び込むと、カガチは部下に向けて怒鳴った。<br />
「火を持って来い! 暖めろ」<br />
「カガチ、わたくしたちにお二人を見させてください」イスズが言った。「男ではどうにもなりませぬ。今は一刻を争います」<br />
「……わかった。任せよう」<br />
「衣を着替えさせます。お出になってください。それからここの里人に言って、着替えを持ってこさせてください」<br />
カガチは床に横たわった二人の巫女を見、それから家を出た。ヨサミはカガチのそばへ、ほとんど本能的な動きで近寄った。<br />
「なにがあった」<br />
「…………」<br />
「答えよ」<br />
「はっきりとはわかりませぬ……」ヨサミは枯れたような声で、ようやく言葉を返した。「なにか恐ろしいものが里を覆っていました。それを二人は……いえ、皆が押し返したように感じました」<br />
「恐ろしいもの? お前は見てはおらぬのか」<br />
「わたしはもう……〝力〟をすべてカガチ様に捧げておりますゆえに」<br />
チッ、とカガチは舌打ちした。そして向かったのは、少し離れた場所にある大きな祭殿だった。その前にある広場にトリカミの里人が集まっていた。数はざっと百名近く――。子供の泣き声や怪我人の呻き声が聞こえる。戦闘に巻き込まれ、ここへ運び込まれた者も大勢いるのだ。<br />
その里人の集団を十名ほどばかりの屈強な男たちが守っていた。たまたま逗留していたイト国の客人だという話だったが、いずれも優秀な兵士であり、オロチとカナンが入り乱れた混乱時にも、集まった里人を守って戦い、犠牲者を最小限に留めた。そのような手練れの兵がこの場にいたことに、カガチは胡散臭さを感じていた。<br />
その兵士たちも含め、里人の集団を、今はオロチ連合の兵たちが包囲していた。<br />
里人たちはカガチが近寄ってくると、恐れおののきながらも身を乗り出すようにする者もいた。彼らはクシナーダたちが運び込まれたのを見ていて、自分たちの巫女のことを案じていたのだ。<br />
「巫女の着替えを二着、用意しろ」と、カガチは誰にともなく命じた。「聞こえぬのか! 貴様らの巫女が死にかかっておるのだぞ」<br />
クシナーダ様が……と里人に動揺が走った。女が一人、群衆の中から抜け出てくる。<br />
「衣を取りに行ってもよろしいでしょうか」おずおずと尋ねる。<br />
カガチは顎をしゃくり、促した。女は駆け出して行った。<br />
「そなたがカガチか」群衆の中から出てきた老婆が言った。「わしも行ったほうが良いと思うが」<br />
「何者じゃ」<br />
「ツクシのアソの巫女、ナオヒという」<br />
「ナオヒ様……?」ヨサミはその名を聞き、少なからぬショックを受けた。<br />
カガチはそんなヨサミをわずかに振り返り、老巫女に向き合った。<br />
「アソの大巫女様か。お初にお目にかかる」<br />
「わしもクシナーダとアカルの手当てをしたいが、よろしいかのぉ」<br />
「アカルのことを知っておるのか」<br />
「親戚筋じゃからな」杖を頼りにナオヒは歩いてきて、カガチの前に立った。「アカルはその〝力〟と引き換えに、体は極めて虚弱じゃ。それはそなたも知っておるのではないか」<br />
「治療ができるのだな」<br />
「アカルを癒したいのなら、わしを行かせることじゃな」<br />
「癒せなかったら?」<br />
「こんな老いぼれ、いつ命を取ってくれてもかまわぬぞ。アシナヅチを殺めたようにな」<br />
固唾を呑み、聞き入っていたトリカミの里人を深甚な衝撃が襲った。アシナヅチ様が?! とざわめきが動揺と共に広がる。<br />
「アシナヅチもミツハももはやこの世におらぬであろう? そなたらが命を奪ったのではないか」<br />
「結果的にはそうだな」<br />
この瞬間、剣呑な空気が里人の間に流れた。いかにトリカミが穏やかな民だとしても、ここに至るまでにカガチの暴虐は、忍耐の限界に達していたと言っていい。その上、首長まで殺されたと聞いて、殺気立つなというのは無理な話だった。<br />
「アシナヅチはカナンとの戦に巻き込まれた。ただ、それだけのこと。今も好んでこの里の者を殺すつもりはない。――だが!」カガチは鋭い眼光と威圧的な声を民の頭上に投げた。「われらの邪魔をするというのなら話は別だ。俺に目障りだと思われぬことだ。あのクシナーダを生かすも殺すも、おまえら次第――」<br />
「ずいぶんと弱々しい言葉じゃ」<br />
「なに?」<br />
「人を信じられぬから、安心するための材料が欲しいのであろう。それにしがみつき、声高に叫ぶ。それはそなたが弱いからじゃ。今までもそのようなやり方をしてきたようじゃが」<br />
「貴様……」カガチは剣を抜き放ち、ナオヒに向けた。<br />
「はっはっは」と、ナオヒは刃の下で笑い声を立てた。「この枯れ木のような老いぼれ一人、殺すことでしか憂さを晴らせぬか。弱い弱い」<br />
ぶるっと剣が上下に震えた。が、カガチはわずかな葛藤の後、剣を引き、鞘に収めた。<br />
「年寄りには口では勝てぬわ」<br />
にっとナオヒは皺だらけの顔で笑い、里人たちを振り返った。「――皆、わしの言葉をアシナヅチの言葉と思うて聞いておくれ」<br />
里人の目が、ナオヒに集まった。<br />
「かように弱き者の脅しに怯え、絶望することなどない。皆、真の強さとは何か、考えるのじゃ」<br />
そう言うと、ナオヒは里人に背を向け、クシナーダたちが運び込まれた棟へ歩き出した。<br />
しばらく沈黙があったが、一人の男の里人が動き出した。カガチのそばを通り過ぎ、オロチ兵の包囲の外へ出ようとする。むろん兵士は剣を向け、出すまいとした。<br />
「どけ。まだたくさん怪我人がいるんだ」里人が決然として言った。<br />
「そうだ。亡くなった者も弔わせてくれ」そう言いながら、また別な里人が立ち上がった。<br />
次々に同調した里人がいっせいに動き出した。<br />
兵士たちはどう対処していいものか、困惑した。もの問いたげな表情で、自分たちの王を見る。カガチはまた舌打ちした。武器も持たない者たち――しかし、断固として動き出した彼らを押しとどめる術はなかった。あるとすれば殺してしまうことだけだが、それをするのはあまりにも億劫に感じられた。殺意がそこまで掻き立てられないのだ。<br />
「好きにさせてやれ。クシナーダがこちらの手にある限り、こいつらは言うことを聞くしかない。だが、そのイト国の連中からは武器を没収しろ」<br />
カガチの命令で兵士たちは動いた。イト国の兵はそれに従った。<br />
祭殿のそばから人が広がっていく。怪我人も、それぞれの家へと運ばれていく。子供たちもそれにつき従った。<br />
やがて広場には誰もいなくなった。<br />
そうなるまでカガチは、動かずにそこに立っていた。彼には民たちのことは、何一つコントロールできてはいなかった。<br />
その背中をヨサミは見続けていた。喉元まで出かかった言葉が出なかった。<br />
――アカル様はあなたのいったい何なの。<br />
そう尋ねたかったのだ。<br />
<br />
<br />
――良イノカ。<br />
大きなカラスを媒体に、サルタヒコが告げた。<br />
――アノ領布ナクシテ、よもつひさめニ対峙ハデキヌゾ。イヤ、タトエ領布ガアッタトコロデ、焼ケ石ニ水デアロウガナ。<br />
「あの領布がなければ、オシヲや他の者が危険にさらされる」スサノヲはつぶやくように応え、そして剣を抜いた。<br />
――馬鹿者ガ。一人デ何ガデキヨウカ。<br />
「黙っててくれ」<br />
――来ルゾ。<br />
スサノヲは見た。<br />
無数の蛾が覆い尽くすように、空が闇に塗り替えられるのを。<br />
<br />
<br />
5<br />
<br />
「ナオヒ様!」<br />
入ってきた老巫女を見て、アナトが大きな声を上げた。いっせいに振り返った巫女たちを順に見返し、最後にアナトのもとに視線を戻したナオヒは言った。<br />
「久しぶりじゃな、アナトよ」<br />
「は、はい――」アナトは我に返ったように反応し、老巫女の前に膝を折った。<br />
他の巫女たちも同様に動こうとするが、ナオヒはそれを制した。「そのような堅苦しいこと、今はよい。それよりも……じゃ」<br />
横たえられた二人の巫女は、ちょうど濡れた衣を着替えさせられたところだった。まだ意識は失ったままである。<br />
ナオヒは二人の間にしゃがみ、それぞれ順番に自らの手を心臓のあたりにかざした。<br />
「ふむ……クシナーダは大事ないじゃろう。一度に霊力を使いすぎたのじゃ。この娘(こ)はもともとわりあい丈夫じゃからな。いずれ意識を取り戻すじゃろう」<br />
ナオヒの言葉通り、クシナーダの頬は少し血色を取り戻しつつあった。<br />
「問題はアカルじゃ」<br />
アカルはまるで死人のような顔色のままだった。は、は、という短く浅い呼吸が、まるで死期が迫ったかのようにか細い。<br />
「皆で今、〝気〟を注いでおりましたが」と、アナトが。<br />
「それだけでは足らぬ。アカルはな、とてつもなく敏感な霊媒体質を持っておる。そのため、あのものどもの穢れを受け取ってしまったのじゃ。それを吐き出させねば」<br />
「どのようにすれば?」<br />
「そなたらは〝気〟を入れてやっておくれ。わしがやってみよう」<br />
ナオヒは仰向けに横たわるアカルの身体を転がすように横向けた。老体でも可能なほど、細くて軽い身体だった。巫女たちは輪になり、手をかざした。彼女らの掌から生命の力が、見えざる波となって送られる。その中でナオヒは祝詞(のりと)のようなものを口ずさみながら、しばらくアカルの背を撫で続けていた。そして、あるときポンと背を掌で叩いた。<br />
けほ、とアカルは喉につかえていた何かを吐き出すように咳き込んだ。すると、にわかに気道が開いたように大きく息を吸い、そして吐いた。<br />
ああ、と巫女たちは希望に満ちた声を上げた。<br />
アカルは眼を開いた。が、うっと口元を押さえ、背を波立たせるようにした。嘔吐に耐えているのだ。<br />
「器を……」ナツソがその家にあった大きな鉢を持ってきた。<br />
「我慢するでない。すべて出してしまうのじゃ」<br />
一瞬、ナオヒの声にアカルは振り返り、誰かということを認識したようだったが、激しい嘔吐感に襲われ、鉢の中に胃の内容物を吐き出した。肉体が受け取ってしまった穢れを猛然と拒絶し始めたのだ。ナオヒはずっとアカルの背をさすっていた。吐くものがなくなっても、えづきはなかなか止まらず、アカルは苦しみ続けた。<br />
ようやく収まってきたときには、もう精も根も尽き果てたような状態で、またぐったりとなってしまった。<br />
「ナオヒ様……おひさしゅうございます……このような有様で、申し訳なく……」<br />
意識を失いつつも、そんな言葉を口にした。<br />
「よいよい。今はゆっくり眠るのじゃ」ナオヒはアカルの手を握り、笑顔で眠りの世界に送り出した。<br />
アカルには幾枚もの布がかけられ、家の中の囲炉裏でも火が焚かれ続けた。やがて彼女の顔にも血の気が戻ってきた。体温も上がってきたようだった。<br />
「よかった……。大丈夫ですね、もう」アナトが心底の安堵を込めて言った。<br />
「うむ……」<br />
「ナオヒ様がこちらにおわしましたとは……ありがとうございます」<br />
あらためてアナトは、ナオヒの前で身を低くした。他の巫女たちもそれに倣った。<br />
「勾玉のヒビキに引かれたかの……。それはそなたらも同じであろう」<br />
巫女たちは顔を見合わせた。<br />
「お初にお目にかかる者もおるな」<br />
この中でヤマトのイスズ、そしてキビの中ではイズミとシキは、ナオヒとは面識がなかった。<br />
「わたくしにもご紹介ください」<br />
声がして、一同ははっとなった。<br />
クシナーダがそこに身を起こしていた。まだ少し顔色の冴えないところはあったが、はっきりとした眼差しをしていた。<br />
「クシナーダ様……」<br />
巫女たち――とりわけキビの四人の巫女たち――は固まってしまった。時間までもが凝固してしまったような後、彼女らはこぞってクシナーダの前にひれ伏した。<br />
「も、申し訳ありませんッ!」叫ぶように言ったとき、アナトの双眸から涙が溢れ出し、床を濡らした。<br />
「申し訳ありません」<br />
巫女たちは続いて異口同音に言った。<br />
「本当に……本当に申し訳なく思っております。何とお詫びしていいか……言葉もございません」<br />
「アナト様……。わかっておりますよ。あなたがたも家族を囚われ、苦しいお立場」<br />
「しかし、トリカミの里をこのように血で汚し、あまつさえ、ヨモツヒサメを呼び出す結果となってしまいました。何もかも、わたしたちが至らず、カガチに組し続けたため……」<br />
「カガチには逆らえぬでしょう。あなた方も自らの国を守っていたのですから」<br />
シキやナツソは顔を伏せたまま、声を上げて泣き始めた。それは他の巫女たちにも伝播した。クシナーダは彼女らのほうへ寄り、そして一人一人を抱くように、そっと背に手を置いた。<br />
「もうおやめください。わかっておりますから」<br />
イスズもクシナーダの前に膝をつき、頭を下げた。<br />
「ヤマトのイスズでございます。わたくしからもお詫び申し上げます」<br />
「イスズ様……あなた様のこと、ずっと感じておりましたし、お噂に聞いておりました。ヤマト・ミモロ山におわす予知の巫女様と」<br />
「クシナーダ様にはとうてい及びませぬ」<br />
「皆様、お顔を上げください。皆様の眼を見てお話しとうございます」<br />
そう言われ、巫女たちは顔を上げた。キビの巫女たちは頬や鼻を赤くし、いまだに泣き声を押さえられずにいた。クシナーダを前にして、自分たちが胸に溜めていた罪悪感が心情の吐露とともに決壊したようになっていた。ちょうど悪さをした子が、母親の前で打ち明けるときのように。<br />
この中でクシナーダよりも年若い巫女は、イズミしかいなかった。にもかかわらず、彼女ら全員にとっての母性として、クシナーダはそこに存在していた。それは理屈ではなかった。<br />
「皆様のお辛さは、わたくしは誰よりもよくわかっております。わたくし自身、とても罪深き者……」クシナーダは静かに語ったが、その表情には濃い憂愁の色が滲んできた。「実の姉であるアワジをはじめ、このトリカミの里にいた年上の巫女たちは、ずっとカガチの犠牲になってきました。それはすべて、この時が至るのを待つため、そしてわたくしを生かすためでした」<br />
衝撃を受け、巫女たちは言葉を失い、クシナーダの告白を聞いていた。<br />
「守ろうとした父母も殺され、最初に姉が連れ去られるとき、姉はわたくしとアシナヅチ様に申しました。何があっても最後までわたくしを生かせ、と。それがすべてを救うことになると……」塑像のように語るクシナーダ。しかし、そのつぶらな瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちた。「姉もまた予知に長けた巫女でした。アシナヅチ様も……わたくしも……ある未来を視ていました。それはある光がここへ到着し、闇を払う未来でした。その光を待つためには、わたくしは生きなければなりませんでした。ひとり……生き残っていくこと……愛する者の死を見送りながら、自分だけが生き続けること……それは何にも増して辛うございました」<br />
<br />
その言葉を戸口のすぐ外で聞いている者がいた。ヨサミであった。<br />
彼女は家の中で泣き声がしているのを聞き、誰かが亡くなったのかと危ぶみ、戸口のところまでやってきたのだ。だが――。<br />
――同じだった。<br />
ヨサミは痛烈な衝撃と悲しみに胸を貫かれていた。泣き声を上げるのを堪えるため、両手で思い切り口を封じなければならなかった。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
――クシナーダ様は自分と同じだった。<br />
たった今まで、ヨサミはそのようなことは想像にすらしていなかった。父母を殺され、愛する国を滅ぼされ、ただ一人生き残ってしまった苦しさ、辛さ、悲しさ、そして孤独。<br />
それは誰にもわからぬものと思っていた。<br />
だが――<br />
……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……。<br />
迫ってくる夕闇の中、ヨサミはその場にうずくまり、心の中で繰り返していた。<br />
<br />
クシナーダは涙をぬぐった。が、むしろ彼女の告白を受け、他の巫女たちのほうが泣いていた。年長で冷静なイスズでさえ、涙を禁じ得なかった。<br />
「え……と。あらためて自己紹介を致しませんか」<br />
クシナーダは気分を変えようとするように、ナオヒのほうを見た。<br />
「そうじゃな。わしは親戚筋のアナト、ナツソ、アカルは知っておるが」<br />
「親戚筋なのですか?」<br />
「……もともとキビのアゾというのは、大巫女様のいらっしゃるアソから取られた地名です」ようやく泣き止みつつ、アナトが説明した。<br />
「アカルのおるタジマのあたりにも、アソ海という砂州で仕切られた海があるのじゃが、それも同じじゃ」と、ナオヒが補足した。<br />
「まあ、海の名前にも?」<br />
「クシナーダなど知らんじゃろうが、昔アソの御山の中にはそれはそれは大きな湖があっての、同じように呼ばれておったのじゃ」<br />
「ナオヒ様はご覧になったことが?」<br />
「あるものか。何千年も昔の話じゃ」<br />
巫女たちは二人のやり取りにふっと笑った。<br />
が、その直後、クシナーダが別なものに気を取られた。<br />
「スサノヲ……?」<br />
彼女の眼は大きく見開かれ、はるかかなたを見るように視線を送った。<br />
その瞬間、地が揺れた。<br />
<br />
<br />
空を満たす闇は、霊視的なものというには、あまりにもリアルだった。もちろん山間に忍び寄る夕闇などでもない。<br />
そもそもスサノヲには、巫女が持つような霊視能力はなかった。が、サルタヒコと会話するときのように、ある種の波長にはセンサーが働くことがあった。サルタヒコとはまったく異なるが、その〝存在〟もなぜか彼が認識できるチャンネルの一つだったようだ。<br />
闇は、蛾か蝙蝠かが無数に羽ばたくようなイメージだった。それが集まりながら舞い降りてきた。スサノヲの目の前に――。<br />
それは一個の人のような形を維持しつつ、茫洋と揺らめく影となった。<br />
〝影〟は嘲笑(わら)っていた。そのように見えたというよりも、それが伝わってきた。<br />
――オマエカ。<br />
言葉にすれば、そのような思念である。〝影〟はスサノヲに関心を示し、同時に嘲笑っていたのだ。<br />
「ヨモツヒサメ……」スサノヲは手にした剣を振り向けた。<br />
すると嘲笑的なものが、さらに大きくなって押し寄せてきた。<br />
――ソノヨウナモノ、ワレラニハ何ノチカラモ持タヌ。<br />
「そうかな……? やってみなくちゃ、わからんだろう」<br />
言下に、大気がびりびりと震えるような波動が生じ、それはスサノヲに集まり始めた。凝縮されるエネルギーがみるみる増大して行き、収まり切れないものが身体のまわりで爆ぜた。<br />
爆発するようにスサノヲは〝影〟を斬った。<br />
その〝力〟は、カイらカナン兵たちを吹っ飛ばしたときの比ではなかった。放出されたエネルギーは周囲の木々を薙ぎ払い、太刀筋に沿って抉り取ったような痕跡を大地に刻み付けた。<br />
〝影〟は跡形もなくなり、粉々に消え去った。<br />
気配も消えていた。<br />
スサノヲは周囲を見まわし、剣を鞘に収めた。そして、歩き出した。渓流に沿った道を、イタケルたちの後を急ぎ追うために。<br />
<br />
ビチャ<br />
<br />
音がした。それは普通の川の流れ音ではなかった。流れの中に何者かが足を踏み入れるような、そんな異音だった。<br />
<br />
ビチャ<br />
ビチャ<br />
<br />
スサノヲの歩みに同調するように、その音は追ってきた。振り返ると、川の流れが異常だった。<br />
岩も何もない川の流れの真ん中に、何かがいた。二本の脚がそこへ突っ込まれているように、ある二つの場所だけ、流れが迂回しているところがあった。<br />
――キヲツケロ!<br />
それは以前にも聞いた、サルタヒコの警告だった。<br />
またあの嫌な気配が生じた。無数の蛾が集まるように、真っ黒な羽ばたきが集まり、その川の流れの上に〝影〟となった。〝影〟から無数の触手のようなものが、バネに弾かれるような勢いで伸びた。その一本はスサノヲに向けたものだったが、彼は反射的に横へ飛び退いてそれを避けた。<br />
が――。<br />
四方八方へ延びた闇の触手は、渓流沿いに植生する樹木の幹に絡みついた。すると、 樹々はまるで生命を吸い取られたかのように、みるみる枯れた。<br />
闇の触手は間髪を入れず、スサノヲに襲い掛かってきた。彼は剣を抜き払い、襲来する触手を退けた。彼の放つ〝気〟は、闇の触手に対してまったく無効ではなかった。が、あまりにも数が多すぎた。神速を持つ彼の剣技とて、無限のように増え続ける触手に対応しきれるものではなかった。そして、どんどん森が枯れて行った。<br />
野獣の吠え声が響いた。<br />
それは岩戸への往路、遭遇したツキノワグマだった。胸元に鮮やかな月の紋章を持つその熊は、出現するや、猛然と〝影〟に向かって突き進んで行った。<br />
豊かな恵みを持つ山々を穢し、枯らす存在。<br />
それに対するはっきりとした敵意をむき出しにし、熊は咆哮し、向かって行った。だが、彼にも触手が突き刺さり、絡み付いた。<br />
熊は山々を震撼させるような苦しげな喚き声を上げ、飛びかかろうとしたまさにその空中でもがき苦しんでいた。そして――。<br />
みるみる色を失った。<br />
灰色のような、白っぽい存在へと変容し、身が――そして骨が――宙に霧散して消えた。<br />
――ワレハ〝死ノチカラ〟<br />
――ワレニ触レルナ。<br />
――ワレニ触レレバ腐レル。<br />
――触レレバ滅ビル。<br />
死そのものの宣告が迫ってくる。たった一体のヨモツヒサメ。<br />
それにスサノヲはなす術もなかった。<br />
触手の一つが、スサノヲの胸を貫いた。<br />
「!」<br />
その瞬間、スサノヲは自らの命がとてつもない勢いで、吸い取られていくのを感じた。<br />
<br />
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<br />
肉体がそこから、急速に乾燥して、ぼろぼろに崩れていく――。<br />
絶叫した。<br />
と、同時に地が揺れた。<br />
――ここで俺は死ねない!<br />
スサノヲは渾身の〝力〟を集め、剣を振った。触手を断ち切り、その身体は川に落ちた。<br />
ずしん、という重い響きと共に大地が鳴動した。ものすごい地震が生じ、その振動がありとあらゆるものを囲繞(いにょう)した。巨大な自然のうねりにヨモツヒサメも動きを止め、様子を伺った。触手に枯らされた樹々は真っ先に倒れ、そして生きている立派な樹木さえも、みしみしと悲鳴を上げ、しなり続けた。<br />
そして、山の一部が決壊した。上流で川の流れに制約を加えていた巨岩が動き、転がり落ちた。と、同時に堰き止められていた水が、その決壊した場所を中心に一挙に周囲の山土を粉々に突き崩し破壊しながら奔流となって駆け下った。<br />
スサノヲはもがき苦しみながら、身を起こした。<br />
その彼が見たのは、自らに襲い掛かる土石流だった。<br />
<div>
<br /></div>
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<br /></div>
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<br /></div>
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1<br />
<br />
「洪水だ!」<br />
叫びがトリカミに響き渡った。それは鋭い揺れの地震の後だった。<br />
地震は激しいもので、家屋のいくつかが倒壊した。慌てて外に飛び出した里人がほとんどで、下敷きになって怪我をするような者はいなかった。が、それからほどなく斐伊川のほうから異様な轟きが迫ってきた。<br />
トリカミは小高い場所に中心の集落があり、洪水そのものがその丘に駆け上ることはなかった。が、それによって甚大な被害をこうむったのは、他ならぬカガチの軍勢だった。<br />
オロチ連合軍はトリカミ一帯からカナンを追い払うと、そのまま川の下流方向へ部隊を展開していた。トリカミのやや北の広い河原に主力を配備し、さらに北に位置するイズモのカナン軍に備えていたのだ。<br />
気づいたときには遅かった。あっと振り返ったときには、巨大な泥の化け物のような洪水が、兵たちを残らずひと呑みにし、濁流の中に叩き込んでしまった。氾濫した川の水が眼前にまで迫り、命からがら逃げだしたのは、キビから同行していたイオリ――キビで山城を造営していた太守――と、彼の周辺にいたわずかな者ばかりだった。<br />
難を逃れたイオリは泥だらけになってトリカミまで引き返し、カガチに報告をした。<br />
「ほどんど全滅だと……」カガチの表情はさすがにこわばった。<br />
「い、いえ。今も生存者を探しておりますが、あの有様では大半はとても助からぬものと……」<br />
焚火のそばでカガチは、すでに夕闇が濃くなったトリカミの里を見まわした。トリカミには里人の反抗があったときのために百名ほどの兵を残していた。それだけいれば、武器を持たぬ者のコントロールなど容易だと考えていたのだ。<br />
そして残りすべてを北へ向かわせたのは、カガチ自身の判断だった。カナンがどこかで態勢を立て直し、反攻に出てくる可能性を考えたら当たり前の措置だったが、この責はどこへも持って行きようがなかった。<br />
「こんな馬鹿な……」<br />
ヨサミはカガチのそばにいて、彼がそのような言葉を漏らすのを初めて聞いた。さしもの鬼神も動揺は隠しきれなかった。<br />
「全兵力の半分近くを失ったということか……」<br />
オロチ軍はタジマから西進したミカソ率いる軍と、そして海から攻め入ったタジマ水軍、コジマ水軍の二つが、イズモのカナン主力と対峙しているはずで、まだそれは残されているはずだった。そこへ南の山側からカガチたちが進軍すれば、もはや壊滅的な状態になる――はずだった。<br />
その計画が、今、根底から瓦解してしまっていた。たった一度の洪水で。<br />
「カガチ様、この上はミカソらの部隊と合流するのを急いだ方が良いかと」脂汗を浮かべるイオリは、今にも激高したカガチに切り殺されるのではないかという恐怖をありありと見せていた。「もしここへカナンが攻勢をかけて来たら、ひとたまりもありません」<br />
「ひとたまりも?」カガチの眼が酷薄そうな光を浮かべて見つめた。「この俺がここにいるというのにか」<br />
「あッ――いえッ! それは、カガチ様がおられれば」ぶるっと震える。<br />
カガチは立ち上がった。イオリは、ひっと後ずさる。<br />
「巫女どもの様子を見てまいる。イオリ、おまえは生存者の救出の指揮を取れ」<br />
「わ、わかりました」<br />
イオリが頭を下げる横をカガチは素通りして行った。巫女たちを収容している家屋のほうへ向かって歩いて行く。<br />
<br />
<br />
「皆、死んだ――?」<br />
愕然とした声を上げたのはアナトだった。<br />
巫女たちの前には一人の男が身を低くしていた。彼はイスズがヤマトから連れてきた従者、カーラだった。浅黒い肌をした小柄な男である。<br />
カーラはイスズが連れてきた兵たちとは行動を共にせず、影のようにひっそりとイスズにだけつき従っているのだった。<br />
「先ほどの地震が引き起こした洪水は凄まじく、ここより北に陣を張っていた軍勢すべてをひと呑みに致しました。そこにはほとんどの兵力が集められていました」<br />
カーラはその眼で見た光景を語った。それはすなわち、アナトたちにとっては同胞たちの死を告げるものであった。アナトらキビの巫女たちは、がっくりと肩を落とした。<br />
「わたくしがヤマトから連れてきた者たちもか」と、イスズが問うた。<br />
「はい」<br />
「狂気は凶事を呼ぶ……」ナオヒが言い、傍らでまだ眠っているアカルを見つめた。「アカルがさきほど穢れを吐き出したように、大地もまた穢れを一掃しようとする。穢れを地に溜めこむのは、それは人じゃ。草木も動物も、皆、自然のままに生きておる。ただ、それだけ。が、人は違う。人は意識の在り様を地に反映させるのじゃ」<br />
「人の意識が穢れれば、このようなことは起きると……」と、シキが言った。キビでの災害を目の当たりにした彼女らには他人事ではなかった。「わたしたちのせいということでしょうか」<br />
「シキと申したな」<br />
「はい」<br />
「そなたは意識を身体から離して飛ばすことができよう」<br />
「あ、はい……」初対面なのに能力を見透かされたことに戸惑いを見せた。<br />
「ならばこのネの世界が、丸い星であることも知っておろう」<br />
「はい……。美しい青い星です」<br />
「この島国の様子や星の在り様を見て、何か不思議に思うたことはないか」<br />
「…………」シキはしばし床に眼を落としていたが、はっとしてナオヒを見た。「このワの島国の形のことでしょうか」<br />
我が意を得たりとばかりにナオヒは笑みを浮かべてうなずいた。<br />
「このワの島々は、この星の他の大きな島々と形が似ております! まるで世界を集めたような……不思議に思っておりました」<br />
「その通りじゃ。カタチが似るということは通じるということじゃ。このワの島々には多くの地脈が集まっており、外国(とつくに)ともつながっておる。人の身体で言えば、臍のようなものじゃ。腹の中の子は、臍で母親とつながっておるであろう。ここにイザナミ様がここにおわすのもそのため」<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj4hKVklwN_04MfO69vRp2Wya6v2x7Q4sk6IsqdfWhH693F2WU5AjZh9qB02Q_sjqW-xfnzsBz70Tydz9n3kJU9i-TGMGpAP6_eI1Q_He9rCQMAsQKxfrVlc8Mzb8jQS3ySwtmzR6I1qlg/s1600/%25E3%2581%2593%25E3%2581%25AE%25E3%2583%258D%25E3%2581%25AE%25E5%259B%25BD.jpg" imageanchor="1"><img border="0" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj4hKVklwN_04MfO69vRp2Wya6v2x7Q4sk6IsqdfWhH693F2WU5AjZh9qB02Q_sjqW-xfnzsBz70Tydz9n3kJU9i-TGMGpAP6_eI1Q_He9rCQMAsQKxfrVlc8Mzb8jQS3ySwtmzR6I1qlg/s640/%25E3%2581%2593%25E3%2581%25AE%25E3%2583%258D%25E3%2581%25AE%25E5%259B%25BD.jpg" width="638" /></a></div>
<br />
クシナーダ以外の巫女たちは驚き、顔を見合わせた。彼女らにとっては未知というよりも、すでに失われつつある情報だったのだ。<br />
「ワの国は地脈を通じて、じつはこの島国以外の世界の浄化も行っておる。そのためこの島国には地震も火山も多くできておるのじゃ。しかし、もしこの臍であるワの国自体が穢れてしもうてはどうなる?」<br />
「胎児は死にまする」シキは寒々とした声音で言った。<br />
「さよう。この場合、胎児というのはこのネの世界、このまあるい星のすべてじゃ。根が枯れれば、すべて死に絶える……」ナオヒはたんたんと恐ろしいことを語った。「もう一万年も昔、そのような恐ろしい崖っぷちに至ったことがあると聞いておる。その時も人の心は乱れ、穢れを地に溜めこみ、それが溢れ出した。心を持たぬ者はおらぬ。人は皆、その心でこの星の命運にかかわっておる。心こそが未来を作るのじゃからな」<br />
「未来が視えなくなりました、なにも……」イスズが宙を見つめて言った。「ついしばらく前まで、あれほど多様に広がっていた未来が、たった今は閉ざされたように……。そうではありませぬか、クシナーダ様」<br />
クシナーダはうなずいた。「わたくしがかつて視ていた、自分の二つの未来。それが今は闇に塗りつぶされたように、まったく何も視えなくなりました」<br />
彼女は自分の胸を片手で押さえていた。まるでそこが痛むかのように。<br />
「それは、もう未来がなくなったということでしょうか」アナトが蒼ざめて言った。「わたしたちがあまりにもこの世を穢してしまったせいで」<br />
「ヨモツヒサメをヨミに返さねばなりません」と、クシナーダが言った。「あれがこの世に出ているかぎり、未来はないのです」<br />
「わたしはあのようなもの、ただの言い伝えに過ぎぬと思うておりました」年若いイズミが言った。「トリカミが守っている岩戸。天にも地の底にも通じる岩戸。トリカミが侵され、穢されるとき、岩戸に封じられていた〝死の力〟がこの世を滅ぼすという……」<br />
「ヨモツヒサメは人の意識の闇が集まったものです。復讐心、憎悪、嫉妬、強欲――そのような意識の集合体ですが、地の底にある手を触れてはならぬ〝力〟――石のようなものの化身でもあります。それを掘り出し、手を触れてはならぬのです。ぷ……ぷるとにうむ……そのような名の化身です。それにはこの世を滅ぼす〝力〟があります。まさに死の化身なのです」<br />
クシナーダの言葉に、皆、重い沈黙に落ちた。<br />
「クシナーダ様、大丈夫ですか? さきほどから何かお苦しそうなご様子」ややあってイスズが声をかけた。<br />
「はい。ありがとうございます。ご心配には及びません」<br />
その言葉ほど、彼女は顔色も冴えなかった。ずっと胸に手を当てたままである。<br />
「クシナーダ様」アナトが言った。「わたしは先々代の老巫女から聞いたことがございます。〝ヨミ返し〟という技があると」<br />
「はい……。しかし、そのためにはまず私たちが諍いをやめなければなりません。この地で起きている戦いをやめさせることが絶対に必要です」<br />
クシナーダはイスズを見た。その眼差しを受け、イスズは感嘆をあらわにした。「本当に……クシナーダ様は何もかも見抜いておられるのですね」<br />
周囲が何のことかわからず、きょとんとした。ただ一人、ナツソだけが、あ……と思い当たるような反応を示した。<br />
イスズは彼女らに向かって静かに言った。「皆様、わたくしはこの戦いを終わらせるために参りました。それこそがわたくしが果たさねばならぬ責なのです」<br />
一同はその言葉にあっけにとられた。イスズにこの戦いの何の責任があるというのか。そして、この戦いを終わらせる、どのような手段があるというのか。<br />
「カーラ、あの者の居場所は?」イスズは、変わらずそこに待機している従者に言った。<br />
「はい。わかっております」<br />
「今宵、わたくしをそこへ連れて行っておくれ」<br />
「はい。しかし、見張りが……」<br />
「この里の者に頼んで、お酒を分けてもらい、彼らに呑ませなさい。あとは、わたくしが彼らを眠らせます」<br />
「わかりました」<br />
「では、行きなさい」<br />
カーラは頭を下げ、家屋を出て行った。巫女たちに食事を届けるという口実で家に入ったのだが、やや長かった滞在にも衛兵はあまり神経をとがらせなかった。オロチ軍は今それどころではないのだ。今も次々と洪水の現場から、負傷者が里の中へ運び込まれている。<br />
「もし事を起こすとしたら、今宵以外、機会はないでしょう」従者を見送って外の様子を眺め、イスズが振り返った。「わたくしが今夜、ここを抜け出られるように、お力をお貸しください」<br />
「それはできうることなら……」アナトが言った。「イスズ様、いったい何を……あの者というのは?」<br />
「モルデという、カナンの者です」<br />
巫女たちは顔を見合わせた。<br />
「モルデを生かしてここから解放するのです。それだけが唯一、この争いを止める手だてとなります」<br />
「なぜ、あのような者が」<br />
「それは……」<br />
イスズが言いかけたとき、クシナーダが前のめりになって倒れた。<br />
「クシナーダ様!」<br />
巫女たちが動揺して詰め寄る中、クシナーダは胸を抱きかかえるようにして、うわ言のようにつぶやいた。「生きて……」<br />
覗きこんだナオヒが言った。「クシナーダは今、スサノヲを助けようとしておるのじゃ」<br />
「スサノヲ?」<br />
「この争いの命運を握る男じゃ。今おそらく傷つき、死にかかっておる。クシナーダはそれを助けようとしておるのじゃ。そなたらもわかるじゃろう。病の者を癒そうとすれば、同じ場所が痛くなったりするであろう? それを浄化することで病は治る。それと同じことをクシナーダはしておる」<br />
「何事だ」<br />
はっとして振り返った。戸口にカガチの巨体があった。その眼が横たわるアカルを、そしてクシナーダを見た。<br />
「約束通り、アカルの命は救った」ナオヒが言った。「が、まだ二人とも予断を許さぬ。今しばらく安静にさせておかねばならぬ」<br />
カガチは黙って、アカルの顔を覗きこんだ。そのごつい指先で、そっとその頬に触れた。その仕草は似つかわしくないもので、巫女たちを戸惑わせた。しかも、その指先は震えているように見えた。<br />
「よけいな考えは持たず、おとなしくしておることだ。戦いが終われば国に戻れる」<br />
カガチはそのように告げると、去って行った。<br />
<br />
<br />
2<br />
<br />
東の夜空に赤い星が上ったころ、イスズは行動を起こした。衛兵たちはカーラが差し入れた酒を上機嫌で呑み、連日の行軍での疲れも手伝い、焚火のそばで居眠りが付き始めた。<br />
巫女たちは聞こえるかどうかというほどの声音で、人の神経を和らげる歌を口ずさんだ。その一方、イスズたちはやや遠隔ではあったが、〝気〟を衛兵たちに送り続けた。心地よい〝気〟を注入された人は、猛烈な睡魔に襲われる。疲れていればなおさらだった。<br />
衛兵たちの意識がなくなるのに、さほどの時間は必要なかった。<br />
「よいですか。わたくしが勝手に行動したのです。皆様は何も知らずに眠っていた」他の巫女たちを諭すイスズの切れ長の目には、静かだが強い意志がみなぎっていた。「何が起きるかわかりませぬ。わたくしが無事に事を成就して戻ってくることを祈ってください」<br />
アナトたちはうなずき、イスズが衛兵たちの間を抜け、カーラに迎えられるのを見送っていた。里のあちこちで篝火が燃やされているが、やがて二人の姿は闇に同化したように見えなくなった。<br />
「アナト様、わたしは意識を飛ばして、お二人を追いかけます」シキがそう言い、静かに座った。彼女にとっては慣れた技だった。目を閉じて呼吸を整え、幽体を肉体から離脱させる。<br />
シキの幽体はアナトたちには霊視で追うことができた。<br />
「わたしも遠視を……」<br />
アナトたちキビの巫女は囲み合うようにして座り、目を閉じた。肉眼を閉じていようと、シキの姿はしっかりと見据えられている。〝力〟は同種の能力を持つ者と共鳴することで高められる。シキが幽体離脱することで、引っ張られるように彼女らの意識も遠隔視が容易になった。<br />
ナオヒも眠りこけているように見えて、じつはすでにシキと同じく幽体離脱し、イスズの姿を追いかけていた。<br />
里の中は苦痛で満ちていた。昼間の戦争で傷ついている者たちの呻き、悶え苦しみが夜陰の中、気配として伝わってくる。警備に当たっている以外の兵はトリカミの里の祭殿に集まっていること、里人はそれぞれの家屋で過ごしているらしいことがわかった。<br />
カーラに連れられてイスズが向かったのは、その祭殿の近くにある物置のような小屋だった。祭殿前の広場には中に収まり切らない兵士たちが野営している。彼らに気取られないように行動しなければならなかった。<br />
小屋の戸口のところにも衛兵が二人立っていた。指示されるまでもなく、カーラはこの二人にも酒を差し入れたようだった。しかし、疲れと眠気は見せてはいるものの、焚火のそばで話し込んでいて、睡魔に引き込まれる様子はなかった。<br />
イスズがほとんど無言で出した指示で、カーラが動いた。彼は堂々と彼らの前に姿を現し、笑いながら近寄って行った。酒を差し入れていることもあって、衛兵はカーラに気を許していた。<br />
隙をついてカーラは二人を襲った。一人は背後からの強打で、もう一人は振り返ったところをみぞおちに入れた拳で気絶させた。カーラは茂みに隠れるイスズを目で呼ぶ一方、衛兵二人は見えないところへ引っ張り込んで隠してしまった。<br />
イスズが祭殿のほうを気にかけながら急ぎ駆け込んできた。カーラはそのまま戸口のところで警戒に当たる。<br />
小屋の中に横たわる男は満身創痍だった。露出している腕や脚で傷や痣のない場所を探す方が難しかった。髪はぼさぼさ、髭におおわれた顔はやつれ、眼だけがぎらぎらと輝いていた。女の手ではにわかにほどけないほど両手を背後できつく縛られている。イスズはカーラを呼び、戒めを解かせた。<br />
両手が自由になったモルデは、その場に座り直した。そして不審げな眼差しをイスズに送った。<br />
「あんた、誰だ……」血流の通い始めたのを確かめるように手首のあたりをさすりながら訊く。<br />
「ヤマトのイスズと申します」<br />
「ヤマト?」その言葉にモルデは引っ掛かりを感じたような反応を示した。<br />
「一緒に来てください。さあ」<br />
「どういうことだ」<br />
「すぐにお話します。さあ、急いで――」<br />
促すため手を伸ばした瞬間、モルデは厳しい拒絶のこもった動作でイスズの手を払いのけた。<br />
「触るなッ――。異教徒の巫女が」<br />
それは見ている巫女たちも愕然とするほどの、非常に際立った嫌悪だった。これまでの苦痛と憎悪の分もこもっているとしても、モルデが見せた「異教徒の巫女」への嫌悪は、ほとんど本能的なものとさえ言えた。<br />
「あんた、巫女だろう。身なりを見ればわかる」モルデはそう言いながら、周囲のものにつかまりながら立ち上がった。「俺に何の用だ」<br />
幽体となってその場に居合わせたシキは、遠隔視をしてそばに来ているアナトの意識が失望しているのを知った。アナトは一度、キビでの交渉でモルデに相対し、彼らカナンの民が持つ強固な選民的思想を見抜いていた。そのとき以来、モルデは何も変わってはいないということの証明だった。<br />
――しかし、と巫女たちは期待を込めて思った。<br />
イスズが彼女らに語った真実。それをモルデに話し、そしてモルデがもしそれを受け入れることができたなら……。<br />
「あなたを逃がして差し上げます」<br />
「俺を……? なぜだ? おまえらはあのカガチの仲間だろう」<br />
「心ならずも……。あなたには真実を知る勇気がありますか。わたくしが知りたいのはそれです。もしそうでないのなら、このままあなたを置いてここを去ります」<br />
「真実だと? どういうことだ?」モルデの顔に苛立ちがあらわになってきた。「持って回った言い方をせず、はっきりと言え」<br />
「わたくしはあなたがたと同族です」<br />
「!」<br />
このときのモルデの驚愕と混乱ぶりは見ものだった。驚き、猜疑、揺れ動き、そんな感情をぐるっと回ったのち、彼は最後に笑いという表現を選択した。<br />
「ばかな……。はは、何を言い出すかと思えば」<br />
「ヤー・マト」イスズが言った。「その言葉の意味は?」<br />
それはモルデがさきほど引っかかった言葉だった。<br />
<br />
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<br />
「……神の民……」心を許さぬ警戒を滲ませながらモルデは言った。<br />
「そう。あなた方の元の言葉で〝神の民〟――それがわたくしの国の由来でもあります」<br />
「あんたの……?」<br />
「わたくしはあなたがたより先んじて、この〝もう一つの土地〟――エルツァレトに辿りついていた者の末裔です」<br />
この瞬間、モルデの顎が外れるのではないかというほど口を開いていた。「あ……あ……まさか、〝失われた支族〟……!?」<br />
「そうです。わたくしたちの先祖は北の王国サマリアが滅び去った後、ここへたどり着いたのです。そうして幾世代も、この地の人々と交わり、溶け合って時代を生きてきました。モルデ、あなたがたは南の王国の末裔でしょう」<br />
「し、しかし、そんな……それなら、なぜそのような異教のわざを……神のご意志に背き、また邪教に堕落したのか」<br />
「愚かな……」<br />
「愚か?」<br />
「わたくしの先祖は長き放浪の果て、この地に辿りつき、真実を知ったのです」<br />
「真実とは……」<br />
「創造されたこの世界にただ一つの神を見る者と、この創造された世界すべてに神を見る者の違いでしかないということに」<br />
<br />
――唯一の神。そなたらの言う唯一の神というのは、いったいいかなる神なのか。<br />
――この地のすべてを創造され、支配されておられる神。<br />
――その神のどこが、われらの感じる神々と違うのだ。<br />
<br />
モルデの脳裏に、アナトと交わした言葉がよみがえった。あのときは一笑に付してしまったが、あのやり取りの裏側にあったアナトの言わんとすることは……。<br />
「モルデ、良いですか。神は普遍的なものです。しかし、それは伝える人間によって、否応なく色づけされてしまうのです。人の言葉で神のすべてを表現することはできないのです。それは子供が、大人の考えを把握できないのと同じことです」<br />
モルデはよろめき、背後の壁にぶつかった。積み上げられていた薪が崩れた。<br />
「そんな……」<br />
「あなたの君主であるエステル様にお伝えするのです。戦い、奪うことをやめれば、この島国で当たり前に生きていけるのです。わたくしたちがその証明です。もしよかったら、わたくしの国に来てもらってよいのです」<br />
はっとモルデはイスズを見た。捕虜の身であっても、彼にもこの戦況がカナンにとって極めて厳しいものであることは理解できていた。<br />
「あんたの国に……」<br />
「そうです。ヤマトに」<br />
「ヤマト……」落ち着きのない眼が、足元のあたりをさまよった。激しい迷いが彼の心に生じていた。<br />
「わたくしが嘘をついていると思いますか」<br />
「い、いや……」<br />
「いつか、あなたがたのような者が到来すること、わたくしたちは待っていたのです。争い奪うのではなく、共に生きましょう。このワの国で。さあ――」<br />
イスズの差し出した手。モルデはそれをしばらく凝視していた。<br />
シキやアナトたちは残らず、このとき祈っていた。イスズの想いがモルデに伝わり、彼を動かすことを。<br />
モルデの手が、ゆっくりと持ち上がった。<br />
この国に来たときから、他の異教徒と〝どこか違う〟と感じていた、その漠然とした想いの根源――それが今、イスズという巫女として彼の前に存在していた。<br />
それと彼は、手を結んだ。<br />
イスズは、これ以上はないというほどの微笑みを浮かべた。<br />
「神はすべて……。ならばこの世のすべてに神は宿っておられる。このワの地に来て、わたくしたちはそれを知るというよりも実感したのです。すべては貴い。すべてに神性がある。この島国の民は、まるで息をするかのように、その感覚を普通の暮らしにしていた。そしてあなたがたも、わたくしたちの祖先がそうであったように気づくでしょう。このエルツァレト――葦原の国は、本当はわたくしたちにとっても、はるかな……」<br />
「イスズ様、お急ぎください」カーラの鋭い声が割って入った。<br />
小屋の中の二人は、はっとして動き出した。<br />
――カガチが来る!<br />
幽体離脱しているシキは、あえてそのとき小屋から離れ、上空からの視点を得ていた。そして警告を発した。<br />
その思念はイスズにも伝わった。<br />
「カーラ、モルデを導き、この里を出なさい。そして彼と共にエステル様に伝えるのです。戦いを終わらせ、違った道を選ぶように。このような手段によらずとも、カナンはこの地で生きられる。わたくしたちの祖先がそうであったように」<br />
イスズの言葉にカーラは衝撃を受けた。「イスズ様は――」<br />
「おまえはこれより後はアナト様にお仕えするのです」<br />
「イスズ様――」<br />
「お行きなさい!」イスズは鋭い声音で従者に命じた。そして、モルデの背中を押した。<br />
硬直している男二人をしり目に、イスズは祭殿に向かって歩き出した。篝火に照らされた広場を、巨漢が歩いてくるのが見えた。カーラはそれを見て、モルデの腕をつかんだ。茂みをかき分け、里を出るべく、もっとも近い進路を走り出す。<br />
イスズはあえて目立つようにカガチに向かって歩いて行った。<br />
「なにやらおかしな気配がすると思うておったが……」カガチは酷薄な眼を下ろして言った。「イスズ……こんな夜中になにをしておる」<br />
「あなたと話をしようと思ってやってきました」<br />
「ほう。なんの?」カガチの視線はイスズの背後の小屋へ動いた。そこにいるはずの衛兵の姿がないことには気づいていた。<br />
「兵をお引きなさい」<br />
「なんの冗談だ」<br />
「あなたは大きな過ちを犯しています」<br />
カガチの背負う悪霊の如きものがざわめき、イスズに圧力をかけてきた。<br />
「あなたの行いが触れてはならぬものに触れ、解き放ってしまいました。あなたは自分の未来をも、自分で消し去ったのです。しかし今ここで、未来にはかすかな光がある。その光を広げ、未来を呼び戻すためには、ここで兵を収める必要があります」<br />
「ふざけたことを……。あの者を逃がしたな」カガチの眼が小屋を見た。「どういうつもりだ。何を考えておる」<br />
カガチは予知や読心の能力をヨサミから得ていた。この夜にイスズの動きを察知したのも、その〝力〟と無関係ではなかったろう。が、彼は本来の巫女ほどその能力を使いこなせてもいなかったし、イスズのような巫女が心を閉ざしてしまえば、その考えを読み取ることなどはできるものではなかった。<br />
ちっと舌打ちし、カガチは祭殿の広場で野営している者たちに叫んだ。「捕虜が逃げたぞ! 追え!」<br />
疲れ切って眠りに着いていた兵も、その轟くような一声で飛び起きた。<br />
「カガチ様! いったい何が――」<br />
「さっさと追え! カナンの捕虜が逃げた! 探し出し、連れて来い!」<br />
兵たちは慌てふためき指令に従って散っていく。<br />
「あの者の首をエステルとやらの目の前で切り落としてやるのが趣向よ。おまえなどに邪魔はさせん」<br />
イスズは眉根を寄せた。<br />
「ヨサミはそれを見て、さぞかし喜ぶだろう。やつらにはただ死ぬよりも惨い思いを味わわせてやる」<br />
「愚かな……」<br />
「イスズ、おまえはいつもそうだ」カガチはゆっくりと巫女の回りを歩きながら言った。「俺を哀れな者のように見下げた物言いをする」<br />
「あなたの行いは、ただ憎しみを生み増やし、育てるだけ。それはいつか自分に戻って来る。それを愚かと言わずして何と言えばよいのですか」<br />
カガチは腕を伸ばし、大きな掌でイスズの顔面をつかんだ。指の間から切れ長の眼が、ずっと見つめ続けていた。<br />
カガチの背負うものが、いっそう大きくざわついた。苦悶し、のたうつようにうごめく。<br />
「……そんな眼で俺を見るな」<br />
頭部を締め付ける握力が強まり、イスズは苦痛に耐えた。が、眼が閉じられることはなかった。<br />
「その眼をやめろ……。その冷たい眼を!」<br />
カガチはまるでボールでも投げるようにイスズの頭部を地面に叩きつけた。細い首が折れるのではないかというほど暴力的なやり方だった。<br />
――イスズ様!<br />
シキが、そしてほかの巫女たちが意識の叫びをあげた。<br />
獣のような唸りを発し、カガチは苦しむイスズの身体の上にのしかかった。「やめぬのなら、この場でおまえを犯し、五体を引きちぎってやろうか」<br />
そう言い、胸元の衣類を引き裂いた。怪力のカガチには造作もないことだったが、衣が裂けるほど引っ張られるのだ。イスズの肌は傷ついた。<br />
「やってごらんなさい」イスズは苦しみながら、それでも毅然とした眼をなくさなかった。「その前に舌を噛みます」<br />
その眼の中に、カガチはかつて自分に向けられた冷たい女の眼を見ていた。<br />
――あんたなんか、生まれなければよかった。<br />
そう言った母の眼だった。<br />
その母は、起きた戦乱の中、他の家族もろとも惨殺された。殺される前、侵略兵によって犯され――。<br />
子供だったカガチは、隠れてそれを見ていた。事後、血の海と化したその場所に、カガチは佇み、骸となった母を見下ろし、思った。<br />
このような惨い死に方をするくらいなら……<br />
<br />
俺が殺してやればよかった。<br />
<br />
数々の女の面影がフラッシュバックした。それはアワジら、トリカミの巫女たちの顔だった。彼が毎年、殺してきた女たちの顔――それが今、イスズの白い面差しの上に重なり合っていた。そして、母の顔も――。<br />
イスズは視野が暗くなってくるのを感じていた。カガチの両手が首を絞めつけていた。<br />
<br />
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<br />
――イスズ様!<br />
悲鳴のような声が聞こえる。他の巫女たちが狂ったように騒ぎ立てていた。<br />
――見ておくのです。救われ得ぬほどの悲しみを。<br />
イスズは思念を放った。<br />
巫女たちは視ていた。イスズの上に馬乗りになり、首を絞めている男の姿を。<br />
いや、それは巨漢のカガチではなく、少年だった。少年は涙を流しながら、〝母〟の首を絞めていた。すでに息絶えた母の首を、彼はもう一度絞めていた。<br />
その母の顔は、<b>アカルに似ていた。</b><br />
――それでも……。<br />
イスズの意識が途切れた。<br />
<br />
<br />
離れた場所にある巫女たちの家屋で、アカルとクシナーダは同時に目を覚ました。<br />
「イスズ様……」<br />
気づくと、キビの巫女たちは抱き合って泣いていた。<br />
ナオヒはクシナーダと目を合わせると、やるせなく首を振った。<br />
<br />
<br />
遠い篝火が照らすイスズの顔は、もう眼を閉じていた。<br />
カガチはぶるぶると震える両手を見つめていた。よろめき、動かぬイスズの上から離れた。そして彼は吠えた。<br />
月のない夜空に向かって。<br />
<br />
<br />
3<br />
<br />
全身、痛みを発さぬ場所などなかった。身体が熱く、だるい。しかし、そんな状態でありながら、モルデは走っていた。<br />
松明を持った追手が迫る。カガチに命じられた兵士たちだった。<br />
「待て!」幾度も叫びが背中に突き刺さる。<br />
息が切れる。長く囚われ、力を失っていたモルデの足がもつれた。とてつもない氾濫を起こした斐伊川が満たした泥に足を取られ、転倒してしまう。<br />
「モルデ様!」カーラが慌てて引き返してくる。<br />
兵士がそのカーラに斬りかかる。敏捷にそれを避けながら、カーラは相手に足払いをかけた。ひっくり返り、泥に顔を突っ込んだ兵士からモルデがすかさず剣を奪う。<br />
モルデは雄叫ぶように気合を発した。襲い掛かってくる兵を押し返し、斬りつける。<br />
生きる。<br />
俺は生きて、エステル様のところへたどり着く。<br />
その執念が弱り切っていた彼の身体に活力を与えた。カーラも敵兵の剣を奪い取り、応戦した。が、追手は多かった。たちまち取り囲まれてしまう。<br />
もはや退路はどこにもなくなった。<br />
その時だった。オロチ兵のひとりが絶叫を上げた。背後からの攻撃を受け、もがき苦しみながら倒れる。その向こう側から現れた黒い影が、また一人、そしてもう一人、不意を突いて斬りつけた。兵士の持っていた松明が、ぬかるんだ地に落ち、じゅうという音を立てて火を次々に消していく。<br />
突発的な事態にうろたえる反対側のオロチ兵の背後から、また急襲があった。うわああ、と叫びと共に、兵の背中に突っ込んできたのは少年だった。さらにその隣に出現した男は一人の兵を斬りつけ、もう一人は脚で蹴飛ばした。<br />
囲みは完全に破れた、思いがけぬ助勢を得たモルデとカーラは包囲を突破した。<br />
「こっち! こっちよ!」少女の声が聞こえる。<br />
モルデはその声のする方へ走った。<br />
松明の光が少なくなり、闇の濃度が増した場で、攻防が繰り広げられた。が、夜陰に紛れて襲われたオロチ兵は、動揺を立て直す暇も与えられなかった。カーラと最初の黒い影の男が、それぞれに最後となった敵を打ち倒した。たまたま岩の上に落ち、消えるのをまぬかれた松明の一つを黒い影の男が拾い、モルデのほうへ近寄ってきた。<br />
その男はニギヒであった。<br />
そして彼のそばにイタケル、オシヲがいた。オシヲは興奮し、大仕事を成し遂げた後のように玉の汗を浮かべ、荒い息を繰り返していた。<br />
明かりが近づいたので、モルデは自分を呼んだ少女のほうを振り返った。そこにはスクナがいた。<br />
「モルデ様、大丈夫ですか」カーラがやって来た。これも息が荒い。<br />
「誰かと思えば――小汚えなりをしてるが、おめえ、いつかのカナンのやつだな」イタケルが言った。<br />
相手はトリカミの里の男だとモルデも知った。<br />
「どういうことだ、こりゃあ。ちっと説明してもらおうか」<br />
<br />
イタケルたちは運に恵まれていた。あの地震をきっかけとする川の大氾濫が起きたとき、彼らはスクナの誘導で川から離れた道を進んでいた。これは当然、川沿いの道に存在するかもしれないオロチ・カナン双方の兵を警戒していてのことだった。岩戸への往路と同じく、復路もスクナが熟知する山中の抜け道へ針路を取っていたとき、洪水は起きた。<br />
これが結果的に彼らの命を救った。トリカミ近郊へようやくたどり着けば、あたりは戦乱の跡、おびただしい死体が横がっていた。このときイタケルやオシヲは、カナン兵の剣を調達した。どこから敵が出現するかもわからないのだ。<br />
トリカミの里にある遠い篝火。それだけがこの月のない夜に頼りとなるものだったが、土地勘の明るいイタケルたちにはなんとか夜陰に紛れての行動が可能だった。<br />
遠目にもオロチ軍が占領しているらしいことは分かった。里の中の状況がどうなっているのか、どうにかして闇にまぎれて侵入する算段を練っている時だったのだ。<br />
複数の松明の光が里を駆け下りてきたのは。<br />
その兵たちが何者かを追っているのは明らかで、追われているのは里の者である可能性が高いとイタケルたちは判断した。そのために助勢に入ったのだ。<br />
しかし、そうではなかった。彼らが助けたのは、見る影もないほどやつれ、みすぼらしい姿となっていたモルデ、そして初対面のカーラという男の二人だったというわけだ。<br />
彼らはトリカミの里から一度距離を取り、およそ里の者以外は知られることのない洞窟に身をひそめた。<br />
「ヤマトにカナンの仲間がいるってのか」岩の上に腰を下ろしているイタケルは、イライラと貧乏ゆすりをしながら言った。「カーラといったな、あんたもそうなのか」<br />
「はい。私の先祖はおよそ四百年ほど前、ツクシを経てヤマトへたどり着き、そこへ定着しました」<br />
「そういえば……」イタケルは首をひねるようにして言った。「アシナヅチ様が言ってたな。その昔、なんとかっていう方士が多くの民を引き連れて、このワの島国各地へ移ってきたことがあると」<br />
「イスズ様の直接のご先祖です」<br />
「イスズって巫女のことは聞いたことがある。ミモロ山の巫女と言えば有名だ」<br />
「それで……」と、ニギヒが口を開いた。「そなたらはこれからどうするのだ。エステルと言ったな、カナンの姫は。その姫のところへ向かうのか」<br />
「はい。それがイスズ様より与えられたお役目なれば」そういうカーラの眼は、しかし、どこか不安に定まらぬものがあった。自分たちを逃がしたイスズのことが案じられてならないのだった。本音では里へ戻りたいに違いない。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
「おい、モルデ」イタケルは言葉を投げつけるような調子で言った。「てめーはどういうつもりなんだ」<br />
「どう……とは?」<br />
モルデのそばにはスクナがいた。スクナは濡らした布と、採取してきた薬草で、彼の傷の治療を行っていた。<br />
「エステルのところへ戻り、どうするかっていうんだよ。そのイスズが言ったようなことをエステルに伝えるのか」<br />
沈黙があった。洞窟の中では焚火が燃やされ、モルデの横顔を照らしていた。<br />
「……おそらく、この戦いには勝てぬ」彼はやがて言った。「あのイスズという者がいうことが真実なら、われらはやり方を誤っていた」<br />
「勝てないとわかったら、戦いやめましたってか。ふん、都合よくねえか。てめえらがやらかしてくれた戦のせいでな、いったいどれほどのワの民が死んだと思ってるんだ」<br />
また沈黙が落ちた。<br />
「あんたらが来なければ、ミツハは死ななかった……」オシヲが枝で焚火を突き刺すようにしていた。「アシナヅチ様も」<br />
「カナンもオロチも殺し合って滅びりゃいい。それが俺らの本音だ」<br />
イタケルの言葉に対して、モルデは何の反論もしなかった。できなかったというべきだろう。<br />
「それじゃ、だめだよ」<br />
その声に一同は我に返ったような反応を示した。スクナがモルデの膝に薬草を押し当てながら続けた。「そんなにうまいこと、どっちも滅んだりしない。それどころか生き残った者が、また相手を殺すためにやって来る。……ツクシはずっとそんな日が続いていた。あたしがもともといたナの国だって……」<br />
「その通りだ」ニギヒがうなずいた。<br />
「あたしの住んでいた里は、みんなみんな、殺されてしまった。だから、父さんと母さんはあたしを連れて、大陸に渡ったんだ。殺し合いばかりじゃなくて、人を生かせる方法を探さないといけない。父さんはいつもそう言ってた。あたしが覚えることが得意なので、いろんなものを見聞きさせて、薬草のことや治し方を勉強させたのも、そのため……」<br />
「そういうことだったのか」イタケルはしみじみと言った。「それでナの国には戻りたくても戻れなかったんだな」<br />
「生きている者同士が戦いをやめないと、どうにもならない。戦いはとまらない。死んだ者のことばかり考えたら、どこもかしこも、きっとあたしのもとの里みたいになる」<br />
もっとも年少のスクナが発した言葉は、イタケルやオシヲの胸にある憎悪の立ち上がりを挫く力があった。オシヲは首にかけている朱の領布を手にし、見つめた。<br />
――ミツハに誇れるおまえでいるのだ。<br />
スサノヲの言葉が脳裏をよぎり、オシヲは領布をぎゅっと握りしめた。苦しげに。<br />
ちっとイタケルは舌打ちした。腰から下げていた小袋を手に取り、それをモルデの目の前に放り投げる。「食え――干し肉だ。精をつけなきゃ、明日、歩けねえぞ」<br />
痩せこけた腕を伸ばし、モルデは震える手でそれを取り上げた。中を開くと、鹿の干し肉が詰まっていた。餓死をまぬかれる程度のものしか与えられていなかった男の喉が、ごくりと鳴った。取り出した肉を口に運び、食(は)む。幾度も幾度も噛みしめた。自然と、その頬に涙がひと筋ふた筋と流れ伝った。<br />
「すまない……すまない……!」鳴き咽びながら、モルデは干し肉を食べ続けた。<br />
<br />
<br />
もともと白い肌が、今は雪のようだった。巫女たちは横たわる美しい巫女の死に顔を、ずっと見つめ続けていた。<br />
「イスズ様……」<br />
その名が口々に、涙と共に呼ばれ続けた。<br />
イスズと血のつながりがあるシキ、イズミはことに大きなショックを受けていた。二人にとっては精神的にも、本当の姉のような存在だったのだ。<br />
カガチがイスズの首を絞めはじめたとき、幽体離脱や遠隔視によって状況を認識していた巫女たちは、もちろんイスズを救おうとして動き出した。しかし、その時点ですでに里は逃亡したモルデを捜索する兵士たちが走り回り、先刻までうたた寝に引き込まれていた見張りの兵士たちも目を覚ましていた。<br />
その状況で、彼女らは肉の身を動かして、イスズを救出に向かうこともできなかった。むろん駆けつけることができたとしても、間にあったはずもなかった。<br />
なす術もないまま、ただ彼女らの感覚はイスズの死を知覚するということしかできなかったのだ。<br />
白い布がイスズの遺体にかけられた。それを見つめるイズミは、思いつめた表情でつぶやいた。「かならずお心をお継ぎ致します」<br />
シキとイズミは知らされたのだ。彼女らの身体にも、はるか昔に渡来したカナンの民と同じ血が流れていることを。その血は混淆しながら、ずっと世代を越えて受け渡されてきたが、彼女らはその古い時代の事実を知らずに生きてきた。<br />
それで良いのだ、とイスズは言った。けれど、この事実を伝承してきたイスズの一族は、この日のあることを半ば予知し、そのとき果たすべき役割があることを自覚していた。そのことだけは心の核に収め、数百年を生きてきたのだ。<br />
その役目を果たすために自分の命を捨ててでも、というイスズの峻烈な使命感は、とくに若いイズミにとって目の覚めるような衝撃だった。なまじの霊能があるばかりに若くして巫女の地位に押し上げられ、まつりごとの中に組み込まれてしまった彼女は、ワケの国の中にあっても自分の存在意義を見いだせずにいた。誰か他の者でも良いのではないか――常にそんな想いがあった。<br />
能力として見たときには、アナトやシキの〝力〟には遠く及ばなかった。それだけに、いつの間にかひがみのような気持ちが根を張ってしまっていた。国の都合のために存在している自分。<br />
イスズの使命感は、それとまさに対比するものだったのだ。<br />
だが、そのような小さな思いにとらわれているときではない。<br />
自分のできることをする。<br />
すっきりと覚醒した意識の中に、強い意志が今は根を張っていた。<br />
「アナト様……提案がございます」<br />
まだ泣き止まぬ巫女たちの中、イズミは口火を切った。その強い声音に触発されたように、巫女たちは悲しみの淵から少しだけ引き戻された。<br />
「クシナーダ様、ナオヒ様、そしてアカル様もお聞きください。……わたしたちキビがカガチの支配を甘んじて受け入れてきた大きな理由は二つ。一つはクロガネ造りのためと称し、国の多くの者を人質として取られていること。そしてもう一つは、このトリカミを守るためでした。されど今、その理由のうちの一つはなくなった。そういうことではないでしょうか」<br />
それを聞いたアナトは、袂で涙をぬぐいながら応えた。「……じつはわたしも、まったく同じことを考えていた」<br />
「アナト様も?」<br />
「はい」<br />
「わたしは信じてはいませんでしたが、あのヨモツヒサメは言い伝え通りの恐ろしい存在でした。あれを世に出さぬためにわたしたちは耐えてきたはず。あれが世に出てしまったのなら、わたしたちがカガチに従わねばならぬ理由の一つは、もはやありませぬ。そうではありませぬか?」<br />
「イズミの言う通りです」<br />
「ならば、あとはキビの国から徴収されて、タジマやイナバに送られている者たちを救い出せばよいのでは?」<br />
「それで、わたしたちは自由になると?」<br />
「カガチと袂を分かつべきです」<br />
キビの巫女たちは顔を見合わせた。<br />
「でも、どうやって囚われている者たちを救出するのです」<br />
「それは……」イズミの強い視線は、アカルのほうへ向けられた。「アカル様ならキビから徴収された者たちがいる山やタタラ場をご存じなのでは?」<br />
周囲の視線を受け、アカルはうなずいた。まだ顔は蒼ざめたままだ。「わたしは存じております……もともとはタジマもイナバも、わたしの父が治めていた土地ですから」<br />
「ナツソ様……」次にイズミは、ナツソに視線を向けた。「コジマの水軍をカナンとの戦いから引かせ、囚われている者たちの救出に向かわせることはできないでしょうか」<br />
ナツソは驚くべき提案に目を丸くし、しかし、しばしの思案の後、はっきりと応えた。「わたしからの指示を伝えることができますれば」<br />
「しかし、コジマの兵の中にはカガチの密偵も紛れ込んでいるのでは?」と、アナトが言った。「モルデがキビに秘密裏に交渉に来たときも、カガチには筒抜けになっていた」<br />
「はい」と、ナツソはうなずいた。このキビの巫女の中でももっとも控えめな娘は、しかし、海の民の巫女らしい、奥深いしたたかさを秘めていた。「あの件があってから、わたしはコジマの水軍の中でも、とくに信頼がおける者たちと、そうでない者を組み分けるようにしたのです。非常に重要な伝達を行うときの合言葉も取り決めております。信頼できる者にさえ連絡が取れれば、そして囚われている者たちの場所さえわかれば、そのように動くことは可能です」<br />
コジマの水軍は、キビの中で唯一、今回の洪水での壊滅的な被害を免れていた。イズモの北面からの侵攻の一役を担って別働隊になっていたためだ。<br />
「ただ、問題はどうやってそれを伝えるかです。わたしたちにはここを出る手段がありません」ナツソは残念そうに言った。<br />
「それは……おそらく大丈夫だと思います」黙って聞いていたクシナーダが言った。「わたくしがかならずなんとか致します」<br />
「ありがとうございます、クシナーダ様」アナトはクシナーダとナオヒ、そしてアカルの方を向き直った。「イスズ様の貴いご意志と同じく、この争いを収めるため、わたしたちも命を捧げます」<br />
四人のキビの巫女たちは、頭を深く垂れた。<br />
「わたくしも同じ気持ちです」と、クシナーダは応え、みずからも深く頭を下げた。<br />
そんな若い巫女たちを見ていたナオヒが言った。「それだけでは不十分」<br />
「ナオヒ様?」クシナーダを振り返った。<br />
「そなたらがカガチに反旗を翻したところで争いはなくならん。カガチを止めねば」<br />
「たしかにおっしゃる通りですね」<br />
「あのモルデという者が首尾よくエステルを説得できたとしよう。しかし、カガチはかならずカナンを滅ぼそうとするであろうし、カナンが撤退したところで、カガチの思惑はこの島国全体の制圧にある。いずれは東国やツクシも争いに巻き込んでいくであろうな」<br />
「カガチを倒さねば解決はしないということですね」アナトが言った。「この戦いと洪水でのキビの被害は甚大です。ですが、本国に戻れば、まだある程度の兵力は集めることができます」<br />
「そのような悠長なことをしておれるのかな。そなたらはヨモツヒサメのことを軽く考えておる。あの者どもは人の憎悪や怒りを吸うだけではない、この地上にそれをばらまく」<br />
「ばらまく?」<br />
「ばらまかれた憎悪は人の中で増殖して、いっそう大きなものとなる。それをまたヨモツヒサメは食らう……。魔の循環じゃ。そうして肥え太った〝負〟の力は、たちまち破滅を引き起こすじゃろう。そこへ至るまで、多くの時間があるとは思わぬことじゃ。まして――」ふっとナオヒは笑った。「カガチを並みの兵力で倒せるはずもない」<br />
「カガチはあの剣を得て、その〝力〟によって鬼と化しました」アカルが言った。「あの〝力〟がある以上、並大抵の手段ではカガチを制することはできません」<br />
「剣を奪い取っては?」と、イズミが言った。<br />
アカルは首を振った。「もはやカガチは鬼神の〝力〟と一体化しております。剣を離すことができても、カガチにはもはや何の変化もないでしょう」<br />
「鬼となった者を救う手段はない」ナオヒが珍しく重い口調で言った。「殺す以外は……。しかし、そのために兵を動かしても、おそらく今はヨモツヒサメの格好の餌食となるであろう。闇に取り込まれ、闇に使役され、よりいっそう世の破滅の助力となろうな」<br />
「カガチを制することができるのはスサノヲだけです」クシナーダが言った。「スサノヲの帰りを待ちましょう。そのとき、いつでも行動を起こせるよう、準備を整えておくのです」<br />
沈黙が落ちた。その中、すっとアカルが立ち上がった。まだ足元もやや頼りない様子ながら、イスズのそばに行き、かけられた布をめくり、しばし、その顔を見つめていた。<br />
「一つだけ、手段がございます。カガチのことは、わたしにお任せください」<br />
その言葉はイスズに対して囁かれたものでもあったようだった。<br />
<br />
<br />
――そして。<br />
スサノヲは意識を取り戻した。建屋の隙間から差し込む朝の光が眼に痛かった。<br />
鉛が身体に詰め込まれたように重かった。呼吸をして、息を体内に送り込むことさえ、苦労が伴った。<br />
「気が付いたか」<br />
声が聞こえた。逆光の中に人影が揺れた。<br />
<br />
<br />
4<br />
<br />
「気が付いたか」<br />
その人影が発する声には聞き覚えがあった。そばにやって来ることで光の当たる角度が変わり、顔が見えるようになった。<br />
カイであった。ほかにもカナンの兵士たちが一緒にいる。皆、スサノヲの剣圧で吹き飛ばされた者たちだった。<br />
状況が見えず、スサノヲはしばらく自分たちがいる小屋の中を見まわしていた。<br />
「このまま死んじまうのかと思ったぜ」<br />
気力を奮い起こさねば、身体を起こすこともできなかった。これが我が身がと疑うほど力がなく、四肢が重かった。<br />
ざーっと、スサノヲの胸元から何かが落ちた。不審に思ってみると、それは白い砂のようなものだった。指で触れ、確認する。どうやら塩らしかった。汗が乾いたのかと訝(いぶか)ったが、そんなことで説明できるような量ではなかった。<br />
見ると、塩が零れ落ちた胸元には、青黒い大きな痣のようなものがあった。ヨモツヒサメに貫かれた場所だった。<br />
「なにがあったんだ。あんたがこんなふうになっちまうなんて」<br />
問われ、スサノヲは眼を細めて記憶をたどった。<br />
あの土石流が襲い掛かって来た瞬間。<br />
反射的にスサノヲは岩から岩へ飛び移り、洪水から逃れようとした。常人には不可能な跳躍だった。だが、ヨモツヒサメから与えられたダメージはあまりにも大きかった。抗いがたい脱力感に見舞われ、意識を失いかけ……。<br />
羽ばたき。<br />
ぐいっと上空へ引っ張り上げられる力。<br />
最後に認識したのは、それとともに見た大烏の面をつけた男の姿だった。その背には巨大な翼があった……。<br />
サルタヒコであった。その実体を一瞥するのは初めてだったが、スサノヲには自分の手を引っ張り上げているのが、いつもカラスを通じて話しかけてくるあの神だとはっきりわかった。<br />
「俺はどうしてここに?」スサノヲは逆に尋ねた。<br />
「どうもこうも、俺たちが進む先に転がっていた。岩の上に」<br />
「助けてくれたのか、俺を」<br />
カイは戸惑ったように仲間を振り返った。「ま、まあな。あんたも俺たちを助けたっていうか、殺さずに済ませてくれたからな」<br />
スサノヲを見つけたときの彼らの狼狽や逡巡ぶりが目に浮かぶようだった。おそらくどうするか、話し合ったのだろう。背後に置き去りにしてきたはずのスサノヲが道行の先に出現したのも不可解だろうし、助けるという行為がカナンにとって利益となるのかという問題もあっただろう。<br />
「ちょうど日が暮れて、この山小屋が見つかったところだった。たぶんこの峠を越えるとき、夜露をしのぐために作られたものだろう」<br />
「すまない。ありがとう」スサノヲは礼を言った。<br />
彼らの戸惑いはさらに深くなったようだった。<br />
スサノヲは周囲を見まわした。そばに剣は鞘に収められ、立てかけられていた。<br />
「剣はしっかり握りしめていたよ」<br />
カイたちは事情をさらに説明した。彼らは洪水が起きたとき、川からは距離を取って迂回路を進んでいた。トリカミが近づくにつれ、オロチ軍との遭遇の危険が増すからだ。それが結果的に彼らの身を守った。<br />
「夜も明けた。俺たちはイズモのエステル様のところへ合流する。あんたはどうする――」と、言いかけたときだった。<br />
外の様子を隙間から窺っていたカナン兵のひとりが、「静かに」と声を上げた。カイたちは敏感に反応し、剣に手をかけた。カイも戸口に移動し、覗きこんだ。<br />
スサノヲも動かぬ体を叱咤し、剣を腰に収めた。<br />
信じがたいものを目撃したというように、カイが低い驚きの呻きのようなものを上げた。目がみるみる大きく見開かれる。「に……兄さん。兄さん!」<br />
叫んだときには彼は、戸口を大きく開いていた。外へ向かって飛び出していく。<br />
そこにはモルデとカーラがいた。<br />
<br />
奇跡的な再会を果たした兄弟の感激ぶりは、たがが外れたようなものだった。二人とも涙を流して抱き合い、存在を確かめ合っていた。カイはすでに兄は死んだと思っていたし、モルデもまたこのような場所で弟たち同胞に出会えるとは、夢にも思っていなかったのだ。<br />
だが、それにも増してカイらを驚かせたのは、先の洪水が南から攻め込んできたオロチ軍の大半を壊滅させたということ、そして――。<br />
「失われた支族がこのワの国へ来ていただって?!」<br />
それは天地がひっくり返るほどの衝撃だった。<br />
「イスズ様はあなた方が争いをやめるのであれば、ヤマトへあなた方をお迎えするお心積もりです」カーラはそう告げた。<br />
浅黒いカーラの顔立ちは鼻筋が高く、全体に容貌がカナンの民に似ていた。その顔をカイたちは食い入るように見つめていた。<br />
「俺はエステル様に進言するつもりだ」やせ衰え、頬もそぎ落とされたようになっていたが、モルデの眼だけは強く輝いていた。「皆でヤマトへ行こう」<br />
もともとオロチとの戦いでは、すでに意見が割れていた彼らだった。あくまでも徹底抗戦を訴えるカイに対して、シモンやヤコブは半島へ撤退することを主張していた。ほかの二人は立場を決めかけていた。そのような状態の彼らでさえ、このプランは丸ごと包括してしまえるものだった。<br />
「失われた支族がいるのなら……」<br />
「そうだ。願ってもない」<br />
「行こう、ヤマトへ」<br />
ワの地へ侵攻して以来、彼らは戦い続けていた。オロチとの厳しい全面戦争になり、敗退を続け、今や膿み疲れも生じてきていたのだ。いきなり希望の灯がともったように、彼らの眼に輝きが戻ってきた。<br />
「ただ……」モルデは言いかけた。<br />
「ただ、なんだ、兄さん」<br />
「いや、このことはエステル様に直接お話する」<br />
「わかった。とにかく本陣に合流しよう。ここからなら今日の内には本陣へ合流できる。スサノヲ、あんたはどうする。トリカミへ戻るの――」<br />
カイの言葉は途中で切れた。スサノヲは山小屋の建つ峠の見晴らしの良い場所に佇んでいた。イズモの地が遠望できる。眼下に斐伊川が流れ、その向こうに小高いいくつかの山が連なっていた。<br />
そこに彼の眼は、常人の肉眼では確認できない、異様なものを視ていた。その上空に暗雲の如きものがあった。それは恐ろしく禍々しい鬼気をはらみながら、生物のようにうごめき続けていた。そこから、まるで黒い雪のようなものが地上に降り続けているのが視えるのである。<br />
胸を締め付けるような不快感。口の中が金属的な味わいで満ちてくる。<br />
ヨモツヒサメに違いなかった。<br />
羽ばたきと共に、近くの木の枝にカラスが止まった。<br />
――何ガ起キテイルノカ、ソノ眼デ確カメヨ。<br />
サルタヒコが伝えてきた。<br />
「俺も一緒に行く」振り返ってスサノヲは言った。「カイ、エステルは無事なのか」<br />
「あ、ああ。まあ、そのはずだけど」カイはいかにも歯切れが悪かった。<br />
「どうした、カイ。エステル様に何かあるのか」と、モルデが尋ねた。<br />
「うん……。まあ、会えばわかるよ。ちょっとこのところエステル様、元気がないっていうか……まあ、それは兄さんの顔を見たら、きっと元気になられると思うよ」<br />
スサノヲは、本音ではトリカミへ戻りたかった。クシナーダが今どうしているかと考えたら、居ても立ってもいられない心地になる。だが、カーラの話によれば、トリカミを占拠しているカガチとオロチ軍は、洪水の被害を受けた仲間の救助に追われている。態勢の立て直しに血眼になっているという話だ。<br />
そして、クシナーダもほかの巫女たちと共にトリカミにいる。<br />
今しばらくの時間の猶予はあるように思えた。身体さえ復調すれば、トリカミとイズモの間の距離など、さして大きな問題ではない、とスサノヲは判断した。ヨモツヒサメから受けたダメージがいかほどのもので、回復に要する時間がどれほどなのか、自分でもはかりかねていたが、今はイズモで何が起きているのか、見定めなければならなかった。<br />
そう決断せざるを得ないほど、嫌な予感がした。おそらくサルタヒコがカイたちの前にスサノヲを下ろしたのにも、深い意図があると思われた。<br />
<br />
谷間に沿った獣道を下り、一行は斐伊川に出た。<br />
そこはすでにカナンの勢力圏であり、彼らは防衛線を張っている守備兵たちの手厚い歓迎を受けた。ことにモルデの帰還は熱烈な喜びを持って受け取られ、彼らは現在のカナンの本陣のある場所へ案内された。小舟で川を下り、山を迂回する形で、夕刻にようやく辿り着いたその場所は、複数の小高い山のすそ野であった。(現、神庭谷付近)<br />
そこでスサノヲは信じがたい光景を見た。<br />
近づくにつれ、山々を揺るがすほどの歓声が轟くように聞こえてきた。それはまったく意外なことであり、オロチ軍に徐々に追い詰められ、総攻撃を受けて崩れた兵士たちの発するものとは思えなかった。<br />
山あいに陣を張るカナン軍には、まだこれほどの数がいるのかと驚かされただけではない。彼らは熱狂していた。まるで大戦(おおいくさ)に勝利したばかりのような、とてつもない興奮と喜びが里に満ち満ちていた。<br />
「なんだ、これは……」<br />
カイやモルデでさえ、この狂乱ぶりには戸惑った。<br />
その中心にいたのは、刀傷を顔に持つ、隻眼の男であった。<br />
「ヤイル……」モルデが呻くように言った。<br />
岩場の上に立ち、演説している背高い男はヤイルだった。彼の身振りで兵士たちは静かになった。<br />
「聞け! カナンの民たちよ! 神に選ばれし同胞よ!」<br />
ヤイルの声が響き渡る。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
「野蛮なる民どもの軍勢には神の鉄槌が下された! 我が予言通り、大水が彼らを滅ぼした! そなたらは見たであろう!」<br />
おお!! と兵たちの声が返す。<br />
「これこそが神の御業である! 神は私にお約束された! はっきりとお言葉をくださったのだ! 我らにこの島国すべてをお与えになると!! こここそが神のお約束された第二の地! 恐れるものなど何もない! 我らには神がついておられる! 愚昧な異教徒どもなど恐れるに足らぬ! 聞け、民よ! カガチは神の火によって焼かれるだろう! これは神の御言葉である!」<br />
うおおおお――という轟きがまた湧いた。<br />
「皆、耳を澄まして聞くがいい! タジマは間もなく裏切りに遭い、崩れ去るだろう! 真の神への信仰を持たぬ者どもの結束などなきに等しい! 彼らは憎しみ合い、結束は乾いた地の石くれのように脆くなる! もはや我らの敵ではない! キビもまた恐ろしい災厄に見舞われるであろう! 五つの地の邪教の巫女は互いに憎しみ合い、残らず死に絶える! 我らはもはや彼らを打ち倒した! その未来が我が眼には映じておる! そしてこの島国には我ら民が増え、ありとあらゆる地で栄え続けるのだ!」<br />
地の底から噴き上がってくるような熱気と共に兵士たちはまた怒号のような喚声を上げ続けた。目の当たりにして、スサノヲは珍しく血の気が引くような心地を味わっていた。うすら寒さに皮膚が粟立ってくる。見渡す限り埋め尽くす群衆には理性の働きは微塵もなくなり、盲信的な思い込みだけが膨張し、そしてこの地で一つの意志となって結びつき、さらにいびつで異常なものとなって、今まさに生れ落ちようとしていた。<br />
茜色に染まる空には、今は雲一つなかった。だが、スサノヲはその上空に視ていた。悪意に満ちた闇の存在を。<br />
――オマエノ見タイ神ヲ見ヨ。<br />
――オマエノ考エル神ダケヲ信ジロ。<br />
――他ノモノハスベテ滅ボセ。<br />
――認メルナ。<br />
――否定シロ。<br />
――否定シロ。<br />
――ソシテ殺セ。<br />
――殺セ。<br />
――ソレガ正シイノダ。<br />
――正義ヲ為セ。<br />
ヨモツヒサメから降りかかってくる思念は、ヤイルの身体にどんどん吸い込まれていた。彼の隻眼は異様な光を放ち、彼が見渡す群衆を魅了し、魂をわしづかみにして力づくで引きずり込んで行く。魔の渦の中に。<br />
「おい! これはいったいどういうことだ!」モルデが近くにいた兵の肩をつかみ、問いかけた。<br />
「どうもこうもあるか。ヤイルが予言したんだ。トリカミから来るオロチが大水で滅びると。それが的中した! ヤイルは予言者だ! 我らの新しい予言者にヤイルはなったんだ!」<br />
その兵士は涙まで流していた。喜びのあまり震えている。狂気じみた喜悦の顔だった。<br />
「エステル様は?!」モルデは詰問した。<br />
「エステル様?」<br />
「エステル様はどこだ!」<br />
男はすっかり忘れていたというふうに、ようやく記憶を紡ぎ出した。「ああ、ああ、エステル様……エステル様か。たぶん幕屋にいるだろう」<br />
その男を突き飛ばすようにモルデは歩き出した。カイら帰還した兵士と、カーラ、そしてスサノヲもついて行った。歩きながらスサノヲは上空のヨモツヒサメに意識を向けていた。<br />
ヨモツヒサメのほうでもスサノヲのことは認識しているようだった。しかし、このヨモツヒサメはスサノヲに格別な関心はないらしく、攻撃的な意識は見えなかった。むしろヤイルを通じ、カナンの民を扇動することにのみ関心があるかのようだった。<br />
こんな化け物どもが世に出ていたら……凍りつくような想いが湧いた。<br />
地上に平和など望むべくもない。争いと憎しみが地に満ち、累々たる死体の横たわる、この世は本物の地獄と化すだろう。その世界ではもはや亡霊や怨念、死神ばかりが跳梁し、渦巻いているのだ。<br />
心底ゾッとなり、スサノヲは想像を頭から追い払った。<br />
こうなっては、なにがなんでもエステルにこの戦いを収めてもらわなければならなかった。<br />
幕屋には衛兵すらいなかった。誰もがヤイルの元に馳せ参じているのだ。その場には、置き去りにされた何か冷たくて空虚な印象さえあった。<br />
その中にエステルがいた。かつてとは見る影もなく憔悴した顔に、濃厚な憂悶を漂わせ、視線を足元に投げ出していた。人の気配は感じたであろう。が、彼女は眼を上げもせず、腰かけた姿勢のまま、銅像のように固まっていた。<br />
「エステル様……」モルデが枯れたような声を発した。<br />
びく、とエステルの身に震えが走った。眼が上がり、そして宙をさまよい、目の前にいるモルデの姿を捉えた。<br />
「……モ、モルデ……?」見えない糸に引かれるようにエステルは立ち上がった。「本当にモルデなのか? おお……おお……モルデ!」<br />
両手を捧げるように前に出し、エステルはまるでぶつかるような勢いでモルデに抱きついていった。<br />
<br />
<br />
5<br />
<br />
黎明の空に、二つの星の輝きがあった。クシナーダは収容されている家屋の戸口に立ち、その星の輝きを見つめていた。疲れ切った他の巫女たちより先に目覚めたアナトは、クシナーダのその様子に気づいた。<br />
「おはようございます、クシナーダ様」<br />
他の者を起こさぬように気づかい、アナトは小さく声をかけた。クシナーダも挨拶を返してくる。<br />
「しばらく前から不思議に思っておりました、あの星……」アナトは言った。「わたしたちがいつも見るものとは違っています。赤の星でもなく、一つ目の大きな星でもなく、輪の星でもなく……あのように明けの明星のそばで輝く星を私は知りませぬ」<br />
「天津甕星(あまつみかほし)……スサノヲの星です」<br />
「スサノヲ様の……? まだお会いしたことはありませぬが、直接天より降られたとお聞きいたしました。わたしたちワの民が伝える物語の荒ぶる神と同じ名を持たれている……まさしく霊妙なることでございます」<br />
「スサノヲは破壊と再生をもたらす〝力〟だと、アシナヅチ様が申されておりました。そのため常に両面を持つと」<br />
「両面?」ドキッとしたようにアナトはおうむ返しに言った。<br />
「破壊者と創造者です。大陸の南方の土地では、シヴァという神が祀られています。破壊と創造の神ですが、そのシヴァは踊る神なのです」<br />
「踊る神?」<br />
「なたらーじゃ……とも呼ばれています。彼の踊りは世界を破壊し、そして再生させます。シヴァはその地でのスサノヲの働きの表現なのです」<br />
そのような知識を一体どこから得るのかと訝り、アナトはその考えが愚問に近いと思いなおした。クシナーダやアシナヅチの知覚能力は空間や時間を簡単に超えてしまうからだ。<br />
「もしかするとカガチとスサノヲは一対のものなのかもしれません。天津甕星はきっとスサノヲの〝力〟が顕れる験(しるし)なのです」<br />
「わたしはあの星に畏怖を感じます」<br />
「はい。でも、わたくしは今、あの星を見て、安堵していたのです。あの輝きがあるということは、スサノヲの命の輝きもまた失われてはないということ」<br />
「クシナーダ様の御力なら、スサノヲ様のご様子もご覧になられるのでは?」<br />
クシナーダは首を振った。「結界が張られ、聖域化されているこの里の中ならいざ知らず、今結界の外へ意識を飛ばせば、ヨモツヒサメに心を食われかねません。ただ感じるのです、スサノヲが苦しみながら道を進んでいることを」<br />
「お怪我をされているご様子ですが」<br />
「ただの怪我ではないでしょう。おそらくスサノヲはどこかでヨモツヒサメに遭遇してしまったのです。でなければ、あのような傷を受けるはずもありません」<br />
「強いお方なのですね」<br />
「はい……」<br />
「それに離れてらしても、クシナーダ様はスサノヲ様のことを手に取るようにわかっておられるようです……その……」アナトはある言葉を呑み込み、別な表現を選択した。「クシナーダ様はスサノヲ様を信じておられるのですね」<br />
クシナーダはうっすらと微笑を浮かべた。その表情には愛する乙女の喜びのようなものが滲んでいた。そして、「はい」と静かに強く答えた。<br />
「アナト様」<br />
「はい」<br />
「わたくしたちは踊らねばなりません」<br />
その言葉に、アナトはしばらく前にアゾの祭殿で受けた啓示と、そして現れたウズメの神霊から告げられたことを思い出した。<br />
「御霊を集め、浄めよ……。魂で踊り、ワのヒビキでこの世を埋め尽くせ……」<br />
「その通りです。このワの国では、わたくしたちが踊らねばなりません。ワの民は――いえ、人は――歌と踊りでつながり合えます。わたくしたちが昔からこの地でそのようにしてきたように、歌って踊って……天の岩戸を開き、そしてこの闇を払わねばなりません。でなければ、きっとこの国の子らの未来もありません」<br />
「わたしも及ばずながらお力になりとうございます」<br />
「アナト様なくして、きっと岩戸は開かれません。お願いいたします」<br />
クシナーダに頭を下げられ、アナトは狼狽した。「そ、そんな――クシナーダ様、お顔をお上げください」<br />
そんな二人のやり取りを、目を覚ましたアカルが見ていた。アナトはクシナーダよりも六、七歳は年上だが、まるで目上の者に相対するように尊敬の想いを隠さなかった。それはアナトらキビの巫女たちが、結果的にこのトリカミに与えた被害に対しての罪障感を持っているからだけでは決してない。<br />
それはアカルが一番よく知っていた。彼女が、最初にクシナーダにあいまみえたのは六年前だった。カガチがイズモに支配権を広げ、ワの民たちの反撥を抑圧するため、トリカミの巫女を毎年一人ずつ人質にし、挙句に殺すという蛮行に手を染めるようになり、二人目の巫女を連れ去ったときだった。<br />
アシナヅチから打診を受けて、アカルはトリカミに出向いたことがあった。むろんカガチを抑えるための何らかの手段を講じるためだった。この会談はカガチに察知されるところとなり、アカルはその後、タジマに幽閉されてしまうという結果を招くのだが、クシナーダに出会ったこと自体は、アカルにとって非常に衝撃的な出来事だった。<br />
まだ十歳くらいの幼い巫女に過ぎなかったクシナーダは、それ以前も以後もアカルが知るありとあらゆる巫女の次元を越えていた。すでに千年二千年という先を透視し、世界の裏側にいる人々とも交流を持つことができた。<br />
「あなたはお母さんね」クシナーダは一瞥して、アカルにそんなことを言った。<br />
「お母さん?」<br />
「あなたがお母さんに見えるの。きっと大事な人」<br />
その瞳が見ているものは、アカルにはまったく想像もつかなかった。が、少女の精神がこの世の現実の枠をはるかに超越していることは、圧倒的な霊的なヒビキによって伝わってきた。<br />
だが――。<br />
アカルは、少女だったクシナーダの言葉の意味が今ようやく氷解したのを知った。イスズの命が消え去るとき――キビの巫女たちやナオヒが共有していたヴィジョンが、アカルにも飛び込んできた。<br />
少年カガチの母、それはアカルによく似た女性だった。冠島に漂着したカガチが、アカルの顔を見て驚愕したのは、大陸で失った母の面影をそこに見たからにほからない。それが理解できた瞬間、アカルの中でドミノが倒れるようにして、霊的な情報が解き放たれた。<br />
それはカガチと自分との情報だった。<br />
カガチは母親に愛されなかった。母親が溺愛していた兄を事故で死なせてしまったからだった。以来、母はカガチに感情のない冷めた目を向け、呪いのような言葉を与え続けた。<br />
おまえのせいだ。おまえなど生まれなければよかった。<br />
カガチは渇望する母の愛の代わりに、その呪詛を受け続けて生きてきた。やがて起きた戦乱で家族を皆殺しにされ、生き残り、辿り着いた島国で出会った巫女。<br />
そこにまた亡き母の面影を見てしまった。<br />
毎年巫女を殺し続けるカガチの深層にあるものまでもが、アカルには我がことのような痛みとしてわかった。<br />
自らの肉体に鬼の種子まで育てたカガチの根にあるもの。<br />
それは、愛されたい、生きたい、という熾烈なまでの欲望だった。その欲望こそが彼の鬼の根源であった。解き放ったのは霊剣の〝力〟だったかもしれないが、救いのない彼の行く末はいずれ似たところへたどり着いたであろうと思われた。<br />
そして――。<br />
<b>それを救うのは自分でなければならなかった。</b><br />
アカルがカガチの命を救い、巫女としての予感に逆らい、彼を登用しようとする父にも警告を与えず、今の状況を作り出してしまったという責だけではない。ましてやアカルの面差しが、カガチの亡き母に似ているからというのでも、もちろんない。<br />
もっと根深いものが、アカルとカガチの間には横たわっていたのだ。<br />
「あら、アカル様――」クシナーダはアカルに気づき、すぐに扉を閉めてアナトと共に室内に戻ってきた。「お目覚めでしたか。すみません、お寒うございましたか」<br />
「いえ、大丈夫です」<br />
「お顔色が随分とよくなられました」と、アナトも安堵の色を浮かべた。<br />
「皆様のおかげです」<br />
他の巫女たちも話し声に誘われるように、次々と目を覚ました。昨日は彼女らの手でイスズを弔った。そのこともあったし、その前夜からの強行軍もあって、彼女らも疲れ果てていたのだ。<br />
しばらくして食事が運ばれてきた。トリカミの里の者が命じられて、囚われの巫女たちの食事のまかないを行っていた。食事を運んできたのはスクナだった。彼女は見張りに立っている兵士に戸口を開けてもらい、身に余るような大きな木の板に七人分の器を乗せて運んできた。野草や根菜がふんだんに入れられた粟の粥であった。<br />
スクナと目が合うと、クシナーダはその瞳の中だけで笑って、うなずいた。配膳している最中に、スクナに囁く。<br />
「戻ったのですね。イタケルやオシヲ、ニギヒ様は?」<br />
スクナも小さく返した。「里の近くの洞窟に隠れてる。イタケルやオシヲは顔が知られているかもしれないし、ニギヒ様はあの通り目立つから」<br />
「そうですね」くすっとクシナーダは笑った。「スサノヲはやはり一緒ではないのですね」<br />
「うん。することがあると言って別れたまま」<br />
「スサノヲの気配は北のほうにあります。たぶん、カナンの本陣のほうでしょう。そこへモルデとカーラという者が向かったはず」<br />
「知ってる。会ったよ。じゃ、スサノヲも一緒かもしれないね」<br />
「そんな気がします」<br />
「おい!」見張っているオロチの兵が怒鳴った。「さっさとしろ! 用が済んだら出ろ!」<br />
彼らはカーラが食事を運んだあと、イスズが抜け出した前例から警戒を強めていた。<br />
「ちょ、ちょっと待って」スクナが言った。背後に手を回し、腰紐にさしていた花の枝をクシナーダに差し出す。「これ、イタケルが持って行けって」<br />
まあ、とクシナーダは眼を見張った。「覚えていてくださったのですね」<br />
それは鮮やかな紅色をした椿の花だった。五弁の花びらが大きなめしべを包んでいる。その明るい色合いは、閉塞感が立ち込めていた室内の空気を変えた。<br />
<br />
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<br />
「生まれた日に、その季節の花を贈るのが、この里のならわしなんだ」と、スクナが兵士に説明した。<br />
子供にそう言われ、兵士たちは戸惑いつつ、返す言葉もなかった。<br />
「クシナーダ様は今日がお生まれになった日なのですか」と、アナトが尋ねた。<br />
「はい。とても祝っていただく状況ではありませんが……わたくしはこの一年でもっとも日が短い日の生まれです」クシナーダは眼を細めて、椿の花の色と香りを味わった。「ありがとう、スクナ。イタケルにもお礼を言ってね」<br />
スクナはにっこりしてうなずいた。クシナーダは立ち上がる際に、その耳元に顔を自然に近づけてまた囁いた。<br />
「この花弁がすべてなくなった夜、わたくしたちはここを出ます」<br />
スクナは返事をしなかった。が、聡明な彼女は眼だけで了解したことを伝えてきた。<br />
「また、ごはんを持ってきて頂戴ね」<br />
そう言って送り出すクシナーダに、「うん」と返事をしながらスクナは出て行った。<br />
子供ゆえに気を許しているということもあるのだろう。兵士はさして訝りもせず、スクナが出ると扉を閉めた。<br />
「さあ、いただきましょう」と、クシナーダは明るい声で言った。<br />
「クシナーダ様……今の子と何を……」近距離にいたアナトは、わずかながらやり取りを耳にしていた。<br />
クシナーダは眼を悪戯っぽくきらきらさせながら、指で押し黙るように合図して、椿の枝を家屋の隅にある間口の狭い土器に差した。それに水も差しておく。それからそっとつぶやいた。「スクナはこれから毎朝毎夕、食事を運んできてくれるでしょう。椿の花びらを状況に合わせ、一枚ずつちぎっておきます。すべてなくなった夜にここを出ましょう。そのための合図に使うのです。いつも話せるとは限りませんから」<br />
「え……しかし、どうやって」<br />
「心配いりません。スクナが戻っているのなら」<br />
「え……」<br />
「でも、花がかわいそう……」と、クシナーダは椿を振り返った。「本当は椿は花びらを散らさず、落ちるときは花が丸ごと落ちるんですけどね」<br />
巫女たちはきょとんとしていたが、一人、ナオヒだけがにやにやしていた。<br />
「ナオヒ様、このようにお謀りになって、スクナの身を守るためにニギヒ様と共に里の外へお出しになったのですか」と、クシナーダは視線を送った。<br />
「そなたほどではないがの」ナオヒは細い腕で器を取りながら言った。「なんとなく、あの子を逃がしたほうが良いと思うたのじゃ。スサノヲとの縁が深そうじゃしな」<br />
「やっぱり」クシナーダはにっこりとした。「ナオヒ様はお人が悪い」<br />
「そなたほどではない」<br />
二人は声をあげて笑った。他の巫女たちは戸惑いながら、苦笑のような表情になった。<br />
<br />
<br />
獣のような唸り声がしていた。<br />
トリカミへ来て、三度目の夜だった。ヨサミは毎夜、その唸り声を耳にしていた。いや、もしかするとイスズという巫女が殺されて以降というべきなのかもしれないが、トリカミに根を張って以来、あきらかにカガチの様子はおかしかった。<br />
常識では推し量れないほどの体力を持つカガチだったが、それ以前はいかなる戦があっても、眠れないなどということはなかった。戦闘で高揚した肉体を持て余したようにヨサミの身体を抱き、そして熱を冷ますと満足して眠りに落ちた。それは飢えた猛獣が腹を満たして眠るのと同じようものだった。それが常だったのだ。<br />
しかし、トリカミに来て以来、カガチはおかしくなってしまった。熟睡することもできず、何かに責めさいなまれるように、浅い眠りの中でうわ言を口走るようになった。母さん、というはっきりとした声もヨサミは幾度も聞いた。そしてまた獣のような唸り声を発して目覚め、不機嫌に荒い息とぎらついた眼を周囲に放つ。そんなことばかりだった。<br />
その夜、ヨサミは不安に襲われた。隣で身体を横たえているカガチは、もはやうわ言のレベルではない、はっきりとした苦悶を表わす声を上げ始めたからだ。肉体を蝕む不治の病の痛みにでも襲われているように、彼は唸り、のたうち、吠えた。<br />
「カガチ……カガチ様!」褥を共にする者が死ぬのではないかという恐怖に襲われ、ヨサミは彼の身体を揺さぶった。<br />
カッ、とカガチは眼を開いた。充血しきった眼だった。<br />
「いかがなされました」<br />
その眼が動き、ヨサミの顔を捉えた。ううう、という唸りと共にカガチの身体は跳ね上がり、そして一瞬にしてヨサミの身体を組み伏せていた。<br />
今下を見ていたのに、あっという間にヨサミの眼は上を見ていた。そこにカガチの鬼の形相があった。彼のものすごい腕が伸び、万力のような両手が首に巻き付いてきた。大蛇が瞬間的な動きで敵を締め付けるようなものだった。<br />
ぎゅうっと締め付ける力が首を圧迫し、ヨサミは両手両足をばたつかせた。苦しいというようなレベルではなかった。涙や血液といったものが、頭部の涙腺や毛穴から圧迫されて噴き出しそうになる。頭が破裂すると本気で感じた。<br />
だが、すぐに意識が遠のいて行った。<br />
死ぬのだ、とヨサミは思った。すとんと胸に落ちたのは、この怨讐にまみれた自分にふさわしい最期だということだった。<br />
顔にかすかに何かを感じた。それは首を絞めながら目の前に迫ってくるカガチの顔から落ちてくる涎や、そして――涙であった。<br />
この人も寂しいのだ。<br />
悲しいのだ。<br />
辛いのだ。<br />
そう思った。<br />
いいよ、殺して。<br />
わたし、あなたに殺されるのでいい。<br />
ヨサミは死の淵に落ちながら、どこにそのような力があったのか、その両手でカガチを抱いていた。いや、カガチの巨躯は彼女の両腕の長さでは、とうてい抱きしめることなどできなかった。そっとその胴に手を回すことしかできなかった。<br />
しかし、それは彼女にとって、カガチを抱くという行為だった。<br />
「うおッ――」カガチが怯えたような声を発し、突き飛ばすように離れた。<br />
一瞬あと、呼吸と血流が戻った身体が、反動のように激しく咳き込み始めるのを感じた。うっ血で青黒くなりはじめていた顔に血の気が戻ってくる。涙も止まらなかった。<br />
ややあってヨサミは、そこに見た。<br />
鬼神が吠え、壁に頭や拳を打ち付ける様を。カガチの力が強すぎ、建物自体が倒壊しそうだった。<br />
<br />
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<br />
ヨサミは褥を抜け出し、荒れ狂うカガチに近づいて行った。<br />
そして、その背後から彼を抱きしめていた。<br />
なぜ、そんなことをしたのか、自分でもわからないままに。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
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1<br />
<br />
椿の花弁は四枚になっていた。その朝――。<br />
「スクナ、里の様子はどう?」<br />
やはり朝餉を持ってきたスクナに、クシナーダは戸口のところで見張っている兵士にも聞こえるように言った。<br />
「どこもかしこも怪我人だらけ。里の人も、それに」ちらっとスクナは兵士を振り返った。「洪水に巻き込まれて助け出されたオロチの兵とかも……病気になる人も出てきてる」<br />
「その人たちの食事はどうなっているの」<br />
「オロチの? この里のを分けてる」<br />
クシナーダは、それでいい、というふうにうなずいた。<br />
「でも、このままだとこの冬が越せなくなるって、みんな言っている。里で貯めていた食料だって、そんなに余裕があるわけじゃないから」<br />
おい、と兵士は口を挟みそうになった。が、クシナーダの声がそれをとどめさせた。<br />
「分けておあげなさい。先のことはいいから怪我をしている人や病人にはたくさん食べてもらいなさい」<br />
「え……」<br />
「あの……」アナトが横から言った。「ことが終われば、キビから食料を届けさせます。皆様に不自由な思いは絶対にさせませんから」<br />
躊躇するスクナに、クシナーダはさらに驚かせるようなことを告げた。「スクナ、あなたも怪我人の治療に力を貸してやってほしいの。お願い」<br />
少女はクシナーダの顔を見たまま、固まっていた。<br />
「できない?」<br />
「できなくはないけれど……それでいいいの?」<br />
オロチ軍の兵士は、この里を蹂躙したのだ。民を殺め、犯し、ものを奪い、無辜(むこ)な赤子でさえその例外ではなかった。里人にとって絶対に許しがたい存在である。脅され、食料を供出しているだけでさえ、たえがたい苦痛であり憤懣の種に違いなかった。それをさらに傷や病を得た者を助けるなど、心情的には考慮の余地さえないものであるはずだった。<br />
「そこのお方」クシナーダは立ち上がり、兵士に言った。「わたくしを里の者たちと会わせてください。あなた方を助けるように説得いたします」<br />
「え……あ……」あまりにも常識離れした提案に兵士は仰天した。<br />
「あなたの一存で決められないなら、カガチを呼んできてください」<br />
狼狽の挙句、彼は戸口から仲間に叫んだ。「おい!」と。<br />
<br />
朝餉の後、やってきたカガチと共にクシナーダは囚われの家屋から出た。戸口から外を見るくらいは許されていたが、外を歩くのは久々だった。<br />
その姿を見て、里人が引き寄せられるように集まってきた。「クシナーダ様だ」と声を掛け合い、次々に家を出てくる。<br />
「よけいなことを喋るようなら里人を殺す」カガチはそばで唸るように告げた。<br />
しかし、クシナーダはふっと吐息のような笑いを発した。<br />
「なにをそんなに怯えているのです」<br />
「なに?」<br />
クシナーダは歩みを止め、カガチを仰ぎ見た。「あなたのしていることは滑稽ですよ、カガチ。あなたは花に向かって恫喝をしているのです」<br />
その言葉をカガチのそばでヨサミは聞いていた。<br />
「花だと……」<br />
「無害なただ野に咲くだけの花を脅して、何の意味があるのですか」クシナーダのその表情には怒りもなく、嘲りもなく、そして誇示もなかった。穏やかな中に、毅然としたものだけが立っていた。「あなたは力があります。わたくしたちをどのようにもできます。好きなだけ手折(たお)ればよいでしょう。お望みなら踏みにじるもよいでしょう。けれど、あなたは決して最終的な勝者にはなれません」<br />
「…………」<br />
「わたくしたちは花。いくら折られ切り取られ、踏みにじられても、季節がめぐれば花はまた咲きます。あなたにはそれを止めることはできません」<br />
クシナーダはそう言うと、また歩み始めた。里の中央にある柱に向かっていく。彼女の歩みにつれ、彼女を慕う者たちが自然と集まった。<br />
カガチはクシナーダの近くに佇み、腕組みをしていた。その背中を見、ヨサミはカガチが小さくなったように思えた。気のせいだとは分かっている。だが、このトリカミに来て以来、カガチは圧倒的な鬼神の〝力〟を弱められているようにしか思えない。<br />
この里に張られている結界のせいなのではないかと、ヨサミは考えていた。巫女としての力の大半を失いながら、それでもこの里が特殊な知恵と〝力〟によって聖域化されているのはわかる。そのためカガチの背負っている〝負の力〟が、否応なく制限されているのではないか。<br />
「皆さん、聞いてください」クシナーダは集まった人たちに向かって語りかけた。「勘のいい方はもうお分かりだと思いますが、このトリカミの里が長きにわたり封印してきたものが解き放たれてしまいました」<br />
それを聞いたカガチも腕組みを解き、クシナーダを見た。やはりそうなのだと、ヨサミは胸の内だけでうなずいていた。あのとき里を覆っていた濃厚な闇の気配、あれこそがそれなのだ。<br />
「世は滅びるかもしれません」<br />
しーんとした空気が民たちの間に満ちた。<br />
「しかし、わずかな望みにわたくしは賭けたい。皆さん、力を貸してもらえぬでしょうか」<br />
静けさが同様に広がっていたが、やがて一人、二人……と前に進み出る者、あるいは立ち上がる者、強い眼で応える者が現れ、それは集まった里人たち全員の意志として結ばれていった。無言のうちに。<br />
「ありがとう、皆さん」クシナーダは言った。「わたくしたちにできることをしなければなりません。確執を越え、憎みを脇に置き、今この里にいる傷ついた者、病んだ者のために力を尽くしてあげてください。そう、オロチの人たちもです」<br />
里人たちは顔を見合わせ、やはり戸惑いは隠せなかった。<br />
「考えるのではなく動いてください。彼らに憎しみをぶつけたい気持ちは本当によくわかります。わたくしも心の底でカガチに復讐を果たしたいと、そう思う気持ちがあります」<br />
クシナーダは斜め後ろのカガチを振り返りもしなかったが、里人の視線は当然集まった。<br />
「でも、わたくしたちは知っています。本当の強さとは何か――」<br />
里人は息を詰めるようにして、彼女の言葉を待った。<br />
「本当の強さとは、人を許せるということ」<br />
彼女の言葉のヒビキが、里の隅々にまで響き渡るようだった。<br />
<br />
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<br />
<br />
「わたくしたちワの民は、長きにわたりこの島国に多くの民を受け入れてきました。確執も争いもありました。けれど、わたくしたちはやがては許しあい、ここで一つになって生きてきた。けれどこの百年、あまりにも大きな流れがいくつもぶつかり合い、このワの国の中で荒れ狂い、その大きな山がここにきてしまった。わたくしたちはこの山を越えることはできないのでしょうか?」<br />
ヨサミは、クシナーダの言葉をそのときまでただ聞いていた。が、この時に至り、口を開いていた。勝手に声が出てしまっていた。<br />
「越えられないよ」<br />
その呟きは、静けさの中で予想外の強さで人々の耳に届いた。<br />
「許せなければ越えられないのなら、越えられるはずがない」<br />
カガチがヨサミを見ていた。そして彼は、クシナーダに向かって冷笑的に言った。「――だそうだが?」<br />
クシナーダはヨサミのほうへ向き直った。「アナト様よりお伺い致しました。カナンに国を滅ぼされ、ご家族も殺されたと」<br />
「ああ、そうだよ」ヨサミは自分で自分が抑えられなくなっていた。「あんな奴ら、どうやって許せっていうのよ。許せるはずないじゃない! それはこの里の人たちだって同じじゃない!」<br />
金切声のようになった。が、ヨサミはかつてアナトにぶつけたように、クシナーダにその言葉を激しく投げつけることができなっていた。まともに眼を合わせることができないのだ。<br />
「わたしにはあいつら――カナンのやつらを許すことなどできない。あんたの言っていることはご立派過ぎるよ!」<br />
「立派だとか立派でないとか、そんなことはどうでも良いのです」<br />
「どうでもって――」カッとなりながら、ヨサミは反論すべき言葉を失った。<br />
「人はいついかなる時でも、何を選び何をするか、問われているというだけのことなのです。ヨサミ様、あなたがあえて復讐をという道を選び取るのなら、それはわたくしたちにはいかようにもしがたいこと。わたくしはそれを否定しようとは思いませぬ。それに――」<br />
クシナーダは何かを見定めようとするかのようにヨサミを見つめていた。ただ静かに。<br />
「ヨサミ様、あなたのお役目もまた貴いもの。誰にでもできるわけではございませぬ」<br />
ヨサミは何かを投げ返したかった。だが、その言葉は見つからなかった。<br />
クシナーダはまた里人たちを振り返った。<br />
「わたくしは皆さんに許すことを強要しようとしているのではありません。この今の危機の中で、何を選ぶのかということをお尋ねしているのです。そしてその上でもしお力を貸していただけるなら、今のわたくしたちにできることをしてほしい。ただそれだけのことなのです」<br />
里人はやはり静まり返っていた。その中から声が湧いた。<br />
「どうして?」スクナだった。「どうしてあたしたちがオロチを助けることが、山を越えることになるの?」<br />
それは一同の疑問を代弁するようなものであったかもしれない。<br />
「クシナーダ様がやってほしいというのなら」スクナは自分の周囲にいる里人を見まわして続けた。「――する。できるよね、みんな」<br />
少女の言葉に、大人たちも応えた。うなずき、そしてクシナーダにまた視線を集めた。<br />
「だから、そのわけが知りたい」と、スクナが言った。<br />
「それはね、スクナ、それに皆さん……」クシナーダはにっこりとした。「すれば分かりますよ」<br />
<br />
結局、里人たちはクシナーダの言に従った。<br />
それはそれだけクシナーダのことが信じられているということでもあった。が、その裏側にはヨサミという存在がむしろ里人を結束させてしまったという効果もあった。彼女が人の想いを背負い、代弁してしまったために、むしろ里人は彼女の立場から距離を置くことができたとさえ言えた。皮肉な結末というよりも、不思議な成り行きというべきだったのかもしれない。<br />
あの場にヨサミがいなければ、意見は割れた可能性すらあったのだから。<br />
里人は憎悪や敵愾心を抑え、傷ついたオロチ兵たちを癒し、食事も惜しみなく提供した。洪水で汚れていた川沿いの温泉場は修復と清掃が行われ、兵士たちの身体を温めた。<br />
それはカガチにとっても、兵たちの気力体力の回復という意味では好都合な出来事であったはずだった。だが、すぐに目に見えた形で兵たちにはある変化が起きた。<br />
「すまない……」と号泣する者も出た。自分たちが踏みにじったトリカミから与えられる行為が、彼らに人間らしい感情を呼び起こしたのだ。<br />
そして、それはじわじわとトリカミの里人にとっても、残虐な行為を働いた彼らでさえ、やはり同じ人であったのだという認識をあらたにさせた。<br />
<br />
そうして椿の花弁は、一日ごとになくなって行った。<br />
クシナーダの誕生日から五日目の朝、スクナは巫女たちが囚われる家屋の中の椿が、すべてなくなっているのを確認した。<br />
今夜だ――。<br />
配膳を終えたスクナは家を出るとき、クシナーダと眼でうなずき合った。<br />
<br />
2<br />
<br />
半月が中天から少し西に傾いたところにあった。<br />
スサノヲはエステルの幕屋の外で、その月を仰いでいた。柔らかな月明かりが、凍えるような空気の中、あたりを照らしている。彼はふと幕屋の近くにある樹木に花があることに気付いた。<br />
椿であった。ふわっとした赤い花弁が、月光を浴びて艶めかしいほど美しかった。優しく、凛とした美しさをそこに感じ、それが彼にクシナーダのことを思い出させた。その時、幕屋からモルデとカーラが出てきた。<br />
「お待たせしました。行きましょう」と、モルデが言った。<br />
彼らが向かったのは少し離れた場所にあるもう一つ別な大きな幕屋だった。そこでは戦いに勝利した男たちの酒宴が催されており、中に入ると乱痴気騒ぎだった。飛び交う野次のようなだみ声、笑い。食事や酒を給仕している数少ない女たちは現地の娘たちだが、嫌がる彼女らを抱き寄せて口説いている者もいる。<br />
「よう、モルデ。ちっとは元気になったか」<br />
「心配するな。おめーがいなくても、ヤイルがいりゃあ、俺たちは百戦百勝だ」<br />
「なんたって、神様がついておられる」<br />
「おお、今日の予言もすごかった! 奴らの侵攻の時期も場所もぴったりだった。おかげで待ち伏せた我らが大勝利!」<br />
はっはっは、と笑いがはじける。そんな中を進んで行くと、奥の方にヤイルが座していた。隻眼を光らせ、黙々と酒を口に運んでいた。<br />
「ヤイル、話がある」モルデが言った。<br />
「なんの話だ」ヤイルはモルデの顔も見なかった。<br />
「ヤマトの話だ」<br />
ふん、とヤイルは鼻で笑った。「またその話か。くだらん……」<br />
「くだらぬことはない。このような戦によらずとも、我らはこの国で暮らしていけるのだぞ。エステル様もそれを善しとされた」<br />
「エステル様が?」<br />
「私の国、ヤマトのことをお話申し上げました」カーラが言った。「エステル様はヤマトへ民を率いて向かうのが最良の策とおっしゃいました。ヤマトは良い土地です。四方を山に囲まれ、豊かな水が流れております」<br />
ヤイルは酒の器を置くと言った。「そのようなこと、神はお望みではない」<br />
「なんだと?」と、モルデ。<br />
「神が求めておられるのは我らの偽りなき信仰の証しよ。我らはそれを自らの命で証明しなければならぬ。この地を我らの力で平定することでな」<br />
「そのためにどれほどの同胞が犠牲になると思うのだ」<br />
「まあ、座れ」<br />
ヤイルは隻眼を光らせ、周囲の人間を退かせた。側近たちも敬意を持ってヤイルの指示に従った。今やヤイルはエステルをもしのぐ、絶対的な信を集めているのだった。<br />
「この国は乱れすぎておる」ヤイルは自らの器に酒を注ぎ、そしてほかにも三つの器に酒を注いだ。三人に勧める。「ことに怪しげなまじないや祈祷を行う邪教に心を奪われた者ども、神はこれを一掃し、この地を浄めることをお望みだ。汚れたものは焼き払わねばならぬ。でなければ、神の王国が成就せん」<br />
「そう言っているのか、神は」スサノヲが訊いた。<br />
「おおよ。俺のここに」と、ヤイルは自らの頭を指で叩いた。「囁きかけておられる」<br />
「いつからだ」スサノヲは重ねて尋ねた。「いつからその声が聞こえるようになった」<br />
「ずっと前からだ」<br />
「ずっとといっても、そのようなこと、大陸では一度も言っておらなかったな」と、モルデが指摘した。<br />
「はっきりと聞こえるようになったのだ。ああ、この大戦(おおいくさ)が始まったあたりからな」<br />
「つまりは新月の日ということか」スサノヲは確認した。<br />
「うん? ああ、そのようなものだろう。わが祖先にはかの予言者アモスがおられる。おそらくはこの身に流れる予言者の血にこそ、今ここで神は語りかけられたのだろう」<br />
満足げに酒を口に運ぶ。その言外には、「エステルではなく」というニュアンスがあからさまなほど含まれていた。<br />
「アモスなら俺も同じ祖先だ。言い伝えによればな」と、モルデは言った。<br />
「同じ血が流れていようが、神は自らの御心に従う者にしか語りかけることはなさらぬ」<br />
「俺も神の御心には従って生きているつもりだったがな」やや自虐的とも取れるような言い方をモルデはした。<br />
「そうかな?」ヤイルは隻眼をモルデに、そして次にカーラに注いだ。「トリカミに潜入させておる密偵から、先ほど知らせがあった。ヤマトの巫女はカガチに殺されたそうだ」<br />
「イスズ様が?!」深甚な衝撃にカーラが声を上げた。瞳孔が開いたようになり、半ばほど開いた口のまま彼は凍り付いていた。<br />
「我らと同じ血を引く者であっても、朱に交われば赤くなる。どうも聞くところによれば、そのイスズという巫女、他のこのワの国の巫女たちと似たような邪教に染まっておるらしいではないか」<br />
「ち、違いまする」カーラが反論したのは、ひと呼吸もふた呼吸も後だった。「我らは真の信仰を捨てたわけではない」<br />
「信じられぬな」嘲笑った。「それならなぜおまえらは巫女などを戴いておるのだ。他のよこしまな神々を信奉する部族となれ合っておるのだ」<br />
「イスズ様は他を否定する必要がないと申されておりました」<br />
「あり得ぬ」ヤイルは断じた。「この世には唯一の神しかおらぬ。ほかを認めるなど、決してあり得ぬ。そのような邪教に堕した者どもの話など、悪魔の誘惑にも等しいわ。その誘いにうかうかと乗るモルデ、おまえの耳に神が囁きかけぬのも道理」<br />
「なにぃ……」モルデの顔色が変わった。<br />
スサノヲはその肩に手をかけ、モルデを制止した。そして、「ヤイル……なぜトリカミを攻めない?」と訊いた。<br />
「なに?」隻眼がちらっと動いた。<br />
「トリカミにいるカガチの本隊は、今弱っているのではないか。敵の大将がそこにいて、なおかつ手薄な状況だ。普通に考えれば、このカナンの主力を持ってカガチを潰しに行くというのが常道ではないのか。カガチさえ討ち取れば戦は終わる」<br />
その質問はヤイルの痛いところをついたのは間違いなかった。<br />
「カガチを討ち果たすのは最後の楽しみよ」<br />
「そうしてタジマやコジマの軍勢と一進一退を続けているのか。解せぬ話だな。単なる消耗戦でしかない。時間がたてば、カガチは軍勢を立て直すぞ。キビやヒメジから増援が来るかもしれん。そうなれば不利になる一方だぞ」<br />
「神のご指示がない」むっつりとしてヤイルは、眼をそむけ酒を口に運んだ。<br />
「おまえの神はずいぶんと理不尽な戦術を強要するのだな」<br />
「神の御心は計り知れぬからな」<br />
「怖いのではないか」<br />
「…………」<br />
「あの男が。だとすれば、それを怖がっているのは誰だ? 神か?」<br />
「黙れ!」<br />
幕屋の喧騒が一瞬にして静まり返るほどの怒声だった。手にしていた器を投げ捨て、ヤイルは立ち上がると脇に置いていた剣を抜いた。女たちから悲鳴が上がる。それをスサノヲに向ける。<br />
「貴様の言うておることは神への侮辱。許さぬぞ」<br />
「そんなつもりはさらさらない」スサノヲは眼を上げて言った。「侮辱を感じておるのは、おまえ自身だろう」<br />
一触即発の空気が、その場に張りつめた。カナンの兵たちも息を殺すようにして成り行きを見守っていた。<br />
「ヤイル――見せたいものがある」ゆっくりとスサノヲは立ち上がった。そして「ついて来い」と背を向け歩き出した。その場を動かないヤイルを振り返る。「どうした? 不安なら手勢を連れてくればいい。やはり怖いのか」<br />
憤りをあらわに唸り、ヤイルは歩き出した。剣は鞘に収めず、スサノヲの背後に今まさに斬りつけるような距離でついて行く。モルデやカーラがそれに続き、幕屋にいた何人かも興味を覚えてか、彼らの後を追った。<br />
スサノヲが導いたのは、先ほどの椿の前だった。<br />
「このような寒い季節にも花が咲く」と、椿の一輪の枝をそっと掌で受けるようにしてスサノヲは言った。「美しいとは思わぬか」<br />
ヤイルは隻眼を細め、ややあって苦笑めいたものを浮かべた。「何の話だ」<br />
「ヤイル、この花は何色だ」<br />
<br />
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<br />
「赤……」<br />
「この地上に咲く花、他にどんな色がある。おまえは他にどのような色の花を見たことがある」<br />
答えるのもばかばかしいと思ったのか、ヤイルは沈黙していた。<br />
「白、黄、青、紫……数多くの花を俺はこの地に来るまでに見た。形も色も、香りもそれぞれに異なっていた」<br />
「…………」<br />
「この花を創造したのは?」<br />
「……神だ」<br />
「神はなぜ花を一色(ひといろ)だけにしなかったのだろうな。そして、なぜ多くの形を作ったのだろう」<br />
「…………」<br />
――全部が同じ色になってはつまらないと思いませんか。赤や青や緑や黄、黒や白……いろいろあるから楽しいし、面白いものです。<br />
スサノヲの脳裏にクシナーダの言葉がよぎった。<br />
「この世を彩る花にもいろいろなものがあったほうが、神も良いと思われたからであろう。いろいろあるから楽しめる。何もかも同じではつまらぬ――そうは思わぬか」<br />
「何が言いたい……」<br />
「この地上に肌の色や言葉や風習が違う多くの民が存在しているのも花と同じこと。神がそれを善しとされたからだ」<br />
「何を言い出すかと思えば……」ヤイルは嘲笑い、そして手にしていた剣を一閃させた。<br />
スサノヲの近くで花弁を広げていた一輪が落ちた。<br />
「花と人間は違うわ。我ら以外のすべては、神の道から外れた堕落した民どもよ!」<br />
どうでも動かぬ、頑迷そのものの傲岸さがヤイルの言葉、表情に滲み出ていた。スサノヲはじりっと片足を前に出しながら、憤りを発して言った。<br />
「花も人も神の創造物に違いあるまい」<br />
「笑止」<br />
「そなたらもこの花のように、ただこの地に根付き、あたり前に咲けばよいだけのこと」ヤイルが切り落とした椿を拾い上げ、スサノヲはそれを突き出した。「なぜ、それがわからん。それが許されるのだぞ」<br />
「我らは神に選ばれた民。同じ花であったとしても、そのあたりの道草に咲く花とはわけが違う」<br />
「同じ命であろう!」<br />
「同じではない。神に仕える我らの価値ある命! 他は無価値な命よ!」<br />
「神を侮辱しているのはお前自身だと知れ! 聞け! そなたたちも!」スサノヲは幕屋からついてきたカナンの兵士たちにも語りかけた。「本来、このワの島国はそなたらのものではなかった。後から来たそなたらは、このワの民たちに受け入れてもらわねばならなかったのだ。それが可能だった。アシナヅチがそう告げたように。だが、そなたらは受け入れてもらう努力ではなく、逆のことをしている。他を否定し、自らの存在を誇示し、他を支配下に置こうとしている! それが間違いの始まりなのだ!」<br />
いつの間にか、中にいたはずのエステルやカイの姿も幕屋の外にあった。彼女もスサノヲの言葉を聞いていた。<br />
「この花のように、そなたらは切りとる必要のない花々を散らせているのだ。この地の民も、そしてそなたらの命もだ! 半島でいまだ待つそなたらの家族のことを思い出せ! 家族と一緒にこの地で安らかに暮らせるのだぞ! なぜその選択をしない! 共に和となり生きろ! それこそが神の道だ!」<br />
「このような者の言葉にたぶらかされるな!」ヤイルは怒鳴った。「我らは受け入れてもらう必要などない! 我らの主たる神が、すべてを我らに与え給うからだ! 愚昧な者どもは滅ぼしてしまえばよいのだ!」<br />
スサノヲとヤイルの間に明瞭な殺気が走った。この瞬間、スサノヲの心にもはっきりとした殺意が生じていた。この男を排除しなければ、人は死に続け、悲しみは蔓延し続ける。そのためには――。<br />
スサノヲはほとんど腰の剣に手を動かしかけていた。実際、抜きたかった。その誘惑は熾烈なものであり、ほとんど抗いがたいものへと一気に高まった。<br />
ヨモツヒサメから受けたダメージは、まだ回復には程遠かった。が、ヤイル一人を斬り捨てることくらい、できぬ俺ではない――。<br />
ぴくっと手が動いた。その瞬間にヤイルは反応して剣を構えた。<br />
が、スサノヲはその自分の手に先ほど拾った椿があることを意識し、その一輪が彼を思いとどまらせた。クシナーダの面影がふっと脳裏をよぎる。やめて、と彼女が声なき声で言ったように思えた。<br />
危ういところでスサノヲは殺気を体内から追い払った。背筋に冷たいものが走る。それは隙あらば付け込もうとするヨモツヒサメの気配だった。ヤイルに向けて踏み出していた足を引く。<br />
ふうーっという吐息と共にヤイルも剣を引いた。<br />
「よけいな口出しは無用。邪魔をするなら、いかにお前でも容赦はしない」ヤイルは踵を返し、自分がいた幕屋のほうへ向かった。通りすがりに右の隻眼がエステルを捉えたはずだが、臣下の礼も取らず、足早に去る。部下たちに「座興は終わりだ。さあ、呑み直しだ!」と声をかける。<br />
「すべてはわたしの責任だ」近づいてきてエステルは重い口を開いた。月光に照らされることで、やつれたその顔の頬がよけいに落ちているように見えた。「すまない、スサノヲ」<br />
「俺よりも、カーラや亡くなったイスズという巫女に詫びるべきだろう」<br />
「亡くなった? イスズという者は亡くなったのか」<br />
「カガチに殺されたそうだ」<br />
「イスズ様は後からきっとこの地に到来する仲間を、命かけてお導きするお心積もりでした。モルデ様を逃がすために、きっと身を挺されたのだと思います」<br />
モルデも沈痛な面持ちだった。それを見てエステルは、さらに濃い苦渋をにじませた。<br />
「すまない、カーラ」<br />
カーラは俯いていたが、「いえ」と顔を上げた。「エステル様、それにスサノヲ様、私は一度トリカミに戻ります。イスズ様はこれより後、私はアナト様にお仕えするよう命じられました。きっとイスズ様は深いお考えあって、そのように命じられたはず」<br />
「そうだな。トリカミに囚われている巫女たちのことも気になる」そう言いながら、スサノヲも自分が戻りたいほどだった。だが――。<br />
「場合によっては、命に代えてお助けいたします。途中で会ったイタケル様やニギヒ様ともそのようなお話を致しました」<br />
「頼む……」<br />
カーラは頭を下げると、すぐにその場を離れた。歩み去っていくというよりも、風のように消えた印象だった。<br />
「エステル様、ここはお寒うございます。兄さんも、みんな、中に入って話そう」と、カイが言った。<br />
エステルもモルデも、幕屋の中へ引き上げていく。スサノヲもそれに続きかけ、一度足を止めた。振り返った夜空の月は、すでに西へ沈みかけていた。<br />
「サルタヒコ……見ているのだろう」スサノヲは空に向かって言った。「俺にここで何をさせたいのだ。ヤイルを打ち倒せというのか」<br />
夜空は沈黙したままだった。<br />
「教えてくれ」<br />
羽音もなく、風の音だけが聞こえていた。<br />
<br />
3<br />
<br />
夕方、いつものように巫女たちに食事を運ぶと、スクナは家屋を出てきた。<br />
「ご苦労さん」と見張りの兵が声をかけてくる。以前にはなかった気安さだった。それに対してスクナは、にっこり笑顔を返した。<br />
「おじさんたちのも、すぐに持ってくるから」<br />
「ああ、頼むよ」<br />
イスズが抜け出して以来、見張りの兵は増員され、五人になっている。しかし、彼らはトリカミの里人たちが仲間の傷病者たちの回復のために働いたことで、かなり気を許すようになっていた。その見張りが交替するのは夜半――時間はたっぷりとあったが、問題はタイミングだった。<br />
スクナは、夕餉に集まる里人たちのところへ戻ると、作られた食事を五人分、別な土鍋に分けてもらった。それをあらためて火にかけ、乾燥した植物の葉をそれに加えて煮た。日が暮れて行くのを見つめる彼女の眼は、里人の中にこっそりと紛れ込んだイタケル、オシヲの姿を確認した。夕闇が濃くなってきたので、抜け道から入り込んできたのだ。<br />
トリカミの里自体、かなり広範な土地である。主だった道筋にはオロチ軍の兵が警備しているが、至るところに隙間がある。里人にとってはこっそり出入りすることは難しくなかった。<br />
「どうだ?」イタケルは近寄ってきて言った。<br />
「大丈夫。二人はあれ持って、ついてきて」<br />
スクナに言われて、イタケルとオシヲは用意されていた薪や枯葉などを担いだ。すべての段取りは、スクナによってなされていた。<br />
スクナが食事を運んでいくと腹を空かせていた見張り兵は嬉々としたが、ついてきたイタケルとオシヲが荷物を下ろすのを不審げに見ていた。<br />
「ねえ、ここで焚火してもいい?」と、スクナが訊く。<br />
「あ、ああ」彼らは顔を見合わせた。<br />
「栗を焼くんだ。巫女様たちに差し上げたいし、おじさんたちも食べるでしょう?」<br />
「ああ、そういうことなら」「この寒さだ。むしろ大歓迎だ」などと、兵たちは笑顔になった。イタケルとオシヲが荷物を置くと去って行ったので、彼らはよけいに気を許した。<br />
篝火から種火をもらうと、集めた枯葉はすぐに燃え上がった。小枝、そして大きめの薪という順で火を大きくしていく。その間に兵士たちは焚火のまわりで暖を取りながら食事をし、談笑した。<br />
「俺たちの里でも、栗は冬の間の大事な食糧だからなあ」<br />
「あのバチバチ弾ける音がたまんねえよ」<br />
「いや、楽しみだ。ここの里の栗は実が大きい」<br />
炎を大きさを見て、スクナは乾燥した植物の束を放り込んだ。<br />
「なんだ、そりゃ」と尋ねる兵士。そのときには、すでに頭がぐらぐら揺れていた。<br />
「これを燃やすと良い灰ができてね、栗がうまい具合に焼けるの」<br />
「へえ~、なんて草だ」<br />
スクナは答えたが、彼らが覚えることはなかっただろう。もうもうと上がる煙が、風にまかれて彼らの気管に吸い込まれた。スクナは息を止めたり、風上に回ったりするなどして、煙を吸い込まないようにしていた。<br />
もはや立っていられる者はいなかった。<br />
すでにあたりは闇が濃厚で、半月の月明かりだけが頼りだった。この異変に気づく者もいない。<br />
「ごめんね」と、スクナは兵士たちに詫びた。<br />
<br />
その夜、クシナーダは他の巫女たちにいつでも抜け出せるように身支度を整えさせていた。<br />
「クシナーダ様、本当にここを出られるのでしょうか」アナトが尋ねた。<br />
その問いにもクシナーダは笑顔で応えた。「スクナが必ず迎えに来ます」<br />
「あのような子供がいったいどのようにして……」<br />
戸板を叩く音がしたのはその時だった。動かされた戸口の隙間から覗いたのは、そのスクナの顔だった。<br />
「来たよ、クシナーダ様」悪戯っ子みたいな笑顔でスクナが囁く。<br />
巫女たちは唖然として顔を見合わせた。<br />
「さあ、行きましょう」クシナーダが呼びかけ、彼女らは外に出ていく。<br />
「あ、あの女性(ひと)は……」と、スクナは動こうとしない一人の巫女を目に留めて言った。<br />
「良いのです。行きましょう」クシナーダがやんわりと肩を押す。<br />
そのクシナーダは家屋を出るとき、残った女性に対して深々と頭を下げた。女性もこうべを垂れていた。スクナはクシナーダの表情に悲しみとも苦しみともつかぬものが浮かんでいるのを見た。<br />
外に出た巫女たちは、寝転んだりしゃがみこんだりしている見張りの兵士たちの姿に驚き、立ちすくんだ。寝ている――と思ったら、かならずしもそうではない。彼らはぐらぐら頭や体を揺らし、まるで酒に泥酔して酩酊しているような状態だった。巫女たちを見てもにやにや笑い、自分の妻の名前を呼んだりしている。<br />
「また、お酒を――?」と、アナトは尋ねた。<br />
しかし、前回イスズが抜け出したときのことがあるので、兵士たちに同じ手が通用したとは思えない。<br />
「夕餉に、ちょっとね。それにあの煙も吸わせたから」<br />
巫女たちが囚われていた家屋の近くには、まだ煙を立ち上らせている焚火があった。<br />
「あの煙を吸わないようにね」と、スクナは警告した。<br />
巫女たちは慌てて袖で口をふさいだ。<br />
「スクナは様々な薬草の効用とその知識に長けているのです」クシナーダは説明し、スクナの肩に手をかけた。「ありがとうね。スクナだったらきっとなんとかしてくれると信じていました」<br />
えへ、とスクナが笑う。そこへイタケルとオシヲが走ってやってきた。<br />
「イタケル、オシヲ……よく無事で」クシナーダは感嘆をにじませた。<br />
「行こう。ぐずぐずしていたら気づかれる」と、イタケル。<br />
「西の磐座のところでニギヒ様と、ニギヒ様の部下が集まってる」と、オシヲ。<br />
イタケルたちの導きを受け、巫女たちは夜陰に紛れ、里を抜けて行った。その姿をこっそり家屋の中から見ている里人たちもいることに、クシナーダは気づいていた。彼らは今宵の企てを知っていて、皆、クシナーダたちが無事に脱出できることを祈っている。いや、もしほかの兵士たちに察知されるようなことがあれば、身を挺してでも守ろうとしているということが伝わってきた。<br />
彼らの祈りと期待が、夜の大気を通じて流れ込んでくる。<br />
――これでは、もしかしたら……。<br />
クシナーダは危惧を抱いた。<br />
西の磐座は斐伊川にもっとも近い、里の境界線になっている場所だ。里を聖域化している結界の要ともなる機能を有している巨岩の一つだ。そこが近づくと住居もなくなり、森の茂みも深くなってくる。<br />
明かりも使わず、沈みかけた月明かりだけを頼りに移動できるのは、地理を熟知しているからこそだった。里の周囲を警戒する兵士たちの場所もスクナが事前に調べていた。彼女しか知らないような抜け道を使い、隙間を縫うようにして移動する。<br />
「大丈夫ですか、ナオヒ様」と、クシナーダは小声で気遣った。<br />
「年寄りにはきついわい……」ナオヒはさすがに息が上がっていた。<br />
「もう少しですから頑張ってくださいね」<br />
「年寄りを鞭打つ、お優しい言葉じゃな」<br />
磐座が月明かりの中にシルエットで見えた。すでに兵士たちの包囲の外である。<br />
巨岩の周囲にはニギヒと招集をかけられた配下たちが待機していた。屈強な男たちの存在は、巫女たちを安堵させた。<br />
「クシナーダ様、それにナオヒ様、ご無事で何よりです」ニギヒが言った。<br />
「言った通り、なかなかしぶといじゃろ?」と、からかうようにナオヒが言った。<br />
そのときまで、彼らのだれも気配を察知することはなかった。いつの間にかそばに来ていた人影が声を発することで、彼らは飛び上がるほど驚かされた。<br />
「皆様……」その男は、カーラだった。<br />
彼は食い入るように凝視し、巫女たちの顔をゆっくりと確認して行った。その中に彼の主であった女性の貴い姿がないことを、あらためて確認するように――。<br />
その眼に涙が滲み、口はへの字に歪んだ。<br />
「なんなりとお申し付けください」<br />
彼がそう言って膝を折ったのはアナトの前だった。<br />
<br />
<br />
「カガチ様!」イオリの取り乱した声が響いたのは、それからしばらく後のことだった。<br />
カガチは祭殿の一角で、ヨサミに給仕させ、酒を呑んでいた。<br />
「巫女どもが逃げました! み、見張りがおかしなもので眠らされッ――」血相を変えてやってきたイオリは、報告を聞いて眉一つ動かさないカガチに、一瞬、言葉を詰まらせた。「す、すでに追手をかけております。すぐに見つけ出し――」<br />
「捨て置け」ぼそりとカガチは言った。<br />
「は?」<br />
「捨て置けと言った」<br />
「い、いや、しかし」<br />
「あの巫女どもも、もはや用済み。連れて歩いても足手まといなだけ」<br />
「は、はあ」イオリはカガチの真意を測りかねていた。怒り狂ったカガチに殺されるかもしれない覚悟で来たのに拍子抜けしたというのもあろうし、何よりもどっと安堵したためか、真っ青だった顔に血の気が戻ってきた。<br />
「道草の花、むしり取ったところでもはや何の益にもならぬわ。のう、そうであろうが、ヨサミ」<br />
話を振られ、ヨサミは黙って見つめ返した。<br />
「あ、ああ、あの、しかし、カガチ様」イオリはさらに顔色を窺いながら続けた。「ただ、一人だけ、巫女が残っております」<br />
「なに?」カガチはむしろそのことに驚きに打たれたように反応した。<br />
「アカルが残っております。一人……」<br />
「アカルが?」<br />
「は、はい」<br />
「呼んでまいれ」<br />
「わかりました!」<br />
部屋を飛び出して行こうとするイオリを、カガチは今一度呼び止めた。<br />
「イオリ、心しておけ。我らは明日、ここを出立する」<br />
「え? イズモに進軍されるのですか」<br />
「タジマのミカソらと合流する。そしてカナンとの最後の戦いに備える。よけいなことに気を回さず、兵たちもゆっくり休ませておけ。よいか」<br />
「は、はい。しかし、このトリカミや動けない傷病兵はいかがなされます」<br />
「この地はもはやどうでも良い。守備兵も残さぬ。動けぬ者はここに残す。わかったな」<br />
「は!」イオリは頭を下げ、その場を足早に去って行った。<br />
その足音が聞こえなくなった頃、ヨサミは言った。「お気づきだったのですか」<br />
「おまえがくれた〝力〟だろう。今夜、おかしな気配があるのは感じておった。イスズが抜け出したときと同じようなものだ」<br />
「なのに見逃された……」<br />
カガチは酒を呷った。「……俺も馬鹿ではない。クシナーダが言うには、この里が封印してきた〝力〟は解き放たれた。アカルにせよ、キビの巫女どもにせよ、このトリカミを禁忌としてきたのはそれが理由であろう。しかし、その禁忌が破られたとあれば、巫女どもが俺の言うことに従う理由はなくなる。半分はな」<br />
「半分?」<br />
「ことキビからはクロガネ作りのためという名目で、多くの者をタジマやイナバに人質に取っている。それが残り半分。おっと――お前の国からも取っていたな」<br />
ヨサミはそのことには何も返さず、ただカガチの手の中の器に酒を注いだ。そのことは今言われるまで、ヨサミ自身、ろくに思い出しもしなかったことだった。いや、考えるのを避けていたのかもしれない。タジマにはヨサミの従兄に当たる人物も人質に取られていた。<br />
「キビから徴収した兵士たちも、洪水でほとんど死ぬか、動けぬ状態だ。このような有様に至り、キビの巫女たちが俺から離れようとするのは必定であろう」<br />
「なぜ、お見逃しになったのですか」<br />
「この戦が終われば、カナンという最大の邪魔者はいなくなる。キビにしてもこの戦に兵力の大半を差し出した」<br />
「つまり弱体化したキビなどいかようにもできると? 巫女を人質にする必要もない……」<br />
「そういうことだ。幸いにも洪水で損失したのはキビとヒメジなどから集めた兵力がほとんど。タジマの本隊はカナンの東に温存されておる」<br />
たしかにカガチの支配するタジマの主力は、まだ残されているのだった。ある意味、カガチには現状でさえ好都合なのかもしれなかった。<br />
「封印されしものが解き放たれたのなら、もはやこの里の巫女を盾にとっても、あいつらを意のままにすることは難しかろうしな」カガチはまた酒を口に運んだ。「俺にとっても手元に置いておく価値がなくなったということだ」<br />
しかし――。<br />
それだけだろうか、とヨサミは考えた。以前のカガチならクシナーダを含む巫女すべてを殺してしまい、もしそれでこの里人たちが反感を抱くなら、この里すべてを滅ぼしただろう。言葉の上では微妙な違いでしかないようだが、よくよく突き詰めれば彼の変容はきわめて不可解なものに思えた。彼自身、言葉にしたような理由で自分を納得させているようにも聞こえる。<br />
「しかし、となれば、問題はタジマやイナバにおるキビの奴隷どもだ。あの巫女どもはそれをなんとかしたいはず……」<br />
カガチが独り言(ご)つのも、ヨサミには筋が通ってないように思えた。ならば、よけいにキビの巫女たちを捉え、動きを封じなければならないはず。<br />
「そうか……読めた」カガチはふっと笑った。<br />
そのときイオリがアカルを連行して戻ってきた。その彼にカガチはすぐに告げた。<br />
「イオリ、コジマ軍の動きに注意しろ」<br />
「え? コジマですか」<br />
「コジマはカナンの北側に侵攻しておるな」<br />
「はい。現在は意宇の湖(おうのうみ)を挟んだ場所に陣を張っております」※意宇の湖=現・宍道湖<br />
「すぐに使いを出し、反乱の動きがないか、タジマの水軍に見張らせろ。妙な動きをするようなら討て。コジマ内に潜らせている密偵にも伝えておけ」<br />
「わかりました」<br />
カガチは顎を動かし、イオリを追い払った。その場にはアカルとカガチ、そしてヨサミだけが残された。<br />
「なぜ逃げなかった」<br />
そう問いかけるカガチに、アカルは伏し目がちのまま応えた。<br />
「わたしはタジマの巫女。わたしがいなくては、軍の統率に影響が出ましょう」<br />
「笑わせるな……。キビなどと違い、タジマは俺が直接支配しておる地だ。お前がいようがいまいが、影響はない」<br />
「十六年前のあの日より、ずっとあなたのことを見てまいりました」アカルは眼を上げ、カガチをまっすぐに見た。そして、彼の前に跪いた。「どうか、最後までおそばにいさせてください」<br />
その姿と言葉は、ヨサミに激しい嫉妬を掻き立てさせた。自分が顔色を失っているのがわかる。<br />
「どういう風の吹き回しだ」<br />
「わたしの命はもう長くありませぬ」<br />
<br />
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<br />
「…………」<br />
「わたしはあの日、あなたの命を救いました。その時の借りを返していただきとうございます」<br />
「借りと言うか」<br />
「はい。なれば、どうか最後までわたしに事の成り行きを見届けさせてください。それがわたしの最後の望みです」<br />
「そんなことのために、一人残ったのか」<br />
「そんなこと、ではありませぬ。そのことのためにだけ、わたしは生きてきたのです」<br />
アカルの青白い額のあたりから、なにか鋭いものが立ち上っていた。ヨサミはめまいを覚えた。アカルの思いつめた、必死な何かに、圧倒されながら、同時に嫉妬もし、そしてさらに――。<br />
憧れさえ覚えた。<br />
「よかろう」カガチはそう言い、無表情に酒を呑んだ。<br />
<br />
4<br />
<br />
「二十人……たったそれだけなのか」その数を聞き、モルデは愕然と呻いた。<br />
すとんと、力なく腰を落とす。信じられない、というように視線が足元をさまよっている。その姿を誰よりも苦しげに見つめているのはエステルだった。<br />
二十人――それはエステルらと共に戦いを放棄し、ヤマトへ移民する手段を選ぶ者たちの数だった。カイやシモン、ヤコブらの水面下での活動で、その根回しは行われた。が、驚くほど同調者は少なかったのだ。それはそのままエステルの求心力がなくなってしまったことの証明だった。<br />
「この短い間にヤイルはなぜここまで……」モルデはつぶやいた。<br />
沈黙があった。カイ、そしてシモンやヤコブには、思い当たることがあるようだった。スサノヲはそれに気づいていたが、ただエステルのほうを見つめていた。秋にトリカミの里に現れた彼女と同一人物とは思われないほど、エステルは弱くなっていた。まったく雰囲気が違うのだ。あのときの誇り高く、猛々しい王女のオーラは、今は微塵もない。傷ついた小動物のようだ。<br />
「エステル」他に口火を切る者がいないと知り、スサノヲは言った。「何があった」<br />
声をかけられ、ただそれだけでエステルはぶるっと震えた。右手で自分の左腕をつかみ、そしてしばらく硬直していた。<br />
「皆、聞いてくれ」やがてエステルは顔を歪め、血を吐くように言った。「軽蔑してくれても構わない。わたしは……怖くなったのだ」<br />
「エステル様……」モルデは衝撃を受け、言葉を失った。<br />
「あのカヤを滅ぼしたとき、憎しみに満ちた眼でわたしを見つめながら、舟で川を下って行く巫女がいた……。あのとき、わたしは本当は……自らの行いに寒気を覚えていた。あの眼が……忘れようとしても、どうしても忘れられぬ!」<br />
これまで封印していた想いが、最後には叫びとなって響いた。モルデ、そしてカーラなどの話をつなげるなら、それはヨサミというカヤの生き残りに違いなかった。<br />
「あの巫女は叫んでいた。『お父様お母様』と……。それからしばらくして、あの男が……カガチがカヤを奪還しに来た。あの化け物のような男が……わたしは、あの巫女の怨念が、あの男となって現れたように思った」<br />
その認識もまた正しいのかもしれなかった。ヨサミはカガチの愛妾となっている。<br />
「あのような怪物を……わたしは大陸でも見たことがなかった。鬼……カガチは本物の鬼だ……。恐ろしかった……どこまでも追いかけて、わたしのはらわたを食らうと言った。あのときの恐怖が今もこの身からは消えぬ……」<br />
エステルは一言一言を苦しげに紡ぎ出した。言葉を発するたびに、自らのプライドを自ら捨てて足で踏みにじるようなものだったろう。<br />
「その後のことはカイやシモン、ヤコブらはよく知っている……。わたしがあの男に怯え、臆病になり、勇気を失ったことを……。わたしがそのような有様だ。兵たちの士気も下がるのは道理……。今、このようにカナンが追い詰められているのも、すべて、わたしのせいだ」<br />
スサノヲには想像ができた。カナンの民はもともと父権的な意識が非常に強く、神も〝父なる神〟である。女性が頭に立つことなど、ほとんどありえない民なのだ。それを可能ならしめていたのは、王家の血筋であったろうし、エフライムの存命中から非常に強い指導力を彼女が発揮してきたからだ。<br />
だが、その強い意志が彼女から失われてしまったとすれば――。<br />
カナンの民の忠誠は、たちまち脆くなったのではないだろうか。そして、そんなカナンの民が次に求めたのは……。<br />
「そんなとき、ヤイルが神がかった……。突然のことだった。が、大水でカガチが率いる軍が滅びるというヤイルの予言は的中した。民たちはヤイルを自分たちに与えられた、あらたな予言者と信じた」<br />
「そうして一気にヤイルの元へ信が集まったということか」<br />
スサノヲが呟いた後、すぐにカイが叫ぶように擁護した。<br />
「エステル様はずっと、お体の具合も良くなかったのです! それもあってのことなのです。食事もあまり受け付けられず、弱っておられたのです!」<br />
それを聞き、スサノヲは眼を細め、エステルの姿をまじまじと見つめた。<br />
「エステル……おまえは子を宿しているのではないか」<br />
え! と大きな驚きを発したのはモルデだった。が、カイらは内心では考えていたことのようで、過剰な反応はなかった。むしろエステルの顔色を窺っていた。<br />
自分の身体を抱きしめるようにしていたエステルは、やがてそっと自分の腹部に手を置いた。<br />
「ほ……本当なのですか、エステル様」モルデは顎の関節が外れてしまったようになっていた。<br />
「すまない、モルデ……キビから帰ってきたら話そうと思っていた」<br />
「では、あのとき言われていたのは……」<br />
二人のやり取り、そしてカイらの様子からスサノヲは、それがモルデとの子なのだと知った。そして、ようやく疑念が氷解するのを感じた。<br />
エステルはかつての軍神のような女ではなくなっていた。<br />
母になっていたのだ。<br />
それが今の彼女に感じていた違和感の正体だったのだ。<br />
<br />
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<br />
「わたしは知った」モルデのことを見つめ返すエステルの眼にはうるんだものがあった。「子を宿し、初めて思ったのだ。この子が愛おしいと。この子を守りたいと。そうしたら、自分のことが怖くなった……。多くの者を殺めた自分のことが……。わたしは、あの鬼と変わらぬ……。殺してきた者たちにも、同じように母がおったろうに! あの巫女にも!」<br />
ぼたっ、ぼたっ、とエステルの涙が零れ落ち、足元で音を立てた。<br />
「そう……だったのですか」<br />
人目を気にする思いもあっただろうが、モルデは近づき、エステルの肩に手を置いた。エステルもまた彼にしがみついた。そして嗚咽を漏らした。<br />
<br />
そうしてその日が暮れた。スサノヲはエステルの幕屋の一角に、モルデと共に臥所を与えられていた。<br />
月も没し、夜闇が濃くなった頃、モルデがやって来た。<br />
「落ち着いたか」と、スサノヲは仰向けに寝たまま言った。<br />
「まだ、起きていたのですか」音を忍ばせて入ってきたモルデが驚いたように言った。<br />
「エステルは大丈夫か」<br />
「ええ、もう落ち着かれました」そう言いながら、モルデが臥所に入る。<br />
「この戦は収まらぬ」スサノヲは開いた眼を上に向けたまま言った。「もう滝の水のように流れ落ちて行くだけだ。志を同じくする者だけでも集め、おまえたちはヤマトを目指すべきだ」<br />
「明日、同道する者に声をかけてみるつもりです。そして、明日の夜にでもここをひそかに抜け出す……」<br />
「その後は? 半島に戻るのか」<br />
「そうなるでしょう。半島に残ったカナンの民たちは多い。それを引き連れ、ヤマトを目指します。ただ……」<br />
「ただ?」<br />
「それで良いのかと、エステル様は悩んでおられます」<br />
スサノヲは半身を起こした。「どういうことだ?」<br />
「これだけの戦乱を起こした責任を感じておられるのです。ここにいるカナンの民にも、そしてこの島国の民にも」<br />
「…………」<br />
「スサノヲ様は、今さら何を言うと思われるでしょう。しかし、俺も同じ気持ちです。このような状況で、自分たちだけが安全な場所へ逃げこむような卑怯なまねはできない。だから俺は残ります。エステル様は半島に避難していただくが……」<br />
「エステルは納得すまい。おまえは腹の子の父なのだろう」<br />
沈黙は苦しげさえ思えた。<br />
「あの分ではヤイルは決して矛を収めまい。カガチにしても同じだ」<br />
「そうだ……スサノヲ様」思い出したようにモルデが言った。「あのカガチという男は、あなたの剣を持っていました。あのスサで、あなたが持っていた剣です」<br />
「なに?」<br />
「見間違えようがありません。あなたの剣は独特な形をしている」<br />
「そういうことだったのか……」<br />
モルデも身を起こしていた。「あれはただの剣ではないのですね」<br />
スサノヲはうなずいた。<br />
あの剣は彼のエネルギーそのものである。天界から分かたれたスサノヲの大元の光の一部を、剣という形で結晶化させたものだ。ネの世界に降り立った直後だったからこそ、それが可能だったのだ。彼自身、まだすべて物質化していなかったような状況で、その一部を武器に変えたのだ。それが必要とされる状況だったがために。<br />
「あれは当たり前の人間が持つのは危険すぎる代物だ」<br />
「まさかカガチが鬼になったというのも……」<br />
「たぶん剣の〝力〟のせい……」スサノヲは言葉を切り、小さく「シッ」と指を口に当てた。<br />
気配が動いていた。<br />
スサノヲは剣を取り、無音で立ち上がった。幕屋の外の篝火が爆ぜる音がする。そして風の音。それに混じって、金物が触れる音が聞こえ始めた。もちろんほんのわずかなものだが、そのときになってようやくモルデもはっとなり、剣を手にした。<br />
臥所を抜け出して行く。今や明瞭な殺気が彼らを押し包んでいた。<br />
幕屋の中の布がかすかに揺れた。と、次の瞬間、剣を振りかざした男が布を切り裂きながら突っ込んできた。スサノヲは抜刀し、その剣を弾き返した。<br />
「モルデ! エステルのところへ行け!」<br />
おお、とモルデは雄叫びとも応えともつかぬ声を上げ、走り出した。<br />
敵は一人ではなかった。スサノヲは次々に現れる男たちの攻撃をかわし、受け、足で蹴っ飛ばした。吹っ飛ばされた男が転がり、二、三人の足をすくった。<br />
その隙にスサノヲもエステルの元へと走った。<br />
もっとも奥にあるエステルの臥所に辿り着くまでに、カイたちが襲われているのに遭遇する。すでにヤコブは喉を切り裂かれ。そこで絶命していた。カイとシモンも、上からのしかかられ、今まさに剣を突き立てられようとするところだった。<br />
スサノヲは剣を振りかざす男に肩から猛然と当たり、二人まとめて吹っ飛ばした。<br />
「大丈夫か! 立て!」叫ぶ。<br />
寝こみを襲われてなす術もなかったカイらも、ようやく剣を手にして応戦する構えを見せた。そのとき戻ってきたモルデが叫んだ。<br />
「エステル様の幕屋ぞ! 貴様ら、何をやっているのかわかっているのか!」<br />
彼はエステルを連れていた。モルデの言葉とエステルの姿は、彼らにわずかな怯みを作った。<br />
「切り開くぞ!」<br />
言下にスサノヲは前に出た。後に続くカイたちには、スサノヲが何をやっているのか、ろくに見えなかっただろう。あまりにも動きが早く、彼が近づくたびに自動的に兵士たちがもんどりうって倒れて行くようにしか思えなかっただろう。脚で蹴り飛ばし、肘を入れ、剣の側面で打つ。<br />
幕屋を出た彼らが見たのは、そこに群がるカナンの民たちであった。<br />
皆、武装し、殺意をむき出しにしていた。<br />
その背後には、背高いヤイルの姿もあった。<br />
「乱心したか、ヤイル!」モルデが叫んだ。<br />
ヤイルの顔に傲然とした笑いが浮かんだ。「乱心はどちらかな」<br />
「なんだと」<br />
「困りますな、エステル様。王家の血筋と思えばこそ、お立てしてまいりましたのに。この期に及んで、兵たちを連れて半島に戻るなど、愚の骨頂。勝利は目前だというのに、兵たちの士気が下がりまする」<br />
カイたちの工作が気取られていたのだった。いや、多く者に声をかければ、ヤイルに伝わらないはずはない。もともとその危険は冒しての工作だったのだ。しかし、よもやヤイルがエステルに剣を向けるとは、だれも想像していなかったのである。<br />
スサノヲは考えが浅かったことに気づかされていた。半島に残している民は、ヤイルにとって重要な財産だ。人としての資源なのだ。もしエステルがそれを根こそぎ奪い、ヤマトへ移住してしまったら……。<br />
その想定がヤイルを暴挙に走らせたのだ。<br />
「神のご意志こそが絶対。それに背く者は、たとえ王であろうと罪は免れぬ。やれ!」<br />
ヤイルの号令と共に、雪崩を打って兵士たちは襲いかかってきた。<br />
その瞬間であった。エステルの蒼ざめた顔。モルデの叫び。カイやシモンの絶望。それらすべてがスサノヲの認識の中に飛び込んできて、一つ一つが鮮明な映像となって脳裏に焼き付いた。と同時、彼は悟っていた。<br />
――守るためだ。<br />
裂帛の気合いと共に、スサノヲの剣が振るわれた。〝気〟が高潮のように迸り、押し寄せる兵たちを打ち据え、跳ね除けた。<br />
<br />
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<br />
「こっちだ!」スサノヲは叫び、再び剣圧で活路を開いた。<br />
モルデ、エステル、カイ、シモンらは崩れた囲みの一角を風のように走り抜けた。彼らを先に行かせると、スサノヲは自らがしんがりに回った。<br />
度肝を抜かれた兵士たちが態勢を立て直し、追いすがろうとする。それを彼は止めた。目まぐるしく襲い掛かってくる剣を、槍を。<br />
「俺は守るためにここにいる!」息継ぎをする暇もないほどの攻防の中、スサノヲは叫んだ。「サルタヒコ! 俺は守ることに決めた!」<br />
ヤイルの号令で弓矢が放たれた。十を超える飛来する矢を、斜めに振り上げ、そして振り下ろす稲妻の如き太刀筋で薙ぎ払う。<br />
「文句あるまい!」<br />
かつてない熱いものが滾るのを感じた。自らに与えられた力――スサノヲはそれが何のためにあるのかを知った。いや、自ら決めたのだ。<br />
その答えは彼を満足させるものだった。生きてここにある。そのたった今の意味。<br />
命の使い方。<br />
そんな言葉のピースが、バラバラに飛んできて、彼の中でぴったり枠の中に収まった。<br />
――わたくしは決めてございます。<br />
――そのようなことは自分で決めよ。<br />
彼の脳裏にクシナーダと母・イナザミの言葉がよみがえっていた。<br />
<br />
「いよいよでございますな、サルタヒコ様」<br />
ウズメの言葉に、サルタヒコはうむとうなずいた。<br />
彼らは騒乱から離れた場所にある大きな松の梢にいた。そして、スサノヲの動きを見守っていた。俊敏な身のこなしは縦横無尽に変化し、敵の攻撃をことごとく退けた。<br />
「まっこと、猛々しい踊りじゃ」と、ウズメが感嘆する。<br />
「しかし、一人も殺しておらぬぞ」<br />
スサノヲはただ一人の敵も斬り捨ててはいなかった。巧妙な打撃を与えて、行動する力を奪っていく。<br />
「面白きやつ……」ウズメはくすくす笑った。<br />
<br />
雪がまた降り始めていた。<br />
<br />
5<br />
<br />
トリカミを発ったカガチは、見る影もないほど少なくなった軍勢を引き連れ、意宇(おう)を目指した。(現・松江市を中心とする地域)<br />
その地はちょうど中海と意宇の湖(おうのうみ)の結節点となっており、東から侵攻したタジマを中心とするオロチ軍は、中海沿岸のカナンを退け、現在はそこに陣を張っていた。しかし、不可解な勢いを取り戻したカナン軍によって、さらに西への侵攻は食い止められていた。指揮しているのは、カガチの腹心であるミカソだった。<br />
このミカソの本隊と合流するために、カガチは一度斐伊川に沿って北へ向かい、カナンの勢力圏に接近しすぎる前に北東へ進路を取った。意宇へ向かう道筋は、主に二つあったが、カナンの勢力から距離を置く東寄りのルートは山越えが険しく、やや迂回するものとなる。そのためカガチは、多少の危険はあっても、最短で意宇にたどり着く西寄りのルートを選んだ。<br />
ところが――。<br />
この道行は当初予想されたものより、はるかに厳しいものとなった。未明から降り始めた雪が、一行の足を阻んだのである。出立したころはさほどのものではなかった。が、たちまちそれは豪雪と言えるほどのものへと変貌し、視野と体力を奪い、足を取らせるものとなった。<br />
前新月の侵攻時の雪とはけた違いだった。山野はみるみる真っ白に染まり、分厚い積雪は川沿いの道のありかさえわからなくした。兵たちは足を滑らせ、深みにはまり、転び、ひどいときに川に落ちたり、斜面を滑り落ちたりした。<br />
ヨサミとアカルはそれぞれ輿に載せて運ばせていたが、カガチは彼女らのことを考慮して、一気に踏破することは避けた。峠を越える手前で一夜を明かすことに決め、山あいにあった集落に強制的に宿を求めた。<br />
<br />
そのカガチたちにやや遅れて、クシナーダたちも同じ道筋をたどっていた。ただしカガチたちに気取られぬために、川の対岸である西寄りの道を歩んでいた。そして、巫女たちにとってもそれは想像を絶する苦行を強いるものとなっていた。<br />
――ハハハ。<br />
女の狂ったような笑い声が、吹雪の音に混じって響いてくるように思える。それは、巫女たちにとっては錯覚などではなかった。その嬌声は跳梁するヨモツヒサメたちが放つものだ。この世を憎悪や破壊、死や絶望などによって塗りつぶしていく歓喜の笑いである。<br />
「いやな声……」ナツソが耳をふさぐようにして言った。<br />
他の巫女たちも同感の意を表したかっただろうが、今はそれどころではなかった。場所によっては膝まで埋まるような雪を押しのけ、あるいは雪に埋まった足を持ち上げ、降りしきる豪雪に視野もろくに得られない山道を歩く消耗はただならのものがあった。<br />
体力は根こそぎ奪われ、冷え切った身体が動くことさえ拒み始める。老体のナオヒはニギヒの配下の屈強な男たちが交替で背負っているが、彼らでさえ音を上げたいという想いが顔色に見え始めた。<br />
「カガチたちはこの先の集落で一夜を明かす様子だ」という知らせを持ってニギヒの配下のひとりが戻ってきたとき、クシナーダは一同を近くの杜(もり)に誘(いざな)った。<br />
その辺一帯は、比較的なだらかな丘陵が目立つ地帯で、その谷間に集落があった。むろん集落はカガチたちが宿として強制使用したため、近づくことはできない。クシナーダが導いたのは、その集落の民たちが神域としている杜だった。<br />
「ここは……トリカミ周辺にある聖域の一つです。ここならば、ヨモツヒサメたちもよりつけませんから……安全です」<br />
到着したとき、クシナーダも説明するのがやっとという状態だった。<br />
杜には小屋があり、そこには薪なども常備されていた。岩戸の聖域がそうであったように、トリカミ周辺にはこのような場所が至る所にあった。<br />
イタケルとオシヲ、スクナ、それにニギヒとその配下たちを加え、総勢で二十名ほど。火が燃やされ、狭い小屋の中に人がすし詰めになると、それだけで生き返ったような心地に誰もがなった。事前にイタケルたちがトリカミから持ち出していた食料が調理され、出来上がるころにイズミが思い出したように言った。<br />
「あのカーラという男は、無事にコジマの陣に辿りつけただろうか……」<br />
それは独り言のような呟きだったが、そばにいたアナトが応えた。<br />
「きっと、大丈夫です」<br />
イスズという絶対的な主人を失ったカーラは、彼女の最後の命に従い、アナトの従者となった。キビの人質たちを救出するためには、ナツソが巫女として立つコジマ水軍にじかに連絡を取らねばならなかった。そのことを言い含め、アナトはカーラを送り出したのだ。<br />
「わたしたちはもう後戻りはできませんね」ナツソが自分の身を抱くようにして言った。「わかってはいるのですが、とても怖いです」<br />
沈黙が落ちた。その重さを払うように、イタケルがわざとらしい大きな声を上げた。<br />
「さあ、栗が焼けたぜ! 食おうぜ!」<br />
「皆さん、頂きましょう」と、クシナーダが言った。<br />
カガチが傷病兵以外、何も残さぬ状態でトリカミを発った以上、巫女たちはトリカミに戻ることさえ可能だった。しかし、彼女たちはそうせず、距離を置いてカガチたちの後を追った。<br />
それは巫女たちがトリカミでの軟禁状態を抜け出すと決めた直後、申し合わされていた行動だった。<br />
「クシナーダ様、一つお伺いしてよろしいでしょうか」アナトが言った。<br />
「はい。なんでしょうか」<br />
「アカル様が申されていたようなこと……本当に可能なのでしょうか」<br />
「わかりません。アシナヅチ様からも、そのようなことは聞かされたことがありません」<br />
「そうですか……」<br />
「ただ、カガチをなんとかしなければこの戦は終わりません。それは明らかなこと。であれば、今はアカル様のお言葉を信じて、わたくしたちはどこまでもアカル様のお力になるしかないと思います」<br />
「それはもちろん。――ね、みんな」アナトは同じキビの巫女たちを振り返った。<br />
キビの若い巫女たちは、みな、うなずいた。そして焼き栗をほおばりながらナオヒが続けた。<br />
「憎しみ合い、争いを続けたまま、浄化することはできぬ。まずは争いを止めることじゃ。その上でなければ、〝黄泉返し〟などとうてい行えぬ」<br />
「ヨモツヒサメをヨミに返す業ですね」シキが言った。「それはどのようなものなのでしょう。わたしたちも話に聞くだけで、一度もそれを目にしたことはありません」<br />
「むろんじゃ。わしとて代々の語り草として話に聞くだけ。それは岩戸を守ってきたトリカミの民とて同じじゃろうが……しかし、クシナーダはわかっておるのではないか」<br />
ナオヒの視線を受け、クシナーダはうなずいた。<br />
「皆様もよくご存じのことと思いますが、わたしくしたちは歌と踊りという〝マツリ〟で〝体験〟を伝えてきた民です。〝マツリ〟には型があります。その型を演じることで、わたくしたちは過去の先人たちの体験も実感することができます」<br />
「そういう感覚を抱くことはわたしたちにもあります」シキが言った。「ですが、それはとてもおぼろなもの。たぶん、ここにいるだれも、クシナーダ様と同じような体験ができていないと思うのです」<br />
「うむ。この老いぼれでさえ、〝黄泉返し〟のことはよくわかっておらぬ。話してやってはくれぬか」<br />
巫女たちのみならず、熱い視線がクシナーダに集まった。<br />
「アシナヅチ様から伝え聞いたことと、わたくしが遠い過去の出来事から受けた印象をつなぎ合わせますと……たぶん、一万年ほどの昔、ヨモツヒサメは世に出ています。大きな時代の節目であったと感じます。その当時、地上にはわたくしたちには想像もつかないような文明が繁栄していましたが、その爛熟期にヨモツヒサメはやはり悪意あるものの扇動によって、世に放たれたようです。そしてその文明は滅びました。今は沿岸の海になっているところの多くは陸地でした。ところが、巨大な水をもたらす星が迫り、洪水が起き、ほとんどの都市は水没してしまいました。かろうじて生き残った人々が、この島国にも逃れ、そして一部の叡智ある人たちが真(まこと)の道を伝えてきたのです。それは共に生きる道です」<br />
そのとてつもないスケールの物語に、一同は引きこまれた。巫女たちだけではない。スクナや、他の男たちも残らず聞き入っていた。<br />
「その時代、やはりわたくしたちと同じような巫女たちがいました。そして巫女たちの核となってくれる存在がいました。その核となる者と巫女たちの力によって、〝黄泉返し〟が行われたのです」<br />
「その核となる者とは……スサノヲか?」<br />
ナオヒの言葉にクシナーダは大きくうなずいた。イタケル、オシヲ、スクナ、そしてニギヒらも衝撃を受けた。<br />
「正確にはその時代に存在したスサノヲ様です。今のあのお方そのものではありません。ですが、おそらくスサノヲの〝力〟は、時代の節目に世界を死と再生に導くためのもので、常に二面性があるのです」<br />
「二面性?」シキは強く関心をそそられているようだった。<br />
「破壊と創造です」<br />
その言葉は、アナトはすでにクシナーダから聞かされていたものだったが、多くの者に衝撃を与えた。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
「スサノヲは常にヨミの扉を開く者であり、そしてそこから再生を促す者なのです。ですから、現に今のこの時も、スサノヲがヨミへ行くということがきっかけになって、ヨモツヒサメが世に出てしまったのです。ですが、その責はスサノヲにあるのではありません。スサノヲは単に役目を果たしているにすぎません。いえ、むしろヨモツヒサメがこの世に出現するのは、この世界がいかに澱を積み重ねてきたかということに関わっています。たとえば、この水……」<br />
クシナーダは眼でナオヒの許可を得て、彼女の器を手に取り、そしてそこに足元の土をかき集めて入れた。その濁った水を自分の器に注いだ。すぐに水は溢れ、こぼれ出た。しかし、その時はまだ水は上澄みのきれいなものだった。次にクシナーダはアナトの器も同様に濁らせ、注いだ。やがて濁った水が溢れてきた。<br />
「ヨモツヒサメが世に出るということは、このようなものなのです。わたくしたち人間が自分だけの想いにとらわれていれば、憎しみや悲しみ、怒りや絶望、虚無といった澱が蓄積され、やがてこの地に蓄えられる器を超えて溢れ出してきます。今がその時だったのです。スサノヲはそのような時に現れるのです」<br />
「この世を壊すために現れるのですか」蒼ざめたような声で言ったのはナツソだった。<br />
「いや、そうではない」と、理性的な声音で言ったのはイズミだった。「つまりそれは……風を入れるためということでしょうか。カビの生えてしまった家の中に、風を入れて良い状態にするために」<br />
パッとクシナーダは大きく目を開いた。「それは、とてもよいたとえです。イズミ様はとても理に優れたお方ですね」<br />
イズミは戸惑い、赤らんだような顔になった。<br />
「そうなのです。わたくしたちの澱が淀み、淀んだものが増え、器を溢れ出してしまうとき、スサノヲはその澱を取り除くためにも現れるのです。ですが、澱を取り除くためには、それと一度、正面から向き合わねばなりません。このように……」<br />
クシナーダは自分の器に残った泥を見て、そして器を傾け、それを足元に落とし、指でも掻き出した。<br />
「澱をきれいにしてしまうには、新しいきれいな水をまた注ぎ――」すでに意を察したシキから器を受け取り、その水を泥の少なくなった器に注ぎ、また流した。「こうしたことを繰り返さねばなりません。それはじつは、わたくしたち一人一人がなさねばならないことなのです。わたくしたち個人の想いは、ちっぽけなようでいて、じつは世界の命運を作り出しているのです」<br />
「スサノヲはそのための力になってくれるということでしょうか」ナツソはまだ用心しながらという風情で尋ねた。<br />
「はい。わたくしたち巫女は、ものを受容する力には長けていますが、苦手なこともあります」<br />
「取り除くこと?」と、イズミ。<br />
「はい。押し出す力というのか、対抗する力というのか……わたくしたち巫女の本質は、そのようにできておりません。陰と陽の力が合わさることで、ようやく〝黄泉返し〟は可能になります」<br />
「具体的には何をすればよろしいのでしょうか」と、イズミ。<br />
「おそらく……これを成し遂げるためには、スサノヲ以外に、最低でも八人の巫女と勾玉が必要です。それも胆力の備わった、強い霊力を持つ巫女です」<br />
「八人……」ショックを受け、イズミはすぐ落胆するような表情になった。「しかも霊力に優れた巫女となると……」<br />
「イズミ様」<br />
「は、はい……」<br />
「あなた様は十分にその力をお持ちです。アナト様や、他の巫女様と自分を比較なさらないことです」<br />
「え……はい」イズミはと胸を突かれたようになった。<br />
「クシナーダ様、今ここには巫女が六人しかおりません」と、頭数を数えていたシキが言った。「〝黄泉返し〟を行うには数が……アカル様を入れても七人です」<br />
「皆さん、誰かお忘れではないですか」<br />
はっとしてアナトが声を上げた。「ヨサミ?!」<br />
「え……でも……」ナツソが戸惑ったように言い、キビの巫女たちは顔を見合わせた。誰もがわかっている周知の事実があるからだった。そして、言いにくいことをイズミが代弁した。<br />
「クシナーダ様……。ヨサミ様はもう巫女としての力も資格も失っております。トリカミの里の他の巫女の方では……」<br />
クシナーダは首を振った。「ミツハが生きていれば、きっとお役目を果たせたはず……。けれど、残っているトリカミの巫女たちは、いずれも若すぎます。胆力ということを申し上げましたが、皆さんはこの今の事態を受け止め、乗り越えようとなさっています。その意志こそが重要なのです。トリカミに今残されている巫女たちは、あまりにも未熟すぎますし、まったく準備ができておりません」<br />
「しかし、ヨサミ様はもう霊力をほとんど失っておりますし、今のままではとても協力してくれるとは……」<br />
クシナーダはそれには応えず、アナトを見た。ヨサミともっとも近しい間柄であるアナトを。その視線を受けたアナトは拳を両ひざの上で握り固めた。<br />
「……この頃、昔のことをよく思い出します」<br />
誰も口を挟まず、アナトの言葉に耳を傾けた。<br />
「キビの皆は周知のことですが……わたしとヨサミは幼馴染です。カヤとアゾは隣国として、古くから深い交流を持ってきました。わたしたちはよく国を行き来していました。たしかあれは……わたしたちが九つくらいの頃だったと思います。ちょうど今ぐらいの季節でした。コジマからナツソ様がアゾに見えられ、わたしは一緒に年初めの神事に使う曲を考えていました」<br />
ナツソはアナトの言葉を受け、はっと思い出したような表情になった。<br />
「そのときヨサミが、ご両親と共にアゾにやって来ました。ヨサミといつものように過ごせればよかったのですが、わたしはその頃からやがては国をまとめる巫女として立つように、周囲から求められていて、その……余裕がなかったのです。とくに両親の期待に応えねばと、ヨサミと一緒に遊んだり、お話をしたりすることよりも、立派な巫女になることのほうを選んでしまっていたのです」<br />
クシナーダは静かな表情で耳を傾けていた。<br />
「ナツソ様と曲作りに没頭しているわたしを見て、ヨサミはきっと寂しかったのでしょう。アゾにいる間にいなくなってしまい、大騒ぎになりました。わたしもそれを聞いて慌てて、ヨサミのことを探し回りました。そのときには……」アナトは頭(かぶり)を振った。「いつもはあれほど当てにしていた霊感も働かなくて、ヨサミをどうしても見つけられないのです。だけど、少し時間がたち、当たり前のことを考えました。ヨサミはわたしと遊びたかっただけ。なら、いつも遊んでいたアゾの中州にいるのではないか……。行ってみたら、ヨサミが岩の陰で泣いていました。そして……」<br />
――どうしてもっと早く見つけてくれないの!<br />
「……だけど、ヨサミはそう言いながら、わたしに抱きついてきました。あのときのことが、なぜか今、思い出されてならないのです」<br />
そのとき、小屋の扉が激しく音を立てた。吹雪の風が扉を叩いたのかと思われたが、そうでなかった。<br />
小屋の扉を打ち、こじ開けようとしているのは人間の手だった。男たちは敏感に反応し、一斉に立ち上がった。イタケルとニギヒはいち早く剣を抜いた。<br />
戸口の隙間に覗いた顔は、彼らを驚かせた。それはモルデであり、彼が支えているのはエステルだった。<br />
モルデはそこにいる顔ぶれを見て戸惑いと落胆を表情に浮かばせた。とりわけキビの巫女たちの顔を確認し、おそらくはここがカガチの息のかかった勢力の一部と接触してしまったと思い込んだのだろう。だが、イタケルやオシヲ、ニギヒの顔を見て、逡巡の箍(たが)が外れた。<br />
「スサノヲ様を助けてあげてくれ!」<br />
「なに?」イタケルが気色ばんだ。<br />
「独りで追手と戦っている! スサノヲ様は怪我をしていて……あのままでは、いかにスサノヲ様でも!」<br />
男たちは小屋を飛び出した。逆に精根尽き果てたように、モルデとエステルはその場に崩れ落ちた。その二人を飛び越えるようにして外に出たのはクシナーダだった。<br />
「スサノヲ!」クシナーダは吹雪の中、叫んだ。<br />
すでに夕闇が濃くなっていた。視野はほとんど利かない状態だが、クシナーダの耳は超常的な能力で剣の響きを聞きつけていた。走り出す。<br />
「クシナーダ様!」<br />
背後の男たちの声は吹雪の中に埋没する。クシナーダは元来た道を走った。途中から雪をかき分けるようにして斜面を這い上がっていく。<br />
男たちの喚き声が聞こえた。なおいっそう、剣戟の響きが強く耳朶を打つ。<br />
クシナーダはそこに見た。斜面を駆け下りてくるスサノヲと、彼に迫るカナンの兵士たちを。<br />
「スサノヲ!」<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
吹雪を貫いて、クシナーダの叫びが届いた。スサノヲが振り向くのが、横殴りに降りしきる雪の中、見えた。<br />
次の瞬間、クシナーダは「あッ」と声を上げた。柔らかい雪を踏みしめていた足が滑り出し、止まらなくなったのだ。彼女は手をスサノヲに差しのべながら、ついた勢いを止めることもできず、滑落した。<br />
そして、気が付いたときには身体が宙を舞っていた。<br />
眼下は川だった。<br />
凍りつくような水が、衝撃と共に全身に突き刺さった。<br />
<div>
<br /></div>
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<br /></div>
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<br /></div>
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1<br />
<br />
自分一人で逃げるのなら、たやすいことだった。が、とくに身重のエステルは折からの豪雪もあり、行動が鈍かった。まる一昼夜、いくつかの山野を越え、彼女らの逃亡を助けるため、常にスサノヲはしんがりで敵を撃退し続けなければならなかった。<br />
たった五人の逃亡者を討つために、ヤイルは百を超える追手を波状的に放ったようだった。かつては主君と仰いだ人物を殺害せしめるための強い決意がそこには現れていた。<br />
成行き的な進路でしかなかったが、エステルたちは東へ逃げた。そしてスサノヲはほとんど休む間もなく、彼女たちを守るために闘い続けた。むろん降りしきる雪と寒さが体力を奪ったということもあっただろうが、それ以上にヨモツヒサメから与えられたダメージが、じわじわと傷口を広げるように彼の力を奪って行った。<br />
相手をことごとく斬り捨ててしまうのなら、いっそそのほうが楽だったろう。あるいはそうしていれば、圧倒的なスサノヲの力を思い知り、ヤイルも追撃を思いとどまった可能性もあったのかもしれない。<br />
が――。<br />
クシナーダは喜ぶまい、と思った。その考えは、彼自身、奇異なものだった。身を守ること以外、スサノヲも好んで人を斬ったことなどなかった。地上に降りた瞬間から、自分と常人との間にはあまりにも不公平な力の差があることを知った。そのため、あまりにも脆い命である人を斬るつもりにもなれなかった。だから、大陸を踏破してくるときも、害をなす者でさえ特別な理由がない限り適当にあしらってきた。<br />
今殺さないのは、その時の理由とは根本的に違っていた。<br />
クシナーダの顔が浮かび、その意識の中での彼女が殺すことを善しとしないからだった。そう言われたわけではない。ただ、それが伝わってきて、わかるのだ。<br />
相手を動けなくさせるだけの加減をするのは、ただ斬るよりよほど神経を使う作業だった。自分でも馬鹿ばかしいことをしていると思いながら、それでもスサノヲは心の中にいる彼女の反応に従っていた。<br />
そうすることが、なぜか心地よかった。<br />
と同時に、そうすることで彼は次第に窮地に追い詰められていた。おそらくこの山を越え、そして南西へ進路を取ればトリカミへたどり着けるだろうという、その峠を越えたあたりでとてつもない脱力感に見舞われ始めた。<br />
――やせ我慢もここが限界か。<br />
山の斜面を駆け下り、さらに追ってくるカナン兵を引きつけながら、スサノヲが思ったときだった。<br />
「スサノヲ!」<br />
その声が降りしきりる雪を、ふっと断ち割ったように思えた。その隙間にクシナーダの顔と、彼女の赤い衣が見えた。だが、次の瞬間、彼女の身体が倒れ、山の斜面を滑り落ちるところで、視野が吹雪に塗りつぶされた。<br />
「クシナーダ――!」<br />
彼女のほうを見ながら、スサノヲはカナン兵が打ち下ろしていく剣と槍を、次々に弾き返した。<br />
「邪魔をするな!」<br />
瞬間的に湧いた怒りが彼に力を回復させた。彼の振った剣が、見えない刃となって、山の斜面を這い上がった。その流れに沿って、十数本の樹木が揺らぎ、降り積もった雪を降らせ、しばし視野は完全に真っ白になった。<br />
その隙を見て、スサノヲはクシナーダのいたほうへ走った。いまだ生々しい滑落の後が残っていた。辿って行けば、斜面に突き出した岩の上を通り抜け、その先は真っ白な宙だった……。<br />
岩のすぐそばに小ぶりな滝があり、流れ落ちていた。その滝の音と川の流れる音が、吹雪に混じって聞こえる。が、視野が利かず、どれくらいの高さなのかも見えない。<br />
スサノヲは剣を収め、迷わず飛んだ。自由落下の時間は長かった。足が水に落ちたのを感じた後、おそらくそこが滝壺だったのだろう、しばらく水の中を潜った。濡れた衣や剣の重さに抗い、水中から浮上する。恐ろしいまでの冷たさだった。老人だったら、その一瞬でショック死したかもしれない。<br />
冷たいというよりも痛い。そして手足の感覚もすぐになくなった。指や足も、ただ自分の身体とつながっている棒のような一部としか思えなくなった。<br />
「クシナーダ!」<br />
ざぶざぶと歩きながら、スサノヲは何度も叫んだ。吹雪のため声もろくに通らず、視野も利かなかった。探そうにも何も見えないのだ。<br />
スサノヲはあてどもなく歩き回り、呼び続けた。焦りが全身をさらに冷やした。見つけることのできないこの一分一秒ごとにクシナーダの命が失われていく予感が強くした。<br />
「サルタヒコ! クシナーダはどこだ! 教えろ!」焦りが次第に憤りに変わり、スサノヲは怒鳴った。「俺を助けたように、クシナーダを助けてくれ! 頼む! 頼む!」<br />
スサノヲは川の中で両手をついた。全身が震えていたが、その震えが寒さのためなのか、それとも恐怖のためなのか、区別がつかなかった。だが、吹雪の大音量以外、返答などなかった。<br />
「くそッ!」<br />
スサノヲは立ち上がり、またやみくもに歩き出した。そして、はたと自分が間違った選択をしていることに気付いた。吹雪で奪われた視野のため、彼はいつしか川上へ向かっていたのだ。川の流れはかなり強い。<br />
反転する。そして川の流れだけを見て歩いた。<br />
そのとき、ふっと吹雪の勢いが弱まった。まるで台風の目にでも入ったように、視野を塗り潰していた真っ白な降雪が開かれ、その隙間に赤い色が見えた。<br />
「クシナーダ!」張り裂けるほど叫んだ。そして走った。<br />
彼女は滝壺から流され、大きな岩場の間で止まっていた。半ば水につかった横顔は、白いという表現以上に血の気のないものだった。<br />
「クシナーダ!」呼びかけ、彼女の頬を叩いた。<br />
だが、意識は戻らなかった。かろうじて、呼吸があることは分かったが、もはや死人と変わらぬような状態に思えた。<br />
<br />
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<br />
スサノヲは彼女を水の中から抱き上げた。彼女の衣から流れ落ちる水は、そのまま氷柱になってしまうのではないかさえ思えた。<br />
彼女の安全を確保するために、スサノヲは本能的に落ちてきた場所とは対岸に向かった。川の東側の河原に入り、登れる場所を探し、道があるところまでたどり着こうとした。だが深い雪のためにそれは何度も失敗した。ようやく彼女を抱きかかえたまま、川沿いの小道に登ったときには、彼自身、もはやこのまま死ぬのではないかと思えるほど消耗していた。一度、彼女を下におろした。<br />
「クシナーダ……」あえぎながら呼びかける。<br />
彼女からは何の返答もなく、真っ白な顔はさらに蒼ざめていくようだった。<br />
気力を振り絞り、スサノヲは彼女を抱き上げた。どこか暖を取れるところを探さねばならなかった。<br />
吹雪は少し弱まって来ていた。そのおかげで目の前に真っ白な小山が聳えるようにかすかに見えた。濃くなった夕闇の中、そこに小さな光が一つ、灯っているように思えた。<br />
人が住んでいることを祈りながら、彼は歩き続けた。喉が焼けるようだった。ずぶ濡れで、全身冷え切っていたが、なぜ熱いように思えた。それも錯覚かもしれなかった。<br />
小山の裾に雪におおわれた巨岩が並んでいた。その間を彼は通り抜け、細い山道を登った。雪に覆われてはいたが、その下に石段のようなものが組まれている個所もあった。明らかに人の手が入った道だったが、スサノヲは幾度もその坂で足をもつれさせ、転びそうになった。<br />
登りきった場所は、ワの民の祭祀場の一つだった。大きな磐座があり、しめ縄が張られていた。その脇にクシナーダたちが使っていたのと同じような小屋があった。人がいる気配はなかった。さっき見えた光のようなものはなんだったのかと疑うよりも、スサノヲはその小屋の中へクシナーダを運び込んだ。<br />
岩戸の祭祀場にあった小屋と同じく、そこには薪なども常備されていた。それに秋に収穫された稲の藁が奥に山積みにされていた。クシナーダを藁の上に横たえると、スサノヲは火打石を探し出した。震える手でそれを打ち、藁に火を移し、小枝や薪を組み合わせ、火を大きくした。<br />
クシナーダのところに戻った。呼びかけるが、意識は戻らない。スサノヲは胸に耳を押し当てたが、心臓の鼓動は探すのを苦労するほど弱く思えた。<br />
わずかに逡巡したが、彼はクシナーダのずぶ濡れの衣を脱がした。美しい玉のような裸身があらわになる。脱いだ自分の衣を絞り、彼女の身体を拭いた。そして奥にあった藁を引っ張り出し、寝床のようなものを作った。自分も全裸のまま、彼女の身体を抱きかかえ、そして藁で自分たちの身のまわりを覆うようにした。<br />
自分自身、体温が下がってしまっていたが、それでも抱きしめるクシナーダの身体の方が断然冷たく感じられた。彼は休む間もなく、彼女の身体を、手を足を、さすり続けた。<br />
「頼む……生きてくれ。頼む」<br />
祈るようにつぶやきながら、彼はずっとさすり続けた。火が衰えないよう、時折藁床を抜け出し、薪を燃やし、そしてまた戻り、互いの体温で暖を取るということを繰り返した。やがて、わずかながら身体が温められる感覚が生じてきた。クシナーダの手足にも血の気が戻ってきたように思えた。<br />
いつしか吹雪は止んでいた。小屋の隙間から吹き込んでくる風も、嘘のようにぴたりと止まって思えた。<br />
長い夜だった。<br />
静寂の中、スサノヲはクシナーダを抱き続けていた。そして、小屋の隙間に黎明の明るさが確認されるようになるころ……。<br />
「う……うん」と、小さくクシナーダが彼の腕の中で声を漏らした。<br />
はっとしてスサノヲは、彼女の顔を見ようとした。<br />
薄く開いた彼女の眼が、そこにあった。<br />
「スサノヲ……」<br />
「よかった……よかった!」スサノヲは彼女を強く抱きしめた。<br />
あ……と抱きすくめられながら、クシナーダは今の状況を漠然と察したようだった。互いに一糸まとわぬ姿のまま、肌を接していることに。<br />
「わたくし……川に落ちて……」<br />
「ああ、でも、もう大丈夫だ。あ、いや」スサノヲは彼女の身を少し離した。「大丈夫か。どこか痛いところはないか」<br />
「あ……」彼女は恥じらうように目を泳がせ、胸の前で手をかき合わせ、みるみる頬を紅潮させた。「たぶん……はい。大丈夫です。どこも痛くない……」<br />
「よかった……。そなたが死んだら俺は……」<br />
ふいにクシナーダは覚悟が定まったように眼を上げ、二人は見つめ合った。<br />
目合(まぐわい)が生じた。二人の間に甘く痺れるような霊的な交感が通い合い、自然と口づけを交わした。胸を隠していたクシナーダの手がほどかれ、彼の胸板に、そして腕に回された。<br />
「あたたかい……」口づけの合間にクシナーダが洩らした。「嬉しい……」<br />
二人はさらに深い口づけを交わし合った。手が互いの身体を求め合った。<br />
もう二人を止めるものは何もなくなっていた。彼らの間には、隔てるものは何もなかった。<br />
愛おしい、とスサノヲは思った。これほど他人に深い愛情を感じたことは一度もなかった。その想いがそのまま彼の愛撫となった。手が、唇が、あらゆるところを這いまわり、クシナーダは全身でそれに応えた。<br />
長い時を待ち焦がれた存在同士がようやく一つになれる。その悦びが二人を貫き、その中で二人は身も心も互いに溶けて混ざり合った。<br />
「あなにやし……えをとめを」<br />
スサノヲは自分が彼女の中に埋没して、自分がなくなるような心地の中、彼女の眼を見つめて言った。<br />
「あなにやし……えをとこを」<br />
クシナーダは自分のすべてで彼を受け入れながら、同じように眼を見て応えた。<br />
<br />
そうして二人は、一つになった。<br />
<br />
<br />
鳥の鳴き声が聞こえた。<br />
朝の光があたりに満ちているのが戸板の隙間に見えた。<br />
<br />
二人はこれ以上はないというほどの深い快楽(けらく)の余韻の中で、無限に引き延ばされたような時間を過ごしていた。<br />
「このままがいい……」クシナーダはスサノヲの胸元で囁いた。<br />
「うむ」と返しながら、スサノヲは、しかし、現実の時が自分たちの元に戻ってきたのを感じていた。彼女の背を愛撫しながら、わずかに身を起こそうとして、気づいたことがあった。<br />
「どうなさったのですか」クシナーダは彼の戸惑いを察して顔を上げた。<br />
スサノヲは自分の胸元を見ていた。ヨモツヒサメから受けた傷が、跡形もなくなっていた。傷みもまったくなかった。<br />
「癒えている……」<br />
不思議な現象だった。スサノヲは本来、多少の怪我ならすぐに治癒してしまう肉体を持っていた。しかし、ヨモツヒサメに受けたダメージだけはいつまでも残りつづけ、彼を苦しめていた。<br />
どうやっても拭い去れない汚れが、きれいに洗い清められてしまったかのようだった。<br />
二人は甘い時を惜しみつつ、衣を身に付けた。焚火のそばに置いてあったので、あらかた乾いてしまっていた。<br />
「戻ろうか、皆のところへ」<br />
スサノヲはそう言い、クシナーダは「はい」といつものように応えた。<br />
小屋の戸板を動かし、二人は外に出た。小山の上から見下ろす風景は幻想的だった。<br />
真っ白な山々の裾野には、雲海が溜まり、ずっと広がっていた。そこに朝陽が当たり、輝くようであり、さらにその上空に目を奪われるほど鮮やかな虹がかかっていた。<br />
「なんと清々しい……」<br />
スサノヲはつぶやき、彼女に手を差し伸べた。その手を取り、クシナーダは微笑を浮かべた。<br />
<br />
<br />
2<br />
<br />
クシナーダを抱いて川を渡っていると、「あっ」という甲高い声が対岸から響いた。蔓などを器用に使って山肌を下りてきたのはスクナとオシヲだった。スサノヲは渡りきったところで、抱きかかえていたクシナーダを下ろした。<br />
「クシナーダ様、ご無事で……スサノヲが一緒だったんだね」<br />
二人は心底安堵したという表情で二人を迎えた。一緒に河原を歩いて行きながら尋ねる。<br />
「他の者たちは?」<br />
「イタケルやニギヒ様は、他の巫女様たちと一緒。それに今、あのカナンのエステル様たちも一緒になって」スクナが答えた。<br />
「そうか。追手からうまく逃げ延びたのだな」<br />
「ニギヒ様たちが追いかけてきたカナン兵を撃退したから」<br />
エステルたちの逃走経路が、たまたまクシナーダたちの進路と交わったのは僥倖というべきだった。豪雪によって足を止められなければ、こうはならなかったに違いない。<br />
「スサノヲ……」<br />
オシヲに呼ばれ、スサノヲは横を歩く少年を見た。<br />
「俺……ミツハに褒められるように頑張った」<br />
「そうか」スサノヲは眼を細めた。そして少年の肩に手を回した。<br />
<br />
帰還したクシナーダとスサノヲを、アナトたちキビの巫女たちは眼を見張って迎えた。<br />
彼女たちはスサノヲを見るのは初めてだったが、一瞥で心を奪われていた。彼にというよりも、彼とクシナーダ二人そろっての存在に魅了されたかのようになった。<br />
二人の存在はさして交わす言葉もない中で、まるでオーラが重なり合って柔らかな光を放つようだった。たぐい稀な絆で結ばれた者同士の静かな信頼の気配が満ちており、その姿にはある種の息苦しいような妬ましさを感じた。しかし、その感情以上の憧憬さえも覚えるのだった。<br />
勘の鋭い巫女たちは、二人に愛し合う者だけが持つ共鳴のヒビキを感じ、それが自分たちさえも癒すという事実に驚かされるのだった。ワの民の斎場の広場には多くの者が集まっていたが、二人がその場に入るのと共に場所の空気がさらに清浄なものへと変わるのに気づいていた。<br />
その瞬間、彼女らは初対面のスサノヲと何の言葉を交わすこともなく、彼の存在をクシナーダとセットで受け入れたのだった。<br />
「スサノヲ……。よく無事で」<br />
エステルの言葉にスサノヲはうなずいた。モルデの他、カイ、シモンらも無事にたどり着いていた。<br />
そこへちょうど、ニギヒの配下の一人が戻ってきた。<br />
「どうだ」と、ニギヒが尋ねる。<br />
「カガチが動き始めました。意宇へ向かうものと思われます」と、配下が答えた。<br />
「少し時を置いて、わたくしたちも後を追いましょう」と、クシナーダ。<br />
「その必要があるのだな」と、スサノヲは尋ねた。<br />
「はい」<br />
「説明してくれるか」<br />
「ヨミから放たれたヨモツヒサメを浄化する〝黄泉返し〟を行わねばなりません。そうしなければこの世は滅びます。そのためには八人の巫女と、スサノヲ、あなたが必要です。しかし、先に争いを止めなければ、そのようなことはできません。タジマの巫女であるアカル様が、カガチを止めるためにそのそばに残っております。その時が来たら、わたくしたちは全力でアカル様をお助けしなければなりませんが、そのためにはわたくしたちが自由の身でいること、そして事があったときにアカル様をお助けできるおそばにいる必要があるのです」<br />
「そのためにカガチを追うのだな」<br />
「はい。まずはカガチを鎮めなければなりません」<br />
「カガチは俺の剣を持っている。常人には持つこともかなわぬ〝力〟を持つ剣だ」<br />
「やはり、そうでしたか。その〝力〟にカガチは取り込まれて、鬼と化したのでしょう」<br />
「そのようなものを鎮めることができるのか」<br />
「わたくしはアカル様を信じます」<br />
「ならば俺も信じよう。俺は何をしたらよい」<br />
「その時が来たら、カガチの動きを止めてください」<br />
「承知した」<br />
スサノヲは疑問こそ提示したが、他は少しの異論も挟まず、クシナーダたちの提案を受け入れていた。<br />
「だが、カナンにも問題がある。エステルたちはそのイスズという巫女の提案を受け入れたが、ヤイルという男が今、カナン軍を牛耳っている。ヤイルは予言者らしい」<br />
スサノヲの言葉を受け、クシナーダはエステルの方を振り返った。そして、その瞬間に「あらっ」というように目を丸くした。<br />
「ヤイルは先の洪水を予言し、カガチの軍が壊滅することを的中させた」エステルはやつれた顔に苦渋をにじませていた。「今はオロチの連合軍が分裂し、仲間割れすると公言している。五つの地のキビも互いに憎しみ合うようになると」<br />
その言葉にはっとなったのは、キビの巫女たちだった。<br />
「まさか……」と青ざめたのは、コジマの巫女、ナツソだった。「あのことを……」<br />
<br />
<br />
ちょうどその頃――。<br />
意宇の湖に近いコジマ水軍の陣に急報がもたらされていた。<br />
「タジマの水軍が攻めてきました!」<br />
カーラはコジマの本陣の中、指揮官のそばでその報せを聞いていた。彼がもたらした人質となっているキビの家族救出のナツソからの密命。それに沿って、計画が練られている最中のことだった。<br />
「どういうことだ!」コジマの指揮官は顔色を失って叫んだ。<br />
「わかりません! ただ……」<br />
「ただ?!」<br />
「タジマは我らが反乱を起こしたと……」<br />
指揮官は絶句し、カーラを振り返った。その瞬間、カーラは人質救出の企てが、根底から崩壊する予感を味わった。<br />
<br />
<br />
「そのお話が本当なら、ヤイルという方は予言者としてのお力をお持ちなのかもしれません」クシナーダはむしろそっと言った。「人には多かれ少なかれ、動物と同じように危機を察知する能力があります。洪水を予知したのは事実かもしれませんが、このような時にもっとも危惧すべきなのは、その方が予言の成就に固執することです」<br />
「固執?」エステルが尋ねた。<br />
「じつは危機的なことを予知することのほうが簡単なのです。出方も際立っていますし、気配もあります。本当に難しいのは、善き未来を提示することなのです」<br />
「善き未来……」<br />
「それは本当の意味での叡智なくしてはかないません。この世が滅びるという予言者は、かつて多く存在します。そうではありませんか、エステル様」<br />
「たしかに……。我が一族にも名だたる予言者はそれを伝えてきた」<br />
「それはたしかに神の如き眼で見たものもあったかもしれません。しかし、人は必ず自分個人の想いによって、その見たものを歪めてしまうものです。どのような貴い人であれ、それをまったくゼロにはできない。真っ白ではないのです」<br />
「真っ白ではない……? どういうことだ? 予言者は神の言葉や神の見せてくれたものを我らに伝えているはず」<br />
「たとえば……このわたくしです」<br />
「え?」<br />
「正直に申し上げます。わたくしは、じつは皆さんの半分くらいしか、色が見えておりません」<br />
その告白は、巫女たちだけではなく、イタケルやオシヲらにも衝撃をもたらした。<br />
<br />
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<br />
「色が識別しにくい眼なのです。皆さんの感じておられる赤や青、緑や黄、紫……そのような色合いが、わたくしの眼にははっきりと判別しにくいものがあるのです。でも、わたくしの眼にはそれがわたくしの知る世界なのです。わたくしの眼がもっと問題があるものであれば、もしかしたら白と黒しかわからないかもしれません。皆さんと同じものを見ていても、わたくしには違って見える。でも、それがわたくしの見ている世界なのです。が、じつは人それぞれに同じ色でも見るヒビキが違うのです」<br />
静まり返った。<br />
「見る人によって違う……」エステルが呟いた。<br />
「わたくしは感応する力で、人それぞれが受け取っている赤をヒビキとして感じることができます。だからわかるのです。同じ赤でも、エステル様の見る赤とスサノヲが見る赤は違っています。予知や予言も同様なのです。この世界にはある種のヒビキが強く流れることがあり、それをわたしたちは受け取って、その年の気候やこれから起きることを予見することができますが、それは受け取り手によって解釈が違うのです。またそのヒビキがどこから発せられたものなのかということもあります」<br />
「どこからというと……」<br />
「光なのか魔なのか、というようなこともあるのです」<br />
カナンの者たちは、顔つきがこわばってきた。<br />
「エステル様、未来はこの瞬間にも無限に変化し続けるもの。それは今のわたくしたちが創造するもので、じつは確定的な未来などない。ましてヨモツヒサメが世に出た今、それを判断することは、わたくしにもできません。ただ……悪しきことの予知を的中させた者は、往々にしてその次の悪しきことの予知を的中させることに固執するようになります。自分が予言する悪しきことが起きることを望むようになるということです」<br />
<br />
<br />
同刻――。<br />
意宇の湖の向こう側で起きた混乱を、ヤイルは黙って眺めていた。満足げに、腕組みをしながら。<br />
「ヤイル様」一人のカナン兵が、ヤイルのそばに来て囁いた。「仰せのとおり、地元のワの民を使って、噂を流してきたことが功を奏したようですな。コジマがオロチを裏切ると」<br />
うむ、とヤイルは唸った。そして首を左右にゆっくりと振り、周囲に人気がないのを隻眼で確認した。そして剣を抜きながら言った。<br />
「すべては我が予言通り。予言は成就されなければならぬ」<br />
カナン兵はその剣の光るのを見て絶句した。<br />
<br />
<br />
「悪しきことを待ち望み、より多くの人がそれを受け入れれば、その出来事が起きることは容易となります。人の意識が大きな力となるからです。立場によっては、もっと具体的に予言を成就する方向へ誘導することさえできるでしょう」<br />
「では、ヤイルは……」<br />
「わかりません。すべては時が証明すること」<br />
<br />
<br />
「見よ! 我が予言は成就した!」群衆に向かい、ヤイルは叫ぶ。「オロチの結束は乾いた石くれのごときもの! ここよりオロチの崩壊は始まるのだ!」<br />
沸騰する群衆。しかし、ヤイルの背後には常に冷たいものが貼りついていた。それは綱渡りを休むことなくし続ける者が抱く、胸の悪くなるような恐れだった。<br />
ヤイルの頭上には、ヨモツヒサメがいた。そのヒサメは嘲笑っていた。<br />
コジマの反乱の可能性を見抜いたカガチの警告。それが意宇のタジマに本隊にもたらされるのと、奇妙なほどにリンクしてヤイルは策略を巡らせた。ヤイル自身はその発想とタイミングがどこから湧いたのか、知る由もなかった。<br />
<br />
<br />
「クシナーダ」スサノヲは言った。「そなたはいつも衣を染めていたな」<br />
「はい。それは色をヒビキとして感じることができたからなのですが、わたくしはこの眼で鮮やかな色の美しさを感じることが少なく……だからせめて」クシナーダはにっこり笑った。「他の方の眼を通してその色を感じたかったのです。染めた衣を着たオシヲやミツハが、うわあ、きれいな色だと、そう言って笑ってくれるのがうれしかったのです」<br />
聞いていたオシヲは、ふと自分の隣にミツハがいるかのような錯覚を覚えた。<br />
「なればこそ、わたくしはこの世にヤオヨロズ――たくさん――の色があることを望みます。それぞれの色が、それぞれのヒビキで輝くこと、そしてそれが高い空から見たときには、大きな一つの美しい風景となるような、そんな世界であってほしい」<br />
静まり返っていた。<br />
その中、スサノヲは言った。「それはつまり――それぞれに違う者たちが共に生きる世界ということだな」<br />
「はい――」<br />
「承知した。ならば、俺はそなたの望む世界を守る戈(か)となろう」※戈=剣<br />
エステルたちは不思議な想いにとらわれていた。クシナーダとの語ることと、カナンの本陣でスサノヲが語ったことが、そのまま同じものだったからだ。<br />
「エステル……おまえはどうする?」スサノヲは尋ねた。「おまえたちカナンの民も、同じ地の上で咲く花の一つとなるのか。それともカナンの花だけでこの地を満たしたいのか。おまえの胸の内を今ここで、皆に語ってくれ」<br />
視線がエステルたちに集まった。<br />
「愚かであった……」ややあってエステルは言った。「そのような望みを抱いたことと、このワの島国の民たちをおおぜい殺めてしまったことを……わたしは心から後悔している。本当にすまないことをした。許してくれるとは思わない。だが、どうか、この争いを収めるため、我らにできることがあるのなら、協力させてくれないか」<br />
クシナーダは歩き出し、エステルの前に進んだ。「エステル様、この地で命をお授かりになりましたね」<br />
「え? な、なぜそれを……」反射的にエステルはみずからのお腹に手をやった。<br />
クシナーダは彼女の前にしゃがみ、そっと腹部に手をかざした。「この子はきっと男の子で……とても強い〝力〟を持つ子です。悪阻がひどいのではないですか?」<br />
「あ、ああ」<br />
「それはこの子がお腹の中にいて、エステル様を浄化してくれているからです」<br />
<br />
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<br />
「わたしを……?」<br />
「はい――」クシナーダは立ち上がり、笑顔を見せた。「母は子を救い、子は母を佐(たす)けるものです。この子はずっとエステル様の苦しみを浄化し続けていました」<br />
「この子が……」エステルの双眸が呆然と見開かれ、涙が溢れた。彼女はお腹に置いた両手を中心に、身体を丸くする。<br />
モルデがその背にいたわるように手を伸ばした。<br />
「ただ……ちょっと不思議です」クシナーダは戸惑ったように首を傾げ、そしてスサノヲを振り返って見た。<br />
そのときだった。<br />
祭祀場につながる山の斜面に甲冑の触れ合う音や男たちの声が下りてくるのが伝わってきた。その気配にはスサノヲはとうに気づいていた。だが、彼は先刻からまったく動くつもりもなかった。<br />
ニギヒの配下たちが過敏な反応を示し、剣を手にした。撃退したカナン兵たちから奪った剣だ。<br />
「慌てなくていい」と、スサノヲは言った。<br />
「そのようですね」クシナーダも同調する。<br />
二人が落ち着き払っているので、一同はその場を動くことなく、男たちが斜面を下りてくるのを待つことになった。<br />
「いた! いたぞー!」声が上がる。「エステル様だ!」<br />
彼らはカナン兵だった。エステルの姿を木立の間に見つけ、勢いを増して駆けつけてくる。彼らに害意がないことを、スサノヲはなぜかわかっていた。まるでクシナーダの持つ霊感が宿ったかのように、彼らの意識がふっと心の中に入ってきたのだ。<br />
彼らはエステルを探し求めていたが、それはヤイルに討伐を命じられたからではなかった。人数はおよそ三十名ほど。<br />
「戦う意志はない! 我らはエステル様に従う者! ヤイルの元を離れてきたのだ!」<br />
エステルとモルデは顔を見合わせた。カイやシモンの曇っていた表情にも、にわかに生気のような喜びがにじみ出た。<br />
「エステル様! いかにヤイルが予言を為すとはいえ、エステル様を殺めよなど、もはやとうていついて行けませぬ! どうか、我らもご一緒に!」<br />
<br />
<br />
3<br />
<br />
その日のうちに、クシナーダたちは佐草と呼ばれる集落にたどり着いた。そこはやはり古くからのワの民の居住地の一つであり、そばには清らかな泉と冬でも緑が生い茂る森の中にある、身をひそませるには格好の場所だった。意宇の中心地からもほど近く、オロチ本隊に合流したカガチたちの動向を見張ることもできた。※現・八重垣神社付近。<br />
クシナーダが訪れると、民たちは喜んで寝泊まりする場所を提供してくれた。トリカミの巫女としての威光というよりも、彼女が愛されているからこその対応ぶりだった。カナンからの合流組も含めると大世帯になっていたが、彼らは与えられた家屋で身を休めることができた。<br />
「良いところです、ここは」クシナーダは周囲を見まわしながら言った。<br />
「そうだな」二人で歩きながら、スサノヲも同じように感じていた。<br />
ワの民の祭祀場は、どこも清浄な空気に満たされている。が、この里のそれはトリカミのそれに近い清浄さで、しかも何か不思議にあたたかいものに満たされていた。<br />
「あら、素敵」クシナーダはある樹木のそばで立ち止まった。<br />
椿が二本、地から生えていた。が、それは途中ですうっと寄り添うように幹を一つに合わせ、そのまま一本の樹木として成長し、頭上にまで葉を生い茂らせ、花を咲かせていた。根は別々でありながら。<br />
しばらくクシナーダはその姿に見入っていた。<br />
「面白い椿だな。一つになっている」スサノヲはそう言いながら、その椿の姿に触発されて、自分の中にクシナーダへの愛情が深く湧きおこるのを感じた。<br />
「スサノヲ……」<br />
「なんだ」<br />
「愛しています」クシナーダは椿を見つめたまま言った。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
「…………」それは今、彼が感じたものとまったく同じ想いだった。<br />
「わたくしはあなたとこの世界で生きて行きたい。この椿のように」<br />
「俺もこの椿のように、そなたと生きて行きたい」スサノヲは椿を見上げた。「そなたと見たあの雲海と虹……俺は生涯忘れぬだろう。あの雲海の広がりのように、俺はそなたを取り巻いて守りたい。そなたという虹を」<br />
「クシナーダ様――!」スクナが呼びかけながら走ってくる。彼女の背後からキビの巫女たちやオシヲも小走りにやって来る。「すごいものを見つけたよ。あっちに二本の椿が一つになっているのを――あれ?」<br />
スクナは二人が見ている椿もまた、同じようなものであることに気付いた。<br />
「これもそうだ……」<br />
「こんな椿を他にも見つけたのか」<br />
スサノヲの問いにスクナはうなずいた。「すごいや……。こんな不思議な木が二つも……」<br />
巫女たちも到着して、眼を見張る。だが、それは二つではなかった。エステルたちが奥の泉のほうから戻ってくると、声をかけてきた。<br />
「泉がすごくきれいだった。スサノヲ、この地は気持ちが良いな」<br />
「そうだな」<br />
「そうだ。泉のほうに面白いものがあるぞ。椿の木が根では二つなのに、途中で一つに――」エステルは絶句し、目の前にある椿に目を止めた。<br />
「すごいや。三つもあるんだ」と、スクナ。<br />
「え? こんなものがまだほかに……」<br />
「どうしたのじゃ」ニギヒを伴って、その場を通りかかったナオヒが声をかけた。<br />
「こんな不思議な椿が三つもあるんです」スクナが言った。<br />
「ほう。これは面白い。この地には命を結びつける特別な〝気〟があるようじゃな」<br />
「皆さん」唐突にクシナーダは言った。「歌を作りましょう」<br />
そのあまりにも飛躍したように思える言葉に、他の巫女たちでさえ口をぽかんと空けた。<br />
「クシナーダ、歌なんか作っている場合じゃないじゃろう」と、ナオヒが苦笑した。<br />
「いいえ。今だから歌が必要なのです」<br />
「ほう?」<br />
クシナーダは、巫女たちと、そしてエステルたちを見渡して言った。「皆さんが心を一つにできる歌を作ってください」<br />
「心を一つに……?」アナトは呆然とつぶやいた。<br />
「はい。アナト様たちはもはや心を一つにされていると思います。ですが、わたくしたちがこれからしなければならないのは、すべての民が心を一つにすること。それができるような歌をこの地で作ってほしいのです」<br />
「わたしたちが作るのですか」<br />
「はい。もちろん。エステル様も協力してください」<br />
「え?!」と、エステルは大きな声を上げた。「わ、わたしがっ?」<br />
「はい。アナト様たちと協力して作ってください」<br />
「む、むりむり! わたしはそんな……そんな柄じゃない」エステルは真っ赤になった。そんな彼女を見るのは、誰もが初めてだったかもしれない。<br />
「できることがあるのなら、協力するのではなかったか」スサノヲがぼそっと言った。<br />
「……いや、しかし」<br />
「エステル様も参加してもらわなければ困ります。カナンの民も共感できる歌でないといけないからです」<br />
「しかし、なんのためにそのような歌なんか……」<br />
「ですから、心を一つにするためです」クシナーダはにっこりとした。「キビの皆様……そう、とくにナツソ様は調べをお作りになるのがとても上手なのですよね」<br />
「は、はい。あの、でも、あまり自信が……」ナツソは物怖じしたように言った。「それに、調べを作るのでしたら、何か鳴り物がなくては……。ここには何も持ってきておりませんから」<br />
それを聞いていたオシヲが、はっとした。腰紐に差していた一本の笛を手に取る。少し迷ったが、彼はそれをナツソに差し出した。<br />
「あの……これ……」<br />
それは岩戸の祭祀場でオロチ兵の手にかかって亡くなったミツハの笛だった。<br />
「……使ってください」<br />
「ありがとう、オシヲ」<br />
クシナーダに代わりに礼を言われてしまい、ナツソはやむもなく笛を受け取った。<br />
「では、皆さん、お願いいたしますね。スサノヲ、他の椿も見に参りましょう」<br />
クシナーダとスサノヲはその場を立ち去った。<br />
その二人の背中を見送りながら、うっとりとナツソが言った。「いいなあ、クシナーダ様。あのようなスサノヲ様がおそばにいて……」<br />
「ほんとう……」同じような憧憬の眼でシキも漏らした。<br />
それにほとんど同調しかけ、アナトはいきなり厳しい表情になって咳ばらいをした。<br />
「な、何言ってるの! さあ、クシナーダ様の言われる歌を作りましょう」そう言って巫女たちを促して歩き出した。が、その場で動かないエステルに気づき、きつい眼で振り返った。「エステル様もです。さあ」<br />
「わ、わかった……」<br />
エステルがぎくしゃくと歩き出し、ついて行く。<br />
そんな娘たちの有様を見て、ナオヒは腹を抱えて笑い出した。<br />
<br />
<br />
意宇のタジマ本隊に到着したカガチは、しばらくまったく動くそぶりを見せなかった。ある意味、不気味なほどの沈黙ぶりだった。<br />
意宇の湖で戦いがあったらしいという噂を耳にし、とりわけキビの巫女たちを不安にさせた。その不安の的中は、三日後、帰還したカーラによって知らされた。<br />
「コジマの水軍はほぼ壊滅的な状態です」<br />
カーラは戦乱の中を生き延び、報告のために戻ってきたのだ。クシナーダたちが移動していたこともあり、場所を探し出すためにかなり苦労したようだった。<br />
「コジマが壊滅……」<br />
非常に大きなショックを受けたのはコジマの巫女であるナツソ、そしてイズミだった。今回の人質救出の立案を行ったのは、他ならぬイズミであったからだ。<br />
「申し訳ありません、アナト様、ナツソ様……」そうつぶやくと、イズミはがくんと膝を折って、地に手をついた。「人質を救うどころか、さらにもっと多くの者を死なせてしまいました。わたしがよけいな計画を立ててしまったばかりに……」<br />
イズミは責任感と悔しさのあまり全身を震わせていた。<br />
「いえ……そういうことではないのかもしれません」カーラは言った。<br />
「というと?」アナトが尋ねた。<br />
「わたしたちは慎重に事を運ぼうとしていました。ナツソ様が絶対の信頼を置く方々と、隠密に船を出してタジマやイナバに赴こうと謀ってはいたのですが、その計画自体、知る者はまだほとんどなかったのです。わたしがコジマの陣に到着して、ほんの短い時間しか経過しておりませんでしたので」<br />
「ということは?」<br />
「オロチがコジマを切り捨てようとしたか、あるいは何かコジマとオロチを分裂させるための策略があったのかもしれません。タジマ水軍はこちらに反乱の疑いありとして攻めてきましたが、そのようなことになる理由もまだなかったのです」<br />
「ヤイルかもしれぬ」と、エステルが言った。「ヤイルはもともと知略に長けた男だ。こちらに有利な状況を作り出すために、意図的に噂を流して敵を分裂させるのはヤイルの常套手段だ」<br />
隣でモルデも頷いた。「じつは先日のクシナーダ様の話を聞いたとき、わたしもゾッとしました。まさにヤイルがやりそうなことを言っておられたからです」<br />
「だとすれば、もうほんの少しだけ猶予があれば……」カーラは残念そうに頭を垂れた。<br />
「くそっ」イズミは小さな拳で地面を叩いた。<br />
しばらく沈黙があった。<br />
「どうする、スサノヲ」エステルが口を開いた。「キビの人質を救出することは、絶対に必要なことなのだろう」<br />
その問いに答える以前に、エステルは続けて言った。「我らを行かせてはくれないか」<br />
「なに?」<br />
「ここにいるのはカナンの中でも精鋭ばかりだ。甲冑を捨て、身軽になれば、イナバやタジマへもそう時間はかかるまい。天候さえよければ、三、四日でたどり着いてみせる」<br />
「エステル様はいけません」モルデが言った。「大事なお体です。我らが参ります」<br />
「しかし、そのキビの人たちが囚われて働かされているっていうタタラ場がどこなのか……」カイが疑問を呈した。<br />
「よし、わかった」パン、と両手を叩いたのはイタケルだった。「俺も行く。そのアカルっていう巫女の情報から、俺ならだいたいの場所はわかる。鉄穴流しをしている川は見ればすぐにわかるしな」<br />
「陸路、タジマへの道のりは危険だぞ」スサノヲが言った。<br />
「だが、タジマもほとんど全軍で意宇に集結しているんだろ? なら、むしろ背後は手薄だぜ、きっと」<br />
「そうかもしれぬが……」<br />
「では、我らも」ニギヒが申し出た。<br />
「いや、あんたらにはこの巫女さんたちを守っていてほしい。カナンの連中より、よっぽど信用できるからな。俺はこいつらを見張るためにも行くんだ」イタケルはわざとらしくエステルたちを指さして言った。<br />
なんだと、というふうな反応をカイは示したが、それはエステルによって抑えられた。<br />
「良いのだ。そのように思われても仕方のないことを我らはしてきた……。モルデの言う通り、わたしがここに残る。おかしなことをすれば、このわたしの命を好きなようにしてくれてかまわない」<br />
イタケルは眼を細めた。そして小さく、何度か頷いた。<br />
「決まりだな」<br />
<br />
そうしてモルデとイタケルが率いる一団が、その日のうちに発つことになった。<br />
「オシヲ、イタケルに領布を渡してください」彼らを見送るとき、クシナーダが言った。「その領布には魔を祓う力があります。ヨモツヒサメに対しても、多少なりとも効果があるはず」<br />
オシヲから引き継いだ領布を首にかけると、イタケルは「じゃな」とあっさりと手を挙げて歩き出した。<br />
「モルデ……くれぐれも気を付けて」<br />
「ご心配なく、エステル様」<br />
言葉を交わしたのち、モルデもまたイタケルを追って歩き出す。<br />
カーラはアナトたちを守るため、そして彼自身が偵察の能力に長けていたため、意宇の動向を監視するために残された。<br />
歌が出来上がったのは、その日の夜のことだった。<br />
キビの巫女たちと、カナンの中で一人残ったエステルは、その歌を携えてクシナーダの前にやって来た。ナオヒは「若い者に任せる」と言って、歌作りには参加しなかったようだが、その歌を聴くために同行してきた。<br />
「歌詞は皆で考えました」と、アナトが言った。<br />
「調べも降りてきたのですが……」ナツソもためらいがちに言った。「このようなもので本当によいのか……」<br />
「聞かせてください」と、クシナーダが言った。<br />
スサノヲやニギヒも見守る中、ナツソの笛が高らかに鳴り響いた。前奏の後、巫女たちとエステルが歌い始めた。慣れていないエステルは、顔を紅潮させ、それでも巫女たちに指導されたのか、懸命に声を上げていた。<br />
今まで一度も耳にしたことのないような調べだった。巫女たちが日常の神事に使う、雅やかで緩やかな調べとはまったく異なる曲調だ。それは力強いヒビキに満ちていた。<br />
歌が終わった。<br />
「いかがでしょうか……?」恐る恐るという感じで、アナトが尋ねた。<br />
「や、やっぱり、だめですよね」と、ナツソも狼狽しながら真っ赤になった。<br />
しかし、クシナーダはにっこりと笑顔を見せ、自分の拳を胸に当てた。<br />
「なにか聞いていて、心が鼓舞されるような、すばらしい曲です。胸が熱くなりました」<br />
巫女たちはほっとした表情を、互いに確認し合った。<br />
「心の岩戸を開いて……。これで、わたくしたちはきっと心を一つにできます」<br />
クシナーダはスサノヲに眼をやった。スサノヲは頷いた。<br />
――あとは、とスサノヲは考えた。<br />
あとは、時が至るのを待つだけだった。<br />
<br />
<br />
4<br />
<br />
月が満ち、そしてその後もなお、カガチは長く動かなかった。オロチとカナンは限定的な小競り合いを繰り返していたが、決定的な戦端は開かれなかった。<br />
水面下でだけ、何かが動いている。そんな気配が濃厚だった。<br />
クシナーダはその数日、エステルと過ごすことが多かった。何をしているのだろう、とキビの巫女たちも訝るほど、二人は集中的に時間を共有していた。<br />
その日、クシナーダはエステルを佐草の里の神域にある泉へ連れて行っていた。太い杉木立が取り囲む杜の中に、その小さな泉はあった。静かな気配があたりには満ちていて、そこに佇み、ただ息をしているだけで、清浄なものが満たされていく。<br />
寒風の中、二人の姿は泉の中にあった。むろん、クシナーダの指示である。澄んだ水は凍りつくほど冷たく、水に漬けた足からみるみる凍りついてしまいそうだった。<br />
「本当は全身を浸すのが良いですが、エステル様は身重ですし、これで良しとしましょう」<br />
クシナーダは両手で泉の水をすくい取ると、エステルの頭の上から注いだ。その冷たさにエステルはびくっとなる。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
「お顔を洗ってください」<br />
言われるままにエステルは、顔を水面に近づけ、両手で顔を洗った。かがめた胸元から、彼女が身に付けている首飾りの宝珠が垂れ下がった。そして、それも泉の中に浸かった。<br />
その宝珠は、どう見てもクシナーダたち巫女が身に付けている勾玉と同じものとしか思えなかった。<br />
「大丈夫ですか」と、クシナーダが尋ねる。<br />
「ああ、なんというのか……すごく心地よい」<br />
「出ましょうか」<br />
二人は泉を出た。持ってきていた布で足を拭く。<br />
「これはどういう意味があるのだ」<br />
「禊をして頂きました。穢れを洗い清めるためのものです」<br />
「ミソギ……」濡れないようにたくし上げて衣装を戻しながら、エステルは遠くを見るような眼になった。「不思議なものだ。カナンの民にも似たような風習がある」<br />
「さようごございますか」<br />
「それに……前から思っていたのだ。これはなぜ、そなたらの物と似ているのだ」と、自分の宝珠を人差し指と親指で持つ。<br />
「勾玉はずっと昔からございます」<br />
「これは失われたカナンの神殿にあったもの。多くは略奪されたが、これだけは残され、わが一族に伝えられたという……。神を象(かたど)ったものだと聞いている」<br />
「さあ、なぜでしょう」うっすらとクシナーダは笑ったが、その顔には答えがわかっているが、あえてあいまいにしているような表情が滲んでいた。それは勿体ぶっているというよりも、沈黙しながら提示するという、そのような姿に見えた。<br />
身なりを整えた彼女らは、泉を離れて歩き出した。<br />
「教えてくれないか。なぜ、そなたらはこれと同じものを持っているのだ」<br />
「エステル様。それはあなたの言う神も、わたくしたちの言う神々も、同じ、ということではないのでしょうか」<br />
ぎょっとしたようにエステルは立ち止まり、そして同調せずに静かに歩を進めるクシナーダを追って足を速めて追いついた。<br />
「馬鹿な。唯一の神と、そなたらの神々は何もかも違う」<br />
「エステル様、わたくしたちはあなたが言う唯一の神というものを否定してはおりません。わたくしたちはこの天地(あめつち)すべてを尊んでいるだけのこと。それを神々と呼ぶのです。でも、わたしくしたちは唯一の神が存在しないなどと、一度も言ったことはございません。それを意識しなくても、この天地のすべてを尊ぶ気持ちがあれば、それは同時に唯一の神を尊ぶのと同じことだからです」<br />
「すべてを尊ぶ……」<br />
「この空も大地も風も、そして人や他の動物たち、草木や花も、すべて尊い。わたくしたちの先祖もまた尊く、わたくしたち自身もまた尊い。エステル様やカナンの民も同じく、尊いのでございます」<br />
「それがおまえたちの考え方か」<br />
「エステル様、ただ一つのものを尊ぶというのもまた崇高なことなのですが、それには一つの落とし穴があるのです」<br />
「落とし穴?」<br />
「ただ一つのものを認めるということは、その瞬間に敵を作り出してしまう危険があるのです」<br />
ぎくっとして、再びエステルは歩みを止めた。今度はクシナーダも立ち止まり、振り返った。<br />
「エステル様にはもうお分かりだと思います。一つのものだけを認めるということの裏側には、それ以外のものを否定するという想いが秘められているのです。そこにもし寛容さがなければ、敵を作り出すのは必定」<br />
「つまりすべてを尊ぶというそなたたちと、我らカナンの民はまったく逆だということだな」<br />
「けれど、真(まこと)の神の御心に至れば、この世のすべてに神の慈愛が満ちていることを知ります。辿る道は違えど、至るところは同じなのです。その時には敵は存在しなくなっています」<br />
エステルは眼を下の方に落とし、それから思い出すように上の方へ向かわせた。「亡くなった父から聞いたことがある。カナンの地に、百年ほど前に救い主と期待された男が現れたことがある、と。カナンの民はその男が神の使いとして、カナンを大国の圧政から解き放ち、かつての栄光を取り戻させてくれると信じて迎えた……。が、その男はこういったそうだ。<br />
〝汝の敵を愛せ〟――と。<br />
カナンの民は落胆し、その男を見限り、処刑台に送ったそうだ」<br />
「エステル様、あなたがたにとって神への信仰は何物にも代えがたい大事なものとはわかります。ですが、人にはそれぞれに大事なものがございます。大切な守りたいもの、それは人それぞれにあると、今のあなたならわかっておられるのではありませんか」<br />
そう言われ、エステルは自分の腹部に意識を向けるようなそぶりを示した。<br />
「あなたは今、ご自分が弱くなったようにお感じかもしれませんが、そうではありません。守るべきものが、二つになってしまった。その間で苦しまれたことでしょう。でも、それは弱くなったのではなく、優しくなられたのです。そうして他のものを受け入れて行くことこそ、真の強さ……あなたは本当は強くなられたのです」<br />
く……とエステルは両方の拳を握り固めた。<br />
そのとき、オシヲが杜を駆け抜けてくるのが見えた。彼の後からスサノヲも歩いてくる。<br />
「クシナーダ様!」<br />
「どうしたのですか、オシヲ」<br />
「カガチが動き出した! 意宇のオロチ軍が動き出したんだ!」<br />
クシナーダはエステルを振り返り、うなずいた。そしてオシヲのほうへ向かって言った。<br />
「わたくしたちもすぐに発ちましょう。オシヲ、皆さんに知らせて」<br />
「わかった」<br />
クシナーダはオシヲと共に佐草の集落へ向かって先を急いだ。それとすれ違ったスサノヲは、後からやって来るエステルをその場で待っていた。<br />
「どうした?」と、声をかける。<br />
「なんでもない……」エステルは涙ぐんでいたのを悟られぬように、顔を横へ向けていた。そして、小さく言った。「ああも、たなごころを指されてはな……」<br />
「クシナーダのことか」<br />
「不思議な娘だ。おまえが愛するのも分かる」エステルは足を速めた。<br />
<br />
<br />
カガチの行動は、カナンに呼応したものだった。<br />
意宇の湖の南に陣を張っていたカナンだったが、すでにこの時、非常に強い危機感に見舞われていた。タジマ水軍とコジマ水軍の内乱的な戦闘の後、カガチはコジマを完全に掃討してしまうと、すみやかにコジマの代わりに意宇の湖西側の前線基地にタジマの水軍を回らせた。このとき腹心のイオリをこの指揮に当たらせ、東西から完全にカナンを挟撃できる態勢を整えたのだ。<br />
戦力は二分された形だが、それでもなお意宇にはタジマ本国の軍勢が六割がた残されていた。前新月以来の戦いで敗走を続けたカナンの勢力に対して、もはや相当に有利な状況だった。一気に攻め込むことができずにはいたのは、豪雪以来、不順な天候が続いたためである。<br />
カガチにしてみれば、もはや焦る必要はどこにもなかった。ワの国に根を張った状態なのは彼らであり、時間が経過すればするほど、カナンにとっては食料の不安も生じてくるはずだったからだ。今や当初の支配地域も狭められ、カナンは意宇の湖の南にある拠点に封じ込められ、身動きできなくなっている。<br />
その現実は、じわじわとヤイルの首を絞めてきていた。このまま時を過ごしても、事態が好転する要素は一つもなかった。彼にとっての最大の好機は、タジマ水軍とコジマ水軍の分裂を生じさせた混乱に乗じることだったが、よりにもよってその先鋒を任せるべく待機させていた精鋭部隊が、まるごと消えてしまったのだ。突撃の機会を逸したまま、その精鋭部隊がエステルのもとへ去ったとわかったのは、かなり時間が経過してからだった。<br />
次の新月が近づき、天候がわずかばかり回復した。日差しが降り注ぐ日が続き、残されていた雪の下から地面があらわになり、ヤイルは行動を起こした。<br />
残された戦力で、オロチとカガチを討ち果たす――もはやそれ以外の選択肢がなくなってしまったのだ。それは悲壮な覚悟を必要とする決断だったが、ここに至ってもなおヤイルにはわずかな勝算が残されていた。<br />
「我らはこの戦いに勝利する! 神は我に見せたのだ! 勝利の瞬間を! 今こそ持てるすべての力をぶつけ、意宇のオロチどもを粉砕するのだ! さあ、馬を出せ! 我らの騎馬は敵を滅ぼし、カガチを殺すだろう! 我に続け!」<br />
ヤイルは虎の子である騎馬を投入した。それはこの戦いが始まる以前に、わずかずつではあるが、大陸から運び込んできた貴重な戦力だった。<br />
ワの地は山野が多く、騎馬が活躍するには、やや不向きだった。そのためこれまでの戦いでは温存されることが多かった。先進的な弓矢、剣や鎧だけで勝利できたということもあった。<br />
カナンは拠点を離れ、東へと全兵力を移動させた。そして意宇との中間地点の山麓、わずかばかりの平野が開ける場所へ陣を構えた。背後に山を置き、そこにタジマ水軍への守備隊を配置し、戦力の大半は東へと向けた、一点突破の戦略だった。その中核となるのが騎馬隊だった。<br />
――カガチが来るか。<br />
ヤイルは冷や汗をずっと流し続けるような心境で待ち続けた。<br />
――カガチよ、来い。<br />
恋い焦がれた相手を待ち望むような熾烈さだった。もしカガチが後方で待機し、持久戦に持ち込まれたら、もはやカナンに明日はなかった。この戦いでカガチを討ち取らねばならなかった。<br />
カヤの砦の奪還に現れたときの鬼神。あの恐るべき男が、あの時と同じように先頭に立って現れてくれることを、ヤイルは全身全霊で神に願った。でなければ、勝機はなかった。<br />
新月となる日の朝、平野の向こうにオロチ軍は出現した。小さな川を挟んで、両軍は対峙した。<br />
ヤイルの隻眼は、その軍勢の中にひときわ背高い男の姿を見出した。遠目過ぎて、とうていその容貌を確認することはできなかった。が、その大男の周辺に群がる軍勢の密度が、彼にそれが大将であることを悟らせた。<br />
ごくりと喉仏が上下した。<br />
<br />
<br />
カガチはヤイルの対岸にいた。小山を背後に陣形を整えているカナン軍を見つめると、彼は笑った。それはただの笑いではなかった。<br />
肉食獣が久々の獲物を目の当たりにしたような、欲望と喜悦が入り混じったような鬼気迫る笑みだった。側近の一人、ミカソはその横顔を見て、心底思った。恐ろしい、と。そして同時に、カガチのような男の敵に回らずにすんでいる幸運を思った。<br />
カガチは残らず敵を殲滅するだろう。その血をほしいままに浴びるだろう。<br />
その真っ赤に染まった姿が、すでにミカソには見えていた。<br />
<br />
そのカガチのはるか後方。<br />
輿に載せられたヨサミとアカルがいた。彼女らは戦いの鬨(とき)の声が上がるのを、そこで待たされていた。<br />
アカルは苦しげに空を見上げた。そこにある邪悪な気配を――。<br />
勾玉をつかみ、祈るように。<br />
「アカル様――」<br />
隣の輿から、ヨサミが声をかけてきた。<br />
「大丈夫ですか。お加減が悪そうな……」<br />
「ご心配なく」<br />
アカルの真っ青な横顔を見て、ヨサミは輿から身を乗り出しかけ、そしてやめた。この囚われに等しいタジマの巫女がどのようになろうが、自分の知ったことではない――そのように言い聞かせた。だが、無視してしまうには、あまりにもアカルの存在はまぶしかった。<br />
彼女のつかむ勾玉が光っているのが見えた。それはヨサミにわずかに残された霊視的な感性による視覚だった。<br />
「アカル様、一つお伺いしてよろしいでしょうか」<br />
「はい……」息をするのさえ、苦しそうだった。<br />
なぜそうまでして――ヨサミは思うのだった。<br />
「アカル様にとって、カガチ様はどのような存在なのでしょうか」<br />
「カガチ……」アカルは辛そうな眼差しで、ヨサミを振り返った。「カガチはわたしの――」<br />
後に続く言葉は信じがたいものであり、ヨサミは唖然とし、返す言葉も失った。<br />
<br />
<br />
「アカル様に〝力〟を――」<br />
クシナーダの言葉に、巫女たちは集まった。キビの四人の巫女とナオヒ、そしてクシナーダの六人は輪となった。そして互いに手を結びあい、意識を離れているアカルへと向けた。彼女らのそれぞれの霊能が解き放たれ、視野が拡大し、その視覚で捉えられたものが彼女らの取り囲む空間の中に浮かび上がった。アカルの姿だった。<br />
そのそばにヨサミもいた。<br />
ヨサミ、とアナトは呼びかけた。それはアナトの呼びかけであったが、同時に巫女たちすべての想いでもあった。<br />
ア――――<br />
クシナーダが最初に澄明な声を上げた。アーともハーともつかぬ、不思議なヒビキの声だった。<br />
ア――――<br />
アナトが続いた。わずかに声のヒビキが異なる。<br />
ア――――<br />
シキがさらにそれにかぶせて行く。<br />
六人の声のヒビキが重なり合い、彼女らの中心に浄化の光が送り込まれていく。<br />
その光はますます強まり、やがては霊的な能力がない人間にさえ、それが実感されるほどになった。彼女らの胸に下がっている勾玉が、はっきりとわかるほどの強い輝きを放っている。<br />
彼女らのそばでエステルは、驚きをあらわにして見守っていた。<br />
熱い、と思った。そしていつもは衣服の下に隠している宝珠が、その熱さの元だと気づき、胸元からそれを取り出した。<br />
眼を見張った。<br />
掌の上で、宝珠は信じられないほどの光量で輝いていた。まるで巫女たちに共鳴するかのように。<br />
「ア――」<br />
ためらいがちにエステルは、彼女らと同じような響きを発していた。つられるように、ごく自然に。<br />
スサノヲは巫女たちを背後に、小高い山の突きだした岩の上に佇んでいた。<br />
眼下に狭い平野が広がっていた。川の両岸に二つの軍勢がそれぞれに展開し、対峙している。<br />
双方の陣営の上空に、真っ黒い霧のようなものの集まりが、いくつも点在していた。双方に四つずつ。<br />
ヨモツヒサメたちだった。<br />
それは地上に満ちている敵意、悪意、憎悪、恐怖などの想念を吸い上げていた。と、同時に吸い上げた想念を、その何倍もの濃度で地上に送り込んでいた。そこには「浄化」とはまったく位相を逆にした循環があった。人の「負」の想念が、ヨモツヒサメという媒体を通じることで、さらに強力な「負」へと変換・凝縮され、人へ還元されているのだった。<br />
そしてそれを受け取った地上では、さらに濃厚な闇が広がり続けているのだ。<br />
「いよいよですね」隣にやってきたニギヒが言った。<br />
スサノヲはただ黙ってうなずいた。ニギヒは霊感など微塵もなく、この光景を見ることがない幸運を知らない。もし目の当たりにしたならば、この光景には絶望の感情以外、何も覚ええないだろう。このようなものがこの世に存在しているのならば、地上には地獄的な現実しか生み出され得ないはずだからだ。<br />
あれを滅すること。<br />
スサノヲは思った。それが自分の役目なのだと。<br />
だが、それはまったく絶望的に思えた。圧倒的なヨモツヒサメの〝力〟の前には、スサノヲでさえなす術もなかったのだ。その方法も可能性も、まったく彼には見えなかった。<br />
<br />
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<br />
陽が中天を越えたころ、鬨の声は上がった。<br />
<br />
<br />
5<br />
<br />
カナンとオロチ。<br />
双方の軍勢は雪崩を打つように走った。そして、無数の弓矢が空を行き交った。降り注ぐ矢に射抜かれ、次々と兵士が倒れて行く。胸を、脚を、頭や眼を、矢が突き刺さって行く。<br />
両軍を隔てている川は、みるみる血で染まった。まるで鉄穴流しをしているかのように。<br />
槍や剣を携えた兵士たちが累々たる屍を越え、それぞれの敵へと向かっていく。そしてさらに凄惨な殺し合いが繰り広げられた。<br />
――ヒャハハハハ!<br />
――殺セ! 殺セ! モット殺セ!<br />
狂喜乱舞する上空のヨモツヒサメたち。<br />
死の力そのものであるヨモツヒサメは、現実に生み出される死によって、さらに際限なく膨張した。そしてその〝力〟は今、一人の男に注ぎ込まれようとしていた。<br />
<br />
ふっとカガチは笑った。「もはや待てぬわ。この剣もさらなる血を欲しがっておる」<br />
彼は黒い霧のようなものを濃厚に身にまといながら立ち上がった。<br />
「カガチ様、お供します!」ミカソの叫びなど聞こえていない。<br />
身がはち切れそうなほど、殺戮への衝動が疼いている。それは性的な欲求が立ち上がって来るのにも似ていた。どうしようもないほど血に飢えた自分がいて、しかも、それを制御するすべはまったく何もないのだ。<br />
カガチは川へ向かって歩を進めた。悠然と。<br />
「カガチだ!」<br />
「敵の大将だぞ!」<br />
その叫びはヤイルの耳にも届いた。ヤイルは弓矢の部隊に命じた。<br />
「あれだぞ! カガチに放て!」<br />
数十という矢が放たれた。カガチは抜刀し、降り注いでくる矢を二度、三度と払った。それらはほとんど薙ぎ払われたが、うち一本だけが肩に突き刺さった。<br />
カガチは矢を自ら力づくで引き抜いた。矢じりが抉り取った血肉をまき散らす。が――。<br />
カナン兵たちは見た。カガチのその肩の傷は、見ている間に傷が盛り上がり、流血も止まってしまうのを。<br />
「ば、化け物だ……」<br />
川の中で腰を抜かしてしまう者。敵に背中を見せ、敗走する者。<br />
カガチの肉体は常人のものではない跳躍を見せた。ふぬけのようになったカナン兵たちの首を、次々にはねて行く。あるいは鎧ごと断ち切ってしまう。<br />
<br />
<br />
「クシナーダ」スサノヲはその時言った。「俺は行く。これ以上、カガチを放置できない」<br />
彼の姿は岩上から消えた。<br />
アカルに力を注いでいたクシナーダたちもその作業を中断した。<br />
「わたくしたちも参りましょう」<br />
「おい!」ニギヒの号令で配下の兵たちが駆け寄ってきた。<br />
<br />
<br />
「神のご加護は今ぞ! さあ、行け! カガチの首を取るのだ!」<br />
ヤイルの号令と共に、三十の騎馬隊が走り出した。その中にはヤイル自身の姿もあった。<br />
騎馬隊の戦力は、この局面では圧倒的だった。押し寄せるオロチ軍の波を突き破り、カガチに向かって突進していく。<br />
<br />
<br />
「来よったな」カガチは残忍な笑いを浮かべ、押し寄せる騎馬隊を迎えた。<br />
フツノミタマの剣を掲げ、それを溜めた〝気〟とともに横殴りに払った。まるで瞬時に湧いた暴風のように、その剣圧が騎馬隊のみならず、あたりにいた者を吹き飛ばした。近くにいた者など、敵味方によらず、胴が分断された者さえいた。<br />
「おお!」カガチのすぐ後ろにいたミカソは驚嘆した。<br />
殺到していた騎馬隊の半数は、それで馬が跳ね上がり、乗っていた者を振り落してしまった。コントロールを失ったまま近くに暴走してきた馬の手綱に手を伸ばし、カガチは跳躍して、その背に飛び乗った。<br />
圧倒的な気迫で、恐慌状態の馬を押しつぶすように制圧下に置く。<br />
そこへヤイルたちが近づいた。ヤイルはカガチが馬上にいるのを見て愕然とした。そして、手綱を引き、馬をかろうじて立ち止まらせた。しかし、他の兵たちはそのままカガチに向かって行き――。<br />
カガチの剣が舞った。それはもう物理的な距離など問題にしなかった。<br />
騎馬隊の兵士たちは馬上で、一度もカガチと剣を交えることもなく、次々に腕や首が宙に飛んで行った。<br />
それを見て、ヤイルは転進した。左は海からタジマ水軍が寄せてくる途上にあった。本能的にヤイルは右へ馬を走らせた。カガチはそれを追ってきた。<br />
あっけないほど短時間で壊滅したカナンの騎馬隊。残された馬たちは暴走し、オロチ軍の後方へと駆け込んで行った。そのうちの何頭かは周囲を取り囲む兵士たちの中で右往左往し、それがアカルとヨサミの輿にも近づいた。<br />
アカルの身体が宙に舞ったのはその時だった。何が起きたのか、ヨサミが気づいたのは、アカルがその馬の背に乗り、馬に対して何事か囁いている姿を見たときだった。<br />
興奮状態だった馬は、アカルの囁きを受け、鎮まった。<br />
「さあ、連れて行っておくれ」アカルがまた囁いた。<br />
馬は、アカルを乗せて走り出した。<br />
ヨサミはアカルの背が馬上で揺られているのを見、それから慌てて輿を飛び下りた。<br />
「ヨ、ヨサミ様! どちらへ?!」<br />
輿を担いでいた者の声を無視し、ヨサミはアカルを追って走り出した。<br />
<br />
ヤイルは馬上で、二度、カガチと剣を合わせた。<br />
だが、その二度目の時にあまりの衝撃に全身が痺れ、落馬した。したたかに頭を打ち、唸りながら隻眼を上げたときには、すでにカガチの剣が頭上に突きつけられていた。<br />
「どうした、隻眼の男」カガチもまたすでに馬を捨てていた。「おまえだろう、ヤイルとかいうのは」<br />
ヤイルは血の気を失った顔面に、みるみる脂汗を滲ませた。後ずさりしながら、手が落とした剣をまさぐる。<br />
「おまえの眼には、どんな未来が見えておる」カガチは嘲笑いながら、ぐっと顔を突き出した。「カナンの勝利か? 俺の死か? さあ、どうした、おまえの神とやらは。おまえを助けてはくれぬのか」<br />
は、は、と短く熱い呼吸を繰り返すヤイル。その呼吸は今にも途絶えてしまいそうなほど、切迫したものだった。手がようやく剣の束に触れ、彼はそれをつかむと、喚き散らしながらカガチに突き上げた。<br />
ひょい、とカガチは首を振ってそれをよけた。立ち上がったヤイルは猛然と、狂ったように剣をふりまわした。二人は体格的にはいい勝負で、一見、豪傑同士が戦いを繰り広げているように見えたかもしれない。だが、その中身は大違いだった。<br />
カガチはまるで子供のふりまわす剣をあしらう大人のように、ヤイルの剛剣をかわし続けた。その姿はあまりにも余裕に満ちており、両者の間には歴然とした力量の差があった。カガチは相手の錯乱ぶりを楽しんでいた。<br />
打ち込んできたヤイルの剣を弾き返し、ひゅっ、とカガチの脚が鞭のようにしなった。その猛打を浴びたヤイルは吹っ飛んだ。茂みの中に巨体を飛び込ませていく。<br />
剣を肩に担ぎ、カガチはなおも相手が立ち上がってくるのを待っていた。ヤイルはそばにあった椿の木の枝をつかみ、それを折りながら、ふらふらになりながら起き上った。粉々に挫けそうな闘志をかき集め、相手に向かって行こうとし、愕然となる。彼がつかんでいる剣はすでに折れていた。その手がぶるぶる震えはじめる。<br />
それを見てカガチは、剣をその場に突き立てた。来い、というように、指でヤイルを招いた。もはやヤイルには正常で理性的な思考能力はなかった。そんなものは蒸発して消え失せていた。<br />
うおおおおお、と叫びながら、ヤイルは肉弾戦に転じた。その拳をカガチは左右の掌でそれぞれに受け止めた。<br />
カガチの手の中にあるヤイルの拳が、次の瞬間にまるで熟し切った果実のように握りつぶされた。はらわたをねじって出すような、ものすごい絶叫が上がった。ヤイルの隻眼は飛び出さんばかりに、みずからの潰された両手を見ていた。<br />
「終わりだ」カガチは宣告し、突き立てていた剣を手にした。<br />
ヤイルの眼が、その太刀筋を見ることはできなかった。あまりにも素早くふるわれた剣は、彼の両腕を切り落とした。その痛みを感じる暇さえなく、剣は斜めに振り下ろされ、首元から胴体に深々とした裂け目を作った。<br />
そこら中に血しぶきをまき散らしながら、ヤイルはその場に崩れ落ちた。目の前に、彼が散らした椿の花が落ちていた。<br />
「花……」<br />
それが彼の見た最後のものだった。<br />
<br />
甲高い笑い声が、狂気のように響いていた。それはヒステリックで、邪悪な喜びに満ち満ちていた。<br />
その笑い声の下で、殺し合いが続いていた。<br />
カガチはその主戦場に戻ろうとした。が、背後に感じた気配に立ち止まった。<br />
ゆっくりと振り返った。<br />
絶命したヤイルのそばに一人の男が佇んでいた。腰をかがめ、彼はヤイルの眼を閉じさせると、カガチに向き直った。<br />
「何者だ」<br />
「スサノヲ――」<br />
「カナンの者か」<br />
「いや、違う。その剣の元の持ち主だ」<br />
カガチは自らの手にあるそれに目を落とした。「ほう。しかし、これは今の俺のものだ」<br />
「そのようだな」<br />
スサノヲはカガチの携える剣が、すでにかつてのフツノミタマの剣ではなくなっていることに気づいていた。何百という人の血を浴び、命を吸い、その剣はもはや妖刀と呼べるほどの、異様な気配を放つようになっていた。<br />
「だとしても、それをおまえの手に渡してはおけぬ」スサノヲは剣を抜いた。<br />
「ほお……」<br />
カガチは眼を細めた。スサノヲのその姿を一瞥し、彼は悟っていた。<br />
これは上玉だ、と。これほどの敵は、ここしばらく出会ったことがない。少なくともカガチが今の巨大な〝力〟を手に入れたからというもの、ただそこに在るだけで、カガチに対抗できる気配を持つ者はただの一人も存在しなかった。<br />
いや、そうではない――。ただ一人だけ、あのクシナーダを除けば、である。<br />
クシナーダにはなぜか、戦わずしてカガチを挫く得体のしれない〝力〟があった。圧倒されるというのでもない。ただのか弱い娘に、なぜかカガチは自分の意志が、傷一つつけられないのを感じていた。<br />
――わたくしたちは花。<br />
そう言いきってしまえるあの巫女の心は、おそらくどのような暴力によっても屈服させることができない。何をする前から、それがわからされてしまうのだ。<br />
こいつは……。<br />
はたと気づいていた。この男はただ強いのではない、と。クシナーダのことを思い出さずにはおれないほど、スサノヲの背後にはあの巫女の気配が濃厚に感じられるのだ。<br />
「思い出したぞ……。アシナヅチが死ぬとき、クシナーダが貴様の名を口にしていた……。貴様、トリカミの者だな」<br />
「俺は、カガチ、おまえと同じ身の上の者だ」<br />
「なに?」<br />
「住むところを追われ、この島国に流れ着いた……。言わば、そのような身の上ということだ。おまえもそうなのだろう」<br />
「…………」<br />
「剣を収めろ、カガチ。おまえが戦っているカナンもまた同じ身の上。そのような者同士でこの場で殺し合い、憎み合い、それがなんになるのだ。おまえは、おまえが大陸で受けた悲しみを、この地であらたに作り続けているだけではないか」<br />
「黙れ……」怒気がカガチの顔を彩った。<br />
「家族を……母を殺されたのだろう。飢え、死の恐怖に怯え、おまえは海を渡った」<br />
「やめろ」<br />
「そのような苦しみを、ここで再現し続ける必要はないのだ。楽になれ」<br />
「やめろと言っている!」<br />
カガチは猛然と飛びかかった。その剣は、スサノヲでさえ、ぞっとするほどの鋭さで襲い掛かってきた。かろうじて刃を合わせ、横へ逃がす。と、間髪を入れずにカガチの脚が唸りを上げて、かばったスサノヲの腕のガードごと吹き飛ばした。<br />
軽々と五メートルは弾き飛ばされ、スサノヲは河原の土手に背中を打ち付けて止まった。ガードした腕が痺れていた。<br />
とてつもない身体能力だった。その力は、ほとんどスサノヲのそれに匹敵するか、あるいは凌駕さえしていた。<br />
カガチは闇の衣をまとっていた。それは上空のヨモツヒサメから還元された〝力〟でもあり、また彼自身が持つ鬼神の〝力〟でもあった。もはやそれらは融合し、分かちがたいほど緊密な結びつきを生じていた。一つの生命体であるかのようだ<br />
だが、その濃密な闇の中に、スサノヲはかつてクシナーダが視たのと同じものを視ていた。泣き叫ぶ子供の姿――。母のそばで号泣する男の子――。<br />
彼がカガチについて語ったのは、口から出まかせでもなければ、誰かから聞かされた情報でもなかった。カガチ自身から伝わってきたイメージだった。<br />
そしてその悲しみや憎しみ、あるいは強い悔悟、罪悪感、それこそが今のカガチを作っている大本だった。<br />
<br />
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<br />
ふううう、とスサノヲは息をすべて吐き出し、全身をゆるめた。<br />
「来い、カガチ。おまえの悲しみと憎しみ……。俺がすべて受けてやろう」<br />
<div>
<br /></div>
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<br /></div>
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<br /></div>
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<a href="http://blog.with2.net/link.php?1759712:1664" style="font-size: 12px;">小説 ブログランキングへ</a>ZEPHYRhttp://www.blogger.com/profile/18267253818170282825noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-870645900423302834.post-85822995131430085552015-07-02T11:11:00.000+09:002016-11-21T22:04:55.815+09:00ヤオヨロズ第8章 浄め<br />
1<br />
<br />
陽は中天から傾きかけていた。<br />
その下であくことなき惨劇が繰り広げられ続けていた。意宇の湖から押し寄せてきたのはタジマの水軍だった。その増援を受け、オロチ軍はじわじわとカナンを小山へと追いつめて行った。ヤイルという司令塔を欠いたカナンには、もはやこれを押しとどめる力はなく、事態は絶望的だった。<br />
その絶望感と恐怖が、さらに戦場を惨たらしいものにした。狂気じみた最後のあがきを行うカナンは、全滅を覚悟で武装に物を言わせ突撃した。もともと装備は圧倒的なカナンである。オロチにも甚大な被害が出、川沿いの狭い平野は屍で溢れ、血と死の匂いで満たされた。<br />
しゃにむに山越えをしてきたイタケルは、その有様に唸った。「こりゃあ……」<br />
「カナンはもはや……」と、隣でモルデが絶望的な呻きを上げた。<br />
彼らはイナバ・タジマから帰還した。大規模な戦乱の情報を耳にし、佐草へ戻る以前に現場に向かったのだ。<br />
「あれは……」カイが叫び、指差した。<br />
その戦場からやや離れた南の山近くに、スサノヲとカガチの対峙する姿があった。まるで銅像になったように両者は睨み合っている。<br />
ずしんという重い響きと共に、重苦しく身をよじるような鳴動が大地に生じた。<br />
「地震だ……」イタケルはそばの樹木につかまりながら、眼を遠くの二人に釘付けにしていた。<br />
地震が静まった。その瞬間、両者に動きが生じた。<br />
<br />
動いたのはカガチが先だった。剣に溜めた〝気〟をいきなりスサノヲに向かって叩きつけたのだ。瞬時にスサノヲもまた同様に剣の〝気〟を放ち返した。二つの〝力〟が間で衝突し、周囲にものすごい衝撃波となって広がった。<br />
カガチは間髪を入れず、幾度かの剣圧を放った。スサノヲもまたこれに応じた。爆発のようなものが二人の間で起き続け、そして相殺され続けた。周囲にはじけ飛ぶ暴風の中、カガチの黒頭巾は吹き飛ばされ、その頭部にある二本の角があらわになった。<br />
馬の駆けつける音がした。それを耳にし、カガチは〝気〟の砲弾を放つのをやめ、わずかに振り返った。馬の背からアカルが下りるところだった。<br />
「何をしに参った」と、カガチは苛立ったように言った。<br />
「カガチ、あなたをお助けするために参りました」<br />
「おまえの助けなど要らん」<br />
「いえ、あなたは助けを求めておられます。わたしだけがそれができるのです」<br />
「戯言(ざれごと)を言うな! 下がっておれ!」<br />
言下にカガチは跳躍した。スサノヲとの間の距離を、助走すらなく一気に詰め、剣を振り下ろす。スサノヲは横へ跳んでよけたが、カガチの剣圧は大地をえぐるようにその場に大きな窪みを作った。<br />
そこから二人の死闘が始まった。常人の動体視力では追うことすら難しい、目まぐるしい動きだった。剣というものを持っていなければ、二人揃って何か狂おしい踊りを演じているかのようでさえあった。しかし、その動きには個性の違いがあった。<br />
カガチの剣の舞は直線的で、圧倒的な剛力に満ちていた。パワーでは勝り、一撃一撃の衝撃は半端なものではなかった。それを受けるスサノヲの身体は、しなやかにくねり、俊敏な軽やかさに満ちて、弧を描くようだった。<br />
まともに剣を合わせれば、いかにカナンの宝剣といえど、フツノミタマの剣にはかなわない。折れてしまう危険性が高かった。そのためスサノヲは、カガチの繰り出す剣をすべて受け流すように力を逃がしていた。剣の合わせ方も、受ける腕や手首の力までも、すべてをコントロールしていた。<br />
「こしゃくな」意図を悟ったカガチは猛然と攻撃を叩きつけてきた。<br />
どれほどごまかしたところで、いずれスサノヲの剣は折れる。そのような確信がある連続攻撃だった。受け切れずに後退し、背後に巨岩が迫る。スサノヲはむしろ後ろへ加速し、その岩を蹴ってカガチの頭上を飛び越えた。その意図をカガチは読んでいた。頭上へ剣を突き上げる。あやうく身体を捻ってかわして着地するが、すぐに目の前に蹴りが迫った。巨大な猪に突き飛ばされるほどの衝撃に見舞われ、後ろへ転がる。<br />
追いかけるようにしてカガチの剣が、スサノヲの身体を狙って降り注いだ。それをかろうじてしのぐが、スサノヲの動きをあたかも予知しているようなカガチの猛攻だった。<br />
読んでいるのだ、とスサノヲは理解した。隙を見て、跳ね起きると距離を取る。<br />
瞬間的なものであろうが、カガチはスサノヲの考えを読み取っている。その〝力〟はおそらくヨサミから与えられたものに違いなかった。<br />
スサノヲがクシナーダと交合したのち、彼女の〝力〟の一部を共有しているように、カガチにもまた同様な感応が生じているのだ。<br />
ならば、とスサノヲは静かに剣を構えた。<br />
カガチは空気が変わったのを感じた。スサノヲからそれまで濃厚に伝わって来ていた意志が、ふっと手が宙をつかむような感じで失われてしまったのだ。<br />
と、次の瞬間。<br />
「うおっ?!」<br />
思わぬ鋭さで伸びてきたスサノヲの剣が、彼の顔をかすめた。もし反応が鈍ければ、首を斬られていたかもしれなかった。<br />
面白きやつ……。カガチは笑った。スサノヲの中には今、なにもない。いわば、無の境地なのだ。このような相手にはかつて一度も遭遇したことがなかった。カガチの闘争本能をこれほど刺激し、高ぶらせる存在はいなかった。<br />
雄叫びを上げた。カガチは闘神そのものと化し、スサノヲに向かって行った。<br />
それは無限に続くような荒々しい二人の舞踏であり、その隙間には誰も入り込むことはできなかった。<br />
アカルを追いかけてきたヨサミも、その戦いを目の当たりにし、棒立ちになった。それはもはや人間の戦いではなく、次元の異なる神々の死闘そのものだった。そこへアカルはわずかずつ距離を詰めているのが目に入り、思わず大声を上げた。<br />
「おやめください、アカル様!」<br />
あの二つの竜巻がぶつかり合うような場へ踏み入れたら――。<br />
きっとアカルの肉体は、粉々に寸断されてしまうに違いなかった。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
<img src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjwGpwuqprABoF6L1sPptvPPWqvArrvkVf74w4BuO-WVhqc9yYOKjkmfwajYFP2dt7RbG9VxwDACdQuUSFBzkb-ax_i4AnBX_VLBvUjYZgXwLz_jjKf_9tUzVrw805vMp2r2lr6ZxkV_AY/s640/%25E4%25BA%258C%25E3%2581%25A4%25E3%2581%25AE%25E2%2580%259D%25E5%258A%259B%25E2%2580%259D%25E3%2581%258C.jpg" /></div>
<br />
<br />
「こちらです!」<br />
先駆けていたカーラの声が聞こえた。スサノヲの後を真っ先に追いかけていた彼は、今は岩場の上に立っていた。クシナーダたちは山の斜面をかき分け、ようやく追いつくことができた。<br />
その岩場からは、今まさに死闘を演じているスサノヲとカガチを間近に見ることができた。全員が、息が切れていた。<br />
その戦いを目の当たりにした瞬間、クシナーダは火で焼かれるような焦りを覚えた。今すぐにスサノヲを助けに行かねば、という焦慮だ。<br />
「アカル様が……」アナトが息も切れ切れに言った。<br />
「皆さん、呼吸を整えましょう」クシナーダは懸命にみずからを鎮めながら言った。「わたくしたちがしなければならないのは……この場の浄化です。あの二人のいる場所、空間全部を浄化しなければなりません」<br />
「どうすれば……」シキが言った。<br />
「ナオヒ様はこちらにいらしてください。この岩場の上からお力をお貸しください。わたくしたちで二人を囲みます」<br />
「囲む?」ニギヒが驚く。「あの場に行くのですか。危険です」<br />
「そうしなければ、浄化は難しいのです」<br />
ニギヒは眼下で演じられている超常の戦いを見た。それは獰猛な肉食獣同士が死闘を演じているところへ踏み込むのと同じだった。迷った挙句、彼は決断した。<br />
「なら、わたしたちで背負わせてください。息が乱れては浄化も難しいでしょうし、わたしたちがお守りいたします」<br />
「お願いいたします」クシナーダは素直に好意を受け入れた。<br />
クシナーダはニギヒに、アナトはカーラに、他の巫女たちはニギヒの配下に背負われた。そしてニギヒはそれぞれに一人ずつ護衛をつけさせた。エステル、オシヲ、スクナは、護衛の二人と共にその場のナオヒの元へと残された。<br />
「よし。行くぞ」<br />
勇を奮い起こし、ニギヒは先頭で走り出した。岩場の左右から、スサノヲとカガチを取り囲むように走り出す。<br />
その姿は戦っている二人の視野にも入った。一瞬、気を取られたカガチに対して鋭い打ち込みが入り、彼の頬を再び刃がかすめた。<br />
「チッ!」カガチは得意の蹴りを放ち、スサノヲを遠ざけた。<br />
二人を取り込む位置に、巫女たちは降り立った。<br />
カガチは頬の血を拭った。その傷は見ているうちにふさがった。鬼となることで、カガチの肉体は不死性とも言える、異常な回復能力を備えていた。<br />
眼を左右に動かし、そしてやや首を振り、背後を確認する。<br />
「何の真似だ」さすがに息を荒くしてカガチが言った。<br />
アカルを含めた三人は円弧の中にいた。<br />
カガチは殺気とは異なるものではあったが、悪い予感を抱いた。その円弧の外へ出ようと動いた。が、それはスサノヲが許さなかった。スピードではわずかながらスサノヲに分があったし、スサノヲ自身もまたカガチの意志を察することができた。<br />
助走をつけて円弧を飛び越えようと謀るが、それすら宙でスサノヲに止められ、中へ留めさせられてしまう。ちっと舌打ちし、カガチは周囲に吠えた。<br />
「おまえら……このような振る舞いをして、ただで済むと思っているのか。おまえらの家族、民たちは我が手中にあるのだぞ。それを忘れたか!」<br />
「いいや!」<br />
声が響いた。<br />
イタケルが東側の小道を降りてくるところだった。続くモルデ、カイ、そしてカナンの精鋭兵たちは、ぼろぼろの汚い身なりにはなっていたが、眼だけは精悍に輝いていた。<br />
「モルデ!」岩の上からエステルが驚きの声を上げた。<br />
そのエステルの姿を遠目に確認し、顔色を変えるヨサミ。<br />
「タジマやイナバのタタラ場からは、人質をすべて解放してきた! もう何の遠慮もいらねえぜ!」イタケルは自慢げに吠えた。<br />
「間に合った……」アナトが洩らしたのは、紛れもない安堵そのものだった。<br />
キビの巫女たちに歓喜と言っていい波動が広がった。<br />
その空気の中、クシナーダはうなずきを周囲に送った。そして、再び浄化のためのヒビキを送り始めた。<br />
ア――――。<br />
アナトが、シキが、ナツソが、イズミが、そしてナオヒが。<br />
その声は美しく折り重なりながら、その場の気配をみるみる変えて行った。それは当たり前の人間にとっては、これ以上もない心地よさを感じさせるヒビキだった。<br />
だが、カガチは不愉快そうにそのヒビキに顔を歪めた。<br />
「やめろ……」クシナーダに向かって行く。<br />
その目の前にスサノヲは剣を振りおろし、彼を後退させた。<br />
「やめろおぉぉ!!」<br />
巫女たちの胸で勾玉がいっそう際立った輝きを見せ、それぞれの巫女を丸く包んだ。そしてそのヒビキと光はその空間すべてを包み込んだ。<br />
カガチの目の前にもっとも見たくないものが立ち現われてきた。それは母の死の姿だった。何人もの男たちに凌辱され、殺された母。その血まみれの姿……。<br />
カッとその母の眼が開いた。そしてカガチを見つめてきた。憎悪の眼で。<br />
――おまえが殺したのよ、あたしの大事なトムルを。<br />
――おまえなど生まれなければよかった。<br />
血まみれの母が、幾度も幾度も呪詛を投げかけてくる。兄(トムル)の死の責任を浴びせ続ける。<br />
「やめろ! やめさせろぉ!!」<br />
カガチはその母に対して憎悪を爆発させた。やみくもに突進し、剣を振り下ろす。そこには、現実にはスサノヲがいた。スサノヲはカガチの剣を受けたが、その憎悪のエネルギーの大きさに、両者は正面衝突したように互いに弾き飛ばされた。<br />
カランと音を立て、フツノミタマの剣が地面に落ちた。<br />
それはヒビキを送るシキのすぐ目の前だった。カガチは跳ね起き、シキに向かって行こうとした。離れた場所に飛ばされたスサノヲはそれを察したが、さすがに間に合う距離ではなかった。<br />
シキのそばで護衛の兵士二人が剣を構える。<br />
その時、シキは浄化のヒビキに満たされながら、すでに動き出していた。カガチよりもいち早く。<br />
彼女はフツノミタマの剣に手を伸ばし、それを拾い上げた。<br />
二つのことが続けざまに起きた。幾多の人の血や怨念を吸い、妖刀と化していたフツノミタマの剣が、彼女の手が触れた瞬間にその強い浄化の力を受け、魔の気配を消し飛ばしたのだ。そして本来の輝きを取り戻した剣の〝力〟が、シキの身体を貫いた。めくるめくような心地の中、シキは迫ってくるカガチを見た。<br />
熱いものが身裡から立ち上がってきた。<br />
「さがれっ!!」<br />
シキは右の掌をカガチに向けて突き出した。黄金色のようなオーラがほとばしった。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
「うおっ!?」<br />
突進してきていたカガチの巨体が吹っ飛ばされた。起きたことが信じられないというように身を起こしたとき、彼の前にはスサノヲが立っていた。<br />
ヤイルがそうしたように、カガチはスサノヲに殴りかかった。スサノヲはその左右の拳を受け止めた。しかし、カガチのほうが手は大きく、やがて両者は両手をがっちりと組み合わせる形で対峙した。じりじりとカガチが圧力を強めて行く。<br />
「馬鹿が……俺に力で勝てると思うのか」<br />
「どうかな」<br />
浄化のヒビキがさらに満たされる。その中でカガチは、じわじわと己の鬼神の力が制限を受け始めるのに気付いた。そして――。<br />
カガチは背中に人の気配を感じた。<br />
アカルだった。<br />
彼女はそっと背後から、カガチを抱きしめた。いつか、ヨサミがしたように――。<br />
<br />
<br />
2<br />
<br />
――わたしの巫女としての〝力〟は、特殊なものです。<br />
クシナーダや他の巫女たちは、アカルが語るのを思い出していた。意識が共有されている中で、彼女たちは記憶も、それを再生させることも共有していた。<br />
――皆様も巫女として、世の中や人が持つ気配を受け取ってしまうということは理解していただけるでしょう。わたしの〝力〟は、それを極限まで広げたものなのです。多くの巫女たちは自分の身を守るために、いくつかの感応を無意識に制御したり、閉ざしたりしています。でも、わたしはその気にさえなれば、<b>すべてを受け入れてしまうことができる</b>のです。何も関門がない人間なのです。<br />
何も関門がない。それはあまりにも衝撃的な告白だったが、これまでのアカルが示してきた様子から納得させられるものでもあった。<br />
――それはつまり、どのような闇であってもわたしは呑み込んでしまえるのです。ただその瞬間には、わたしはきっと闇そのものになり、人でさえなくなってしまうかもしれません。気が狂って壊れてしまうかもしれません。<br />
わたしの母もまた同じでした。母は早くからわたしのことを見抜いていました。ですから、身を守るための術を子供の頃から教わっていました。それがなければ今日まで生きては来られなかったでしょう。母は……早くに亡くなりました。わたし自身、きっと長くは生きられません。いかに制御して、浄化をしていても、この世の穢れは少しずつわたしの身を蝕んで行くからです。<br />
――そんな〝力〟をカガチに対してお使いになるのですか!?<br />
アナトの問いかけは悲鳴に近かった。<br />
――この〝力〟はきっと、この日のために与えられたもの……。そのように理解しております。<br />
――そんなことをしたらアカル様が死んでしまいます!<br />
――なぜ、カガチのためにそのような……。<br />
――やめてください。お願いです!<br />
巫女たちの動揺と慰留をよそに、アカルはこの上なく穏やかだった。<br />
――イスズ様がご自分の使命のために命を懸けられたのと同じように、わたしもここが命の懸けどころなのです。それはわたしがしなければならないこと……いえ、わたしがしたいことなのです。<br />
巫女たちは絶句した。<br />
――それにイスズ様も申されていたでしょう。〝それでも……〟と。<br />
<br />
それでも、と巫女たちは意識を共有して思った。<br />
わたしたちは決してあきらめない――。<br />
絶対にアカルを死なせない。<br />
アカルをもし失ってしまえば、〝黄泉返し〟は不可能に近くなる。そんな事情があるからではない。ことトリカミに幽閉されて以来、同じ時間と空間を共有する中で、巫女たちは互いの愛すべき資質を分け持つようになった。<br />
ありていに言えば、好きになっていた。<br />
理由はそれで十分だった。<br />
<br />
しばらくアカルは、固定されたカガチの背中に寄り添っていた。が、あるとき、胸をかきむしるようにして離れた。<br />
二人の間には離れた後も、青黒いようなオーラがつながっていた。そのオーラには流れがはっきりとあり、カガチからアカルへと、まるで濁った血液が流れ込むように見えた。<br />
「うぐ……あ……ああ!」<br />
アカルは両手で頭をつかみ、大蛇のように身体をのたうたせた。苦悶に形相が変わっていく。ただ苦しいというのではない。カガチの身裡にあるものが、そのまま乗り移って来たかのように、ものすごい怒り、悲しみ、憎しみといった形相となって、次々に現れた。それは巫女たちの肝をひしゃげさせるほど恐ろしいものだった。<br />
<br />
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<br />
カガチもまた異変が起きていた。彼は対峙していたスサノヲとの力比べを放棄し、ふらつきながらアカルと同じように両手で頭を抱えた。そしてものすごい音量で吠えた。絶叫し、地面に倒れ、転がりまわる。全身の肉と骨がきしむような痛みに見舞われていた。<br />
――もっと浄化を。<br />
巫女たちは誰もが想い、意識を集めようとした。だが、アカルのあまりの苦しみように意識がぶれた。焦れば焦るほど、調和のヒビキには乱れが生じた。<br />
アカルの胸もとで輝いていた勾玉。<br />
ビシッ、とそれにひびが入った。そのひび割れは瞬く間に全体に広がり、そして勾玉は粉々に砕け散った。<br />
びくっとアカルは空を仰いだ。両手で身体を抱きかかえるようにする。アカルの肉体は自然に宙に持ち上がった。吸収している〝力〟が膨れ上がり、彼女の周辺に滲み出そうとしていた。それを彼女は自らの中に抑え込もうとした。<br />
その一方でカガチもまた激しい苦悶にのたうちまわっていた。涎を流し、充血しきった眼は頭蓋骨から飛び出しそうになっていた。ぎしぎしと身体が収縮していくようだ。<br />
「ああ!」<br />
「アカル様が!」<br />
堪えきれず、巫女たちは叫んだ。<br />
アカルの腹部が異常な勢いで膨張していた。みるみる、まるで臨月の妊婦のように膨らんで行く。それはカガチから吸収したものが、鬼子となってそこに宿っているかのようだった。<br />
きゃあ、と若い巫女たちは悲鳴を上げた。そのさまは、彼女たちにはあまりにもショッキングなものだった。<br />
クシナーダは浄化のヒビキを送りながら、やはり悪夢のような違和感の中で、心が揺れを抑えることができずにいた。<br />
――これで良いのです。<br />
アカルの意識がよぎった。<br />
次の瞬間。<br />
アカルの身体は宙で回転し、地上に投げ落とされた。その腹部が次第にしぼんでいく。が、彼女はピクリとも動かなかった。<br />
彼女の周囲から真っ黒な霧の如きものが上空へと立ち昇って行った。何者かがそれを狂喜して迎えている。<br />
カガチも動かなかった。<br />
近くにいたスサノヲが、真っ先にアカルのそばに寄った。後から、他の者たちが近づいてくる。<br />
「アカル様……」クシナーダはアカルのすぐそばに膝をついた。<br />
すでに息絶えていたかと思われたアカルは薄く目を開いた。しかし、声を発する力ももはや残されていない様子だった。<br />
「アカル様!」<br />
巫女たちは泣き出しそうな声をかけ続けた。<br />
「……なぜだ」<br />
呻き声がした。カガチは横たわったまま、空を見上げていた。起き上がろうとするが、もう何十年も動かしていなかった肉体のように、筋肉も骨も強張り、しかもとてつもない脱力感と喪失感があった。<br />
彼の頭部には角がなかった。<br />
彼はかつて鬼に変化する以前の肉体に戻っていた。一回り以上、小さく見えた。かろうじて上体を起こし、そして彼は自分の小さくなった手を見つめていた。<br />
「なぜこんなことを……」<br />
カガチはゆっくりとアカルの方を振り返った。<br />
「なぜこんなことをした!」叫んだ。そして這いずるようにして、アカルのそばへやって来た。「なぜだ! 答えろ! アカル!」<br />
「…………」<br />
唇だけが動く。が、何を言っているのか、アカルの声はもはや耳では聞き取れなかった。眼だけは優しげに、覗きこむカガチを見つめている。<br />
「アカル様は、カガチ、あなたのお母様です」<br />
「な、なに!?」馬鹿な、というようにカガチはクシナーダを振り返った。<br />
「正確には前世のお母様です。あなたがたは前世、この国で暮らす親子だった。しかし、そのとき火山噴火に伴う大火事ではぐれ、お母様はあなたのことを気にかけながら亡くなったのです。逃げ惑う人々の中で手を離してしまった息子、幼いその子を猛火の中に置き去りにしてしまったかもしれない罪の意識にさいなまれながら……」<br />
「アカルが……俺の……」<br />
「あなたは生き延び、いなくなってしまった母親を生涯探し続けた……。そんな前世だったのです。そして今回、アカル様は同じように母を喪って苦しむあなたを救うために、この同じ時代に生まれてきたのです」<br />
アカルの手が、震えながら、わずかに持ち上がった。その指が、カガチの頬に触れた。<br />
――わたしのヒボコ。<br />
そう呼びかけた。そして、その手は下に落ちた。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
アカルの眼は閉じられた。<br />
安らかな死に顔だった。<br />
彼女を取り巻く人垣から少し離れた場所で、ヨサミもまたその死を見つめていた。<br />
カガチの背が震えていた。アカルのそばににじり寄った姿勢のまま、突っ伏すようにして、長くそうしていた。涙が彼の顔面の下に、水たまりを作っていた。<br />
「抱いてお上げなさい」と、クシナーダが言った。「抱きしめてよいのですよ。きっとアカル様も喜ばれます」<br />
カガチは涙と鼻水で濡れた顔を上げ、苦しみながら身を起こした。そしてアカルの身体に手を伸ばし、躊躇したのち、抱いた。<br />
堰を切ったように、彼は号泣した。<br />
「こんなふうにして……」スサノヲの肩に泣き顔を押し付けながらクシナーダが言った。「救われる魂もある……」<br />
巫女たちも涙していた。が、イズミが正気に返ったようにつぶやいた。<br />
「アカル様が亡くなられてしまった……」<br />
アナトもはっとなる。「これでは〝黄泉返し〟が……」<br />
涙を拭いたシキは、自分が抱きしめている剣の存在に気づき、スサノヲの前に進み出た。フツノミタマの剣を彼に捧げる。<br />
「ありがとう」スサノヲは受け取った。「そなたの浄化のおかげで、剣は光を取り戻した」<br />
「いいえ。わたしなど――」<br />
「なんだ――?」と、イタケルは声を上げ、上空を仰いだ。<br />
いつ間にか白昼だというのに、妙に明るさが陰り始めていた。太陽が雲の影に隠れたというのでもない。全体に薄暗くなってきているのだが、なにか太陽の光量自体が少なくなったかのようだった。<br />
太陽は傾いた空にあった。が、まぶしい光に目を細めながら見つめると、太陽がじわじわと欠けてきているのがわかった。<br />
「日隠れ――?」イタケルが言った。<br />
離れた場所で演じられていたオロチとカナンの死闘も、にわかに生じた異変に気づく者が増え、だんだんと静かになって行った。剣を合わせていたが、互いに棒立ちになる。弓をつがえていたが、引き手がゆるむ。そうして彼らは一様に空の異変を目の当たりにした。<br />
中には恐れおののく者もいた。日隠れを一度も経験したことのない人間も多かったからだ。<br />
太陽はやがてその輪郭だけを残し、完全に暗い円となった。<br />
それは多くの者の胸に、自分たちの悪しき行いへの鋭い警告と、災いの出現を暗示するものとして受け止められた。<br />
「おかしい。日隠れにしても……日が出て来ない」ニギヒも動揺を見せた。<br />
「空が……真っ暗になっていく」エステルが言った。<br />
上空には暗雲が濃密に垂れ込めはじめた。そしてそれは待てど現れぬ日蝕の太陽さえも覆い隠して行った。巫女たちはこの時すでに、誰もが恐ろしい不快感、頭痛などに襲われていた。<br />
「来るぞ」スサノヲはフツノミタマの剣を握りしめ言った。<br />
真っ暗になった空の一角が切れた。青空が見えたのではない。なにか暗黒の淵が裂けたように、その裂け目からどろどろとしたものが地上に落ちてきた。それはまるで動物のはらわたそのものようだった。赤黒く照り、しかも異様な瘴気のようなものをまとっていた。<br />
ぼたぼたと空から落ちてきたそれは、触れた者を一瞬で悶絶死させた。広がっていく瘴気の中で逃げ惑う兵士たちはその場で立ち腐れ、次々に白骨化して行く。まるで悪夢のようだった。恐慌状態に陥った兵士たちは、敵も味方も関係なく、蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出して行く。<br />
「なんだ、あれは……」ニギヒが唖然としていた。<br />
空から落ちてくる溶岩流のようなものが止まった。<br />
濃厚な瘴気の中から、<b>それ</b>が禍々しい姿を見せた。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
巫女たちは悲鳴を上げた。<br />
それはいくつのも首と尾を持つ大蛇だった。しかし、身は一つ。てらてらと輝く巨大な胴回りは、大人が何人も手をつなぎ合わせるほどの大きさで、そこから大蛇そのものとしか思えない形状の首と尾が長々と伸びている。だが、その身体のすべては腹を断ち割って取り出されたばかりの内臓のようであり、見るだけで吐き気を催すほどのグロテスクさだった。<br />
八つの首には睨まれただけで狂気に誘われそうな酷薄な双眸がらんらんと輝き、開いた口からは巨大な牙と割れた舌が覗いている。牙から垂れ落ちる液体は、地に落ちると強酸のように、じゅうと音を立てた。<br />
そして戦場だった場所は、かつて以上の地獄と化した。化け物は次々に兵士たちを呑み込み、吐きかける瘴気でたちまちに腐らせた。それは眼を背けたくなる凄惨な光景だった。見ているだけで全身が冷や汗でまみれて萎え、その場に崩れ落ちてしまいそうになる。<br />
両軍合わせて何百と残されていたはずの兵士たちが、次々に喰われ、溶かされ、引きちぎられた。その猛威は、荒ぶるカガチでさえ比ではなかった。<br />
カイがその場で腰を抜かしたようになった。「ば、化け物……」<br />
全軍を瞬く間に壊滅に追いやったそれは、複数の大蛇の鎌首を次なる獲物に向けた。ヨサミはやや海に近い場所にいた。思わず後ずさる。<br />
「ヨサミ!」アナトが叫んだ。「こっちへ!」<br />
かつての確執など、この際、問題ではなかった。<br />
その化け物は急速に彼らのほうへ近寄って来ていた。<br />
ヨサミが駆け寄って来るのと反対に、スサノヲは剣を手に前へ出た。<br />
「だめ! いけません、スサノヲ!」クシナーダが叫んだ。<br />
その声を振り切るようにスサノヲは走り出し、ヨサミとすれ違った。窮迫する化け物とはまだ距離があったが、フツノミタマの剣を大きく振るった。<br />
剣は白金色に輝いた。それはかつてのその剣とももはや異なり、シキを通じることで強い浄化の〝力〟を得ていた。<br />
剣の波動が霊的なオーラとなり、化け物を打ち据えた。<br />
キャーンともヒャーンともつかぬ、金属的な悲鳴のようなものを上げ、化け物はにじり寄って来るのを止めた。<br />
「今のうちに逃げろ!」スサノヲは背後に向かって叫んだ。何度も。「早く!」<br />
ヨサミは、カガチをアカルから引き離した。彼は五体がろくに動かなかった。ヨサミが彼に肩を貸そうとしていると、イタケルとニギヒが左右からカガチを支えた。<br />
「スサノヲ! あなたも早く!」<br />
クシナーダと他の巫女たちは、皆、勾玉を手に掲げていた。<br />
その光は、半ば闇の世界と化した中で、ひときわ強く輝き、化け物と瘴気の侵入をとどめていた。スサノヲは二度三度と剣をふるい、大蛇の首の一体に傷を負わせた。<br />
キャ――――ン!<br />
ひるんだ隙を見て、彼は踵を返した。<br />
<br />
<br />
3<br />
<br />
巨大な魔物に追いかけられ、逃げ惑う悪夢――。<br />
誰もがそのような錯覚を抱いた。そのような恐怖は、本来は夢の中にしか存在しえないものだった。が、彼らが味わったのは、この現実の世界の中でのことだった。<br />
途中まで追いすがってきた大蛇の化け物は、スサノヲの幾度かの反撃を受け、かろうじてその鳴りを潜めたが、ひと山を越え、斐伊川のほとりに出たときには、誰もが息も絶え絶えになっていた。すでに日も暮れているはずの時刻だが、日隠れ以来、ずっと夜が続いているように思われた。<br />
川の水を飲み、わずかばかりの休息を得た彼らの間で、ようやく言葉を交わす余裕が生まれた。この瞬間に至るまで、誰もが生きた心地がしていなかったのだ。<br />
「大丈夫ですか、エステル様」クシナーダが、カナンの集まりの中にやって来て声をかけた。<br />
「ああ、なんとか――」エステルはモルデの持ってきた水を飲み、荒い息を整えて言った。<br />
「……あれはいったい、何なんだ」カイが呆然と、魂が抜けたように言った。「あ……頭が八つもある化け物のような大蛇だった」<br />
姿を思い出すだけで、彼は震えていた。<br />
「ヨモツヒサメがモノとなった怪物です。いわば、ヤマタノオロチ……」<br />
「ヤマタノオロチ……」<br />
「ヨモツヒサメはヨミの世界に存在する、人の澱が凝り固まったものです。本来、それはモノではなく、精神的存在なのです。意識、情報――そんなふうに言ってもよいでしょう。ですが、そうした意識の力も、ある限度を超えてしまうと、モノと化すのです。あれはあの戦場に満ちていた欲望や憎しみ、絶望や悲しみを集め、人の悪しきものがそのまま形となった姿です」<br />
「人の欲望や憎しみ……」エステルは苦々しい表情だった。<br />
火が熾された。身体を休め、暖を取るために、数カ所で焚火が燃やされた。ワの民が、巫女たちが、カナンの民たちが、そしてカガチらも――。<br />
カーラだけがその場にいなかったのだが、彼もやがて姿を見せた。<br />
「カーラ、どこへ行っていたの」アナトがほっとしたように尋ねた。<br />
「近くの里へ食料を分けてもらいに行っておりました。わずかですが――」<br />
彼は背負っていた籠を下ろした。これには誰もが喜んだ。食事が作られ、それが分けられた。カガチとヨサミのところへも。<br />
持って行ったのはイタケルだった。「食えよ」と、ぶっきらぼうに告げる。しかし、二人はそれに手をつけなかった。それを見て、立ち去ろうとする彼を、カガチが呼び止めた。<br />
「なぜ俺を助けた」<br />
イタケルはわずかに振り返った。<br />
「アシナヅチや、これまでトリカミの巫女を殺し続けてきたのは俺だ。なぜ助けた」<br />
「――うるせえな。たまたまだよ。たまたま。勢いっていうか」そう言い、イタケルはわざとらしく舌打ちした。「てめえのこと、ぶっ殺してやろうと思ってたのに……。助けちまったら……ああ、なんか、殺せなくなっちまった」<br />
イタケルは立ち去った。カガチは膝の間に頭を落とすような格好で、動かなかった。そのそばでヨサミは、じっと遠目に見つめている存在があった。<br />
エステルだった。<br />
あるとき、とうとう思い余ったようにヨサミは立ち上がった。エステルたちのそばへ行くと、座って食事をとっていたエステルを見下ろした。むろん彼女がやって来るのに、エステルのほうでも気づいていた。<br />
「なぜ、あんたがこんなところにいるの」冷ややかという以上の鋭さが、ヨサミの声音と視線にはあった。<br />
エステルは腰を上げた。向き合うと、エステルのほうがやや目線が上になった。<br />
その顔にヨサミの平手が飛んだ。乾いた空気の中、それはひどく響いた。<br />
気色ばんだのはカナンの者たちだった。「よい!」と、エステルが叫ばなければ、彼らはヨサミを取り押さえたに違いなかった。だが、そんなことには一切お構いなしに、ヨサミは二度、三度とエステルを打ち据えた。四度目には拳になった。<br />
エステルは口を切り、鼻血を流した。<br />
「エステル様!」<br />
「自分たちが何をしたか思い出せ!」エステルはモルデたちにそう言い、ヨサミと対峙し続けた。<br />
ヨサミの行動はますますエスカレートし、歯止めが利かなくなっていった。眼が吊り上り、一撃一撃に憎しみを込め、喚きながらエステルを打った。<br />
「おまえなんかッ! おまえなんか、わたしがッ! わたしが殺してやる!」<br />
「ヨサミ……」<br />
アナトが、そしてキビの巫女たちが彼女の元へ行こうと動き出した。<br />
が、その前にヨサミの手は宙に挙げられたまま止まっていた。<br />
二人の間にスクナが割って入っていた。<br />
「お願い……。もうやめて」スクナの眼が、ヨサミを見上げていた。「この人は、赤ちゃんがいるの。だから今は、やめてあげて」<br />
ヨサミは動揺したように眼をエステルの腹部へ、そして顔へ、また懇願するスクナのほうへ戻した。挙げた手が下せぬまま震えた。そのまま宙で指を揉みしだくように動かし、自分の目の前に持って行った。その手は血で汚れていた。<br />
ヨサミの脳裏に、トリカミの里で目の当たりにした惨劇がよみがえってきた。罪もない里人が殺されゆくさまが。<br />
みずからの手が、ヨサミに囁いた。お前の手も、すでにもっともっと血で汚れている。<br />
う……と呻きを漏らした。「こんな……こんなところで……卑怯者!! お前も戦え!」<br />
投げつけるようにエステルに叫ぶ。<br />
「わたしと殺し合え! そうしたら、わたしがお前を殺してやるのに……卑怯者……」<br />
ヨサミは震えていた。泣きながら震えていた。膝を折り、両手を大地についた。しばらくそのままでいた彼女は、やがて堪えきえなくなったように唐突に叫んだ。泣きながら。子供のように。<br />
「アナト! アナトォ!」<br />
キビの巫女たちが弾かれるように走り出した。そして、ヨサミの元へ殺到し、四方から抱きしめた。<br />
「アナト……わたし……わたし……」<br />
「いいのよ、もう。いいのよ、ヨサミ」<br />
<br />
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<br />
キビの巫女たちは、また一つになった。<br />
<br />
<br />
「あのような化け物を、どうにかできるか。その……〝黄泉返し〟とかいうもので」顔を腫らしたエステルが尋ねた。<br />
食事を終えた彼らは、焚火の一つの周囲を取り囲んだ。<br />
「いえ、エステル様。もう〝黄泉返し〟は難しいかもしれません」と、アナトが言った。「巫女が八人必要なのですが、アカル様を欠いた今、数が足りません」<br />
「クシナーダ様」シキが言った。「胆力のない巫女ではできない業だと申されておりましたこと、今ようやくわかりました。アカル様の時でさえ、わたしたちは心を乱してしまいました。そのためにアカル様を……ふがいない……」シキは自らを責めるように頭を振った。<br />
「それはわたくしも同じでございます」クシナーダも沈痛な面持ちだった。そして焚火越しに、エステルのことを見つめた。<br />
それを横で見て、ナオヒが言った。「もしかすると数は足りておるのではないか」<br />
「え?」巫女たちは驚いた。<br />
「エステルに教えておったろう。天の御柱の舞を……」<br />
「ナオヒ様にはお見通しですね」うっすらとクシナーダは微笑したが、それは悲しげにさえ見えた。<br />
「あ……佐草で」アナトは思い当たったように言った。<br />
「エステル様、舞をお願いできますか」クシナーダはエステルを見つめた。<br />
「わたしのできることなら、なんでもすると約束した。やれというのなら、やる」<br />
「で、でも、クシナーダ様。エステル様は巫女としては……」ナツソが疑念を呈した。<br />
「はい。エステル様には巫女としての素養はまったくありません。そのような生き方もなさっていません」クシナーダははっきりと断じた。「ですが、今だけ、エステル様は巫女として働くことができるかもしれないのです」<br />
「なぜ?」<br />
あっとイズミが声を上げた。「もしかして……腹のお子が?」<br />
クシナーダはうなずいた。「エステル様のお腹の子は、大変に強い〝力〟を持っています。男の子ですが、この子の〝力〟が母体を媒体にして巫女として働いてくれるように思うのです。あくまでも可能性ですが」<br />
「クシナーダ様、〝黄泉返し〟で使うのは天の御柱の舞なのですか」アナトが尋ねた。「あのような初歩的な舞で、〝黄泉返し〟が行えるのでしょうか」<br />
「もっとも基礎的なものにこそ大きな意味があるのです。皆さんはトリカミの里をご覧になったでしょう。トリカミの里はこのように――」クシナーダは小枝を拾い、地面に図を描いた。「東西南北の四方とその中間に磐座となる石を八つ配置し、里の中央には御柱を立てております。これがトリカミを聖域化する仕組みでもあるのですが、この〝黄泉返し〟では中央の柱にスサノヲがなります」<br />
クシナーダの視線を受け、スサノヲは頷いた。<br />
「そしてわたくしたち巫女は、この場合、それぞれの磐座となります。この時の舞は、かならず天の御柱の舞でなければならないのです」<br />
「わたしたちが磐座に……」ナツソが畏れ多いというように周囲を見まわした。<br />
「大丈夫です。すでに皆さんはもう、アカル様の時に同じことをやりました。今度はそれを踊りで行うのです」<br />
「それはつまり、あの化け物を中心に呼び込まねばならないということでもあるな」スサノヲが言った。<br />
「そうなります」<br />
「なにか方策は?」<br />
「ヤマタノオロチと化していようとなんであろうと、あれの本性はヨモツヒサメです。ヨモツヒサメが好むものを見せれば引きつけることができるでしょう」<br />
「憎しみや悲しみ……」<br />
「恐怖?」と、スクナが言った。<br />
「それ、いけるかもな」イタケルが乗ってきた。「あの化け物を見て怖がらないやつはいない。要は怖がって、あいつから逃げてくればいいんじゃねえか」<br />
「危険な役回りだが」と、スサノヲが言った。<br />
「なら、我らにやらせてほしい」モルデが言った。「うまくひきつけて見せる」<br />
他の者は顔を見合わせたが、承諾するしかなかった。<br />
「エステル様、今夜のうちに天の御柱の舞を、他のカナンの方々にもお教えしてくださいますか」<br />
クシナーダの申し出に、エステルは戸惑った。<br />
「あ、ああ。それはかまわないが、男たちにもか」<br />
「踊り手は一人でも多いほうが良いのです。もともとそのためにお教えしたのです」<br />
「わかった。モルデ、カイ――」<br />
エステルの促しを受け、二人の男は彼女と共にその場を離れた。カナンの民たちが集まっている焚火のほうへ戻っていく。<br />
「あとは鳴り物ですが、ナツソ様にも踊っていただかなければなりません」<br />
「それなら俺が――」と、オシヲが言った。「天の御柱の舞の調べなら、いつも吹いていたし、それにこの間作った歌だって、ずいぶん聞かされたから吹けるよ」<br />
「ミツハもきっと喜びます」クシナーダが笑顔になった。<br />
ナツソからオシヲへ、ミツハの笛が戻された。<br />
それを見守りながら、「ニギヒ様」とクシナーダは呼びかけた。「皆様も天の御柱の舞を、アナト様たちから教わっておいて頂けますか」<br />
「承知しました」<br />
「このようなことに巻き込んでしまい、本当に申し訳ありません」<br />
「何をおっしゃいますか。ご案じなさいませんよう」<br />
「こやつを巻き込んだのはわしじゃよ」ナオヒは、ひゃひゃと笑った。<br />
各自の為すべきことが分担され、自然と散開するような空気ができた。ヨサミはその場にずっと、アナトに肩を抱かれるようにして居合わせていた。一言も発さず。<br />
だが、その場を離れかけ、彼女はクシナーダの元へ戻ってきた。そしてその前で手をついた。<br />
「クシナーダ様、これまでのこと、お詫び申し上げます。とても許していただけるようなことではございませんが、本当に申し訳ありませんでした」頭を下げ、そして続けざまに言った。「ですが、クシナーダ様。わたしは自信がございません。〝黄泉返し〟なる業を、わたしなどがとうてい担えるとは思えません。わたしはもう巫女としての力も資格も、何もかも投げ捨ててしまった者です」<br />
「エステル様と同じようなことをおっしゃられるのですね」<br />
「え?」ヨサミは顔を上げた。<br />
「でも、エステル様はあなたとは違います。自分のできることならなんでもする。あの方はそうおっしゃいましたよ。あの方にはお覚悟があります」<br />
ヨサミはカナンの民のほうを見た。<br />
「人は過ちを犯します。それは、わたくしも同じです。でも、道を一度踏み外したからと言って、道に戻れぬわけではありません」クシナーダは優しく告げた。「可能性を見せてください」<br />
「ごめんなさい、クシナーダ様。わたしは……」表情を歪めながらヨサミは言った。「あの者たちを、どうしても許すことができないのです。あの者たちと心を一つにすることなど、絶対にできません。そうすべきだとわかっていても、どうしてもできないのです」<br />
泣きながらヨサミは顔を伏せた。<br />
「考えるのをおやめなさい。頭であれこれ考えず、ただわたしたちは自分のできることを一人一人為せばよいのです」<br />
「できること……」<br />
「許せないのなら、それでも良いのです。でも今のわたくしたちにできるのは、ただ歌い、踊ることだけです。それしかないではないですか。違いますか」<br />
「はい……」<br />
「だから、何も考えず、今はただ為すべきことを為しましょう」<br />
「はい……」<br />
涙をこぼしながら、ヨサミはアナトに支えられ、その場を離れた。<br />
そのとき、ヨサミはカナンの者たちに天の御柱の舞の振りを教えているエステルを見た。<br />
唯一の神を信奉するカナンの者にとって、それは邪教の業に違いないというのに――。<br />
「アナト……」<br />
「なあに、ヨサミ」<br />
「力及ばなかったらごめんね。でも、わたし、やる」<br />
肩を抱くアナトの手が、強く抱きしめてきた。<br />
<br />
彼女らを見送ってから、スサノヲはクシナーダのそばに来て腰を下ろした。その様子を見て、イタケルやオシヲ、スクナもその場を離れた。ぼーっとしていたが、ナオヒもあらためて気づいたように、その場をそそくさと離れて行った。にたにた笑いながら。<br />
二人だけが残った。<br />
「俺の役目は、カガチの時と同じと考えてよいか。ヤマタノオロチの動きを封じる……」<br />
「はい……」<br />
「承知した」<br />
沈黙が流れ、焚火の爆ぜる音だけが響いた。いつかと同じように。<br />
トリカミの里に初めて来たときと同じように、スサノヲはクシナーダの横顔を見つめていた。と、ふいにクシナーダが両手の中に自分の顔を隠した。<br />
「どうした?」<br />
クシナーダの背が震えていた。<br />
「どうした、クシナーダ」<br />
「怖いのです……」両手の指が開かれたが、その指も震えていた。<br />
スサノヲは彼女の震える手をつかんだ。<br />
「お願いです、スサノヲ……」見返すクシナーダの双眸は凍り付くようだった。「絶対に死なないでください。わたくしはあなたに会うためだけに生きてきました。姉や両親や、多くの里の巫女たちを見送り、今もイスズ様やアカル様や、アシナヅチ様やミツハも……わたくしはいつもいつも見送り続けてきました」<br />
クシナーダは本当に、心の底から恐怖していた。その怖れが、瞳の中にありありと見えた。<br />
「愛する者を見送りながら、わたくしはあなたに出会い、共に生きることだけを願って生きてきました。ずるい女です。わたくしには、あなたしかいないのです。お願い……」<br />
クシナーダは彼の衣を両手でつかみ、必死に懇願してきた。<br />
「死なないで……。これ以上、わたくしを独りにしないでください」<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
「わかった。約束する」<br />
「本当ですか……」<br />
「ああ」<br />
「あの瘴気を浴びたら、あなたでさえ無事では済みません。必ず避けてください」<br />
「ああ」<br />
「いかにその剣が強くても侮らないでください。剣ではヨモツヒサメを完全に浄化することはできません」<br />
「ああ、わかっている」<br />
「それから……それから……」<br />
クシナーダはそれ以上、喋れなくなった。スサノヲがその口を塞いでしまったからだった。二人の姿は焚火の明かりの中で、一つの影となって揺らめいていた。<br />
<br />
<br />
4<br />
<br />
夜が明けても、空は明るくはならなかった。まだ日蝕がそのままの状態にとどめ置かれているかのようだった。<br />
曇天の下、あたりはまるで白夜か薄暮の時のような情景であり、それは決してただの曇り空のせいではなかった。<br />
誰もが異常を感じ取っていた。つい昨日まで迎えていた当たり前の日常ではなく、何か世界全体の空気が大きく切り替わってしまったと感じさせるものだった。<br />
このままであれば、この世は滅ぶ……。それは突き刺さってくるような嫌な予感だった。<br />
<br />
クシナーダは斐伊川の近くにある小さな平野を、<b>その場所</b>にと定めた。そこには空から見れば豆粒のような杜(もり)がぽつんとあり、そこをスサノヲのあるべき御柱とした。そしてエステルを含む巫女たちを、その周囲に十分な距離を取って、八方に配置した。その周囲にはニギヒの配下たちを共に守りとして置いたが、カガチの時と異なり、人の護衛などまったく意味をなさぬは明らかだった。<br />
風もなく、静かな朝だった。<br />
まるで生物がこの世からいなくなってしまったのではないかと思えるほど。<br />
カガチはその静けさを、近くの小屋の中で感じていた。臥所に横たわる彼は、まだろくに身体を動かせない状態だった。全身の組織や細胞が作り変えられたというだけではない。彼の裡から抜け出て行った悪霊の如き力は、彼の生命力そのものも根こそぎ奪い取って行ったかのようだった。<br />
そばにヨサミがいた。彼女はずっと付き添っていた。一睡もすることなく。<br />
小屋の戸板が叩かれた。<br />
「ヨサミ、そろそろよ」<br />
アナトの声だった。<br />
ヨサミは音もなく立ち上がると、何も言わず、ただカガチの胸の上に置かれた手に自分の手を重ねた。そして小屋を出て行った。<br />
すべてがなくなってしまった――。<br />
ヨサミのいなくなった空間で、カガチはそれを感じていた。根っこにあったものがなくなってしまい、自分が空っぽになってしまっている。かつての怨讐も、今や彼を駆り立てるものにはなり得なかった。その記憶はあるのに、何か実感を伴わず、乾ききっているのだ。<br />
すべてがなくなったのは、あいつも同じだ――と、カガチは想った。ヨサミもまたかつてのカヤの巫女であった時、そしてその後、カナンへの復讐を心に誓っていた時の、そのすべてを失っている。<br />
いや、そうではない。ヨサミにはまだ、心を通わせる存在がいた。<br />
カガチにはもはやそれさえなかった。<br />
生きる価値もない。<br />
そう思えたが、では死ねるのかと言えば、その気力さえ湧かないのだ。<br />
やがて鳴動が聞こえた。キャーンという、あのおぞましい耳障りな叫びが聞こえ、化け物があたりの山々を揺るがせて突き進んでいるのがわかった。<br />
このまま、ここですべてが滅びれば楽かもしれない。<br />
カガチはそう考え、動かない身体を起こした。<br />
戸口まで出るのに、異様な時間がかかった。こじ開けた隙間に彼が見たのは、ヤマタノオロチの巨体が杜に向かって突き進んでいく姿だった。<br />
<br />
「頼むぜ」イタケルはそう言って、朱の領布を差し出した。<br />
スサノヲはそれを受け取り、首に回すのではなく、頭部に縛った。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
「おお、それもいいじゃねえか」<br />
「早く避難しろ」<br />
「スサノヲ――」<br />
「なんだ」<br />
「おめえはすげー奴だ。いや、おめえとクシナーダがすげえよ」<br />
スサノヲは首をひねった。<br />
「俺はな、アワジから頼まれてるんだ。クシナーダを泣かすな。もし泣かしたら、ヨミの国まで行って、ぶちのめしてやるからな」<br />
「イタケル……」<br />
「覚えとけよ」<br />
イタケルは駆け出し、杜から離れた。その杜に向かって、モルデたちが走って来るのが見えた。そして、その背後には山を越えてきたヤマタノオロチが迫って来ていた。<br />
あたりに瘴気をまき散らし、それが通過した周囲は、木々がみるみる枯れ、緑色の山は灰色か茶色に変わっていた。<br />
モルデたちが駆け抜けて行った。<br />
「スサノヲ様――!」<br />
「お頼みします――!」<br />
彼らは口々に、最後の望みを託して行った。<br />
スサノヲが背後にしている杜を呑み込むほど、ヤマタノオロチは巨大だった。<br />
キャ―――――ン!<br />
焼けただれたような胴体を見せ、八つのオロチの鎌首がもたげられた。その瞬時にスサノヲは飛び出した。フツノミタマの剣を、そのただれた胴体に突き刺し、裂く。<br />
キャ―――――ン!<br />
頭が割れるような叫びだった。オロチの首が次々にスサノヲを狙って食らいつこうと迫ってくる。<br />
<br />
笛が鳴った。<br />
高らかな笛のヒビキがあたりを貫き、それぞれの場所で身を隠していた巫女たちは姿を現した。皆、その胸に勾玉を下げ。<br />
先頭を切って、クシナーダの歌声が響いた。<br />
<span style="color: magenta;">どんな絶望にうちひしがれても</span><br />
アナトが追いかけて歌う。<br />
<span style="color: magenta;">どんなに濃い闇がたちふさがっても</span><br />
二人が声を合わせた。<br />
<span style="color: magenta;">心の奥底 消えない火がある</span><br />
<br />
ヨサミが<br />
<span style="color: magenta;">たとえひと時 憎しみ合っても</span><br />
エステルが<br />
<span style="color: magenta;">たとえひと時 わかり得ずとも</span><br />
二人が声を合わせた。<br />
<span style="color: magenta;">いつもどこかに信じたい想いある</span><br />
<br />
ヨサミはクシナーダに言われるまま、もはや心を空っぽにして動いていた。エステルとヒビキを合わせた瞬間だった。ヨサミの心の奥底で、重く閉ざされていたものが開き、動いた。<br />
そして彼女たちに続いて、すべての巫女たちが、そしてそれを取り巻く人々がヒビキを乗せてきた。<br />
そうすることで、さらにその閉ざされていたものは大きく開きはじめた。<br />
<br />
<span style="color: magenta;">さあ、心の岩戸開いて<br /> 呼び出そう<br /> 本当の自分<br /> 本当の気持ち<br /><br /> さあ、心の岩戸開いて<br /> 手を伸ばそう<br /> 世界に向かって<br /> 愛する人に</span><br />
<br />
その歌声のヒビキに包まれ、笛を吹くオシヲは、ミツハがかつてなく身近に存在するのを感じた。生きてそばにいたときよりも、ずっとずっと彼女はオシヲと一つだった。明るく無邪気な彼女の魂が、光となってすぐそこに在るのを感じた。彼女は今、オシヲに重なり合うようにして笛を吹いている。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
――オシヲ、わたし、嬉しい。オシヲがわたしの大好きなオシヲでいてくれて。<br />
声が聞こえた。滂沱と涙が溢れ、オシヲは何も見えなくなりながら、笛を奏で続けた。<br />
<br />
<span style="color: magenta;">さあ、心の岩戸開いて<br /> 呼び出そう<br /> 本当の自分<br /> 本当の気持ち<br /><br /> さあ、心の岩戸開いて<br /> 手を伸ばそう<br /> 世界に向かって<br /> 愛する人に<br /><br /> 手を取り合って</span><br />
<br />
歌が終わるのと共に、わーっという喚声が湧きおこり、周囲に広がった。カーラが先導し、大勢の民が杜の周囲に押し寄せていた。<br />
「クシナーダ様!」<br />
「スサノヲ様!」<br />
口々に叫ぶ彼らは、トリカミの里人たちだった。いや、そればかりではなかった。里人が手厚く面倒を見た、オロチ軍の傷病者たちも、動ける者は一緒になってそこへ来ていた。<br />
小屋を出たカガチは、その人々の異様な光景を眺めていた。彼らは怒涛のような流れとなって、みるみる杜の周囲を取り巻いた。<br />
「わたしたちも!」<br />
「いつものやつですよね!」<br />
「一緒に踊りますよ!」<br />
彼らはヤマタノオロチという怪物を目の当たりにし、もちろん恐怖を覚えたようだった。だが、その逡巡した彼らの心を鼓舞したのは、巫女たちの歌声とスサノヲだった。怪物に近いところで怖じることもなく歌を捧げる彼女たちの姿。大蛇の化け物と戦い続けるスサノヲ。<br />
人々は心を動かされた。<br />
<br />
ア――――。<br />
クシナーダが浄化のヒビキを送り始めた。<br />
ア――――。<br />
少しずつ音階を変え、アナトが、ヨサミが、シキが、ナツソが、イズミが、ナオヒが、そしてエステルがヒビキを重ね合わせ、織り合せて行った。<br />
彼女たちの胸の勾玉が燦然と輝きを放ち、それぞれの場所から小山を中心とする一帯をドーム型に包み込んだ。<br />
ヤマタノオロチは巫女たちを認識した。そして猛然と、まずクシナーダへ襲い掛かろうとした。スサノヲはそれを察知して回り込み、クシナーダへ向かって伸びて行く大蛇の首に光の太刀を振り下ろした。<br />
首は切断された。<br />
キャ――――ン!!<br />
巫女たちの調和のヒビキがかき乱されるほど荒々しくおぞましい叫びを上げ、のたうちまわる。斬りおとされた首から、真っ黒な霧のようなものが立ち昇った。<br />
もう一つの大蛇の首が大口を開け、瘴気を吐き出した。スサノヲはそれが直接巫女に襲い掛かるのをふせぐため、フツノミタマの剣に浄化の〝気〟を集め、それを送り出してぶつけることで祓った。<br />
怒り狂った大蛇は、スサノヲを呑み込もうと向かってくる。<br />
上段から渾身の〝気〟を込めて振り下ろしたその太刀が、オロチの頭を正面から断ち割って、その付け根まで引き裂いた。<br />
またあの金属的な叫びを上げ、オロチが苦悶する。<br />
「これで二つ」<br />
スサノヲはさらに攻撃を加えようとして、胸に異様な苦しさを感じた。喉がつまり、咳き込む。血の塊が吐き出された。<br />
祓いつづけてはいたが、ヤマタノオロチの瘴気はじわじわと彼の肉体そのものを蝕んでいたのだ。<br />
左右から大蛇の首が襲い掛かり、スサノヲは跳躍し、それを避けようとした。が、すでに思うほどの力もスピードもなく、彼の右太腿に一体の牙が食い込んだ。<br />
「!」<br />
スサノヲは叫んだ。痛いとか熱いとかいう以上の、そのまま脚がもげて落ちるような心地がした。剣を大蛇の頭に突き立てる。<br />
フツノミタマの浄化の〝力〟が、そのオロチの頭部を焼き、死滅させた。<br />
しかし、残る大蛇の牙が肩に、そして腕に噛みついてくる。<br />
スサノヲは絶叫した。全身が痺れ、意識が真っ暗になっていく。大蛇の牙には人を簡単に殺傷する禍々しい毒のようなものがあった。<br />
ア――――。<br />
巫女たちが捧げる調和のヒビキ。それが遠のく彼の意識を引き戻した。<br />
そして全身に回る毒を中和した。彼は吠えた。まるで自身が竜巻と化したようだった。荒々しく舞いながら、彼はまとわりつく大蛇の首をずたずたに切り裂いた。<br />
<br />
<br />
5<br />
<br />
浄化のヒビキを送ったのち、巫女たちは両手を上方へ捧げるような姿勢で止まっていた。<br />
オシヲの笛からあらたな調べが送り出されてくる。クシナーダは閉じていた目を開いた。<br />
――さあ、皆さん、参りましょう。<br />
クシナーダの思念が広がった。そして彼女は祈りのような、祝詞のような歌を口ずさんだ。そして巫女たちはいっせいにゆるやかな舞を踊り始めた。<br />
<br />
<span style="color: magenta;">風の神 山の神 川の神 火の神<br /> 海の神 星の神 ヤオヨロズ すべてと<br /> 太陽と月の下<br /><br /> 尽きることない暖かな光<br /> すべてを潤す恵みの雨<br /> この天地(あめつち)に生まれた命よ<br /> ヤオヨロズ 集い来て さきさいたまえ</span><br />
<br />
彼女たちの舞に合わせ、取り囲む人々が同じ舞を演じはじめていた。それは中央で演じられている、荒々しく激しい死闘とはまったく位相を逆にしたものだった。<br />
だが、その周囲が作り出す穏やかで調和的なヒビキが、スサノヲを支え、そしてヤマタノオロチの禍々しさを封じ込めようとしていた。<br />
それは誰にでもできる簡単な舞だった。しかし、それはその場に大きな変化が生み出さしめていた。<br />
その変化は意外にも、エステルを真っ先に打った。<br />
クシナーダから伝授された舞は、今や無意識にさえ踊れるほどだった。もともと体を動かすのが得意なエステルには、むしろ静かすぎる舞。<br />
その静かな動きを同じくする人。人。人。<br />
その所作がシンクロをすることで、意識がいつの間にかシンクロしていく。通じて行く。<br />
そして人とつながれることで、いきなりエステルの意識と視野が広がった。見えてくる風景。そしていつの時代かの体験。<br />
はたと彼女は悟っていた。<br />
<b>わたしはこれを知っている</b>――。<br />
みなと共有して舞う、この体験を彼女は知っていた。<br />
いつの時代にか、エステルはこの舞をこの地で舞ったことがあると、明確に思い出したのだ。その時の情景がありありと見える。今よりもさらに古代のどこか……エステルはその時代にこの地に生まれ、そして当たり前のように舞っていた。多くの仲間がいた。その人々はもちろんエステルにとっては見知らぬ人たちばかりである。そのはずなのだが、しかし、皆、知っている者ばかりだった。モルデ、カイ、シモン、ヤイルもまたその中にはいた。なぜかそうだとわかるのである。<br />
――そなたらは還るさだめ……。<br />
メトシェラの言葉が脳裏をよぎり、今本当の意味で胸に落ちてきた。<br />
魂は生まれ変わるのだ!<br />
それはエステルのそれまでの観念を粉々に打ち砕くほど、強烈な認識だった。<br />
エステルはカナンの民としての存在だけではない。この地上に幾多の人生をすでに刻み、まるで違った宗教や風習の暮らしを、数え切れぬほど積み重ねてきていた。カナンのエステルは、その中のたったひと粒に過ぎなかった。<br />
なんということだ。なんという……。<br />
その真実の前には、カナンが神に選ばれた唯一の民だとか、そのような思い込みは、まったく無意味だった。それは失望どころか、エステルに笑いの衝動を起こさせた。<br />
ハッ……なんだ、これは。なんで、こんなことがわかる。いや、なんでわからなかったのか。わたしはなんという……。これでいいのではないか! 皆、あるがままで! ハッ……アハ……アハハハハハ!<br />
エステルは踊りながら、心の中で笑っていた。<br />
――そう、それで良いのです。<br />
エステルのそばには光があった。イスズの光はカナンの民たちを護るように淡く広がっていた。<br />
<br />
ヨサミは、まったく違った光を感じていた。<br />
舞の中に立ち現われてきたのは、亡くなった母だった。巫女としてカヤを導いてきた母。そしてこの舞を幼かったヨサミに教えてくれた人だった。彼女は今、ヨサミのそばで一緒に舞っていた。そしてさらに、その母の隣に重なり合って、父の光があった。<br />
――ヨサミ。<br />
声がする。<br />
「お父様……お母様……」<br />
――よく頑張ったね。<br />
二人から暖かいいたわりが感じられた。<br />
「ごめんなさい、お父様、お母様」<br />
いいんだよ、と彼らは伝えてきた。それどころか、今までのヨサミのすべてを許していた。そしてこの場にエステルがいて、カナンの民がいることを、彼らが喜んでいた。<br />
「これでいいの……?」<br />
これで良い――そう伝える二人の背後から、さらに眩い光が現れてきた。<br />
アカル様だ、とヨサミは感じた。<br />
――あなたに託します。ヒボコのこと……カガチのこと、お願いいたします。わたしの〝力〟をあなたにお預けいたします。<br />
アカル様! とヨサミは心の中で呼びかけた。わたしはあなたに嫉妬していました。あなたはあまりにも眩しかった。それにわかっていました。あなたがなにゆえにか、カガチを愛していることを。<br />
――あなたもカガチを素直に愛してください。<br />
アカル様!<br />
<br />
その同じ光は、カガチにも見えていた。<br />
彼は大勢が輪となって舞うその現場を見下ろす丘にいた。樹木に寄りかかって、かろうじて身体を支え、その場に膨れ上がる光とヒビキを感じていた。それはますます強くなり、彼の視野を覆い尽くしてくるように思えた。<br />
――カガチ。<br />
二つの光が並んでいた。そして、その中に良く似た面差しの女が二人。<br />
アカルと、そしてもう一人は彼の実母であった。<br />
その二つの光に彼は抱きしめられた。<br />
彼はその場に崩れ落ちた。幸福感という酒に酔い――。<br />
<br />
<br />
「あと一つ……」<br />
スサノヲの前に大蛇の首が一つだけ対峙していた。その恐ろしい眼の中に、スサノヲはあのヨモツヒサメの存在を感じていた。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
<span style="color: magenta;">赤は赤 青は青 白は白 黒は黒<br /> 空は空 海は海 風は風 人は人<br /> 太陽と月の下<br /><br /> 愛を形に咲き誇る花<br /> 愛を届けて飛び交う虫<br /> この天地に回る命よ<br /> ヤオヨロズ 結び合い イワイたまえ</span><br />
<br />
クシナーダの歌声は祈りとなり、空に澄み渡るように響いた。<br />
ヒビキは踊りと一体となり、その場を満たした。<br />
その中でクシナーダは視ていた。<br />
<br />
はるかな太古、始源の時よりこの地球という星に生み出された生命の数々。<br />
人類という種。<br />
その膨大な歴史と、人が積み上げてきた体験。<br />
文明の盛衰。<br />
時のリセット。<br />
その中でつながる、命という螺旋。<br />
回る。<br />
回る。<br />
命が回る。<br />
そしてクシナーダも回る。<br />
巫女たちも回る。<br />
民たちも回る。<br />
彼らが一人一人体験し、接している無数の情報。それがクシナーダの中に流れ込んできた。そこから、クシナーダはどこへでも、いつの時でも、今すぐに飛び渡っていくことができた。いつの時代も、どの世界も、今ここで身体と心を通じて共有することができる。<br />
一体となることができる。<br />
人は皆、地球の子――。<br />
命はつながり。<br />
命は回る。<br />
それは喜びの現れ。<br />
<br />
<br />
スサノヲは裂帛の気を放った。<br />
急迫する大蛇の首が粉々になり、霧散した。<br />
そこには濃厚な闇の気配が残された。<br />
あのヨモツヒサメの元の意識だけが漂っていた。そこへスサノヲはフツノミタマの剣を突き入れた。以前とは異なり、浄化の力を帯びた剣は、ヨモツヒサメの芯を完全に捉えた。<br />
剣に貫かれ、身動きも霧散もできず、釘づけにされたヨモツヒサメは苦悶した。が、逃げられぬと悟ると、その闇の顔で笑った。<br />
――オマエハ人柱トナル。黄泉ヘ連レテ行ク。<br />
闇の人型は、愛おしげにスサノヲの顔を撫でた。<br />
「上等だ。貴様らを道連れにできるのなら」<br />
<br />
<br />
――クシナーダ。<br />
懐かしい声が聞こえた。<br />
「お姉様……」<br />
カガチに殺められ、ヨミへ旅立ったアワジだった。そして姉巫女に重なり合うようにして、これまでクシナーダを守ってきた他の年上の巫女たちの意識が現れた。<br />
彼女たちは天女さながらに宙を舞い、暖かい賛美の想いを寄せてきた。よくやったね、頑張ったね、と。<br />
――良い子、良い子。おまえは良い子だ。<br />
さらに大きなヒビキが愛となってクシナーダに降りてきた。<br />
ウズメ様だ、と感じた。過去、どのような神事や、どのような舞の時にも感じたことのないような、全面的な一体感が生じた。愛と喜びが、クシナーダの身体の隅々、指先やすべての毛先にまで溢れるほどに広がり、その波動は彼女を通じて波及し、舞い踊る巫女たちすべてに伝播した。そして彼女らは、クシナーダが視ているものの片鱗を共有した。<br />
そしてまた声が聞こえた。<br />
――時が至ったぞ! 皆、目覚められよ!<br />
天より大きなヒビキだった。サルタヒコ様の声だと感じるクシナーダの認識は、そのまま他の巫女たちのものとなった。<br />
<br />
空が震えた。山野も震えた。<br />
<br />
直後、見渡す限りの天地(あめつち)から、荘厳な光が湧き立ち、ありとあらゆる神々と精霊がはじけ飛ぶように生まれ出でるのを巫女たちは感じた。<br />
それらが光の渦となって、まるで星雲のように回った。ぐるぐるぐるぐる。<br />
大きな力がその中心に注ぎ込まれていった。<br />
<br />
<span style="color: magenta;">この天地を満たす命よ<br /> ヤオヨロズ 共に在り 歌いたまえ<br /><br /> ヤオヨロズ ヒビキあい わらいたまえ</span><br />
<br />
クシナーダの歌声の終わりと共に、静寂が訪れた。<br />
巫女たちは向き合い、中央の上空へ両手を捧げていた。そして取り巻く大勢の人々も。<br />
<br />
轟いた。<br />
まるで巨人が腹の底から発する空が割れるほどの哄笑が誰の耳にも聞こえた。<br />
わっはっはという、ものすごい轟きの笑い声に続き、いっせいに無数の笑い声が湧きあがった。子供の笑い声。女の笑い声。老人の笑い声。赤ん坊の笑い声。<br />
それは長く続いた。<br />
そして鎮まった。<br />
<br />
「天の岩戸が……」アナトが。<br />
「開く……」シキが。<br />
<br />
見上げる上空の闇が切れた。<br />
そして扉が開かれるように、そこから眩い光が差しこんできた。<br />
<br />
「日が戻った……」イタケルが。<br />
その光は地上を照らしたかと思うや、まるで生き物のようにうねった。光り輝く竜のようだった。それは躍動し、クシナーダの捧げた手へと集まった。<br />
眩しい光の塊は、彼女の手の中で鏡となった。<br />
それを掲げると、天を割った光が鏡を通じ、その場をまるで焼き尽くすように照らした。スサノヲとヨモツヒサメが対峙する、その場所を。<br />
まだ浄化されぬままその場にとどまっていたヨモツヒサメが悲鳴を上げた。<br />
それはこの世の中に存在する、ありとあらゆる怨念的な喚き声を集めた断末魔の悲鳴だった。<br />
彼らの足元に、黄泉の口が開いた。真っ黒な淵のようなものの上にスサノヲは背を見せて立っていた。ヨモツヒサメを剣で貫いたまま。<br />
<br />
その時、エステルはお腹に異常を感じた。痛みと共に、生暖かいものが腿を伝うのを感じた。あっと叫び、エステルは両手でお腹を押さえた。だが、直感的に知らされるものがあった。<br />
今の彼女には視えていた。<br />
光の珠が彼女の腹部を抜け出てきた。その光の中に、小さな胎児が勾玉のように見えた。<br />
「あ――。待って!」<br />
光の珠は彼女を慰めるように、目の前でくるくると回った。<br />
「待って……わたしの……」<br />
すうっと離れていく光の珠。ここまで彼女を支え、役目を終えて去っていくのだとわかった。それは加速して、クシナーダが照らす場所へ向かい、そしてスサノヲの足元に開いたヨミへ通じる淵へと飛び込んで行った。<br />
するとそれに引っ張られるように、ヨモツヒサメがその淵へと吸い込まれていった。<br />
<br />
闇の淵は消えた。<br />
そして空はみるみる雲が割れ、明るい日差しに満たされた。<br />
<br />
「やった……」呆然とイタケルが呟いた。<br />
「やった……」スクナも、そしてオシヲも似たように呟いた。<br />
そのざわめきは群衆の中へ広がって行った。<br />
「やった!」叫びが上がる。歓喜の叫びが。<br />
歓喜が広がっていく。小躍りして喜ぶ者。抱き合う者。<br />
<br />
ヨサミはアナトの元へと駆けていた。一度、途中で転んだ。それでもすぐに起き上がり、向こうからやって来るアナトとぶつかるように抱き合った。<br />
二人とも涙でぐしゃぐしゃだった。<br />
そこへシキとナツソ、イズミも飛びついて行く。<br />
<br />
「エステル様……?」モルデは彼女のそばにしゃがみこんだ。<br />
まだ自らのお腹を抱いたままエステルは泣いていた。悲しいのと、寂しいのと、それでもこの歓喜の中での共有と……そのすべての涙だった。<br />
<br />
「ナオヒ様、やりましたな」<br />
ニギヒがかける言葉が耳に届かぬように、ナオヒは視線を杜に釘付けにしていた。杜はすでにヤマタノオロチの瘴気で、すべての木々が立ち枯れていた。彼女の場所からは、その前に立つスサノヲの横顔が見えていた。<br />
「ニギヒよ、あそこへ連れて行っておくれ」<br />
<br />
クシナーダもまた全力で駆けていた。<br />
杜の前で背を向けているスサノヲの元へ。<br />
人々が集まってくる。彼の元へ。<br />
クシナーダはその先頭を切って彼の元へたどり着いた。息を切らしながら、呼びかける。<br />
「スサノヲ――」<br />
その瞬間だった。<br />
剣を持っていたスサノヲの腕が、肩の付け根からもぎ取れた。剣は音を立てて地面に落ちた。<br />
キャア、とクシナーダは、それまで誰にも聞かせたことのないような悲鳴を上げた。<br />
次の瞬間。<br />
<br />
ざ、という音を立てて、スサノヲの身体は崩れ落ちた。<br />
<br />
人々は信じられぬというようにその場に凍りつき、眼を見張った。<br />
そこには白い砂のような山が残され、その砂の中に彼が身に付けていた衣と、そしてクシナーダの朱の領布が半ば埋もれて残されていた。<br />
風が吹いた。<br />
その風は白い砂を動かした。<br />
「スサノヲ……」<br />
ふらふらとクシナーダはおぼつかない足取りで歩いて行った。そしてその砂の中に手を入れた。<br />
「スサノヲ……」<br />
その中をかきまわすようにする。<br />
巫女たちが、ナオヒが、そして遅れてエステルたちもその場にやって来た。<br />
「塩だ……」白い砂を指先で確かめ、イタケルが洩らした。<br />
スサノヲの肉体は塩と化していた――。<br />
「みずから浄めの塩となったか……」ナオヒが呟いた。<br />
クシナーダは、朱の領布を握りしめ立ち上がった。<br />
「そんなはずない……そんなはず……」思いつめたように繰り返した。そして彼女はどこかあらぬ方を仰ぎ、視線を送った。<br />
「スサノヲ……?」<br />
また違う方へ歩き、呼びかけた。<br />
「スサノヲ……」<br />
その姿はあまりにも痛々しく、眼を背けずにはおれなかった。<br />
<br />
スサノヲ――!!<br />
<br />
クシナーダの叫びは、蒼穹に吸い込まれていった。<br />
<br />
<br />
<br />
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そして、そのそばに天津甕星(あまつみかほし)の輝きはなかった。<br />
クシナーダはしばらくその光を求めて空を見つめていたが、あきらめたように視線を地上に下ろした。<br />
トリカミの里では朝早くから人々が働いていた。朝餉を作る者たち、戦で失われた家屋を再建する者たち。だが、その朝はいつもと少し違った慌ただしさがあった。<br />
「おはようございます、クシナーダ様」<br />
すれ違う者、気づいた者が声をかけてくる。<br />
「今日から寂しくなりますなあ。皆様、出立で」<br />
そんなことを口にした男の脇を、そばで聞いていた妻が肘で小突いた。あ、と男は自分の口を押えた。気遣ってくれる里人にクシナーダは微笑を返し、ゆっくりと祭殿へと戻って行った。<br />
そこにはすでに巫女たちとカーラ、イタケルが待っていた。旅支度を整えて。<br />
「あら、皆さん――もう行かれるのですか」<br />
驚いてクシナーダは彼らの元へ近寄った。<br />
「はい、できれば、今日中には山を越えておきたいので」と、アナトが答えた。<br />
「そうですか。皆さんも道中はお気を付け下さいね」<br />
「クシナーダ様もご自愛ください」<br />
「ありがとうございます。――あ、少しお待ちください」<br />
クシナーダはアナトのそばにいるシキを見て、ふいに踵を返した。祭殿の階段を上がって行き、そして中から麻布に包まれた長いものを持ってきた。<br />
「シキ様、どうかこれをあなたのもとでお祀り下さい」<br />
クシナーダが差し出したものを受け取り、その感触にシキは驚きの眼で見返した。<br />
「クシナーダ様、これは……」<br />
「フツノミタマの剣です。あなた様はこの剣と何かご縁がありそうです。あなたの国、イソカミでこの剣の御霊をお鎮め下さい」<br />
「わたしなどが――よろしいのですか」<br />
「はい。その剣はきっといつかまた、大きなお役目を果たすときが来ます。それまでイソカミでお預かりください」<br />
スサノヲの剣。フツノミタマの剣。それはスサノヲの魂にも近しいものであろうに――。<br />
「わかりました。大切にお預かりいたします」涙目になってシキは、剣を抱きしめるようにした。<br />
クシナーダは一緒に旅支度を整えているイタケルに眼を移した。<br />
「イタケルも本当に行ってしまうのですね」<br />
ああ、と彼は小さな皮袋に手に応えた。「とりあえずはこの巫女さんたちの護衛をカーラとやって……ついでに種まきでもしてこようかと思う」<br />
「種まき?」<br />
「ここらへんの野山で集めた木の実だ」袋を掌で弄びながら言った。「キビはクロガネづくりのために、あちこち禿山になってるらしい。だから、木を育てることをしたらどうかと思ってな」<br />
「じつはわたしたちも一緒に集めたのです」<br />
アナトが言い、巫女たちはそれぞれの腰紐に結んでいる皮袋を見せてくれた。<br />
「もっとたくさんありますよ」と、背後で荷物を背負ったカーラが、肩の荷を揺らせて見せた。<br />
「たくさんの木を植えて育てて、一色じゃない山に戻す。それがこのワの国中に広がる。どうだ、いいだろ?」イタケルはそう言って笑った。<br />
「いいアイディアです」クシナーダはにっこりとした。<br />
「あ、あいであ?」と、アナト。<br />
「いい考えということです」<br />
そこへエステルがやって来た。一同は向き直った。<br />
「エステル様、キビでお待ち申し上げております。どうか御無事で民を連れて参られますよう」カーラはそう言った。「到着されましたら、わたしがヤマトへご案内申し上げます」<br />
「よろしく頼む。ヤマトか――」エステルの瞳には希望があった。その眼を空の向こうへ向けた。<br />
「四方を山に囲まれた、良い土地でございます」<br />
「うむ。楽しみにしている」<br />
「エステル様も……」躊躇いがちに口を開いたのはヨサミだった。「今日、発たれるのですか」<br />
「ああ。ここ数日は天候もよいだろうと、クシナーダが言ってくれたので」<br />
「そうですか……」<br />
「その……ヨサミ、そなたはキビには戻らぬと聞いたが」<br />
「はい。あの方と――」ヨサミはかすかに後ろを振り返った。<br />
人々から外れたところでカガチは一人、空を眺めていた。<br />
「タジマへ行きます。アカル様のお祀りされていた海と山を、わたしは引き継ごうと思っています」<br />
「そうか。……その……謝って済むことではないと、百も承知している。が、本当にすまなかった」<br />
ヨサミは頭(かぶり)を振った。それは拒否でもなく、まだ全面的な許しでもなく――。<br />
ただ、彼女はこう言った。<br />
「またいつか、お会い致しましょう」<br />
「ああ……ああ!」救われたようにエステル大きな声で応えた。<br />
そうして巫女たちはトリカミを離れて行った。イタケルとカーラも随行し。彼らは南へ。<br />
ヨサミとカガチは東へ。<br />
<br />
カガチは最後まで人と和することはなかった。<br />
しかし、かつての彼でもなくなっていることは明らかだった。そしてそんな彼が唯一、身近に置いているのがヨサミだということもまた、たしかなことだった。<br />
この後、カガチとヨサミの間には、タジマ豪族の始祖が誕生する。<br />
カガチはその後、北陸を治めたが、晩年に近づき姿を消した。さらに東国へ向かったとも噂された――。<br />
ヨサミが丹後半島で祭祀を行った地は、後にこう呼ばれた。<br />
吉佐の宮(よさのみや)と――。<br />
<br />
<br />
朝餉を終えると、エステルたちとニギヒ・ナオヒも出立した。<br />
クシナーダたち里の者は、これを見送りに斐伊川に沿った道を下った。小舟で川を下って行ける地点までだった。<br />
川の港には船が何艘もすでに用意されていた。<br />
ここから斐伊川の河口近くまで下り、そこから大型の船に乗り換え、それぞれ大陸の半島とツクシに向かうのだった。<br />
その川の港まで到着したところで、ニギヒが言った。<br />
「クシナーダ様、またもう一度、お話をさせてください。機会をあらためて参ります」<br />
「あのお話ですか」<br />
「はい。わたしは……とても恥ずかしい思いを致しました」<br />
「と申されますと?」<br />
「いつぞや、クシナーダ様は申されました。民の幸せのために皇子の立場を捨てられるかと。わたしはそのとき、できるとお答えしました。が、わたしは偽善者です」<br />
「偽善者?」<br />
「じつは……わたしにはできることがあるのです。ツクシの争いを治めるために」ニギヒは躊躇いを押しのけるようにして言った。「南のクナ国のある豪族の娘との……その……縁談があるのです。わたしがその地へ行き、その娘と婚姻を結べば、あるいはクナ国との戦を鎮める一助になるやもしれませぬ。いや、そのように努力できるはずなのです。しかし、わたしはこの話を避けてきたのです」<br />
「そうだったのですか」<br />
「皇子を捨てる覚悟があるのなら、その程度のことできなければおかしい……。わたしは巫女の皆様が、自分のできることをなさろうとするその御姿に感動し、同時に自分を恥じたのです。わたしは……この婚儀を受けようと思います。自分の為すべきことを為します」<br />
はっはっはと笑い声を上げたのはナオヒだった。<br />
「肩の力が入りすぎておるな、ニギヒ」<br />
「ナオヒ様……」<br />
「まあ、そなたが何を選ぶか、それはそなたの勝手じゃ」<br />
「またそのようなことを……」ニギヒは困った顔をした。<br />
「クシナーダよ」<br />
はい、とクシナーダは向き直った。するとナオヒは、その痩せた腕で、クシナーダを抱き寄せた。驚き、目を丸くするクシナーダ。<br />
「この老いぼれがそなたとこうして相見えるのはこれが最後じゃろう。じゃがな……」<br />
「…………」<br />
「また会おう」<br />
「はい、また……」<br />
ナオヒは離れた。<br />
「では、クシナーダ様」と、頭を下げようとするニギヒを、やはりクシナーダは呼び止めた。<br />
「お待ちください。オシヲ、あれを――」<br />
随行していたオシヲが、やはり麻布にくるまった剣をニギヒに捧げた。<br />
麻布の中を見たニギヒは驚き、「これは――」とクシナーダを、そして船の用意をしているエステルを振り返った。<br />
「エステル様がスサノヲに下されたカナンの宝剣です。どうぞお持ちください」<br />
エステルは話題に上っていることを察したように振り返り、近づいてきた。そして、カナンの宝剣を見て「それは――」と言葉を切った。<br />
「なぜ、これをわたしに」ニギヒは尋ねた。<br />
「エステル様にはこれを――」クシナーダはやはり随行しているスクナを意識して言った。<br />
スクナは麻布に包まれた円盤状のものをエステルに差し出した。受け取ったエステルは不審げにそれを開き、絶句した。<br />
ニギヒも言葉を失った。<br />
それは〝黄泉返し〟を行った最後にクシナーダの手に現れた鏡であった。<br />
「これは――そなたらが宝とすべきもの。このようなもの、わ、わたしは受け取れん」<br />
「違います。お預けするのです」<br />
「あ、預ける……?」<br />
「互いに大事なものを分かち合う……。そして、それをいつか一つになさってください」<br />
「いつか一つに……」<br />
「このワの国の戦乱は、もうすぐ収束に向かうでしょう。そのときにそれらはきっと、一つになっているはず」<br />
「それは……そなたの予言か」<br />
エステルの問いに、クシナーダは笑った。<br />
「いいえ、願いです。どうかお聞き届けください。このことを経験した幾多の人たちが、いつかこのワの国で一つになることが、わたくしの心からの願いです」<br />
ややあって、エステルは応えた。「わかった」<br />
ニギヒも頷いた。<br />
そうして彼らは船で川を下って行った。見送ったのち、クシナーダたちは里へ引き返した。<br />
<br />
「オシヲ、スクナ――」帰路、クシナーダは斐伊川を眺めて言った。「先に帰っていてくれませんか。わたくしはここで少し用事があります」<br />
「え? こんなところで――」オシヲが言った。<br />
が、スクナははっとしてオシヲの袖を引っ張った。そしてクシナーダに応えた。「わかった。先に帰ってるよ。行こう、オシヲ」<br />
「え? え? ちょっと」<br />
オシヲは戸惑いながら年下のスクナに引っ張られていった。他の里人も、クシナーダに異を唱えることはなく、そのまま里へ向かった。<br />
クシナーダは独りになった。<br />
そして、その河原をいつまでも見つめていた。<br />
スクナは気づいていた。洪水のために景色が多少変わっていたが、そこはスサノヲとクシナーダが出会った場所だった。あのときアケビが生っていた木も、奇跡的に残されていた。<br />
ずっと、飽きることなく、クシナーダはその景色を眺めていた。<br />
変わらぬ川のせせらぎ。風に揺れる草木。<br />
あのときはそう――ススキが中洲や河原に揺れていた。その中に、二人はお互いの姿を認めた。<br />
中洲を飛び渡ってきたスサノヲ。<br />
――みかほし? いや、俺はスサノヲ。<br />
――いいヒビキだ……クシナーダ。<br />
<br />
クシナーダは道から降り、河原へと向かった。そして歌った。<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船<br />
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ<br />
゚・*:.。..。.:*・゚あなたの訪れ<br />
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた<br />
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ<br />
<br />
゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船<br />
゚・*:.。..。.:*・゚長い年月<br />
゚・*:.。..。.:*・゚ただ、あなただけ<br />
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた<br />
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ<br />
<br />
その歌は星の神話というだけではなかった。<br />
それは魂の物語だということを、クシナーダは知っていた。川を隔てて出会う男女。<br />
一年に一度の逢瀬。<br />
魂がこの世で出会い、束の間しか愛し合うことを許されていない。<br />
その悲しさを歌ったものなのだ。<br />
<br />
スサノヲはいない。<br />
きっとアシナヅチとの約束を守り、このワの国を守る御霊として、今はヨミへ赴いたのだ。<br />
だけど、きっと。<br />
いつかまた会える――。<br />
<br />
追いかけて行こう――。<br />
クシナーダは思った。胸に固く誓った。<br />
あの人の魂をどこまでも追いかけて行こう。<br />
今そばにいなくても。<br />
<br />
あッと声を上げ、クシナーダは歌声を途切れさせた。不意に強い風が吹き、彼女がかけていた朱の領布を舞い上げた。そして埃が眼に入り、その痛みに彼女は片手で眼を覆った。<br />
痛かった。<br />
<br />
「痛い……」そう口に出した。「痛い……痛い!」<br />
大きな声を出した。そうして彼女は両手で顔を覆い、河原に膝をついた。<br />
涙が溢れてくるのは、埃で痛いからではなかった。そんなものはとっくに洗い流してしまうほど、とめどなく涙は流れた。<br />
「……どうして……? どうして今じゃないの!? わたしはこうして生きながらえているのに、どうしてあなたはここにいないの!? 嘘つき! 死なないって言ったのに!」<br />
子供のようになっていた。幼子が泣くように、クシナーダは河原に突っ伏して泣き出した。大声で。拳で河原の石を叩きながら。<br />
ずっと泣き続けた。<br />
<br />
また風が吹いた。<br />
クシナーダは領布のことを思い出した。スサノヲが最期に身に着けていたもの。<br />
それだけがクシナーダのもとに残された、彼との思い出となる品だった。<br />
彼女は身を起こして、涙を拭き、あたりを見まわした。<br />
<br />
領布は対岸にまで飛ばされていた。<br />
それを拾う手があった。<br />
<br />
クシナーダは操り人形のように、それを見て立ち上がった。<br />
<br />
対岸にはスサノヲが見えた。彼が領布を首に回すところだった。<br />
これは願望だ、とクシナーダは思った。願望が見させている幻視だと。<br />
それでもかまわなかった。<br />
いつまでもいつまでも、その姿を見ていたかった。<br />
<br />
「クシナーダ」<br />
声が聞こえた。<br />
彼の声だった。<br />
<br />
クシナーダは引き寄せられるように足を踏み出した。二歩三歩。そして川の中に入って行った。<br />
冷たい川の水が、意識を鮮明にした。<br />
「スサノヲ……?」<br />
いつか消える幻視だと思った。<br />
だが、彼は消えなかった。それどころか、彼は歩き出し、近づいてきた。足が川の水をざぶざぶとかき乱す音まで聞こえる。<br />
「スサノヲ!」<br />
幻でも何でも構わなかった。彼女は駆け出した。水を撥ね飛ばし、岩を飛び渡り。一度たりとも瞬きもせず、彼の姿を目に焼き付けながら――。<br />
<br />
二人は川の中洲で向き合った。<br />
差し伸べる手が震えた。怖かった。触れることなくその姿が消えてしまうことに。<br />
だが、クシナーダの手は彼の腕をつかんだ。<br />
<br />
「クシナーダ」スサノヲは彼自身、今の状況が信じられないというように言った。「もう一度生まれることができた……。もともとこの身は、エステルとモルデの子としてあったものだったのだ。エフライムに似ていたのも道理……血がつながっていたんだ。時間はこのネの世界にしかない。だから――」<br />
スサノヲの言葉をクシナーダは大声で遮った。<br />
「そんなこと! そんなことどうでもいい!」<br />
スサノヲは黙った。<br />
「ああ……スサノヲ、あなたなのね。本当にあなたなのね」クシナーダは両手で彼の肉体の感触を確かめながら問うた。<br />
「ああ……ああ、そうだ! クシナーダ!」<br />
スサノヲはクシナーダを抱きしめ、そして抱き上げた。そしてふりまわすように回った。<br />
その遠心力に逆らい、クシナーダは彼の頭を抱きしめ、そして下ろされたときも決して離れずにいた。めくるめく心地の中。<br />
二人は眼と眼を合わせた。<br />
そして口づけを交わした。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
歓喜のヒビキが広がった。<br />
<br />
まだ蕾さえ生まれていない木々。梅や桜が、そしてツツジが。<br />
みるみる蕾を育て、そして急速に花を開かせた。艶やかに、美しく。次々に。<br />
<br />
<br />
それは二人を中心にして、広がって行った。<br />
クシナーダのことを案じて、その場に残って一部始終を見ていたオシヲとスクナは、真っ先にその奇跡を目の当たりにした。涙顔の彼らのまわりも、たちまち花で満ちた。<br />
<div style="text-align: center;">
<br /></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">
<br /></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">
「ヒビキが戻ってきた」驚きに打たれ、ナオヒが振り返った。</div>
そして老巫女は満足げに笑った。<br />
船出をしたばかりのエステルとニギヒ、それぞれの大型船は並んで日本海を走りはじめたところだった。<br />
彼らもまた奇跡を目の当たりにした。<br />
離れ行くナカの国の山野が、突如として色づき始めたのだ。本州に近いところを走っていたニギヒの船で気づいた者が大声を上げて指差し、エステルたちもそれに気づかされた。<br />
「なんだ、これは……」モルデが呆然と、狂ったように咲いていく山野を見つめた。<br />
エステルの胸元で勾玉が光っていた。<br />
彼女はそれを手にし、覚った。<br />
「そうか――そうか!」<br />
<br />
<br />
<br />
キビへの道をたどる者たちの中では、シキが真っ先に気づいた。背負っていた剣に、暖かく強いヒビキを感じたのだ。剣の麻布を開き、その輝きを目にし、彼女は他の巫女たちに起きたことの直感を伝えた。<br />
そうするうちに、彼女たちのまわりでも花が次々に開いた。<br />
<span style="text-align: center;">イタケルとカーラも眼を見張って、花々で満たされていく街道に佇んだ。</span><br />
<span style="text-align: center;"><br /></span>
<div style="text-align: center;">
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「花が……」<br />
ヨサミが足を止め、そしてカガチも後ろを振り返った。<br />
西の方から次々と咲き誇ってくる桜並木。<br />
カガチは眼を細めた。それは彼が誰にも見せたことのない、穏やかな表情だった。<br />
<br />
<br />
祝福のヒビキが満ちている。奏でているのは花々。<br />
<br />
そのヒビキは<br />
やがて<br />
<br />
ネの片隅から広がり、<br />
まるい星すべてへと広がった。<br />
<br />
まるく青いその星は、回りながら息づいていた。<br />
その星のはるかかなたには、天の川とそれを挟んで輝く星が二つあった。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
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<br />
<br />
――クシナーダは、スサノヲの妻となった。<br />
そのためワの女王の出現は、六十年ほど遅れることとなる。<br />
<br />
<br />
fin<br />
<br />
<div>
<br /></div>
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<br /></div>
占術師αの物語 episode.1<br /><br /><br /> <br /> <br /> 1<br /><br /><br /> 『アルバイト求む』<br /><br /><br /> なんという無愛想な貼り紙だろうか、と紗与里(さより)は思った。<br /><br /> 時給も書いてなければ、業務内容も書いていない。<br /><br /> しかもよくよく見れば、貼り紙は新聞広告のチラシの裏の白い面に、マジックで文字を書きなぐっているだけだ。<br /><br /><br /><br />「せめて、応談とか書こうよ」と、思わずつぶやく。<br /><br /><br /><br /> こんなものを見て、求人に応じる人間がいるのだろうか。<br /><br /> 怪しい。<br /><br /> 怪しすぎる。<br /><br /><br /><br /> これがもし、まっとうなビルのショーウインドゥに貼られているとかいうのなら別かもしれない。しかし、見るからに怪しそうな外見の建物だった。<br /><br /><br /><br /> 両サイドには背の高いビルが建っている、その狭間に肩をすぼめるようにして佇んでいる、古ぼけた木造の二階建てだった。<br /><br /> もう少し手入れして外観をきれいにすれば、もしかするとロッジ風の喫茶店とか、スナックとか、そんなお店に格上げできるかもしれない。<br /><br /><br /><br /> しかし、現状はどう見ても、時代に取り残されて風化しつつある、ただの小屋だった。<br /><br /><br /><br />「α占術研究所」という看板が、入り口の横に掲げられている。<br /><br /> 奥を覗きこもうとするが、カットされている硝子が木枠にはめ込まれていて、よく見えなかった。<br /><br /><br /><br /> ノブを捻るまで、三回くらい、やめて引き返そうと思った。<br /><br /> が、結局手を伸ばした最大の理由は、友人の樹子(じゅこ)の強力な推薦があったからだった。<br /><br /><br /><br /> ガン! いきなりドアが開き、ちょうどその瞬間に前のめりになっていた紗与里の額を打ち付けた。<br /><br /><br /><br />「いっ」そこでひと呼吸吸い込んだ。「いった――ッ!」<br /><br /><br /><br /> ドアの向こうから出てきた男は、額を抑えて悲鳴を上げている紗与里に冷ややかな眼差しを当て、「これは失礼」と言った。<br /><br /> そして出てくると、ドアに貼っていた『アルバイト求む』の紙を剥がした。<br /><br /><br /><br />「あ、え……」<br /><br /> 痛みがいっぺんに引っ込んだ。<br /><br />「あの、アルバイト、決まったんですか」<br /><br /><br /><br />「決まったよ」と、男は言った。「採用した」<br /><br /><br /><br />「そ、そうなんですかっ……」<br /><br /> 落胆と不安が襲ってきた。不安というのは、何よりも切実な生活の不安だった。<br /><br /><br /><br />「さあ、入って」<br /><br /><br /><br />「え?」<br /><br /><br /><br />「エクセルくらい使えるよね」<br /><br /><br /><br />「あ、ああ、はい、まあ。MOSの資格持ってます」<br /><br /><br /><br />「上出来。じゃ、君の席はそこね。で、とりあえず、これをあいうえお順に入力して、顧客リストを作ってくれないかな」<br /><br /><br /><br /> どさっと分厚いファイルが4冊くらい、机の上に置かれた。どのファイルも、中の用紙で膨張しているような代物だった。<br /><br /> 呆然とそれを見て、<br /><br />「はい?」<br /><br /> と、紗与里は男を振り返った。<br /><br /><br /><br />「時給は××××円。一応、休みは決まってないけど、要望があれば言って。あ、1日あたりの労働時間もね」<br /><br /><br /><br />「時給××××円? そんなにもらえるんですかッって言う前に、あたし、採用されてるってことですか」<br /><br /><br /><br />「仕事したくて、ドアの前で何度も貼り紙見てたんじゃないの」<br /><br /><br /><br />「面接とかないんですか。り、履歴書とか」<br /><br /> 慌ててショルダーバッグの中から、ほとんど徹夜で書き上げた履歴書を差し出す。求人情報誌に付録されているものだが、書き損じや、文字の汚さのあまり自己嫌悪になりながら、3回くらいコンビニに通ったのだ。<br /><br /> 店に置かれている無料の求人情報誌を持って帰る時も、3回目には窃盗をしているようなやましい気持ちになりつつ、ようやく書き上げたものなのだ。<br /><br /><br /><br />「ああ、じゃ、ここへ置いといて。後で見るから」<br /><br /><br /><br /> カ――ン! と軽い金属的な擬音が頭の中で響くほど、男は無関心だった。<br /><br /><br /><br /> そう言いながら彼は、自分の机の前に座った。そしてノートパソコンの画面を見ながら、キイボードを叩き始めた。<br /><br /> 机の上には2台のPCがあり、2つともノートパソコンだった。片方の画面を覗きこみ、何やら操作した後、またもう一台のノートパソコンのほうで、おそらく文字入力の作業を続けている。<br /><br /><br /><br /> 紗与里はたっぷり20秒ほど、その場で呆然としていた。<br /><br /><br /><br /><br />「あ、悪いけど、コーヒー入れてくれないかな。インスタントのやつ。ブラックで」<br /><br /><br /><br /><br /> その言葉で突き動かされた。<br /><br /> コーヒーなどのお茶類がどこで用意できるかは、見たらわかった。<br /><br /> ビルの谷間にある奥へ向かって細長い建物なのだ。一番奥右手が洗面所で、通路を挟んで反対側に給湯室らしきものがあった。<br /><br /> 給湯室にはコンロやシンクもあった。<br /><br /> 棚にはまともな珈琲豆もあったし、ドリップする容器もあった。<br /><br /><br /><br /><br />「あのー、インスタントですかぁ?」と、呼びかけた。<br /><br />「インスタント」という必要最低限の返答が戻ってきた。<br /><br /><br /><br /><br /> ハーブティなども常備しているようだし、しゃれたカップも用意されていた。<br /><br /> しかし、悩んだ挙句、紗与里はもっとも使用されていると思しき猫の絵柄の入ったマグカップにインスタントコーヒーを入れた。それがシンクの横の水切りの上に置かれていたからだ。<br /><br /><br /><br /><br />「ありがとう」<br /><br /> マグカップを運んでいくと、男は作業しながら礼を言った。<br /><br /> いろんな意味で、ほっとする。<br /><br /><br /><br /><br />「あ、あの、本当にあたし、採用されたんでしょうか」<br /><br /><br /><br /><br />「辞めたいのなら辞めてもいいけど、今すぐ辞めたらさすがに時給は払えないよ」<br /><br /><br /><br /><br />「あ、いえ。あの、よかったらさせてください。でも、あの……せめて……」<br /><br /> あなたのお名前を、と言おうとしたとき、店の扉が荒々しく開いた。<br /><br /><br /><br /><br /> スーツ姿の男が二人、店に入ってきた。そして、メガネをかけた背の高い男が言った。<br /><br />「那智(なち)九郎さんですか」<br /><br /><br /><br /><br />「はい。そうですが」<br /><br /><br /><br /><br />「警察です。少しお話をお伺いしたいのですが」<br /><br /><br /><br /><br /> 男が警察手帳を提示したとき、紗与里は軽いめまいを覚えるとともに、とんでもないところへ来てしまったと思った。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> 2<br /><br /><br /><br /><br /><br /> 「県警捜査一課の三崎と申します。こっちは吉川」<br /><br /> 刑事はそう言いながら、提示していた警察手帳を胸にポケットにおさめた。<br /><br />「よろしかったら、署までご同行願えないでしょうか」<br /><br /><br /><br /><br />「もう30分もしたら来客がありますので同行は無理ですね。ここでお願いします」<br /><br /> 那智は刑事の顔も見ず、キイボードを打ち続けていた。相手が警察だというのに、まったく動揺した様子もない。それどころか、奇妙なことを口走る。<br /><br />「「いや、面白い」<br /><br /><br /><br /><br />「は?」<br /><br /><br /><br /><br />「このタイミングで警察とは……。どうぞ、そこへおかけください」<br /><br /><br /><br /><br /> 刑事たちは彼のデスクの前にある椅子に腰かけた。<br /><br /><br /><br /><br /> おろおろしている紗与里に、那智はそのとき初めて履歴書を見て、<br /><br />「ええと、斎木(さいき)さんか。お二人にお茶を出してあげて」と指示した。<br /><br /><br /><br /><br />「は、はいッ!」<br /><br /> 飛び上がるように反応して、紗与里は給湯室へ向かった。<br /><br /><br /><br /><br /> ととと、と柔らかい軽い足音がした。何だろうと思ってみると、給湯室横にある階段を白と黒の長い毛並みをした猫が降りてくる。<br /><br /><br /><br /><br /> うわ、かわいい~~~。<br /><br /><br /><br /><br /> 目がくるくる真ん丸で、宝石みたいだった。<br /><br /><br /><br /><br /> こんな事態ながら、紗与里は思わず手を伸ばした。<br /><br /> が、猫は手の届く少し前で足を止め、不審そうに紗与里を見た。指先の匂いを嗅ぎ、ふいっと知らん顔するようにすり抜けていく。<br /><br /><br /><br /><br /> ナアォ、と鳴き、那智のデスクの上にひらっと上がった。<br /><br /> そうすると当然、二人の刑事と顔を突きあわせることになる。<br /><br /><br /><br /><br /> 沈黙。<br /><br /><br /><br /><br /> と、いきなり、ファーッと猫は牙をむき出し、威嚇するような声を発した。<br /><br /> 丸めた背と長くて太い尻尾の毛が逆立っている。<br /><br /><br /><br /><br /> 刑事が思わず引くほどの迫力だった。<br /><br /><br /><br /><br />「ベガ、おとなしくしてなさい」と、那智が頭を撫でる。<br /><br /> すると猫は、そのまま見張りをするように、机の上に居座った。<br /><br /><br /><br /><br /> 刑事二人と、那智とその飼い猫。<br /><br /><br /><br /><br /> 後ろから見ると、異様な光景だった(ちょっと可笑しい)。<br /><br /><br /><br /><br />「那智さんは金井さんという方をご存知ですか。金井直子さん」<br /><br /><br /><br /><br />「その前に、これは何の捜査なのか、お伺いしてもよろしいですか」<br /><br /><br /><br /><br />「殺人事件です」<br /><br /><br /><br /><br /> ひええ~~~っ<br /><br /> 紗与里は本当に恐れおののいた。<br /><br /> 殺人事件の捜査員がやってくるような場所に、アルバイトで雇われてしまった……。<br /><br /><br /><br /><br /> 大丈夫なの!?<br /><br /> と思う一方、好奇心がむくむくと膨らみ、お茶を入れる作業をしながら、耳は外の会話に向かってダンボになっていた。<br /><br /><br /><br /><br />「で、金井さんから僕のことを聞いてきたということですか」<br /><br /><br /><br /><br />「そうです」<br /><br /><br /><br /><br />「ということは、首が見つかったということでしょうか」<br /><br /><br /><br /><br />「…………」<br /><br /><br /><br /><br /> 首? 首ってなに? なんなの、いったい?<br /><br /><br /><br /><br />「そうなんですよね? だから、刑事さんは僕のところへ来た」<br /><br /><br /><br /><br /> 刑事は咳ばらいをした。<br /><br />「まあ、そういうことです。金井さんはあなたが言われる場所を調べた。そこから本当に頭蓋骨が見つかった」<br /><br /><br /><br /><br />「二つ?」<br /><br /><br /><br /><br />「ええ、二つ」<br /><br /><br /><br /><br />「よかったじゃないですか。事件が起きてからもう十何年も見つからなかった頭部が見つかったんですから」<br /><br /><br /><br /><br /> も、もっと聞きたい! はっきり聞きたい!<br /><br /> 紗与里は急いでお茶を持って出た。<br /><br /> 刑事の前にお茶を出すと、自分のデスクに座って硬直したようになり、何もせず耳だけをそばだてた。<br /><br /><br /><br /><br />「被害者のものと確認されたんですか」<br /><br /><br /><br /><br />「ええ、まあ」<br /><br /> 刑事たちは具合が悪そうだった。自分のペースではなく、なぜか那智のペースで話が進んでいるからだった。<br /><br />「私たちが確認したいのは、那智さん、あなたがなぜ被害者の首がある場所を知っていたかということです」<br /><br /><br /><br /><br />「知りませんよ」<br /><br /><br /><br /><br /> 畳み掛けようと思っていた三崎は、空けた口から続きがうまく出なくなり、身体を前後に揺らした。へたくそなドライバーがさせる車のノッキングみたいな動きだった。<br /><br /><br /><br /><br />「いや、知っていたということでしょう。現にそこから首が出たわけですから」<br /><br /><br /><br /><br />「刑事さんがおっしゃりたいことはおおよそ見当が付きます。誰も見つけられなかった首の場所を僕が言い当てた。つまりその場所を知っている僕が犯人なのではないか? そういうお考えですよね」<br /><br /><br /><br /><br /> はあああ? ? ?<br /><br /> 紗与里は口が半開きになってしまった。<br /><br /><br /><br /><br />「斎木さん」<br /><br /><br /><br /><br />「は、はいっ!」<br /><br /><br /><br /><br />「さっきも言いましたけど、顧客リスト」<br /><br /><br /><br /><br />「あ、はいっ!」<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里は分厚いファイルを手に取った。PCを立ち上げ、エクセルを起動させるが、開いたファイルのデータなど、ろくに眼に入ってこなかった。<br /><br /> 那智と刑事たちの会話ばかりが耳から脳に届く。<br /><br /> 他の情報は、いっさい、微塵も入る余地がなかった。<br /><br /><br /><br /><br />「僕は金井さんに依頼され、非業の死を遂げられたご親戚の首の場所を推理したにすぎません。十何年も首だけが見つからないままでは、成仏もできないだろうと、金井さんは言われました」<br /><br /><br /><br /><br />「推理?」<br /><br /><br /><br /><br />「推理ですね」<br /><br /><br /><br /><br />「どうやって? われわれだって、いろいろな可能性を考え、あちこち調べた。問題の場所だって、事件発生後、調べてる」<br /><br /><br /><br /><br />「じゃ、見落としたんでしょう」<br /><br /><br /><br /><br />「見落とし?」<br /><br /><br /><br /><br />「現にそこから首が出たのなら、その当時の捜査が不十分だったか、あるいは首がどこかに隠されていて、警察の捜査が終わってからそこに隠されたか、どっちかです。しかし、犯人が決定的な証拠となる首を、しかも二つもいつまでもどこかに隠し持っていたというよりは、最初からそこへ埋めるか隠すかした。それを見つけられなかっただけだという方が正解じゃないかな」<br /><br /><br /><br /><br />「だとしても!」<br /><br /> 三崎は声を荒らげた。そして、我に返り、咳ばらいをした。<br /><br />「いや……そうだとしても、おかしいじゃないですか。なぜ、あなたが警察のわれわれよりも、首の場所を正確に推理できたのか」<br /><br /><br /><br /><br />「占いですよ」<br /><br /><br /><br /><br />「占い?」<br /><br /><br /><br /><br />「ええ。ホロスコープ・チャートを見て、そしてタロットカードを引き、結論を下しました」<br /><br /><br /><br /><br /> 3<br /><br /><br /> 「占い。ハッ! 冗談もたいがいにして頂きたいですな」<br /><br /> 三崎刑事は威嚇するような剣呑な調子で言い、身を乗り出した。<br /><br /><br /><br /><br /> そのとたん、また机の上のベガが、「ファー」と怒気を発した。<br /><br /> 今にも引っかかれるのではないかと、刑事も思わず身を引く。<br /><br /><br /><br /><br /> たかが猫一匹のために、ずいぶんやりにくそうだった。あるいは猫が嫌いなのかもしれない。<br /><br /><br /><br /><br />「あなたが僕の話を信用できないのは、きわめて当たり前の反応ですね。チャートで説明をしたところで、たぶん理解もできないでしょうし」<br /><br /><br /><br /><br /> 三崎はむっとなった。<br /><br />「説明できると?」<br /><br /><br /><br /><br />「できますよ。なぜ、僕がそのあたりに首があるだろうと言ったかは」<br /><br /><br /><br /><br />「聞かせてもらえますか」<br /><br /><br /><br /><br /> 三崎は四十代半ばだろう。がっしりとした体つきをしていて、いかにも武道とかやっていそうだった。負けん気も強いのだ。<br /><br /><br /><br /><br /> ふむ、と那智はうなずき、PCを操作して、そしてディスプレイを刑事に向けた。<br /><br /><br /><br /><br />「これは事件発生時のイベント・チャートです」<br /><br /><br /><br /><br />「イベント?」<br /><br /><br /><br /><br />「出来事が起きたときのホロスコープです」<br /><br /><br /><br /><br />「ホロスコープとは?」<br /><br /> むきになったように質問する。<br /><br /><br /><br /><br />「地球を中心にして見た12星座と太陽系の天体の位置を表示したものです」<br /><br /><br /><br /><br /> 三崎がその説明を理解したとは思えなかった。<br /><br /> 画面には、円形の図の中に赤や青の線が走っている。周辺に記号のようなものが散らばっていた。<br /><br /><br /><br /><br /><a href="http://ameblo.jp/zephyr/image-11933743804-13085923719.html"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/proxy/AVvXsEiYPch4ut4zjzBnkBnftcmAS_LuJ4LJzx29CeUhbZ1XfP1K47hsq_4opO1ESj0ESPYDT_eoKs7YNCKuKpwYCOOcckD-MYXMNACrbTwHKtBObL7DGgV5lZflGpel8VQPLZTPUFqX1kbznLE2Xxq6PA6_2Fp9_ODfSxbUeRKTtxyA2SppCvyaayeErrc8sBMP6qOUDl60_pkQni5CWyt2=" /></a><br /><br /><br /><br /><br />「私が金井さんからお伺いしたところによると、犯行はこの日の夕方5時からくらいから翌日の2時半くらいの間だとか。それに間違いないですか」<br /><br /><br /><br /><br />「ああ、被害者の老夫婦が最後に目撃されたのが夕方の5時ごろで、この老夫婦の家が燃えていると119番通報があったのが、午前2時半ごろだからな」<br /><br /><br /><br /><br />「この9時間半のどこかで被害夫婦は殺されているのですが、その時刻は確定していません。とりあえず世間にこの事件が知られるきっかけとなった、2時半のものを作成しましたが、この図は私なりの判断で修正して、一応、18時半に設定しています。ここが犯行時刻と決まっているわけではありません」<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里はずっと耳を傾けていたが、言っていることの半分くらいが理解できなかった。<br /><br /><br /><br /><br />「事件が起きたときのチャートからは様々なものが読み取れますが、じつはこの日のチャートには夕方であろうと、深夜であろうと、変わらぬある特徴があります」<br /><br /><br /><br /><br />「特徴?」<br /><br /><br /><br /><br />「ほら、ここ。ここに一つだけ星が離れているでしょう」<br /><br /><br /><br /><br /> 三崎は眉間にしわを寄せ、画面に顔を近づけた(ちょっと猫の様子を気にしながら)。<br /><br /> もう一人の吉川という刑事も、メガネを直しながら画面を見た。<br /><br /><br /><br /><br />「火星です。この時のチャートは、この火星だけがぽつんと離れた状態だったということです」<br /><br /><br /><br /><br />「それで?」<br /><br /><br /><br /><br />「これが切り離された首です。火星には頭部という意味がある」<br /><br /><br /><br /><br /> …………<br /><br /> 聞いていて、紗与里は背筋に冷たいものを感じた。<br /><br /><br /><br /><br />「ほかにも火星は、暴力、刃物、火災なども暗示します。この事件は、老夫婦が殺害され、首を切断され、家が放火された。そして首は見つかっていない。そういう事件です。この事件の起きた日のチャートとしては、これは実に申し分ない」<br /><br /><br /><br /><br /> 那智は腕組みをし、たんたんと解説している。<br /><br /><br /><br /><br />「申し分ない?」<br /><br /><br /><br /><br />「ええ、うまく事件を説明するチャートだということです」<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里の耳にも、彼の発言はやや不謹慎に思えた。<br /><br /><br /><br /><br />「面白がっとるんですか、あんたは」<br /><br /> 三崎も同じように感じたらしい。<br /><br /><br /><br /><br />「面白いというか、興味深くチャートを見ているだけです」<br /><br /><br /><br /><br />「これは殺人事件なんだぞ。人が死んでいるんだぞ」<br /><br /><br /><br /><br />「あのね、刑事さん」<br /><br /> 那智はうんざりしたように言った。<br /><br />「僕が面白いと感じているのは事件そのものじゃない。人が殺されたのも面白いとは思っていない。事件とチャートがうまくつながっていることが興味深いと言っているだけです」<br /><br /><br /><br /><br />「…………」<br /><br /><br /><br /><br />「続きを聞きたくはないですか」<br /><br /><br /><br /><br /> 三崎はむっつりとしたまま、うなずいた。<br /><br /><br /><br /><br />「この火星はこの事件全体を物語ると同時に、首そのものの象徴です。ですから、僕はこの火星が首の隠された方位だと判断した」<br /><br /><br /><br /><br />「方位?」<br /><br /><br /><br /><br />「この場合、北東方位です。被害者の家から見て」<br /><br /><br /><br /><br />「首が出たのはたしかに北東です」<br /><br /> と、吉川刑事が三崎に言った。<br /><br /><br /><br /><br />「北東方位にある池か貯水池かプールか、そのような水辺に埋めるか、水の中へ沈めるかしたのではないかと判断したのは、タロットカードです」<br /><br /><br /><br /><br /> 那智はPC画面を操作し、記録してあったのであろう、タロットの写真を表示させた。<br /><br /><br /><br /><br /> それはあまりにも衝撃的な出来事を物語っていた。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> 4<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a href="http://ameblo.jp/zephyr/image-11935168231-13085927522.html"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/proxy/AVvXsEhSI7rxYI4q67Obxql82tPpqJle2s_PCv0je-8Baup0scdDCwNwlVd_9O6pRmresmyW6IpcCEABasxtJ5rGsRJqedXxi9ghvYsdKa6QMTiS_KZMPiqY9Gsrcfy6BJ50qXe3-p1wdQk7y-d9VDSNV6tlIk2id7puGknCwqUmTrRtSxh5uvhK6h3igMAIxaR-7hpqIE_3JGzKgad2_XWL=" /></a><br /><br /><br /><br /><br />「このカードは、『首はどこにあるか』という質問で引いたものです」<br /><br /> 那智の言葉に、二人の刑事はカードの画面を覗きこんだ。<br /><br /><br /><br /><br /> その背中越しに、紗与里も覗いた。鼻の下が長くなってしまう。<br /><br /><br /><br /><br />「しかし、カードはおそらく事件全体の構造を表現してくれています。最初の『吊るし』のカードの逆位置は、この場合、被害者と見ていいでしょう。ずばり犠牲者的なカード展開です。<br /><br /> その下の『女帝』が見ているのは、『神の家』の逆位置。<br /><br />『神の家』は天から火が降ってくるカードですが、逆位置になると当然、火は下からついています。これが放火されたということ」<br /><br /><br /><br /><br /> 聞いていて、紗与里の顔から表情がなくなる。少し蒼ざめていたかもしれない。<br /><br /><br /><br /><br />「『神の家』の下にあるのは、『力』と『斎王』のカード。<br /><br /> それはまあ、置いといて、上に戻ります。<br /><br />『月』のカード、そして『星』のカードが並んでいます。<br /><br /><br /><br /><br />『月』には二つの建物と手前にプールか池か、そのようなものがある。この隣の『星』のカードも水辺で瓶の水を流している図になっていますが、うまい具合に『月』のカードとつながっているように見えます」<br /><br /><br /><br /><br />「たしかに」と言ったのは、吉川刑事だった。<br /><br /> むっとして三崎が、肘で小突く。<br /><br /><br /><br /><br />「カードの質問は、『首がどこにあるか』です。この二枚はその落ち着く先を暗示しています。<br /><br /> この場合は、ずばりどこか池か川か、貯水池とかプールとか、そのようなもののそば。<br /><br /> そのそばに、この『星』の女性が、首を二つ、沈めたということ」<br /><br /><br /><br /><br />「なんで、そう言える?」と、三崎。<br /><br /><br /><br /><br />「この女性が持っている二つの瓶。これは二つの首の象徴です」<br /><br /><br /><br /><br /> ゾ――――!<br /><br /><br /><br /><br /> ひぃっと、紗与里は小さなため息のようなものを漏らした。<br /><br /><br /><br /><br />「斎木さん……」<br /><br /> 那智の冷ややかな眼が見ていた。<br /><br /><br /><br /><br />「あッ、す、すみません」<br /><br /> 慌てて仕事に取り掛かろうとする。<br /><br />「あ、あの、このデータをまるごと写せばいいんですか。け、けっこう、書き込みがありますけど」<br /><br /><br /><br /><br />「そうだね。よろしく頼む」<br /><br /><br /><br /><br />「はい……」<br /><br /> 冷や汗が滲んだのは、那智に仕事のことを言われたからではなく、彼のカード解説があまりにもリアルだったからだ。<br /><br /><br /><br /><br />「ちょっと待ってくれ。瓶は瓶であって、首じゃない」<br /><br /><br /><br /><br />「たしかに。ただ、カードというのはイマジネーションで解読するものなんですよ。その質問に対して、もっとも適切な表現を取るカードが出るという前提で解読する。他にそれを適切に表現するカードがなければ、これで暗示するしかないわけです。たとえば……」<br /><br /><br /><br /><br /> 那智は机の引き出しから、きれいな布に包まれたカードを取り出した。<br /><br /> 解説しているものと同じカードだった。<br /><br /><br /><br /><br />「この中にはズバリ切られた首を表現するカードがあります。これです」<br /><br /> 恐ろしい絵柄のカードを彼は提示した。<br /><br /><br /><br /><br /> 巨大な刃物を持った骸骨のカードだった。その足元の黒いところに、男女の首が転がっている。<br /><br /><br /><br /><br />「『13番』――一般的には『死神』と呼ばれるカードです。これがなぜ、この質問に対して出なかったのか? もっとも切られた首を表現するには適切なのに。なぜだと思いますか?」<br /><br /><br /><br /><br />「知るか」<br /><br /><br /><br /><br />「この『13番』のカードだと、切られた首はこの黒い土壌の上に転がっています。つまりこの絵だと、土のある山の中とかに遺棄されたか、あるいは埋められたというイメージが強くなる。<br /><br /> 首が水の中に沈められたのなら、この『13番』は適切ではないことになる」<br /><br /><br /><br /><br /> そういうふうに読むんだ……紗与里はエクセルのセルに、顧客の名前、日時、鑑定内容など、セルの項目を設置して、フォーマットを作る作業を行った。まったく機械的に。<br /><br /> 心ここにあらず。<br /><br /><br /><br /><br /> そのため何度もやり直した。<br /><br /><br /><br /><br />「チャートからは首は北東方位。そしてそこに池か何かあるのでは、と金井さんにお尋ねしたところ、金井さんはあるとお答えくださいました。<br /><br /> 鑑定からひと月、金井さんはその心当たりの池を探されたのでしょうね」<br /><br /><br /><br /><br />「…………」<br /><br /><br /><br /><br /> 刑事二人は黙り込んでいた。<br /><br /> 彼らの常識からは、あまりにもかけ離れた論理、結論の出し方に、どのように反応していいか、わからなくなってしまったようだった。<br /><br /><br /><br /><br />「じつはチャートにも、池とか水に関する暗示があります」<br /><br /> 那智はPCを操作して、先ほどのホロスコープの画面を出した。<br /><br />「この日の太陽のサビアンシンボル――まあ、星座の1度ずつに象徴的な言葉を与えたものだとお考えください。それは、これです」<br /><br /><br /><br /><br />『先祖の井戸にいるサマリアの女』<br /><br /><br /><br /><br />「この……ナンセンスな話を信じろと?」<br /><br /> 三崎は脚をひどく揺すっていた。<br /><br /><br /><br /><br />「あなたがたがこの話に対してできる態度は二つです」<br /><br /> 那智は平然と言った。<br /><br />「僕の話を信じること。そしてもう一つは、逆に信じないこと。信じない場合、僕が金井さんに行った占いは、ただの偶然に当たったのだと、そのように理解することになる」<br /><br /><br /><br /><br />「勝手に決めるな。三つ目だってあるだろう」<br /><br /> 貧乏ゆすりがどんどんひどくなる。<br /><br /><br /><br /><br />「三つ目?」<br /><br /><br /><br /><br />「あんたが老夫婦を殺害し、その場所を知っていた。このホロなんたらも、このカードも、あんたが都合よく並べて解説してるんだ」<br /><br /><br /><br /><br />「カードは金井さんの目の前で引いていますので、勝手にこの構造を作ることは不可能なんだけどな。それに僕が犯人という説は、絶対にない」<br /><br /><br /><br /><br />「なぜ?」<br /><br /><br /><br /><br /> 那智は立ち上がった。そして背後の金庫を開き、その中からあるものを取りだして、刑事の前に放った。<br /><br /> 猫のベガが、鼻先で嗅ぐ。<br /><br /> パスポートだった。<br /><br /><br /><br /><br />「ご覧ください」<br /><br /> <br /><br /> 刑事は那智の顔をにらみ、そしてそれを開いた。<br /><br /><br /><br /><br />「その年の2月から8月まで、僕は日本にいなかった。占星術の研究のため、イギリスへ行っていました。事件は4月に起きている」<br /><br /><br /><br /><br /> カランと鈴が鳴り、入り口のドアが開いた。<br /><br />「あのー、10時から予約している佐藤ですが」<br /><br /><br /><br /><br /> 主婦らしき女性だった。 <br /><br /><br /><br /><br />「裏付けはしっかり取ってください。さあ、お客様がいらっしゃいましたので、お引き取り下さい」<br /><br /><br /><br /><br /> 刑事二人は出て行った。<br /><br /> 代わりに佐藤という女性が、椅子に腰かけた。<br /><br /><br /><br /><br /> 那智の指示で、紗与里は女性に好きな飲み物を尋ね、また給湯室に入った。<br /><br /> 紅茶を用意しながら思った。<br /><br /><br /><br /><br /> ――もしかして、この男性(ひと)、すごい占い師?<br /><br /><br /><br /><br /> しかしこの事件はまだ終わらなかった。<br /><br /><br /><br /><br /> 三日後、二人の刑事がまた訪ねてきたのだった。<br /><br /> 三崎は、今度は女性刑事を連れてきていた。<br /><br /><br /> 5<br /><br /><br /> その日、紗与里は寝坊した。<br /><br /><br /><br /><br /> ハッ!!として目を開き、枕元の目覚まし時計を見た瞬間、さーっと血の気が引いた。<br /><br /><br /><br /><br /> 隣の布団はもぬけの殻だった。<br /><br /><br /><br /><br /> 扉を開け、階段を降りて行く。最後の二段で踏み外し、くるぶしのあたりをしたたかに打ち、<br /><br />「いった――い!」<br /><br /> と叫びながら、足を引きずりながら、それでもリビングに辿り着くと……<br /><br /><br /><br /><br /> 不機嫌そうな母・希代子が、子供にご飯を食べさせている図が目に入った。<br /><br /><br /><br /><br />「お母さん、おはよう」<br /><br /> 無邪気な息子の声。<br /><br /><br /><br /><br />「おはよう……」<br /><br /><br /><br /><br />「おはよう……」<br /><br /> 最後の「おはよう」は、むろん母の声だ。<br /><br />「おはやくないけどね」<br /><br /><br /><br /><br /> 冷ややかな一言が付け加えられた。<br /><br /><br /><br /><br />「お、起こしてくれればいいのに」<br /><br /> 首をすくめながら紗与里は言った。<br /><br /><br /><br /><br />「起こしましたよ。三回も。目覚まし時計にスマホのアラームも入れたら、計五回、あなたは起こされています」<br /><br /><br /><br /><br />「や、やっぱり?」<br /><br /><br /><br /><br />「翔君のママはほんとにお寝坊さんだよねー」<br /><br /> 母は別人のような笑顔になって、溺愛している孫に話しかけた。<br /><br /><br /><br /><br />「だよねー」<br /><br /><br /><br /><br />「にちゃいの翔君はすぐ起きられるのに、にじゅうきゅうちゃいのママがお寝坊さんなんて、おかしいよねー」<br /><br /><br /><br /><br />「よねー」<br /><br /> と、二歳になったばかりの翔が、かわいらしく小首を傾げながら同調する。<br /><br /><br /><br /><br /> かわいいだけに、怒りよりも涙しか出ない…(T_T)<br /><br /><br /><br /><br /> 自己嫌悪にさいなまれつつ、洗面所で顔を洗い、歯を磨き、お化粧を……あー、もうする時間もないっ! 髪もぼさぼさだあ!<br /><br /><br /><br /><br /> とにかくポニーテールにして、まとめてしまおう。<br /><br /> うん、そのほうが仕事もしやすい!(と自分を納得させる)<br /><br /><br /><br /><br /> 服! あー、どれもこれもアイロンが当たっていない! どど、どうしよう。<br /><br /><br /><br /><br /> 結局、先日通販で買ったプルオーバーと、昨日もはいていたジーパンでごまかすことにする。<br /><br /><br /><br /><br />「もう時間ないっ! 翔、行くよ!」<br /><br /><br /><br /><br /> 焦りまくって呼びかけながら玄関に行くと、すでに身支度を整えた翔が、にっこり笑って<br /><br />「行くよ」<br /><br /><br /><br /><br /> ……自己嫌悪がいや増す。<br /><br /><br /><br /><br /> 翔を車に乗せて、保育園に連れて行き、元来た道を戻り、自宅に車を戻すと、今度は自転車で出勤する。<br /><br /><br /><br /><br /> 勤め始めて四日目の、あの占い師の研究所へ。<br /><br /><br /><br /><br /> 自転車を研究所と隣のビルの間へこじ入れ、扉を開ける。<br /><br /><br /><br /><br /> ジャスト9時。<br /><br /><br /><br /><br /> ほ――っと、深いため息が出る。<br /><br /><br /><br /><br /> 那智は奥の給湯室から、自前のコーヒーカップを持って出てくるところだった。<br /><br /><br /><br /><br />「お、おはようございます……」<br /><br /><br /><br /><br />「おはよう」<br /><br /> 那智は眼を合わせながら言い、自分のデスクに腰を下ろした。<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里も自分のデスクに着いたが、すでにこの時点でどっと疲れが押し寄せていた。<br /><br /><br /><br /><br />「今日の予約は何時からだっけ」<br /><br /> と、那智が訊いてくる。<br /><br /><br /><br /><br />「あ、はい」<br /><br /> 慌て手帳を開く。この仕事のために百均で買った手帳だ。<br /><br />「今日は午後からですね。13時の方が最初です。あとは20時の方が最後ですけど、それまではぶっ続けです。先生、大丈夫ですか?」<br /><br /><br /><br /><br />「なにが?」<br /><br /><br /><br /><br />「いや、だいたい、50分くらいずつの鑑定時間ですけど、これだと8人も連続で、ほとんど休憩する時間もありませんけど……」<br /><br /><br /><br /><br />「10件を越えなければ、べつに問題ないよ」<br /><br /><br /><br /><br />「これから予約を受けるときに、少し間に休憩時間を入れるようにしましょうか」<br /><br /><br /><br /><br />「問題ないと言ってる」<br /><br /><br /><br /><br />「あ、はい」<br /><br /><br /><br /><br /> まるでアンドロイドだ。<br /><br /> 占いをこなすマシーン。<br /><br /><br /><br /><br /> 占いって、すごくスピリチュアルで、霊感とか水晶とか、タロットカードとか、なにかこう神秘的なイメージが強い。<br /><br /> でも、この那智九郎は、そんな印象がまったくない。<br /><br /><br /><br /><br /> PCの画面を見て運勢をたんたんとクールに解説し、タロットも本当にマシーンのように読み取っていく。<br /><br /><br /><br /><br /> かといって、冷たいというのとも違う。<br /><br /><br /><br /><br /> たいていの来客者は、満足して帰っていく。来たとき暗かった顔も明るくなり、時には涙を流す者もいる。<br /><br /><br /><br /><br /> なかなかの占い師なのだということはわかるが、やっていることと、彼の雰囲気がまったく結びつかない。<br /><br /><br /><br /><br /> もうちょっと、情とか……そういうのがあっていいんじゃないの?<br /><br /><br /><br /><br /> 言葉にすれば、そんな思いが漠然とある。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里は仕事に取り掛かった。<br /><br /> その一方、むずむずと思っていた。<br /><br /><br /><br /><br /> 化粧したい。<br /><br /><br /><br /><br /> 翔を運ぶ車の中で、信号待ちの時間を使って半分くらいできたのだが、ちゃんと仕上がっていない。<br /><br /><br /><br /><br /> バッグの中にある化粧ポーチに手が伸びそうになるが、でも、仕事の取りかかったばかりで化粧し始めたら、感じが悪いだろうと思う。<br /><br /><br /><br /><br /> わたしって、女子力、最低だ。<br /><br /><br /><br /><br /> これじゃ、再婚なんて遠い話だ。<br /><br /><br /><br /><br /> おまけに母親力も最低だ。<br /><br /><br /><br /><br /> なんか、落ち込む……。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> ずどどど、と荒々しい足音が階上から駆け下りてきて、紗与里の思考を遮った。<br /><br /> 研究所のドアの前まで、稲妻のようにやってきたのは、猫のベガだった。<br /><br /><br /><br /><br /> 彼女はドアの向こうを、丸い目で凝視していた。<br /><br /><br /><br /><br /> 人影があり、ドアが開いた。<br /><br /><br /><br /><br /> あ……と、思わず声を上げた。<br /><br /><br /><br /><br /> それは先日の三崎刑事だった。<br /><br /><br /><br /><br />「悪いな、またちょっと……うわっと!」<br /><br /><br /><br /><br /> 三崎が飛び退く。ベガが、ふわーっと牙をむき出したからだった。<br /><br /><br /><br /><br /> 彼の背後から、一人の女性が姿を現した。<br /><br /><br /><br /><br /> ほれぼれするほどのパンツスーツの似合う、年齢は紗与里とそう変わらない女性だった。<br /><br /><br /><br /><br /> そして、ほれぼれするほど美しかった。<br /><br /><br /> 6<br /><br /><br /> 「こちらは県警捜査一課の剣持警部……。那智さんにお話を伺いたいということでお連れした」<br /><br /><br /> 三崎刑事の口調は妙にぎこちなかった。<br /><br /> 先日の高圧的なところはなく、どのように喋ったらいいか、迷っているような様子が見受けられた。<br /><br /><br /><br /><br /> しかも紗与里には不思議に思えることが一つあった。<br /><br /> 剣持という美女刑事は、あきらかに三崎よりもぜんぜん若い。<br /><br /> それなのに、彼のほうが上司に接するような気の使い方をしているのだ。<br /><br /><br /><br /><br />「剣持観鈴(みすず)と申します」<br /><br /> と、警察手帳を開いて提示する。<br /><br /><br /><br /><br /> ひゃー、なんて素敵な声なんだ。<br /><br /> 紗与里は同性ながら、惚れ惚れした。張りと力がある。外見の美しさといい、そう、ちょっと宝塚女優みたいな雰囲気なのだ。<br /><br /><br /><br /><br />「そのご様子では、さいわいにも僕の容疑は晴れたということかな」<br /><br /> 那智は三崎に向かって言っていた。<br /><br /><br /><br /><br />「ま、まあ、事件当時、那智さんがイギリスに言っていたということの確認は取れました。事件当日も、ロンドンの……ええと、せ、占星術師、バーバラ・ロックウッドさんが主催する会合に出席していたということもわかりましたので」<br /><br /> 三崎は手帳のメモを見ながら言った。<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里は空気を読んで、お茶を入れに席を立った。<br /><br /> 那智も追い返すつもりはなさそうで、二人に席を勧めた。<br /><br /><br /><br /><br />「お忙しい方のようなので、ぶしつけですが、さっそく要件に入らせていただいてもよろしいでしょうか」<br /><br /> 観鈴は涼しい眼を那智にまっすぐに向けて言った。<br /><br /><br /><br /><br />「どうぞ」<br /><br /> 那智もPCに向かうのではなく、手を休めて、観鈴に向き直った。<br /><br /><br /><br /><br />「こちらの三崎警部補から那智さんが占いで、老夫婦の首がある場所を推理したというお話を伺いました。<br /><br /> にわかには信じがたい話です」<br /><br /><br /><br /><br />「そうでしょうね」<br /><br /><br /><br /><br />「警察としても、このような非科学的なものを根拠に捜査や犯人の検挙を行うわけにはまいりません。<br /><br /> ですから、今日、お伺いしたのは、まったくのわたくしの個人的な興味だとご理解ください」<br /><br /><br /><br /><br />「わかりました」<br /><br /><br /><br /><br />「そこで個人的な興味の質問なのですが、那智さんは老夫婦を殺した人物は誰だとお考えですか」<br /><br /><br /><br /><br />「僕は事件関係者のことなど、ほとんど知らない」<br /><br /><br /><br /><br />「そうですね。では、どのような人物が犯人だとお考えですか? そのようなことも、あなたの占いで推理できるのでしょうか?」<br /><br /><br /><br /><br /> 那智は少しだけ考え込んでいた。<br /><br /> どのように対応するか、迷っているのかと、紗与里は思った。<br /><br /><br /><br /><br /> ところが彼は、<br /><br />「なるほど……。面白いな」<br /><br /> と、うなずいた。<br /><br /><br /><br /><br />「何が面白いのでしょうか」<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里は話をしている彼らの前にお茶を出した。そして席に戻った。<br /><br /><br /><br /><br />「ここしばらく、僕にとってはかなり重要な日が続いているんですよ。<br /><br /> かなり運命的というのか、大きな影響力を持つ日です。<br /><br /> そんなときに事件に関する鑑定を依頼され、やがてあなたがたが来た。<br /><br /><br /><br /><br /> これはかなり面白い。<br /><br /> そして、これはあなたの質問に答えるべきということでしょう」<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里は刑事が初めて来たときにも、那智が似たようなことを言っていたのを思い出した。<br /><br /><br /><br /><br />「申し訳ありませんが、那智さんのおっしゃることの意味はよくわかりません。<br /><br /> が、お話し下さるということですか」<br /><br /><br /><br /><br />「犯人は女です」<br /><br /><br /><br /><br />「!!」<br /><br /><br /><br /><br /> 刑事たちは固まった。<br /><br /><br /><br /><br />「ば……馬鹿な」<br /><br /> と言ったのは、三崎刑事だった。<br /><br />「犯人は、老人とはいえ、二人の首を切断しているんだぞ。そんなことが女にできるわけが……」<br /><br /><br /><br /><br />「そう。たぶん、その思い込みが事件解決を遅らせている」<br /><br /> 那智はすごく平静な雰囲気と口調で続けた。<br /><br />「金井さんから警察の捜査については、ある程度お話を伺いました。<br /><br /> 警察はこの事件で、近隣に住むある男性を容疑者と考え、その人物について徹底的な捜査を行ったらしいですね」<br /><br /><br /><br /><br />「あ、う……」<br /><br /> 三崎が言葉に詰まるのを、観鈴が引き継いだ。<br /><br />「そうです。わたくしはそのように報告を受けています」<br /><br /><br /><br /><br />「報告?」<br /><br /><br /><br /><br />「ええ、事件発生時はまだわたくしは小学生でしたから」<br /><br /><br /><br /><br />「それもそうか」<br /><br /> 那智は珍しく破顔した。<br /><br />「しかし、その容疑者には鉄壁のアリバイがあった。<br /><br /> 警察はそのアリバイを崩そうとした。<br /><br /> そして、その男の周辺から首も見つかると、捜査し続けていた」<br /><br /><br /><br /><br />「そうです。仰る通りです」<br /><br /><br /><br /><br />「まったく愚かな見込み捜査だと言わざるを得ません」<br /><br /><br /><br /><br /> 三崎刑事の首筋まで赤く染まるのが見えた。<br /><br /> <br /><br /> 7<br /><br /><br /> 「見込み捜査だと……」<br /><br /> 三崎は語気を荒らげた。<br /><br /><br /><br /><br /> それを観鈴は手を上げて抑えるそぶりを見せた。<br /><br /> 彼女の足もとに、ベガが近寄って、しきりと匂いを嗅いでいる。<br /><br /><br /><br /><br />「それで、女が犯人だという理由は?」<br /><br /><br /><br /><br />「一つは、事件当日の太陽のサビアンシンボルが『先祖の井戸にいるサマリアの女』というものだったことです」<br /><br /> 那智はPC画面にホロスコープを出し、前回と同じように見せた。<br /><br /><br /><br /><br />「サビアンシンボル……星座の一度ずつに詩文的な意味を与えた前衛的な占星術技法ですね」<br /><br /> 観鈴の言葉は、他の者を驚かせた。<br /><br />「その訳はジョーンズのほうですよね」<br /><br /><br /><br /><br />「ご存じでしたか。ルディアのものでも『サマリアの女』です。どっちにしても、女を暗示しています」<br /><br /><br /><br /><br /> ――この人、占いのこと、知ってるんだ。<br /><br /><br /><br /><br /> その知的な印象からは想像もつかなかった。那智と普通に会話しているが、紗与里やもう一人の三崎刑事はさっぱりわけが分からなかった。<br /><br /><br /><br /><br />「それだけが犯人が女だという根拠ですか」<br /><br /><br /><br /><br />「もっとも大きな根拠は、タロットです。これも先日、お見せしたものですが」<br /><br /><br /><br /><br /> 那智はPCに保存しているタロット画像を提示した。<br /><br /><br /><br /><br /><a href="http://ameblo.jp/zephyr/image-11947486424-13085927522.html"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/proxy/AVvXsEhSI7rxYI4q67Obxql82tPpqJle2s_PCv0je-8Baup0scdDCwNwlVd_9O6pRmresmyW6IpcCEABasxtJ5rGsRJqedXxi9ghvYsdKa6QMTiS_KZMPiqY9Gsrcfy6BJ50qXe3-p1wdQk7y-d9VDSNV6tlIk2id7puGknCwqUmTrRtSxh5uvhK6h3igMAIxaR-7hpqIE_3JGzKgad2_XWL=" /></a><br /><br /><br /><br /><br />「このタロットは首をありかを尋ねたものですが、結果的に事件の起きた状況や関係者も表示しています。<br /><br />『吊るし』の逆位置は、殺された老夫婦。<br /><br /> その下にあるのが『女帝』です。<br /><br />『女帝』は『神の家』の逆位置を見ている。<br /><br /><br /><br /><br /> この『神の家』は逆になることで下から火がついている構造になっていて、放火を意味します。<br /><br /> つまり被害者を吊るした……この場合は殺したという解釈でいいと思うのですが、その犯人は『女帝』で表現されうる人物で、その人物が当然、放火にも関係しているわけです」<br /><br /><br /><br /><br />「その女性がこの犯行を行ったと?」<br /><br /><br /><br /><br />「ですが、たぶん単独犯ではありません」<br /><br /><br /><br /><br />「単独でない?」<br /><br /><br /><br /><br />「『神の家』の下にあるのは、『力』と『斎王』です。ここにも二人、女性に関するカードが出ています。<br /><br /> たぶん『斎王』は母親で、犯人は助けを求めたのでしょう。<br /><br /> あるいは母親が事態に気づき、状況をコントロールした……。<br /><br /><br /><br /><br /> このカードでは逆位置のカードの下に、必ず女性のカードがあります。<br /><br /> 女性が犯人としか思えない。<br /><br /><br /><br /><br /> 老夫婦を殺した犯人、そして首を切り放火するとい隠ぺい工作を行った人物が、ほかに一人か二人いるはずです」<br /><br /><br /><br /><br />「右上のカードも女性ですね。『星』のカードですね」<br /><br /><br /><br /><br />「これは瓶を首に見立てています。二つの首を水の中に捨てたという行為を示していますが、これを行ったのも女性です」<br /><br /><br /><br /><br />「女性以外、犯行グループにはいない……? そうお考えですか」<br /><br /><br /><br /><br />「おそらく。たぶん比較的近所に住む女性で、この老夫婦に恨みを抱いていた、あるいは利害があった人物。それが最初の殺害犯で、その犯人の女性を助けるために、母親や他の家族が協力しています」<br /><br /><br /><br /><br />「犯行の手口から、警察は最初から男性による犯行だと断定していたむきはあります」<br /><br /><br /><br /><br />「それが初動の失敗でしょう。最初から女性を視野に入れて捜査していれば、あるいは……」<br /><br /><br /><br /><br /> ひらっとベガが机の上に舞いあがった。<br /><br /> そして、観鈴のほうに顔を近づけた。<br /><br /><br /><br /><br /> 目がすごく見開かれている。<br /><br /><br /><br /><br />「可愛い猫ですね」<br /><br /> 観鈴は手を出した。<br /><br /><br /><br /><br /> パシッ、とベガの猫パンチが、観鈴の愛撫を拒否した。<br /><br /> ぐるる、と喉の奥で威嚇する。<br /><br /><br /><br /><br /> 観鈴はあきらめて手を引っ込めた。<br /><br /><br /><br /><br /> ちょっと紗与里は痛快だった。<br /><br /><br /><br /><br /> ザマミロ。<br /><br /> その猫はなあ、そんなに簡単になつくようなタマじゃないんだ。<br /><br /> あたしだって、まだぜんぜんなつかれてないのに、てめーなんか……<br /><br /><br /><br /><br />「ありがとうございます。鑑定料はいくらお支払すればよろしいでしょうか」<br /><br /> 観鈴はそんなことを言いだした。<br /><br /><br /><br /><br />「いや、べつによろしいですよ」<br /><br /><br /><br /><br />「これはわたくしの個人的な興味ですので。料金を取っていただかなければ困ります」<br /><br /><br /><br /><br />「この件に関しては、最初のご依頼者の金井さんからちゃんと料金をもらっていますので」<br /><br /><br /><br /><br />「しかし、金井さんには犯人については何もお知らせしていないようですが」<br /><br /><br /><br /><br />「僕が受けた依頼は、首がどこにあるか、です。<br /><br /> 犯人について言及すれば、金井さんは犯人を探ろうとするかもしれない。<br /><br /> そうなったとき、金井さんの身の安全は保障できませんしね」<br /><br /><br /><br /><br />「だから言わなかった」<br /><br /><br /><br /><br />「そういうことです」<br /><br /><br /><br /><br /> 観鈴は立ち上がった。<br /><br />「とても興味深いお時間でした。またお会いしましょう」<br /><br /><br /><br /><br /> 三崎も追いかけて慌てて立ち上がる。<br /><br /><br /><br /><br /> 剣持観鈴はドアを開けて出て行った。<br /><br /><br /><br /><br /> ――また?<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里はその言葉が、ずっと引っかかっていた。<br /><br /><br /> 8<br /><br /><br /> ひと月が経過した。<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里はなんとか仕事も慣れ、那智との付き合い方もわかってきたところだった。<br /><br /><br /><br /><br /> アンドロイドのようなという印象は、ますます強くなっていた。<br /><br /> 占い師というには、彼はあまりにもクールだった。冷淡とも言っていい。<br /><br /><br /><br /><br /> よく紗与里は、友達の樹子と電話で話をしていた。<br /><br /><br /><br /><br />「だって、鑑定中に泣き出すような女の人も多いのよ。<br /><br /> やっぱり、昔の悲しいこととか辛いこと思い出すじゃない。ああいう仕事だと。<br /><br /> そんなときだって、あの人、ほろりともしないのよ」<br /><br /><br /><br /><br />「あー、わかるわかる」<br /><br /> 樹子は高校以来の友達で、今はエステのサロンで働いている。近い将来には独り立ちする予定だ。<br /><br /> エステティシャンだけあって、紗与里とはまったく外見的な差が大きい。いつもきれいにしている。<br /><br /><br /><br /><br />「あの先生、いつもそんな感じだから」<br /><br /><br /><br /><br />「でしょ。ふつう、そういう時って、『お気持ち、わかりますよ』とか言うじゃない。<br /><br /> あの人、まったくそういうの、ないから」<br /><br /><br /><br /><br />「でも、一応、気遣ってはくれてるでしょ」<br /><br /><br /><br /><br />「ああ、まあ、一応、相手が泣き止むのを待ってたりするけど。<br /><br /> だけど、すぐにまた、たんたんと解説をしたり、アドバイスしたり」<br /><br /><br /><br /><br />「でも、だいたい、お客さん、納得したり癒されたりして帰るでしょ」<br /><br /><br /><br /><br />「それが不思議なのよねー」<br /><br /><br /><br /><br />「紗与里も一度見てもらえばいいのに。あたしなんか、毎月一回くらいお願いしてるのに」<br /><br /><br /><br /><br />「いや、いい。なんか、むちゃくちゃ悪く言われそうな気がするからっ」<br /><br /> というのは理由の半分。<br /><br /> 残り半分は、まともに鑑定料を払うのは経済的に痛いからだ。<br /><br /><br /><br /><br /> 中途半端なところで採用されたので、最初に支給された給与は、半月分ほどしかなかった。<br /><br /> 生活のこと、子供のことを考えると、余裕が出るのなんか、だいぶ先の話だ……<br /><br /><br /><br /><br /> というよりも、いつか余裕が出る日が来るのだろうか、と疑問に思う。<br /><br /><br /><br /><br />「でも、ほんとよかったよ。あんたが採用されてさ」<br /><br /><br /><br /><br />「ほんと助かった。樹子には感謝してる。<br /><br /> あそこで募集してるって教えてくれて」<br /><br /><br /><br /><br />「たまたまあたしが鑑定してもらって、そのときに先生がぽろっと言ったんだよね。<br /><br /> 事務仕事をしてくれる人が欲しいから、募集の張り紙を出すって」<br /><br /><br /><br /><br />「へー」<br /><br /><br /><br /><br />「それがさ、すごい先生らしい理由でさ」<br /><br /><br /><br /><br />「え?」<br /><br /><br /><br /><br />「自分にとってここしばらくはすごく重要な、良い出会いがある時期だから、今、募集を出すんだって。<br /><br /> そういう時には、たいてい良い人が来るからって」<br /><br /><br /><br /><br />「ふうん、そういうのあるんだ」<br /><br /><br /><br /><br />「普通の人間なら、運命的な出会いもある時だって言ってたよ。<br /><br /> そんなタイミングで、まあ、よりによって紗与里が採用されちゃうなんてね~。<br /><br /> もしかして、紗与里、あの先生の運命的な出会い?」<br /><br /><br /><br /><br />「ばか。そんなことあるわけないじゃない」<br /><br /><br /><br /><br />「あの先生も、そういえば独身かどうかわかんないしね。そういえば、いくつなんだろ」<br /><br /><br /><br /><br />「そういや、あたしも知らない……あ、そうか」<br /><br /><br /><br /><br />「なになに?」<br /><br /><br /><br /><br />「いや、最初に警察が来たときに言ってたのよ。<br /><br /> このタイミングで来たのが興味深いとかなんとか。<br /><br /> それって、その時期のことだったんだ」<br /><br /><br /><br /><br /> 納得。<br /><br /> 謎めいたセリフの意味が解けた。<br /><br /><br /><br /><br /> うん? ということは、その運命的な出会いのタイミングで、あのちょっと素敵すぎる女刑事も登場してきたことになるわけか?<br /><br /><br /><br /><br /> ということも考えた。<br /><br /><br /><br /><br /> まあ、どうでもいい。<br /><br /> と、頭から考えを振り払った。<br /><br /><br /><br /><br /> ただ、一点。<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里は、那智がいつも礼を言うことには、安心感を覚えていた。<br /><br /> たとえばコーヒーを入れるとか、頼まれた仕事をやるとか、そういう紗与里の行為に対して、彼はたいてい「ありがとう」と言う(お客と話し込んでいたりすると別だが)。<br /><br /><br /><br /><br /> 礼を言わない人。<br /><br /><br /><br /><br /> 自分のやっていることが当たり前。<br /><br /><br /><br /><br /> 彼女にはそのように自分のことを扱われる経験が、これまで数多くあった。<br /><br /> 以前に勤めていた会社でも。<br /><br /> そして結婚でも。<br /><br /><br /><br /><br /> そんなものかもしれない、とは思う。<br /><br /><br /><br /><br /> しかし、自分のしていることに礼を言われると、存在を認めてもらえていると感じる……。<br /><br /><br /><br /><br /> 殺人事件絡みの、あまりにも刺激的な勤務の始まりだったけれど。<br /><br /><br /><br /><br /> これだけ繁盛していて、待遇の良いところ、しかも冷たいけれど、人間的には安心できそうな人間のところで働けることで、ようやく切羽詰った状態を抜け出し、安堵感を覚え始めた頃――。<br /><br /><br /><br /><br /> また、観鈴はやってきた。<br /><br /><br /><br /><br /> 今回は一人だった。<br /><br /> 彼女は開口一番、言った。<br /><br /><br /><br /><br />「今日はお礼を申し上げに参りました」<br /><br /><br /><br /><br /> 9<br /><br /><br /> 「犯人が逮捕されたのですか」<br /><br /> 那智は尋ねながら、観鈴に椅子をすすめた。<br /><br /><br /><br /><br />「はい。自供を得ました。おそらくもうすぐ記者会見が開かれ、世間にも報道されると思います」<br /><br /> 観鈴は椅子に腰かけた。<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里はお茶を入れに立った。<br /><br /> ベガが階段のところで、じっと入ってきた観鈴を見ている。<br /><br /><br /><br /><br />「あなたのおっしゃる通り、事件は娘と母親によるものでした。母親は娘をかばって、偽装工作を手伝ったようです」<br /><br /><br /><br /><br /> その後、観鈴は事件の詳しい経緯を語った。<br /><br /> 動機。事件発生時の偶発的な状況。<br /><br /><br /><br /><br /> お茶を出した後、紗与里も自分の席で話を聞いていた。<br /><br /><br /><br /><br />「そうです。もう一つ、付け加えると、その母娘(おやこ)の住んでいた家の近くに、今はもう使われていない井戸があったそうです」<br /><br /><br /><br /><br />「井戸が?」<br /><br /><br /><br /><br />「もうそこは埋もれていますが、近所の人の話ではあったそうです」<br /><br /><br /><br /><br />「先祖の井戸にいるサマリアの女……か」<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里は聞いていて、鳥肌が立った。<br /><br /> あまりにも那智の指摘したキイワードがつながりすぎていた。<br /><br /><br /><br /><br />「ただ……後味の悪い事件になりました」<br /><br /><br /><br /><br />「というと?」<br /><br /><br /><br /><br />「その娘のほうは、今、もう結婚していて、子供もいたのです」<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里はその言葉に衝撃を受けた。<br /><br /><br /><br /><br />「そういうことがあっても不思議はないでしょうね。歳月がたちすぎていますから」<br /><br /><br /><br /><br />「その今は母親となっている娘を連れて行くとき、彼女の子供が泣き叫んで……」<br /><br /><br /><br /><br />「あ、あの……小さい子供ですか」<br /><br /> 思わず、紗与里も口を挟まずにはおれなかった。同じ子を持つ母として。<br /><br /><br /><br /><br />「小学校に上がったばかりの男の子でした」<br /><br /> 観鈴は少し振り向き、紗与里のほうを見て言った。<br /><br /><br /><br /><br />「そうなんですか……。なんだか、やりきれないですね」<br /><br /><br /><br /><br />「これから事件が報道されれば、その子の運命も変わってしまいます。ご主人も」<br /><br /><br /><br /><br />「たまらない……」<br /><br /> わが身に置き換えてみて、紗与里は暗澹たる気分になった。<br /><br /><br /><br /><br /> 自分がもし人を殺し、そして逮捕されたら?<br /><br /> そうしたら翔はどうなるだろう。<br /><br /> そして母は……。<br /><br /><br /><br /><br /> 世間から後ろ指をさされ、どのようにして生きていくのだろう。<br /><br /><br /><br /><br /> 那智を見ると、彼は無表情にコーヒーを飲んでいた。<br /><br /> いつもの、インスタントのブラック・コーヒーを。<br /><br /><br /><br /><br />「ともあれ、那智さん、あなたのご助言のおかげで今回の長い事件、ようやく解決を見ました。<br /><br /> 被害者も浮かばれると思います。<br /><br /> 本当にありがとうございます」<br /><br /><br /><br /><br /> 頭を下げる観鈴にも、那智は無感動だった。<br /><br /> 普通だったら、「いいえ」とか「とんでもない」とかいうリアクションを予測してしまうのだが、それすらない。<br /><br /><br /><br /><br /> 何を考えているのかわからない。<br /><br /><br /><br /><br /> そんな那智に向かって、観鈴は意外なことを言い出した。<br /><br />「予約もお取りしてないのですが、今日はわたしの鑑定をお願いできませんでしょうか」<br /><br /><br /><br /><br />「よろしいですよ。今は予約も入っていませんし」<br /><br /><br /><br /><br />「よかった」<br /><br /> 観鈴は笑顔になった。笑うと、宝塚女優みたいな雰囲気が輪をかけて、ぱあっと花が咲くようだ。<br /><br /> 少しばかり妬ましさを覚えるほどだ。<br /><br /><br /><br /><br />「生年月日、それにわかれば出生時間も」<br /><br /><br /><br /><br /> 那智に問われ、すらすらと観鈴が答えた。出生時間まで知っている人間が少ないが、あらかじめ調べてきたのだろう。<br /><br /> あるいはすでに知っていたのかもしれない。<br /><br /> 彼女はホロスコープの知識を持っていた。<br /><br /><br /><br /><br /> そうして彼女の鑑定が始まった。<br /><br /> 紗与里は膨大な顧客ファイルの整理作業を続けながら、しっかりと耳を傾けていた。<br /><br /><br /><br /><br /> 鑑定そのものはありきたりなもので仕事や健康、それに家族のことなどだった。<br /><br /><br /><br /><br /> それを聞いていると、どうやら観鈴の家系は、警察関係者が多いらしかった。<br /><br /> 父親も警察官僚だという。<br /><br /><br /><br /><br /> 観鈴も尊敬する父と同じ道を進み、国家公務員上級試験に合格。<br /><br /> 警察庁に入庁した。<br /><br /><br /><br /><br /> つまり世にいう「キャリア組」である。<br /><br /> つまり警察官僚に向かうための人材であり、スタート時点から、一般的な警察官とは階級も違っているのだ(どうりで、三崎刑事が年齢も下の女性にヘコヘコしていたわけである)。<br /><br /><br /><br /><br />「じゃ、月並みですけど、結婚運を見てもらえますか」<br /><br /> と、最後に観鈴は言った。<br /><br /><br /><br /><br />「かなり変わったタイプの配偶者を得る可能性がありますね。<br /><br /> 離婚する確率もやや高めですが、相手によるでしょうね。<br /><br /><br /><br /><br /> あなたの結婚相手は、天王星という星が表示しています。そうですね、全体の6割から7割が、この天王星の暗示です。<br /><br /> 天王星は変化や別離を呼ぶ星でもありますが、もし相手が天王星そのもののような人間であるということも考えられます」<br /><br /><br /><br /><br />「その場合は離婚率は低くなりますか?」<br /><br /><br /><br /><br />「ええ。天王星がどのように出るか、という問題ですからね。相手は天王星的な人間であれば、離婚として出る可能性は減ります」<br /><br /><br /><br /><br />「天王星的な人間とは?」<br /><br /><br /><br /><br />「風変わりで常識の枠からはみ出している人格、あるいは職などを持っている人物。<br /><br /> 天王星そのものは宇宙工学や航空機関係、パイロットや空港職員であるとか、あるいはそういう航空機を使っている産業とか。<br /><br /> 宇宙を示すのもの天王星で、プラネタリウム、天文学なども天王星です」<br /><br /><br /><br /><br />「占星術をお忘れでは?」<br /><br /><br /><br /><br />「占星術も含まれます」<br /><br /><br /><br /><br />「結婚の時期はいつになりますでしょう」<br /><br /><br /><br /><br />「ここ数年以内に結婚される可能性があります」<br /><br /><br /><br /><br />「出会いの時期は?」<br /><br /><br /><br /><br />「ちょうど今、太陽と月のトラインが発生していますね。今年の3月から5月……この時期に何か出会いや変化はありませんでしたか」<br /><br /><br /><br /><br />「今の警察署に赴任しました。そしてこの事件を担当しました」<br /><br /><br /><br /><br />「職場で誰か良い出会いなどは?」<br /><br /><br /><br /><br />「おじさんばかりですので。だいたい既婚者です」<br /><br /><br /><br /><br />「なるほど。しかし、良い出会いにつながる導きの時期ですから、後で何かわかってくることがあるかもしれませんね。職場以外でももちろん可能性がありますので」<br /><br /><br /><br /><br />「わかりました。期待しておきます」<br /><br /> 観鈴は腕時計を確認した。<br /><br />「そろそろ記者会見が開かれる頃です。わたしも署に戻ります」<br /><br /><br /><br /><br /> 観鈴はにっこり笑い、そして礼を言った。料金を紗与里は受け取った。<br /><br /><br /><br /><br />「たしかに良き出会いだったと思います。また先生、よろしくお願いいたします」<br /><br /> 観鈴は去って行った。<br /><br /><br /><br /><br /> 彼女を送り出し、お茶を下げながら、紗与里はどうしても確認したくなって尋ねた。<br /><br /><br /><br /><br />「あの、先生」<br /><br /><br /><br /><br />「なに」<br /><br /> 那智はすでにPCに向かっている。<br /><br /><br /><br /><br />「太陽と月の……ト、トレインでしたっけ」<br /><br /><br /> 「トライン」<br /><br /><br /> 「あ、すみません。トライン……トラインですよね。<br /><br /> それって、先生のホロスコープにも今あるんですか?」<br /><br /><br /><br /><br />「あるね。まあ、もうアスペクトが弱まってきているところだけど。なぜ?」<br /><br /><br /><br /><br />「あ、樹子が言っていたんです。だから、バイトの募集をするって」<br /><br /><br /><br /><br />「なるほど」<br /><br /><br /><br /><br />「あたしのこと、履歴書も見ずに採用したのは、それがあったからなんですね」<br /><br /><br /><br /><br />「そう」<br /><br /><br /><br /><br /> 本当に変わった人間であることは間違いなかった。<br /><br /> 普通、そんなことを基準に行動する人間はいない。<br /><br /><br /><br /><br />「ということは、先生も良い出会いがある時なんですね」<br /><br /><br /><br /><br />「そうなるね」<br /><br /><br /><br /><br />「あの剣持さんもあるということは、お二人ともそれがあるということで……」<br /><br /><br /><br /><br />「うん」<br /><br /><br /><br /><br />「そういうことって、あるんですか?」<br /><br /><br /><br /><br />「僕の人生には、わりとざらにあるね。ただ、一般的には、確率的には非常に低いよ。今問題にしている太陽と月のトラインは、だいたい何年かに一度、三カ月くらいしか生じないものだ。<br /><br /> それがたまたま一致するというのは、相当な偶然だよ」<br /><br /><br /><br /><br />「そうなんですね。そういうのって、ロマンチックですね」<br /><br /><br /><br /><br />「まあ、偶然というのはこの世にないけどね」<br /><br /><br /><br /><br />「? 運命の出会いって、そういうタイミングで起きるものでしょうか」<br /><br /><br /><br /><br />「かならずそれで出会うわけではない。<br /><br /> 一つの有力なパターンには違いないけどね。<br /><br /> ああ、ついでに、コーヒー、入れてきてくれないか」<br /><br /><br /><br /><br /> 那智がカップを差し出すので、「はい」と言って、紗与里はそれも一緒に給湯室に運んだ。<br /><br /><br /><br /><br /> 一度、カップをきれいに洗って、水を拭き取ってから、新しいインスタント・コーヒーのブラックを作った。<br /><br /> このごろはもう、どの程度の濃さが好みなのかもわかってきた。<br /><br /><br /><br /><br /> カップを那智のデスクに置くと、彼は仕事をしながら、「ありがとう」と言った。<br /><br /><br /><br /><br /> …………<br /><br /><br /><br /><br /> 紗与里は自分のデスクに戻った。<br /><br /> そして、仕事を再開した。<br /><br /><br /><br /><br /> ベガが「にゃあ」と鳴きながら、那智の足もとまでやって来て、そしてひらっとデスクの上に飛び上がった。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> ――episode.1 END<br />
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