2015年7月2日木曜日

ヤオヨロズ第6章 椿


    1

 椿の花弁は四枚になっていた。その朝――。
「スクナ、里の様子はどう?」
 やはり朝餉を持ってきたスクナに、クシナーダは戸口のところで見張っている兵士にも聞こえるように言った。
「どこもかしこも怪我人だらけ。里の人も、それに」ちらっとスクナは兵士を振り返った。「洪水に巻き込まれて助け出されたオロチの兵とかも……病気になる人も出てきてる」
「その人たちの食事はどうなっているの」
「オロチの? この里のを分けてる」
 クシナーダは、それでいい、というふうにうなずいた。
「でも、このままだとこの冬が越せなくなるって、みんな言っている。里で貯めていた食料だって、そんなに余裕があるわけじゃないから」
 おい、と兵士は口を挟みそうになった。が、クシナーダの声がそれをとどめさせた。
「分けておあげなさい。先のことはいいから怪我をしている人や病人にはたくさん食べてもらいなさい」
「え……」
「あの……」アナトが横から言った。「ことが終われば、キビから食料を届けさせます。皆様に不自由な思いは絶対にさせませんから」
 躊躇するスクナに、クシナーダはさらに驚かせるようなことを告げた。「スクナ、あなたも怪我人の治療に力を貸してやってほしいの。お願い」
 少女はクシナーダの顔を見たまま、固まっていた。
「できない?」
「できなくはないけれど……それでいいいの?」
 オロチ軍の兵士は、この里を蹂躙したのだ。民を殺め、犯し、ものを奪い、無辜(むこ)な赤子でさえその例外ではなかった。里人にとって絶対に許しがたい存在である。脅され、食料を供出しているだけでさえ、たえがたい苦痛であり憤懣の種に違いなかった。それをさらに傷や病を得た者を助けるなど、心情的には考慮の余地さえないものであるはずだった。
「そこのお方」クシナーダは立ち上がり、兵士に言った。「わたくしを里の者たちと会わせてください。あなた方を助けるように説得いたします」
「え……あ……」あまりにも常識離れした提案に兵士は仰天した。
「あなたの一存で決められないなら、カガチを呼んできてください」
 狼狽の挙句、彼は戸口から仲間に叫んだ。「おい!」と。

 朝餉の後、やってきたカガチと共にクシナーダは囚われの家屋から出た。戸口から外を見るくらいは許されていたが、外を歩くのは久々だった。
 その姿を見て、里人が引き寄せられるように集まってきた。「クシナーダ様だ」と声を掛け合い、次々に家を出てくる。
「よけいなことを喋るようなら里人を殺す」カガチはそばで唸るように告げた。
 しかし、クシナーダはふっと吐息のような笑いを発した。
「なにをそんなに怯えているのです」
「なに?」
 クシナーダは歩みを止め、カガチを仰ぎ見た。「あなたのしていることは滑稽ですよ、カガチ。あなたは花に向かって恫喝をしているのです」
 その言葉をカガチのそばでヨサミは聞いていた。
「花だと……」
「無害なただ野に咲くだけの花を脅して、何の意味があるのですか」クシナーダのその表情には怒りもなく、嘲りもなく、そして誇示もなかった。穏やかな中に、毅然としたものだけが立っていた。「あなたは力があります。わたくしたちをどのようにもできます。好きなだけ手折(たお)ればよいでしょう。お望みなら踏みにじるもよいでしょう。けれど、あなたは決して最終的な勝者にはなれません」
「…………」
「わたくしたちは花。いくら折られ切り取られ、踏みにじられても、季節がめぐれば花はまた咲きます。あなたにはそれを止めることはできません」
 クシナーダはそう言うと、また歩み始めた。里の中央にある柱に向かっていく。彼女の歩みにつれ、彼女を慕う者たちが自然と集まった。
 カガチはクシナーダの近くに佇み、腕組みをしていた。その背中を見、ヨサミはカガチが小さくなったように思えた。気のせいだとは分かっている。だが、このトリカミに来て以来、カガチは圧倒的な鬼神の〝力〟を弱められているようにしか思えない。
 この里に張られている結界のせいなのではないかと、ヨサミは考えていた。巫女としての力の大半を失いながら、それでもこの里が特殊な知恵と〝力〟によって聖域化されているのはわかる。そのためカガチの背負っている〝負の力〟が、否応なく制限されているのではないか。
「皆さん、聞いてください」クシナーダは集まった人たちに向かって語りかけた。「勘のいい方はもうお分かりだと思いますが、このトリカミの里が長きにわたり封印してきたものが解き放たれてしまいました」
 それを聞いたカガチも腕組みを解き、クシナーダを見た。やはりそうなのだと、ヨサミは胸の内だけでうなずいていた。あのとき里を覆っていた濃厚な闇の気配、あれこそがそれなのだ。
「世は滅びるかもしれません」
 しーんとした空気が民たちの間に満ちた。
「しかし、わずかな望みにわたくしは賭けたい。皆さん、力を貸してもらえぬでしょうか」
 静けさが同様に広がっていたが、やがて一人、二人……と前に進み出る者、あるいは立ち上がる者、強い眼で応える者が現れ、それは集まった里人たち全員の意志として結ばれていった。無言のうちに。
「ありがとう、皆さん」クシナーダは言った。「わたくしたちにできることをしなければなりません。確執を越え、憎みを脇に置き、今この里にいる傷ついた者、病んだ者のために力を尽くしてあげてください。そう、オロチの人たちもです」
 里人たちは顔を見合わせ、やはり戸惑いは隠せなかった。
「考えるのではなく動いてください。彼らに憎しみをぶつけたい気持ちは本当によくわかります。わたくしも心の底でカガチに復讐を果たしたいと、そう思う気持ちがあります」
 クシナーダは斜め後ろのカガチを振り返りもしなかったが、里人の視線は当然集まった。
「でも、わたくしたちは知っています。本当の強さとは何か――」
 里人は息を詰めるようにして、彼女の言葉を待った。
「本当の強さとは、人を許せるということ」
 彼女の言葉のヒビキが、里の隅々にまで響き渡るようだった。



「わたくしたちワの民は、長きにわたりこの島国に多くの民を受け入れてきました。確執も争いもありました。けれど、わたくしたちはやがては許しあい、ここで一つになって生きてきた。けれどこの百年、あまりにも大きな流れがいくつもぶつかり合い、このワの国の中で荒れ狂い、その大きな山がここにきてしまった。わたくしたちはこの山を越えることはできないのでしょうか?」
 ヨサミは、クシナーダの言葉をそのときまでただ聞いていた。が、この時に至り、口を開いていた。勝手に声が出てしまっていた。
「越えられないよ」
 その呟きは、静けさの中で予想外の強さで人々の耳に届いた。
「許せなければ越えられないのなら、越えられるはずがない」
 カガチがヨサミを見ていた。そして彼は、クシナーダに向かって冷笑的に言った。「――だそうだが?」
 クシナーダはヨサミのほうへ向き直った。「アナト様よりお伺い致しました。カナンに国を滅ぼされ、ご家族も殺されたと」
「ああ、そうだよ」ヨサミは自分で自分が抑えられなくなっていた。「あんな奴ら、どうやって許せっていうのよ。許せるはずないじゃない! それはこの里の人たちだって同じじゃない!」
 金切声のようになった。が、ヨサミはかつてアナトにぶつけたように、クシナーダにその言葉を激しく投げつけることができなっていた。まともに眼を合わせることができないのだ。
「わたしにはあいつら――カナンのやつらを許すことなどできない。あんたの言っていることはご立派過ぎるよ!」
「立派だとか立派でないとか、そんなことはどうでも良いのです」
「どうでもって――」カッとなりながら、ヨサミは反論すべき言葉を失った。
「人はいついかなる時でも、何を選び何をするか、問われているというだけのことなのです。ヨサミ様、あなたがあえて復讐をという道を選び取るのなら、それはわたくしたちにはいかようにもしがたいこと。わたくしはそれを否定しようとは思いませぬ。それに――」
 クシナーダは何かを見定めようとするかのようにヨサミを見つめていた。ただ静かに。
「ヨサミ様、あなたのお役目もまた貴いもの。誰にでもできるわけではございませぬ」
 ヨサミは何かを投げ返したかった。だが、その言葉は見つからなかった。
 クシナーダはまた里人たちを振り返った。
「わたくしは皆さんに許すことを強要しようとしているのではありません。この今の危機の中で、何を選ぶのかということをお尋ねしているのです。そしてその上でもしお力を貸していただけるなら、今のわたくしたちにできることをしてほしい。ただそれだけのことなのです」
 里人はやはり静まり返っていた。その中から声が湧いた。
「どうして?」スクナだった。「どうしてあたしたちがオロチを助けることが、山を越えることになるの?」
 それは一同の疑問を代弁するようなものであったかもしれない。
「クシナーダ様がやってほしいというのなら」スクナは自分の周囲にいる里人を見まわして続けた。「――する。できるよね、みんな」
 少女の言葉に、大人たちも応えた。うなずき、そしてクシナーダにまた視線を集めた。
「だから、そのわけが知りたい」と、スクナが言った。
「それはね、スクナ、それに皆さん……」クシナーダはにっこりとした。「すれば分かりますよ」

 結局、里人たちはクシナーダの言に従った。
 それはそれだけクシナーダのことが信じられているということでもあった。が、その裏側にはヨサミという存在がむしろ里人を結束させてしまったという効果もあった。彼女が人の想いを背負い、代弁してしまったために、むしろ里人は彼女の立場から距離を置くことができたとさえ言えた。皮肉な結末というよりも、不思議な成り行きというべきだったのかもしれない。
 あの場にヨサミがいなければ、意見は割れた可能性すらあったのだから。
 里人は憎悪や敵愾心を抑え、傷ついたオロチ兵たちを癒し、食事も惜しみなく提供した。洪水で汚れていた川沿いの温泉場は修復と清掃が行われ、兵士たちの身体を温めた。
 それはカガチにとっても、兵たちの気力体力の回復という意味では好都合な出来事であったはずだった。だが、すぐに目に見えた形で兵たちにはある変化が起きた。
「すまない……」と号泣する者も出た。自分たちが踏みにじったトリカミから与えられる行為が、彼らに人間らしい感情を呼び起こしたのだ。
 そして、それはじわじわとトリカミの里人にとっても、残虐な行為を働いた彼らでさえ、やはり同じ人であったのだという認識をあらたにさせた。

 そうして椿の花弁は、一日ごとになくなって行った。
 クシナーダの誕生日から五日目の朝、スクナは巫女たちが囚われる家屋の中の椿が、すべてなくなっているのを確認した。
 今夜だ――。
 配膳を終えたスクナは家を出るとき、クシナーダと眼でうなずき合った。

    2

 半月が中天から少し西に傾いたところにあった。
 スサノヲはエステルの幕屋の外で、その月を仰いでいた。柔らかな月明かりが、凍えるような空気の中、あたりを照らしている。彼はふと幕屋の近くにある樹木に花があることに気付いた。
 椿であった。ふわっとした赤い花弁が、月光を浴びて艶めかしいほど美しかった。優しく、凛とした美しさをそこに感じ、それが彼にクシナーダのことを思い出させた。その時、幕屋からモルデとカーラが出てきた。
「お待たせしました。行きましょう」と、モルデが言った。
 彼らが向かったのは少し離れた場所にあるもう一つ別な大きな幕屋だった。そこでは戦いに勝利した男たちの酒宴が催されており、中に入ると乱痴気騒ぎだった。飛び交う野次のようなだみ声、笑い。食事や酒を給仕している数少ない女たちは現地の娘たちだが、嫌がる彼女らを抱き寄せて口説いている者もいる。
「よう、モルデ。ちっとは元気になったか」
「心配するな。おめーがいなくても、ヤイルがいりゃあ、俺たちは百戦百勝だ」
「なんたって、神様がついておられる」
「おお、今日の予言もすごかった! 奴らの侵攻の時期も場所もぴったりだった。おかげで待ち伏せた我らが大勝利!」
 はっはっは、と笑いがはじける。そんな中を進んで行くと、奥の方にヤイルが座していた。隻眼を光らせ、黙々と酒を口に運んでいた。
「ヤイル、話がある」モルデが言った。
「なんの話だ」ヤイルはモルデの顔も見なかった。
「ヤマトの話だ」
 ふん、とヤイルは鼻で笑った。「またその話か。くだらん……」
「くだらぬことはない。このような戦によらずとも、我らはこの国で暮らしていけるのだぞ。エステル様もそれを善しとされた」
「エステル様が?」
「私の国、ヤマトのことをお話申し上げました」カーラが言った。「エステル様はヤマトへ民を率いて向かうのが最良の策とおっしゃいました。ヤマトは良い土地です。四方を山に囲まれ、豊かな水が流れております」
 ヤイルは酒の器を置くと言った。「そのようなこと、神はお望みではない」
「なんだと?」と、モルデ。
「神が求めておられるのは我らの偽りなき信仰の証しよ。我らはそれを自らの命で証明しなければならぬ。この地を我らの力で平定することでな」
「そのためにどれほどの同胞が犠牲になると思うのだ」
「まあ、座れ」
 ヤイルは隻眼を光らせ、周囲の人間を退かせた。側近たちも敬意を持ってヤイルの指示に従った。今やヤイルはエステルをもしのぐ、絶対的な信を集めているのだった。
「この国は乱れすぎておる」ヤイルは自らの器に酒を注ぎ、そしてほかにも三つの器に酒を注いだ。三人に勧める。「ことに怪しげなまじないや祈祷を行う邪教に心を奪われた者ども、神はこれを一掃し、この地を浄めることをお望みだ。汚れたものは焼き払わねばならぬ。でなければ、神の王国が成就せん」
「そう言っているのか、神は」スサノヲが訊いた。
「おおよ。俺のここに」と、ヤイルは自らの頭を指で叩いた。「囁きかけておられる」
「いつからだ」スサノヲは重ねて尋ねた。「いつからその声が聞こえるようになった」
「ずっと前からだ」
「ずっとといっても、そのようなこと、大陸では一度も言っておらなかったな」と、モルデが指摘した。
「はっきりと聞こえるようになったのだ。ああ、この大戦(おおいくさ)が始まったあたりからな」
「つまりは新月の日ということか」スサノヲは確認した。
「うん? ああ、そのようなものだろう。わが祖先にはかの予言者アモスがおられる。おそらくはこの身に流れる予言者の血にこそ、今ここで神は語りかけられたのだろう」
 満足げに酒を口に運ぶ。その言外には、「エステルではなく」というニュアンスがあからさまなほど含まれていた。
「アモスなら俺も同じ祖先だ。言い伝えによればな」と、モルデは言った。
「同じ血が流れていようが、神は自らの御心に従う者にしか語りかけることはなさらぬ」
「俺も神の御心には従って生きているつもりだったがな」やや自虐的とも取れるような言い方をモルデはした。
「そうかな?」ヤイルは隻眼をモルデに、そして次にカーラに注いだ。「トリカミに潜入させておる密偵から、先ほど知らせがあった。ヤマトの巫女はカガチに殺されたそうだ」
「イスズ様が?!」深甚な衝撃にカーラが声を上げた。瞳孔が開いたようになり、半ばほど開いた口のまま彼は凍り付いていた。
「我らと同じ血を引く者であっても、朱に交われば赤くなる。どうも聞くところによれば、そのイスズという巫女、他のこのワの国の巫女たちと似たような邪教に染まっておるらしいではないか」
「ち、違いまする」カーラが反論したのは、ひと呼吸もふた呼吸も後だった。「我らは真の信仰を捨てたわけではない」
「信じられぬな」嘲笑った。「それならなぜおまえらは巫女などを戴いておるのだ。他のよこしまな神々を信奉する部族となれ合っておるのだ」
「イスズ様は他を否定する必要がないと申されておりました」
「あり得ぬ」ヤイルは断じた。「この世には唯一の神しかおらぬ。ほかを認めるなど、決してあり得ぬ。そのような邪教に堕した者どもの話など、悪魔の誘惑にも等しいわ。その誘いにうかうかと乗るモルデ、おまえの耳に神が囁きかけぬのも道理」
「なにぃ……」モルデの顔色が変わった。
 スサノヲはその肩に手をかけ、モルデを制止した。そして、「ヤイル……なぜトリカミを攻めない?」と訊いた。
「なに?」隻眼がちらっと動いた。
「トリカミにいるカガチの本隊は、今弱っているのではないか。敵の大将がそこにいて、なおかつ手薄な状況だ。普通に考えれば、このカナンの主力を持ってカガチを潰しに行くというのが常道ではないのか。カガチさえ討ち取れば戦は終わる」
 その質問はヤイルの痛いところをついたのは間違いなかった。
「カガチを討ち果たすのは最後の楽しみよ」
「そうしてタジマやコジマの軍勢と一進一退を続けているのか。解せぬ話だな。単なる消耗戦でしかない。時間がたてば、カガチは軍勢を立て直すぞ。キビやヒメジから増援が来るかもしれん。そうなれば不利になる一方だぞ」
「神のご指示がない」むっつりとしてヤイルは、眼をそむけ酒を口に運んだ。
「おまえの神はずいぶんと理不尽な戦術を強要するのだな」
「神の御心は計り知れぬからな」
「怖いのではないか」
「…………」
「あの男が。だとすれば、それを怖がっているのは誰だ? 神か?」
「黙れ!」
 幕屋の喧騒が一瞬にして静まり返るほどの怒声だった。手にしていた器を投げ捨て、ヤイルは立ち上がると脇に置いていた剣を抜いた。女たちから悲鳴が上がる。それをスサノヲに向ける。
「貴様の言うておることは神への侮辱。許さぬぞ」
「そんなつもりはさらさらない」スサノヲは眼を上げて言った。「侮辱を感じておるのは、おまえ自身だろう」
 一触即発の空気が、その場に張りつめた。カナンの兵たちも息を殺すようにして成り行きを見守っていた。
「ヤイル――見せたいものがある」ゆっくりとスサノヲは立ち上がった。そして「ついて来い」と背を向け歩き出した。その場を動かないヤイルを振り返る。「どうした? 不安なら手勢を連れてくればいい。やはり怖いのか」
 憤りをあらわに唸り、ヤイルは歩き出した。剣は鞘に収めず、スサノヲの背後に今まさに斬りつけるような距離でついて行く。モルデやカーラがそれに続き、幕屋にいた何人かも興味を覚えてか、彼らの後を追った。
 スサノヲが導いたのは、先ほどの椿の前だった。
「このような寒い季節にも花が咲く」と、椿の一輪の枝をそっと掌で受けるようにしてスサノヲは言った。「美しいとは思わぬか」
 ヤイルは隻眼を細め、ややあって苦笑めいたものを浮かべた。「何の話だ」
「ヤイル、この花は何色だ」


「赤……」
「この地上に咲く花、他にどんな色がある。おまえは他にどのような色の花を見たことがある」
 答えるのもばかばかしいと思ったのか、ヤイルは沈黙していた。
「白、黄、青、紫……数多くの花を俺はこの地に来るまでに見た。形も色も、香りもそれぞれに異なっていた」
「…………」
「この花を創造したのは?」
「……神だ」
「神はなぜ花を一色(ひといろ)だけにしなかったのだろうな。そして、なぜ多くの形を作ったのだろう」
「…………」
 ――全部が同じ色になってはつまらないと思いませんか。赤や青や緑や黄、黒や白……いろいろあるから楽しいし、面白いものです。
 スサノヲの脳裏にクシナーダの言葉がよぎった。
「この世を彩る花にもいろいろなものがあったほうが、神も良いと思われたからであろう。いろいろあるから楽しめる。何もかも同じではつまらぬ――そうは思わぬか」
「何が言いたい……」
「この地上に肌の色や言葉や風習が違う多くの民が存在しているのも花と同じこと。神がそれを善しとされたからだ」
「何を言い出すかと思えば……」ヤイルは嘲笑い、そして手にしていた剣を一閃させた。
 スサノヲの近くで花弁を広げていた一輪が落ちた。
「花と人間は違うわ。我ら以外のすべては、神の道から外れた堕落した民どもよ!」
 どうでも動かぬ、頑迷そのものの傲岸さがヤイルの言葉、表情に滲み出ていた。スサノヲはじりっと片足を前に出しながら、憤りを発して言った。
「花も人も神の創造物に違いあるまい」
「笑止」
「そなたらもこの花のように、ただこの地に根付き、あたり前に咲けばよいだけのこと」ヤイルが切り落とした椿を拾い上げ、スサノヲはそれを突き出した。「なぜ、それがわからん。それが許されるのだぞ」
「我らは神に選ばれた民。同じ花であったとしても、そのあたりの道草に咲く花とはわけが違う」
「同じ命であろう!」
「同じではない。神に仕える我らの価値ある命! 他は無価値な命よ!」
「神を侮辱しているのはお前自身だと知れ! 聞け! そなたたちも!」スサノヲは幕屋からついてきたカナンの兵士たちにも語りかけた。「本来、このワの島国はそなたらのものではなかった。後から来たそなたらは、このワの民たちに受け入れてもらわねばならなかったのだ。それが可能だった。アシナヅチがそう告げたように。だが、そなたらは受け入れてもらう努力ではなく、逆のことをしている。他を否定し、自らの存在を誇示し、他を支配下に置こうとしている! それが間違いの始まりなのだ!」
 いつの間にか、中にいたはずのエステルやカイの姿も幕屋の外にあった。彼女もスサノヲの言葉を聞いていた。
「この花のように、そなたらは切りとる必要のない花々を散らせているのだ。この地の民も、そしてそなたらの命もだ! 半島でいまだ待つそなたらの家族のことを思い出せ! 家族と一緒にこの地で安らかに暮らせるのだぞ! なぜその選択をしない! 共に和となり生きろ! それこそが神の道だ!」
「このような者の言葉にたぶらかされるな!」ヤイルは怒鳴った。「我らは受け入れてもらう必要などない! 我らの主たる神が、すべてを我らに与え給うからだ! 愚昧な者どもは滅ぼしてしまえばよいのだ!」
 スサノヲとヤイルの間に明瞭な殺気が走った。この瞬間、スサノヲの心にもはっきりとした殺意が生じていた。この男を排除しなければ、人は死に続け、悲しみは蔓延し続ける。そのためには――。
 スサノヲはほとんど腰の剣に手を動かしかけていた。実際、抜きたかった。その誘惑は熾烈なものであり、ほとんど抗いがたいものへと一気に高まった。
 ヨモツヒサメから受けたダメージは、まだ回復には程遠かった。が、ヤイル一人を斬り捨てることくらい、できぬ俺ではない――。
 ぴくっと手が動いた。その瞬間にヤイルは反応して剣を構えた。
 が、スサノヲはその自分の手に先ほど拾った椿があることを意識し、その一輪が彼を思いとどまらせた。クシナーダの面影がふっと脳裏をよぎる。やめて、と彼女が声なき声で言ったように思えた。
 危ういところでスサノヲは殺気を体内から追い払った。背筋に冷たいものが走る。それは隙あらば付け込もうとするヨモツヒサメの気配だった。ヤイルに向けて踏み出していた足を引く。
 ふうーっという吐息と共にヤイルも剣を引いた。
「よけいな口出しは無用。邪魔をするなら、いかにお前でも容赦はしない」ヤイルは踵を返し、自分がいた幕屋のほうへ向かった。通りすがりに右の隻眼がエステルを捉えたはずだが、臣下の礼も取らず、足早に去る。部下たちに「座興は終わりだ。さあ、呑み直しだ!」と声をかける。
「すべてはわたしの責任だ」近づいてきてエステルは重い口を開いた。月光に照らされることで、やつれたその顔の頬がよけいに落ちているように見えた。「すまない、スサノヲ」
「俺よりも、カーラや亡くなったイスズという巫女に詫びるべきだろう」
「亡くなった? イスズという者は亡くなったのか」
「カガチに殺されたそうだ」
「イスズ様は後からきっとこの地に到来する仲間を、命かけてお導きするお心積もりでした。モルデ様を逃がすために、きっと身を挺されたのだと思います」
 モルデも沈痛な面持ちだった。それを見てエステルは、さらに濃い苦渋をにじませた。
「すまない、カーラ」
 カーラは俯いていたが、「いえ」と顔を上げた。「エステル様、それにスサノヲ様、私は一度トリカミに戻ります。イスズ様はこれより後、私はアナト様にお仕えするよう命じられました。きっとイスズ様は深いお考えあって、そのように命じられたはず」
「そうだな。トリカミに囚われている巫女たちのことも気になる」そう言いながら、スサノヲも自分が戻りたいほどだった。だが――。
「場合によっては、命に代えてお助けいたします。途中で会ったイタケル様やニギヒ様ともそのようなお話を致しました」
「頼む……」
 カーラは頭を下げると、すぐにその場を離れた。歩み去っていくというよりも、風のように消えた印象だった。
「エステル様、ここはお寒うございます。兄さんも、みんな、中に入って話そう」と、カイが言った。
 エステルもモルデも、幕屋の中へ引き上げていく。スサノヲもそれに続きかけ、一度足を止めた。振り返った夜空の月は、すでに西へ沈みかけていた。
「サルタヒコ……見ているのだろう」スサノヲは空に向かって言った。「俺にここで何をさせたいのだ。ヤイルを打ち倒せというのか」
 夜空は沈黙したままだった。
「教えてくれ」
 羽音もなく、風の音だけが聞こえていた。

    3

 夕方、いつものように巫女たちに食事を運ぶと、スクナは家屋を出てきた。
「ご苦労さん」と見張りの兵が声をかけてくる。以前にはなかった気安さだった。それに対してスクナは、にっこり笑顔を返した。
「おじさんたちのも、すぐに持ってくるから」
「ああ、頼むよ」
 イスズが抜け出して以来、見張りの兵は増員され、五人になっている。しかし、彼らはトリカミの里人たちが仲間の傷病者たちの回復のために働いたことで、かなり気を許すようになっていた。その見張りが交替するのは夜半――時間はたっぷりとあったが、問題はタイミングだった。
 スクナは、夕餉に集まる里人たちのところへ戻ると、作られた食事を五人分、別な土鍋に分けてもらった。それをあらためて火にかけ、乾燥した植物の葉をそれに加えて煮た。日が暮れて行くのを見つめる彼女の眼は、里人の中にこっそりと紛れ込んだイタケル、オシヲの姿を確認した。夕闇が濃くなってきたので、抜け道から入り込んできたのだ。
 トリカミの里自体、かなり広範な土地である。主だった道筋にはオロチ軍の兵が警備しているが、至るところに隙間がある。里人にとってはこっそり出入りすることは難しくなかった。
「どうだ?」イタケルは近寄ってきて言った。
「大丈夫。二人はあれ持って、ついてきて」
 スクナに言われて、イタケルとオシヲは用意されていた薪や枯葉などを担いだ。すべての段取りは、スクナによってなされていた。
 スクナが食事を運んでいくと腹を空かせていた見張り兵は嬉々としたが、ついてきたイタケルとオシヲが荷物を下ろすのを不審げに見ていた。
「ねえ、ここで焚火してもいい?」と、スクナが訊く。
「あ、ああ」彼らは顔を見合わせた。
「栗を焼くんだ。巫女様たちに差し上げたいし、おじさんたちも食べるでしょう?」
「ああ、そういうことなら」「この寒さだ。むしろ大歓迎だ」などと、兵たちは笑顔になった。イタケルとオシヲが荷物を置くと去って行ったので、彼らはよけいに気を許した。
 篝火から種火をもらうと、集めた枯葉はすぐに燃え上がった。小枝、そして大きめの薪という順で火を大きくしていく。その間に兵士たちは焚火のまわりで暖を取りながら食事をし、談笑した。
「俺たちの里でも、栗は冬の間の大事な食糧だからなあ」
「あのバチバチ弾ける音がたまんねえよ」
「いや、楽しみだ。ここの里の栗は実が大きい」
 炎を大きさを見て、スクナは乾燥した植物の束を放り込んだ。
「なんだ、そりゃ」と尋ねる兵士。そのときには、すでに頭がぐらぐら揺れていた。
「これを燃やすと良い灰ができてね、栗がうまい具合に焼けるの」
「へえ~、なんて草だ」
 スクナは答えたが、彼らが覚えることはなかっただろう。もうもうと上がる煙が、風にまかれて彼らの気管に吸い込まれた。スクナは息を止めたり、風上に回ったりするなどして、煙を吸い込まないようにしていた。
 もはや立っていられる者はいなかった。
 すでにあたりは闇が濃厚で、半月の月明かりだけが頼りだった。この異変に気づく者もいない。
「ごめんね」と、スクナは兵士たちに詫びた。

 その夜、クシナーダは他の巫女たちにいつでも抜け出せるように身支度を整えさせていた。
「クシナーダ様、本当にここを出られるのでしょうか」アナトが尋ねた。
 その問いにもクシナーダは笑顔で応えた。「スクナが必ず迎えに来ます」
「あのような子供がいったいどのようにして……」
 戸板を叩く音がしたのはその時だった。動かされた戸口の隙間から覗いたのは、そのスクナの顔だった。
「来たよ、クシナーダ様」悪戯っ子みたいな笑顔でスクナが囁く。
 巫女たちは唖然として顔を見合わせた。
「さあ、行きましょう」クシナーダが呼びかけ、彼女らは外に出ていく。
「あ、あの女性(ひと)は……」と、スクナは動こうとしない一人の巫女を目に留めて言った。
「良いのです。行きましょう」クシナーダがやんわりと肩を押す。
 そのクシナーダは家屋を出るとき、残った女性に対して深々と頭を下げた。女性もこうべを垂れていた。スクナはクシナーダの表情に悲しみとも苦しみともつかぬものが浮かんでいるのを見た。
 外に出た巫女たちは、寝転んだりしゃがみこんだりしている見張りの兵士たちの姿に驚き、立ちすくんだ。寝ている――と思ったら、かならずしもそうではない。彼らはぐらぐら頭や体を揺らし、まるで酒に泥酔して酩酊しているような状態だった。巫女たちを見てもにやにや笑い、自分の妻の名前を呼んだりしている。
「また、お酒を――?」と、アナトは尋ねた。
 しかし、前回イスズが抜け出したときのことがあるので、兵士たちに同じ手が通用したとは思えない。
「夕餉に、ちょっとね。それにあの煙も吸わせたから」
 巫女たちが囚われていた家屋の近くには、まだ煙を立ち上らせている焚火があった。
「あの煙を吸わないようにね」と、スクナは警告した。
 巫女たちは慌てて袖で口をふさいだ。
「スクナは様々な薬草の効用とその知識に長けているのです」クシナーダは説明し、スクナの肩に手をかけた。「ありがとうね。スクナだったらきっとなんとかしてくれると信じていました」
 えへ、とスクナが笑う。そこへイタケルとオシヲが走ってやってきた。
「イタケル、オシヲ……よく無事で」クシナーダは感嘆をにじませた。
「行こう。ぐずぐずしていたら気づかれる」と、イタケル。
「西の磐座のところでニギヒ様と、ニギヒ様の部下が集まってる」と、オシヲ。
 イタケルたちの導きを受け、巫女たちは夜陰に紛れ、里を抜けて行った。その姿をこっそり家屋の中から見ている里人たちもいることに、クシナーダは気づいていた。彼らは今宵の企てを知っていて、皆、クシナーダたちが無事に脱出できることを祈っている。いや、もしほかの兵士たちに察知されるようなことがあれば、身を挺してでも守ろうとしているということが伝わってきた。
 彼らの祈りと期待が、夜の大気を通じて流れ込んでくる。
 ――これでは、もしかしたら……。
 クシナーダは危惧を抱いた。
 西の磐座は斐伊川にもっとも近い、里の境界線になっている場所だ。里を聖域化している結界の要ともなる機能を有している巨岩の一つだ。そこが近づくと住居もなくなり、森の茂みも深くなってくる。
 明かりも使わず、沈みかけた月明かりだけを頼りに移動できるのは、地理を熟知しているからこそだった。里の周囲を警戒する兵士たちの場所もスクナが事前に調べていた。彼女しか知らないような抜け道を使い、隙間を縫うようにして移動する。
「大丈夫ですか、ナオヒ様」と、クシナーダは小声で気遣った。
「年寄りにはきついわい……」ナオヒはさすがに息が上がっていた。
「もう少しですから頑張ってくださいね」
「年寄りを鞭打つ、お優しい言葉じゃな」
 磐座が月明かりの中にシルエットで見えた。すでに兵士たちの包囲の外である。
 巨岩の周囲にはニギヒと招集をかけられた配下たちが待機していた。屈強な男たちの存在は、巫女たちを安堵させた。
「クシナーダ様、それにナオヒ様、ご無事で何よりです」ニギヒが言った。
「言った通り、なかなかしぶといじゃろ?」と、からかうようにナオヒが言った。
 そのときまで、彼らのだれも気配を察知することはなかった。いつの間にかそばに来ていた人影が声を発することで、彼らは飛び上がるほど驚かされた。
「皆様……」その男は、カーラだった。
 彼は食い入るように凝視し、巫女たちの顔をゆっくりと確認して行った。その中に彼の主であった女性の貴い姿がないことを、あらためて確認するように――。
 その眼に涙が滲み、口はへの字に歪んだ。
「なんなりとお申し付けください」
 彼がそう言って膝を折ったのはアナトの前だった。


「カガチ様!」イオリの取り乱した声が響いたのは、それからしばらく後のことだった。
 カガチは祭殿の一角で、ヨサミに給仕させ、酒を呑んでいた。
「巫女どもが逃げました! み、見張りがおかしなもので眠らされッ――」血相を変えてやってきたイオリは、報告を聞いて眉一つ動かさないカガチに、一瞬、言葉を詰まらせた。「す、すでに追手をかけております。すぐに見つけ出し――」
「捨て置け」ぼそりとカガチは言った。
「は?」
「捨て置けと言った」
「い、いや、しかし」
「あの巫女どもも、もはや用済み。連れて歩いても足手まといなだけ」
「は、はあ」イオリはカガチの真意を測りかねていた。怒り狂ったカガチに殺されるかもしれない覚悟で来たのに拍子抜けしたというのもあろうし、何よりもどっと安堵したためか、真っ青だった顔に血の気が戻ってきた。
「道草の花、むしり取ったところでもはや何の益にもならぬわ。のう、そうであろうが、ヨサミ」
 話を振られ、ヨサミは黙って見つめ返した。
「あ、ああ、あの、しかし、カガチ様」イオリはさらに顔色を窺いながら続けた。「ただ、一人だけ、巫女が残っております」
「なに?」カガチはむしろそのことに驚きに打たれたように反応した。
「アカルが残っております。一人……」
「アカルが?」
「は、はい」
「呼んでまいれ」
「わかりました!」
 部屋を飛び出して行こうとするイオリを、カガチは今一度呼び止めた。
「イオリ、心しておけ。我らは明日、ここを出立する」
「え? イズモに進軍されるのですか」
「タジマのミカソらと合流する。そしてカナンとの最後の戦いに備える。よけいなことに気を回さず、兵たちもゆっくり休ませておけ。よいか」
「は、はい。しかし、このトリカミや動けない傷病兵はいかがなされます」
「この地はもはやどうでも良い。守備兵も残さぬ。動けぬ者はここに残す。わかったな」
「は!」イオリは頭を下げ、その場を足早に去って行った。
 その足音が聞こえなくなった頃、ヨサミは言った。「お気づきだったのですか」
「おまえがくれた〝力〟だろう。今夜、おかしな気配があるのは感じておった。イスズが抜け出したときと同じようなものだ」
「なのに見逃された……」
 カガチは酒を呷った。「……俺も馬鹿ではない。クシナーダが言うには、この里が封印してきた〝力〟は解き放たれた。アカルにせよ、キビの巫女どもにせよ、このトリカミを禁忌としてきたのはそれが理由であろう。しかし、その禁忌が破られたとあれば、巫女どもが俺の言うことに従う理由はなくなる。半分はな」
「半分?」
「ことキビからはクロガネ作りのためという名目で、多くの者をタジマやイナバに人質に取っている。それが残り半分。おっと――お前の国からも取っていたな」
 ヨサミはそのことには何も返さず、ただカガチの手の中の器に酒を注いだ。そのことは今言われるまで、ヨサミ自身、ろくに思い出しもしなかったことだった。いや、考えるのを避けていたのかもしれない。タジマにはヨサミの従兄に当たる人物も人質に取られていた。
「キビから徴収した兵士たちも、洪水でほとんど死ぬか、動けぬ状態だ。このような有様に至り、キビの巫女たちが俺から離れようとするのは必定であろう」
「なぜ、お見逃しになったのですか」
「この戦が終われば、カナンという最大の邪魔者はいなくなる。キビにしてもこの戦に兵力の大半を差し出した」
「つまり弱体化したキビなどいかようにもできると? 巫女を人質にする必要もない……」
「そういうことだ。幸いにも洪水で損失したのはキビとヒメジなどから集めた兵力がほとんど。タジマの本隊はカナンの東に温存されておる」
 たしかにカガチの支配するタジマの主力は、まだ残されているのだった。ある意味、カガチには現状でさえ好都合なのかもしれなかった。
「封印されしものが解き放たれたのなら、もはやこの里の巫女を盾にとっても、あいつらを意のままにすることは難しかろうしな」カガチはまた酒を口に運んだ。「俺にとっても手元に置いておく価値がなくなったということだ」
 しかし――。
 それだけだろうか、とヨサミは考えた。以前のカガチならクシナーダを含む巫女すべてを殺してしまい、もしそれでこの里人たちが反感を抱くなら、この里すべてを滅ぼしただろう。言葉の上では微妙な違いでしかないようだが、よくよく突き詰めれば彼の変容はきわめて不可解なものに思えた。彼自身、言葉にしたような理由で自分を納得させているようにも聞こえる。
「しかし、となれば、問題はタジマやイナバにおるキビの奴隷どもだ。あの巫女どもはそれをなんとかしたいはず……」
 カガチが独り言(ご)つのも、ヨサミには筋が通ってないように思えた。ならば、よけいにキビの巫女たちを捉え、動きを封じなければならないはず。
「そうか……読めた」カガチはふっと笑った。
 そのときイオリがアカルを連行して戻ってきた。その彼にカガチはすぐに告げた。
「イオリ、コジマ軍の動きに注意しろ」
「え? コジマですか」
「コジマはカナンの北側に侵攻しておるな」
「はい。現在は意宇の湖(おうのうみ)を挟んだ場所に陣を張っております」※意宇の湖=現・宍道湖
「すぐに使いを出し、反乱の動きがないか、タジマの水軍に見張らせろ。妙な動きをするようなら討て。コジマ内に潜らせている密偵にも伝えておけ」
「わかりました」
 カガチは顎を動かし、イオリを追い払った。その場にはアカルとカガチ、そしてヨサミだけが残された。
「なぜ逃げなかった」
 そう問いかけるカガチに、アカルは伏し目がちのまま応えた。
「わたしはタジマの巫女。わたしがいなくては、軍の統率に影響が出ましょう」
「笑わせるな……。キビなどと違い、タジマは俺が直接支配しておる地だ。お前がいようがいまいが、影響はない」
「十六年前のあの日より、ずっとあなたのことを見てまいりました」アカルは眼を上げ、カガチをまっすぐに見た。そして、彼の前に跪いた。「どうか、最後までおそばにいさせてください」
 その姿と言葉は、ヨサミに激しい嫉妬を掻き立てさせた。自分が顔色を失っているのがわかる。
「どういう風の吹き回しだ」
「わたしの命はもう長くありませぬ」


「…………」
「わたしはあの日、あなたの命を救いました。その時の借りを返していただきとうございます」
「借りと言うか」
「はい。なれば、どうか最後までわたしに事の成り行きを見届けさせてください。それがわたしの最後の望みです」
「そんなことのために、一人残ったのか」
「そんなこと、ではありませぬ。そのことのためにだけ、わたしは生きてきたのです」
 アカルの青白い額のあたりから、なにか鋭いものが立ち上っていた。ヨサミはめまいを覚えた。アカルの思いつめた、必死な何かに、圧倒されながら、同時に嫉妬もし、そしてさらに――。
 憧れさえ覚えた。
「よかろう」カガチはそう言い、無表情に酒を呑んだ。

    4

「二十人……たったそれだけなのか」その数を聞き、モルデは愕然と呻いた。
 すとんと、力なく腰を落とす。信じられない、というように視線が足元をさまよっている。その姿を誰よりも苦しげに見つめているのはエステルだった。
 二十人――それはエステルらと共に戦いを放棄し、ヤマトへ移民する手段を選ぶ者たちの数だった。カイやシモン、ヤコブらの水面下での活動で、その根回しは行われた。が、驚くほど同調者は少なかったのだ。それはそのままエステルの求心力がなくなってしまったことの証明だった。
「この短い間にヤイルはなぜここまで……」モルデはつぶやいた。
 沈黙があった。カイ、そしてシモンやヤコブには、思い当たることがあるようだった。スサノヲはそれに気づいていたが、ただエステルのほうを見つめていた。秋にトリカミの里に現れた彼女と同一人物とは思われないほど、エステルは弱くなっていた。まったく雰囲気が違うのだ。あのときの誇り高く、猛々しい王女のオーラは、今は微塵もない。傷ついた小動物のようだ。
「エステル」他に口火を切る者がいないと知り、スサノヲは言った。「何があった」
 声をかけられ、ただそれだけでエステルはぶるっと震えた。右手で自分の左腕をつかみ、そしてしばらく硬直していた。
「皆、聞いてくれ」やがてエステルは顔を歪め、血を吐くように言った。「軽蔑してくれても構わない。わたしは……怖くなったのだ」
「エステル様……」モルデは衝撃を受け、言葉を失った。
「あのカヤを滅ぼしたとき、憎しみに満ちた眼でわたしを見つめながら、舟で川を下って行く巫女がいた……。あのとき、わたしは本当は……自らの行いに寒気を覚えていた。あの眼が……忘れようとしても、どうしても忘れられぬ!」
 これまで封印していた想いが、最後には叫びとなって響いた。モルデ、そしてカーラなどの話をつなげるなら、それはヨサミというカヤの生き残りに違いなかった。
「あの巫女は叫んでいた。『お父様お母様』と……。それからしばらくして、あの男が……カガチがカヤを奪還しに来た。あの化け物のような男が……わたしは、あの巫女の怨念が、あの男となって現れたように思った」
 その認識もまた正しいのかもしれなかった。ヨサミはカガチの愛妾となっている。
「あのような怪物を……わたしは大陸でも見たことがなかった。鬼……カガチは本物の鬼だ……。恐ろしかった……どこまでも追いかけて、わたしのはらわたを食らうと言った。あのときの恐怖が今もこの身からは消えぬ……」
 エステルは一言一言を苦しげに紡ぎ出した。言葉を発するたびに、自らのプライドを自ら捨てて足で踏みにじるようなものだったろう。
「その後のことはカイやシモン、ヤコブらはよく知っている……。わたしがあの男に怯え、臆病になり、勇気を失ったことを……。わたしがそのような有様だ。兵たちの士気も下がるのは道理……。今、このようにカナンが追い詰められているのも、すべて、わたしのせいだ」
 スサノヲには想像ができた。カナンの民はもともと父権的な意識が非常に強く、神も〝父なる神〟である。女性が頭に立つことなど、ほとんどありえない民なのだ。それを可能ならしめていたのは、王家の血筋であったろうし、エフライムの存命中から非常に強い指導力を彼女が発揮してきたからだ。
 だが、その強い意志が彼女から失われてしまったとすれば――。
 カナンの民の忠誠は、たちまち脆くなったのではないだろうか。そして、そんなカナンの民が次に求めたのは……。
「そんなとき、ヤイルが神がかった……。突然のことだった。が、大水でカガチが率いる軍が滅びるというヤイルの予言は的中した。民たちはヤイルを自分たちに与えられた、あらたな予言者と信じた」
「そうして一気にヤイルの元へ信が集まったということか」
 スサノヲが呟いた後、すぐにカイが叫ぶように擁護した。
「エステル様はずっと、お体の具合も良くなかったのです! それもあってのことなのです。食事もあまり受け付けられず、弱っておられたのです!」
 それを聞き、スサノヲは眼を細め、エステルの姿をまじまじと見つめた。
「エステル……おまえは子を宿しているのではないか」
 え! と大きな驚きを発したのはモルデだった。が、カイらは内心では考えていたことのようで、過剰な反応はなかった。むしろエステルの顔色を窺っていた。
 自分の身体を抱きしめるようにしていたエステルは、やがてそっと自分の腹部に手を置いた。
「ほ……本当なのですか、エステル様」モルデは顎の関節が外れてしまったようになっていた。
「すまない、モルデ……キビから帰ってきたら話そうと思っていた」
「では、あのとき言われていたのは……」
 二人のやり取り、そしてカイらの様子からスサノヲは、それがモルデとの子なのだと知った。そして、ようやく疑念が氷解するのを感じた。
 エステルはかつての軍神のような女ではなくなっていた。
 母になっていたのだ。
 それが今の彼女に感じていた違和感の正体だったのだ。


「わたしは知った」モルデのことを見つめ返すエステルの眼にはうるんだものがあった。「子を宿し、初めて思ったのだ。この子が愛おしいと。この子を守りたいと。そうしたら、自分のことが怖くなった……。多くの者を殺めた自分のことが……。わたしは、あの鬼と変わらぬ……。殺してきた者たちにも、同じように母がおったろうに! あの巫女にも!」
 ぼたっ、ぼたっ、とエステルの涙が零れ落ち、足元で音を立てた。
「そう……だったのですか」
 人目を気にする思いもあっただろうが、モルデは近づき、エステルの肩に手を置いた。エステルもまた彼にしがみついた。そして嗚咽を漏らした。

 そうしてその日が暮れた。スサノヲはエステルの幕屋の一角に、モルデと共に臥所を与えられていた。
 月も没し、夜闇が濃くなった頃、モルデがやって来た。
「落ち着いたか」と、スサノヲは仰向けに寝たまま言った。
「まだ、起きていたのですか」音を忍ばせて入ってきたモルデが驚いたように言った。
「エステルは大丈夫か」
「ええ、もう落ち着かれました」そう言いながら、モルデが臥所に入る。
「この戦は収まらぬ」スサノヲは開いた眼を上に向けたまま言った。「もう滝の水のように流れ落ちて行くだけだ。志を同じくする者だけでも集め、おまえたちはヤマトを目指すべきだ」
「明日、同道する者に声をかけてみるつもりです。そして、明日の夜にでもここをひそかに抜け出す……」
「その後は? 半島に戻るのか」
「そうなるでしょう。半島に残ったカナンの民たちは多い。それを引き連れ、ヤマトを目指します。ただ……」
「ただ?」
「それで良いのかと、エステル様は悩んでおられます」
 スサノヲは半身を起こした。「どういうことだ?」
「これだけの戦乱を起こした責任を感じておられるのです。ここにいるカナンの民にも、そしてこの島国の民にも」
「…………」
「スサノヲ様は、今さら何を言うと思われるでしょう。しかし、俺も同じ気持ちです。このような状況で、自分たちだけが安全な場所へ逃げこむような卑怯なまねはできない。だから俺は残ります。エステル様は半島に避難していただくが……」
「エステルは納得すまい。おまえは腹の子の父なのだろう」
 沈黙は苦しげさえ思えた。
「あの分ではヤイルは決して矛を収めまい。カガチにしても同じだ」
「そうだ……スサノヲ様」思い出したようにモルデが言った。「あのカガチという男は、あなたの剣を持っていました。あのスサで、あなたが持っていた剣です」
「なに?」
「見間違えようがありません。あなたの剣は独特な形をしている」
「そういうことだったのか……」
 モルデも身を起こしていた。「あれはただの剣ではないのですね」
 スサノヲはうなずいた。
 あの剣は彼のエネルギーそのものである。天界から分かたれたスサノヲの大元の光の一部を、剣という形で結晶化させたものだ。ネの世界に降り立った直後だったからこそ、それが可能だったのだ。彼自身、まだすべて物質化していなかったような状況で、その一部を武器に変えたのだ。それが必要とされる状況だったがために。
「あれは当たり前の人間が持つのは危険すぎる代物だ」
「まさかカガチが鬼になったというのも……」
「たぶん剣の〝力〟のせい……」スサノヲは言葉を切り、小さく「シッ」と指を口に当てた。
 気配が動いていた。
 スサノヲは剣を取り、無音で立ち上がった。幕屋の外の篝火が爆ぜる音がする。そして風の音。それに混じって、金物が触れる音が聞こえ始めた。もちろんほんのわずかなものだが、そのときになってようやくモルデもはっとなり、剣を手にした。
 臥所を抜け出して行く。今や明瞭な殺気が彼らを押し包んでいた。
 幕屋の中の布がかすかに揺れた。と、次の瞬間、剣を振りかざした男が布を切り裂きながら突っ込んできた。スサノヲは抜刀し、その剣を弾き返した。
「モルデ! エステルのところへ行け!」
 おお、とモルデは雄叫びとも応えともつかぬ声を上げ、走り出した。
 敵は一人ではなかった。スサノヲは次々に現れる男たちの攻撃をかわし、受け、足で蹴っ飛ばした。吹っ飛ばされた男が転がり、二、三人の足をすくった。
 その隙にスサノヲもエステルの元へと走った。
 もっとも奥にあるエステルの臥所に辿り着くまでに、カイたちが襲われているのに遭遇する。すでにヤコブは喉を切り裂かれ。そこで絶命していた。カイとシモンも、上からのしかかられ、今まさに剣を突き立てられようとするところだった。
 スサノヲは剣を振りかざす男に肩から猛然と当たり、二人まとめて吹っ飛ばした。
「大丈夫か! 立て!」叫ぶ。
 寝こみを襲われてなす術もなかったカイらも、ようやく剣を手にして応戦する構えを見せた。そのとき戻ってきたモルデが叫んだ。
「エステル様の幕屋ぞ! 貴様ら、何をやっているのかわかっているのか!」
 彼はエステルを連れていた。モルデの言葉とエステルの姿は、彼らにわずかな怯みを作った。
「切り開くぞ!」
 言下にスサノヲは前に出た。後に続くカイたちには、スサノヲが何をやっているのか、ろくに見えなかっただろう。あまりにも動きが早く、彼が近づくたびに自動的に兵士たちがもんどりうって倒れて行くようにしか思えなかっただろう。脚で蹴り飛ばし、肘を入れ、剣の側面で打つ。
 幕屋を出た彼らが見たのは、そこに群がるカナンの民たちであった。
 皆、武装し、殺意をむき出しにしていた。
 その背後には、背高いヤイルの姿もあった。
「乱心したか、ヤイル!」モルデが叫んだ。
 ヤイルの顔に傲然とした笑いが浮かんだ。「乱心はどちらかな」
「なんだと」
「困りますな、エステル様。王家の血筋と思えばこそ、お立てしてまいりましたのに。この期に及んで、兵たちを連れて半島に戻るなど、愚の骨頂。勝利は目前だというのに、兵たちの士気が下がりまする」
 カイたちの工作が気取られていたのだった。いや、多く者に声をかければ、ヤイルに伝わらないはずはない。もともとその危険は冒しての工作だったのだ。しかし、よもやヤイルがエステルに剣を向けるとは、だれも想像していなかったのである。
 スサノヲは考えが浅かったことに気づかされていた。半島に残している民は、ヤイルにとって重要な財産だ。人としての資源なのだ。もしエステルがそれを根こそぎ奪い、ヤマトへ移住してしまったら……。
 その想定がヤイルを暴挙に走らせたのだ。
「神のご意志こそが絶対。それに背く者は、たとえ王であろうと罪は免れぬ。やれ!」
 ヤイルの号令と共に、雪崩を打って兵士たちは襲いかかってきた。
 その瞬間であった。エステルの蒼ざめた顔。モルデの叫び。カイやシモンの絶望。それらすべてがスサノヲの認識の中に飛び込んできて、一つ一つが鮮明な映像となって脳裏に焼き付いた。と同時、彼は悟っていた。
 ――守るためだ。
 裂帛の気合いと共に、スサノヲの剣が振るわれた。〝気〟が高潮のように迸り、押し寄せる兵たちを打ち据え、跳ね除けた。


「こっちだ!」スサノヲは叫び、再び剣圧で活路を開いた。
 モルデ、エステル、カイ、シモンらは崩れた囲みの一角を風のように走り抜けた。彼らを先に行かせると、スサノヲは自らがしんがりに回った。
 度肝を抜かれた兵士たちが態勢を立て直し、追いすがろうとする。それを彼は止めた。目まぐるしく襲い掛かってくる剣を、槍を。
「俺は守るためにここにいる!」息継ぎをする暇もないほどの攻防の中、スサノヲは叫んだ。「サルタヒコ! 俺は守ることに決めた!」
 ヤイルの号令で弓矢が放たれた。十を超える飛来する矢を、斜めに振り上げ、そして振り下ろす稲妻の如き太刀筋で薙ぎ払う。
「文句あるまい!」
 かつてない熱いものが滾るのを感じた。自らに与えられた力――スサノヲはそれが何のためにあるのかを知った。いや、自ら決めたのだ。
 その答えは彼を満足させるものだった。生きてここにある。そのたった今の意味。
 命の使い方。
 そんな言葉のピースが、バラバラに飛んできて、彼の中でぴったり枠の中に収まった。
 ――わたくしは決めてございます。
 ――そのようなことは自分で決めよ。
 彼の脳裏にクシナーダと母・イナザミの言葉がよみがえっていた。

「いよいよでございますな、サルタヒコ様」
 ウズメの言葉に、サルタヒコはうむとうなずいた。
 彼らは騒乱から離れた場所にある大きな松の梢にいた。そして、スサノヲの動きを見守っていた。俊敏な身のこなしは縦横無尽に変化し、敵の攻撃をことごとく退けた。
「まっこと、猛々しい踊りじゃ」と、ウズメが感嘆する。
「しかし、一人も殺しておらぬぞ」
 スサノヲはただ一人の敵も斬り捨ててはいなかった。巧妙な打撃を与えて、行動する力を奪っていく。
「面白きやつ……」ウズメはくすくす笑った。

 雪がまた降り始めていた。

    5

 トリカミを発ったカガチは、見る影もないほど少なくなった軍勢を引き連れ、意宇(おう)を目指した。(現・松江市を中心とする地域)
 その地はちょうど中海と意宇の湖(おうのうみ)の結節点となっており、東から侵攻したタジマを中心とするオロチ軍は、中海沿岸のカナンを退け、現在はそこに陣を張っていた。しかし、不可解な勢いを取り戻したカナン軍によって、さらに西への侵攻は食い止められていた。指揮しているのは、カガチの腹心であるミカソだった。
 このミカソの本隊と合流するために、カガチは一度斐伊川に沿って北へ向かい、カナンの勢力圏に接近しすぎる前に北東へ進路を取った。意宇へ向かう道筋は、主に二つあったが、カナンの勢力から距離を置く東寄りのルートは山越えが険しく、やや迂回するものとなる。そのためカガチは、多少の危険はあっても、最短で意宇にたどり着く西寄りのルートを選んだ。
 ところが――。
 この道行は当初予想されたものより、はるかに厳しいものとなった。未明から降り始めた雪が、一行の足を阻んだのである。出立したころはさほどのものではなかった。が、たちまちそれは豪雪と言えるほどのものへと変貌し、視野と体力を奪い、足を取らせるものとなった。
 前新月の侵攻時の雪とはけた違いだった。山野はみるみる真っ白に染まり、分厚い積雪は川沿いの道のありかさえわからなくした。兵たちは足を滑らせ、深みにはまり、転び、ひどいときに川に落ちたり、斜面を滑り落ちたりした。
 ヨサミとアカルはそれぞれ輿に載せて運ばせていたが、カガチは彼女らのことを考慮して、一気に踏破することは避けた。峠を越える手前で一夜を明かすことに決め、山あいにあった集落に強制的に宿を求めた。

 そのカガチたちにやや遅れて、クシナーダたちも同じ道筋をたどっていた。ただしカガチたちに気取られぬために、川の対岸である西寄りの道を歩んでいた。そして、巫女たちにとってもそれは想像を絶する苦行を強いるものとなっていた。
 ――ハハハ。
 女の狂ったような笑い声が、吹雪の音に混じって響いてくるように思える。それは、巫女たちにとっては錯覚などではなかった。その嬌声は跳梁するヨモツヒサメたちが放つものだ。この世を憎悪や破壊、死や絶望などによって塗りつぶしていく歓喜の笑いである。
「いやな声……」ナツソが耳をふさぐようにして言った。
 他の巫女たちも同感の意を表したかっただろうが、今はそれどころではなかった。場所によっては膝まで埋まるような雪を押しのけ、あるいは雪に埋まった足を持ち上げ、降りしきる豪雪に視野もろくに得られない山道を歩く消耗はただならのものがあった。
 体力は根こそぎ奪われ、冷え切った身体が動くことさえ拒み始める。老体のナオヒはニギヒの配下の屈強な男たちが交替で背負っているが、彼らでさえ音を上げたいという想いが顔色に見え始めた。
「カガチたちはこの先の集落で一夜を明かす様子だ」という知らせを持ってニギヒの配下のひとりが戻ってきたとき、クシナーダは一同を近くの杜(もり)に誘(いざな)った。
 その辺一帯は、比較的なだらかな丘陵が目立つ地帯で、その谷間に集落があった。むろん集落はカガチたちが宿として強制使用したため、近づくことはできない。クシナーダが導いたのは、その集落の民たちが神域としている杜だった。
「ここは……トリカミ周辺にある聖域の一つです。ここならば、ヨモツヒサメたちもよりつけませんから……安全です」
 到着したとき、クシナーダも説明するのがやっとという状態だった。
 杜には小屋があり、そこには薪なども常備されていた。岩戸の聖域がそうであったように、トリカミ周辺にはこのような場所が至る所にあった。
 イタケルとオシヲ、スクナ、それにニギヒとその配下たちを加え、総勢で二十名ほど。火が燃やされ、狭い小屋の中に人がすし詰めになると、それだけで生き返ったような心地に誰もがなった。事前にイタケルたちがトリカミから持ち出していた食料が調理され、出来上がるころにイズミが思い出したように言った。
「あのカーラという男は、無事にコジマの陣に辿りつけただろうか……」
 それは独り言のような呟きだったが、そばにいたアナトが応えた。
「きっと、大丈夫です」
 イスズという絶対的な主人を失ったカーラは、彼女の最後の命に従い、アナトの従者となった。キビの人質たちを救出するためには、ナツソが巫女として立つコジマ水軍にじかに連絡を取らねばならなかった。そのことを言い含め、アナトはカーラを送り出したのだ。
「わたしたちはもう後戻りはできませんね」ナツソが自分の身を抱くようにして言った。「わかってはいるのですが、とても怖いです」
 沈黙が落ちた。その重さを払うように、イタケルがわざとらしい大きな声を上げた。
「さあ、栗が焼けたぜ! 食おうぜ!」
「皆さん、頂きましょう」と、クシナーダが言った。
 カガチが傷病兵以外、何も残さぬ状態でトリカミを発った以上、巫女たちはトリカミに戻ることさえ可能だった。しかし、彼女たちはそうせず、距離を置いてカガチたちの後を追った。
 それは巫女たちがトリカミでの軟禁状態を抜け出すと決めた直後、申し合わされていた行動だった。
「クシナーダ様、一つお伺いしてよろしいでしょうか」アナトが言った。
「はい。なんでしょうか」
「アカル様が申されていたようなこと……本当に可能なのでしょうか」
「わかりません。アシナヅチ様からも、そのようなことは聞かされたことがありません」
「そうですか……」
「ただ、カガチをなんとかしなければこの戦は終わりません。それは明らかなこと。であれば、今はアカル様のお言葉を信じて、わたくしたちはどこまでもアカル様のお力になるしかないと思います」
「それはもちろん。――ね、みんな」アナトは同じキビの巫女たちを振り返った。
 キビの若い巫女たちは、みな、うなずいた。そして焼き栗をほおばりながらナオヒが続けた。
「憎しみ合い、争いを続けたまま、浄化することはできぬ。まずは争いを止めることじゃ。その上でなければ、〝黄泉返し〟などとうてい行えぬ」
「ヨモツヒサメをヨミに返す業ですね」シキが言った。「それはどのようなものなのでしょう。わたしたちも話に聞くだけで、一度もそれを目にしたことはありません」
「むろんじゃ。わしとて代々の語り草として話に聞くだけ。それは岩戸を守ってきたトリカミの民とて同じじゃろうが……しかし、クシナーダはわかっておるのではないか」
 ナオヒの視線を受け、クシナーダはうなずいた。
「皆様もよくご存じのことと思いますが、わたしくしたちは歌と踊りという〝マツリ〟で〝体験〟を伝えてきた民です。〝マツリ〟には型があります。その型を演じることで、わたくしたちは過去の先人たちの体験も実感することができます」
「そういう感覚を抱くことはわたしたちにもあります」シキが言った。「ですが、それはとてもおぼろなもの。たぶん、ここにいるだれも、クシナーダ様と同じような体験ができていないと思うのです」
「うむ。この老いぼれでさえ、〝黄泉返し〟のことはよくわかっておらぬ。話してやってはくれぬか」
 巫女たちのみならず、熱い視線がクシナーダに集まった。
「アシナヅチ様から伝え聞いたことと、わたくしが遠い過去の出来事から受けた印象をつなぎ合わせますと……たぶん、一万年ほどの昔、ヨモツヒサメは世に出ています。大きな時代の節目であったと感じます。その当時、地上にはわたくしたちには想像もつかないような文明が繁栄していましたが、その爛熟期にヨモツヒサメはやはり悪意あるものの扇動によって、世に放たれたようです。そしてその文明は滅びました。今は沿岸の海になっているところの多くは陸地でした。ところが、巨大な水をもたらす星が迫り、洪水が起き、ほとんどの都市は水没してしまいました。かろうじて生き残った人々が、この島国にも逃れ、そして一部の叡智ある人たちが真(まこと)の道を伝えてきたのです。それは共に生きる道です」
 そのとてつもないスケールの物語に、一同は引きこまれた。巫女たちだけではない。スクナや、他の男たちも残らず聞き入っていた。
「その時代、やはりわたくしたちと同じような巫女たちがいました。そして巫女たちの核となってくれる存在がいました。その核となる者と巫女たちの力によって、〝黄泉返し〟が行われたのです」
「その核となる者とは……スサノヲか?」
 ナオヒの言葉にクシナーダは大きくうなずいた。イタケル、オシヲ、スクナ、そしてニギヒらも衝撃を受けた。
「正確にはその時代に存在したスサノヲ様です。今のあのお方そのものではありません。ですが、おそらくスサノヲの〝力〟は、時代の節目に世界を死と再生に導くためのもので、常に二面性があるのです」
「二面性?」シキは強く関心をそそられているようだった。
「破壊と創造です」
 その言葉は、アナトはすでにクシナーダから聞かされていたものだったが、多くの者に衝撃を与えた。


「スサノヲは常にヨミの扉を開く者であり、そしてそこから再生を促す者なのです。ですから、現に今のこの時も、スサノヲがヨミへ行くということがきっかけになって、ヨモツヒサメが世に出てしまったのです。ですが、その責はスサノヲにあるのではありません。スサノヲは単に役目を果たしているにすぎません。いえ、むしろヨモツヒサメがこの世に出現するのは、この世界がいかに澱を積み重ねてきたかということに関わっています。たとえば、この水……」
 クシナーダは眼でナオヒの許可を得て、彼女の器を手に取り、そしてそこに足元の土をかき集めて入れた。その濁った水を自分の器に注いだ。すぐに水は溢れ、こぼれ出た。しかし、その時はまだ水は上澄みのきれいなものだった。次にクシナーダはアナトの器も同様に濁らせ、注いだ。やがて濁った水が溢れてきた。
「ヨモツヒサメが世に出るということは、このようなものなのです。わたくしたち人間が自分だけの想いにとらわれていれば、憎しみや悲しみ、怒りや絶望、虚無といった澱が蓄積され、やがてこの地に蓄えられる器を超えて溢れ出してきます。今がその時だったのです。スサノヲはそのような時に現れるのです」
「この世を壊すために現れるのですか」蒼ざめたような声で言ったのはナツソだった。
「いや、そうではない」と、理性的な声音で言ったのはイズミだった。「つまりそれは……風を入れるためということでしょうか。カビの生えてしまった家の中に、風を入れて良い状態にするために」
 パッとクシナーダは大きく目を開いた。「それは、とてもよいたとえです。イズミ様はとても理に優れたお方ですね」
 イズミは戸惑い、赤らんだような顔になった。
「そうなのです。わたくしたちの澱が淀み、淀んだものが増え、器を溢れ出してしまうとき、スサノヲはその澱を取り除くためにも現れるのです。ですが、澱を取り除くためには、それと一度、正面から向き合わねばなりません。このように……」
 クシナーダは自分の器に残った泥を見て、そして器を傾け、それを足元に落とし、指でも掻き出した。
「澱をきれいにしてしまうには、新しいきれいな水をまた注ぎ――」すでに意を察したシキから器を受け取り、その水を泥の少なくなった器に注ぎ、また流した。「こうしたことを繰り返さねばなりません。それはじつは、わたくしたち一人一人がなさねばならないことなのです。わたくしたち個人の想いは、ちっぽけなようでいて、じつは世界の命運を作り出しているのです」
「スサノヲはそのための力になってくれるということでしょうか」ナツソはまだ用心しながらという風情で尋ねた。
「はい。わたくしたち巫女は、ものを受容する力には長けていますが、苦手なこともあります」
「取り除くこと?」と、イズミ。
「はい。押し出す力というのか、対抗する力というのか……わたくしたち巫女の本質は、そのようにできておりません。陰と陽の力が合わさることで、ようやく〝黄泉返し〟は可能になります」
「具体的には何をすればよろしいのでしょうか」と、イズミ。
「おそらく……これを成し遂げるためには、スサノヲ以外に、最低でも八人の巫女と勾玉が必要です。それも胆力の備わった、強い霊力を持つ巫女です」
「八人……」ショックを受け、イズミはすぐ落胆するような表情になった。「しかも霊力に優れた巫女となると……」
「イズミ様」
「は、はい……」
「あなた様は十分にその力をお持ちです。アナト様や、他の巫女様と自分を比較なさらないことです」
「え……はい」イズミはと胸を突かれたようになった。
「クシナーダ様、今ここには巫女が六人しかおりません」と、頭数を数えていたシキが言った。「〝黄泉返し〟を行うには数が……アカル様を入れても七人です」
「皆さん、誰かお忘れではないですか」
 はっとしてアナトが声を上げた。「ヨサミ?!」
「え……でも……」ナツソが戸惑ったように言い、キビの巫女たちは顔を見合わせた。誰もがわかっている周知の事実があるからだった。そして、言いにくいことをイズミが代弁した。
「クシナーダ様……。ヨサミ様はもう巫女としての力も資格も失っております。トリカミの里の他の巫女の方では……」
 クシナーダは首を振った。「ミツハが生きていれば、きっとお役目を果たせたはず……。けれど、残っているトリカミの巫女たちは、いずれも若すぎます。胆力ということを申し上げましたが、皆さんはこの今の事態を受け止め、乗り越えようとなさっています。その意志こそが重要なのです。トリカミに今残されている巫女たちは、あまりにも未熟すぎますし、まったく準備ができておりません」
「しかし、ヨサミ様はもう霊力をほとんど失っておりますし、今のままではとても協力してくれるとは……」
 クシナーダはそれには応えず、アナトを見た。ヨサミともっとも近しい間柄であるアナトを。その視線を受けたアナトは拳を両ひざの上で握り固めた。
「……この頃、昔のことをよく思い出します」
 誰も口を挟まず、アナトの言葉に耳を傾けた。
「キビの皆は周知のことですが……わたしとヨサミは幼馴染です。カヤとアゾは隣国として、古くから深い交流を持ってきました。わたしたちはよく国を行き来していました。たしかあれは……わたしたちが九つくらいの頃だったと思います。ちょうど今ぐらいの季節でした。コジマからナツソ様がアゾに見えられ、わたしは一緒に年初めの神事に使う曲を考えていました」
 ナツソはアナトの言葉を受け、はっと思い出したような表情になった。
「そのときヨサミが、ご両親と共にアゾにやって来ました。ヨサミといつものように過ごせればよかったのですが、わたしはその頃からやがては国をまとめる巫女として立つように、周囲から求められていて、その……余裕がなかったのです。とくに両親の期待に応えねばと、ヨサミと一緒に遊んだり、お話をしたりすることよりも、立派な巫女になることのほうを選んでしまっていたのです」
 クシナーダは静かな表情で耳を傾けていた。
「ナツソ様と曲作りに没頭しているわたしを見て、ヨサミはきっと寂しかったのでしょう。アゾにいる間にいなくなってしまい、大騒ぎになりました。わたしもそれを聞いて慌てて、ヨサミのことを探し回りました。そのときには……」アナトは頭(かぶり)を振った。「いつもはあれほど当てにしていた霊感も働かなくて、ヨサミをどうしても見つけられないのです。だけど、少し時間がたち、当たり前のことを考えました。ヨサミはわたしと遊びたかっただけ。なら、いつも遊んでいたアゾの中州にいるのではないか……。行ってみたら、ヨサミが岩の陰で泣いていました。そして……」
 ――どうしてもっと早く見つけてくれないの!
「……だけど、ヨサミはそう言いながら、わたしに抱きついてきました。あのときのことが、なぜか今、思い出されてならないのです」
 そのとき、小屋の扉が激しく音を立てた。吹雪の風が扉を叩いたのかと思われたが、そうでなかった。
 小屋の扉を打ち、こじ開けようとしているのは人間の手だった。男たちは敏感に反応し、一斉に立ち上がった。イタケルとニギヒはいち早く剣を抜いた。
 戸口の隙間に覗いた顔は、彼らを驚かせた。それはモルデであり、彼が支えているのはエステルだった。
 モルデはそこにいる顔ぶれを見て戸惑いと落胆を表情に浮かばせた。とりわけキビの巫女たちの顔を確認し、おそらくはここがカガチの息のかかった勢力の一部と接触してしまったと思い込んだのだろう。だが、イタケルやオシヲ、ニギヒの顔を見て、逡巡の箍(たが)が外れた。
「スサノヲ様を助けてあげてくれ!」
「なに?」イタケルが気色ばんだ。
「独りで追手と戦っている! スサノヲ様は怪我をしていて……あのままでは、いかにスサノヲ様でも!」
 男たちは小屋を飛び出した。逆に精根尽き果てたように、モルデとエステルはその場に崩れ落ちた。その二人を飛び越えるようにして外に出たのはクシナーダだった。
「スサノヲ!」クシナーダは吹雪の中、叫んだ。
 すでに夕闇が濃くなっていた。視野はほとんど利かない状態だが、クシナーダの耳は超常的な能力で剣の響きを聞きつけていた。走り出す。
「クシナーダ様!」
 背後の男たちの声は吹雪の中に埋没する。クシナーダは元来た道を走った。途中から雪をかき分けるようにして斜面を這い上がっていく。
 男たちの喚き声が聞こえた。なおいっそう、剣戟の響きが強く耳朶を打つ。
 クシナーダはそこに見た。斜面を駆け下りてくるスサノヲと、彼に迫るカナンの兵士たちを。
「スサノヲ!」


 吹雪を貫いて、クシナーダの叫びが届いた。スサノヲが振り向くのが、横殴りに降りしきる雪の中、見えた。
 次の瞬間、クシナーダは「あッ」と声を上げた。柔らかい雪を踏みしめていた足が滑り出し、止まらなくなったのだ。彼女は手をスサノヲに差しのべながら、ついた勢いを止めることもできず、滑落した。
 そして、気が付いたときには身体が宙を舞っていた。
 眼下は川だった。
 凍りつくような水が、衝撃と共に全身に突き刺さった。




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ヤオヨロズ第7章 一つに


    1

 自分一人で逃げるのなら、たやすいことだった。が、とくに身重のエステルは折からの豪雪もあり、行動が鈍かった。まる一昼夜、いくつかの山野を越え、彼女らの逃亡を助けるため、常にスサノヲはしんがりで敵を撃退し続けなければならなかった。
 たった五人の逃亡者を討つために、ヤイルは百を超える追手を波状的に放ったようだった。かつては主君と仰いだ人物を殺害せしめるための強い決意がそこには現れていた。
 成行き的な進路でしかなかったが、エステルたちは東へ逃げた。そしてスサノヲはほとんど休む間もなく、彼女たちを守るために闘い続けた。むろん降りしきる雪と寒さが体力を奪ったということもあっただろうが、それ以上にヨモツヒサメから与えられたダメージが、じわじわと傷口を広げるように彼の力を奪って行った。
 相手をことごとく斬り捨ててしまうのなら、いっそそのほうが楽だったろう。あるいはそうしていれば、圧倒的なスサノヲの力を思い知り、ヤイルも追撃を思いとどまった可能性もあったのかもしれない。
 が――。
 クシナーダは喜ぶまい、と思った。その考えは、彼自身、奇異なものだった。身を守ること以外、スサノヲも好んで人を斬ったことなどなかった。地上に降りた瞬間から、自分と常人との間にはあまりにも不公平な力の差があることを知った。そのため、あまりにも脆い命である人を斬るつもりにもなれなかった。だから、大陸を踏破してくるときも、害をなす者でさえ特別な理由がない限り適当にあしらってきた。
 今殺さないのは、その時の理由とは根本的に違っていた。
 クシナーダの顔が浮かび、その意識の中での彼女が殺すことを善しとしないからだった。そう言われたわけではない。ただ、それが伝わってきて、わかるのだ。
 相手を動けなくさせるだけの加減をするのは、ただ斬るよりよほど神経を使う作業だった。自分でも馬鹿ばかしいことをしていると思いながら、それでもスサノヲは心の中にいる彼女の反応に従っていた。
 そうすることが、なぜか心地よかった。
 と同時に、そうすることで彼は次第に窮地に追い詰められていた。おそらくこの山を越え、そして南西へ進路を取ればトリカミへたどり着けるだろうという、その峠を越えたあたりでとてつもない脱力感に見舞われ始めた。
 ――やせ我慢もここが限界か。
 山の斜面を駆け下り、さらに追ってくるカナン兵を引きつけながら、スサノヲが思ったときだった。
「スサノヲ!」
 その声が降りしきりる雪を、ふっと断ち割ったように思えた。その隙間にクシナーダの顔と、彼女の赤い衣が見えた。だが、次の瞬間、彼女の身体が倒れ、山の斜面を滑り落ちるところで、視野が吹雪に塗りつぶされた。
「クシナーダ――!」
 彼女のほうを見ながら、スサノヲはカナン兵が打ち下ろしていく剣と槍を、次々に弾き返した。
「邪魔をするな!」
 瞬間的に湧いた怒りが彼に力を回復させた。彼の振った剣が、見えない刃となって、山の斜面を這い上がった。その流れに沿って、十数本の樹木が揺らぎ、降り積もった雪を降らせ、しばし視野は完全に真っ白になった。
 その隙を見て、スサノヲはクシナーダのいたほうへ走った。いまだ生々しい滑落の後が残っていた。辿って行けば、斜面に突き出した岩の上を通り抜け、その先は真っ白な宙だった……。
 岩のすぐそばに小ぶりな滝があり、流れ落ちていた。その滝の音と川の流れる音が、吹雪に混じって聞こえる。が、視野が利かず、どれくらいの高さなのかも見えない。
 スサノヲは剣を収め、迷わず飛んだ。自由落下の時間は長かった。足が水に落ちたのを感じた後、おそらくそこが滝壺だったのだろう、しばらく水の中を潜った。濡れた衣や剣の重さに抗い、水中から浮上する。恐ろしいまでの冷たさだった。老人だったら、その一瞬でショック死したかもしれない。
 冷たいというよりも痛い。そして手足の感覚もすぐになくなった。指や足も、ただ自分の身体とつながっている棒のような一部としか思えなくなった。
「クシナーダ!」
 ざぶざぶと歩きながら、スサノヲは何度も叫んだ。吹雪のため声もろくに通らず、視野も利かなかった。探そうにも何も見えないのだ。
 スサノヲはあてどもなく歩き回り、呼び続けた。焦りが全身をさらに冷やした。見つけることのできないこの一分一秒ごとにクシナーダの命が失われていく予感が強くした。
「サルタヒコ! クシナーダはどこだ! 教えろ!」焦りが次第に憤りに変わり、スサノヲは怒鳴った。「俺を助けたように、クシナーダを助けてくれ! 頼む! 頼む!」
 スサノヲは川の中で両手をついた。全身が震えていたが、その震えが寒さのためなのか、それとも恐怖のためなのか、区別がつかなかった。だが、吹雪の大音量以外、返答などなかった。
「くそッ!」
 スサノヲは立ち上がり、またやみくもに歩き出した。そして、はたと自分が間違った選択をしていることに気付いた。吹雪で奪われた視野のため、彼はいつしか川上へ向かっていたのだ。川の流れはかなり強い。
 反転する。そして川の流れだけを見て歩いた。
 そのとき、ふっと吹雪の勢いが弱まった。まるで台風の目にでも入ったように、視野を塗り潰していた真っ白な降雪が開かれ、その隙間に赤い色が見えた。
「クシナーダ!」張り裂けるほど叫んだ。そして走った。
 彼女は滝壺から流され、大きな岩場の間で止まっていた。半ば水につかった横顔は、白いという表現以上に血の気のないものだった。
「クシナーダ!」呼びかけ、彼女の頬を叩いた。
 だが、意識は戻らなかった。かろうじて、呼吸があることは分かったが、もはや死人と変わらぬような状態に思えた。



 スサノヲは彼女を水の中から抱き上げた。彼女の衣から流れ落ちる水は、そのまま氷柱になってしまうのではないかさえ思えた。
 彼女の安全を確保するために、スサノヲは本能的に落ちてきた場所とは対岸に向かった。川の東側の河原に入り、登れる場所を探し、道があるところまでたどり着こうとした。だが深い雪のためにそれは何度も失敗した。ようやく彼女を抱きかかえたまま、川沿いの小道に登ったときには、彼自身、もはやこのまま死ぬのではないかと思えるほど消耗していた。一度、彼女を下におろした。
「クシナーダ……」あえぎながら呼びかける。
 彼女からは何の返答もなく、真っ白な顔はさらに蒼ざめていくようだった。
 気力を振り絞り、スサノヲは彼女を抱き上げた。どこか暖を取れるところを探さねばならなかった。
 吹雪は少し弱まって来ていた。そのおかげで目の前に真っ白な小山が聳えるようにかすかに見えた。濃くなった夕闇の中、そこに小さな光が一つ、灯っているように思えた。
 人が住んでいることを祈りながら、彼は歩き続けた。喉が焼けるようだった。ずぶ濡れで、全身冷え切っていたが、なぜ熱いように思えた。それも錯覚かもしれなかった。
 小山の裾に雪におおわれた巨岩が並んでいた。その間を彼は通り抜け、細い山道を登った。雪に覆われてはいたが、その下に石段のようなものが組まれている個所もあった。明らかに人の手が入った道だったが、スサノヲは幾度もその坂で足をもつれさせ、転びそうになった。
 登りきった場所は、ワの民の祭祀場の一つだった。大きな磐座があり、しめ縄が張られていた。その脇にクシナーダたちが使っていたのと同じような小屋があった。人がいる気配はなかった。さっき見えた光のようなものはなんだったのかと疑うよりも、スサノヲはその小屋の中へクシナーダを運び込んだ。
 岩戸の祭祀場にあった小屋と同じく、そこには薪なども常備されていた。それに秋に収穫された稲の藁が奥に山積みにされていた。クシナーダを藁の上に横たえると、スサノヲは火打石を探し出した。震える手でそれを打ち、藁に火を移し、小枝や薪を組み合わせ、火を大きくした。
 クシナーダのところに戻った。呼びかけるが、意識は戻らない。スサノヲは胸に耳を押し当てたが、心臓の鼓動は探すのを苦労するほど弱く思えた。
 わずかに逡巡したが、彼はクシナーダのずぶ濡れの衣を脱がした。美しい玉のような裸身があらわになる。脱いだ自分の衣を絞り、彼女の身体を拭いた。そして奥にあった藁を引っ張り出し、寝床のようなものを作った。自分も全裸のまま、彼女の身体を抱きかかえ、そして藁で自分たちの身のまわりを覆うようにした。
 自分自身、体温が下がってしまっていたが、それでも抱きしめるクシナーダの身体の方が断然冷たく感じられた。彼は休む間もなく、彼女の身体を、手を足を、さすり続けた。
「頼む……生きてくれ。頼む」
 祈るようにつぶやきながら、彼はずっとさすり続けた。火が衰えないよう、時折藁床を抜け出し、薪を燃やし、そしてまた戻り、互いの体温で暖を取るということを繰り返した。やがて、わずかながら身体が温められる感覚が生じてきた。クシナーダの手足にも血の気が戻ってきたように思えた。
 いつしか吹雪は止んでいた。小屋の隙間から吹き込んでくる風も、嘘のようにぴたりと止まって思えた。
 長い夜だった。
 静寂の中、スサノヲはクシナーダを抱き続けていた。そして、小屋の隙間に黎明の明るさが確認されるようになるころ……。
「う……うん」と、小さくクシナーダが彼の腕の中で声を漏らした。
 はっとしてスサノヲは、彼女の顔を見ようとした。
 薄く開いた彼女の眼が、そこにあった。
「スサノヲ……」
「よかった……よかった!」スサノヲは彼女を強く抱きしめた。
 あ……と抱きすくめられながら、クシナーダは今の状況を漠然と察したようだった。互いに一糸まとわぬ姿のまま、肌を接していることに。
「わたくし……川に落ちて……」
「ああ、でも、もう大丈夫だ。あ、いや」スサノヲは彼女の身を少し離した。「大丈夫か。どこか痛いところはないか」
「あ……」彼女は恥じらうように目を泳がせ、胸の前で手をかき合わせ、みるみる頬を紅潮させた。「たぶん……はい。大丈夫です。どこも痛くない……」
「よかった……。そなたが死んだら俺は……」
 ふいにクシナーダは覚悟が定まったように眼を上げ、二人は見つめ合った。
 目合(まぐわい)が生じた。二人の間に甘く痺れるような霊的な交感が通い合い、自然と口づけを交わした。胸を隠していたクシナーダの手がほどかれ、彼の胸板に、そして腕に回された。
「あたたかい……」口づけの合間にクシナーダが洩らした。「嬉しい……」
 二人はさらに深い口づけを交わし合った。手が互いの身体を求め合った。
 もう二人を止めるものは何もなくなっていた。彼らの間には、隔てるものは何もなかった。
 愛おしい、とスサノヲは思った。これほど他人に深い愛情を感じたことは一度もなかった。その想いがそのまま彼の愛撫となった。手が、唇が、あらゆるところを這いまわり、クシナーダは全身でそれに応えた。
 長い時を待ち焦がれた存在同士がようやく一つになれる。その悦びが二人を貫き、その中で二人は身も心も互いに溶けて混ざり合った。
「あなにやし……えをとめを」
 スサノヲは自分が彼女の中に埋没して、自分がなくなるような心地の中、彼女の眼を見つめて言った。
「あなにやし……えをとこを」
 クシナーダは自分のすべてで彼を受け入れながら、同じように眼を見て応えた。

 そうして二人は、一つになった。


 鳥の鳴き声が聞こえた。
 朝の光があたりに満ちているのが戸板の隙間に見えた。

 二人はこれ以上はないというほどの深い快楽(けらく)の余韻の中で、無限に引き延ばされたような時間を過ごしていた。
「このままがいい……」クシナーダはスサノヲの胸元で囁いた。
「うむ」と返しながら、スサノヲは、しかし、現実の時が自分たちの元に戻ってきたのを感じていた。彼女の背を愛撫しながら、わずかに身を起こそうとして、気づいたことがあった。
「どうなさったのですか」クシナーダは彼の戸惑いを察して顔を上げた。
 スサノヲは自分の胸元を見ていた。ヨモツヒサメから受けた傷が、跡形もなくなっていた。傷みもまったくなかった。
「癒えている……」
 不思議な現象だった。スサノヲは本来、多少の怪我ならすぐに治癒してしまう肉体を持っていた。しかし、ヨモツヒサメに受けたダメージだけはいつまでも残りつづけ、彼を苦しめていた。
 どうやっても拭い去れない汚れが、きれいに洗い清められてしまったかのようだった。
 二人は甘い時を惜しみつつ、衣を身に付けた。焚火のそばに置いてあったので、あらかた乾いてしまっていた。
「戻ろうか、皆のところへ」
 スサノヲはそう言い、クシナーダは「はい」といつものように応えた。
 小屋の戸板を動かし、二人は外に出た。小山の上から見下ろす風景は幻想的だった。
 真っ白な山々の裾野には、雲海が溜まり、ずっと広がっていた。そこに朝陽が当たり、輝くようであり、さらにその上空に目を奪われるほど鮮やかな虹がかかっていた。
「なんと清々しい……」
 スサノヲはつぶやき、彼女に手を差し伸べた。その手を取り、クシナーダは微笑を浮かべた。


    2

 クシナーダを抱いて川を渡っていると、「あっ」という甲高い声が対岸から響いた。蔓などを器用に使って山肌を下りてきたのはスクナとオシヲだった。スサノヲは渡りきったところで、抱きかかえていたクシナーダを下ろした。
「クシナーダ様、ご無事で……スサノヲが一緒だったんだね」
 二人は心底安堵したという表情で二人を迎えた。一緒に河原を歩いて行きながら尋ねる。
「他の者たちは?」
「イタケルやニギヒ様は、他の巫女様たちと一緒。それに今、あのカナンのエステル様たちも一緒になって」スクナが答えた。
「そうか。追手からうまく逃げ延びたのだな」
「ニギヒ様たちが追いかけてきたカナン兵を撃退したから」
 エステルたちの逃走経路が、たまたまクシナーダたちの進路と交わったのは僥倖というべきだった。豪雪によって足を止められなければ、こうはならなかったに違いない。
「スサノヲ……」
 オシヲに呼ばれ、スサノヲは横を歩く少年を見た。
「俺……ミツハに褒められるように頑張った」
「そうか」スサノヲは眼を細めた。そして少年の肩に手を回した。

 帰還したクシナーダとスサノヲを、アナトたちキビの巫女たちは眼を見張って迎えた。
 彼女たちはスサノヲを見るのは初めてだったが、一瞥で心を奪われていた。彼にというよりも、彼とクシナーダ二人そろっての存在に魅了されたかのようになった。
 二人の存在はさして交わす言葉もない中で、まるでオーラが重なり合って柔らかな光を放つようだった。たぐい稀な絆で結ばれた者同士の静かな信頼の気配が満ちており、その姿にはある種の息苦しいような妬ましさを感じた。しかし、その感情以上の憧憬さえも覚えるのだった。
 勘の鋭い巫女たちは、二人に愛し合う者だけが持つ共鳴のヒビキを感じ、それが自分たちさえも癒すという事実に驚かされるのだった。ワの民の斎場の広場には多くの者が集まっていたが、二人がその場に入るのと共に場所の空気がさらに清浄なものへと変わるのに気づいていた。
 その瞬間、彼女らは初対面のスサノヲと何の言葉を交わすこともなく、彼の存在をクシナーダとセットで受け入れたのだった。
「スサノヲ……。よく無事で」
 エステルの言葉にスサノヲはうなずいた。モルデの他、カイ、シモンらも無事にたどり着いていた。
 そこへちょうど、ニギヒの配下の一人が戻ってきた。
「どうだ」と、ニギヒが尋ねる。
「カガチが動き始めました。意宇へ向かうものと思われます」と、配下が答えた。
「少し時を置いて、わたくしたちも後を追いましょう」と、クシナーダ。
「その必要があるのだな」と、スサノヲは尋ねた。
「はい」
「説明してくれるか」
「ヨミから放たれたヨモツヒサメを浄化する〝黄泉返し〟を行わねばなりません。そうしなければこの世は滅びます。そのためには八人の巫女と、スサノヲ、あなたが必要です。しかし、先に争いを止めなければ、そのようなことはできません。タジマの巫女であるアカル様が、カガチを止めるためにそのそばに残っております。その時が来たら、わたくしたちは全力でアカル様をお助けしなければなりませんが、そのためにはわたくしたちが自由の身でいること、そして事があったときにアカル様をお助けできるおそばにいる必要があるのです」
「そのためにカガチを追うのだな」
「はい。まずはカガチを鎮めなければなりません」
「カガチは俺の剣を持っている。常人には持つこともかなわぬ〝力〟を持つ剣だ」
「やはり、そうでしたか。その〝力〟にカガチは取り込まれて、鬼と化したのでしょう」
「そのようなものを鎮めることができるのか」
「わたくしはアカル様を信じます」
「ならば俺も信じよう。俺は何をしたらよい」
「その時が来たら、カガチの動きを止めてください」
「承知した」
 スサノヲは疑問こそ提示したが、他は少しの異論も挟まず、クシナーダたちの提案を受け入れていた。
「だが、カナンにも問題がある。エステルたちはそのイスズという巫女の提案を受け入れたが、ヤイルという男が今、カナン軍を牛耳っている。ヤイルは予言者らしい」
 スサノヲの言葉を受け、クシナーダはエステルの方を振り返った。そして、その瞬間に「あらっ」というように目を丸くした。
「ヤイルは先の洪水を予言し、カガチの軍が壊滅することを的中させた」エステルはやつれた顔に苦渋をにじませていた。「今はオロチの連合軍が分裂し、仲間割れすると公言している。五つの地のキビも互いに憎しみ合うようになると」
 その言葉にはっとなったのは、キビの巫女たちだった。
「まさか……」と青ざめたのは、コジマの巫女、ナツソだった。「あのことを……」


 ちょうどその頃――。
 意宇の湖に近いコジマ水軍の陣に急報がもたらされていた。
「タジマの水軍が攻めてきました!」
 カーラはコジマの本陣の中、指揮官のそばでその報せを聞いていた。彼がもたらした人質となっているキビの家族救出のナツソからの密命。それに沿って、計画が練られている最中のことだった。
「どういうことだ!」コジマの指揮官は顔色を失って叫んだ。
「わかりません! ただ……」
「ただ?!」
「タジマは我らが反乱を起こしたと……」
 指揮官は絶句し、カーラを振り返った。その瞬間、カーラは人質救出の企てが、根底から崩壊する予感を味わった。


「そのお話が本当なら、ヤイルという方は予言者としてのお力をお持ちなのかもしれません」クシナーダはむしろそっと言った。「人には多かれ少なかれ、動物と同じように危機を察知する能力があります。洪水を予知したのは事実かもしれませんが、このような時にもっとも危惧すべきなのは、その方が予言の成就に固執することです」
「固執?」エステルが尋ねた。
「じつは危機的なことを予知することのほうが簡単なのです。出方も際立っていますし、気配もあります。本当に難しいのは、善き未来を提示することなのです」
「善き未来……」
「それは本当の意味での叡智なくしてはかないません。この世が滅びるという予言者は、かつて多く存在します。そうではありませんか、エステル様」
「たしかに……。我が一族にも名だたる予言者はそれを伝えてきた」
「それはたしかに神の如き眼で見たものもあったかもしれません。しかし、人は必ず自分個人の想いによって、その見たものを歪めてしまうものです。どのような貴い人であれ、それをまったくゼロにはできない。真っ白ではないのです」
「真っ白ではない……? どういうことだ? 予言者は神の言葉や神の見せてくれたものを我らに伝えているはず」
「たとえば……このわたくしです」
「え?」
「正直に申し上げます。わたくしは、じつは皆さんの半分くらいしか、色が見えておりません」
 その告白は、巫女たちだけではなく、イタケルやオシヲらにも衝撃をもたらした。


「色が識別しにくい眼なのです。皆さんの感じておられる赤や青、緑や黄、紫……そのような色合いが、わたくしの眼にははっきりと判別しにくいものがあるのです。でも、わたくしの眼にはそれがわたくしの知る世界なのです。わたくしの眼がもっと問題があるものであれば、もしかしたら白と黒しかわからないかもしれません。皆さんと同じものを見ていても、わたくしには違って見える。でも、それがわたくしの見ている世界なのです。が、じつは人それぞれに同じ色でも見るヒビキが違うのです」
 静まり返った。
「見る人によって違う……」エステルが呟いた。
「わたくしは感応する力で、人それぞれが受け取っている赤をヒビキとして感じることができます。だからわかるのです。同じ赤でも、エステル様の見る赤とスサノヲが見る赤は違っています。予知や予言も同様なのです。この世界にはある種のヒビキが強く流れることがあり、それをわたしたちは受け取って、その年の気候やこれから起きることを予見することができますが、それは受け取り手によって解釈が違うのです。またそのヒビキがどこから発せられたものなのかということもあります」
「どこからというと……」
「光なのか魔なのか、というようなこともあるのです」
 カナンの者たちは、顔つきがこわばってきた。
「エステル様、未来はこの瞬間にも無限に変化し続けるもの。それは今のわたくしたちが創造するもので、じつは確定的な未来などない。ましてヨモツヒサメが世に出た今、それを判断することは、わたくしにもできません。ただ……悪しきことの予知を的中させた者は、往々にしてその次の悪しきことの予知を的中させることに固執するようになります。自分が予言する悪しきことが起きることを望むようになるということです」


 同刻――。
 意宇の湖の向こう側で起きた混乱を、ヤイルは黙って眺めていた。満足げに、腕組みをしながら。
「ヤイル様」一人のカナン兵が、ヤイルのそばに来て囁いた。「仰せのとおり、地元のワの民を使って、噂を流してきたことが功を奏したようですな。コジマがオロチを裏切ると」
 うむ、とヤイルは唸った。そして首を左右にゆっくりと振り、周囲に人気がないのを隻眼で確認した。そして剣を抜きながら言った。
「すべては我が予言通り。予言は成就されなければならぬ」
 カナン兵はその剣の光るのを見て絶句した。


「悪しきことを待ち望み、より多くの人がそれを受け入れれば、その出来事が起きることは容易となります。人の意識が大きな力となるからです。立場によっては、もっと具体的に予言を成就する方向へ誘導することさえできるでしょう」
「では、ヤイルは……」
「わかりません。すべては時が証明すること」


「見よ! 我が予言は成就した!」群衆に向かい、ヤイルは叫ぶ。「オロチの結束は乾いた石くれのごときもの! ここよりオロチの崩壊は始まるのだ!」
 沸騰する群衆。しかし、ヤイルの背後には常に冷たいものが貼りついていた。それは綱渡りを休むことなくし続ける者が抱く、胸の悪くなるような恐れだった。
 ヤイルの頭上には、ヨモツヒサメがいた。そのヒサメは嘲笑っていた。
 コジマの反乱の可能性を見抜いたカガチの警告。それが意宇のタジマに本隊にもたらされるのと、奇妙なほどにリンクしてヤイルは策略を巡らせた。ヤイル自身はその発想とタイミングがどこから湧いたのか、知る由もなかった。


「クシナーダ」スサノヲは言った。「そなたはいつも衣を染めていたな」
「はい。それは色をヒビキとして感じることができたからなのですが、わたくしはこの眼で鮮やかな色の美しさを感じることが少なく……だからせめて」クシナーダはにっこり笑った。「他の方の眼を通してその色を感じたかったのです。染めた衣を着たオシヲやミツハが、うわあ、きれいな色だと、そう言って笑ってくれるのがうれしかったのです」
 聞いていたオシヲは、ふと自分の隣にミツハがいるかのような錯覚を覚えた。
「なればこそ、わたくしはこの世にヤオヨロズ――たくさん――の色があることを望みます。それぞれの色が、それぞれのヒビキで輝くこと、そしてそれが高い空から見たときには、大きな一つの美しい風景となるような、そんな世界であってほしい」
 静まり返っていた。
 その中、スサノヲは言った。「それはつまり――それぞれに違う者たちが共に生きる世界ということだな」
「はい――」
「承知した。ならば、俺はそなたの望む世界を守る戈(か)となろう」※戈=剣
 エステルたちは不思議な想いにとらわれていた。クシナーダとの語ることと、カナンの本陣でスサノヲが語ったことが、そのまま同じものだったからだ。
「エステル……おまえはどうする?」スサノヲは尋ねた。「おまえたちカナンの民も、同じ地の上で咲く花の一つとなるのか。それともカナンの花だけでこの地を満たしたいのか。おまえの胸の内を今ここで、皆に語ってくれ」
 視線がエステルたちに集まった。
「愚かであった……」ややあってエステルは言った。「そのような望みを抱いたことと、このワの島国の民たちをおおぜい殺めてしまったことを……わたしは心から後悔している。本当にすまないことをした。許してくれるとは思わない。だが、どうか、この争いを収めるため、我らにできることがあるのなら、協力させてくれないか」
 クシナーダは歩き出し、エステルの前に進んだ。「エステル様、この地で命をお授かりになりましたね」
「え? な、なぜそれを……」反射的にエステルはみずからのお腹に手をやった。
 クシナーダは彼女の前にしゃがみ、そっと腹部に手をかざした。「この子はきっと男の子で……とても強い〝力〟を持つ子です。悪阻がひどいのではないですか?」
「あ、ああ」
「それはこの子がお腹の中にいて、エステル様を浄化してくれているからです」



「わたしを……?」
「はい――」クシナーダは立ち上がり、笑顔を見せた。「母は子を救い、子は母を佐(たす)けるものです。この子はずっとエステル様の苦しみを浄化し続けていました」
「この子が……」エステルの双眸が呆然と見開かれ、涙が溢れた。彼女はお腹に置いた両手を中心に、身体を丸くする。
 モルデがその背にいたわるように手を伸ばした。
「ただ……ちょっと不思議です」クシナーダは戸惑ったように首を傾げ、そしてスサノヲを振り返って見た。
 そのときだった。
 祭祀場につながる山の斜面に甲冑の触れ合う音や男たちの声が下りてくるのが伝わってきた。その気配にはスサノヲはとうに気づいていた。だが、彼は先刻からまったく動くつもりもなかった。
 ニギヒの配下たちが過敏な反応を示し、剣を手にした。撃退したカナン兵たちから奪った剣だ。
「慌てなくていい」と、スサノヲは言った。
「そのようですね」クシナーダも同調する。
 二人が落ち着き払っているので、一同はその場を動くことなく、男たちが斜面を下りてくるのを待つことになった。
「いた! いたぞー!」声が上がる。「エステル様だ!」
 彼らはカナン兵だった。エステルの姿を木立の間に見つけ、勢いを増して駆けつけてくる。彼らに害意がないことを、スサノヲはなぜかわかっていた。まるでクシナーダの持つ霊感が宿ったかのように、彼らの意識がふっと心の中に入ってきたのだ。
 彼らはエステルを探し求めていたが、それはヤイルに討伐を命じられたからではなかった。人数はおよそ三十名ほど。
「戦う意志はない! 我らはエステル様に従う者! ヤイルの元を離れてきたのだ!」
 エステルとモルデは顔を見合わせた。カイやシモンの曇っていた表情にも、にわかに生気のような喜びがにじみ出た。
「エステル様! いかにヤイルが予言を為すとはいえ、エステル様を殺めよなど、もはやとうていついて行けませぬ! どうか、我らもご一緒に!」


    3

 その日のうちに、クシナーダたちは佐草と呼ばれる集落にたどり着いた。そこはやはり古くからのワの民の居住地の一つであり、そばには清らかな泉と冬でも緑が生い茂る森の中にある、身をひそませるには格好の場所だった。意宇の中心地からもほど近く、オロチ本隊に合流したカガチたちの動向を見張ることもできた。※現・八重垣神社付近。
 クシナーダが訪れると、民たちは喜んで寝泊まりする場所を提供してくれた。トリカミの巫女としての威光というよりも、彼女が愛されているからこその対応ぶりだった。カナンからの合流組も含めると大世帯になっていたが、彼らは与えられた家屋で身を休めることができた。
「良いところです、ここは」クシナーダは周囲を見まわしながら言った。
「そうだな」二人で歩きながら、スサノヲも同じように感じていた。
 ワの民の祭祀場は、どこも清浄な空気に満たされている。が、この里のそれはトリカミのそれに近い清浄さで、しかも何か不思議にあたたかいものに満たされていた。
「あら、素敵」クシナーダはある樹木のそばで立ち止まった。
 椿が二本、地から生えていた。が、それは途中ですうっと寄り添うように幹を一つに合わせ、そのまま一本の樹木として成長し、頭上にまで葉を生い茂らせ、花を咲かせていた。根は別々でありながら。
 しばらくクシナーダはその姿に見入っていた。
「面白い椿だな。一つになっている」スサノヲはそう言いながら、その椿の姿に触発されて、自分の中にクシナーダへの愛情が深く湧きおこるのを感じた。
「スサノヲ……」
「なんだ」
「愛しています」クシナーダは椿を見つめたまま言った。


「…………」それは今、彼が感じたものとまったく同じ想いだった。
「わたくしはあなたとこの世界で生きて行きたい。この椿のように」
「俺もこの椿のように、そなたと生きて行きたい」スサノヲは椿を見上げた。「そなたと見たあの雲海と虹……俺は生涯忘れぬだろう。あの雲海の広がりのように、俺はそなたを取り巻いて守りたい。そなたという虹を」
「クシナーダ様――!」スクナが呼びかけながら走ってくる。彼女の背後からキビの巫女たちやオシヲも小走りにやって来る。「すごいものを見つけたよ。あっちに二本の椿が一つになっているのを――あれ?」
 スクナは二人が見ている椿もまた、同じようなものであることに気付いた。
「これもそうだ……」
「こんな椿を他にも見つけたのか」
 スサノヲの問いにスクナはうなずいた。「すごいや……。こんな不思議な木が二つも……」
 巫女たちも到着して、眼を見張る。だが、それは二つではなかった。エステルたちが奥の泉のほうから戻ってくると、声をかけてきた。
「泉がすごくきれいだった。スサノヲ、この地は気持ちが良いな」
「そうだな」
「そうだ。泉のほうに面白いものがあるぞ。椿の木が根では二つなのに、途中で一つに――」エステルは絶句し、目の前にある椿に目を止めた。
「すごいや。三つもあるんだ」と、スクナ。
「え? こんなものがまだほかに……」
「どうしたのじゃ」ニギヒを伴って、その場を通りかかったナオヒが声をかけた。
「こんな不思議な椿が三つもあるんです」スクナが言った。
「ほう。これは面白い。この地には命を結びつける特別な〝気〟があるようじゃな」
「皆さん」唐突にクシナーダは言った。「歌を作りましょう」
 そのあまりにも飛躍したように思える言葉に、他の巫女たちでさえ口をぽかんと空けた。
「クシナーダ、歌なんか作っている場合じゃないじゃろう」と、ナオヒが苦笑した。
「いいえ。今だから歌が必要なのです」
「ほう?」
 クシナーダは、巫女たちと、そしてエステルたちを見渡して言った。「皆さんが心を一つにできる歌を作ってください」
「心を一つに……?」アナトは呆然とつぶやいた。
「はい。アナト様たちはもはや心を一つにされていると思います。ですが、わたくしたちがこれからしなければならないのは、すべての民が心を一つにすること。それができるような歌をこの地で作ってほしいのです」
「わたしたちが作るのですか」
「はい。もちろん。エステル様も協力してください」
「え?!」と、エステルは大きな声を上げた。「わ、わたしがっ?」
「はい。アナト様たちと協力して作ってください」
「む、むりむり! わたしはそんな……そんな柄じゃない」エステルは真っ赤になった。そんな彼女を見るのは、誰もが初めてだったかもしれない。
「できることがあるのなら、協力するのではなかったか」スサノヲがぼそっと言った。
「……いや、しかし」
「エステル様も参加してもらわなければ困ります。カナンの民も共感できる歌でないといけないからです」
「しかし、なんのためにそのような歌なんか……」
「ですから、心を一つにするためです」クシナーダはにっこりとした。「キビの皆様……そう、とくにナツソ様は調べをお作りになるのがとても上手なのですよね」
「は、はい。あの、でも、あまり自信が……」ナツソは物怖じしたように言った。「それに、調べを作るのでしたら、何か鳴り物がなくては……。ここには何も持ってきておりませんから」
 それを聞いていたオシヲが、はっとした。腰紐に差していた一本の笛を手に取る。少し迷ったが、彼はそれをナツソに差し出した。
「あの……これ……」
 それは岩戸の祭祀場でオロチ兵の手にかかって亡くなったミツハの笛だった。
「……使ってください」
「ありがとう、オシヲ」
 クシナーダに代わりに礼を言われてしまい、ナツソはやむもなく笛を受け取った。
「では、皆さん、お願いいたしますね。スサノヲ、他の椿も見に参りましょう」
 クシナーダとスサノヲはその場を立ち去った。
 その二人の背中を見送りながら、うっとりとナツソが言った。「いいなあ、クシナーダ様。あのようなスサノヲ様がおそばにいて……」
「ほんとう……」同じような憧憬の眼でシキも漏らした。
 それにほとんど同調しかけ、アナトはいきなり厳しい表情になって咳ばらいをした。
「な、何言ってるの! さあ、クシナーダ様の言われる歌を作りましょう」そう言って巫女たちを促して歩き出した。が、その場で動かないエステルに気づき、きつい眼で振り返った。「エステル様もです。さあ」
「わ、わかった……」
 エステルがぎくしゃくと歩き出し、ついて行く。
 そんな娘たちの有様を見て、ナオヒは腹を抱えて笑い出した。


 意宇のタジマ本隊に到着したカガチは、しばらくまったく動くそぶりを見せなかった。ある意味、不気味なほどの沈黙ぶりだった。
 意宇の湖で戦いがあったらしいという噂を耳にし、とりわけキビの巫女たちを不安にさせた。その不安の的中は、三日後、帰還したカーラによって知らされた。
「コジマの水軍はほぼ壊滅的な状態です」
 カーラは戦乱の中を生き延び、報告のために戻ってきたのだ。クシナーダたちが移動していたこともあり、場所を探し出すためにかなり苦労したようだった。
「コジマが壊滅……」
 非常に大きなショックを受けたのはコジマの巫女であるナツソ、そしてイズミだった。今回の人質救出の立案を行ったのは、他ならぬイズミであったからだ。
「申し訳ありません、アナト様、ナツソ様……」そうつぶやくと、イズミはがくんと膝を折って、地に手をついた。「人質を救うどころか、さらにもっと多くの者を死なせてしまいました。わたしがよけいな計画を立ててしまったばかりに……」
 イズミは責任感と悔しさのあまり全身を震わせていた。
「いえ……そういうことではないのかもしれません」カーラは言った。
「というと?」アナトが尋ねた。
「わたしたちは慎重に事を運ぼうとしていました。ナツソ様が絶対の信頼を置く方々と、隠密に船を出してタジマやイナバに赴こうと謀ってはいたのですが、その計画自体、知る者はまだほとんどなかったのです。わたしがコジマの陣に到着して、ほんの短い時間しか経過しておりませんでしたので」
「ということは?」
「オロチがコジマを切り捨てようとしたか、あるいは何かコジマとオロチを分裂させるための策略があったのかもしれません。タジマ水軍はこちらに反乱の疑いありとして攻めてきましたが、そのようなことになる理由もまだなかったのです」
「ヤイルかもしれぬ」と、エステルが言った。「ヤイルはもともと知略に長けた男だ。こちらに有利な状況を作り出すために、意図的に噂を流して敵を分裂させるのはヤイルの常套手段だ」
 隣でモルデも頷いた。「じつは先日のクシナーダ様の話を聞いたとき、わたしもゾッとしました。まさにヤイルがやりそうなことを言っておられたからです」
「だとすれば、もうほんの少しだけ猶予があれば……」カーラは残念そうに頭を垂れた。
「くそっ」イズミは小さな拳で地面を叩いた。
 しばらく沈黙があった。
「どうする、スサノヲ」エステルが口を開いた。「キビの人質を救出することは、絶対に必要なことなのだろう」
 その問いに答える以前に、エステルは続けて言った。「我らを行かせてはくれないか」
「なに?」
「ここにいるのはカナンの中でも精鋭ばかりだ。甲冑を捨て、身軽になれば、イナバやタジマへもそう時間はかかるまい。天候さえよければ、三、四日でたどり着いてみせる」
「エステル様はいけません」モルデが言った。「大事なお体です。我らが参ります」
「しかし、そのキビの人たちが囚われて働かされているっていうタタラ場がどこなのか……」カイが疑問を呈した。
「よし、わかった」パン、と両手を叩いたのはイタケルだった。「俺も行く。そのアカルっていう巫女の情報から、俺ならだいたいの場所はわかる。鉄穴流しをしている川は見ればすぐにわかるしな」
「陸路、タジマへの道のりは危険だぞ」スサノヲが言った。
「だが、タジマもほとんど全軍で意宇に集結しているんだろ? なら、むしろ背後は手薄だぜ、きっと」
「そうかもしれぬが……」
「では、我らも」ニギヒが申し出た。
「いや、あんたらにはこの巫女さんたちを守っていてほしい。カナンの連中より、よっぽど信用できるからな。俺はこいつらを見張るためにも行くんだ」イタケルはわざとらしくエステルたちを指さして言った。
 なんだと、というふうな反応をカイは示したが、それはエステルによって抑えられた。
「良いのだ。そのように思われても仕方のないことを我らはしてきた……。モルデの言う通り、わたしがここに残る。おかしなことをすれば、このわたしの命を好きなようにしてくれてかまわない」
 イタケルは眼を細めた。そして小さく、何度か頷いた。
「決まりだな」

 そうしてモルデとイタケルが率いる一団が、その日のうちに発つことになった。
「オシヲ、イタケルに領布を渡してください」彼らを見送るとき、クシナーダが言った。「その領布には魔を祓う力があります。ヨモツヒサメに対しても、多少なりとも効果があるはず」
 オシヲから引き継いだ領布を首にかけると、イタケルは「じゃな」とあっさりと手を挙げて歩き出した。
「モルデ……くれぐれも気を付けて」
「ご心配なく、エステル様」
 言葉を交わしたのち、モルデもまたイタケルを追って歩き出す。
 カーラはアナトたちを守るため、そして彼自身が偵察の能力に長けていたため、意宇の動向を監視するために残された。
 歌が出来上がったのは、その日の夜のことだった。
 キビの巫女たちと、カナンの中で一人残ったエステルは、その歌を携えてクシナーダの前にやって来た。ナオヒは「若い者に任せる」と言って、歌作りには参加しなかったようだが、その歌を聴くために同行してきた。
「歌詞は皆で考えました」と、アナトが言った。
「調べも降りてきたのですが……」ナツソもためらいがちに言った。「このようなもので本当によいのか……」
「聞かせてください」と、クシナーダが言った。
 スサノヲやニギヒも見守る中、ナツソの笛が高らかに鳴り響いた。前奏の後、巫女たちとエステルが歌い始めた。慣れていないエステルは、顔を紅潮させ、それでも巫女たちに指導されたのか、懸命に声を上げていた。
 今まで一度も耳にしたことのないような調べだった。巫女たちが日常の神事に使う、雅やかで緩やかな調べとはまったく異なる曲調だ。それは力強いヒビキに満ちていた。
 歌が終わった。
「いかがでしょうか……?」恐る恐るという感じで、アナトが尋ねた。
「や、やっぱり、だめですよね」と、ナツソも狼狽しながら真っ赤になった。
 しかし、クシナーダはにっこりと笑顔を見せ、自分の拳を胸に当てた。
「なにか聞いていて、心が鼓舞されるような、すばらしい曲です。胸が熱くなりました」
 巫女たちはほっとした表情を、互いに確認し合った。
「心の岩戸を開いて……。これで、わたくしたちはきっと心を一つにできます」
 クシナーダはスサノヲに眼をやった。スサノヲは頷いた。
 ――あとは、とスサノヲは考えた。
 あとは、時が至るのを待つだけだった。


    4

 月が満ち、そしてその後もなお、カガチは長く動かなかった。オロチとカナンは限定的な小競り合いを繰り返していたが、決定的な戦端は開かれなかった。
 水面下でだけ、何かが動いている。そんな気配が濃厚だった。
 クシナーダはその数日、エステルと過ごすことが多かった。何をしているのだろう、とキビの巫女たちも訝るほど、二人は集中的に時間を共有していた。
 その日、クシナーダはエステルを佐草の里の神域にある泉へ連れて行っていた。太い杉木立が取り囲む杜の中に、その小さな泉はあった。静かな気配があたりには満ちていて、そこに佇み、ただ息をしているだけで、清浄なものが満たされていく。
 寒風の中、二人の姿は泉の中にあった。むろん、クシナーダの指示である。澄んだ水は凍りつくほど冷たく、水に漬けた足からみるみる凍りついてしまいそうだった。
「本当は全身を浸すのが良いですが、エステル様は身重ですし、これで良しとしましょう」
 クシナーダは両手で泉の水をすくい取ると、エステルの頭の上から注いだ。その冷たさにエステルはびくっとなる。


「お顔を洗ってください」
 言われるままにエステルは、顔を水面に近づけ、両手で顔を洗った。かがめた胸元から、彼女が身に付けている首飾りの宝珠が垂れ下がった。そして、それも泉の中に浸かった。
 その宝珠は、どう見てもクシナーダたち巫女が身に付けている勾玉と同じものとしか思えなかった。
「大丈夫ですか」と、クシナーダが尋ねる。
「ああ、なんというのか……すごく心地よい」
「出ましょうか」
 二人は泉を出た。持ってきていた布で足を拭く。
「これはどういう意味があるのだ」
「禊をして頂きました。穢れを洗い清めるためのものです」
「ミソギ……」濡れないようにたくし上げて衣装を戻しながら、エステルは遠くを見るような眼になった。「不思議なものだ。カナンの民にも似たような風習がある」
「さようごございますか」
「それに……前から思っていたのだ。これはなぜ、そなたらの物と似ているのだ」と、自分の宝珠を人差し指と親指で持つ。
「勾玉はずっと昔からございます」
「これは失われたカナンの神殿にあったもの。多くは略奪されたが、これだけは残され、わが一族に伝えられたという……。神を象(かたど)ったものだと聞いている」
「さあ、なぜでしょう」うっすらとクシナーダは笑ったが、その顔には答えがわかっているが、あえてあいまいにしているような表情が滲んでいた。それは勿体ぶっているというよりも、沈黙しながら提示するという、そのような姿に見えた。
 身なりを整えた彼女らは、泉を離れて歩き出した。
「教えてくれないか。なぜ、そなたらはこれと同じものを持っているのだ」
「エステル様。それはあなたの言う神も、わたくしたちの言う神々も、同じ、ということではないのでしょうか」
 ぎょっとしたようにエステルは立ち止まり、そして同調せずに静かに歩を進めるクシナーダを追って足を速めて追いついた。
「馬鹿な。唯一の神と、そなたらの神々は何もかも違う」
「エステル様、わたくしたちはあなたが言う唯一の神というものを否定してはおりません。わたくしたちはこの天地(あめつち)すべてを尊んでいるだけのこと。それを神々と呼ぶのです。でも、わたしくしたちは唯一の神が存在しないなどと、一度も言ったことはございません。それを意識しなくても、この天地のすべてを尊ぶ気持ちがあれば、それは同時に唯一の神を尊ぶのと同じことだからです」
「すべてを尊ぶ……」
「この空も大地も風も、そして人や他の動物たち、草木や花も、すべて尊い。わたくしたちの先祖もまた尊く、わたくしたち自身もまた尊い。エステル様やカナンの民も同じく、尊いのでございます」
「それがおまえたちの考え方か」
「エステル様、ただ一つのものを尊ぶというのもまた崇高なことなのですが、それには一つの落とし穴があるのです」
「落とし穴?」
「ただ一つのものを認めるということは、その瞬間に敵を作り出してしまう危険があるのです」
 ぎくっとして、再びエステルは歩みを止めた。今度はクシナーダも立ち止まり、振り返った。
「エステル様にはもうお分かりだと思います。一つのものだけを認めるということの裏側には、それ以外のものを否定するという想いが秘められているのです。そこにもし寛容さがなければ、敵を作り出すのは必定」
「つまりすべてを尊ぶというそなたたちと、我らカナンの民はまったく逆だということだな」
「けれど、真(まこと)の神の御心に至れば、この世のすべてに神の慈愛が満ちていることを知ります。辿る道は違えど、至るところは同じなのです。その時には敵は存在しなくなっています」
 エステルは眼を下の方に落とし、それから思い出すように上の方へ向かわせた。「亡くなった父から聞いたことがある。カナンの地に、百年ほど前に救い主と期待された男が現れたことがある、と。カナンの民はその男が神の使いとして、カナンを大国の圧政から解き放ち、かつての栄光を取り戻させてくれると信じて迎えた……。が、その男はこういったそうだ。
〝汝の敵を愛せ〟――と。
 カナンの民は落胆し、その男を見限り、処刑台に送ったそうだ」
「エステル様、あなたがたにとって神への信仰は何物にも代えがたい大事なものとはわかります。ですが、人にはそれぞれに大事なものがございます。大切な守りたいもの、それは人それぞれにあると、今のあなたならわかっておられるのではありませんか」
 そう言われ、エステルは自分の腹部に意識を向けるようなそぶりを示した。
「あなたは今、ご自分が弱くなったようにお感じかもしれませんが、そうではありません。守るべきものが、二つになってしまった。その間で苦しまれたことでしょう。でも、それは弱くなったのではなく、優しくなられたのです。そうして他のものを受け入れて行くことこそ、真の強さ……あなたは本当は強くなられたのです」
 く……とエステルは両方の拳を握り固めた。
 そのとき、オシヲが杜を駆け抜けてくるのが見えた。彼の後からスサノヲも歩いてくる。
「クシナーダ様!」
「どうしたのですか、オシヲ」
「カガチが動き出した! 意宇のオロチ軍が動き出したんだ!」
 クシナーダはエステルを振り返り、うなずいた。そしてオシヲのほうへ向かって言った。
「わたくしたちもすぐに発ちましょう。オシヲ、皆さんに知らせて」
「わかった」
 クシナーダはオシヲと共に佐草の集落へ向かって先を急いだ。それとすれ違ったスサノヲは、後からやって来るエステルをその場で待っていた。
「どうした?」と、声をかける。
「なんでもない……」エステルは涙ぐんでいたのを悟られぬように、顔を横へ向けていた。そして、小さく言った。「ああも、たなごころを指されてはな……」
「クシナーダのことか」
「不思議な娘だ。おまえが愛するのも分かる」エステルは足を速めた。


 カガチの行動は、カナンに呼応したものだった。
 意宇の湖の南に陣を張っていたカナンだったが、すでにこの時、非常に強い危機感に見舞われていた。タジマ水軍とコジマ水軍の内乱的な戦闘の後、カガチはコジマを完全に掃討してしまうと、すみやかにコジマの代わりに意宇の湖西側の前線基地にタジマの水軍を回らせた。このとき腹心のイオリをこの指揮に当たらせ、東西から完全にカナンを挟撃できる態勢を整えたのだ。
 戦力は二分された形だが、それでもなお意宇にはタジマ本国の軍勢が六割がた残されていた。前新月以来の戦いで敗走を続けたカナンの勢力に対して、もはや相当に有利な状況だった。一気に攻め込むことができずにはいたのは、豪雪以来、不順な天候が続いたためである。
 カガチにしてみれば、もはや焦る必要はどこにもなかった。ワの国に根を張った状態なのは彼らであり、時間が経過すればするほど、カナンにとっては食料の不安も生じてくるはずだったからだ。今や当初の支配地域も狭められ、カナンは意宇の湖の南にある拠点に封じ込められ、身動きできなくなっている。
 その現実は、じわじわとヤイルの首を絞めてきていた。このまま時を過ごしても、事態が好転する要素は一つもなかった。彼にとっての最大の好機は、タジマ水軍とコジマ水軍の分裂を生じさせた混乱に乗じることだったが、よりにもよってその先鋒を任せるべく待機させていた精鋭部隊が、まるごと消えてしまったのだ。突撃の機会を逸したまま、その精鋭部隊がエステルのもとへ去ったとわかったのは、かなり時間が経過してからだった。
 次の新月が近づき、天候がわずかばかり回復した。日差しが降り注ぐ日が続き、残されていた雪の下から地面があらわになり、ヤイルは行動を起こした。
 残された戦力で、オロチとカガチを討ち果たす――もはやそれ以外の選択肢がなくなってしまったのだ。それは悲壮な覚悟を必要とする決断だったが、ここに至ってもなおヤイルにはわずかな勝算が残されていた。
「我らはこの戦いに勝利する! 神は我に見せたのだ! 勝利の瞬間を! 今こそ持てるすべての力をぶつけ、意宇のオロチどもを粉砕するのだ! さあ、馬を出せ! 我らの騎馬は敵を滅ぼし、カガチを殺すだろう! 我に続け!」
 ヤイルは虎の子である騎馬を投入した。それはこの戦いが始まる以前に、わずかずつではあるが、大陸から運び込んできた貴重な戦力だった。
 ワの地は山野が多く、騎馬が活躍するには、やや不向きだった。そのためこれまでの戦いでは温存されることが多かった。先進的な弓矢、剣や鎧だけで勝利できたということもあった。
 カナンは拠点を離れ、東へと全兵力を移動させた。そして意宇との中間地点の山麓、わずかばかりの平野が開ける場所へ陣を構えた。背後に山を置き、そこにタジマ水軍への守備隊を配置し、戦力の大半は東へと向けた、一点突破の戦略だった。その中核となるのが騎馬隊だった。
 ――カガチが来るか。
 ヤイルは冷や汗をずっと流し続けるような心境で待ち続けた。
 ――カガチよ、来い。
 恋い焦がれた相手を待ち望むような熾烈さだった。もしカガチが後方で待機し、持久戦に持ち込まれたら、もはやカナンに明日はなかった。この戦いでカガチを討ち取らねばならなかった。
 カヤの砦の奪還に現れたときの鬼神。あの恐るべき男が、あの時と同じように先頭に立って現れてくれることを、ヤイルは全身全霊で神に願った。でなければ、勝機はなかった。
 新月となる日の朝、平野の向こうにオロチ軍は出現した。小さな川を挟んで、両軍は対峙した。
 ヤイルの隻眼は、その軍勢の中にひときわ背高い男の姿を見出した。遠目過ぎて、とうていその容貌を確認することはできなかった。が、その大男の周辺に群がる軍勢の密度が、彼にそれが大将であることを悟らせた。
 ごくりと喉仏が上下した。


 カガチはヤイルの対岸にいた。小山を背後に陣形を整えているカナン軍を見つめると、彼は笑った。それはただの笑いではなかった。
 肉食獣が久々の獲物を目の当たりにしたような、欲望と喜悦が入り混じったような鬼気迫る笑みだった。側近の一人、ミカソはその横顔を見て、心底思った。恐ろしい、と。そして同時に、カガチのような男の敵に回らずにすんでいる幸運を思った。
 カガチは残らず敵を殲滅するだろう。その血をほしいままに浴びるだろう。
 その真っ赤に染まった姿が、すでにミカソには見えていた。

 そのカガチのはるか後方。
 輿に載せられたヨサミとアカルがいた。彼女らは戦いの鬨(とき)の声が上がるのを、そこで待たされていた。
 アカルは苦しげに空を見上げた。そこにある邪悪な気配を――。
 勾玉をつかみ、祈るように。
「アカル様――」
 隣の輿から、ヨサミが声をかけてきた。
「大丈夫ですか。お加減が悪そうな……」
「ご心配なく」
 アカルの真っ青な横顔を見て、ヨサミは輿から身を乗り出しかけ、そしてやめた。この囚われに等しいタジマの巫女がどのようになろうが、自分の知ったことではない――そのように言い聞かせた。だが、無視してしまうには、あまりにもアカルの存在はまぶしかった。
 彼女のつかむ勾玉が光っているのが見えた。それはヨサミにわずかに残された霊視的な感性による視覚だった。
「アカル様、一つお伺いしてよろしいでしょうか」
「はい……」息をするのさえ、苦しそうだった。
 なぜそうまでして――ヨサミは思うのだった。
「アカル様にとって、カガチ様はどのような存在なのでしょうか」
「カガチ……」アカルは辛そうな眼差しで、ヨサミを振り返った。「カガチはわたしの――」
 後に続く言葉は信じがたいものであり、ヨサミは唖然とし、返す言葉も失った。


「アカル様に〝力〟を――」
 クシナーダの言葉に、巫女たちは集まった。キビの四人の巫女とナオヒ、そしてクシナーダの六人は輪となった。そして互いに手を結びあい、意識を離れているアカルへと向けた。彼女らのそれぞれの霊能が解き放たれ、視野が拡大し、その視覚で捉えられたものが彼女らの取り囲む空間の中に浮かび上がった。アカルの姿だった。
 そのそばにヨサミもいた。
 ヨサミ、とアナトは呼びかけた。それはアナトの呼びかけであったが、同時に巫女たちすべての想いでもあった。
 ア――――
 クシナーダが最初に澄明な声を上げた。アーともハーともつかぬ、不思議なヒビキの声だった。
 ア――――
 アナトが続いた。わずかに声のヒビキが異なる。
 ア――――
 シキがさらにそれにかぶせて行く。
 六人の声のヒビキが重なり合い、彼女らの中心に浄化の光が送り込まれていく。
 その光はますます強まり、やがては霊的な能力がない人間にさえ、それが実感されるほどになった。彼女らの胸に下がっている勾玉が、はっきりとわかるほどの強い輝きを放っている。
 彼女らのそばでエステルは、驚きをあらわにして見守っていた。
 熱い、と思った。そしていつもは衣服の下に隠している宝珠が、その熱さの元だと気づき、胸元からそれを取り出した。
 眼を見張った。
 掌の上で、宝珠は信じられないほどの光量で輝いていた。まるで巫女たちに共鳴するかのように。
「ア――」
 ためらいがちにエステルは、彼女らと同じような響きを発していた。つられるように、ごく自然に。
 スサノヲは巫女たちを背後に、小高い山の突きだした岩の上に佇んでいた。
 眼下に狭い平野が広がっていた。川の両岸に二つの軍勢がそれぞれに展開し、対峙している。
 双方の陣営の上空に、真っ黒い霧のようなものの集まりが、いくつも点在していた。双方に四つずつ。
 ヨモツヒサメたちだった。
 それは地上に満ちている敵意、悪意、憎悪、恐怖などの想念を吸い上げていた。と、同時に吸い上げた想念を、その何倍もの濃度で地上に送り込んでいた。そこには「浄化」とはまったく位相を逆にした循環があった。人の「負」の想念が、ヨモツヒサメという媒体を通じることで、さらに強力な「負」へと変換・凝縮され、人へ還元されているのだった。
 そしてそれを受け取った地上では、さらに濃厚な闇が広がり続けているのだ。
「いよいよですね」隣にやってきたニギヒが言った。
 スサノヲはただ黙ってうなずいた。ニギヒは霊感など微塵もなく、この光景を見ることがない幸運を知らない。もし目の当たりにしたならば、この光景には絶望の感情以外、何も覚ええないだろう。このようなものがこの世に存在しているのならば、地上には地獄的な現実しか生み出され得ないはずだからだ。
 あれを滅すること。
 スサノヲは思った。それが自分の役目なのだと。
 だが、それはまったく絶望的に思えた。圧倒的なヨモツヒサメの〝力〟の前には、スサノヲでさえなす術もなかったのだ。その方法も可能性も、まったく彼には見えなかった。



 陽が中天を越えたころ、鬨の声は上がった。


    5

 カナンとオロチ。
 双方の軍勢は雪崩を打つように走った。そして、無数の弓矢が空を行き交った。降り注ぐ矢に射抜かれ、次々と兵士が倒れて行く。胸を、脚を、頭や眼を、矢が突き刺さって行く。
 両軍を隔てている川は、みるみる血で染まった。まるで鉄穴流しをしているかのように。
 槍や剣を携えた兵士たちが累々たる屍を越え、それぞれの敵へと向かっていく。そしてさらに凄惨な殺し合いが繰り広げられた。
 ――ヒャハハハハ!
 ――殺セ! 殺セ! モット殺セ!
 狂喜乱舞する上空のヨモツヒサメたち。
 死の力そのものであるヨモツヒサメは、現実に生み出される死によって、さらに際限なく膨張した。そしてその〝力〟は今、一人の男に注ぎ込まれようとしていた。

 ふっとカガチは笑った。「もはや待てぬわ。この剣もさらなる血を欲しがっておる」
 彼は黒い霧のようなものを濃厚に身にまといながら立ち上がった。
「カガチ様、お供します!」ミカソの叫びなど聞こえていない。
 身がはち切れそうなほど、殺戮への衝動が疼いている。それは性的な欲求が立ち上がって来るのにも似ていた。どうしようもないほど血に飢えた自分がいて、しかも、それを制御するすべはまったく何もないのだ。
 カガチは川へ向かって歩を進めた。悠然と。
「カガチだ!」
「敵の大将だぞ!」
 その叫びはヤイルの耳にも届いた。ヤイルは弓矢の部隊に命じた。
「あれだぞ! カガチに放て!」
 数十という矢が放たれた。カガチは抜刀し、降り注いでくる矢を二度、三度と払った。それらはほとんど薙ぎ払われたが、うち一本だけが肩に突き刺さった。
 カガチは矢を自ら力づくで引き抜いた。矢じりが抉り取った血肉をまき散らす。が――。
 カナン兵たちは見た。カガチのその肩の傷は、見ている間に傷が盛り上がり、流血も止まってしまうのを。
「ば、化け物だ……」
 川の中で腰を抜かしてしまう者。敵に背中を見せ、敗走する者。
 カガチの肉体は常人のものではない跳躍を見せた。ふぬけのようになったカナン兵たちの首を、次々にはねて行く。あるいは鎧ごと断ち切ってしまう。


「クシナーダ」スサノヲはその時言った。「俺は行く。これ以上、カガチを放置できない」
 彼の姿は岩上から消えた。
 アカルに力を注いでいたクシナーダたちもその作業を中断した。
「わたくしたちも参りましょう」
「おい!」ニギヒの号令で配下の兵たちが駆け寄ってきた。


「神のご加護は今ぞ! さあ、行け! カガチの首を取るのだ!」
 ヤイルの号令と共に、三十の騎馬隊が走り出した。その中にはヤイル自身の姿もあった。
 騎馬隊の戦力は、この局面では圧倒的だった。押し寄せるオロチ軍の波を突き破り、カガチに向かって突進していく。


「来よったな」カガチは残忍な笑いを浮かべ、押し寄せる騎馬隊を迎えた。
 フツノミタマの剣を掲げ、それを溜めた〝気〟とともに横殴りに払った。まるで瞬時に湧いた暴風のように、その剣圧が騎馬隊のみならず、あたりにいた者を吹き飛ばした。近くにいた者など、敵味方によらず、胴が分断された者さえいた。
「おお!」カガチのすぐ後ろにいたミカソは驚嘆した。
 殺到していた騎馬隊の半数は、それで馬が跳ね上がり、乗っていた者を振り落してしまった。コントロールを失ったまま近くに暴走してきた馬の手綱に手を伸ばし、カガチは跳躍して、その背に飛び乗った。
 圧倒的な気迫で、恐慌状態の馬を押しつぶすように制圧下に置く。
 そこへヤイルたちが近づいた。ヤイルはカガチが馬上にいるのを見て愕然とした。そして、手綱を引き、馬をかろうじて立ち止まらせた。しかし、他の兵たちはそのままカガチに向かって行き――。
 カガチの剣が舞った。それはもう物理的な距離など問題にしなかった。
 騎馬隊の兵士たちは馬上で、一度もカガチと剣を交えることもなく、次々に腕や首が宙に飛んで行った。
 それを見て、ヤイルは転進した。左は海からタジマ水軍が寄せてくる途上にあった。本能的にヤイルは右へ馬を走らせた。カガチはそれを追ってきた。
 あっけないほど短時間で壊滅したカナンの騎馬隊。残された馬たちは暴走し、オロチ軍の後方へと駆け込んで行った。そのうちの何頭かは周囲を取り囲む兵士たちの中で右往左往し、それがアカルとヨサミの輿にも近づいた。
 アカルの身体が宙に舞ったのはその時だった。何が起きたのか、ヨサミが気づいたのは、アカルがその馬の背に乗り、馬に対して何事か囁いている姿を見たときだった。
 興奮状態だった馬は、アカルの囁きを受け、鎮まった。
「さあ、連れて行っておくれ」アカルがまた囁いた。
 馬は、アカルを乗せて走り出した。
 ヨサミはアカルの背が馬上で揺られているのを見、それから慌てて輿を飛び下りた。
「ヨ、ヨサミ様! どちらへ?!」
 輿を担いでいた者の声を無視し、ヨサミはアカルを追って走り出した。

 ヤイルは馬上で、二度、カガチと剣を合わせた。
 だが、その二度目の時にあまりの衝撃に全身が痺れ、落馬した。したたかに頭を打ち、唸りながら隻眼を上げたときには、すでにカガチの剣が頭上に突きつけられていた。
「どうした、隻眼の男」カガチもまたすでに馬を捨てていた。「おまえだろう、ヤイルとかいうのは」
 ヤイルは血の気を失った顔面に、みるみる脂汗を滲ませた。後ずさりしながら、手が落とした剣をまさぐる。
「おまえの眼には、どんな未来が見えておる」カガチは嘲笑いながら、ぐっと顔を突き出した。「カナンの勝利か? 俺の死か? さあ、どうした、おまえの神とやらは。おまえを助けてはくれぬのか」
 は、は、と短く熱い呼吸を繰り返すヤイル。その呼吸は今にも途絶えてしまいそうなほど、切迫したものだった。手がようやく剣の束に触れ、彼はそれをつかむと、喚き散らしながらカガチに突き上げた。
 ひょい、とカガチは首を振ってそれをよけた。立ち上がったヤイルは猛然と、狂ったように剣をふりまわした。二人は体格的にはいい勝負で、一見、豪傑同士が戦いを繰り広げているように見えたかもしれない。だが、その中身は大違いだった。
 カガチはまるで子供のふりまわす剣をあしらう大人のように、ヤイルの剛剣をかわし続けた。その姿はあまりにも余裕に満ちており、両者の間には歴然とした力量の差があった。カガチは相手の錯乱ぶりを楽しんでいた。
 打ち込んできたヤイルの剣を弾き返し、ひゅっ、とカガチの脚が鞭のようにしなった。その猛打を浴びたヤイルは吹っ飛んだ。茂みの中に巨体を飛び込ませていく。
 剣を肩に担ぎ、カガチはなおも相手が立ち上がってくるのを待っていた。ヤイルはそばにあった椿の木の枝をつかみ、それを折りながら、ふらふらになりながら起き上った。粉々に挫けそうな闘志をかき集め、相手に向かって行こうとし、愕然となる。彼がつかんでいる剣はすでに折れていた。その手がぶるぶる震えはじめる。
 それを見てカガチは、剣をその場に突き立てた。来い、というように、指でヤイルを招いた。もはやヤイルには正常で理性的な思考能力はなかった。そんなものは蒸発して消え失せていた。
 うおおおおお、と叫びながら、ヤイルは肉弾戦に転じた。その拳をカガチは左右の掌でそれぞれに受け止めた。
 カガチの手の中にあるヤイルの拳が、次の瞬間にまるで熟し切った果実のように握りつぶされた。はらわたをねじって出すような、ものすごい絶叫が上がった。ヤイルの隻眼は飛び出さんばかりに、みずからの潰された両手を見ていた。
「終わりだ」カガチは宣告し、突き立てていた剣を手にした。
 ヤイルの眼が、その太刀筋を見ることはできなかった。あまりにも素早くふるわれた剣は、彼の両腕を切り落とした。その痛みを感じる暇さえなく、剣は斜めに振り下ろされ、首元から胴体に深々とした裂け目を作った。
 そこら中に血しぶきをまき散らしながら、ヤイルはその場に崩れ落ちた。目の前に、彼が散らした椿の花が落ちていた。
「花……」
 それが彼の見た最後のものだった。

 甲高い笑い声が、狂気のように響いていた。それはヒステリックで、邪悪な喜びに満ち満ちていた。
 その笑い声の下で、殺し合いが続いていた。
 カガチはその主戦場に戻ろうとした。が、背後に感じた気配に立ち止まった。
 ゆっくりと振り返った。
 絶命したヤイルのそばに一人の男が佇んでいた。腰をかがめ、彼はヤイルの眼を閉じさせると、カガチに向き直った。
「何者だ」
「スサノヲ――」
「カナンの者か」
「いや、違う。その剣の元の持ち主だ」
 カガチは自らの手にあるそれに目を落とした。「ほう。しかし、これは今の俺のものだ」
「そのようだな」
 スサノヲはカガチの携える剣が、すでにかつてのフツノミタマの剣ではなくなっていることに気づいていた。何百という人の血を浴び、命を吸い、その剣はもはや妖刀と呼べるほどの、異様な気配を放つようになっていた。
「だとしても、それをおまえの手に渡してはおけぬ」スサノヲは剣を抜いた。
「ほお……」
 カガチは眼を細めた。スサノヲのその姿を一瞥し、彼は悟っていた。
 これは上玉だ、と。これほどの敵は、ここしばらく出会ったことがない。少なくともカガチが今の巨大な〝力〟を手に入れたからというもの、ただそこに在るだけで、カガチに対抗できる気配を持つ者はただの一人も存在しなかった。
 いや、そうではない――。ただ一人だけ、あのクシナーダを除けば、である。
 クシナーダにはなぜか、戦わずしてカガチを挫く得体のしれない〝力〟があった。圧倒されるというのでもない。ただのか弱い娘に、なぜかカガチは自分の意志が、傷一つつけられないのを感じていた。
 ――わたくしたちは花。
 そう言いきってしまえるあの巫女の心は、おそらくどのような暴力によっても屈服させることができない。何をする前から、それがわからされてしまうのだ。
 こいつは……。
 はたと気づいていた。この男はただ強いのではない、と。クシナーダのことを思い出さずにはおれないほど、スサノヲの背後にはあの巫女の気配が濃厚に感じられるのだ。
「思い出したぞ……。アシナヅチが死ぬとき、クシナーダが貴様の名を口にしていた……。貴様、トリカミの者だな」
「俺は、カガチ、おまえと同じ身の上の者だ」
「なに?」
「住むところを追われ、この島国に流れ着いた……。言わば、そのような身の上ということだ。おまえもそうなのだろう」
「…………」
「剣を収めろ、カガチ。おまえが戦っているカナンもまた同じ身の上。そのような者同士でこの場で殺し合い、憎み合い、それがなんになるのだ。おまえは、おまえが大陸で受けた悲しみを、この地であらたに作り続けているだけではないか」
「黙れ……」怒気がカガチの顔を彩った。
「家族を……母を殺されたのだろう。飢え、死の恐怖に怯え、おまえは海を渡った」
「やめろ」
「そのような苦しみを、ここで再現し続ける必要はないのだ。楽になれ」
「やめろと言っている!」
 カガチは猛然と飛びかかった。その剣は、スサノヲでさえ、ぞっとするほどの鋭さで襲い掛かってきた。かろうじて刃を合わせ、横へ逃がす。と、間髪を入れずにカガチの脚が唸りを上げて、かばったスサノヲの腕のガードごと吹き飛ばした。
 軽々と五メートルは弾き飛ばされ、スサノヲは河原の土手に背中を打ち付けて止まった。ガードした腕が痺れていた。
 とてつもない身体能力だった。その力は、ほとんどスサノヲのそれに匹敵するか、あるいは凌駕さえしていた。
 カガチは闇の衣をまとっていた。それは上空のヨモツヒサメから還元された〝力〟でもあり、また彼自身が持つ鬼神の〝力〟でもあった。もはやそれらは融合し、分かちがたいほど緊密な結びつきを生じていた。一つの生命体であるかのようだ
 だが、その濃密な闇の中に、スサノヲはかつてクシナーダが視たのと同じものを視ていた。泣き叫ぶ子供の姿――。母のそばで号泣する男の子――。
 彼がカガチについて語ったのは、口から出まかせでもなければ、誰かから聞かされた情報でもなかった。カガチ自身から伝わってきたイメージだった。
 そしてその悲しみや憎しみ、あるいは強い悔悟、罪悪感、それこそが今のカガチを作っている大本だった。



 ふううう、とスサノヲは息をすべて吐き出し、全身をゆるめた。
「来い、カガチ。おまえの悲しみと憎しみ……。俺がすべて受けてやろう」




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ヤオヨロズ第8章 浄め


    1

 陽は中天から傾きかけていた。
 その下であくことなき惨劇が繰り広げられ続けていた。意宇の湖から押し寄せてきたのはタジマの水軍だった。その増援を受け、オロチ軍はじわじわとカナンを小山へと追いつめて行った。ヤイルという司令塔を欠いたカナンには、もはやこれを押しとどめる力はなく、事態は絶望的だった。
 その絶望感と恐怖が、さらに戦場を惨たらしいものにした。狂気じみた最後のあがきを行うカナンは、全滅を覚悟で武装に物を言わせ突撃した。もともと装備は圧倒的なカナンである。オロチにも甚大な被害が出、川沿いの狭い平野は屍で溢れ、血と死の匂いで満たされた。
 しゃにむに山越えをしてきたイタケルは、その有様に唸った。「こりゃあ……」
「カナンはもはや……」と、隣でモルデが絶望的な呻きを上げた。
 彼らはイナバ・タジマから帰還した。大規模な戦乱の情報を耳にし、佐草へ戻る以前に現場に向かったのだ。
「あれは……」カイが叫び、指差した。
 その戦場からやや離れた南の山近くに、スサノヲとカガチの対峙する姿があった。まるで銅像になったように両者は睨み合っている。
 ずしんという重い響きと共に、重苦しく身をよじるような鳴動が大地に生じた。
「地震だ……」イタケルはそばの樹木につかまりながら、眼を遠くの二人に釘付けにしていた。
 地震が静まった。その瞬間、両者に動きが生じた。

 動いたのはカガチが先だった。剣に溜めた〝気〟をいきなりスサノヲに向かって叩きつけたのだ。瞬時にスサノヲもまた同様に剣の〝気〟を放ち返した。二つの〝力〟が間で衝突し、周囲にものすごい衝撃波となって広がった。
 カガチは間髪を入れず、幾度かの剣圧を放った。スサノヲもまたこれに応じた。爆発のようなものが二人の間で起き続け、そして相殺され続けた。周囲にはじけ飛ぶ暴風の中、カガチの黒頭巾は吹き飛ばされ、その頭部にある二本の角があらわになった。
 馬の駆けつける音がした。それを耳にし、カガチは〝気〟の砲弾を放つのをやめ、わずかに振り返った。馬の背からアカルが下りるところだった。
「何をしに参った」と、カガチは苛立ったように言った。
「カガチ、あなたをお助けするために参りました」
「おまえの助けなど要らん」
「いえ、あなたは助けを求めておられます。わたしだけがそれができるのです」
「戯言(ざれごと)を言うな! 下がっておれ!」
 言下にカガチは跳躍した。スサノヲとの間の距離を、助走すらなく一気に詰め、剣を振り下ろす。スサノヲは横へ跳んでよけたが、カガチの剣圧は大地をえぐるようにその場に大きな窪みを作った。
 そこから二人の死闘が始まった。常人の動体視力では追うことすら難しい、目まぐるしい動きだった。剣というものを持っていなければ、二人揃って何か狂おしい踊りを演じているかのようでさえあった。しかし、その動きには個性の違いがあった。
 カガチの剣の舞は直線的で、圧倒的な剛力に満ちていた。パワーでは勝り、一撃一撃の衝撃は半端なものではなかった。それを受けるスサノヲの身体は、しなやかにくねり、俊敏な軽やかさに満ちて、弧を描くようだった。
 まともに剣を合わせれば、いかにカナンの宝剣といえど、フツノミタマの剣にはかなわない。折れてしまう危険性が高かった。そのためスサノヲは、カガチの繰り出す剣をすべて受け流すように力を逃がしていた。剣の合わせ方も、受ける腕や手首の力までも、すべてをコントロールしていた。
「こしゃくな」意図を悟ったカガチは猛然と攻撃を叩きつけてきた。
 どれほどごまかしたところで、いずれスサノヲの剣は折れる。そのような確信がある連続攻撃だった。受け切れずに後退し、背後に巨岩が迫る。スサノヲはむしろ後ろへ加速し、その岩を蹴ってカガチの頭上を飛び越えた。その意図をカガチは読んでいた。頭上へ剣を突き上げる。あやうく身体を捻ってかわして着地するが、すぐに目の前に蹴りが迫った。巨大な猪に突き飛ばされるほどの衝撃に見舞われ、後ろへ転がる。
 追いかけるようにしてカガチの剣が、スサノヲの身体を狙って降り注いだ。それをかろうじてしのぐが、スサノヲの動きをあたかも予知しているようなカガチの猛攻だった。
 読んでいるのだ、とスサノヲは理解した。隙を見て、跳ね起きると距離を取る。
 瞬間的なものであろうが、カガチはスサノヲの考えを読み取っている。その〝力〟はおそらくヨサミから与えられたものに違いなかった。
 スサノヲがクシナーダと交合したのち、彼女の〝力〟の一部を共有しているように、カガチにもまた同様な感応が生じているのだ。
 ならば、とスサノヲは静かに剣を構えた。
 カガチは空気が変わったのを感じた。スサノヲからそれまで濃厚に伝わって来ていた意志が、ふっと手が宙をつかむような感じで失われてしまったのだ。
 と、次の瞬間。
「うおっ?!」
 思わぬ鋭さで伸びてきたスサノヲの剣が、彼の顔をかすめた。もし反応が鈍ければ、首を斬られていたかもしれなかった。
 面白きやつ……。カガチは笑った。スサノヲの中には今、なにもない。いわば、無の境地なのだ。このような相手にはかつて一度も遭遇したことがなかった。カガチの闘争本能をこれほど刺激し、高ぶらせる存在はいなかった。
 雄叫びを上げた。カガチは闘神そのものと化し、スサノヲに向かって行った。
 それは無限に続くような荒々しい二人の舞踏であり、その隙間には誰も入り込むことはできなかった。
 アカルを追いかけてきたヨサミも、その戦いを目の当たりにし、棒立ちになった。それはもはや人間の戦いではなく、次元の異なる神々の死闘そのものだった。そこへアカルはわずかずつ距離を詰めているのが目に入り、思わず大声を上げた。
「おやめください、アカル様!」
 あの二つの竜巻がぶつかり合うような場へ踏み入れたら――。
 きっとアカルの肉体は、粉々に寸断されてしまうに違いなかった。



「こちらです!」
 先駆けていたカーラの声が聞こえた。スサノヲの後を真っ先に追いかけていた彼は、今は岩場の上に立っていた。クシナーダたちは山の斜面をかき分け、ようやく追いつくことができた。
 その岩場からは、今まさに死闘を演じているスサノヲとカガチを間近に見ることができた。全員が、息が切れていた。
 その戦いを目の当たりにした瞬間、クシナーダは火で焼かれるような焦りを覚えた。今すぐにスサノヲを助けに行かねば、という焦慮だ。
「アカル様が……」アナトが息も切れ切れに言った。
「皆さん、呼吸を整えましょう」クシナーダは懸命にみずからを鎮めながら言った。「わたくしたちがしなければならないのは……この場の浄化です。あの二人のいる場所、空間全部を浄化しなければなりません」
「どうすれば……」シキが言った。
「ナオヒ様はこちらにいらしてください。この岩場の上からお力をお貸しください。わたくしたちで二人を囲みます」
「囲む?」ニギヒが驚く。「あの場に行くのですか。危険です」
「そうしなければ、浄化は難しいのです」
 ニギヒは眼下で演じられている超常の戦いを見た。それは獰猛な肉食獣同士が死闘を演じているところへ踏み込むのと同じだった。迷った挙句、彼は決断した。
「なら、わたしたちで背負わせてください。息が乱れては浄化も難しいでしょうし、わたしたちがお守りいたします」
「お願いいたします」クシナーダは素直に好意を受け入れた。
 クシナーダはニギヒに、アナトはカーラに、他の巫女たちはニギヒの配下に背負われた。そしてニギヒはそれぞれに一人ずつ護衛をつけさせた。エステル、オシヲ、スクナは、護衛の二人と共にその場のナオヒの元へと残された。
「よし。行くぞ」
 勇を奮い起こし、ニギヒは先頭で走り出した。岩場の左右から、スサノヲとカガチを取り囲むように走り出す。
 その姿は戦っている二人の視野にも入った。一瞬、気を取られたカガチに対して鋭い打ち込みが入り、彼の頬を再び刃がかすめた。
「チッ!」カガチは得意の蹴りを放ち、スサノヲを遠ざけた。
 二人を取り込む位置に、巫女たちは降り立った。
 カガチは頬の血を拭った。その傷は見ているうちにふさがった。鬼となることで、カガチの肉体は不死性とも言える、異常な回復能力を備えていた。
 眼を左右に動かし、そしてやや首を振り、背後を確認する。
「何の真似だ」さすがに息を荒くしてカガチが言った。
 アカルを含めた三人は円弧の中にいた。
 カガチは殺気とは異なるものではあったが、悪い予感を抱いた。その円弧の外へ出ようと動いた。が、それはスサノヲが許さなかった。スピードではわずかながらスサノヲに分があったし、スサノヲ自身もまたカガチの意志を察することができた。
 助走をつけて円弧を飛び越えようと謀るが、それすら宙でスサノヲに止められ、中へ留めさせられてしまう。ちっと舌打ちし、カガチは周囲に吠えた。
「おまえら……このような振る舞いをして、ただで済むと思っているのか。おまえらの家族、民たちは我が手中にあるのだぞ。それを忘れたか!」
「いいや!」
 声が響いた。
 イタケルが東側の小道を降りてくるところだった。続くモルデ、カイ、そしてカナンの精鋭兵たちは、ぼろぼろの汚い身なりにはなっていたが、眼だけは精悍に輝いていた。
「モルデ!」岩の上からエステルが驚きの声を上げた。
 そのエステルの姿を遠目に確認し、顔色を変えるヨサミ。
「タジマやイナバのタタラ場からは、人質をすべて解放してきた! もう何の遠慮もいらねえぜ!」イタケルは自慢げに吠えた。
「間に合った……」アナトが洩らしたのは、紛れもない安堵そのものだった。
 キビの巫女たちに歓喜と言っていい波動が広がった。
 その空気の中、クシナーダはうなずきを周囲に送った。そして、再び浄化のためのヒビキを送り始めた。
 ア――――。
 アナトが、シキが、ナツソが、イズミが、そしてナオヒが。
 その声は美しく折り重なりながら、その場の気配をみるみる変えて行った。それは当たり前の人間にとっては、これ以上もない心地よさを感じさせるヒビキだった。
 だが、カガチは不愉快そうにそのヒビキに顔を歪めた。
「やめろ……」クシナーダに向かって行く。
 その目の前にスサノヲは剣を振りおろし、彼を後退させた。
「やめろおぉぉ!!」
 巫女たちの胸で勾玉がいっそう際立った輝きを見せ、それぞれの巫女を丸く包んだ。そしてそのヒビキと光はその空間すべてを包み込んだ。
 カガチの目の前にもっとも見たくないものが立ち現われてきた。それは母の死の姿だった。何人もの男たちに凌辱され、殺された母。その血まみれの姿……。
 カッとその母の眼が開いた。そしてカガチを見つめてきた。憎悪の眼で。
 ――おまえが殺したのよ、あたしの大事なトムルを。
 ――おまえなど生まれなければよかった。
 血まみれの母が、幾度も幾度も呪詛を投げかけてくる。兄(トムル)の死の責任を浴びせ続ける。
「やめろ! やめさせろぉ!!」
 カガチはその母に対して憎悪を爆発させた。やみくもに突進し、剣を振り下ろす。そこには、現実にはスサノヲがいた。スサノヲはカガチの剣を受けたが、その憎悪のエネルギーの大きさに、両者は正面衝突したように互いに弾き飛ばされた。
 カランと音を立て、フツノミタマの剣が地面に落ちた。
 それはヒビキを送るシキのすぐ目の前だった。カガチは跳ね起き、シキに向かって行こうとした。離れた場所に飛ばされたスサノヲはそれを察したが、さすがに間に合う距離ではなかった。
 シキのそばで護衛の兵士二人が剣を構える。
 その時、シキは浄化のヒビキに満たされながら、すでに動き出していた。カガチよりもいち早く。
 彼女はフツノミタマの剣に手を伸ばし、それを拾い上げた。
 二つのことが続けざまに起きた。幾多の人の血や怨念を吸い、妖刀と化していたフツノミタマの剣が、彼女の手が触れた瞬間にその強い浄化の力を受け、魔の気配を消し飛ばしたのだ。そして本来の輝きを取り戻した剣の〝力〟が、シキの身体を貫いた。めくるめくような心地の中、シキは迫ってくるカガチを見た。
 熱いものが身裡から立ち上がってきた。
「さがれっ!!」
 シキは右の掌をカガチに向けて突き出した。黄金色のようなオーラがほとばしった。


「うおっ!?」
 突進してきていたカガチの巨体が吹っ飛ばされた。起きたことが信じられないというように身を起こしたとき、彼の前にはスサノヲが立っていた。
 ヤイルがそうしたように、カガチはスサノヲに殴りかかった。スサノヲはその左右の拳を受け止めた。しかし、カガチのほうが手は大きく、やがて両者は両手をがっちりと組み合わせる形で対峙した。じりじりとカガチが圧力を強めて行く。
「馬鹿が……俺に力で勝てると思うのか」
「どうかな」
 浄化のヒビキがさらに満たされる。その中でカガチは、じわじわと己の鬼神の力が制限を受け始めるのに気付いた。そして――。
 カガチは背中に人の気配を感じた。
 アカルだった。
 彼女はそっと背後から、カガチを抱きしめた。いつか、ヨサミがしたように――。


    2

 ――わたしの巫女としての〝力〟は、特殊なものです。
 クシナーダや他の巫女たちは、アカルが語るのを思い出していた。意識が共有されている中で、彼女たちは記憶も、それを再生させることも共有していた。
 ――皆様も巫女として、世の中や人が持つ気配を受け取ってしまうということは理解していただけるでしょう。わたしの〝力〟は、それを極限まで広げたものなのです。多くの巫女たちは自分の身を守るために、いくつかの感応を無意識に制御したり、閉ざしたりしています。でも、わたしはその気にさえなれば、すべてを受け入れてしまうことができるのです。何も関門がない人間なのです。
 何も関門がない。それはあまりにも衝撃的な告白だったが、これまでのアカルが示してきた様子から納得させられるものでもあった。
 ――それはつまり、どのような闇であってもわたしは呑み込んでしまえるのです。ただその瞬間には、わたしはきっと闇そのものになり、人でさえなくなってしまうかもしれません。気が狂って壊れてしまうかもしれません。
 わたしの母もまた同じでした。母は早くからわたしのことを見抜いていました。ですから、身を守るための術を子供の頃から教わっていました。それがなければ今日まで生きては来られなかったでしょう。母は……早くに亡くなりました。わたし自身、きっと長くは生きられません。いかに制御して、浄化をしていても、この世の穢れは少しずつわたしの身を蝕んで行くからです。
 ――そんな〝力〟をカガチに対してお使いになるのですか!?
 アナトの問いかけは悲鳴に近かった。
 ――この〝力〟はきっと、この日のために与えられたもの……。そのように理解しております。
 ――そんなことをしたらアカル様が死んでしまいます!
 ――なぜ、カガチのためにそのような……。
 ――やめてください。お願いです!
 巫女たちの動揺と慰留をよそに、アカルはこの上なく穏やかだった。
 ――イスズ様がご自分の使命のために命を懸けられたのと同じように、わたしもここが命の懸けどころなのです。それはわたしがしなければならないこと……いえ、わたしがしたいことなのです。
 巫女たちは絶句した。
 ――それにイスズ様も申されていたでしょう。〝それでも……〟と。

 それでも、と巫女たちは意識を共有して思った。
 わたしたちは決してあきらめない――。
 絶対にアカルを死なせない。
 アカルをもし失ってしまえば、〝黄泉返し〟は不可能に近くなる。そんな事情があるからではない。ことトリカミに幽閉されて以来、同じ時間と空間を共有する中で、巫女たちは互いの愛すべき資質を分け持つようになった。
 ありていに言えば、好きになっていた。
 理由はそれで十分だった。

 しばらくアカルは、固定されたカガチの背中に寄り添っていた。が、あるとき、胸をかきむしるようにして離れた。
 二人の間には離れた後も、青黒いようなオーラがつながっていた。そのオーラには流れがはっきりとあり、カガチからアカルへと、まるで濁った血液が流れ込むように見えた。
「うぐ……あ……ああ!」
 アカルは両手で頭をつかみ、大蛇のように身体をのたうたせた。苦悶に形相が変わっていく。ただ苦しいというのではない。カガチの身裡にあるものが、そのまま乗り移って来たかのように、ものすごい怒り、悲しみ、憎しみといった形相となって、次々に現れた。それは巫女たちの肝をひしゃげさせるほど恐ろしいものだった。



 カガチもまた異変が起きていた。彼は対峙していたスサノヲとの力比べを放棄し、ふらつきながらアカルと同じように両手で頭を抱えた。そしてものすごい音量で吠えた。絶叫し、地面に倒れ、転がりまわる。全身の肉と骨がきしむような痛みに見舞われていた。
 ――もっと浄化を。
 巫女たちは誰もが想い、意識を集めようとした。だが、アカルのあまりの苦しみように意識がぶれた。焦れば焦るほど、調和のヒビキには乱れが生じた。
 アカルの胸もとで輝いていた勾玉。
 ビシッ、とそれにひびが入った。そのひび割れは瞬く間に全体に広がり、そして勾玉は粉々に砕け散った。
 びくっとアカルは空を仰いだ。両手で身体を抱きかかえるようにする。アカルの肉体は自然に宙に持ち上がった。吸収している〝力〟が膨れ上がり、彼女の周辺に滲み出そうとしていた。それを彼女は自らの中に抑え込もうとした。
 その一方でカガチもまた激しい苦悶にのたうちまわっていた。涎を流し、充血しきった眼は頭蓋骨から飛び出しそうになっていた。ぎしぎしと身体が収縮していくようだ。
「ああ!」
「アカル様が!」
 堪えきれず、巫女たちは叫んだ。
 アカルの腹部が異常な勢いで膨張していた。みるみる、まるで臨月の妊婦のように膨らんで行く。それはカガチから吸収したものが、鬼子となってそこに宿っているかのようだった。
 きゃあ、と若い巫女たちは悲鳴を上げた。そのさまは、彼女たちにはあまりにもショッキングなものだった。
 クシナーダは浄化のヒビキを送りながら、やはり悪夢のような違和感の中で、心が揺れを抑えることができずにいた。
 ――これで良いのです。
 アカルの意識がよぎった。
 次の瞬間。
 アカルの身体は宙で回転し、地上に投げ落とされた。その腹部が次第にしぼんでいく。が、彼女はピクリとも動かなかった。
 彼女の周囲から真っ黒な霧の如きものが上空へと立ち昇って行った。何者かがそれを狂喜して迎えている。
 カガチも動かなかった。
 近くにいたスサノヲが、真っ先にアカルのそばに寄った。後から、他の者たちが近づいてくる。
「アカル様……」クシナーダはアカルのすぐそばに膝をついた。
 すでに息絶えていたかと思われたアカルは薄く目を開いた。しかし、声を発する力ももはや残されていない様子だった。
「アカル様!」
 巫女たちは泣き出しそうな声をかけ続けた。
「……なぜだ」
 呻き声がした。カガチは横たわったまま、空を見上げていた。起き上がろうとするが、もう何十年も動かしていなかった肉体のように、筋肉も骨も強張り、しかもとてつもない脱力感と喪失感があった。
 彼の頭部には角がなかった。
 彼はかつて鬼に変化する以前の肉体に戻っていた。一回り以上、小さく見えた。かろうじて上体を起こし、そして彼は自分の小さくなった手を見つめていた。
「なぜこんなことを……」
 カガチはゆっくりとアカルの方を振り返った。
「なぜこんなことをした!」叫んだ。そして這いずるようにして、アカルのそばへやって来た。「なぜだ! 答えろ! アカル!」
「…………」
 唇だけが動く。が、何を言っているのか、アカルの声はもはや耳では聞き取れなかった。眼だけは優しげに、覗きこむカガチを見つめている。
「アカル様は、カガチ、あなたのお母様です」
「な、なに!?」馬鹿な、というようにカガチはクシナーダを振り返った。
「正確には前世のお母様です。あなたがたは前世、この国で暮らす親子だった。しかし、そのとき火山噴火に伴う大火事ではぐれ、お母様はあなたのことを気にかけながら亡くなったのです。逃げ惑う人々の中で手を離してしまった息子、幼いその子を猛火の中に置き去りにしてしまったかもしれない罪の意識にさいなまれながら……」
「アカルが……俺の……」
「あなたは生き延び、いなくなってしまった母親を生涯探し続けた……。そんな前世だったのです。そして今回、アカル様は同じように母を喪って苦しむあなたを救うために、この同じ時代に生まれてきたのです」
 アカルの手が、震えながら、わずかに持ち上がった。その指が、カガチの頬に触れた。
 ――わたしのヒボコ。
 そう呼びかけた。そして、その手は下に落ちた。


 アカルの眼は閉じられた。
 安らかな死に顔だった。
 彼女を取り巻く人垣から少し離れた場所で、ヨサミもまたその死を見つめていた。
 カガチの背が震えていた。アカルのそばににじり寄った姿勢のまま、突っ伏すようにして、長くそうしていた。涙が彼の顔面の下に、水たまりを作っていた。
「抱いてお上げなさい」と、クシナーダが言った。「抱きしめてよいのですよ。きっとアカル様も喜ばれます」
 カガチは涙と鼻水で濡れた顔を上げ、苦しみながら身を起こした。そしてアカルの身体に手を伸ばし、躊躇したのち、抱いた。
 堰を切ったように、彼は号泣した。
「こんなふうにして……」スサノヲの肩に泣き顔を押し付けながらクシナーダが言った。「救われる魂もある……」
 巫女たちも涙していた。が、イズミが正気に返ったようにつぶやいた。
「アカル様が亡くなられてしまった……」
 アナトもはっとなる。「これでは〝黄泉返し〟が……」
 涙を拭いたシキは、自分が抱きしめている剣の存在に気づき、スサノヲの前に進み出た。フツノミタマの剣を彼に捧げる。
「ありがとう」スサノヲは受け取った。「そなたの浄化のおかげで、剣は光を取り戻した」
「いいえ。わたしなど――」
「なんだ――?」と、イタケルは声を上げ、上空を仰いだ。
 いつ間にか白昼だというのに、妙に明るさが陰り始めていた。太陽が雲の影に隠れたというのでもない。全体に薄暗くなってきているのだが、なにか太陽の光量自体が少なくなったかのようだった。
 太陽は傾いた空にあった。が、まぶしい光に目を細めながら見つめると、太陽がじわじわと欠けてきているのがわかった。
「日隠れ――?」イタケルが言った。
 離れた場所で演じられていたオロチとカナンの死闘も、にわかに生じた異変に気づく者が増え、だんだんと静かになって行った。剣を合わせていたが、互いに棒立ちになる。弓をつがえていたが、引き手がゆるむ。そうして彼らは一様に空の異変を目の当たりにした。
 中には恐れおののく者もいた。日隠れを一度も経験したことのない人間も多かったからだ。
 太陽はやがてその輪郭だけを残し、完全に暗い円となった。
 それは多くの者の胸に、自分たちの悪しき行いへの鋭い警告と、災いの出現を暗示するものとして受け止められた。
「おかしい。日隠れにしても……日が出て来ない」ニギヒも動揺を見せた。
「空が……真っ暗になっていく」エステルが言った。
 上空には暗雲が濃密に垂れ込めはじめた。そしてそれは待てど現れぬ日蝕の太陽さえも覆い隠して行った。巫女たちはこの時すでに、誰もが恐ろしい不快感、頭痛などに襲われていた。
「来るぞ」スサノヲはフツノミタマの剣を握りしめ言った。
 真っ暗になった空の一角が切れた。青空が見えたのではない。なにか暗黒の淵が裂けたように、その裂け目からどろどろとしたものが地上に落ちてきた。それはまるで動物のはらわたそのものようだった。赤黒く照り、しかも異様な瘴気のようなものをまとっていた。
 ぼたぼたと空から落ちてきたそれは、触れた者を一瞬で悶絶死させた。広がっていく瘴気の中で逃げ惑う兵士たちはその場で立ち腐れ、次々に白骨化して行く。まるで悪夢のようだった。恐慌状態に陥った兵士たちは、敵も味方も関係なく、蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出して行く。
「なんだ、あれは……」ニギヒが唖然としていた。
 空から落ちてくる溶岩流のようなものが止まった。
 濃厚な瘴気の中から、それが禍々しい姿を見せた。


 巫女たちは悲鳴を上げた。
 それはいくつのも首と尾を持つ大蛇だった。しかし、身は一つ。てらてらと輝く巨大な胴回りは、大人が何人も手をつなぎ合わせるほどの大きさで、そこから大蛇そのものとしか思えない形状の首と尾が長々と伸びている。だが、その身体のすべては腹を断ち割って取り出されたばかりの内臓のようであり、見るだけで吐き気を催すほどのグロテスクさだった。
 八つの首には睨まれただけで狂気に誘われそうな酷薄な双眸がらんらんと輝き、開いた口からは巨大な牙と割れた舌が覗いている。牙から垂れ落ちる液体は、地に落ちると強酸のように、じゅうと音を立てた。
 そして戦場だった場所は、かつて以上の地獄と化した。化け物は次々に兵士たちを呑み込み、吐きかける瘴気でたちまちに腐らせた。それは眼を背けたくなる凄惨な光景だった。見ているだけで全身が冷や汗でまみれて萎え、その場に崩れ落ちてしまいそうになる。
 両軍合わせて何百と残されていたはずの兵士たちが、次々に喰われ、溶かされ、引きちぎられた。その猛威は、荒ぶるカガチでさえ比ではなかった。
 カイがその場で腰を抜かしたようになった。「ば、化け物……」
 全軍を瞬く間に壊滅に追いやったそれは、複数の大蛇の鎌首を次なる獲物に向けた。ヨサミはやや海に近い場所にいた。思わず後ずさる。
「ヨサミ!」アナトが叫んだ。「こっちへ!」
 かつての確執など、この際、問題ではなかった。
 その化け物は急速に彼らのほうへ近寄って来ていた。
 ヨサミが駆け寄って来るのと反対に、スサノヲは剣を手に前へ出た。
「だめ! いけません、スサノヲ!」クシナーダが叫んだ。
 その声を振り切るようにスサノヲは走り出し、ヨサミとすれ違った。窮迫する化け物とはまだ距離があったが、フツノミタマの剣を大きく振るった。
 剣は白金色に輝いた。それはかつてのその剣とももはや異なり、シキを通じることで強い浄化の〝力〟を得ていた。
 剣の波動が霊的なオーラとなり、化け物を打ち据えた。
 キャーンともヒャーンともつかぬ、金属的な悲鳴のようなものを上げ、化け物はにじり寄って来るのを止めた。
「今のうちに逃げろ!」スサノヲは背後に向かって叫んだ。何度も。「早く!」
 ヨサミは、カガチをアカルから引き離した。彼は五体がろくに動かなかった。ヨサミが彼に肩を貸そうとしていると、イタケルとニギヒが左右からカガチを支えた。
「スサノヲ! あなたも早く!」
 クシナーダと他の巫女たちは、皆、勾玉を手に掲げていた。
 その光は、半ば闇の世界と化した中で、ひときわ強く輝き、化け物と瘴気の侵入をとどめていた。スサノヲは二度三度と剣をふるい、大蛇の首の一体に傷を負わせた。
 キャ――――ン!
 ひるんだ隙を見て、彼は踵を返した。


    3

 巨大な魔物に追いかけられ、逃げ惑う悪夢――。
 誰もがそのような錯覚を抱いた。そのような恐怖は、本来は夢の中にしか存在しえないものだった。が、彼らが味わったのは、この現実の世界の中でのことだった。
 途中まで追いすがってきた大蛇の化け物は、スサノヲの幾度かの反撃を受け、かろうじてその鳴りを潜めたが、ひと山を越え、斐伊川のほとりに出たときには、誰もが息も絶え絶えになっていた。すでに日も暮れているはずの時刻だが、日隠れ以来、ずっと夜が続いているように思われた。
 川の水を飲み、わずかばかりの休息を得た彼らの間で、ようやく言葉を交わす余裕が生まれた。この瞬間に至るまで、誰もが生きた心地がしていなかったのだ。
「大丈夫ですか、エステル様」クシナーダが、カナンの集まりの中にやって来て声をかけた。
「ああ、なんとか――」エステルはモルデの持ってきた水を飲み、荒い息を整えて言った。
「……あれはいったい、何なんだ」カイが呆然と、魂が抜けたように言った。「あ……頭が八つもある化け物のような大蛇だった」
 姿を思い出すだけで、彼は震えていた。
「ヨモツヒサメがモノとなった怪物です。いわば、ヤマタノオロチ……」
「ヤマタノオロチ……」
「ヨモツヒサメはヨミの世界に存在する、人の澱が凝り固まったものです。本来、それはモノではなく、精神的存在なのです。意識、情報――そんなふうに言ってもよいでしょう。ですが、そうした意識の力も、ある限度を超えてしまうと、モノと化すのです。あれはあの戦場に満ちていた欲望や憎しみ、絶望や悲しみを集め、人の悪しきものがそのまま形となった姿です」
「人の欲望や憎しみ……」エステルは苦々しい表情だった。
 火が熾された。身体を休め、暖を取るために、数カ所で焚火が燃やされた。ワの民が、巫女たちが、カナンの民たちが、そしてカガチらも――。
 カーラだけがその場にいなかったのだが、彼もやがて姿を見せた。
「カーラ、どこへ行っていたの」アナトがほっとしたように尋ねた。
「近くの里へ食料を分けてもらいに行っておりました。わずかですが――」
 彼は背負っていた籠を下ろした。これには誰もが喜んだ。食事が作られ、それが分けられた。カガチとヨサミのところへも。
 持って行ったのはイタケルだった。「食えよ」と、ぶっきらぼうに告げる。しかし、二人はそれに手をつけなかった。それを見て、立ち去ろうとする彼を、カガチが呼び止めた。
「なぜ俺を助けた」
 イタケルはわずかに振り返った。
「アシナヅチや、これまでトリカミの巫女を殺し続けてきたのは俺だ。なぜ助けた」
「――うるせえな。たまたまだよ。たまたま。勢いっていうか」そう言い、イタケルはわざとらしく舌打ちした。「てめえのこと、ぶっ殺してやろうと思ってたのに……。助けちまったら……ああ、なんか、殺せなくなっちまった」
 イタケルは立ち去った。カガチは膝の間に頭を落とすような格好で、動かなかった。そのそばでヨサミは、じっと遠目に見つめている存在があった。
 エステルだった。
 あるとき、とうとう思い余ったようにヨサミは立ち上がった。エステルたちのそばへ行くと、座って食事をとっていたエステルを見下ろした。むろん彼女がやって来るのに、エステルのほうでも気づいていた。
「なぜ、あんたがこんなところにいるの」冷ややかという以上の鋭さが、ヨサミの声音と視線にはあった。
 エステルは腰を上げた。向き合うと、エステルのほうがやや目線が上になった。
 その顔にヨサミの平手が飛んだ。乾いた空気の中、それはひどく響いた。
 気色ばんだのはカナンの者たちだった。「よい!」と、エステルが叫ばなければ、彼らはヨサミを取り押さえたに違いなかった。だが、そんなことには一切お構いなしに、ヨサミは二度、三度とエステルを打ち据えた。四度目には拳になった。
 エステルは口を切り、鼻血を流した。
「エステル様!」
「自分たちが何をしたか思い出せ!」エステルはモルデたちにそう言い、ヨサミと対峙し続けた。
 ヨサミの行動はますますエスカレートし、歯止めが利かなくなっていった。眼が吊り上り、一撃一撃に憎しみを込め、喚きながらエステルを打った。
「おまえなんかッ! おまえなんか、わたしがッ! わたしが殺してやる!」
「ヨサミ……」
 アナトが、そしてキビの巫女たちが彼女の元へ行こうと動き出した。
 が、その前にヨサミの手は宙に挙げられたまま止まっていた。
 二人の間にスクナが割って入っていた。
「お願い……。もうやめて」スクナの眼が、ヨサミを見上げていた。「この人は、赤ちゃんがいるの。だから今は、やめてあげて」
 ヨサミは動揺したように眼をエステルの腹部へ、そして顔へ、また懇願するスクナのほうへ戻した。挙げた手が下せぬまま震えた。そのまま宙で指を揉みしだくように動かし、自分の目の前に持って行った。その手は血で汚れていた。
 ヨサミの脳裏に、トリカミの里で目の当たりにした惨劇がよみがえってきた。罪もない里人が殺されゆくさまが。
 みずからの手が、ヨサミに囁いた。お前の手も、すでにもっともっと血で汚れている。
 う……と呻きを漏らした。「こんな……こんなところで……卑怯者!! お前も戦え!」
 投げつけるようにエステルに叫ぶ。
「わたしと殺し合え! そうしたら、わたしがお前を殺してやるのに……卑怯者……」
 ヨサミは震えていた。泣きながら震えていた。膝を折り、両手を大地についた。しばらくそのままでいた彼女は、やがて堪えきえなくなったように唐突に叫んだ。泣きながら。子供のように。
「アナト! アナトォ!」
 キビの巫女たちが弾かれるように走り出した。そして、ヨサミの元へ殺到し、四方から抱きしめた。
「アナト……わたし……わたし……」
「いいのよ、もう。いいのよ、ヨサミ」



 キビの巫女たちは、また一つになった。


「あのような化け物を、どうにかできるか。その……〝黄泉返し〟とかいうもので」顔を腫らしたエステルが尋ねた。
 食事を終えた彼らは、焚火の一つの周囲を取り囲んだ。
「いえ、エステル様。もう〝黄泉返し〟は難しいかもしれません」と、アナトが言った。「巫女が八人必要なのですが、アカル様を欠いた今、数が足りません」
「クシナーダ様」シキが言った。「胆力のない巫女ではできない業だと申されておりましたこと、今ようやくわかりました。アカル様の時でさえ、わたしたちは心を乱してしまいました。そのためにアカル様を……ふがいない……」シキは自らを責めるように頭を振った。
「それはわたくしも同じでございます」クシナーダも沈痛な面持ちだった。そして焚火越しに、エステルのことを見つめた。
 それを横で見て、ナオヒが言った。「もしかすると数は足りておるのではないか」
「え?」巫女たちは驚いた。
「エステルに教えておったろう。天の御柱の舞を……」
「ナオヒ様にはお見通しですね」うっすらとクシナーダは微笑したが、それは悲しげにさえ見えた。
「あ……佐草で」アナトは思い当たったように言った。
「エステル様、舞をお願いできますか」クシナーダはエステルを見つめた。
「わたしのできることなら、なんでもすると約束した。やれというのなら、やる」
「で、でも、クシナーダ様。エステル様は巫女としては……」ナツソが疑念を呈した。
「はい。エステル様には巫女としての素養はまったくありません。そのような生き方もなさっていません」クシナーダははっきりと断じた。「ですが、今だけ、エステル様は巫女として働くことができるかもしれないのです」
「なぜ?」
 あっとイズミが声を上げた。「もしかして……腹のお子が?」
 クシナーダはうなずいた。「エステル様のお腹の子は、大変に強い〝力〟を持っています。男の子ですが、この子の〝力〟が母体を媒体にして巫女として働いてくれるように思うのです。あくまでも可能性ですが」
「クシナーダ様、〝黄泉返し〟で使うのは天の御柱の舞なのですか」アナトが尋ねた。「あのような初歩的な舞で、〝黄泉返し〟が行えるのでしょうか」
「もっとも基礎的なものにこそ大きな意味があるのです。皆さんはトリカミの里をご覧になったでしょう。トリカミの里はこのように――」クシナーダは小枝を拾い、地面に図を描いた。「東西南北の四方とその中間に磐座となる石を八つ配置し、里の中央には御柱を立てております。これがトリカミを聖域化する仕組みでもあるのですが、この〝黄泉返し〟では中央の柱にスサノヲがなります」
 クシナーダの視線を受け、スサノヲは頷いた。
「そしてわたくしたち巫女は、この場合、それぞれの磐座となります。この時の舞は、かならず天の御柱の舞でなければならないのです」
「わたしたちが磐座に……」ナツソが畏れ多いというように周囲を見まわした。
「大丈夫です。すでに皆さんはもう、アカル様の時に同じことをやりました。今度はそれを踊りで行うのです」
「それはつまり、あの化け物を中心に呼び込まねばならないということでもあるな」スサノヲが言った。
「そうなります」
「なにか方策は?」
「ヤマタノオロチと化していようとなんであろうと、あれの本性はヨモツヒサメです。ヨモツヒサメが好むものを見せれば引きつけることができるでしょう」
「憎しみや悲しみ……」
「恐怖?」と、スクナが言った。
「それ、いけるかもな」イタケルが乗ってきた。「あの化け物を見て怖がらないやつはいない。要は怖がって、あいつから逃げてくればいいんじゃねえか」
「危険な役回りだが」と、スサノヲが言った。
「なら、我らにやらせてほしい」モルデが言った。「うまくひきつけて見せる」
 他の者は顔を見合わせたが、承諾するしかなかった。
「エステル様、今夜のうちに天の御柱の舞を、他のカナンの方々にもお教えしてくださいますか」
 クシナーダの申し出に、エステルは戸惑った。
「あ、ああ。それはかまわないが、男たちにもか」
「踊り手は一人でも多いほうが良いのです。もともとそのためにお教えしたのです」
「わかった。モルデ、カイ――」
 エステルの促しを受け、二人の男は彼女と共にその場を離れた。カナンの民たちが集まっている焚火のほうへ戻っていく。
「あとは鳴り物ですが、ナツソ様にも踊っていただかなければなりません」
「それなら俺が――」と、オシヲが言った。「天の御柱の舞の調べなら、いつも吹いていたし、それにこの間作った歌だって、ずいぶん聞かされたから吹けるよ」
「ミツハもきっと喜びます」クシナーダが笑顔になった。
 ナツソからオシヲへ、ミツハの笛が戻された。
 それを見守りながら、「ニギヒ様」とクシナーダは呼びかけた。「皆様も天の御柱の舞を、アナト様たちから教わっておいて頂けますか」
「承知しました」
「このようなことに巻き込んでしまい、本当に申し訳ありません」
「何をおっしゃいますか。ご案じなさいませんよう」
「こやつを巻き込んだのはわしじゃよ」ナオヒは、ひゃひゃと笑った。
 各自の為すべきことが分担され、自然と散開するような空気ができた。ヨサミはその場にずっと、アナトに肩を抱かれるようにして居合わせていた。一言も発さず。
 だが、その場を離れかけ、彼女はクシナーダの元へ戻ってきた。そしてその前で手をついた。
「クシナーダ様、これまでのこと、お詫び申し上げます。とても許していただけるようなことではございませんが、本当に申し訳ありませんでした」頭を下げ、そして続けざまに言った。「ですが、クシナーダ様。わたしは自信がございません。〝黄泉返し〟なる業を、わたしなどがとうてい担えるとは思えません。わたしはもう巫女としての力も資格も、何もかも投げ捨ててしまった者です」
「エステル様と同じようなことをおっしゃられるのですね」
「え?」ヨサミは顔を上げた。
「でも、エステル様はあなたとは違います。自分のできることならなんでもする。あの方はそうおっしゃいましたよ。あの方にはお覚悟があります」
 ヨサミはカナンの民のほうを見た。
「人は過ちを犯します。それは、わたくしも同じです。でも、道を一度踏み外したからと言って、道に戻れぬわけではありません」クシナーダは優しく告げた。「可能性を見せてください」
「ごめんなさい、クシナーダ様。わたしは……」表情を歪めながらヨサミは言った。「あの者たちを、どうしても許すことができないのです。あの者たちと心を一つにすることなど、絶対にできません。そうすべきだとわかっていても、どうしてもできないのです」
 泣きながらヨサミは顔を伏せた。
「考えるのをおやめなさい。頭であれこれ考えず、ただわたしたちは自分のできることを一人一人為せばよいのです」
「できること……」
「許せないのなら、それでも良いのです。でも今のわたくしたちにできるのは、ただ歌い、踊ることだけです。それしかないではないですか。違いますか」
「はい……」
「だから、何も考えず、今はただ為すべきことを為しましょう」
「はい……」
 涙をこぼしながら、ヨサミはアナトに支えられ、その場を離れた。
 そのとき、ヨサミはカナンの者たちに天の御柱の舞の振りを教えているエステルを見た。
 唯一の神を信奉するカナンの者にとって、それは邪教の業に違いないというのに――。
「アナト……」
「なあに、ヨサミ」
「力及ばなかったらごめんね。でも、わたし、やる」
 肩を抱くアナトの手が、強く抱きしめてきた。

 彼女らを見送ってから、スサノヲはクシナーダのそばに来て腰を下ろした。その様子を見て、イタケルやオシヲ、スクナもその場を離れた。ぼーっとしていたが、ナオヒもあらためて気づいたように、その場をそそくさと離れて行った。にたにた笑いながら。
 二人だけが残った。
「俺の役目は、カガチの時と同じと考えてよいか。ヤマタノオロチの動きを封じる……」
「はい……」
「承知した」
 沈黙が流れ、焚火の爆ぜる音だけが響いた。いつかと同じように。
 トリカミの里に初めて来たときと同じように、スサノヲはクシナーダの横顔を見つめていた。と、ふいにクシナーダが両手の中に自分の顔を隠した。
「どうした?」
 クシナーダの背が震えていた。
「どうした、クシナーダ」
「怖いのです……」両手の指が開かれたが、その指も震えていた。
 スサノヲは彼女の震える手をつかんだ。
「お願いです、スサノヲ……」見返すクシナーダの双眸は凍り付くようだった。「絶対に死なないでください。わたくしはあなたに会うためだけに生きてきました。姉や両親や、多くの里の巫女たちを見送り、今もイスズ様やアカル様や、アシナヅチ様やミツハも……わたくしはいつもいつも見送り続けてきました」
 クシナーダは本当に、心の底から恐怖していた。その怖れが、瞳の中にありありと見えた。
「愛する者を見送りながら、わたくしはあなたに出会い、共に生きることだけを願って生きてきました。ずるい女です。わたくしには、あなたしかいないのです。お願い……」
 クシナーダは彼の衣を両手でつかみ、必死に懇願してきた。
「死なないで……。これ以上、わたくしを独りにしないでください」


「わかった。約束する」
「本当ですか……」
「ああ」
「あの瘴気を浴びたら、あなたでさえ無事では済みません。必ず避けてください」
「ああ」
「いかにその剣が強くても侮らないでください。剣ではヨモツヒサメを完全に浄化することはできません」
「ああ、わかっている」
「それから……それから……」
 クシナーダはそれ以上、喋れなくなった。スサノヲがその口を塞いでしまったからだった。二人の姿は焚火の明かりの中で、一つの影となって揺らめいていた。


    4

 夜が明けても、空は明るくはならなかった。まだ日蝕がそのままの状態にとどめ置かれているかのようだった。
 曇天の下、あたりはまるで白夜か薄暮の時のような情景であり、それは決してただの曇り空のせいではなかった。
 誰もが異常を感じ取っていた。つい昨日まで迎えていた当たり前の日常ではなく、何か世界全体の空気が大きく切り替わってしまったと感じさせるものだった。
 このままであれば、この世は滅ぶ……。それは突き刺さってくるような嫌な予感だった。

 クシナーダは斐伊川の近くにある小さな平野を、その場所にと定めた。そこには空から見れば豆粒のような杜(もり)がぽつんとあり、そこをスサノヲのあるべき御柱とした。そしてエステルを含む巫女たちを、その周囲に十分な距離を取って、八方に配置した。その周囲にはニギヒの配下たちを共に守りとして置いたが、カガチの時と異なり、人の護衛などまったく意味をなさぬは明らかだった。
 風もなく、静かな朝だった。
 まるで生物がこの世からいなくなってしまったのではないかと思えるほど。
 カガチはその静けさを、近くの小屋の中で感じていた。臥所に横たわる彼は、まだろくに身体を動かせない状態だった。全身の組織や細胞が作り変えられたというだけではない。彼の裡から抜け出て行った悪霊の如き力は、彼の生命力そのものも根こそぎ奪い取って行ったかのようだった。
 そばにヨサミがいた。彼女はずっと付き添っていた。一睡もすることなく。
 小屋の戸板が叩かれた。
「ヨサミ、そろそろよ」
 アナトの声だった。
 ヨサミは音もなく立ち上がると、何も言わず、ただカガチの胸の上に置かれた手に自分の手を重ねた。そして小屋を出て行った。
 すべてがなくなってしまった――。
 ヨサミのいなくなった空間で、カガチはそれを感じていた。根っこにあったものがなくなってしまい、自分が空っぽになってしまっている。かつての怨讐も、今や彼を駆り立てるものにはなり得なかった。その記憶はあるのに、何か実感を伴わず、乾ききっているのだ。
 すべてがなくなったのは、あいつも同じだ――と、カガチは想った。ヨサミもまたかつてのカヤの巫女であった時、そしてその後、カナンへの復讐を心に誓っていた時の、そのすべてを失っている。
 いや、そうではない。ヨサミにはまだ、心を通わせる存在がいた。
 カガチにはもはやそれさえなかった。
 生きる価値もない。
 そう思えたが、では死ねるのかと言えば、その気力さえ湧かないのだ。
 やがて鳴動が聞こえた。キャーンという、あのおぞましい耳障りな叫びが聞こえ、化け物があたりの山々を揺るがせて突き進んでいるのがわかった。
 このまま、ここですべてが滅びれば楽かもしれない。
 カガチはそう考え、動かない身体を起こした。
 戸口まで出るのに、異様な時間がかかった。こじ開けた隙間に彼が見たのは、ヤマタノオロチの巨体が杜に向かって突き進んでいく姿だった。

「頼むぜ」イタケルはそう言って、朱の領布を差し出した。
 スサノヲはそれを受け取り、首に回すのではなく、頭部に縛った。


「おお、それもいいじゃねえか」
「早く避難しろ」
「スサノヲ――」
「なんだ」
「おめえはすげー奴だ。いや、おめえとクシナーダがすげえよ」
 スサノヲは首をひねった。
「俺はな、アワジから頼まれてるんだ。クシナーダを泣かすな。もし泣かしたら、ヨミの国まで行って、ぶちのめしてやるからな」
「イタケル……」
「覚えとけよ」
 イタケルは駆け出し、杜から離れた。その杜に向かって、モルデたちが走って来るのが見えた。そして、その背後には山を越えてきたヤマタノオロチが迫って来ていた。
 あたりに瘴気をまき散らし、それが通過した周囲は、木々がみるみる枯れ、緑色の山は灰色か茶色に変わっていた。
 モルデたちが駆け抜けて行った。
「スサノヲ様――!」
「お頼みします――!」
 彼らは口々に、最後の望みを託して行った。
 スサノヲが背後にしている杜を呑み込むほど、ヤマタノオロチは巨大だった。
 キャ―――――ン!
 焼けただれたような胴体を見せ、八つのオロチの鎌首がもたげられた。その瞬時にスサノヲは飛び出した。フツノミタマの剣を、そのただれた胴体に突き刺し、裂く。
 キャ―――――ン!
 頭が割れるような叫びだった。オロチの首が次々にスサノヲを狙って食らいつこうと迫ってくる。

 笛が鳴った。
 高らかな笛のヒビキがあたりを貫き、それぞれの場所で身を隠していた巫女たちは姿を現した。皆、その胸に勾玉を下げ。
 先頭を切って、クシナーダの歌声が響いた。
 どんな絶望にうちひしがれても
 アナトが追いかけて歌う。
 どんなに濃い闇がたちふさがっても
 二人が声を合わせた。
 心の奥底 消えない火がある

 ヨサミが
 たとえひと時 憎しみ合っても
 エステルが
 たとえひと時 わかり得ずとも
 二人が声を合わせた。
 いつもどこかに信じたい想いある

 ヨサミはクシナーダに言われるまま、もはや心を空っぽにして動いていた。エステルとヒビキを合わせた瞬間だった。ヨサミの心の奥底で、重く閉ざされていたものが開き、動いた。
 そして彼女たちに続いて、すべての巫女たちが、そしてそれを取り巻く人々がヒビキを乗せてきた。
 そうすることで、さらにその閉ざされていたものは大きく開きはじめた。

 さあ、心の岩戸開いて
 呼び出そう
 本当の自分
 本当の気持ち

 さあ、心の岩戸開いて
 手を伸ばそう
 世界に向かって
 愛する人に


 その歌声のヒビキに包まれ、笛を吹くオシヲは、ミツハがかつてなく身近に存在するのを感じた。生きてそばにいたときよりも、ずっとずっと彼女はオシヲと一つだった。明るく無邪気な彼女の魂が、光となってすぐそこに在るのを感じた。彼女は今、オシヲに重なり合うようにして笛を吹いている。


 ――オシヲ、わたし、嬉しい。オシヲがわたしの大好きなオシヲでいてくれて。
 声が聞こえた。滂沱と涙が溢れ、オシヲは何も見えなくなりながら、笛を奏で続けた。

さあ、心の岩戸開いて
 呼び出そう
 本当の自分
 本当の気持ち

 さあ、心の岩戸開いて
 手を伸ばそう
 世界に向かって
 愛する人に

 手を取り合って


 歌が終わるのと共に、わーっという喚声が湧きおこり、周囲に広がった。カーラが先導し、大勢の民が杜の周囲に押し寄せていた。
「クシナーダ様!」
「スサノヲ様!」
 口々に叫ぶ彼らは、トリカミの里人たちだった。いや、そればかりではなかった。里人が手厚く面倒を見た、オロチ軍の傷病者たちも、動ける者は一緒になってそこへ来ていた。
 小屋を出たカガチは、その人々の異様な光景を眺めていた。彼らは怒涛のような流れとなって、みるみる杜の周囲を取り巻いた。
「わたしたちも!」
「いつものやつですよね!」
「一緒に踊りますよ!」
 彼らはヤマタノオロチという怪物を目の当たりにし、もちろん恐怖を覚えたようだった。だが、その逡巡した彼らの心を鼓舞したのは、巫女たちの歌声とスサノヲだった。怪物に近いところで怖じることもなく歌を捧げる彼女たちの姿。大蛇の化け物と戦い続けるスサノヲ。
 人々は心を動かされた。

 ア――――。
 クシナーダが浄化のヒビキを送り始めた。
 ア――――。
 少しずつ音階を変え、アナトが、ヨサミが、シキが、ナツソが、イズミが、ナオヒが、そしてエステルがヒビキを重ね合わせ、織り合せて行った。
 彼女たちの胸の勾玉が燦然と輝きを放ち、それぞれの場所から小山を中心とする一帯をドーム型に包み込んだ。
 ヤマタノオロチは巫女たちを認識した。そして猛然と、まずクシナーダへ襲い掛かろうとした。スサノヲはそれを察知して回り込み、クシナーダへ向かって伸びて行く大蛇の首に光の太刀を振り下ろした。
 首は切断された。
 キャ――――ン!!
 巫女たちの調和のヒビキがかき乱されるほど荒々しくおぞましい叫びを上げ、のたうちまわる。斬りおとされた首から、真っ黒な霧のようなものが立ち昇った。
 もう一つの大蛇の首が大口を開け、瘴気を吐き出した。スサノヲはそれが直接巫女に襲い掛かるのをふせぐため、フツノミタマの剣に浄化の〝気〟を集め、それを送り出してぶつけることで祓った。
 怒り狂った大蛇は、スサノヲを呑み込もうと向かってくる。
 上段から渾身の〝気〟を込めて振り下ろしたその太刀が、オロチの頭を正面から断ち割って、その付け根まで引き裂いた。
 またあの金属的な叫びを上げ、オロチが苦悶する。
「これで二つ」
 スサノヲはさらに攻撃を加えようとして、胸に異様な苦しさを感じた。喉がつまり、咳き込む。血の塊が吐き出された。
 祓いつづけてはいたが、ヤマタノオロチの瘴気はじわじわと彼の肉体そのものを蝕んでいたのだ。
 左右から大蛇の首が襲い掛かり、スサノヲは跳躍し、それを避けようとした。が、すでに思うほどの力もスピードもなく、彼の右太腿に一体の牙が食い込んだ。
「!」
 スサノヲは叫んだ。痛いとか熱いとかいう以上の、そのまま脚がもげて落ちるような心地がした。剣を大蛇の頭に突き立てる。
 フツノミタマの浄化の〝力〟が、そのオロチの頭部を焼き、死滅させた。
 しかし、残る大蛇の牙が肩に、そして腕に噛みついてくる。
 スサノヲは絶叫した。全身が痺れ、意識が真っ暗になっていく。大蛇の牙には人を簡単に殺傷する禍々しい毒のようなものがあった。
 ア――――。
 巫女たちが捧げる調和のヒビキ。それが遠のく彼の意識を引き戻した。
 そして全身に回る毒を中和した。彼は吠えた。まるで自身が竜巻と化したようだった。荒々しく舞いながら、彼はまとわりつく大蛇の首をずたずたに切り裂いた。


    5

 浄化のヒビキを送ったのち、巫女たちは両手を上方へ捧げるような姿勢で止まっていた。
 オシヲの笛からあらたな調べが送り出されてくる。クシナーダは閉じていた目を開いた。
 ――さあ、皆さん、参りましょう。
 クシナーダの思念が広がった。そして彼女は祈りのような、祝詞のような歌を口ずさんだ。そして巫女たちはいっせいにゆるやかな舞を踊り始めた。

 風の神 山の神 川の神 火の神
 海の神 星の神 ヤオヨロズ すべてと
 太陽と月の下

 尽きることない暖かな光
 すべてを潤す恵みの雨
 この天地(あめつち)に生まれた命よ
 ヤオヨロズ 集い来て さきさいたまえ


 彼女たちの舞に合わせ、取り囲む人々が同じ舞を演じはじめていた。それは中央で演じられている、荒々しく激しい死闘とはまったく位相を逆にしたものだった。
 だが、その周囲が作り出す穏やかで調和的なヒビキが、スサノヲを支え、そしてヤマタノオロチの禍々しさを封じ込めようとしていた。
 それは誰にでもできる簡単な舞だった。しかし、それはその場に大きな変化が生み出さしめていた。
 その変化は意外にも、エステルを真っ先に打った。
 クシナーダから伝授された舞は、今や無意識にさえ踊れるほどだった。もともと体を動かすのが得意なエステルには、むしろ静かすぎる舞。
 その静かな動きを同じくする人。人。人。
 その所作がシンクロをすることで、意識がいつの間にかシンクロしていく。通じて行く。
 そして人とつながれることで、いきなりエステルの意識と視野が広がった。見えてくる風景。そしていつの時代かの体験。
 はたと彼女は悟っていた。
 わたしはこれを知っている――。
 みなと共有して舞う、この体験を彼女は知っていた。
 いつの時代にか、エステルはこの舞をこの地で舞ったことがあると、明確に思い出したのだ。その時の情景がありありと見える。今よりもさらに古代のどこか……エステルはその時代にこの地に生まれ、そして当たり前のように舞っていた。多くの仲間がいた。その人々はもちろんエステルにとっては見知らぬ人たちばかりである。そのはずなのだが、しかし、皆、知っている者ばかりだった。モルデ、カイ、シモン、ヤイルもまたその中にはいた。なぜかそうだとわかるのである。
 ――そなたらは還るさだめ……。
 メトシェラの言葉が脳裏をよぎり、今本当の意味で胸に落ちてきた。
 魂は生まれ変わるのだ!
 それはエステルのそれまでの観念を粉々に打ち砕くほど、強烈な認識だった。
 エステルはカナンの民としての存在だけではない。この地上に幾多の人生をすでに刻み、まるで違った宗教や風習の暮らしを、数え切れぬほど積み重ねてきていた。カナンのエステルは、その中のたったひと粒に過ぎなかった。
 なんということだ。なんという……。
 その真実の前には、カナンが神に選ばれた唯一の民だとか、そのような思い込みは、まったく無意味だった。それは失望どころか、エステルに笑いの衝動を起こさせた。
 ハッ……なんだ、これは。なんで、こんなことがわかる。いや、なんでわからなかったのか。わたしはなんという……。これでいいのではないか! 皆、あるがままで! ハッ……アハ……アハハハハハ!
 エステルは踊りながら、心の中で笑っていた。
 ――そう、それで良いのです。
 エステルのそばには光があった。イスズの光はカナンの民たちを護るように淡く広がっていた。

 ヨサミは、まったく違った光を感じていた。
 舞の中に立ち現われてきたのは、亡くなった母だった。巫女としてカヤを導いてきた母。そしてこの舞を幼かったヨサミに教えてくれた人だった。彼女は今、ヨサミのそばで一緒に舞っていた。そしてさらに、その母の隣に重なり合って、父の光があった。
 ――ヨサミ。
 声がする。
「お父様……お母様……」
 ――よく頑張ったね。
 二人から暖かいいたわりが感じられた。
「ごめんなさい、お父様、お母様」
 いいんだよ、と彼らは伝えてきた。それどころか、今までのヨサミのすべてを許していた。そしてこの場にエステルがいて、カナンの民がいることを、彼らが喜んでいた。
「これでいいの……?」
 これで良い――そう伝える二人の背後から、さらに眩い光が現れてきた。
 アカル様だ、とヨサミは感じた。
 ――あなたに託します。ヒボコのこと……カガチのこと、お願いいたします。わたしの〝力〟をあなたにお預けいたします。
 アカル様! とヨサミは心の中で呼びかけた。わたしはあなたに嫉妬していました。あなたはあまりにも眩しかった。それにわかっていました。あなたがなにゆえにか、カガチを愛していることを。
 ――あなたもカガチを素直に愛してください。
 アカル様!

 その同じ光は、カガチにも見えていた。
 彼は大勢が輪となって舞うその現場を見下ろす丘にいた。樹木に寄りかかって、かろうじて身体を支え、その場に膨れ上がる光とヒビキを感じていた。それはますます強くなり、彼の視野を覆い尽くしてくるように思えた。
 ――カガチ。
 二つの光が並んでいた。そして、その中に良く似た面差しの女が二人。
 アカルと、そしてもう一人は彼の実母であった。
 その二つの光に彼は抱きしめられた。
 彼はその場に崩れ落ちた。幸福感という酒に酔い――。


「あと一つ……」
 スサノヲの前に大蛇の首が一つだけ対峙していた。その恐ろしい眼の中に、スサノヲはあのヨモツヒサメの存在を感じていた。


 赤は赤 青は青 白は白 黒は黒
 空は空 海は海 風は風 人は人
 太陽と月の下

 愛を形に咲き誇る花
 愛を届けて飛び交う虫
 この天地に回る命よ
 ヤオヨロズ 結び合い イワイたまえ


 クシナーダの歌声は祈りとなり、空に澄み渡るように響いた。
 ヒビキは踊りと一体となり、その場を満たした。
 その中でクシナーダは視ていた。

 はるかな太古、始源の時よりこの地球という星に生み出された生命の数々。
 人類という種。
 その膨大な歴史と、人が積み上げてきた体験。
 文明の盛衰。
 時のリセット。
 その中でつながる、命という螺旋。
 回る。
 回る。
 命が回る。
 そしてクシナーダも回る。
 巫女たちも回る。
 民たちも回る。
 彼らが一人一人体験し、接している無数の情報。それがクシナーダの中に流れ込んできた。そこから、クシナーダはどこへでも、いつの時でも、今すぐに飛び渡っていくことができた。いつの時代も、どの世界も、今ここで身体と心を通じて共有することができる。
 一体となることができる。
 人は皆、地球の子――。
 命はつながり。
 命は回る。
 それは喜びの現れ。


 スサノヲは裂帛の気を放った。
 急迫する大蛇の首が粉々になり、霧散した。
 そこには濃厚な闇の気配が残された。
 あのヨモツヒサメの元の意識だけが漂っていた。そこへスサノヲはフツノミタマの剣を突き入れた。以前とは異なり、浄化の力を帯びた剣は、ヨモツヒサメの芯を完全に捉えた。
 剣に貫かれ、身動きも霧散もできず、釘づけにされたヨモツヒサメは苦悶した。が、逃げられぬと悟ると、その闇の顔で笑った。
 ――オマエハ人柱トナル。黄泉ヘ連レテ行ク。
 闇の人型は、愛おしげにスサノヲの顔を撫でた。
「上等だ。貴様らを道連れにできるのなら」


 ――クシナーダ。
 懐かしい声が聞こえた。
「お姉様……」
 カガチに殺められ、ヨミへ旅立ったアワジだった。そして姉巫女に重なり合うようにして、これまでクシナーダを守ってきた他の年上の巫女たちの意識が現れた。
 彼女たちは天女さながらに宙を舞い、暖かい賛美の想いを寄せてきた。よくやったね、頑張ったね、と。
 ――良い子、良い子。おまえは良い子だ。
 さらに大きなヒビキが愛となってクシナーダに降りてきた。
 ウズメ様だ、と感じた。過去、どのような神事や、どのような舞の時にも感じたことのないような、全面的な一体感が生じた。愛と喜びが、クシナーダの身体の隅々、指先やすべての毛先にまで溢れるほどに広がり、その波動は彼女を通じて波及し、舞い踊る巫女たちすべてに伝播した。そして彼女らは、クシナーダが視ているものの片鱗を共有した。
 そしてまた声が聞こえた。
 ――時が至ったぞ! 皆、目覚められよ!
 天より大きなヒビキだった。サルタヒコ様の声だと感じるクシナーダの認識は、そのまま他の巫女たちのものとなった。

 空が震えた。山野も震えた。

 直後、見渡す限りの天地(あめつち)から、荘厳な光が湧き立ち、ありとあらゆる神々と精霊がはじけ飛ぶように生まれ出でるのを巫女たちは感じた。
 それらが光の渦となって、まるで星雲のように回った。ぐるぐるぐるぐる。
 大きな力がその中心に注ぎ込まれていった。

 この天地を満たす命よ
 ヤオヨロズ 共に在り 歌いたまえ

 ヤオヨロズ ヒビキあい わらいたまえ


 クシナーダの歌声の終わりと共に、静寂が訪れた。
 巫女たちは向き合い、中央の上空へ両手を捧げていた。そして取り巻く大勢の人々も。

 轟いた。
 まるで巨人が腹の底から発する空が割れるほどの哄笑が誰の耳にも聞こえた。
 わっはっはという、ものすごい轟きの笑い声に続き、いっせいに無数の笑い声が湧きあがった。子供の笑い声。女の笑い声。老人の笑い声。赤ん坊の笑い声。
 それは長く続いた。
 そして鎮まった。

「天の岩戸が……」アナトが。
「開く……」シキが。

 見上げる上空の闇が切れた。
 そして扉が開かれるように、そこから眩い光が差しこんできた。

「日が戻った……」イタケルが。
 その光は地上を照らしたかと思うや、まるで生き物のようにうねった。光り輝く竜のようだった。それは躍動し、クシナーダの捧げた手へと集まった。
 眩しい光の塊は、彼女の手の中で鏡となった。
 それを掲げると、天を割った光が鏡を通じ、その場をまるで焼き尽くすように照らした。スサノヲとヨモツヒサメが対峙する、その場所を。
 まだ浄化されぬままその場にとどまっていたヨモツヒサメが悲鳴を上げた。
 それはこの世の中に存在する、ありとあらゆる怨念的な喚き声を集めた断末魔の悲鳴だった。
 彼らの足元に、黄泉の口が開いた。真っ黒な淵のようなものの上にスサノヲは背を見せて立っていた。ヨモツヒサメを剣で貫いたまま。
 
 その時、エステルはお腹に異常を感じた。痛みと共に、生暖かいものが腿を伝うのを感じた。あっと叫び、エステルは両手でお腹を押さえた。だが、直感的に知らされるものがあった。
 今の彼女には視えていた。
 光の珠が彼女の腹部を抜け出てきた。その光の中に、小さな胎児が勾玉のように見えた。
「あ――。待って!」
 光の珠は彼女を慰めるように、目の前でくるくると回った。
「待って……わたしの……」
 すうっと離れていく光の珠。ここまで彼女を支え、役目を終えて去っていくのだとわかった。それは加速して、クシナーダが照らす場所へ向かい、そしてスサノヲの足元に開いたヨミへ通じる淵へと飛び込んで行った。
 するとそれに引っ張られるように、ヨモツヒサメがその淵へと吸い込まれていった。

 闇の淵は消えた。
 そして空はみるみる雲が割れ、明るい日差しに満たされた。

「やった……」呆然とイタケルが呟いた。
「やった……」スクナも、そしてオシヲも似たように呟いた。
 そのざわめきは群衆の中へ広がって行った。
「やった!」叫びが上がる。歓喜の叫びが。
 歓喜が広がっていく。小躍りして喜ぶ者。抱き合う者。

 ヨサミはアナトの元へと駆けていた。一度、途中で転んだ。それでもすぐに起き上がり、向こうからやって来るアナトとぶつかるように抱き合った。
 二人とも涙でぐしゃぐしゃだった。
 そこへシキとナツソ、イズミも飛びついて行く。

「エステル様……?」モルデは彼女のそばにしゃがみこんだ。
 まだ自らのお腹を抱いたままエステルは泣いていた。悲しいのと、寂しいのと、それでもこの歓喜の中での共有と……そのすべての涙だった。

「ナオヒ様、やりましたな」
 ニギヒがかける言葉が耳に届かぬように、ナオヒは視線を杜に釘付けにしていた。杜はすでにヤマタノオロチの瘴気で、すべての木々が立ち枯れていた。彼女の場所からは、その前に立つスサノヲの横顔が見えていた。
「ニギヒよ、あそこへ連れて行っておくれ」

 クシナーダもまた全力で駆けていた。
 杜の前で背を向けているスサノヲの元へ。
 人々が集まってくる。彼の元へ。
 クシナーダはその先頭を切って彼の元へたどり着いた。息を切らしながら、呼びかける。
「スサノヲ――」
 その瞬間だった。
 剣を持っていたスサノヲの腕が、肩の付け根からもぎ取れた。剣は音を立てて地面に落ちた。
 キャア、とクシナーダは、それまで誰にも聞かせたことのないような悲鳴を上げた。
 次の瞬間。

 ざ、という音を立てて、スサノヲの身体は崩れ落ちた。

 人々は信じられぬというようにその場に凍りつき、眼を見張った。
 そこには白い砂のような山が残され、その砂の中に彼が身に付けていた衣と、そしてクシナーダの朱の領布が半ば埋もれて残されていた。
 風が吹いた。
 その風は白い砂を動かした。
「スサノヲ……」
 ふらふらとクシナーダはおぼつかない足取りで歩いて行った。そしてその砂の中に手を入れた。
「スサノヲ……」
 その中をかきまわすようにする。
 巫女たちが、ナオヒが、そして遅れてエステルたちもその場にやって来た。
「塩だ……」白い砂を指先で確かめ、イタケルが洩らした。
 スサノヲの肉体は塩と化していた――。
「みずから浄めの塩となったか……」ナオヒが呟いた。
 クシナーダは、朱の領布を握りしめ立ち上がった。
「そんなはずない……そんなはず……」思いつめたように繰り返した。そして彼女はどこかあらぬ方を仰ぎ、視線を送った。
「スサノヲ……?」
 また違う方へ歩き、呼びかけた。
「スサノヲ……」
 その姿はあまりにも痛々しく、眼を背けずにはおれなかった。

 スサノヲ――!!

 クシナーダの叫びは、蒼穹に吸い込まれていった。




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ヤオヨロズ エピローグ~国の乙女の花~

 黎明の空に、明けの明星が輝いていた。
 そして、そのそばに天津甕星(あまつみかほし)の輝きはなかった。
 クシナーダはしばらくその光を求めて空を見つめていたが、あきらめたように視線を地上に下ろした。
 トリカミの里では朝早くから人々が働いていた。朝餉を作る者たち、戦で失われた家屋を再建する者たち。だが、その朝はいつもと少し違った慌ただしさがあった。
「おはようございます、クシナーダ様」
 すれ違う者、気づいた者が声をかけてくる。
「今日から寂しくなりますなあ。皆様、出立で」
 そんなことを口にした男の脇を、そばで聞いていた妻が肘で小突いた。あ、と男は自分の口を押えた。気遣ってくれる里人にクシナーダは微笑を返し、ゆっくりと祭殿へと戻って行った。
 そこにはすでに巫女たちとカーラ、イタケルが待っていた。旅支度を整えて。
「あら、皆さん――もう行かれるのですか」
 驚いてクシナーダは彼らの元へ近寄った。
「はい、できれば、今日中には山を越えておきたいので」と、アナトが答えた。
「そうですか。皆さんも道中はお気を付け下さいね」
「クシナーダ様もご自愛ください」
「ありがとうございます。――あ、少しお待ちください」
 クシナーダはアナトのそばにいるシキを見て、ふいに踵を返した。祭殿の階段を上がって行き、そして中から麻布に包まれた長いものを持ってきた。
「シキ様、どうかこれをあなたのもとでお祀り下さい」
 クシナーダが差し出したものを受け取り、その感触にシキは驚きの眼で見返した。
「クシナーダ様、これは……」
「フツノミタマの剣です。あなた様はこの剣と何かご縁がありそうです。あなたの国、イソカミでこの剣の御霊をお鎮め下さい」
「わたしなどが――よろしいのですか」
「はい。その剣はきっといつかまた、大きなお役目を果たすときが来ます。それまでイソカミでお預かりください」
 スサノヲの剣。フツノミタマの剣。それはスサノヲの魂にも近しいものであろうに――。
「わかりました。大切にお預かりいたします」涙目になってシキは、剣を抱きしめるようにした。
 クシナーダは一緒に旅支度を整えているイタケルに眼を移した。
「イタケルも本当に行ってしまうのですね」
 ああ、と彼は小さな皮袋に手に応えた。「とりあえずはこの巫女さんたちの護衛をカーラとやって……ついでに種まきでもしてこようかと思う」
「種まき?」
「ここらへんの野山で集めた木の実だ」袋を掌で弄びながら言った。「キビはクロガネづくりのために、あちこち禿山になってるらしい。だから、木を育てることをしたらどうかと思ってな」
「じつはわたしたちも一緒に集めたのです」
 アナトが言い、巫女たちはそれぞれの腰紐に結んでいる皮袋を見せてくれた。
「もっとたくさんありますよ」と、背後で荷物を背負ったカーラが、肩の荷を揺らせて見せた。
「たくさんの木を植えて育てて、一色じゃない山に戻す。それがこのワの国中に広がる。どうだ、いいだろ?」イタケルはそう言って笑った。
「いいアイディアです」クシナーダはにっこりとした。
「あ、あいであ?」と、アナト。
「いい考えということです」
 そこへエステルがやって来た。一同は向き直った。
「エステル様、キビでお待ち申し上げております。どうか御無事で民を連れて参られますよう」カーラはそう言った。「到着されましたら、わたしがヤマトへご案内申し上げます」
「よろしく頼む。ヤマトか――」エステルの瞳には希望があった。その眼を空の向こうへ向けた。
「四方を山に囲まれた、良い土地でございます」
「うむ。楽しみにしている」
「エステル様も……」躊躇いがちに口を開いたのはヨサミだった。「今日、発たれるのですか」
「ああ。ここ数日は天候もよいだろうと、クシナーダが言ってくれたので」
「そうですか……」
「その……ヨサミ、そなたはキビには戻らぬと聞いたが」
「はい。あの方と――」ヨサミはかすかに後ろを振り返った。
 人々から外れたところでカガチは一人、空を眺めていた。
「タジマへ行きます。アカル様のお祀りされていた海と山を、わたしは引き継ごうと思っています」
「そうか。……その……謝って済むことではないと、百も承知している。が、本当にすまなかった」
 ヨサミは頭(かぶり)を振った。それは拒否でもなく、まだ全面的な許しでもなく――。
 ただ、彼女はこう言った。
「またいつか、お会い致しましょう」
「ああ……ああ!」救われたようにエステル大きな声で応えた。
 そうして巫女たちはトリカミを離れて行った。イタケルとカーラも随行し。彼らは南へ。
 ヨサミとカガチは東へ。

 カガチは最後まで人と和することはなかった。
 しかし、かつての彼でもなくなっていることは明らかだった。そしてそんな彼が唯一、身近に置いているのがヨサミだということもまた、たしかなことだった。
 この後、カガチとヨサミの間には、タジマ豪族の始祖が誕生する。
 カガチはその後、北陸を治めたが、晩年に近づき姿を消した。さらに東国へ向かったとも噂された――。
 ヨサミが丹後半島で祭祀を行った地は、後にこう呼ばれた。
 吉佐の宮(よさのみや)と――。


 朝餉を終えると、エステルたちとニギヒ・ナオヒも出立した。
 クシナーダたち里の者は、これを見送りに斐伊川に沿った道を下った。小舟で川を下って行ける地点までだった。
 川の港には船が何艘もすでに用意されていた。
 ここから斐伊川の河口近くまで下り、そこから大型の船に乗り換え、それぞれ大陸の半島とツクシに向かうのだった。
 その川の港まで到着したところで、ニギヒが言った。
「クシナーダ様、またもう一度、お話をさせてください。機会をあらためて参ります」
「あのお話ですか」
「はい。わたしは……とても恥ずかしい思いを致しました」
「と申されますと?」
「いつぞや、クシナーダ様は申されました。民の幸せのために皇子の立場を捨てられるかと。わたしはそのとき、できるとお答えしました。が、わたしは偽善者です」
「偽善者?」
「じつは……わたしにはできることがあるのです。ツクシの争いを治めるために」ニギヒは躊躇いを押しのけるようにして言った。「南のクナ国のある豪族の娘との……その……縁談があるのです。わたしがその地へ行き、その娘と婚姻を結べば、あるいはクナ国との戦を鎮める一助になるやもしれませぬ。いや、そのように努力できるはずなのです。しかし、わたしはこの話を避けてきたのです」
「そうだったのですか」
「皇子を捨てる覚悟があるのなら、その程度のことできなければおかしい……。わたしは巫女の皆様が、自分のできることをなさろうとするその御姿に感動し、同時に自分を恥じたのです。わたしは……この婚儀を受けようと思います。自分の為すべきことを為します」
 はっはっはと笑い声を上げたのはナオヒだった。
「肩の力が入りすぎておるな、ニギヒ」
「ナオヒ様……」
「まあ、そなたが何を選ぶか、それはそなたの勝手じゃ」
「またそのようなことを……」ニギヒは困った顔をした。
「クシナーダよ」
 はい、とクシナーダは向き直った。するとナオヒは、その痩せた腕で、クシナーダを抱き寄せた。驚き、目を丸くするクシナーダ。
「この老いぼれがそなたとこうして相見えるのはこれが最後じゃろう。じゃがな……」
「…………」
「また会おう」
「はい、また……」
 ナオヒは離れた。
「では、クシナーダ様」と、頭を下げようとするニギヒを、やはりクシナーダは呼び止めた。
「お待ちください。オシヲ、あれを――」
 随行していたオシヲが、やはり麻布にくるまった剣をニギヒに捧げた。
 麻布の中を見たニギヒは驚き、「これは――」とクシナーダを、そして船の用意をしているエステルを振り返った。
「エステル様がスサノヲに下されたカナンの宝剣です。どうぞお持ちください」
 エステルは話題に上っていることを察したように振り返り、近づいてきた。そして、カナンの宝剣を見て「それは――」と言葉を切った。
「なぜ、これをわたしに」ニギヒは尋ねた。
「エステル様にはこれを――」クシナーダはやはり随行しているスクナを意識して言った。
 スクナは麻布に包まれた円盤状のものをエステルに差し出した。受け取ったエステルは不審げにそれを開き、絶句した。
 ニギヒも言葉を失った。
 それは〝黄泉返し〟を行った最後にクシナーダの手に現れた鏡であった。
「これは――そなたらが宝とすべきもの。このようなもの、わ、わたしは受け取れん」
「違います。お預けするのです」
「あ、預ける……?」
「互いに大事なものを分かち合う……。そして、それをいつか一つになさってください」
「いつか一つに……」
「このワの国の戦乱は、もうすぐ収束に向かうでしょう。そのときにそれらはきっと、一つになっているはず」
「それは……そなたの予言か」
 エステルの問いに、クシナーダは笑った。
「いいえ、願いです。どうかお聞き届けください。このことを経験した幾多の人たちが、いつかこのワの国で一つになることが、わたくしの心からの願いです」
 ややあって、エステルは応えた。「わかった」
 ニギヒも頷いた。
 そうして彼らは船で川を下って行った。見送ったのち、クシナーダたちは里へ引き返した。
 
「オシヲ、スクナ――」帰路、クシナーダは斐伊川を眺めて言った。「先に帰っていてくれませんか。わたくしはここで少し用事があります」
「え? こんなところで――」オシヲが言った。
 が、スクナははっとしてオシヲの袖を引っ張った。そしてクシナーダに応えた。「わかった。先に帰ってるよ。行こう、オシヲ」
「え? え? ちょっと」
 オシヲは戸惑いながら年下のスクナに引っ張られていった。他の里人も、クシナーダに異を唱えることはなく、そのまま里へ向かった。
 クシナーダは独りになった。
 そして、その河原をいつまでも見つめていた。
 スクナは気づいていた。洪水のために景色が多少変わっていたが、そこはスサノヲとクシナーダが出会った場所だった。あのときアケビが生っていた木も、奇跡的に残されていた。
 ずっと、飽きることなく、クシナーダはその景色を眺めていた。
 変わらぬ川のせせらぎ。風に揺れる草木。
 あのときはそう――ススキが中洲や河原に揺れていた。その中に、二人はお互いの姿を認めた。
 中洲を飛び渡ってきたスサノヲ。
 ――みかほし? いや、俺はスサノヲ。
 ――いいヒビキだ……クシナーダ。

 クシナーダは道から降り、河原へと向かった。そして歌った。

゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ
゚・*:.。..。.:*・゚あなたの訪れ
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ

゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船
゚・*:.。..。.:*・゚長い年月
゚・*:.。..。.:*・゚ただ、あなただけ
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ

 その歌は星の神話というだけではなかった。
 それは魂の物語だということを、クシナーダは知っていた。川を隔てて出会う男女。
 一年に一度の逢瀬。
 魂がこの世で出会い、束の間しか愛し合うことを許されていない。
 その悲しさを歌ったものなのだ。

 スサノヲはいない。
 きっとアシナヅチとの約束を守り、このワの国を守る御霊として、今はヨミへ赴いたのだ。
 だけど、きっと。
 いつかまた会える――。

 追いかけて行こう――。
 クシナーダは思った。胸に固く誓った。
 あの人の魂をどこまでも追いかけて行こう。
 今そばにいなくても。

 あッと声を上げ、クシナーダは歌声を途切れさせた。不意に強い風が吹き、彼女がかけていた朱の領布を舞い上げた。そして埃が眼に入り、その痛みに彼女は片手で眼を覆った。
 痛かった。

「痛い……」そう口に出した。「痛い……痛い!」
 大きな声を出した。そうして彼女は両手で顔を覆い、河原に膝をついた。
 涙が溢れてくるのは、埃で痛いからではなかった。そんなものはとっくに洗い流してしまうほど、とめどなく涙は流れた。
「……どうして……? どうして今じゃないの!? わたしはこうして生きながらえているのに、どうしてあなたはここにいないの!? 嘘つき! 死なないって言ったのに!」
 子供のようになっていた。幼子が泣くように、クシナーダは河原に突っ伏して泣き出した。大声で。拳で河原の石を叩きながら。
 ずっと泣き続けた。

 また風が吹いた。
 クシナーダは領布のことを思い出した。スサノヲが最期に身に着けていたもの。
 それだけがクシナーダのもとに残された、彼との思い出となる品だった。
 彼女は身を起こして、涙を拭き、あたりを見まわした。

 領布は対岸にまで飛ばされていた。
 それを拾う手があった。

 クシナーダは操り人形のように、それを見て立ち上がった。

 対岸にはスサノヲが見えた。彼が領布を首に回すところだった。
 これは願望だ、とクシナーダは思った。願望が見させている幻視だと。
 それでもかまわなかった。
 いつまでもいつまでも、その姿を見ていたかった。

「クシナーダ」
 声が聞こえた。
 彼の声だった。

 クシナーダは引き寄せられるように足を踏み出した。二歩三歩。そして川の中に入って行った。
 冷たい川の水が、意識を鮮明にした。
「スサノヲ……?」
 いつか消える幻視だと思った。
 だが、彼は消えなかった。それどころか、彼は歩き出し、近づいてきた。足が川の水をざぶざぶとかき乱す音まで聞こえる。
「スサノヲ!」
 幻でも何でも構わなかった。彼女は駆け出した。水を撥ね飛ばし、岩を飛び渡り。一度たりとも瞬きもせず、彼の姿を目に焼き付けながら――。

 二人は川の中洲で向き合った。
 差し伸べる手が震えた。怖かった。触れることなくその姿が消えてしまうことに。
 だが、クシナーダの手は彼の腕をつかんだ。

「クシナーダ」スサノヲは彼自身、今の状況が信じられないというように言った。「もう一度生まれることができた……。もともとこの身は、エステルとモルデの子としてあったものだったのだ。エフライムに似ていたのも道理……血がつながっていたんだ。時間はこのネの世界にしかない。だから――」
 スサノヲの言葉をクシナーダは大声で遮った。
「そんなこと! そんなことどうでもいい!」
 スサノヲは黙った。
「ああ……スサノヲ、あなたなのね。本当にあなたなのね」クシナーダは両手で彼の肉体の感触を確かめながら問うた。
「ああ……ああ、そうだ! クシナーダ!」
 スサノヲはクシナーダを抱きしめ、そして抱き上げた。そしてふりまわすように回った。
 その遠心力に逆らい、クシナーダは彼の頭を抱きしめ、そして下ろされたときも決して離れずにいた。めくるめく心地の中。
 二人は眼と眼を合わせた。
 そして口づけを交わした。


 歓喜のヒビキが広がった。

 まだ蕾さえ生まれていない木々。梅や桜が、そしてツツジが。
 みるみる蕾を育て、そして急速に花を開かせた。艶やかに、美しく。次々に。


 それは二人を中心にして、広がって行った。
 クシナーダのことを案じて、その場に残って一部始終を見ていたオシヲとスクナは、真っ先にその奇跡を目の当たりにした。涙顔の彼らのまわりも、たちまち花で満ちた。


「ヒビキが戻ってきた」驚きに打たれ、ナオヒが振り返った。
そして老巫女は満足げに笑った。
 船出をしたばかりのエステルとニギヒ、それぞれの大型船は並んで日本海を走りはじめたところだった。
 彼らもまた奇跡を目の当たりにした。
 離れ行くナカの国の山野が、突如として色づき始めたのだ。本州に近いところを走っていたニギヒの船で気づいた者が大声を上げて指差し、エステルたちもそれに気づかされた。
「なんだ、これは……」モルデが呆然と、狂ったように咲いていく山野を見つめた。
 エステルの胸元で勾玉が光っていた。
 彼女はそれを手にし、覚った。
「そうか――そうか!」



 キビへの道をたどる者たちの中では、シキが真っ先に気づいた。背負っていた剣に、暖かく強いヒビキを感じたのだ。剣の麻布を開き、その輝きを目にし、彼女は他の巫女たちに起きたことの直感を伝えた。
 そうするうちに、彼女たちのまわりでも花が次々に開いた。
 イタケルとカーラも眼を見張って、花々で満たされていく街道に佇んだ。

 
「花が……」
 ヨサミが足を止め、そしてカガチも後ろを振り返った。
 西の方から次々と咲き誇ってくる桜並木。
 カガチは眼を細めた。それは彼が誰にも見せたことのない、穏やかな表情だった。
 

 祝福のヒビキが満ちている。奏でているのは花々。
 
 そのヒビキは
 やがて

 ネの片隅から広がり、
 まるい星すべてへと広がった。

 まるく青いその星は、回りながら息づいていた。
 その星のはるかかなたには、天の川とそれを挟んで輝く星が二つあった。



 ――クシナーダは、スサノヲの妻となった。
 そのためワの女王の出現は、六十年ほど遅れることとなる。


                                  fin



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