2015年7月2日木曜日

ヤオヨロズ第3章 黄泉の扉


     1

「オシヲ、クシナーダ様を知らない?」
 ミツハに声をかけられ、オシヲはドキッとしながら足を止めた。
「あ、ああ。そういえば、さっきスクナと一緒に北田のほうへ行ったようだけど」
「呼んできてくれる? アシナヅチ様のところにご来客なの。スサノヲ様も北田にいらっしゃるはずだから、ご一緒にお呼びして」
「わかった」オシヲはミツハの頼みに応えられる喜びを胸に走り出した。とてもささやかなことだが、彼には重要なことだった。
 ミツハは十四、オシヲは十三である。幼いころから姉弟同然に育ってきたが、ある時期からミツハは巫女としての素養を見込まれ、他の子供たちとは違った育てられ方をするようになった。それ以来、若干の距離ができてしまったが、オシヲはずっと、少しだけお姉さんのミツハのことを、同じ里の中でも常に目で追いかけていた。
 おっとりとしているが、いつもにこにことして、優しい笑顔が絶えないミツハ。



 ミツハに認められる男になりたい。そんなことも、いつの間にか思うようになっていた。
 だから、イタケルにもこっそり教えてもらい、剣を使う練習もしていた。里には今、以前カナンによって殺されたオロチの兵が持っていた剣が十本ほどあった。それを使って、日々、鍛錬していた。
 ミツハや里は俺が守るんだ。そんな想いが、日々、きな臭い雰囲気が里の周辺に蔓延するにつれ、強くなっていた。
 本当はスサノヲに剣を教えてもらいたかった。しかし、カナンの兵士たちがやってきたときに見せたスサノヲの身のこなしを見たら、あまりにもすごすぎて、とてもおいそれとは頼めなかった。比較的寡黙なスサノヲには、少し近寄りがたいところもあった。
 スサノヲはすげえ、と素直にオシヲは思っている。そして、最近のスサノヲとクシナーダの様子を見ていたら、二人がとてもいい感じなのも、好ましく思っていた。
 二人はお互いを意識し合っていた。それは、はたで見ていたらわかる。どこにいても、かならずお互いの姿を眼で探している。そう、それはオシヲがミツハに対してそうだから、すぐにわかる。そして、たいていその姿を発見すると、クシナーダのほうがさりげなく近寄っていく。
 二人が寄り添って立っているのを見ていると、ふとこのままスサノヲがこの里に留まってくれて、クシナーダと結婚して、共に里を守ってくれたらいいのに、という思いが強く湧いてくる。クシナーダは里の男たち全員の憧れのようなものだったが、一方でスサノヲがクシナーダにふさわしいということも、誰もが感じていた。
 北田へ行くと、とうに収穫を終えている稲田の畔に、やはりクシナーダとスサノヲの二人の姿があった。イタケルとスクナと一緒に話し込んでいる。スサノヲとイタケルは、新しく土地を開墾しているところで、腰を下ろして休憩中といった様子だ。汗が光っている。クシナーダとスクナは、彼らに水と焼き栗を届けに来たようだ。
「たしかに今年はカメムシがひどかった。まるで俺たちが虫を養ってやってるようなもんだ」と、イタケルが焼き栗を噛みながら説明している。「――お、どした、オシヲ」
 息を切らしながら、オシヲは要件を告げた。
「少しだけ待ってくださいね」と、クシナーダ。「スサノヲも今、ちょうど休憩されたところですから」
「そのカメムシというのは?」と、スサノヲ。
「稲を食う虫だ。くっせえ臭いをひり出しやがる。臭いがついたらとれねえ」
「稲作が広がるにつれて、カメムシも繁殖するのは当たり前だよ」と、スクナが言った。
「なんかいい手はないか、スクナ」
 イタケルはずっと年下のスクナにも意見を求めている。スクナは少女でも、今や大人たちも一目を置く存在だ。薬草のことだけではなく、大陸で様々な知識を習得してきていたからだ。
 とはいえ、スクナも「うーん」と悩んでいる。
「臭い……虫」クシナーダは稲作を行う土地を見ながら、ふっとどこか遠くを見る眼差しになった。「……いいアイディアがあります」
「あ、あいであ?」と、スクナ。
「ああ、ええと、いい考えです」クシナーダは言いなおした。「畔にハッカを植えてみてください」
「ハッカ? ハッカって、なんだ」
「スクナはよく知っています。清々しい香りのする野草です」
「それを植えたらどうなるの?」と、スクナ。
「カメムシが嫌がるのではないかと」
「ほんとか、それ」
「やってみてください。スクナ、ハッカのたくさんあるところ、知っているでしょう?」
「うん、知ってる」
「イタケル、スクナや他の里の人と一緒にハッカを集めて、畔に植えるようにしてください。来年の田植えに間に合うように」
「お、おお。わかった」
 クシナーダはスサノヲを振り返った。彼女の意を察して、スサノヲは立ち上がった。二人はオシヲを促して歩き出す。
「スサノヲ、大丈夫ですか。お疲れでは」
「大丈夫だ」
 クシナーダは、今日は緋色の衣をつけていた。スサノヲは藍色の衣を。どちらもクシナーダが野草や樹木の幹や葉から取った染料で染めたものだ。
「もしかして、また未来を見たのか」並んで歩きながら、スサノヲが訊く。
「あ、ばれちゃいました?」優しく笑うクシナーダの口の中に舌が見える。「ふっと幻視がやってくるのです。未来の稲田でこんなことをしている、こんなふうになっているというのが。ええと、なんというのか、こういうのを、かんにんぐ、というらしいです」
「かんにんぐ?」
「ずるをするというようなことらしいです」
「なるほど。いつも、ずるができれば便利だな」
「必要なければ見えませんよ」
「意外に、そうやって歴史というのは作られているのかもしれぬな」
 そんな会話をしながら歩く二人は、本当の夫婦のようだった。
 歩きながらクシナーダが歌い始める。

゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ
゚・*:.。..。.:*・゚あなたの訪れ
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ

゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船
゚・*:.。..。.:*・゚長い年月
゚・*:.。..。.:*・゚ただ、あなただけ
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ

 星の物語の歌の一部だ。オシヲの胸の中にも、すっとヒビキが入ってきて、聞いているだけで癒される。クシナーダはこの歌が大好きで、幼いころからいつも歌っていた。
 クシナーダは恋をしている。オシヲは確信していた。彼女からは今、匂い立つような花の良い香りがするように思われた。全身で愛を表現している。
 その対象は、むろん、スサノヲだ。
 しかし、クシナーダのそれに比べ、スサノヲはあまりにも無愛想で、何も感じないかのように、平然とした顔をしていた。いや、そのふりをしているように思われた。
 オシヲはそんなスサノヲを見ると、後ろから蹴ってやりたくなるのだった。


 アシナヅチの居宅に近づくと、笑い声が響くのが耳に入った。中では年老いた巫女ともう一人の男が、アシナヅチと談笑していた。そのそばでミツハが柿の葉のお茶を入れている。
「あら、ナオヒ様。お早いお着きですね」クシナーダは入るなり言った。
「なんだ、クシナーダ、ナオヒが来るのを知っておったのか」と、アシナヅチが意外そうに言った。
「はい。わかっておりました」クシナーダはミツハのそばにやって来て、一緒にお茶の用意を手伝いながら続けた。「ああ、ナオヒ様のヒビキが近づいて来るな~と」
「言ってくれればよいものを」
「アシナヅチ様も気づいておられると思っておりました」
「クシナーダ、こやつもだんだん耄碌してきておるのじゃ」ナオヒは笑いながら指差した。「最近はこっちから〝語り〟かけても、ぜんぜん応えてくれん。ぼけじじいじゃな」
「なにを言う。あんたのほうこそ、わしよりも三つも年上のばばあじゃないか」
「女のほうが長生きで丈夫なんじゃよ」
 年寄り同士のなにやら異次元の会話がなされているのを聞きながら、スサノヲは老いた巫女の反対側に腰を下ろした。巫女の隣にいる男と目が合い、互いに目礼をする。三十代の壮健な男だった。
「オシヲ、お茶の葉とお湯飲みが足りないの」ミツハが戸口のところに立っているオシヲに声をかけた。「わたしの家にあるから、取りに行ってくれる?」
「ああ、いいよ」と、オシヲがよく響く声で答え、走って行った。
「ところで、ナオヒ様。アソの大巫女様がはるばるいったい何の御用で?」クシナーダはお茶を出しながら言った。



「感じるところがあってな」ナオヒはお茶の器を手に取り、目を細めてそれを飲んだ。が、飲みながらその眼はスサノヲを見つめていた。「――さぞかし猛々しいやつかと思いきや、意外にも静かなヒビキじゃな」
 自分のことを言われているのだと知り、スサノヲはただ黙って見つめ返した。
「じゃが、その静けさの中に火の山のような〝力〟がある。まるでアソのお山じゃ」
「アソ?」
「ツクシにあるものすごく大きな火の山です」と、クシナーダが説明する。
「わしはこちらへ来る間、ずっと感じておった。恐ろしく猛々しい、憎しみに満ちた〝力〟が荒れ狂っておるのを。てっきり、そなたがそれかと思うておったが、はて……?」
「フツノミタマのことでしょうか」
「クシナーダも感じておるのじゃな」
「はい。その言葉が繰り返し、繰り返し降りてくるのです。それはたぶん、今はキビのほうにあると思いますが……」クシナーダは遠慮がちにスサノヲを見た。「なにかこう、スサノヲが二人いるように思えるのです」
「俺が? 二人?」スサノヲは戸惑った。「その、フツノミタマとは?」
「わからん」と、アシナヅチが言った。「たぶん何かの憑代(よりしろ)のようなものじゃろう。わしにはそれが剣のように見える」
 ふん、とナオヒは鼻で笑った。「おや、じじいも気づいておったのか」
「当り前じゃ」
「しかし、問題はフツノミタマではなく、その〝力〟を悪しき思いで使う者がおるということじゃ。が、とりあえず、スサノヲ、そなたの姿を見て安堵したわ」
 ――剣? スサノヲの心にざわつくものがあった。
「すると、おぬしはわざわざツクシから、スサノヲの顔を見に参ったのか」
「ああ、うるさいじじいじゃ。そればかりではないわい」
 二人はあきらかに互いにじゃれ合うように揶揄し合っていた。それが二人なりの楽しいやり取りなのだ。
 そこへオシヲがお茶の葉と器を持って戻ってきた。クシナーダがミツハとお茶を用意しようとすると、その背にナオヒが言った。
「クシナーダ、聞いておくれ」
「はい」手を止めて、振り返る。
 オシヲが代わって、ミツハの手伝いをする。
「ツクシの争いは、それはひどいものじゃ。毎日毎日、各地で土地の奪い合いをしておる。ナの国も、イト国も、この争いを抑えることができぬ。ことに昔からツクシに住むクナ国との争いは、まこと惨いものじゃ」
「痛ましいことです」クシナーダの声も沈んだ。
「わしらは今日、ツクシを代表してここへ参った。この者は、イト国の皇子(みこ)、ニギヒじゃ」
 ミツハやオシヲが驚きに手を止めた。ニギヒはあらためてクシナーダに会釈をし、クシナーダは深く頭を下げた。
「この百年じゃ。大陸から雪崩を打つように、多くの民やモノが流れ込んできた。あまりにも急な変化はさまざまな軋轢を引き起こす。変化を受け入れ、あわよくば利益を得ようとする者。あるいは変化を拒み、それまでの暮らしにしがみつく者。どちらにせよ、対立と分裂が生まれてしまう。このままではワの国は、二つに引き裂かれるじゃろう。東西、あるいは南北に。もともとワの民として、共に生きてきたわれらが、争い合い、憎み合い、それをずっと繰り返すようになるやもしれん」
「まことに憂慮すべき事態です」と、ニギヒが後を続けた。「このままで良いとはだれも思うておりませぬ。が、止める手だてがございませぬ」
「そこでイト国王は、このニギヒをわしのところへ遣わした。ツクシの中で、イト国がいわば渡来した者たちの代表、わしはもともとワの国に住まう者の代表というわけじゃ」
「では、大巫女様とイト国との間で良いお話ができたのでは?」
「なかなか簡単ではない。ことはツクシだけでは収まらぬ。もうそういう時代ではないのじゃ、クシナーダ」
「と申されますと?」
「ツクシではもう殺し合いが過ぎておる。家族や愛する者を殺されたから相手を殺す。そうしたら、また相手から殺し返される。そのような憎しみの連鎖が続きすぎておる」
「それでも、ナオヒ様が大巫女として剣を収めるように命じられたら……」
「わしとて、過去に幾度もそうして骨を折ってきたのじゃ。戦をやめるための協定は幾度も結ばれたが、その都度、破られてきた。土地が生む利益を求める欲が取り決めを破らせ、あるいは過去の怨讐がアソの噴火のように起きてな。今さらイトがわしを立てたところで、周囲は決して納得はせぬ。多くの者は、わしがいいように利用されたと思うじゃろう。この通りの年寄りじゃしな」
「かといって、われら渡来系の国々がこのまま力で覇権を広げることも愚策です」と、ニギヒ。
「そこでじゃ、クシナーダ、そなたに頼みがあるのじゃ」
「いやです」
 は? というような空気が室内に広がった。ミツハやオシヲはお茶を全ての人間に出し終えるところだったが、そのまま固まってしまう。
「まだ何も言うておらぬじゃろう……」
「いやです」クシナーダは堅い表情のまま、きっぱりと言い切った。
「まいったわ、こりゃ……」
 ナオヒは苦笑して、珍しく救いを求めるようにアシナヅチを見た。が、当のアシナヅチは眼をあらぬ方に向け、素知らぬ顔をした。
「クシナーダ様」めげない意志を見せたのか、あるいは鈍感なのか、ニギヒが言った。「どうか、ワの国全体の女王になっていただけないでしょうか」
 この申し出に度肝を抜かれたのは、ミツハやオシヲだった。スサノヲもさすがに想定外のことだった。しかし、クシナーダは頑なな姿勢を崩さなかった。
「ですから、お断り申し上げております」
「なぜですか。あなたは今のこのワの国の至宝です。ツクシだけでない、このナカの国やイヨ、あるいはヤマトの先にある東国でさえ、あなたが女王として立つのであれば納得するかもしれない。それで多くの者が救われるのですよ」
「ニギヒ様」
「は、はい」
「それでは逆にお尋ねいたしますが、ニギヒ様がこれから後の人生、皇子としての地位を捨てて、ただ一人のワの民として生きろと言われて、それはおできになりますか」
「それは……」
「そうすれば民が救われます」
「ならば……そのように致します」
「ご立派なお心がけです。しかし、生涯、たた一人で生きなければなりませぬ。それでも、おできになられますか。どのような伴侶も娶らず、生涯をただ一人で終えるのです」
「それは……しかし、それで民が救われるのなら」
「あなた様はとても高貴なお考えをお持ちの方でいらっしゃいます。素晴らしいお方です。しかし、ニギヒ様、それは言葉でいうほど簡単なことではございません。人は普通に誰かに出会い、そして誰かを愛するものだからです。わたくしには以前からわかっておりました。わたくしの未来には、大きく二つの選択肢があることを。その一つを、今日、お二人がお持ちになりました。その未来を選択した場合、わたくしがどのような命運を辿っていくか、おおよそのことはわかっています。幼いころからわたくしは、その日が来ないことをずっと祈っておりました」
 じっと見つめていたナオヒは、ちらっとクシナーダの隣のスサノヲを見、いきなり笑い出した。「そうか! そうであったか! はっはっはっは。このナオヒ、とんだ無粋者じゃ! なあ、アシナヅチ」
「まあ、そういうことじゃな」そう言いながら、アシナヅチの視線もクシナーダとスサノヲの間を行き来した。
「では、どうしてもお受けくださらないと……」ニギヒは落胆を隠せなかった。
「俺のような部外者が口を挟んでもよいか」
 スサノヲが珍しく口を開き、周囲を驚かせた。
「そなたらは人の命を盾に、クシナーダに要求を突き付けている。ワの国の戦争で死ぬ者がいる。それが救われる。だから、ワの女王になれと。それはこのトリカミの里や巫女の命を盾にとって支配を広げてきたカガチのやり口と、どう違うのだ」
 それはまったく意表を突く、重い衝撃を伴った指摘だった。ニギヒは言葉を失い、狼狽した。
「……いや、形はそうでも、カガチとはまったく考えは違う。われらには大きな理想がある。カガチは自分が支配したいだけだ」
「たしかに、そなたらはこの国を平和にしたいのであろう。しかし、クシナーダにこの戦乱の何の責があろう? そなたらの言い分は、クシナーダ個人の願いとか夢を犠牲にして成り立つものだ。まして、クシナーダが女王になったところで、本当に争いがなくなるのか? それははなはだ疑問に思える」
「スサノヲの言う通りじゃ」ナオヒは言った。「クナ国はおそらく誰が女王になろうと、簡単には和することはあるまい。東国もしかりじゃ」
「まして、カガチがクシナーダ女王を承認するはずがない」アシナヅチも口添えした。「それに、先来、渡来したカナンじゃ。唯一の神を信奉する彼らは、これには絶対に従うまい」
「カナン……。聞き及んでおります」と、ニギヒ。
「クシナーダを女王に担げば、むしろいっそうこのナカの国の争いに火をつけ、とてつもない混乱と人の死が生まれるのではないか。クシナーダはそういったこともわかっているのだろう」と、スサノヲは娘を見た。「彼女は心優しい娘(こ)だ。人の命がかかっていると言われているのに、そなたらの申し出を断るのも、本当はすごく傷ついているはず。よほど思うところがあるのだ。それをわかってやってはくれまいか」
「ニギヒ、この話はもうやめじゃ!」ナオヒが笑顔で言った。
「わかりました」と、ニギヒも折れた。
「しかし、スサノヲ」ナオヒはずいっと前に出た。「そなた、自分のことを部外者と言うな」
「……流れ着いた者ゆえに」
「気持ちを察さねばならぬのは、そなたのほうかもしれぬな」そう言って、ナオヒは豪快に笑った。「アシナヅチ、わしはしばらくここで厄介になるぞ。なにやら、これから面白くなりそうじゃからのぉ」


     2

「スサノヲ様」
 呼び止められたのは、その日の夕刻だった。トリカミでは、食事は毎回、里人全員のものが共同で作られる。収穫が多いときも少ないときも、それを分け合って食べるのだ。その用意がなされていた。
 通りかかった彼を呼び止めたのは、ミツハだった。彼女は抱えていた山芋をその場に置くと、小走りに近づいてきた。
「どうした」
「あの」ミツハは眼を輝かせながら無邪気に言った。「ありがとうございます」
「なんのことだ」
「さきほど、クシナーダ様のことをかばっていただきました」
「ああ」なんのことかと思えば、という感じで、スサノヲはむしろ意外に感じながら応えた。「かばうというほどのこともない」
「いえ。クシナーダ様は本当に喜んでおられました。スサノヲ様にああ言っていただいたことが、とてもうれしかったのだと思います」
「そうか」
「わたしも、とてもうれしゅうございました。ありがとうございました」
「あ、ああ」
「クシナーダ様を呼んできてくださいますか。もうすぐ晩御飯ですから」
「わかった」
 ミツハはぺこりと頭を下げ、走って戻って行った。食事の用意をしている女たちの中へ入って行き、笑いながら山芋を洗いはじめる。
 無邪気な少女だ。素直な感情にあふれた表情がまぶしいほどだ。
「かわいい乙女じゃな」いつの間にかやってきたナオヒが言った。そしてすごくまじめな顔で続けた。「わしにもああいう時があった」
「…………」
「なんとか言え」
「いや……どう反応していいか、わからなかった」
「小憎たらしいやつじゃ」笑いながらナオヒは持っていた杖で、スサノヲの尻を軽く叩いた。「天界から降った身には、地上の民などはかなく脆い命に見えるのじゃろうな」
 その通りだった。
「その代償じゃろうな。そなたにはまだ大事なものがちゃんと備わっておらぬ」
「大事なもの?」
「感情じゃよ」
 思いがけぬ指摘を受け、スサノヲは言葉に詰まった。昼間の意趣返しをされたようなものだった。
「それゆえに、そなたはこの地上で生きる人としては、はなはだ不完全じゃ。自分が空っぽだと感じるのではないか。ああして笑い、そしてあのように泣き……」
 子供たちが喧嘩して、一人が泣いている。母親が駆け寄って行くのが見えた。
「そんな感情を人が持つのはなぜなのか。なぜ人はこの世に生まれるのか。よく考えてみることじゃな」
 ナオヒは謎かけをして、ひょこひょこ歩いて夕食の席に向かった。
 スサノヲはクシナーダの居宅へ向かった。ナオヒから受けた指摘は、痛いところを突くもので、彼の胸の中でじわっと根を張った。
 クシナーダは家の前にいた。大きな釜状の土器を火にかけ、その中で煮ているものを棒でかき回していた。もう夕刻は冷え込みが厳しいが、大きな焚火のそばで動いているので、彼女は額に汗を浮かべていた。
「あら、スサノヲ」彼女はすぐに気づいて、作業の手を止めた。手の甲で額の汗を拭う。
「精が出るな。また衣を染めているのか」
 大きな土鍋の中は、樹木の果実と麻の繊維でできた衣類だ。それを一緒に煮炊きして、色を付けているのだ。
「はい。今日はクチナシの実で、黄色のいい色合いに染まりそうです」



「好きだな、衣に色を付けるのが」
「だって、楽しいじゃありませんか。いろいろな色があったほうが」
「いろいろあったほうが……そういうものか。いつだったか、イタケルは自分がワの国を一色に染めるとか言っていたが」
「それはつまらなくないでしょうか」
「つまらない?」
「全部が同じ色になってはつまらないと思いませんか。赤や青や緑や黄、黒や白……いろいろあるから楽しいし、面白いものです」
「なるほど」スサノヲは納得した。たしかにその通りだ。
「スサノヲはどの色がお好きですか」
「ああ? いや、俺はべつになんでも……」
「わたくしは赤や緋色が好きです。スサノヲは緑や藍の色がよくお似合いですよ」
「そうか?」
「はい」
 いつも彼女は、「はい」という言葉をそっと差し出すように言う。そのヒビキが、どれほどスサノヲの胸の中で、おかしな反応を起こしているかも知らずに。
「そうだ。ミツハに言われてきたんだった。晩御飯だから呼んでくるように」
「はい。もういい頃ですから、衣を引き揚げます」
「ああ、それは俺がやろう」スサノヲは手を差し出した。
 彼女は「では、お願いいたします」と、手にしていた棒を渡した。
 沸き立っている土鍋の中から、熱された衣を棒でひっかけて引き揚げる。衣はものすごい湯気を立てながら、一度、近くの岩の上に置かれて熱を冷まされる。十枚ほどの衣を引き揚げ、クシナーダは杓で水をかけ、土鍋の下の火を消した。
 それから二人は並んで、夕食の席に向かった。
「あら……」その途中、クシナーダが空を仰いだ。上に向けた彼女の掌に、雪が舞い落ちてきていた。「寒い寒いと思ったら、雪ですわ」
「これが……雪というものか」
「初めてご覧になりますの?」
「ああ」と、スサノヲも手で受けるようにした。「遠くの山々にある雪は見たことがあるが、俺はずっと南のほうを通って来たので、こうして見るのは初めてだ」
「そうですか」
 掌に落ちては、すぐに水となって消える結晶。スサノヲはそれをしばらく見つめていた。「はかないものだな……」
「人の命のように?」
 ギクッとさせられる言葉だった。さきほどのナオヒの言葉といい、クシナーダもスサノヲの心を見通しているのかもしれなかった。
「もうすぐですね」ふっと、クシナーダの声音に翳りが生じた。
「?」
「スサノヲがヨミへ行く日です。あと、十日もしたら、一番日の短い季節の新月です」
 ああ、とスサノヲはうなずいた。
「どうしても行かれるのですか」
「気持ちは変わらない」
「かならず……戻ってきてくださいね」クシナーダは両手を胸の前で結びあわせていた。声音にも必死なものが滲んだ。「かならず、ですよ」
「わかった」
「約束してください」
「約束する」そう言いながら、スサノヲはちょっと歩みをゆるめた。「一つ、訊いても良いか」
「はい。なんでしょう」彼女も歩みを遅くした。
「昼間言っていたことだ。そなたには大きく分けて二つの未来があると。その一つはワの女王になることだった。もう一つの未来は、どのような未来なのだ」
「お昼間のお話を聞いてくださっていたのなら、おわかりくださるかと……」クシナーダの頬がみるみる紅潮した。「わたくしにも、未来のことが詳しく見えているわけではございません。こと、自分のことはよくわかりません。ただ、誰かのそばで生きるということはわかります」
「それが誰かということは?」
「わかりません。ただ……」クシナーダは歩みを止めた。
 見えない糸に引かれるようにスサノヲも立ち止まった。
「未来というものは、今すでに固まって存在しているものではございません。わたくしたちが見るのは、そのいくつかの可能性の断片に過ぎません。今が未来を創造するのです。それはスサノヲもよくご存じのこと」
「いかにも。未来はあいまいに漂っているものだ」
「ですから、後悔することのない選択を、わたくしは今この瞬間にしたいのです」
 伏し目がちだったクシナーダは、はっきりと眼差しを上げた。その瞳に満ち溢れるものに、スサノヲは胸の芯をぎゅっとつかまれた気がした。
「それが誰かということではなく、わたくしは決めてございます」
「決めて?」
「はい……。わたくしはもう自分のすべてを捧げる方を決めております」
 クシナーダはじっとスサノヲ見つめ続けていた。その眼差しの意味するところものは、いかに彼が鈍感だとしても伝わった。いや、とっくに伝わっていたものだった。
 二人の間に、雪はいっそう、白い妖精のように、無数に舞い落ちてくる。
「クシナーダ……」
「はい……」
「この里は、いいところだ」
 彼女にしてみれば一世一代の告白を行ったのと同じだった。その返答を身を縮めるようにして待っていたのに、スサノヲのその言葉は彼女を戸惑わせた。
「豊かで、実りも多く、そして何よりも皆、親切でいい人ばかりだ。心が安らぐ……」スサノヲは里の中心に集まっていく人たちを見ていた。「地に降りて以来、長く旅してきたが、そんなことを思ったのはここが初めてだ。ここを守りたい。俺は心からそう思っている」
 スサノヲが視線を戻すと、クシナーダは胸の前で両手を組み合わせたままで、息もしていないかのようだった。
「だが、俺が一番大事に思っているのはそなただ」
 クシナーダの眼は大きく見開かれ、それからゆっくりと柔雪(やわゆき)が溶けるように、表情に鮮やかなものが広がって行った。
「俺はヨミからかならず戻ってくる。だから……」スサノヲは言葉を探した。「待っていてくれるか」
 大きくうなずいた瞬間、クシナーダの瞳から溢れたものが零れ落ちた。喜びの涙だった。
「はい……。信じてお待ちいたします」
 二人の距離は近くなった。眼と眼と合わせ、そして口づけを交わした。夕闇の中、小柄なクシナーダの身体が、背の高いスサノヲにぶら下がるように懸命に伸びあがる。
 そんな二人の姿を、少し離れた茂みの影から、イタケルとスクナが見ていた。
 スクナはイタケルを振り返り、にっこり笑った。「やったね」
 イタケルは仏頂面だった。
「なに? 妬いてるの?」
「違うわい。俺はクシナーダの姉ちゃんに頼まれてたんだ。妹が幸せになれるように、見守ってくれと」
「クシナーダの姉ちゃん?」
「アワジという、俺と同い年の娘だった。行くぜ」
 スクナは首根っこをつかまれ、引きずられていった。


 ――カヤがカガチによって奪還されて半月、戦局は膠着状態だった。
 しかし、それは意図的に演出されたものだった。カガチはほぼ完成を見たキビの山城に拠点を置き、その北にあるカヤに大軍を終結させた。一方、オロチ本国のタジマとも頻繁に情報のやり取りをし、周到な根回しを行っていた。
 それはイズモに拠点を置くカナンを完全に殲滅させるための準備だった。
「ヤマトのイスズ様がお見えになられました」
 知らせが届いたのは、その準備がほぼ整いつつある頃だった。カガチは配下のイオリとキビの巫女や首長たちを集め、酒宴を行っていた。隣にはヨサミをはべらせていた。
「イスズ様が?」
 驚いて腰を浮かせたのは、巫女のシキとイズミだった。
 現れたイスズはその二人と真っ先に目を合わせ、それから冷たい雰囲気の中で行われている酒宴の中へ入ってきた。カガチの前に進み出て座る。
「おまえは来ぬと思うておったが」盃を口に運びながら、黒頭巾のカガチは言った。「来なければ、お前やヤマトの命運もそれまでのことではあった。……だが、どういう風の吹き回しだ」



 イスズの切れ長の目の奥には、深い淵のような艶やかなものが光っていた。その光が、カガチの巨躯の奥にあるものを透視するようだった。
「わたくしが駆け付けたのは従妹たちの身が案じられただけのこと」
「そうか。そういえば、シキやイズミとはそういう関係だったな」
 キビの巫女たちの内、シキとイズミはもともとヤマトやカワチなどと密接な縁故があった。キビの勢力が強大になり、東への影響力を強めていったとき、ヤマトを中心とする勢力との間に、瀬戸内の支配権も含め、良好な関係を保つために婚姻関係が結ばれた。シキの母とイスズの母は姉妹であったし、イズミの父親もその弟にあたる。
 シキやイズミという名も、それぞれの親の縁ある土地から取ったものだ。
「手ぶらでは来ておりませぬ。首長のトミヒコは残らせましたが、国の兵(つわもの)を五十名、連れてまいりました」
「たった五十か。が、まあよかろう。もうじきカナンどもを皆殺しにする大戦(おおいくさ)を始める」
 カガチの空になった盃に、ヨサミが酒を注いだ。その仕草は、もはや巫女のものではなく、女のものだった。
「イスズ、おまえも戦に参加するのだ。なに、剣を取れとは言わぬ。国の主(あるじ)として兵士を鼓舞すれば良い」
「わたくしが?」
「皆、そうしてもらう。タジマのアカルも、おそらく明日には到着するだろう」
「アカル様も?」イスズの顔に疑念が広がった。「そのようにしてまで、わたくしたちを集めなければならぬ理由はなんなのです」
「戦いに勝利するためよ。言うまでもなかろう」
「わたくしには、あなたが大きな〝力〟を得ているように思います。その〝力〟をもってすれば、カナンを滅ぼすことなど造作もないのでは」
「そうかもしれぬな」ふんと、カガチが笑った。「だから、どうだというのだ」
「〝力〟を得た代償に、人心を失いましたか。そのためにさらなる人質が必要なのでしょう」
「人心など、もともと俺に執着はない。従わぬ者は殺す。ただそれだけのこと」
「何が本当の狙いなのです」
「おまえらは、俺の言うとおりにしておれば良い」
 イスズは音もなく腰を上げ、そして告げた。「これ以上、トリカミには触れてはなりませぬ。それをお約束ください。でなければ、わたくしは兵を引き上げさせます」
「やってみろ……」むしろカガチは静かな調子で、しかも陶然と何かに酔うような調子で言った。「好きなようにしろ。だが、言っておく。おまえらが俺に指図できることなど、何一つないのだ。おまえらが俺に背くなら、この冬もトリカミの巫女……一人、殺す」
 イスズの顔は、かすかに蒼ざめた。それはカガチの発する邪気が、あまりにも濃いものだったからだ。



「トリカミ、トリカミ。何かと言えば、おまえらはあの地のことを口にする」
 ヨサミはカガチの言葉を褥(しとね)の上で聞いていた。何か返そうとしても、まだ息が荒くて声も出せない。すっかり身体がなじんでしまった、とヨサミは感じていた。カガチの荒々しい愛撫や交合にである。
 もはや苦痛はなく、むしろ悦びさえ覚えている自分が恐ろしかった。それは以前にも増して、自分を責めさいなむ罪悪感を生み出していた。
「なにがあそこにあるのだ」隣で横たわるカガチが尋ねる。
「……知りませぬ」ようやく声を発することができた。
「そうかな? タジマのアカルは何かを知っていた。俺がイズモへ支配を広げようとしたとき、アカルはトリカミだけには触れるなと、あのイスズのように言っていた」
 岩を削ったようなカガチの手と指が視野を多い、ヨサミの顔をつかんだ。みしっと頭蓋骨がたわむほどの力だった。顔を向けさせられる。
「ワの民の間には、トリカミが失われたとき、恐ろしい〝力〟が解き放たれるという言い伝えがあるそうだな。それは真実(まこと)なのか」
「ただの言い伝え。わたしは知りませぬ」ヨサミは指の間から、カガチの顔を見て言った。「知っているのなら、もはやカガチ様には隠しませぬ」
 ふん、とカガチは笑い、手を外した。型と痛みが残った。
「おまえたちが守ろうとするトリカミだからこそ、俺はこれまで支配に利用してきた。だが、もはやそのような必要はない。俺には大きな〝力〟がある」
「……トリカミをどうなるのですか」ヨサミは甘えるよう仕草で、カガチの胸板に手と顔を寄せた。
「カナンを滅ぼすためには、あの地を素通りにはできぬ。予定通り、次の新月の日を持って、イズモのカナンどもに攻勢をかける。だが、もし……そのような恐ろしい〝力〟があの地にあるのなら、見てみたいものだな」
 カガチは牙をむき出し、笑った。その男の胸で、ヨサミは体が芯から凍えて行く心地を味わっていた。


     3

 西の海峡ナガトを迂回し、大小さまざまな島々が美しく生み落されている内海を抜け、ようやく目的地にたどり着いたとき、アカルは驚きを感じた。
 コジマのわきを抜け、穴海にそそぐ川を遡り、港に到着して見た風景。
 その目の前に開けるキビの風景の明るさに驚きを感じたのだ。タジマとはまったく異なる豊かな広がりを持つ、ある種の包容力のようなものが土地にあった。タジマやイナバなどを陰とすれば、このキビには明瞭な陽の〝気〟がみなぎっていた。
 しかし、よく見れば、そんな豊かなキビの風景には、あちこちに毀(こぼ)れ落ちたような無残な部分があった。緑を失い山肌を露出した、寒々とした山々。中には土砂崩れが起きたことをうかがわせるものもある。クロガネ作りの燃料のために乱伐した結果だということは想像がついた。
 衛兵たちに案内され、向かったのは巨大な山城だった。中心部のアゾの国から背後の山々へ分け入っていく。急こう配を昇る道もあり、肉体的に強いほうではないアカルは、何度も休まねばならなかった。途中には何カ所も攻め込んでくる敵に対して岩を落とす仕掛けがあり、要所には小さな砦に匹敵するような門も設けられていた。警備はとてつもなく厳重だった。
 難攻不落の山城といってもいいだろう。スケールが他の砦とはまったく異なる。
 カガチがやがて次なる本拠とすべく、この十年ほどをかけて造営してきたものだけのことはある。ようやく山の頂に出ると、峰の続きにカガチの居城が見えた。そこが最後の道のりだった。

 山城に辿り着くと、眼下にはキビの平野を一望にできる風景が広がっていた。その美しさに息を呑まされる。
「ようよう着いたか」
 カガチは上機嫌だった。若い娘をかわたらにはべらせ、昼から酒を呑み、軍議の最中だった。呑んではいるが、酔っている様子もない。
 彼の周辺にはそうそうたる顔触れがそろっていた。このキビの首長たち、巫女たちはもちろん、近隣の支配地から集めた軍勢の指揮官たちだった。その中に、ヤマトの巫女、イスズの顔もあることを知り、アカルはこれもまた驚きに打たれた。
 タジマとヤマトは昔から密接な関係にある。イスズとアカルはともに三十。同じ年に生まれた巫女であり、過去に幾度か面談を持ったこともあるし、意識の中では時折、通じ合っていた。彼女らは離れていても、時に応じては相手のことをわかることができた。
 しかし、イスズがこのキビに呼ばれることはあっても、よもやカガチに協力することはあるまいと思っていたのだ。カガチの強圧的な支配にやむなく組み込まれた形になっていたが、イスズのヤマトはこのキビのような絶対支配を受けるところまでは至っていなかったからだ。
 ――なぜ、イスズ様が。
 そう問いかけたい想いに駆られたが、当のイスズは目を伏せ、意識も閉ざしていた。
「遅くなりました。船旅をお許し下さり、ありがとうございます」と、アカルは礼の口上を述べた。
「おまえは体が弱いからな。タジマの軍はもはや準備が整っておろうな」
「ミカソ様と共にすでに大山(だいせん)の麓に集結しておりましょう」
「水軍は?」
「とうにイナサのあたりで待機しております。いつでも中海(なかうみ)に攻め込めましょう」
「よかろう。これですべての駒が揃った――。コジマの水軍からも、明日にはイズモ沖へ到達するという連絡があった」
 ナツソが巫女としてあるキビのコジマの軍勢とは、アカルは途中ですれ違っていた。その時は、まだこの内海の範疇だったが、外海へ出れば、潮の流れに乗ってイズモ沖へ到達するのは早い。



 ※ この時点でのカナンの本陣は、トリカミの里の北、意宇(おう)の湖(宍道湖)の近くにあり、現島根県の県境付近での勢力を維持していた。カガチの作戦の目的はこれを四方から攻めて、殲滅することにある。


「明後日は新月。これで予定通りのカナン攻略に打って出られる」そう言いながら、カガチはかたわらの娘を見た。「のう、ヨサミ。待ちに待った時じゃ」
 ヨサミと呼ばれた娘には隠しがたい巫女的な所作が見られた。が、カガチのそばにいる彼女は、カナン殲滅作戦の話を楽しむかのような表情で聞いていた。
「今日よりわれらもイズモへ向かって進軍する。同時に大山の麓からミカソの軍が侵攻する。カナンも馬鹿ではなかろう。おそらくわれらの動向に気づき、阻止しようと戦力を振り向けてくる。そこが付け目。東と南の防衛線を維持するので精いっぱいとなったカナンの背後を、タジマの水軍とコジマの水軍が突く。カナンどもは総崩れになるだろう」
 ふふ、とヨサミは笑った。少し神経的な笑いだった。
 カガチの用意した作戦は、イズモを中心として支配を拡大しようとするカナンを完全に包囲するものだった。
 巫女たちは例外なく、この場に居合わせるだけで気分が悪くなるような想いに耐えていた。それはものすごい悪臭を発するもののそばに寄るのと同じだ。
 カガチは怨念的な〝力〟の集合体のようなものだった。彼がもともと潜在させていた憎悪と欲望が、今はとてつもない熾烈なレベルにまで高められていた。その影響のために、巫女たちは胸がむかつき、ひどい頭痛に襲われていた。彼女らがもともと持つべきヒビキと、カガチの発するヒビキは、まったく相容れぬものだからだ。清浄なる〝気〟が、悪しきおぞましい〝気〟で汚染されそうになる。
 アカルは必死になって自らを守らねばならなかった。ただ、この場にいるというだけでだ。自然と巫女たちは自らのまわりに「結界」を張り、カガチの〝気〟からの影響をかろうじて排していた。
 なぜこのようなことになってしまったのか。
 アカルは変貌を遂げてしまったカガチを前に、自問せずにはおれなかった。


 あの日からすべてが始まった――。
 カガチと出会った、あの日から。
 ――なぜ自分はあの男を助けてしまったのだろう。
 アカルは今に至るまでに、何十回何百回とそれを自問していた。その自問とともに蘇えって来るのは、十六年前の邂逅だった。
 アカルはもともとタジマ、タンゴあたりを支配する海族の巫女である。この海族の聖地がタンゴの沖合に浮かぶ冠島(かんむりじま)である。毎年一回、必ずその島で執り行われる儀式があり、当時巫女として立ったばかりのアカルは、生まれて初めてその島での祭祀を執り行った。
 そして帰還しようとしたその時、島の岩礁に打ち上げられた人影があることに気付いた。それがカガチだった。ぼろぼろの身なりで、生きているのが不思議なほど、痩せこけていた。
 冠島は神の島であり、基本的には無人島である。放置しておけば、死んでしまうのは明らかだった。アカルは伴の者に命じて、カガチを連れ帰った。
 カガチは翌日、意識を回復した。その知らせを受け、彼の様子を伺いに出向いたとき――。
 そう、そのときだったのだ。
 カガチはその眼を大きく見開き、しばらくアカルの顔を食い入るように見つめていた。信じられないものを目の当たりにしたという表情であり、彼の唇が何かをつぶやいて動いた。



「どうされました」
 アカルのその質問に、カガチは答えなかった。おそらくカガチは、アカルよりは二つか三つほど年上だった。アカルは当時、まだ十四。若い巫女の顔立ちの中に彼が見出したものがなんだったのか。今に至るも、その驚きの意味は伝えられていない。
 大陸を追われて逃げてきた。家族は皆、殺された。
 彼が言葉少なに語った事情に同情したアカルの父、タジマの首長が彼をみずからのもとで登用しようとしたとき、アカルは言い知れぬ胸騒ぎのようなものを感じた。それは明らかに巫女としての直観が、未来に抱かせた鋭い不安であり、警告だった。
 だが、アカルは父にそれをやめさせることができなかった。カガチと顔を合わせるたび、彼の眼の中にある憂愁の光が、初めて目と目を合わせたときの、あの彼の表情を思い出させたからだった。
 アカルの中に、何かを見出した。何かを必死に求めている。
 そんな若者の表情だ。
 カガチは製鉄の技術を持っていた。それだけではなく、非常に勇猛な男だった。年齢にしては体格も非常に大きく、その当時、ワカサで起きていた部族間の争いを、父の号令に従って見事に鎮圧してしまった。その功績を評価され、カガチはワカサ付近の国々を任されるようになり、そこを中心におもに北へ支配を広げた。その支配権の拡大は、しゃにむなものであり、カガチはみずからの国に「オロチ」という名を掲げた。
 タジマやイナバでは、タタラ場が次々に増産され、その鉄生産の〝力〟を背景に、カガチは支配を伸ばし続けた。カガチに協力的だったアカルの父も、この頃になると大きな懸念を抱くようになっていた。タジマがオロチの属国化しつつあったからだ。
 だが、その懸念を抱いたまま、父は病でこの世を去った。
 その瞬間に、タジマ・タンゴはカガチによって取り込まれてしまった。もはや彼に相対しうるほどの力の持ち主は存在せず、またたくまにカガチはホウキ(大山付近)あたりまでの領地を掌中にし、さらに鉄生産に拍車をかけ、その労働力を確保するために、オウミやヤマト、ヒメジなどへと手を伸ばし、そして最終的にキビをも支配下に収めて行った。
 この六、七年の間には、イズモに根強くあった勢力を排し、鉄資源の豊富なイズモに拡張しようとしていた。それがこの十六年の間に起きたことだ。
 彼にとって計算になかったのは、カナンの渡来であったろう。イズモ各地に建設していた新しいタタラ場の数々も奪われ、支配権はホウキあたりまで後退させられていた。
 カガチはそれを奪い返そうとしている。
 いや、カナンを完全に殲滅しようとしている。

 ――多くの者が死ぬだろう。
 アカルは暗雲が垂れ込めるような未来を見ていた。その下には、累々たる屍が横たわっている。それはもはや動かしがたい未来に思えた。
 今のこの事態、そしてこれからの未来。
 アカルはそのすべてに大きな責任があった。
 あのときの、カガチの瞳の中にあったもの。
 たったそれだけ。その一つのことだけが、なぜかアカルの心をつかんで離さないのだ。
 自分が冠島でカガチを助けさえしなければ。
 カガチを登用しようとした父に警告さえ与えていれば。

 今のすべてはなかった。



 カガチ軍は山城を出立した。
 アカルは他の巫女たちと共に、部隊の中ほどに用意された御輿(みこし)に乗せられた。御輿は二つ用意され、アカルはイスズ、ナツソと共に、もう一つの御輿にはアナト、シキ、イズミらが乗せられた。運んでいるのは、彼女らの国から徴用されている兵士だ。
 すぐそばを、一人の男が両手を背後で縛られた状態で歩かされていた。身に付けている衣類はぼろぼろで、あちこちに血が滲んでいた。黒髪黒眼だったが、どことなく異国人らしい容貌に見えた。
 歩くのが精いっぱいで、兵士に鞭打たれている。
「カナンの捕虜にございます」ナツソが言った。
 アカルやイスズが、その者を注視しているのに気づいてのことだった。
「たしか、モルデとかいいました」
「なぜ、あのような捕虜まで連れて行くのです?」アカルは尋ねた。
「わかりませぬ。ただ、あの者はカナンの捕虜の中でも、かなり地位の高いものと思われています。カガチはたぶん利用価値があると考えているのではないでしょうか」
「交渉に使うつもりでしょうか」
「おそらく違うでしょう」イスズが言った。「カガチはもっと邪悪な考えがあると思います」
「と仰いますと?」ナツソが訊いた。
「あの者からは、彼の愛する者への想いが溢れています。あの者はおそらく、カナンの姫君……たしかエステルといいましたか、その御方を愛しているのです」
 アカルは舌を巻いた。イスズは読心にも長けている巫女だ。
「カガチはそれを知っているのか、あるいは読み取っているのです」
「読み取って?」
「カガチには以前になかった〝力〟を感じます。一つは彼が帯びている剣、もう一つはわたくしどもにも似た〝力〟です」
「それは……」ナツソの表情が曇った。「おそらく、ヨサミの〝力〟だと思います」
「あのカガチの隣にいる巫女ですね」
 イスズとナツソの会話から、アカルもその娘が巫女だという事実を知った。が、巫女というには、すでに……。
「ヨサミはカナンによって父母、カヤの国の同胞(はらから)を皆、殺されました。ヨサミは復讐のために、カガチにみずからのすべてを捧げたのです。ヨサミは読心もできますし、先視(さきみ)もできます」
「その〝力〟は、おそらく剣の〝力〟によって、何倍にも高められているのでしょう」
「イスズ様、カガチはなぜあのようになってしまったのでしょうか。以前より恐ろしいものを秘めた方でした。が、今のカガチはまさに鬼神そのもの……」
「あの剣がカガチを変えたのです」と言ったのは、アカルだった。「カガチが帯びている剣は難破船と共に漂着したもの。わたしたちが作っているような、クロガネの剣ではありませぬ。あれはたぶん、この世のものではない霊剣です」
「やりそうですか」イスズが言った。「フツノミタマの剣。そのような言葉が、ずっと降りてきていました。あれは荒ぶる神の剣です」
「カガチは……もともと大陸の戦乱の中で肉親を殺され、半島を小舟で脱出してきた者です」アカルはみずからの知りうることを話した。「カガチはこの十数年、支配を広げてきましたが、それはいつか肉親を殺した大陸の国家に復讐するため……」
「その怨念でヨサミとカガチは結びついたということでしょうか」と、ナツソ。
「おそらくそうでしょう」イスズが冷静に言った。「鬼というものは、人の欲が生み出すものです。多くは切実なものです。たとえば飢えです。腹を空かせ、食べたいと思う欲求。あるいは眠りたいとか、あるいは愛欲などもそうです。これらは人間の生理に沿ったもので、否定できないものです。カガチは半島を逃げ出してくるときに、多くの悲しみや憎しみと共に、生き抜きたい、という本質的な欲求を強く抱くようになっていたのでしょう」
「それは……わかります」アカルはうなずいた。「タジマへ来て以来、カガチはこの地で生きて行くため、必死であったと感じます」
「鬼は欲望そのもの。誰しも鬼を心の奥底に飼っているのです。カガチの場合は、復讐への欲求があまりに強く、それが彼の今までの行動であったことは、わたくしも感じています。たぶん、フツノミタマの剣の〝力〟が、彼の中の非常に強い憎しみや本質的な欲求を膨れ上がらせてしまったのでしょう」
「そして、カガチは鬼になった……」ぶるっと、ナツソは身を震わせた。
 キビの巫女たちは、最年長のアナトでさえ、イスズやアカルより年下だった。まだまだ少女らしい感性や未成熟なところを残していた。
 アカルは自分たちよりも年下で、しかし、すでにはるかに自分の精神(こころ)を凌駕している巫女には、ただ一人しか出会ったことがなかった。
 トリカミの里のクシナーダだった。出会ったのは六年ほど前で、クシナーダはまだ十歳ほどの少女だった。だが、そのときでさえ、すでに「かなわない」と感じた。
 ――あなたはお母さんよね。
 少女のクシナーダの声が、ふっと脳裏をよぎった。
「鬼となった者は、もはや救われないのでしょうか」と、ナツソが言った。
 イスズもアカルも沈黙していた。
 鬼が肉体に実体化するというのは、稀なことではあったが、現実にあった。単純に言えば、肉体は精神の実体化したものであるからだ。精神の力が物質化を遂げるほどになれば、それはあり得るのだ。
 しかし、一度、物質化して肉体と同化したものを切り離す術は、通常はなかった。
「そう……ですか」ナツソは悲しみをにじませ、御輿の床に手をついた。
「カガチが剣の〝力〟であのようになったとしても、それは本人が望んだ結果。なぜ、あなたがそのように悲しむのです」
「ヨサミがかわいそうで……カガチと一つになっています」ナツソの手の上に涙がこぼれ落ちた。
 イスズは黙って、そんなナツソを見ていた。
「イスズ様、お伺いしてもよろしいでしょうか」アカルは言った。
「なんでしょう」
「なぜ、イスズ様はこちらにいらっしゃったのです。このような殺伐とした場に」
「アカル様」イスズは切れ長の目を捕虜の男に向けながら言った。「わたくしには、果たさねばならぬ責があるのです」
「この争いに、イスズ様になんの責があると申されますか」
「あるのです」
 アカルは知った。自分がこの戦乱に大きな責任があると感じているのとは別な意味で、イスズもまた何らかの大きな役割を持たされてここへ駆けつけたことを。
 山深い峠が迫っていた。
 この山々の向こう側。そこにカナンの軍が展開している。

 その大戦乱の火ぶたが今、切って落とされようとしていた。


     4

 ――イヨイヨダナ。
 夜半から降り始めた雪は、勢いを増すこともないかわり、止むこともなく、ずっと静かに振り続けていた。すっかり葉を落としてしまった木の枝にも、わずかに雪が積もっている。その枝の一つに、大きなカラスの姿があった。
 スサノヲはうんざりしたようにそれを見上げ、毒づいた。「このストーカー野郎が」
 ――ハッハッハ。ズイブント洒落タ言葉ヲ知ッテオルナ。
「クシナーダが言うには、二千年ほどたつと、自分自身が生きることよりも、他人に執着して生きるよすがにする人間が現れるそうだ」
 ――ソナタニ縁(ヨスガ)ハアル。ガ、ソレユエニ見守ッテオルダケノコト。ワレハ何モソナタニ要求ハセヌ。
「楽しんでいるだろう」
 ――ソレハワレデハナイ。ワレノソバニオル女子(おなご)ガ面白ガッテオルノダ。
「ウズメとかいうやつだろう。クシナーダが言っていた。この頃、ずっとウズメ様の気配を感じると」
 ――ウズメダケデハナイゾ。アラユル存在ガ見テオル。
「鬱陶しい」スサノヲは言葉ほど苛立っているわけではなかった。むしろ、カラスとの対話を面白がっている様子すらあった。「なんのために、そのように見ているのだ」
 ――ワレラガイナケレバ、ソナタラノ世界ハ存在スルコトサエ危ウイ。見守ル者ガアッテコソ、コノ世界ハ成立スル。
「……そういうことか」
 ――コノ根ネ世界ハ、ジツハトテモ危ウイモノダ。ウタカタノ夢。見守ル者ナクシテ、コノ世界ガ成リ立ツコトハアリ得ヌ。
「しかし!」スサノヲは言葉を荒らげた。「ここで生きる者には、これは夢ではない。人の死や悲しみ、飢えや病や老いの苦しみ、すべてが現実だ」
 カラスは喉の奥で笑うようなヒビキを伝えてきた。
 ――オウオウ。ソナタノ言ウ通リジャ。イイゾイイゾ。
「なにが『いいぞいいぞ』だ」
 ――よもつひらさかヲ抜ケ、イザナミ様ニ会ウテ来ルガヨイ。
 カラスは木の枝を飛び立った――いや、そのように見えた。実際には羽ばたいた瞬間には消えていた。


 静かだった。
 トリカミの里にはうっすらと雪が積もっている。巨大な柱が直立する場所から、広い里の風景を眺望すると、なにもかもが真っ白で美しかった。静寂が包み込んだ里を、里人が飼っている犬が歩いていく。
 あまりにも静かだった。
 スサノヲはアシナヅチの居宅へ向かった。そこからはすでに人の話し声が聞こえていた。
「だから、俺も行くって」と、強硬に主張しているのはイタケルだった。「このところ里の周辺がおかしいんだ。例のカナンのやつら、妙に殺気立っている。なにがあるか、わかんねえ」
「だからこそ、イタケルには里に残って、皆を守ってほしいのです」返すのはクシナーダだった。
「岩戸を開けるのは、わしとクシナーダ、それにミツハがおれば良い。――お、スサノヲ、参ったか」
 アシナヅチの言葉を受けて、皆が戸口を振り返った。その視線を浴びながら、スサノヲは中に入った。クシナーダが少し動いて空けた場所へ座る。アシナヅチ、ナオヒ、クシナーダ、イタケル、ミツハ、そしてオシヲまでいた。
「なにを……?」話し合っていたのか、という問いは、どちらかというと確認のためだった。
「おめーをあの世に送るのに、誰が行くかって話だ」と、イタケル。
「あの世……」
「ヨミの国です」と、クシナーダが修正する。
「同じだろう」
「同じではありません」
「お、俺も行かせてください!」
 オシヲが両手をついて、前のめりになって言った。が、アシナヅチは、「だめじゃだめじゃ」と一蹴した。
「なぜですか。みんなを守るためです」
「おまえごときがなにを守るじゃ」
「いや、オシヲはこのところ剣の練習だってしてるし、へたな大人より、よっぽど頼りになるぜ」
 イタケルの言葉に、長く垂れ下がった白い眉毛の下でアシナヅチの眼が動いた。
「剣の練習?」
「あ、いや、その……」
「イタケル、おまえはあのオロチ兵たちの剣を捨ててなかったのか」
「――い、いや、だってもったいねえだろう」
「お、俺がイタケルに頼んだんです! 剣を教えてくれって!」
 弁護に回ったオシヲに、アシナヅチとクシナーダは顔を見合わせた。
「剣を持つ者は剣によって滅びる」と、口を挟んだのはナオヒだった。「アシナヅチ、そなたのいうこと正論じゃ。しかしな、ツクシの有様を見てみるがいい。毎日のように侵略を受け、生まれ育った土地や、愛する親兄弟を奪われ、それでも剣を取らずにすむほど、現実はゆるくはないぞえ」
「わかっておるわ、そのようなこと」
「スサノヲをヨミに送った後が心配なんだよ」イタケルが助勢を得て、勢い込んだ。「岩戸は里から離れた山ん中にある。そんなところにアシナヅチ様とクシナーダ、ミツハだけなんて、危険すぎる」
「それはたしかにそう思うが」と、スサノヲはアシナヅチを見た。
 そしてクシナーダの横顔も同時に、その視野に収めた。彼女は表情をこわばらせ、白い顔をさらに白くしていた。彼女にしては珍しいほど、何か張りつめたものを感じさせた。
「仕方ない……。イタケル、オシヲ、約束せよ」アシナヅチが告げた。「どのようなことがあろうと、自ら剣を抜くな。良いか?」
「あ、ああ」
 イタケルとオシヲは顔を見合わせた。二人はうなずき合った。
「わかった。約束する」
「よかろう。では、二人に同行してもらおうか」
 やった、と言わんばかりに、イタケルとオシヲは互いの手を叩き合った。
「わしは足が悪い。ニギヒと共にここで留守番しておることにする」ナオヒが言った。「そのほうがよかろ? アシナヅチよ」
「そうじゃな。そうしてもらおう」
「岩戸まで陽があるうちに着いたほうがいい。雪も降っているし、そろそろ出かけなくては」イタケルが立ち上がった。
 クシナーダも無言で腰を上げた。アシナヅチの居宅を出、雪景色となったトリカミの里を見つめる。その眼差しが何を見ているのか、スサノヲはひどく胸騒ぎを覚えた。
 気配を察してか、家に籠っていた里人がおおぜい見送りに出てきていた。トリカミの里人は、なぜか勘の鋭い人間が多い。
「お気をつけて」
「かならずお帰り下さいよ」
 そんな声があちこちからかけられた。そんな中から、スクナがやって来るのが見えた。
「スサノヲ……」少女の眼はうるんでいた。「絶対、帰って来てよ」
「ああ、心配するな」微笑し、頭に手を置く。
「絶対だよ」
「ああ」
 スクナにとって、スサノヲは親代わりのようなものだった。絶対のよりどころなのだ。
 スサノヲにとっても、スクナは小さな存在ではなかった。少女を助けることで、自分の中での何かが変わった。その後の流れもきっと変えた――。
 最初はあわれと思い、気まぐれに助けたにすぎなかった。
 しかし、助けるということが、自分のどこかに血を通わせた。それがきっと、クシナーダや今身の回りにいる人々とのつながりを生み出す源になったような、そんな気がしていた。
「おまえは大切な存在だ」そういうスサノヲの眼はやさしかった。「おまえが俺に与えてくれたものは、きっととても大きい。だから、おまえのところに必ず戻って来るよ」
 うん、とスクナはうなずいた。泣きそうな表情だ。
「準備はできた。行こうか」イタケルが声をかけてきた。肩に長い大きな縄のようなものを担いでいた。
 スサノヲはスクナをその場に残し、歩き出した。里を出て行く道筋に、ニギヒと彼の従者数人の姿が見えた。イト国の皇子である彼は、この場に逗留するというナオヒのわがままにつき合され、この十日ほど、トリカミに留まっていた。アソの大巫女一人を残して帰還もできないからだ。
 ニギヒは部下から何事か報告を受けていた。部下に指示を与え、その者が離れて行くのと、スサノヲたちが彼のそばに近寄るのはほぼ同じだった。
「お気をつけて」と、ニギヒは言った。「ヨミの国なるもの……わたしも一度、この目で見てみたいものです」
「そんなに気軽に行く場所ではない」と、アシナヅチ。
「ナオヒ様がこの場におられる理由、呑み込めてきました。お留守の間、わたしもナオヒ様とご一緒に、この地をお守りいたします」
「よろしく頼む」
 アシナヅチの言葉と共に、一同はニギヒをその場に残し、再び歩き出した。
 何かが起きようとしている。
 それは全員が感じ取っていた。

 岩戸への道。
 それはトリカミの里から川の支流の一つを、上流へと遡る道筋だった。獣道のような道を歩き、時に瀬を渡り、岩場を登らねばならなかった。大の男のイタケルでさえ、息が切れる道のりだ。とりわけ足腰の弱っているアシナヅチには厳しく、イタケルとスサノヲが交代で彼を背負う場面も多かった。
 途中、一行は一頭のクマに遭遇した。先頭を歩くオシヲが気づき、静かにして山の斜面を歩くクマが行きすぎるのを待った。
「おかしいな……。もう冬眠している頃なんだが」イタケルがつぶやいた。「今年は栗とか、木の実も豊富だった。腹が減っているはずはないんだが」
「彼らも気づいているのです」クシナーダが言った。「安心して眠れる状況ではないと」
「山がざわざわしています」ミツハもそんなことを言い、自らの胸を抱くようにしていた。
 クマをやり過ごし、斜面の険しい道を登りきった彼らは、もう岩戸を目前にしていた。道を下って行くと、一度離れていた渓流沿いにまた近づくのが音で分かった。
 夕暮れが迫って来ていたが、眼下に川の流れが見えた。
「あれが、岩戸じゃ」アシナヅチが指差した。
 それは……。
 まさに巨大な一枚の岩だった。


 それが渓谷をふさぐように、縦に突き刺さっている。
 谷間を埋める一枚の板のように。ただ、それは板というには、あまりにも巨大であり、岩盤の一部が切り出され、そこにはまり込んでいるように見えた。その一枚の大きな壁が、川を上流と下流で隔てていた。
 ただ、流れはその岩の下を通過してきているのだろう。とだえることなく、流れ続けている。
 が、視覚的にはその巨岩は、完全に渓谷と川を隔てているように見えた。
 巨岩のもとへと降りて行く道は、人の手によって明らかに手を加えられ、階段状になっていた。ここが祭祀場として、長く大切にされてきた証(あかし)だった。
 降りて行く途中、岩戸の前にの水場にいた白い影が動いた。
「あ……」と、オシヲが小さな声を上げた。
 ふわっとその白い影は羽を広げ、岩戸の向こう側へと飛び去って行った。首の長い鳥だった。
 あまりにも幻想的な光景だった。その鳥は、まるで神の遣いのように見え、これから岩戸を通り抜けようとするスサノヲを導くようだった。
 雪は、今はやんでいた。
 しかし、木々の枝に乗っている雪が、風に吹かれては細かい塵のように舞い落ちてきていた。それが岩戸の前に小さな泉のようになって溜まっている水面に、音もなく吸い込まれていく。ただ波紋だけを広げ。


 言葉にできぬ霊気が、あたりには濃厚に立ちこめていた。
 ――なんという場だ。
 スサノヲはこの地上に降りて以来、初めて感じるほど強い〝神気〟に全身の皮膚が粟立つのを感じた。
 こんな神聖な場が現実に存在しているとは、にわかには信じがたかった。いや、すでにここは半分、地上ではないように思えた。
 あたりは急速に暗くなってきていた。
 もっとも日照時間の短い季節。しかも深い渓谷。
 闇の訪れは、あまりにも速やかである。
 イタケルとオシヲが持ってきた火打石を使い、可燃性の高い木屑に火を起こし、それを松明数本に移した。このような時のために用意されているのだろう。岩戸の近くに小屋があり、そこには薪も蓄えられていて、焚火も用意された。燃え盛る炎が、神聖なるその場を、さらに神秘的な光でゆらめかせた。
「用意ができました」
 小屋の中で着替えを済ませてきたクシナーダとミツハは、真っ白な衣装に身を包んでいた。ただ、クシナーダはその肩に、鮮やかな朱の領布(ひれ)をまとわせていた。
「もうよいかな」アシナヅチは渓谷の隙間にある、わずかばかりの空を見上げた。
 そこにはすでに太陽の光はなく、目を凝らせば、雲の切れ間に見える星さえあった。
「この岩戸の向こうに、ヒバという御山がある」アシナヅチは、スサノヲに向かって言った。「イザナミ様が眠る御山じゃ」
「イザナミ……母が?」
 スサノヲは戸惑った。彼にとり母は、天界に存在した大きなヒビキそのものだった。人ではなく、物質でもない。
「スサノヲよ、そなたが人の身としてこの地上に生まれた瞬間に、この地にも母なる存在が生まれたのじゃ」
「どういうことだ」
「母なくして、子は生まれぬ。道理であろうが」
「それはそうだが」
「スサノヲ、いつぞや、月の夜にお話しいたしました、わたくしたちの民に伝わる古い物語を覚えておられますか?」クシナーダが言った。「天界で乱暴を働き、ヒビキの女神を岩戸に閉じ込めた弟神のことを」
「覚えている」
「その神の名は、スサノヲ、と伝えられています」
「な……」
 その神話上の神の名を、たまたまスサノヲはスサの地で、エステルの弟、エフライムによって与えられた――?
 ――スサノヲ?
 初めて出会ったとき、その名を聞き、クシナーダが目を丸くし、何度か頷いていた光景がよみがえる。
「あなたの物語が生まれた瞬間、母なるイザナミ様もこの地上にすでに在ったのです。歴史はすべて一瞬にして生まれたのです、きっと」
「母が地上に……」
「それがいつの時代なのかは定かではありませぬ。イザナミ様はこの地上のすべて、この星のすべてを生み賜うた母神様。そしてこの世を去られ、ヨミにおさまられた大神。スサノヲはその母のことを想い、天界で〝泣きいさちる神〟でした。母に会いたいと」
「母に会いたいと……」
「けれど、わたくしたちの物語は伝えておりませぬ。天界を追いやられ、母に会いに行かれたはずのスサノヲの物語を。スサノヲは――いえ、あなたは――」
 クシナーダの手が、スサノヲの胸に触れた。
「その物語の本当の続きを紡ぎに来られたのです、きっと」
 クシナーダの掌から、熱いと感じるほどのものが伝わってきて、スサノヲの心臓を打った。
 クシナーダ、アシナヅチ、ミツハ、イタケル、オシヲ。
 十の瞳がスサノヲを見つめていた。
「俺は……神などではない。ただ、天界から零れ落ちてきただけの男だ。少しばかり人より力に優れているにすぎぬ」
「わかっています。今のあなたは天にある神などではありません。人です。ただ、稀有な生まれをしたにすぎません。なぜなら――」クシナーダは他のトリカミの同胞を振り返った。「人はみな、天から零れ落ちたものだからです。それはご存知でしょう」
「それは……わかる」
「わたくしたちは幾度も幾度も生まれ変わり、幾多の人生を生きる御霊の一つです。あなたも、わたくしも……」
 見つめるクシナーダの瞳の中に吸い込まれそうだった。
「いつかの時代より、あるいは始源の時より、イザナミ様はあの御山に眠っておられます。天界の〝今〟は、この地上世界の〝すべての時〟……そうなのでしょう? スサノヲ」
「そなたの言う通りだ。俺に母なるものがあるのなら、たしかにイザナミもこの地上存在していなければならない」スサノヲは振り返り、岩戸の向こうにあるはずの、すでに闇の中に沈んでいる山の姿を想った。「母があそこに……」
「ヒバはヨミそのものとも言える」アシナヅチが言った。「これよりこの岩戸を開けば、ヨミへ通じるヨモツヒラサカも開かれる。したが、スサノヲよ。この岩戸を開いておれる時間、それは今宵限りじゃ」
「今宵限り」
「この季節の新月の夜しか、ヨモツヒラサカは開かぬ。夜が明ければ、岩戸は自然と閉じる。そうなれば、そなたはもはや地上には戻れぬ」
「わかった。……しかし、どうやってあの岩戸を開くのだ」
 スサノヲは松明の炎に照らされる巨岩を仰いだ。それは決して動かすことなどかなわぬ重量感を備えていた。渓谷にがっちりとはまり込んでいて、たとえ二十人三十人の男たちが渾身の力をふるっても決して微動だにしないだろう。
「ご心配には及びません。さあ、アシナヅチ様。始めましょうか」
 うむ、とアシナヅチはうなずいた。
 ミツハが手にしていた笛を顔の横に添えた。
 ひと呼吸あった。
 ミツハの奏でる笛の音が、冴えざえと渓谷に響き渡った。神気の漂う水場に、それは波長となって広がった。岩戸の巨岩の前にある大きな岩の一つの上にクシナーダが登る。ミツハの笛の調べに合わせ、ゆっくりと舞い始める。
 さながらそれは天女の舞いだった。彼女の身に付けている白い衣装が、ふわっと風をはらんで羽衣のようだった。
 最初、クシナーダは硬い表情で踊り始めた。が、やがてそれは柔らかいものへと変わり、表情には静かな悦びに満ちたものが広がって行った。踊ることに夢中になり、やがては忘我のような境地へと変わっていく。その時、クシナーダの身には何かが降りてきたように思えた。
 いや、実際、スサノヲの眼にはクシナーダの身体がすうっと半透明のようになり、その身体に重なり合って踊る女神の如き存在が〝視えた〟。
 その女神は輝くような裸身だった。
 あまりのその美しさに、スサノヲは呆然となった。女神は嬉々として踊っていた。その女神の喜悦が、今はそのままクシナーダへ伝播していた。
 その女神の姿が見えているのかどうか、イタケルとオシヲが声を上げた。
「お、おい……あれ」
 見ると、岩戸の巨岩が透けはじめていた。あれほど密度が高く、強固そうに見えた岩盤が、まるで薄い紙のように透けたり、また元に戻ったりを繰り返していた。
 おおおおおおおお―――――!
 両手を胸の前で組み合わせたアシナヅチが、地の底から湧き出るような声を発した。老体の肉体を通じ、蒼白いオーラのようなものがほとばしり、それは二つに割れて岩戸の左右両端につながったように見えた。
 すると岩戸は透明化したままの状態で定着した。
 笛の調べは終わっていた。
 クシナーダは岩の上で、崩れるようになっていた。
「クシナーダ……」スサノヲは岩に上がり、彼女の肩に手をかけた。「大丈夫か」
「……はい。心配ありません」
 そう言いながら立ち上がろうとするが、消耗は隠しがたかった。スサノヲの手に支えられ、ようやく岩を降りてくる。
「大丈夫です。ウズメ様と共鳴したので、戻るのに少し時間がかかるだけです。それよりもスサノヲ、これを――」クシナーダは肩からかけていた朱の領布を、スサノヲの首に回してかけるため、伸び上がった。「これがヨミの亡者たちからあなたを守ります。さあ、早く行ってください。時間が……」



 スサノヲは自分の肩から掛けられた領布を握った。
 岩戸を振り返った。それは今も完全に透明化していて、その先の風景が見えていた。
 その先には岩戸を上から見たときにあった、岩戸に隔てられた渓谷の向こう側があるだけだった。
「本当にこの先に……?」
「何をしておる。ヨモツヒラサカはすでに開いておる」
 アシナヅチに叱咤され、スサノヲは動き出した。クシナーダから手を離すのが忍びなかった。が、このままではいられなかった。岩戸の前の水場へ、ざぶざぶと入っていく。水は恐ろしく冷たかった。
 岩戸の先には、ただの渓谷しかない。そこにあったはずの岩……手を伸ばすと、そこに吸い込まれたスサノヲの手は見えなくなった。引くと、元に戻る。
 あきらかに空間がそこで切り替わっていた。
 スサノヲは振り返り、一人一人を見つめた。
「スサノヲ様、どうか御無事で……」ミツハが祈るように言った。
「さっさと戻って来いよ」と、イタケル。
 スサノヲはうなずき、最後にクシナーダと目を合わせた。そして、彼女の目を振り切るように、水を撥ね、岩戸の中へ飛び込んで行った。彼の姿は、異なる空間に呑み込まれ、すぐに見えなくなった。
「スサノヲ……」クシナーダは岩戸の前にしゃがみこんだ。彼女もまた祈るように。
「イタケル、早くしめ縄を。その左右に張るのじゃ」
 アシナヅチに命じられ、イタケルが担いでいた縄を持って、「お、おお」と動き出した。彼自身、岩戸を開くところを見るのは初めてで、何もかも要領を得ているわけではなかった。岩戸の前に左右に張り巡らす。
「これで、いいのか」
「ああ、こうしておかねば、わしの張った結界だけでは心もとない」
 そのときだった。
 彼らの頭上に人の気配がした。甲冑が触れ合う音。男たちの話し声。彼らが松明の光を見つけ、やって来ているのは明らかだった。
「こいつはやばいぜ」イタケルが言い、腰の剣に手をかけた。
 急な石段を降りてくる男たちは、四人の男たちだった。その武装から、一目でカナンの兵士と分かった。
「おまえたち、このような場所でいったい何をしている……」
 降りてきた男たちはいずれも血濡れた剣を持ち、そして息も絶え絶えだった。血走った眼をぎらつかせ、警戒心をみなぎらせていた。傷を負っている者もいた。
「わしらはたたこの聖地で供え物をしておっただけのこと」と、アシナヅチが言った。
「こんな夜にか」
「おい、こんな連中、放っておこう。追手が来るぞ」他の兵士が言った。「あの化け物みたいなのに襲われたら、ひとたまりもな――」
 ぶわっと黒い風圧が、空から降ってきた。カナンの兵士たちは、そこに出現した巨漢を見て、悲鳴を上げた。
 黒頭巾の巨漢は、残忍な笑みを浮かべ、両手を大きく広げ、カナン兵たちの前に立ちはだかった。
 カガチだった。


     5

 満を持して、カガチはカナンに攻勢をかけた。
 イズモの東方より、二つに分けられたタジマ、イナバ、コシを主力とする部隊、そして南からキビ、ヒメジ、ヤマトらを中心とする大戦力が侵攻し、それぞれ初期のカナンの防衛線を突き崩した。




 イズモを中心とするカナンは、この東と南二方向からの侵攻は、イズモの東側で合流し、そのまま西へ押してくるものと読んだ。それが地理的にもっともあり得る進路だったからだ。そのため、戦力のほとんどをその東の防衛に振り向けた。
 ところが――。
「われらは西から峠を越える」
 総攻撃の前、直感のようにカガチは南のキビ方面から侵攻する部隊も二つに分け、そして西へ迂回する部隊の指揮を自分が執った――いや、カヤを奪還したときのように、自らが先陣を切った。数で勝るという確信があるからこその戦術だったが、なによりも己自身に頼むところが大きかった。
 ヒバの山の近く。
 カガチの部隊は中枢である巫女たちを抱えての峠越えを敢行した。脚を止められるほどの雪でなかったのが幸いし、侵攻の時期を合わせ、手薄なカナンの防衛線に襲いかかった。その峠はトリカミの南の山中にあり、エステルはトリカミに手を触れないというスサノヲとの約定を守っていたため、この南の峠についての防衛線は、きわめて手薄だったのだ。
 カガチの策略は、まさに図に当たった。南方からの侵攻への備えが十分でなかったカナンの守備隊は総崩れとなった。
 そして、ほぼ同じころ、タジマの水軍、コジマの水軍が北方より侵攻したため、カナンの動揺は甚大なものとなった。
 こうして幾多の山野で戦いが繰り広げられ、オロチの連合軍は巨大な大蛇の如き勢いを得て、それぞれの峠を越え、イズモへと侵攻を果たした。
 カガチ自身、今、トリカミの聖地、岩戸の前に立っていた。
 血に飢えた、破壊の欲望の化身として。

「おや――これはアシナヅチ様。久しいのぉ」カナン兵を追って乱入したカガチは、そこにいる面々を見渡し、言った。「ほお。巫女様もおるではないか。たしかクシナーダと申したな」
「カガチ……」イタケルはほとんど剣を抜きかけ、アシナヅチとの約束を思い出したのか、思いとどまり、ただクシナーダとアシナヅチを守るべく動いた。
 オシヲもそれに倣う。オシヲはミツハをかばうように立っていた。
 頭上から声が降ってきた。
「カガチ様! カナンのやつらは!?」
「ここにおるわ」
 オロチ兵たちが十数名、石段を駆け下りてくる。多勢に無勢。カナン兵たちの進退は窮まった。彼らの背後には冷たい渓流しかなく、川も岩場だらけである。
「カガチ、ここでの殺し合いはやめるのじゃ」アシナヅチが言った。「ここはわれらの聖地。ここを血で汚してはならぬ」
「どこであろうが、知ったことではないわ。――やれ」
 カガチの命を受け、オロチ兵はカナン兵に斬りかかった。剣の弾ける音。火花。そして、悲鳴。
 オロチの剣は以前よりも鍛えられていた。カナンとの剣戟に耐え、しかもオロチ兵たちは首や関節など、鎧の隙間を狙うよう訓練されていた。
 一人、また一人と打ち倒され、その地が聖地の水を赤く染めた。
 逃げ場を失っているカナン兵はしゃにむに突進し、囲みを破った。そのうちの一人はカガチによって、首を切り飛ばされた。が、もう一人は岩戸のある方、アシナヅチやクシナーダのいる方へ走った。今は消えている岩戸の先へ逃げようとしたのだ。
 だが、他のオロチ兵たちが追いかけた。
「危ねえ!」イタケルが叫び、アシナヅチやクシナーダをかばいながら守ろうと動いた。
 殺到するオロチ兵が、カナン兵の背後から襲った。一撃二撃は鎧によって守られた。首を狙って横払いに振るわれた剣をかろうじてかわす。
 空振りに終わったオロチ兵のその剣は、結界のしめ縄を切った。
「いかん! 結界が!」アシナヅチが大声を上げ、岩戸に近づいた。
 その瞬間、オロチ兵が突きだした剣が、動いたアシナヅチの胴を貫き、最後のカナン兵も別な者に首を貫かれた。
 息を呑む一瞬、そしてその直後、ミツハの悲鳴が上がった。
 岩戸の前に、カナン兵とアシナヅチは折り重なるように倒れた。
「アシナヅチ様!」そばにいたクシナーダが取りすがった。「アシナヅチ様!」
「……てめーら」イタケルは双眸を燃え上がるように光らせ、振り返った。「許さねえ……アワジや、みんなの恨み……」
 イタケルは剣をついに抜いた。振りかぶり、カガチに向けて叩きつけた。あっさりとカガチはそれを弾き返した。イタケルはもう一度、それを繰り返したが、次には剣が折れた。彼の手元には短い刃と柄しか残らなかった。
 カガチの持つ、ゆるいそりを持つ剣は、怪しい光を放っていた。
「ちくしょう……」
 イタケルは素手で打ちかかって行こうとした。だが、オロチ兵たちが次々に攻撃を仕掛けてきて、逃げ回らなければならなかった。オシヲが以前のオロチの剣を持ち、加勢しようとするが、他の兵に「ガキがっ」と罵られながら、あっけなく剣を弾き飛ばされる。
「オシヲ!」
 それを見たミツハの身体が、兵とオシヲの隙間に入り込んだ。自ら盾となって、彼女は真っ白な衣装を縦に割かれた。血しぶきと共にミツハはその場に崩れた。
「おやめなさい!」
 渓谷に鋭い言霊(ことだま)が響き渡った。クシナーダがアシナヅチのそばで、その声の鞭をふるい、兵たちの動きを止めたのだった。さらにオシヲに斬りかかろうとしていた兵も硬直した。
「ミツハ! ミツハ――ッ!!」
 喉が張り裂けるほどの絶叫をオシヲは上げ、彼女に取りすがった。
「オシヲ……」彼女は先ほどまで吹いていた笛を手にしていた。それをオシヲのほうへ持ち上げる。
 オシヲは彼女の手を笛ごと握った。その手からすうっと力が失われた。
「大好き……オシ……」
 彼女は息を引き取った。
「ミツハ……おお……ミツハ――!」
 アシナヅチも息をしているのが不思議なほどの深手だった。そのアシナヅチから離れるのはあまりにも心残りだったが、クシナーダは立ち上がって、カガチと対峙しなければならなかった。
「カガチ、わたくしたちの聖域を汚し、里の者を殺め……これ以上の何をしようというのですか」
 カガチの剣だ、とクシナーダは視た。フツノミタマの剣。
 あれはスサノヲの〝力〟だという、鋭い直観がひらめいた。そして今のカガチは……。
〝鬼神〟であった。
 黒頭巾の下に隠してはいるが、カガチの全身からは禍々しい怨霊の如き〝力〟が溢れ出していた。しかし、その〝力〟はクシナーダの前には寄りつくことはできず、押し返されていた。
 その見えない世界の力関係は、カガチも感じているようだった。
「トリカミの里には手を出す予定ではなかった」カガチは言った。「が、この冬も巫女を一人、貰い受けるつもりではあった。それもあって、この峠を越えてきたのだ」
「わたくしは今、ここを離れるわけには行きませぬ」
「ならば、この二人の男も殺す。あるいはトリカミの里へ行き、別な巫女をさらってきてもよい」
 今、自分がこの場を離れたら……クシナーダは冷水を浴びる心地で考えた。取り返しのつかないことが起きるかもしれなかった。
 しかし、拒否の選択はできなかった。
 それに……クシナーダは今のカガチの姿の中に、別なものを視ていた。それは彼を押し包む怨念的な〝力〟である黒い霧のようなものの中にあるものだった。それはきわめて透視しにくいものだったが、彼女には視えていた。その常闇(とこやみ)のような空間で、苦悶の表情を浮かべる男の……いや……
 ――子供?
 泣き叫ぶ子供の姿が。
「わかりました。一緒にまいりましょう。これ以上、トリカミの里には一指も触れてはなりませぬ」
「約束しよう」
「イタケル、オシヲ……アシナヅチ様のことをお願いします。決して短慮に走らず、スサノヲの帰りを待ってください。いいですね」
 そう言い残し、クシナーダはその場を離れた。そのときに、わずかにアシナヅチを振り返った。アシナヅチがうなずくのが見えた。
「さすがトリカミの……いや、ワの国至高の巫女じゃ。おい、そいつらの甲冑をはぎ取れ。使えるものは使え」
 カガチの命令で、死体からカナンの鎧が奪われた。見ればすでに、カナンの鎧を着けている者もいる。カナンは明らかに劣勢なのだ。
 その間、クシナーダはミツハの亡骸のそばに寄り添い、涙した。そして、イタケルにアシナヅチのことを託した。
 カガチと兵らは、クシナーダを連行し、石段を上がって行った。上のほうが騒々しかった。やや遅れて侵攻してきているオロチの部隊と合流したようだった。
「くそ……」イタケルはみずからのふがいなさを呪い、罵っていた。
 オシヲはずっとミツハの身体を抱きしめ、そして彼女が持っていた笛を握りしめ、闇をずっと見つめ続けていた。
 許さない……俺は絶対に奴らを許さない……。
 まるで呪文のようにオシヲの心の中で、同じ言葉が繰り返されていた。
 う……という呻きが上がった。アシナヅチだった。
「アシナヅチ様……だ、大丈夫か」イタケルは駆け寄った。
「大丈夫な……わけなかろう」
「そ、そ、そりゃあ、そうだけど、だ、大丈夫だよ、俺が里まで運ぶから。すぐに良くなるさ。スクナがきっといい薬草、探してくれるからさ」
 まったく説得力のない言葉を埒もなくしゃべるしかなかった。彼は泣いていた。手は震え、やがて嗚咽が止まらなくなってきていた。
「よいか。クシナーダに言われた通りにせよ……。一時の感情に呑まれてはならぬ」
「あ、ああ、わかってるよ」
「わかってなどおらぬだろう……おまえはいつも、いつも、やんちゃばかりしおって……言うことを聞かぬ洟垂れガキじゃった」
「あ、ああ。そうだな」
「わしの最後の望みじゃ……約束を、守ってくれ……」
「わ、わかった。けどよ、アシナヅチ様がいてくれなきゃ、ダメだぜ。俺、叱ってくれる人、いなくなるじゃんか」
「……失われるものなど、いっさいない……わしは十分に生きた。そろそろ、楽にさせてくれ……」
 アシナヅチは目を閉じた。
「ア、アシナヅチ様……」
 滂沱と涙が溢れ出し、イタケルは、わあああ、と泣き喚いた。
 同時にオシヲもまた叫んだ。
 それは悲しみと呪詛の咆哮だった。

 悲しみと
 憎しみが
 満ちた。

 そして。
 岩戸は破れた。

 彼らの背後の岩戸から、何かが溢れ出してきていた。カガチが身にまとう黒いオーラにも似た瘴気のようなものだった。アシナヅチとクシナーダが張った結界の外へ、まるで長いカマキリの腕のような四肢が、空間をこじ開けるように、にじり出てくる。引き裂いたその隙間から、底光りする巨大な双眸が覗いた。
 お喋りが始まった。それは人語をものすごく高速化したようににわかには聞き取れない、甲高く神経に触る声だった。
 女のお喋りが聞こえる、とイタケルは思った。涙に濡れた顔を上げ、彼は不思議な思いにとらわれた。同時にものすごく冷たい、背中や首筋の皮膚に突き刺さってくる不快なものを感じた。本能的な嫌悪感と共に、彼は振り返った。
 何かがそこにはいた。
 イタケルには霊視などできなかった。が、その彼でさえ、その場に佇む異様な亡霊の如きものの存在は感じることができた。
 もし霊覚のある人間がいたならば、恐怖で卒倒したかもしれない。
 異様に長い四肢を備え、闇の毒気を衣装として身にまとった、ガス生命体のような存在だった。毒々しい瘴気が渦巻いてその身を形成している。
 イタケルは見た。誰もいないはずの水場が、何者かの足によって波立ち、そしてその足が前へ前へと運ばれていくことで水が撥ねる様子を。
 その数は増えていた。一人二人三人……。
 うっとイタケルは口を抑えた。耐え難い嫌悪が、胃の中身を逆流させたのだ。
「オシヲ……」
 見るとオシヲは、両手で頭を抱えていた。割れるような痛みに耐えているのだ。



 ――ワレラニ触レルナ。
 ――触レレバ腐レル。
 ――ワレラハ死ノ使イ。
 ――触レレバ死ヌ。
 ――触レレバ滅ビル。
 ――触レタイカ?
 ――愚カナ人ヨ。
 ――地ノ底ノ、ワレラ、死ノチカラ。

 八つの禍津神(まがつかみ)がそこに佇んでいた。
 彼らは封印を解かれ、世に飛散して行った。




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ヤオヨロズ第4章 ヨモツヒサメ


     1

 濃密な闇が視野を覆い尽くしていた。
 まるで深い淵を覗きこむような、底も先も何も見えない闇である。
 その世界でスサノヲは、わずかばかり、自らの身体が発する光だけを頼りに歩いていた。そう、彼の身体はぼうっと微光を放っていた。直観的に思ったことは、それは彼が生きているからこその光であり、周囲のすべては死の闇の底にあるのではないか、ということだった。
 すべてが死せる世界。
 完全なる沈黙。完全なる闇。
 その〝死〟のあまりの濃厚さ、重さに、いつしかスサノヲは自分自身がそれに呑まれる恐怖を味わっていた。そして、それが彼を激しく動揺させた。
 ――死?
 スサノヲは自分が死ぬということを、これまで一度も想像したことがなかった。常人と異なり、彼は超人的な肉体と力を与えられていた。ありきたりな脅威の前に、自らの存在が危うくなり、消え去る危険など、感じたことがなかった。
 が、この世界だけは違った。
 闇は果てしなく、どこへともわからず続いていた。いつまで歩けばよいのか、それすらわからない。そのためか、いつしか自分がこの闇の中に溶けて消えてしまうような、そんな恐怖がじわじわと心を侵食していたのだ。
 長い長い洞窟のようなものだった。しかし、距離感はまるでない。時間感覚もなくなる。どれだけ歩いたかということも一切想像できず、いつまでたっても闇が払われる気配もなかった。
 苛立ちと焦り。
 そして恐怖。
 スサノヲの心が乱れ始めてしばらくすると、闇に変化が生じた。
 初めて別な存在の気配が感じられ始めたのだ。
 ――助ケテクレ。
 自分のほんの間近、頬や耳に接触するような感覚で、すうっと冷たい空気が流れていく。
 ――痛イヨ痛イヨ。
 子供の声。
 ――坊ヤ、アア、坊ヤ!
 母親の悲痛な叫び。病で子を死なせてしまった悲しみが、なぜかはっきりとそれと分かる形で伝わってくる。声の主の感情と状況が、そのままスサノヲに伝染してくるのだ。
 と、堰が切れた流れが押し寄せるように、大量の思念が彼にまとわりついてきた。
 ――苦シイ。
 ――熱イ! アア、体ガ燃エル!
 ――水ヲ……。
 ――許サナイ。
 ――寒イ。
 ――呪ワレヨ。
 それは声というより、想いだった。無数の人間の想いが、その人々が置かれている状況とともに生々しく伝わってくる。
 勝利と敗北。栄華と荒廃。
 この地上に勃興した多くの国々と、そこで生きた人々の人生、想い。
 それが今、とてつもない情報量となって、スサノヲの中に入って来ていた。彼らの悲しみや憎しみ、絶望、恐れの大群となって、怒涛のように押し寄せてくる。それは氾濫する大河の水を身一つで受け止めるようなものだった。
 その波涛はスサノヲを呑み込み、彼を粉々に粉砕しようとした。
 ――死ニタクナイ。
 ある一つの想いが、スサノヲに憑依した。それは彼自身が強く想い抱いた感情そのままだったからだ。
 ――ココデ、俺ハ死ヌワケニハイカナイ。
 走り抜ける無数の騎馬、馬車。戦乱。
 スサノヲは剣を抜いた。そして襲い掛かってくる兵士たちを切りつけた。だが、それはいつもの超人的な彼の技でもスピードでもなかった。鉛でも四肢に入っているのではないかというような、恐ろしく鈍重な動きだった。いや、彼にはそう感じられた。
 スサノヲが実感しているのは彼自身の人生ではなく、彼に憑依したある兵士の人生だった。強大な国家の侵略を受け、滅びゆく国。それに抗った男の想いが、そのままスサノヲの意識を占領してしまっていた。
 男には愛する妻と子たち、そして老いた母親がいた。そのすべてを守ろうとしたが、津波のように押し寄せる巨大国家の軍勢の前では、あまりにも非力であり、消し飛ばされてしまう程度のものでしかなかった。矢に射抜かれ、痛みに耐え、押し寄せる騎馬隊に立ち向かった。が、槍が彼の胸を貫き、打ち倒された彼の胴体と頭部を、荒馬たちの蹄がぐしゃぐしゃに潰してしまった。
 ――死ネナイ。ココデ、俺ハ死ネナイ。
 原形をとどめぬほど損傷した肉体を離れた男の魂は、守るべき家族のもとへ飛んだ。が、魂だけとなった彼の目に映った光景は、侵略兵によって子らと母がたわむれに殺され、妻が犯される姿だった。



 絶叫した。それは魂の咆哮だった。
 スサノヲは男と共に、血の涙を流していた。愛する者を殺戮され、奪われ、愛した国もことごとく蹂躙される、その絶望と呪詛、自らの無力さへの呪いが、まるごと憑依した。
 怨霊となって――。

 ――スサノヲ。

 光が。
 あまりにも広大で濃密な闇の中に、光が差した。
 まったく無意識に、スサノヲは自分の胸にある、クシナーダに与えられた領布(ひれ)をつかんでいた。右手には剣を持ちながら、左手ではその領布を。
 領布は明るい光を発していた。その光が、スサノヲを怨霊となった男の意識から切り離した。
 とたんにスサノヲは、たった今まで感じていた圧倒的で濃密な、〝負〟の感情の海から浮上していた。だが、それは危ういものだった。
 彼を呑み込んでいた大洋の中をかき分け、荒波の上にかろうじて這い出たようなものだ。
 ともすれば、海中に潜む怨霊たちは、スサノヲの足を引っ張ろうと手ぐすねを引いて待っている。それにもう一度つかまれてしまったらおしまいだと感じた。
 クシナーダ……。
 彼女の姿、彼女の仕草、彼女の笑顔。
 スサノヲは本能的にそれを想った。岩戸を抜ける前、胸に手を当ててくれた。その彼女の掌から伝わってきた熱さを想った。
 そして剣を鞘に納め、代わりにその領布を振った。

 闇が切り払われた。

 そこには、今や彼から分離された無数の怨霊たちが渦巻いている死の渕が見えた。
 彼らはそこで嘆き、悲しみ、そして呪い続けている。それはおぞましいというより、あまりにも悲哀に満ちたものに思えた。彼らはすべて一様に、救いを求めていた。
 考えるよりも先に、スサノヲは領布を振った。
 それは浄化の光を降らせた。それは霊送りを行ったとき、クシナーダが天界より降らせた、あの白金の粉のような光だった。
 シャンシャンシャンシャンシャン――。
 鈴の音が聞こえた。
「ヨミの亡者たちよ、お前たちの還るべきところへお還りなさい」
 女の声が響いた。そして、さらに高く鈴の音が響き渡った。そのヒビキは、スサノヲが振りまいた光の粉を拡散させ、見渡すかぎりを埋め尽くすように覆わせた。それを浴びた亡者たちは真っ黒な塊から、ぽつぽつとほの明るい光へと変じた。
 その連鎖が見渡す限りへと広がり、あたりは眩いほどになった。無数の光の珠が、怨霊の海を離れ、上空へと昇って行く。
 上のほうに光の穴が開いた。そこへ光の珠は、吸い込まれていく。
 そして、すべて消えてなくなった。
 鈴の音が止まった。
 見ると、その鈴を鳴らしていたのは巫女たちだった。七人、いつの間にかスサノヲの周囲に広がって佇んでいた。いずれも清らかな乙女たちだった。
「ようこそ、ヨミの国へ」もっとも年嵩に見える乙女――といっても、二十歳にもならないだろう――が言った。クシナーダのそれに似た声だった
「そなたらは……」スサノヲは彼女らを一人一人見ながら言った。
「わたしはアワジ。クシナーダの姉です」
「アワジ……」衝撃を受けた。「カガチに殺されたという」
「驚くにはあたらないでしょう。ここはヨミの国。亡くなった者がいて当然」
「そ、それはそうだが……」
「他の者たちも皆、トリカミの巫女だった者たちです。皆、カガチによって命を奪われました」
 呆然と見まわすスサノヲを、無邪気な笑顔が取り囲んだ。クシナーダやミツハと同じような、心地よいヒビキが周囲からふわっと寄せてくる。
「そうか。そなたらがこれまでカガチによって命を奪われた七人の巫女……。しかし、なぜこのような亡者たちの世界に」
「わたしたちはある役目を持ち、ここに留まっておりました」別な一人が答えた。
「役目?」
「それは、あなた様をお待ちすること」また別な一人が。
「俺を?」
「いずれ訪れるあなた様を助けるため」
 問答の受け渡しが続く。
「わたしたちにはわかっておりました。失われるわたしたちの命が、きっと未来を作り出すことを」
「そのために天に還ることなく、ここに留まっておりました」
「あなた様に真実をお伝えするために」
「真実とは?」スサノヲは巡ってきた言葉の元のアワジを見た。
「それを知るために参られたのではないのですか」
 アワジがそう言うや、巫女たちはすうっと引き寄せられるように、それぞれの姿がアワジのもとへ重なり合って行った。彼女らは一つとなり、そして真っ白な光となった。目を開けていられないほどの輝きの中、スサノヲは自然と膝を折っていた。
 それが誰なのか、問うまでもなく、わかったからだった。

 光が収束して行き、そこに顕現したのは、母・イナザミだった。

 このヨミの世界を壊すのではないかというほど、巨大な光の結晶としてイザナミはその存在を顕わした。
 ――いとし子よ。
 そのヒビキ。慈愛に満ちたそのヒビキを受けるだけで、スサノヲは抑えていたものが堪えきれなくなった。仰ぎ見る目に、涙腺が決壊したように滂沱と涙があふれた。
 ――母よ。
 ――よう参られた。このヨミの国へ。
 ――母さん……。
 これほどの人間的な情がどこにあったのかと、スサノヲは自分で訝(いぶか)った。およそ乾ききった、人としての情の失われた人形のような存在として、自分が地上に生まれたと感じていた。このような存在に、どのような存在価値があるのか。何の楽しみも、喜びも、逆に憎しみさえも抱くことのない人形に。
 ――そなたは心なき、魂なき人形ではないぞえ。
 イザナミが告げた。
 ――ここへ参られよ、それがわかる。
 イザナミが両手を広げた。
 それを見た瞬間、スサノヲはそれこそが自分が心底求めていた瞬間なのだと知った。
 ――母さん。
 スサノヲは小さな光の珠となった。それは赤子のような……いや、胎児のようなカタチをしていた。勾玉のような。
 それは回りながら、すっぽりと大きなイザナミの両腕の中に抱かれた。
 そこは暖かく、安らぎに満ちていた。
 そこで彼は、ほんの小さな小さな、一粒の細胞となった。それが二つに分かれ、次には四つに分かれ、次には十六に分かれて……細胞分裂を繰り返して行った。やがてそれはまた、勾玉のようなカタチとなり、そして胎児へと成長して行った。



 母の海だ――と、スサノヲはとろけるような安らぎの中で、自分がかつてなく充足されていくのを感じた。母の胎内で成長しながら、彼は思い出していた。このヨミで体験した無数の人生を。
 それはすべて、彼の人生であった。
 遥か歴史が刻まれる以前から蓄積されてきた無数の人生。幾度も幾度も生まれ変わりながら、時に喜びを、時に悲しみを得ながら生きてきた、当たり前の人としての人生。
 彼らすべての人生は、天界にたった今もあるスサノヲの大きな意識の一部として、この地上で生きてきたものだった。時には男として、時には女として。彼らすべての人生が、細胞の一つ一つとなって、今ここにあるスサノヲの中に組み込まれていった。
 そうすることで、スサノヲは真実、〝人〟となった。
 それは、新たな〝誕生〟の時であった。

 気がつけば、スサノヲは元の姿となり、イザナミの前にひざまずいていた。
 イナザミは圧倒的な光のピラミッドのような存在ではなくなり、普通の人の形をして岩の上に腰かけていた。そして周囲の石段には、先ほどの七人の巫女たちが控えていた。
「いとし子よ」と、イザナミは言った。「よくぞ務めを果たされた」
 人のカタチとなったと言っても、その声音は厳かで、そして同時にやさしくもあった。
「務め?」
「そなたは思うておったろう。なにゆえに自分は、当たり前の人として地上に生まれなかったのか」
「はい」
「このヨミには無数の人の記憶が存在しておる。情報といってもよいし、残留思念といってもよい。今そなたが浄化し、天に送った者たちの情報は、そなた自身に由来する者たちの想いじゃ。それは浄化されぬまま、このヨミに留まっておった」
「わかります」
「それは普通の人にはできぬ技じゃ。クシナーダのような者たちでさえ、生身でこのヨミに立ち入ることはかなわぬ。おそらくヨミに入ったとたん、気が狂ってしまおう。当たり前の人は、ありとあらゆる悲嘆を一身に背負うことはできぬ」
 イザナミの語りとともに、ふっと幻影が現れた。三つの十字架。その中央の十字架にかけられ、苦悶に顔をゆがめる男。――ゴルゴダの丘――という言葉が、スサノヲの脳裏をよぎった。イザナミの想いによって、惹起されてきた情報だと分かった。
「過去、このヨミに立ち入った者は、何らかの形で特別な〝力〟を備えておった。そなたの場合は、このヨミを訪れるため、特別に鈍感に作られたのじゃ」
「鈍感……?」あまりにも意外な言葉に、スサノヲはあっけにとられた。
 イザナミはおかしそうに微笑(わら)った。
「人としての情に共鳴しやすい者ほど、ヨミは恐ろしい世界じゃ。残留思念を際限なく引き寄せ、その者を崩壊させてしまう。そうならぬため、そなたはきわめて共鳴しにくい存在として、この地上に降りたのじゃ」
「地上に降りた瞬間から、はっきりとした確信がありました。自分はヨミに行かねばならない。そして母に会わねばならないと。その想いだけは、絶対の使命として胸にありました」
「それはそなたがその役目を負うて地上に降りたからじゃ。わたしに会うことこそが、そなたのお役目だったのじゃ」
「なんのために、それが必要だったのでしょう」スサノヲは激しく戸惑っていた。「いや、俺は自分がこの世にある意味を知りたくて、ここへ参ったのですが、母に会うことだけが自分の存在意義なのですか」
「そう急くな」イザナミは手をひらひらとさせた。「そうよの。もう一つ、重要な役目があるぞ」
「なんでしょう」
「ここへ来て、肩を揉め」
「は?」
「それも重要なお役目じゃ」
 七人の巫女たちがクスクス笑った。スサノヲは母にからかわれているのだと知ったが、「さあ、早う」と催促され、立ち上がり、石段を登り、母の背後に回った。そして肩を揉み始めた。
「せっかくこうして人のカタチを得ておるのじゃ。ちょっとは人の親子らしいこともしておかねばのう。おお、良い気持ちじゃ」
 イナザミに年齢はなかった。言えば、肉体的な凝りなどあろうはずもなかった。七人の巫女と同じように若々しく、それでいて滲み出る雰囲気の大きさは、まぎれもない母性そのものだった。
「母さん、あの、さっきの続きですが……」
「相変わらずせっかちなやつじゃ」
「すみません」
「はっはっは。そしてくそ真面目じゃ。さきほど、そなたは二つのことを問うたな。一つはなんのためにヨミに来て、わたしに会う必要があったのか。そしてもう一つは、自分の存在する意味」
「はい」
「ヨミを訪れねばならなかったのにも二つの理由があるが、一つはわたしを慰めるためじゃ」
「慰める?」思わず、手が止まった。
「おお。今ここでこうして肩を揉んでおることもその一部というわけじゃ」
 なるほど…と、半ばほど納得して、スサノヲは肩揉みを再開した。
「わたしはこの星のすべてを生み出したヒビキじゃ。人はそれを〝母〟〝地母神〟として認識しておる。しかし、創造の過程では常に澱のようなものが生まれる。人で言えば、そなたが先ほど浄化した残留思念がそれじゃ。それはすなわち、わたし自身の澱でもあるのじゃ。このヨミはそうした世界じゃ。そなたがそうであるように、わたしの大元のヒビキも天界にある。が、ここにあるわたしはきわめてネの世界のヒビキに近い。どういうことかわかるか?」
「つまり、人間に近いということでしょうか」
「その通りじゃ。そのため、時として慰めも必要なのじゃよ」
「その役目を俺が?」
「他に誰がおろう」
「はい」
 そう言われれば、受け入れるしかなかった。
「母を慰める者がいなければ、どうなるのですか」
「恐ろしいことになる」
「恐ろしいこととは……?」
「まあ、考えてもみよ。どのような時代、どのような家族でも、母が崩壊してしまえばどうなるか」
「…………」
 スサノヲが沈黙を守っていると、そばで見守っていたアワジともう一人の巫女が言った。
「子は愛と居場所を失い」
「男は暴走をやめず、あくなき破壊を繰り返す」
「それが地球規模で起こると思えばよい」と、イザナミが引き継いだ。
「それは……母さん、今、とんでもないことをさらっと言われましたね」
「真の創造は陰の中、母性の中にこそある。抑えを失った陽の力、男の力は往々にして破壊に働くものじゃ」
「俺がヨミを訪れなければならなかったもう一つの理由は?」
「そなたがまっとうな〝人〟となるためには、ここへ来る必要があった。それは先ほどの体験で分かったであろう。かの者たちの人生を得ることで、そなたは完全となる。かの者たちの情報は怨念ばかりではなかったであろう。当たり前に生き、そして死んでいった者たちの人生の記憶じゃ。そのすべてが今、そなたの中にあろう」
「はい」
「わたしも慰められた」イザナミの片手が、そっとスサノヲの手の上に置かれた。「そなたを今一度身ごもり、そして生んだ。そうすることで、わたしも満たされ、そなたも満たされた。そうであろう?」
「はい」
 不覚にも涙が滲んできた。母の優しさに触れることで、スサノヲは自分の中に欠落していた部分、風穴のように感じられたむなしさがなくなっていることを知った。
「もうよい」と言われ、スサノヲは母の背後を離れた。そして、また前に膝を折った。
「これでそなたは完全な〝人〟となった。もはや好きに生きるがよい」
「え?」
「この世に生きる意味、存在する意味。そなたはそう言うたな」
「はい――」
「そのようなことは自分で決めよ」
 あまりにも意外な言葉に、スサノヲは返す言葉を失った。
「何もかも他に答えを求めようとするのは怠慢で、甘えじゃ。なんのために人に自由意思が与えられておると思うのじゃ」
「いや、しかし――」
「スサノヲ様」思い余ったようにアワジが言った。「今、地上は大変なことになっております」
 アワジの後、巫女たちは言葉を引き継いでいった。
「ヨモツヒラサカの結界が破られ、ヨミに閉じ込められていた禍津神、ヨモツヒサメが外に出てしまいました」
「ヨモツヒサメは人の悪しきものが凝り固まった存在」
「この地の底には、人が決して手を付けてはならぬ〝死の力〟があります。ヨモツヒサメはその化身でもあります」
「数え切れぬほどの人が死ぬでしょう。これまでの戦いにも増して」
「ヨモツヒサメを放置すれば、世界は滅びます」
「クシナーダもまた、今はカガチによって連れ去られました」
「クシナーダが?!」血相を変え、スサノヲは立ち上がった。
「さて、いかがする?」と、イザナミが問うた。
「母さん、俺は地上に戻ります」
 イザナミは笑い出した。呆然とするスサノヲに、イザナミは言った。
「そなたは今、何を考えた」
「それは――戻って、クシナーダやみんなを助けなければと」
「ならば、それが今のそなたの存在理由ではないのか」
 その言葉は、スサノヲの胸を突くものだった。
「はい……」スサノヲは一度そう答え、そして目を上げ、もう一度、強く言った。「はい!」
 彼はイザナミ、ほかの巫女たちを見つめ、そして最後に今一度、母を仰ぎ見得た。
「ありがとう。母さん」そう言うと、彼は踵を返し、もはや振り返ることもなく走り出した。その姿はすぐに闇に呑まれ、消えてなくなった。
 見送ったイザナミの瞳に憂悶が映し出され、揺らいだ。
「……いとし子よ、すまぬ。せっかく〝人〟になれたというのに」母の顔がゆがんだ。その顔を隠すように右手で覆った。「そなたの役目は本当はあと一つ……。じゃが、あれはわが澱……わが怨念……」


     2

 岩戸を抜け出ると、愕然となる光景が目に飛び込んできた。足元を浸している水の冷たさ以上に、スサノヲは心臓が一瞬にして凍りつくような胸苦しいショックを受けた。
 二つの横たえられた亡骸(なきがら)――それが死体だということは、血に染まった姿で一目でわかった――。
「アシナヅチ……ミツハ……?」
 スサノヲは篝火の中でゆらめくその横顔を認め、周囲を見まわした。亡骸のそばにあるのは、打ちひしがれたイタケルとオシヲだけだった。クシナーダの姿は、むろんない――。
「スサノヲ……」暗い眼をしたイタケルが振り返る。
 水を撥ねて駆け寄り、アシナヅチの横にひざまずく。その白髪と白髭に覆われた、深い皺の刻まれた顔は、冷たい空気の中で凍ってしまっているようだった。
 ――そりゃ、わしがしてもらいたいからじゃ。約束を。
 その顔が、あの人を食ったような悪戯好きな老人の笑みを浮かべることは、もうなかった。
 隣に横たわるミツハも、その白い顔は今はまったく血の気の失せた仮面のようだった。
 ――わたしも、とてもうれしゅうございました。
 あの愛らしく無邪気な乙女の笑顔は、二度と見ることはできないのだと知らされた。
「カガチがここへ来たんだ……カナンのやつらを追いかけて」イタケルが言った。「クシナーダも連れて行かれちまった。すまねえ」
 ぽたっ。
 地についたスサノヲの手の甲に、生ぬるい水滴が落ちた。それはスサノヲ自身の涙だった。幾度も生前のアシナヅチやミツハの、生き生きとした言動や仕草がよみがえってくる。そして、それがよみがえるたび、彼らがそれを見せてくれることは、もう二度とないのだと思い知らされる。
「これが……悲しみか」スサノヲは、自らの顔を流れ落ちる涙に触れ、言った。そしてまた、その悲しみの底から突き上げてくるものを感じながら拳を握った。「これが怒りか……」
「俺は許さない」魂の抜け殻のようなオシヲは、ミツハの笛を握ったままつぶやいた。「カガチもオロチの連中も……それにこのワの国を引っ掻き回したカナンのやつらも……絶対に許さない。あいつらがミツハを殺したんだ」
 それは今のスサノヲには、わかりすぎるほどわかる感情だった。ヨミで彼にもっとも強く憑依してきた男の生とその死にまつわる怨念。
 それと同じものをオシヲは抱き、そう、そしてイタケルもきっと、ずっと抱き続けてきたのだ。守りたい、愛すべき人を奪われた者として。
「イタケル……俺はヨミでアワジという娘に会った」
 その言葉は、気落ちしていたイタケルに活を入れた。
「アワジに?」振り返る彼の眼の焦点が合った。
「他の娘たちも、皆、ヨミにいた」
「なぜ、アワジたちがヨミに……」
「役目があったのだと。俺を待っていてくれた」
「アワジが……」
「アワジたちは言っていた。失われる自分たちの命が未来を作り出すと」
 スサノヲの顔を見るイタケルの眼に、みるみるまた涙が溢れてきた。
「アワジと俺は……ミツハとオシヲのような関係だった。兄妹同然に育って……そんで、俺はアワジのことが……」
「だから、おまえはアワジの妹のクシナーダのことを見守っていたのだな」
 うん、うん、とイタケルはうなずいた。そして、戸惑うようにアシナヅチのほうを見た。「アシナヅチ様も似たようなことを言っていた。失われるものなど何もないと……」
「イタケル、オシヲ」スサノヲは呼びかけた。
 オシヲも虚脱したような眼をスサノヲに向けた。
「俺はヨミで自分の過去の多くの人生を知った。今、この身としてある前の数多くの一生だ……。俺はこの一つ前の人生で、カナンの民だった」
「!」二人は度肝を抜かれたように目を見張った。
「国を侵略され、妻や子供たち、母も皆、殺された……。この今の身は、そのときの焼き直しのようなものだ。エステルの亡くなった弟、エフライムに似ているのもそのためだ。もしかすると、どこかで血がつながっているのかもしれない」
 あの強大な国家(ペルシャ)の侵略を受け、無残に殺され、母親とわが子も殺害され、妻を凌辱された男の人生だった。
「守るべき家族……妻や子を守れなかった、その悔いがたぶん、今もこの身には焼き付いている。どうだ、オシヲ、俺が憎いか? 前の人生でカナンの民だった俺が」
 オシヲは眼を見開いたまま、凝固していた。
「俺は数多くの人生を、数多くの民の中で生きてきた。このワの民だったことも、幾度もある。おまえたちとこうして会うのも初めてじゃない」
 静まり返った岩戸の前の聖地に、しばし、時間だけが流れた。
「俺が……他の民だったこともあるのかな」いつもは大きなヒビキのオシヲが、かすれた声で言った。
「ある」と、断じた。
 スサノヲの瞳の中で、イタケルもオシヲも殺されたわが子たちだった。それは過去世の記憶を持つ今のスサノヲには、疑いようもない自明の理だった。彼らの姿を見ると、過去の子供たちの面影が重なって見え、得も言われぬ懐かしさが湧いてくる。
「おまえたちも前の人生では、俺と一緒に過ごしていた」
 そしておおぜいの侵略兵に凌辱され、そのさなかで息を引き取った妻。

 それはクシナーダだった。

「俺はもう二度と自分の愛する者を失いたくない。おまえたちと同じように、アシナヅチやミツハを殺された悲しみも怒りも、俺の中にはある。だが、これから俺が行うのは、復讐ではない。ただ愛する者を守り抜くための戦いだ」
 オシヲとイタケルは、圧倒されたように無意識に身を引いていた。
 あの静かだったスサノヲが……と、驚きがオシヲを満たしているのがわかった。それはスサノヲの眼の中にあるもの、全身からみなぎらせているものに感応してのことだった。
「おそらく今こうなっているのは、前世の影のようなものだ。俺やおまえたちは愛する者との暮らしが理不尽に奪われる記憶を持ち、その記憶がここでまたもう一度影のように蘇えってきている。しかし、同じことを無意味に繰り返すのが人生ではない」
「変えられるのかな……」ぽつりと、オシヲが言った。
「かならず俺が変える。いや――」スサノヲは両手で二人の肩をつかんだ。「俺たちが変えるんだ」
 まずイタケルが、スサノヲの手をつかみ返してきた。
「アシナヅチ様が昔、言ってたよ。未来はそれぞれの心が作り出すと。一人じゃなく、たくさんの心が集まって未来を作るんだと」
「俺一人では未来を変えることはできない。だから、力を貸してくれないか」
 オシヲの手がそろそろと昇って来て、迷った後、自分の肩にあるスサノヲの手をつかんだ。
「俺、ミツハに褒められる男になりたかった……」オシヲは自分の手の中にある笛を見つめた。
「…………」
「だから、悔しいけど……」オシヲの目から、ぼろぼろ涙が溢れ、こぼれ落ちた。「あいつら、どいつこもこいつも殺してやりたいけど……」
 息を詰めるような時間の後、オシヲは血を吐くように言った。
「……スサノヲに預ける。そうする……。俺が復讐に狂ったら、ぜったい……ミツハ、俺のこと、褒めてくれねえもん……」
 わあああ、とオシヲは泣き出した。絶叫するようにスサノヲにすがりつき、苦悶し続けた。
 岩戸の聖地に、また雪が降り始めていた。
 それは彼らの悲しみも憎しみも、静かに覆い隠すような雪だった。


「来たようじゃな」
 トリカミの里でナオヒが閉じていた目を開けた。
 それは、後退を余儀なくされたカナン軍と、追い打ちをかけてきたオロチ軍が、トリカミの里へ雪崩を打って侵攻してきた瞬間でもあった。
 トリカミは斐伊川の中流から上流にかけて、その周辺に広がる一帯である。その中心の里は現・雲南付近にあった。オロチは東から日本海沿いに進行する主力部隊と、それから枝分かれして現・鳥取の日南市付から峠越えをする部隊があったが、その枝分かれ部隊はキビからの連合軍と合流、万才峠を抜き奥出雲へと侵攻を果たした。
 それはヒバの脇を抜けて峠越えをしたカガチ部隊との合流を意味したが、それがスムースに進んだのは、いうまでもなく険しい山越えを行い、敵の背後をカガチが突くことに成功したからである。
 カナンは当初、山間部のいくつかの峠(現・島根県と鳥取県の境界線付近)で防衛線を張っていたが、カガチが南から防衛線を破り、北からはタジマと児島の水軍が攻めてきたことによって、戦線を維持することができなくなった。最前線の指揮官たちは撤退命令を出し、イズモに主力を構えるカナン本隊への合流を図ろうとした。
 その結果――。
 山間部のカナン軍が後退する場所は、必然的にトリカミになってしまったのである。




 瓦解したカナンの軍は、斐伊川の上流からしゃにむに後退をし、トリカミの里を荒々しく通り過ぎようとした。だが、このときすでにカガチが率いる部隊が、大挙して押し寄せていたのである。
 里の中心部は、打ち建てられた柱と、里の周辺に幾何学的に配置された巨石によって、長く守られてきた。それらが里を守る結界としての機能も果たしてきたからだった。しかし、この巨大な土石流のような情勢の前には、もはや現実的な守りを果たせなかった。
 里人は知る由もなかったが、守りの要であったはずのアシナヅチの命が失われた今となっては、なおさらに――。
 わずかな時間に、静けさに包まれていた里の空気が一変した。甲冑を身に付けたカナンの部隊が、ふらふらになって里に迷い込んできた。それは、少し前にあった出来事の裏返しだった。かつてオロチがカナンによって攻められ、逃げ込んできた。その意趣返しのように、今回は後退するカナンをオロチが追いかけてきた。
 喚声が湧いた。怒涛のようにオロチ兵が侵攻し、カナン兵に襲い掛かった。
 里は血で染まった。
 カナン兵は鎧や、金属を縫いつけた防具を有していたが、この雪と寒さが災いした。重い装備は、深いものではなかったにせよ積雪の戦場では、移動にも戦いにも有利に働かなかった。むしろ兵の体力と体温を奪い、動きを鈍くする足かせだった。
 理性を失ったカナン兵は、やみくもに里の住居に逃げ込んだ。それを追いかけるオロチ兵は場合によって火矢をかけ(カヤを落とされた時のように)、炙り出されてきた敵を殺した。だが、その家にトリカミの里人がいて、逃げ出してきたとしても見境なく殺害した。
「ナオヒ様、このままではここも危険です」山の天候のように、瞬く間に急変した情勢に、ニギヒは老巫女に強く言った。「われらに戦わせてください」
「だめじゃ」
「なにゆえに――このままでは、里人が皆殺されます」
「そなたの手勢は十名ほど。そのような戦力でいかほどことができようか。無駄死にするだけじゃ」
「しかし!」
「剣で立ち向かえば相手を逆上させ、争いが広がり、よけいに里人の命が殺められる。それがわからぬか」
 ニギヒは言葉に詰まり、拳を握り固め、震わせた。
「なら、せめて、守らせてください」血気盛んな皇子は、言葉を食いちぎるように発した。「里人を集め、われらに守らせてください」
「よかろう。じゃが、ニギヒ、生きるより辛い思いをする覚悟はあるか」
「なにを言われます……」
「クシナーダが言うておったろう。立派な心がけじゃと、じゃが、言葉で言うほど簡単ではないと」
「あ……はい」
「そなたにそれができるかどうか、わしに見せてみよ。クシナーダはそなたよりずっと若い乙女の身でありながら、それを為してきた。そなたにそれができるか?」
「どういうことでしょうか」
「スクナという子がおるであろう」
「スサノヲのそばにいつもいた……」
「あの子を連れて、そなたは逃げよ。そしてスサノヲを迎えてまいれ」
「!」
「里人をここへ集め、そなたの手勢にここを守らせるように言い、そしてそなたはスクナと共にここから逃げよ」
「なにを馬鹿なことを……そのような仰せには従えませぬ」
 ふ、とナオヒは笑った。「――ならば、そなたもそこまでの器」
「言っておられることの意味が分かりませぬ」
「よいか、ニギヒよ。失われるものなど何もない」
 老巫女の前にかしずき、その顔を見上げるニギヒの表情に不安定な戸惑い、逡巡が色濃く浮かび上がっては入れ替わった。


「失われるものなどないとしてもな、この世で生きておる者は失ったように錯覚する」
「錯覚……」
「命は錯覚ではない。無意味なものでもない。それを知るためにこのネの世界はある。すべては知るためじゃ」
「知るため……」
「実感するためといってもよい。錯覚の上に成り立つ……そうじゃな、これは遊戯じゃ」
「遊戯……」
「じつは失われるものなど何もない。それでもそなたは失われたと思うであろう。そなたの部下である兵たちを。彼らは死ぬやもしれぬ。しかし、クニの長たろうとするのなら、何を生かし、痛みを伴っても何を選択するのか、考えねばならぬ。時には自分の命を大切にせねば、多くの命を救えぬ時もあるぞ」
「ナオヒ様、すみませぬ……。私には何をおっしゃられているのか……」
「わからぬでも良い。わしの言いたいことは、痛みに耐える勇気を持てということじゃ。わしの言うことを信ぜよ。クシナーダ……あのような若い娘でさえできたことが、そなたにはできぬと?」
「いえ……。クシナーダ様がなされたことなら、私もやってみせましょう」
「なら、スクナと共に一刻も早くここを去り、スサノヲを迎えに行け。里人をここに集めよ。しかし、戦ってはならぬ。ただ、守るのじゃ。そのように兵たちに申し伝えておけ」
「わかりました」
「案ずるな。わしも、そなたの部下たちも、意外にしぶといものよ。生きておるやもしれぬ」にっとナオヒは笑った。


     3

 先行するカガチが率いる先鋒部隊からやや遅れて、ヨサミや巫女たちがトリカミに近づいた。
 近づくにつれ、真っ白な雪が覆った河原、丘、そして森林で、悲惨な光景が目につくようになった。
 トリカミの里へ近づくにつれ、黒煙が空に立ち上っているのも目に入った。クシナーダは事態を悟り、囚われの身でありながら、むしろ先を急いだ。そして目の当たりにしたのは、美しかった里が無残に踏み荒らされ、多くの死体と血が作り出す無残な光景だった。
 そこではまだ戦乱が続いていた。山境の防衛線から後退してきたカナン兵と、追い打ちをかけたオロチ軍が入り乱れての殺し合いが続いていた。そして、その中には足の遅い巫女たちを置いて先行したカガチの姿もあった。
「カガチ、やめさせてください! トリカミの里には手を触れぬという約束です!」
 ヨサミはそのクシナーダの絶叫に、あのカヤを焼かれた時の我が身の悲嘆を重ね合わせた。
 カガチはその声を聴いたかもしれなかった。が、かすかに笑みを浮かべただけで、戦闘をやめようとはしなかった。
 襲い掛かるオロチの兵。逃げ惑うカナンの兵。
 乱入してきた兵士たちに吠えるトリカミの里で飼っている犬。その犬たちも兵の罵声を浴びながら、場合によっては凶刃の被害を受ける。
 里人たちは逃げ隠しているのか、姿はほとんど見えなかったが、おそらくオロチ軍は火を使ったのであろう。里の家屋の数棟から、燃え盛る音と黒煙が上がっていた。その中から逃げ出してくるカナン兵、そして里の人々。
「殺(や)れ殺れ! 殺っちまえ!」
 嬌声が上がり、殺到するオロチ兵たちは、傷を負ったカナン兵たちも、また善意から負傷兵を助けていたであろう里人も、次々に凶刃の餌食にした。それを目の当たりにしたクシナーダは、兵士によって拘束された身をもがきながら、殺される里人の名を一つ一つ絶叫する。
「ミナト! ヤヒコ! ミナワ!」
 クシナーダの叫びを聞いたのであろう、逃げ遅れている里人はすがる思いで、住居を出てきた。そのためにまた矢を浴び、剣で切りつけられる者が続出した。クシナーダは目をそむけ、そしてまた戻し、叫んだ。
「出て来てはなりません! 皆、中にいるのです!」
 発声の限度を超え、声帯が破れてしまうような悲痛な叫びだった。家の中にいたからといって、助かるとは限らない。オロチ兵たちは逃げ込んだカナン兵を捜索し、次々に住居に踏み込んで行き、乱暴を働き続けている。土器の壊れる音や悲鳴が後を絶えない。
 ヨサミはその光景を呆然と眺めていた。なんの感情もなく。
 なにもかもがゆっくりと、時間が粘ったように見える。剣を突き立てられるカナン兵。絶叫。血しぶき。
 逃げ惑う人。人。子ら。あるいは動物たち。
 武器を持たぬ者でさえ、背後から無慈悲に切りつけられる。
 子供であっても、蹴られ、殴られ、そして踏みにじられる。
 泣き叫ぶ声。涙。恐怖。震え。
 そして――

 憎しみと絶望。

 ある時、ヨサミの感情のスイッチが入った。まったく無味乾燥な、白けた情景に見えたそれらが、いきなり色彩を帯び、生々しい現実感を伴って、五感すべてを覆ってきた。阿鼻叫喚が聴覚を満たし、生々しい真っ赤な鮮血が、積もった雪に飛び散るのが目に飛び込んでくる。
「やめて……」震える声がひとりでに口を突いて出た。
 ヨサミは人形のようにぎこちなく、二、三歩前に踏み出した。今また戦闘の巻き添えになり、子をかばって抱いている母親の背が切りつけられるのが目に入る。火がついたように泣き叫ぶ赤ん坊。
「やめて……こんな……」
 高熱を発した時のようにガクガクと全身が震えた。恐怖が全身を這いまわる。そしておぞましさと鋭い嫌悪が胸を鷲掴みにする。
「こんなのをわたし、望んでない……。わたしは……」
 おぞましいのは自分だった。嫌悪を感じているのは、自分自身に対してだった。自らの憎しみと呪いが、この現実を生んだ。すべてではないにせよ、この現実の一部に、ヨサミは自分が根深く関与してしまい、自らの手を血に染めている自覚をはっきりと持った。
 ヨサミは叫んだ。カガチを呼び続けた。やめて、もうやめて、と。
 だが、戦いに没頭するカガチは、そのような言葉を聞き入れる耳を持たなかった。情け容赦なくカナン兵を殺戮して行く。
 ヨサミとクシナーダは叫び続け、そしてやがて力尽きて崩れ落ちるようにその場に腰を落とした。どちらの泣き顔も憔悴しきったものだった。
 二人の背後には、夜を徹する山越えを行ってきて、やはり疲弊した巫女たちがいた。彼女らもこの無残な光景の目撃者となることしかできなかった。
 彼女ら巫女は、いわばカガチの連合軍をまとめ上げる人質のようなもので、親衛隊によって守られているというよりも、事実上は拘束されていた。彼女らはそれぞれ打ちひしがれたクシナーダやヨサミのところへ行こうとしたが、その親衛隊に押しとどめられてしまっていた。
「ヨサミ……」アナトらの目にも涙があった。
 ヨサミの受けている悲しみと衝撃。そして自責。
 それはすべてアナトらキビの巫女たちが共有するものでもあった。この戦闘に参加している多くの者も、キビの国から招集された兵士だからだ。その兵たちがいかに情勢とはいえ、トリカミの里人たちをも傷つけている。命を奪っている。幼子を槍で突き刺し、残忍に高笑いする。女を犯し、欲望を満たす。そして物を奪い、悦に至る。
 その狂気の連鎖がこのトリカミの里で演じられていた。それまでまっとうに生きてきた男たちであっても、殺し合いという恐怖と高揚の中で、狂わずにはおれないのだ。
 長く穏やかな暮らしを保ち、そしてカガチによる支配と横暴にもかろうじて耐えてきたこの里の平和が、ついに破られていた……。
「アナト様」と、声をかけてきたのは、キビの中でもっとも年若いイズミだった。周囲の親衛隊の耳をはばかりながら小声で言った。「申し訳ありません」
「イズミ……?」
 イズミの横顔には苦渋が浮かび、そして鋭い怒りのようなものが立ち上っていた。
「わたしはカガチからキビが離れることに消極的でした。わたしのワケは、カガチの直接支配するヒメジなどからも近いがゆえに……。しかし、わたしは今、自分に腹が立っています。わたしは憶病でした。トリカミのこの様は、わたしたちの責……」
「イズミ……」
「策を練りましょう。きっと何か道があるはず」
 その時だった。アナトたちの背後で、イスズの声が上がった。「アカル様……いかがなされました」
 見ると、イスズが支えているアカルは真っ青になって脂汗を浮かべていた。両手で胸元を押さえて、苦悶に表情をゆがめている。身体が強くないのに山越えを強行したためかと思われたが、そうではないことがすぐにアナトたちにもわかった。
 彼らが踏破してきたヒバの山を遠くに見た瞬間、アナトはぞくりとする戦慄を覚えた。その山の姿そのものが、異様な鬼気をはらんでいたのだ。同時にうっと呻き声を発し、シキが両手で頭を抱えるようにした。アナトも激しい嫌悪感と頭痛に襲われ始めた。
「あれは……」霊視能力に秀でているナツソが指差した。
 曇天の空は、今は降雪を止めていた。その空に、ヒバの山のほうから言うに言われぬ、真におぞましきものが近寄って来ていた。
 すうっと血の気が引いた。これほどの嫌悪を、かつていかなる毒虫や毒蛇にも覚えたことがなかった。アナトは瞬間的に嘔吐するほどのむかつきを感じ、かろうじて耐えながらその気配を自分の周囲から追い払った。が、それは闇の気配の濃厚さに対して、あまりにもか弱いものでしかなかった。
「いや……いや! 来ないで!」ナツソが悲鳴を上げる。
 巫女たちはこのとき、一人の例外もなく凍り付いていた。
 触れてはならぬもの。
 開けてはならぬもの。
 ワの国の巫女たちの間でひそかに伝えられてきた絶対の禁忌――このトリカミが封印してきたもの――が、すでに解き放たれてしまったと知った瞬間だった。
「ヨモツヒサメ……」口にしたくもないその名をアナトの震える唇が発した。
 巫女たちの動きや視線に、なんだ? というふうに親衛隊も空を仰ぐが、彼らにはその姿を確認することはできない。だが、巫女たちには〝それ〟の存在は現実そのものだった。
 ヨミから解き放たれた禍津神――その中でも、もっとも恐るべき〝死の使い〟であった。悪霊の集合体のようなものが、今やトリカミの上空に忍び寄り、漂っていた。それはただ一体でさえ、抗いがたいほどの強烈な〝負〟の磁場を放射しているのに、その数は八体を数えた。彼らは地上に発生する悲しみや憎しみ、そして絶望の想念を吸い上げていた。
 そして――

 笑っていた。

 その笑みを目撃した瞬間、アナトは発狂しそうになった。
「アナト様!」
 声と共にシキやイズミが腕をつかまなければ、そのまま意識を飛ばされてしまったかもしれない。危ういところでそのがけっぷちに留まり、アナトはどっと放出した汗が一挙に凍りつく感触を味わった。


「何を騒いでいる」親衛隊が不審げに言った。だが、そういう彼らにも、否定しがたい不調感が生じているようだった。顔が青ざめている。
「アナト様、このままでは……」シキがおそらく無意識にだろう、勾玉を握りしめて言った。「この里の人は死に絶えます」
 頷きながらアナトは、自分も勾玉を握りしめた。
「皆、心を強く持って。この里に結界を張りましょう」
「アカル様、大丈夫ですか」
 イスズに支えられながら、アカルもなんとか身体を保持する。
 巫女たちは勾玉を掲げ、その光を空に発し、結界を広げようとした。だが、ヨモツヒサメのあまりにも濃密で強烈な闇は、それをみるみる押し包み、呑み込んでしまおうとした。

 ――イイ餌ガアル。
 ――ゴ馳走ダ。

 巫女たちの存在に焦点を合わせたヨモツヒサメの意識が飛んでくる。それは飢えた獣が、餌食となる生き物を目の前にして、涎を垂れ流すようなものだった。その邪悪さ、欲望の根深さは、巫女たちを残らず震え上がらせた。

 ――コヤツラノ恐怖ハ美味。
 ――ハハハハ!

 光の結界がたわみ、ぼろぼろに腐って行くのが見えた。その穿たれた結界の穴から、ヨモツヒサメの禍々しい〝力〟がどろどろと注ぎ込まれてくる。それはみるみる勢いを増し、土砂崩れのように襲い掛かってきた。
 食われる!
 アナトは死を覚悟した。

 その瞬間、事態に変化が生じていた。打ちひしがれていたはずのクシナーダが、いつの間にか立ち上がっていた。そして勾玉を掲げ、光を放っていた。
 その眩い光はヨモツヒサメたちの圧力を押し返し始めた。
「すごい……」シキが感嘆の声を上げた。
 クシナーダは眼を閉じ、そして歌っていた。花の歌だった。

゚・*:.。..。.:*・゚命は昇る陽(ひ)
゚・*:.。..。.:*・゚光となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの大地を温める

゚・*:.。..。.:*・゚命は巡る月
゚・*:.。..。.:*・゚影となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの道を照らす

゚・*:.。..。.:*・゚命はそよぐ風
゚・*:.。..。.:*・゚息吹となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの身を生かす

゚・*:.。..。.:*・゚命はうるわし花
゚・*:.。..。.:*・゚愛となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの心を満たす

゚・*:.。..。.:*・゚花よ花よ花
゚・*:.。..。.:*・゚咲き誇れ
゚・*:.。..。.:*・゚おまえの命のヒビキのまま

゚・*:.。..。.:*・゚花よ花よ花
゚・*:.。..。.:*・゚見せておくれ
゚・*:.。..。.:*・゚愛がこの地を満たすのを

 その歌声がヨモツヒサメの邪気をみるみる中和して行った。
「わたしたちももう一度」アナトは呼びかけた。
 巫女たちは〝力〟を合わせ、結界を今一度押し広げた。そのさなか、クシナーダの歌のヒビキとともに宙を舞うものをアナトは見た。
 天女? 一瞬、そう思った。宙を舞い踊るその女たちの姿は、羽衣をまとった天女そのものに思えた。が、アナトはすぐに気づいた。彼女らはこの里の巫女たちの御霊だと。
 その数は七つ――。
 すでに肉体を失ったトリカミの巫女たちの霊が、今も生まれ育った土地を守り続けているのだった。その巫女たちの舞いとクシナーダの歌声に勇気づけられたように、この地に息づいている草木、花、川、石や土の精霊たちが、地に姿を見せ始めた。それぞれの愛らしい姿で。
 彼らもまた、あらんかぎりの助勢を行っていた。悪しき猛毒の侵入を防ぐため、それぞれの光で、それぞれのヒビキで――。
 結界は拡大し、里全体を包み込んだ。そして、それはもともとこの里が持っていた清浄な〝気〟を維持するために巧妙に配置されたいくつかの巨石と中央の柱とリンクして、強力な結界を構成した。
 ヨモツヒサメたちはその外へ追いやられ、結界内には侵入できなくなった。
「やった……」思わず巫女たちから声が上がる。
 その直後。
「アカル様!」イスズの声。
 ぐったりと力尽きたように倒れかかるアカル。それをイスズが危うく支え、今にも二人とも倒れそうだった。アナトたちも慌ててアカルを支え、昏倒して怪我をするような事態は避けられたが――。


「クシナーダ様!」シキの叫び。
 アナトが振り返った時、勾玉を捧げ上げていたクシナーダの姿はそこになかった。
 彼女は雪原に横たわっていた。


     4

「こっちだよ。早く」
 小さな体のスクナが、山野を駆けて行く。ニギヒはそれについていくだけで精いっぱいだった。薬草取りのため、周辺の土地の獣道や抜け道のことも知り尽くしているというスクナは、時に子供でしか通れないような木々が折り重なった穴を抜けたりもした。華奢な少女とは思えぬほどすばしっこく、体力もあった。
 いい大人のニギヒのほうがむしろ息が上がりそうになったが、里をかなり離れたところでようやく沢に沿った歩きやすいルートに変わった。どうやらスクナは散り散りになったカナン兵やオロチ兵に遭遇する危険を考えて、およそ人が歩くような場所でないところをあえて選んでいたらしい。
「岩戸はこの川の上流にあるんだよ」と、スクナが言った。
「スクナはそこへ行ったことがあるのか」荒い息を整えつつ、ニギヒが訊いた。
「うん。まえに薬草取ってて、たまたま迷い込んじゃったんだ。あとでアシナヅチ様に言ったら、そこが岩戸だって教えてくれた」
「どれくらいかかる」
「半日――ああ、もうちょっとかかるかもしれない」スクナは何気なくニギヒの足もとあたりを見ていた。ニギヒの足ではもう少しかかりそうだと踏んでいるのだ。
「私のことなら心配するな。ついて行くから」
「でも、スサノヲが戻ってきているんだったら、もしかしたらどこかで会えるよ」
「なるほど。そう願いたいな――」
 茂みが騒ぐ音が二人の会話を中止させた。斜面の上方から鎧の立てる音とともに、男たちの話し声も聞こえた。
 ニギヒとスクナは顔を見合わせ、沢に転がっている大きな岩の背後に回った。
 カナン兵たちだった。五人いた。彼らは警戒しながら山の斜面を下ってきた。
「大丈夫だな」
「ああ、オロチのやつらはたぶんもうトリカミのあたりまで進んでいるはずだ」
 彼らはもともと峠を防衛していた部隊だった。しかし、戦況があまりにも不利だったため、一度戦線を後退させたところで、夜陰に道を見失った者たちだった。
「ここからもう少し西へ迂回して、イズモのエステル様に合流しよう」
「…………」
「どうした?」
「いいのか、それで」
「何を言う」
「この戦、俺たちは負けるぞ。あのオロチの大将の戦いを見たか。あの化け物には誰もかなわない」
「なんだって……」
「いや、シモンの言うことはもっともだ」
「ヤコブ、貴様もか!」
「いいか、カイ、冷静になれ」
 彼らは沢へ降りてきたところで口論を始めてしまった。
「数だって違いすぎる。おそらくイズモも落とされる」
「じゃ、どうするんだ。ここは俺たちのために神が下された土地だぞ。ここ以外にどこで生きるというんだ」
「半島に戻り、もう一度、戦略を練り直すのだ」
「馬鹿な、ここまで来て……」
 彼らが早く通り過ぎてくれれば何も問題はなかった。が、彼らは足を止めてしまった。このままでは目に留まってしまう危険を感じ、スクナとニギヒはさらに岩の裏側へ回ろうとした。そのとき、スクナのつま先が小石を突き動かし、これが転がり落ちた。
「誰だ!」
 神経過敏になっていたカナン兵たちの反応は素早く、彼らの眼は岩陰に二人を見出した。
「オ、オロチだな!」
 五人は剣を抜き放ち、いっせいに詰め寄ってきた。
 ニギヒも剣を抜き、岩陰から出た。背後にスクナをかばいながら。
「われらはオロチの者ではない」と、ニギヒは言った。
「オロチでもないのに、なんでこんなところにいる」そう叫んだのは、カイだった。
「私はツクシの者だ。この戦いに巻き込まれたに過ぎぬ」
「なんでもいい。俺たちがここにいたことを報告されたら困る」
「ただの民がそんなご立派な剣を持つかよ」
「きっとカガチの連合国の者だ」
 死の恐怖と戦い続け、ひと夜を逃げ延びた者たちは、保身しか頭になかった。喚き声をあげ、斬りかかってくる。ニギヒは剣を合わせ、押し返した。と思うと、すぐ別な者が剣を突きだしてくる。あわやというところでかわすが、岩場に足を取られ、尻餅をついてしまう。
 斬られる、と思った瞬間、ニギヒに迫ってきていたカイの顔面にこぶしほどの石が命中した。スクナが投じたものだった、頬骨のあたりを押さえるカイがひるんだ隙に体勢を立て直し、ニギヒは巨岩を背に剣を構えた。
 武装も違う。相手が五人もいては、どうにもならなかった。
「スクナ、そなただけでも逃げろ。スサノヲを迎えに行け」
「だめだよ、そんな!」
「スサノヲだと……?」カイはなおも顔面を片手で押さえながら、ふと正気に返ったような反応を示した。
 その時、風が吹いた。山の斜面を風が茂みをざわつかせ、駆け下りてくる。それにつれ、木々に残る雪が舞った。
 その風は二人がよりどころとする巨岩の上に降り立った。
「スサノヲ!」スクナが頭上に立つ影に叫んだ。
 スサノヲは抜刀すると、剣を無造作に一閃させた。その剣圧がとてつもない〝気〟となって、五人のカナン兵全員に強烈な衝撃波を叩きつけた。剣に触れるわけでもなく、彼らは残らず吹っ飛ばされていた。カイは沢に背中から倒れ、ずぶ濡れになる。
 ニギヒが驚嘆の眼差しを送る中、スサノヲは剣を鞘におさめ、二人の前に降り立った。
 やや遅れ、斜面をイタケルとオシヲが下りてきた。そして現場の状態を見て、目を丸くした。

 ヘックショイ! ヘックショイ!――と、幾度もカイはくしゃみを連発させ、鼻水を垂らしていた。しかも左頬は青あざを作って腫れあがっている。
「ちくしょう、踏んだり蹴ったりだ」と、恨めしそうにぼやく。「スサノヲの知り合いだっていうのなら、先に言ってくれよ」
「命があっただけでもめっけものだと思うのだな」スサノヲは冷たく言った。「五体をばらばらにすることもできたのだからな」
 カイが大げさに震えたのは、寒さのせいか、あるいは恐怖を感じたのか。
「モルデ兄さんが言っていたよ。絶対にスサノヲと事を構えてはならぬと。よく分かった」
 彼らは沢の岩場で、しばし、話し合っていた。
「アシナヅチ様とミツハが亡くなったなんて……」スクナがショックをあらわに、力なくつぶやいた。目に涙がある。
「あのままにしておけなくてな、岩戸の近くに弔ってきた。それで戻るのに時間がかかっちまった。すまん」と、イタケルが言った。
「トリカミは今どうなっているんだろう。父さんや母さん……それにナオヒ様も」
 オシヲの言葉に、ニギヒが答えた。
「私が最後に見た時には、逃げ込んできたカナンはほぼ討ち取られていました。私の連れてきた兵たちは、祭殿に里人を集め、それを守っている状態だった。あのまま戦いが終わったのなら、ナオヒ様も、あるいは多くの里人も助かっているやもしれませぬが……」
「しかし、それ以前にかなり里には被害が出ていたんだろう?」と、イタケル。
「はい。里人は逃げてきた傷ついたカナン兵を助け、それが仇となったようです」
「カナン側に付いたと思われたってことか」
「かもしれません」
「カガチのやつ……」オシヲの眼に暗い炎のようなものが揺らめいた。「クシナーダ様にトリカミには触れぬと約束したのに……」
 空気が変わった。
 沈黙が生じた。重い沈黙であり、それはその場に居合わせたカナン兵たちの胸にも、鋭く突き刺さって来るものだった。
 その静けさの中、一羽のカラスが彼らの頭上の木の枝に止まった。スサノヲは眼を上げ、しばらくその黒い影を見つめていた。
「スサノヲ……?」スクナが気づいて、声をかけた。
 やおらスサノヲは、自分が首にかけていた朱の領布(ひれ)をつかみ、それをオシヲに差し出した。きょとんとして、オシヲは見つめ返した。
「オシヲ、この領布を預かっていてくれ」
「え……なんで?」
「いいから。預かっていてくれ」
「うん……」
「未来を信じろ。この世を去ったミツハが、いつかおまえがこの世を去るとき――ずっと先だろうが――そのときには必ず迎えてくれるはずだ。そのときにおまえが、ミツハに誇れるおまえでいるのだ。そのことだけを考えろ」
「ああ……」オシヲは戸惑いながら領布を握った。
「カイ――」スサノヲは身を乗り出した。「カナンは償いをせねばならぬ」
「償い……?」
「〝殺すなかれ〟〝盗むなかれ〟〝隣人の家を欲しがるなかれ〟――おまえたちは、おまえたち自身の存在意義に背いている。おまえたちはいったい、この島国の何百、いや、何千人を殺した? どれほどのものを盗み、そしてどれほどの隣人の家をわがものとした?」
「な、なぜ、十戒を……」カイは真っ青になった。
「そんなことはどうでもいい」
「そ、それは……。その教えは、わが同じカナンの民の中でだけで存在するもので……」
「つまり異教徒の民には適用されぬというのだな」
「そ、そうだ」
「おまえらのいう唯一の神は、いったいどこまでを創造したのだ!」
 スサノヲの怒号は、その場の全員の体を地震のように動かした。
「この地上のすべてではないのか! ならば、このワの国、おまえらが執着する豊葦原瑞穂の国も、おまえらの神が創造したということではないのか! でなければ、この国の権利を主張することなどできぬぞ!」
「…………」
「異教徒ならば殺してよいのなら、おまえらの神はこの地上のすべてを創造していないことになる」
「い、いや、しかし、神は常に信仰に背く者は滅ぼし、選ばれた者だけを救ってきた」
「かの洪水やソドムとゴモラのときのようにか」
「そうだ。神はこの地すべてを創造されたが、神の教えに背く者がいるだけのこと」
「つまり神の教えに背く異教徒なら殺してもよいと?」
「そ、そうだ……」
 そう言ってから、カイは、そして他のカナンの兵士たちは、スサノヲやその場にいる、ニギヒ、スクナ、イタケル、オシヲらの顔を見た。動揺しきった眼差しで。
「それで良いと本気で思うのか――と、エステルに伝えよ」スサノヲは静かに言った。「自分たちだけが選ばれた民、神に愛されていると者だと、世界中に声高に叫んでみろ。そして望むところすべてを手に入れてみようとしてみろ。未来でも同じような者たちが必ず現れ、いたるところに船出し、その土地を神の名のもとに得ようとするだろう。だが、おまえらと同じように、自分たちの神と信仰こそが唯一のもので、他は認めぬという民がもしおまえらとは別に現れ、おまえらに対峙したらどうなる?」
「…………」
「どちらかを完全に滅ぼすまで、その戦いと憎しみは消えることがなくなるのだぞ。それが神の意志だとでもいうのか? 何も知らぬ赤子や、善良な人々を、おまえらがこの地でいかほど殺したか。この先もそれを続けることを、おまえらは人としてそれを望むのか」
「…………」
「神ではない。人として考えよ。そのようにエステルに伝えよ」
「わかった……」
「ならば、行け」
 カイは周囲の様子を見ながら、ゆっくりと立ち上がった。同調したように、他の四人のカナン兵も立ち上がった。
 彼らは去って行った。
「スサノヲ?」スクナが、今一度、不審げに言った。
「みんな、先にトリカミに戻ってくれ。たぶん、そこはオロチ軍が占拠しているだろう。気を付けて、中の様子を探ってくれ」
「スサノヲは?」
「俺はここで一つやることができた。必ず追いかけるから、先に行ってくれ。イタケル、それにニギヒ、オシヲとスクナを頼む」
 スサノヲは上空を見ていた。誰もがその様子に不審を感じていた。今は一刻も早くトリカミに戻らねばならぬはずだった。それ以上に重要な使命はないはずだというのに、スサノヲは何か違うものに意識を向けていた。
 まさか――イタケルは立ち去りながら、嫌な予感に胸をつかまれ、思わず振り返っていた。
 その胸騒ぎ、嫌な感触は、アシナヅチとミツハが殺されたとき、岩戸の前で感じたそれを思い起こさせた。


「これは……どうしたというのだ」
 トリカミに残存するカナンの兵士たちをあらかた血祭りにあげ、戻ってきたカガチは不審と戸惑いを隠せなかった。巫女たちは一カ所に集まり、気を失っているクシナーダとアカルを介抱していたからだ。親衛隊もこの異常な事態に、巫女たちの行動に制限をかけ続けることはできなかった。意識をなくした二人はまるで死人のような肌の色をし、冷たくなっていたのである。血の気というものがなく、かすかに上下する胸が呼吸があることを伝えてくるだけだ。
「何があった」
 巫女たちは沈黙を守っていた。カガチは苛立ち、声を荒らげた。
「アカル……アカル!」
 怒声のような言葉に、アカルは薄く目を開いた。だが、それだけだった。唇は震え、声を発することもできず、また目は閉じられた。
 カガチはみずから手を伸ばし、巫女たちの輪の中からアカルの華奢な体を抱き上げた。
「おい、クシナーダも連れてまいれ」
 巫女たちは連合軍をまとめ上げるための人質のようなもの。死なせてしまっては元も子もない――という打算以上の動揺が、カガチには見られた。みずからアカルを抱き上げ、運ぶ横顔をヨサミはずっと見ていた。



 さきほどまでの、戦場での悪鬼の如きカガチではなかった。トリカミの里の中心部にある家屋の一つに運び込むと、カガチは部下に向けて怒鳴った。
「火を持って来い! 暖めろ」
「カガチ、わたくしたちにお二人を見させてください」イスズが言った。「男ではどうにもなりませぬ。今は一刻を争います」
「……わかった。任せよう」
「衣を着替えさせます。お出になってください。それからここの里人に言って、着替えを持ってこさせてください」
 カガチは床に横たわった二人の巫女を見、それから家を出た。ヨサミはカガチのそばへ、ほとんど本能的な動きで近寄った。
「なにがあった」
「…………」
「答えよ」
「はっきりとはわかりませぬ……」ヨサミは枯れたような声で、ようやく言葉を返した。「なにか恐ろしいものが里を覆っていました。それを二人は……いえ、皆が押し返したように感じました」
「恐ろしいもの? お前は見てはおらぬのか」
「わたしはもう……〝力〟をすべてカガチ様に捧げておりますゆえに」
 チッ、とカガチは舌打ちした。そして向かったのは、少し離れた場所にある大きな祭殿だった。その前にある広場にトリカミの里人が集まっていた。数はざっと百名近く――。子供の泣き声や怪我人の呻き声が聞こえる。戦闘に巻き込まれ、ここへ運び込まれた者も大勢いるのだ。
 その里人の集団を十名ほどばかりの屈強な男たちが守っていた。たまたま逗留していたイト国の客人だという話だったが、いずれも優秀な兵士であり、オロチとカナンが入り乱れた混乱時にも、集まった里人を守って戦い、犠牲者を最小限に留めた。そのような手練れの兵がこの場にいたことに、カガチは胡散臭さを感じていた。
 その兵士たちも含め、里人の集団を、今はオロチ連合の兵たちが包囲していた。
 里人たちはカガチが近寄ってくると、恐れおののきながらも身を乗り出すようにする者もいた。彼らはクシナーダたちが運び込まれたのを見ていて、自分たちの巫女のことを案じていたのだ。
「巫女の着替えを二着、用意しろ」と、カガチは誰にともなく命じた。「聞こえぬのか! 貴様らの巫女が死にかかっておるのだぞ」
 クシナーダ様が……と里人に動揺が走った。女が一人、群衆の中から抜け出てくる。
「衣を取りに行ってもよろしいでしょうか」おずおずと尋ねる。
 カガチは顎をしゃくり、促した。女は駆け出して行った。
「そなたがカガチか」群衆の中から出てきた老婆が言った。「わしも行ったほうが良いと思うが」
「何者じゃ」
「ツクシのアソの巫女、ナオヒという」
「ナオヒ様……?」ヨサミはその名を聞き、少なからぬショックを受けた。
 カガチはそんなヨサミをわずかに振り返り、老巫女に向き合った。
「アソの大巫女様か。お初にお目にかかる」
「わしもクシナーダとアカルの手当てをしたいが、よろしいかのぉ」
「アカルのことを知っておるのか」
「親戚筋じゃからな」杖を頼りにナオヒは歩いてきて、カガチの前に立った。「アカルはその〝力〟と引き換えに、体は極めて虚弱じゃ。それはそなたも知っておるのではないか」
「治療ができるのだな」
「アカルを癒したいのなら、わしを行かせることじゃな」
「癒せなかったら?」
「こんな老いぼれ、いつ命を取ってくれてもかまわぬぞ。アシナヅチを殺めたようにな」
 固唾を呑み、聞き入っていたトリカミの里人を深甚な衝撃が襲った。アシナヅチ様が?! とざわめきが動揺と共に広がる。
「アシナヅチもミツハももはやこの世におらぬであろう? そなたらが命を奪ったのではないか」
「結果的にはそうだな」
 この瞬間、剣呑な空気が里人の間に流れた。いかにトリカミが穏やかな民だとしても、ここに至るまでにカガチの暴虐は、忍耐の限界に達していたと言っていい。その上、首長まで殺されたと聞いて、殺気立つなというのは無理な話だった。
「アシナヅチはカナンとの戦に巻き込まれた。ただ、それだけのこと。今も好んでこの里の者を殺すつもりはない。――だが!」カガチは鋭い眼光と威圧的な声を民の頭上に投げた。「われらの邪魔をするというのなら話は別だ。俺に目障りだと思われぬことだ。あのクシナーダを生かすも殺すも、おまえら次第――」
「ずいぶんと弱々しい言葉じゃ」
「なに?」
「人を信じられぬから、安心するための材料が欲しいのであろう。それにしがみつき、声高に叫ぶ。それはそなたが弱いからじゃ。今までもそのようなやり方をしてきたようじゃが」
「貴様……」カガチは剣を抜き放ち、ナオヒに向けた。
「はっはっは」と、ナオヒは刃の下で笑い声を立てた。「この枯れ木のような老いぼれ一人、殺すことでしか憂さを晴らせぬか。弱い弱い」
 ぶるっと剣が上下に震えた。が、カガチはわずかな葛藤の後、剣を引き、鞘に収めた。
「年寄りには口では勝てぬわ」
 にっとナオヒは皺だらけの顔で笑い、里人たちを振り返った。「――皆、わしの言葉をアシナヅチの言葉と思うて聞いておくれ」
 里人の目が、ナオヒに集まった。
「かように弱き者の脅しに怯え、絶望することなどない。皆、真の強さとは何か、考えるのじゃ」
 そう言うと、ナオヒは里人に背を向け、クシナーダたちが運び込まれた棟へ歩き出した。
 しばらく沈黙があったが、一人の男の里人が動き出した。カガチのそばを通り過ぎ、オロチ兵の包囲の外へ出ようとする。むろん兵士は剣を向け、出すまいとした。
「どけ。まだたくさん怪我人がいるんだ」里人が決然として言った。
「そうだ。亡くなった者も弔わせてくれ」そう言いながら、また別な里人が立ち上がった。
 次々に同調した里人がいっせいに動き出した。
 兵士たちはどう対処していいものか、困惑した。もの問いたげな表情で、自分たちの王を見る。カガチはまた舌打ちした。武器も持たない者たち――しかし、断固として動き出した彼らを押しとどめる術はなかった。あるとすれば殺してしまうことだけだが、それをするのはあまりにも億劫に感じられた。殺意がそこまで掻き立てられないのだ。
「好きにさせてやれ。クシナーダがこちらの手にある限り、こいつらは言うことを聞くしかない。だが、そのイト国の連中からは武器を没収しろ」
 カガチの命令で兵士たちは動いた。イト国の兵はそれに従った。
 祭殿のそばから人が広がっていく。怪我人も、それぞれの家へと運ばれていく。子供たちもそれにつき従った。
 やがて広場には誰もいなくなった。
 そうなるまでカガチは、動かずにそこに立っていた。彼には民たちのことは、何一つコントロールできてはいなかった。
 その背中をヨサミは見続けていた。喉元まで出かかった言葉が出なかった。
 ――アカル様はあなたのいったい何なの。
 そう尋ねたかったのだ。


 ――良イノカ。
 大きなカラスを媒体に、サルタヒコが告げた。
 ――アノ領布ナクシテ、よもつひさめニ対峙ハデキヌゾ。イヤ、タトエ領布ガアッタトコロデ、焼ケ石ニ水デアロウガナ。
「あの領布がなければ、オシヲや他の者が危険にさらされる」スサノヲはつぶやくように応え、そして剣を抜いた。
 ――馬鹿者ガ。一人デ何ガデキヨウカ。
「黙っててくれ」
 ――来ルゾ。
 スサノヲは見た。
 無数の蛾が覆い尽くすように、空が闇に塗り替えられるのを。


     5

「ナオヒ様!」
 入ってきた老巫女を見て、アナトが大きな声を上げた。いっせいに振り返った巫女たちを順に見返し、最後にアナトのもとに視線を戻したナオヒは言った。
「久しぶりじゃな、アナトよ」
「は、はい――」アナトは我に返ったように反応し、老巫女の前に膝を折った。
 他の巫女たちも同様に動こうとするが、ナオヒはそれを制した。「そのような堅苦しいこと、今はよい。それよりも……じゃ」
 横たえられた二人の巫女は、ちょうど濡れた衣を着替えさせられたところだった。まだ意識は失ったままである。
 ナオヒは二人の間にしゃがみ、それぞれ順番に自らの手を心臓のあたりにかざした。
「ふむ……クシナーダは大事ないじゃろう。一度に霊力を使いすぎたのじゃ。この娘(こ)はもともとわりあい丈夫じゃからな。いずれ意識を取り戻すじゃろう」
 ナオヒの言葉通り、クシナーダの頬は少し血色を取り戻しつつあった。
「問題はアカルじゃ」
 アカルはまるで死人のような顔色のままだった。は、は、という短く浅い呼吸が、まるで死期が迫ったかのようにか細い。
「皆で今、〝気〟を注いでおりましたが」と、アナトが。
「それだけでは足らぬ。アカルはな、とてつもなく敏感な霊媒体質を持っておる。そのため、あのものどもの穢れを受け取ってしまったのじゃ。それを吐き出させねば」
「どのようにすれば?」
「そなたらは〝気〟を入れてやっておくれ。わしがやってみよう」
 ナオヒは仰向けに横たわるアカルの身体を転がすように横向けた。老体でも可能なほど、細くて軽い身体だった。巫女たちは輪になり、手をかざした。彼女らの掌から生命の力が、見えざる波となって送られる。その中でナオヒは祝詞(のりと)のようなものを口ずさみながら、しばらくアカルの背を撫で続けていた。そして、あるときポンと背を掌で叩いた。
 けほ、とアカルは喉につかえていた何かを吐き出すように咳き込んだ。すると、にわかに気道が開いたように大きく息を吸い、そして吐いた。
 ああ、と巫女たちは希望に満ちた声を上げた。
 アカルは眼を開いた。が、うっと口元を押さえ、背を波立たせるようにした。嘔吐に耐えているのだ。
「器を……」ナツソがその家にあった大きな鉢を持ってきた。
「我慢するでない。すべて出してしまうのじゃ」
 一瞬、ナオヒの声にアカルは振り返り、誰かということを認識したようだったが、激しい嘔吐感に襲われ、鉢の中に胃の内容物を吐き出した。肉体が受け取ってしまった穢れを猛然と拒絶し始めたのだ。ナオヒはずっとアカルの背をさすっていた。吐くものがなくなっても、えづきはなかなか止まらず、アカルは苦しみ続けた。
 ようやく収まってきたときには、もう精も根も尽き果てたような状態で、またぐったりとなってしまった。
「ナオヒ様……おひさしゅうございます……このような有様で、申し訳なく……」
 意識を失いつつも、そんな言葉を口にした。
「よいよい。今はゆっくり眠るのじゃ」ナオヒはアカルの手を握り、笑顔で眠りの世界に送り出した。
 アカルには幾枚もの布がかけられ、家の中の囲炉裏でも火が焚かれ続けた。やがて彼女の顔にも血の気が戻ってきた。体温も上がってきたようだった。
「よかった……。大丈夫ですね、もう」アナトが心底の安堵を込めて言った。
「うむ……」
「ナオヒ様がこちらにおわしましたとは……ありがとうございます」
 あらためてアナトは、ナオヒの前で身を低くした。他の巫女たちもそれに倣った。
「勾玉のヒビキに引かれたかの……。それはそなたらも同じであろう」
 巫女たちは顔を見合わせた。
「お初にお目にかかる者もおるな」
 この中でヤマトのイスズ、そしてキビの中ではイズミとシキは、ナオヒとは面識がなかった。
「わたくしにもご紹介ください」
 声がして、一同ははっとなった。
 クシナーダがそこに身を起こしていた。まだ少し顔色の冴えないところはあったが、はっきりとした眼差しをしていた。
「クシナーダ様……」
 巫女たち――とりわけキビの四人の巫女たち――は固まってしまった。時間までもが凝固してしまったような後、彼女らはこぞってクシナーダの前にひれ伏した。
「も、申し訳ありませんッ!」叫ぶように言ったとき、アナトの双眸から涙が溢れ出し、床を濡らした。
「申し訳ありません」
 巫女たちは続いて異口同音に言った。
「本当に……本当に申し訳なく思っております。何とお詫びしていいか……言葉もございません」
「アナト様……。わかっておりますよ。あなたがたも家族を囚われ、苦しいお立場」
「しかし、トリカミの里をこのように血で汚し、あまつさえ、ヨモツヒサメを呼び出す結果となってしまいました。何もかも、わたしたちが至らず、カガチに組し続けたため……」
「カガチには逆らえぬでしょう。あなた方も自らの国を守っていたのですから」
 シキやナツソは顔を伏せたまま、声を上げて泣き始めた。それは他の巫女たちにも伝播した。クシナーダは彼女らのほうへ寄り、そして一人一人を抱くように、そっと背に手を置いた。
「もうおやめください。わかっておりますから」
 イスズもクシナーダの前に膝をつき、頭を下げた。
「ヤマトのイスズでございます。わたくしからもお詫び申し上げます」
「イスズ様……あなた様のこと、ずっと感じておりましたし、お噂に聞いておりました。ヤマト・ミモロ山におわす予知の巫女様と」
「クシナーダ様にはとうてい及びませぬ」
「皆様、お顔を上げください。皆様の眼を見てお話しとうございます」
 そう言われ、巫女たちは顔を上げた。キビの巫女たちは頬や鼻を赤くし、いまだに泣き声を押さえられずにいた。クシナーダを前にして、自分たちが胸に溜めていた罪悪感が心情の吐露とともに決壊したようになっていた。ちょうど悪さをした子が、母親の前で打ち明けるときのように。
 この中でクシナーダよりも年若い巫女は、イズミしかいなかった。にもかかわらず、彼女ら全員にとっての母性として、クシナーダはそこに存在していた。それは理屈ではなかった。
「皆様のお辛さは、わたくしは誰よりもよくわかっております。わたくし自身、とても罪深き者……」クシナーダは静かに語ったが、その表情には濃い憂愁の色が滲んできた。「実の姉であるアワジをはじめ、このトリカミの里にいた年上の巫女たちは、ずっとカガチの犠牲になってきました。それはすべて、この時が至るのを待つため、そしてわたくしを生かすためでした」
 衝撃を受け、巫女たちは言葉を失い、クシナーダの告白を聞いていた。
「守ろうとした父母も殺され、最初に姉が連れ去られるとき、姉はわたくしとアシナヅチ様に申しました。何があっても最後までわたくしを生かせ、と。それがすべてを救うことになると……」塑像のように語るクシナーダ。しかし、そのつぶらな瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちた。「姉もまた予知に長けた巫女でした。アシナヅチ様も……わたくしも……ある未来を視ていました。それはある光がここへ到着し、闇を払う未来でした。その光を待つためには、わたくしは生きなければなりませんでした。ひとり……生き残っていくこと……愛する者の死を見送りながら、自分だけが生き続けること……それは何にも増して辛うございました」

 その言葉を戸口のすぐ外で聞いている者がいた。ヨサミであった。
 彼女は家の中で泣き声がしているのを聞き、誰かが亡くなったのかと危ぶみ、戸口のところまでやってきたのだ。だが――。
 ――同じだった。
 ヨサミは痛烈な衝撃と悲しみに胸を貫かれていた。泣き声を上げるのを堪えるため、両手で思い切り口を封じなければならなかった。


 ――クシナーダ様は自分と同じだった。
 たった今まで、ヨサミはそのようなことは想像にすらしていなかった。父母を殺され、愛する国を滅ぼされ、ただ一人生き残ってしまった苦しさ、辛さ、悲しさ、そして孤独。
 それは誰にもわからぬものと思っていた。
 だが――
 ……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……。
 迫ってくる夕闇の中、ヨサミはその場にうずくまり、心の中で繰り返していた。

 クシナーダは涙をぬぐった。が、むしろ彼女の告白を受け、他の巫女たちのほうが泣いていた。年長で冷静なイスズでさえ、涙を禁じ得なかった。
「え……と。あらためて自己紹介を致しませんか」
 クシナーダは気分を変えようとするように、ナオヒのほうを見た。
「そうじゃな。わしは親戚筋のアナト、ナツソ、アカルは知っておるが」
「親戚筋なのですか?」
「……もともとキビのアゾというのは、大巫女様のいらっしゃるアソから取られた地名です」ようやく泣き止みつつ、アナトが説明した。
「アカルのおるタジマのあたりにも、アソ海という砂州で仕切られた海があるのじゃが、それも同じじゃ」と、ナオヒが補足した。
「まあ、海の名前にも?」
「クシナーダなど知らんじゃろうが、昔アソの御山の中にはそれはそれは大きな湖があっての、同じように呼ばれておったのじゃ」
「ナオヒ様はご覧になったことが?」
「あるものか。何千年も昔の話じゃ」
 巫女たちは二人のやり取りにふっと笑った。
 が、その直後、クシナーダが別なものに気を取られた。
「スサノヲ……?」
 彼女の眼は大きく見開かれ、はるかかなたを見るように視線を送った。
 その瞬間、地が揺れた。


 空を満たす闇は、霊視的なものというには、あまりにもリアルだった。もちろん山間に忍び寄る夕闇などでもない。
 そもそもスサノヲには、巫女が持つような霊視能力はなかった。が、サルタヒコと会話するときのように、ある種の波長にはセンサーが働くことがあった。サルタヒコとはまったく異なるが、その〝存在〟もなぜか彼が認識できるチャンネルの一つだったようだ。
 闇は、蛾か蝙蝠かが無数に羽ばたくようなイメージだった。それが集まりながら舞い降りてきた。スサノヲの目の前に――。
 それは一個の人のような形を維持しつつ、茫洋と揺らめく影となった。
〝影〟は嘲笑(わら)っていた。そのように見えたというよりも、それが伝わってきた。
 ――オマエカ。
 言葉にすれば、そのような思念である。〝影〟はスサノヲに関心を示し、同時に嘲笑っていたのだ。
「ヨモツヒサメ……」スサノヲは手にした剣を振り向けた。
 すると嘲笑的なものが、さらに大きくなって押し寄せてきた。
 ――ソノヨウナモノ、ワレラニハ何ノチカラモ持タヌ。
「そうかな……? やってみなくちゃ、わからんだろう」
 言下に、大気がびりびりと震えるような波動が生じ、それはスサノヲに集まり始めた。凝縮されるエネルギーがみるみる増大して行き、収まり切れないものが身体のまわりで爆ぜた。
 爆発するようにスサノヲは〝影〟を斬った。
 その〝力〟は、カイらカナン兵たちを吹っ飛ばしたときの比ではなかった。放出されたエネルギーは周囲の木々を薙ぎ払い、太刀筋に沿って抉り取ったような痕跡を大地に刻み付けた。
〝影〟は跡形もなくなり、粉々に消え去った。
 気配も消えていた。
 スサノヲは周囲を見まわし、剣を鞘に収めた。そして、歩き出した。渓流に沿った道を、イタケルたちの後を急ぎ追うために。

 ビチャ

 音がした。それは普通の川の流れ音ではなかった。流れの中に何者かが足を踏み入れるような、そんな異音だった。

 ビチャ
 ビチャ

 スサノヲの歩みに同調するように、その音は追ってきた。振り返ると、川の流れが異常だった。
 岩も何もない川の流れの真ん中に、何かがいた。二本の脚がそこへ突っ込まれているように、ある二つの場所だけ、流れが迂回しているところがあった。
 ――キヲツケロ!
 それは以前にも聞いた、サルタヒコの警告だった。
 またあの嫌な気配が生じた。無数の蛾が集まるように、真っ黒な羽ばたきが集まり、その川の流れの上に〝影〟となった。〝影〟から無数の触手のようなものが、バネに弾かれるような勢いで伸びた。その一本はスサノヲに向けたものだったが、彼は反射的に横へ飛び退いてそれを避けた。
 が――。
 四方八方へ延びた闇の触手は、渓流沿いに植生する樹木の幹に絡みついた。すると、 樹々はまるで生命を吸い取られたかのように、みるみる枯れた。
 闇の触手は間髪を入れず、スサノヲに襲い掛かってきた。彼は剣を抜き払い、襲来する触手を退けた。彼の放つ〝気〟は、闇の触手に対してまったく無効ではなかった。が、あまりにも数が多すぎた。神速を持つ彼の剣技とて、無限のように増え続ける触手に対応しきれるものではなかった。そして、どんどん森が枯れて行った。
 野獣の吠え声が響いた。
 それは岩戸への往路、遭遇したツキノワグマだった。胸元に鮮やかな月の紋章を持つその熊は、出現するや、猛然と〝影〟に向かって突き進んで行った。
 豊かな恵みを持つ山々を穢し、枯らす存在。
 それに対するはっきりとした敵意をむき出しにし、熊は咆哮し、向かって行った。だが、彼にも触手が突き刺さり、絡み付いた。
 熊は山々を震撼させるような苦しげな喚き声を上げ、飛びかかろうとしたまさにその空中でもがき苦しんでいた。そして――。
 みるみる色を失った。
 灰色のような、白っぽい存在へと変容し、身が――そして骨が――宙に霧散して消えた。
 ――ワレハ〝死ノチカラ〟
 ――ワレニ触レルナ。
 ――ワレニ触レレバ腐レル。
 ――触レレバ滅ビル。
 死そのものの宣告が迫ってくる。たった一体のヨモツヒサメ。
 それにスサノヲはなす術もなかった。
 触手の一つが、スサノヲの胸を貫いた。
「!」
 その瞬間、スサノヲは自らの命がとてつもない勢いで、吸い取られていくのを感じた。



 肉体がそこから、急速に乾燥して、ぼろぼろに崩れていく――。
 絶叫した。
 と、同時に地が揺れた。
 ――ここで俺は死ねない!
 スサノヲは渾身の〝力〟を集め、剣を振った。触手を断ち切り、その身体は川に落ちた。
 ずしん、という重い響きと共に大地が鳴動した。ものすごい地震が生じ、その振動がありとあらゆるものを囲繞(いにょう)した。巨大な自然のうねりにヨモツヒサメも動きを止め、様子を伺った。触手に枯らされた樹々は真っ先に倒れ、そして生きている立派な樹木さえも、みしみしと悲鳴を上げ、しなり続けた。
 そして、山の一部が決壊した。上流で川の流れに制約を加えていた巨岩が動き、転がり落ちた。と、同時に堰き止められていた水が、その決壊した場所を中心に一挙に周囲の山土を粉々に突き崩し破壊しながら奔流となって駆け下った。
 スサノヲはもがき苦しみながら、身を起こした。
 その彼が見たのは、自らに襲い掛かる土石流だった。




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ヤオヨロズ第5章 為すべきこと


    1

「洪水だ!」
 叫びがトリカミに響き渡った。それは鋭い揺れの地震の後だった。
 地震は激しいもので、家屋のいくつかが倒壊した。慌てて外に飛び出した里人がほとんどで、下敷きになって怪我をするような者はいなかった。が、それからほどなく斐伊川のほうから異様な轟きが迫ってきた。
 トリカミは小高い場所に中心の集落があり、洪水そのものがその丘に駆け上ることはなかった。が、それによって甚大な被害をこうむったのは、他ならぬカガチの軍勢だった。
 オロチ連合軍はトリカミ一帯からカナンを追い払うと、そのまま川の下流方向へ部隊を展開していた。トリカミのやや北の広い河原に主力を配備し、さらに北に位置するイズモのカナン軍に備えていたのだ。
 気づいたときには遅かった。あっと振り返ったときには、巨大な泥の化け物のような洪水が、兵たちを残らずひと呑みにし、濁流の中に叩き込んでしまった。氾濫した川の水が眼前にまで迫り、命からがら逃げだしたのは、キビから同行していたイオリ――キビで山城を造営していた太守――と、彼の周辺にいたわずかな者ばかりだった。
 難を逃れたイオリは泥だらけになってトリカミまで引き返し、カガチに報告をした。
「ほどんど全滅だと……」カガチの表情はさすがにこわばった。
「い、いえ。今も生存者を探しておりますが、あの有様では大半はとても助からぬものと……」
 焚火のそばでカガチは、すでに夕闇が濃くなったトリカミの里を見まわした。トリカミには里人の反抗があったときのために百名ほどの兵を残していた。それだけいれば、武器を持たぬ者のコントロールなど容易だと考えていたのだ。
 そして残りすべてを北へ向かわせたのは、カガチ自身の判断だった。カナンがどこかで態勢を立て直し、反攻に出てくる可能性を考えたら当たり前の措置だったが、この責はどこへも持って行きようがなかった。
「こんな馬鹿な……」
 ヨサミはカガチのそばにいて、彼がそのような言葉を漏らすのを初めて聞いた。さしもの鬼神も動揺は隠しきれなかった。
「全兵力の半分近くを失ったということか……」
 オロチ軍はタジマから西進したミカソ率いる軍と、そして海から攻め入ったタジマ水軍、コジマ水軍の二つが、イズモのカナン主力と対峙しているはずで、まだそれは残されているはずだった。そこへ南の山側からカガチたちが進軍すれば、もはや壊滅的な状態になる――はずだった。
 その計画が、今、根底から瓦解してしまっていた。たった一度の洪水で。
「カガチ様、この上はミカソらの部隊と合流するのを急いだ方が良いかと」脂汗を浮かべるイオリは、今にも激高したカガチに切り殺されるのではないかという恐怖をありありと見せていた。「もしここへカナンが攻勢をかけて来たら、ひとたまりもありません」
「ひとたまりも?」カガチの眼が酷薄そうな光を浮かべて見つめた。「この俺がここにいるというのにか」
「あッ――いえッ! それは、カガチ様がおられれば」ぶるっと震える。
 カガチは立ち上がった。イオリは、ひっと後ずさる。
「巫女どもの様子を見てまいる。イオリ、おまえは生存者の救出の指揮を取れ」
「わ、わかりました」
 イオリが頭を下げる横をカガチは素通りして行った。巫女たちを収容している家屋のほうへ向かって歩いて行く。


「皆、死んだ――?」
 愕然とした声を上げたのはアナトだった。
 巫女たちの前には一人の男が身を低くしていた。彼はイスズがヤマトから連れてきた従者、カーラだった。浅黒い肌をした小柄な男である。
 カーラはイスズが連れてきた兵たちとは行動を共にせず、影のようにひっそりとイスズにだけつき従っているのだった。
「先ほどの地震が引き起こした洪水は凄まじく、ここより北に陣を張っていた軍勢すべてをひと呑みに致しました。そこにはほとんどの兵力が集められていました」
 カーラはその眼で見た光景を語った。それはすなわち、アナトたちにとっては同胞たちの死を告げるものであった。アナトらキビの巫女たちは、がっくりと肩を落とした。
「わたくしがヤマトから連れてきた者たちもか」と、イスズが問うた。
「はい」
「狂気は凶事を呼ぶ……」ナオヒが言い、傍らでまだ眠っているアカルを見つめた。「アカルがさきほど穢れを吐き出したように、大地もまた穢れを一掃しようとする。穢れを地に溜めこむのは、それは人じゃ。草木も動物も、皆、自然のままに生きておる。ただ、それだけ。が、人は違う。人は意識の在り様を地に反映させるのじゃ」
「人の意識が穢れれば、このようなことは起きると……」と、シキが言った。キビでの災害を目の当たりにした彼女らには他人事ではなかった。「わたしたちのせいということでしょうか」
「シキと申したな」
「はい」
「そなたは意識を身体から離して飛ばすことができよう」
「あ、はい……」初対面なのに能力を見透かされたことに戸惑いを見せた。
「ならばこのネの世界が、丸い星であることも知っておろう」
「はい……。美しい青い星です」
「この島国の様子や星の在り様を見て、何か不思議に思うたことはないか」
「…………」シキはしばし床に眼を落としていたが、はっとしてナオヒを見た。「このワの島国の形のことでしょうか」
 我が意を得たりとばかりにナオヒは笑みを浮かべてうなずいた。
「このワの島々は、この星の他の大きな島々と形が似ております! まるで世界を集めたような……不思議に思っておりました」
「その通りじゃ。カタチが似るということは通じるということじゃ。このワの島々には多くの地脈が集まっており、外国(とつくに)ともつながっておる。人の身体で言えば、臍のようなものじゃ。腹の中の子は、臍で母親とつながっておるであろう。ここにイザナミ様がここにおわすのもそのため」


 クシナーダ以外の巫女たちは驚き、顔を見合わせた。彼女らにとっては未知というよりも、すでに失われつつある情報だったのだ。
「ワの国は地脈を通じて、じつはこの島国以外の世界の浄化も行っておる。そのためこの島国には地震も火山も多くできておるのじゃ。しかし、もしこの臍であるワの国自体が穢れてしもうてはどうなる?」
「胎児は死にまする」シキは寒々とした声音で言った。
「さよう。この場合、胎児というのはこのネの世界、このまあるい星のすべてじゃ。根が枯れれば、すべて死に絶える……」ナオヒはたんたんと恐ろしいことを語った。「もう一万年も昔、そのような恐ろしい崖っぷちに至ったことがあると聞いておる。その時も人の心は乱れ、穢れを地に溜めこみ、それが溢れ出した。心を持たぬ者はおらぬ。人は皆、その心でこの星の命運にかかわっておる。心こそが未来を作るのじゃからな」
「未来が視えなくなりました、なにも……」イスズが宙を見つめて言った。「ついしばらく前まで、あれほど多様に広がっていた未来が、たった今は閉ざされたように……。そうではありませぬか、クシナーダ様」
 クシナーダはうなずいた。「わたくしがかつて視ていた、自分の二つの未来。それが今は闇に塗りつぶされたように、まったく何も視えなくなりました」
 彼女は自分の胸を片手で押さえていた。まるでそこが痛むかのように。
「それは、もう未来がなくなったということでしょうか」アナトが蒼ざめて言った。「わたしたちがあまりにもこの世を穢してしまったせいで」
「ヨモツヒサメをヨミに返さねばなりません」と、クシナーダが言った。「あれがこの世に出ているかぎり、未来はないのです」
「わたしはあのようなもの、ただの言い伝えに過ぎぬと思うておりました」年若いイズミが言った。「トリカミが守っている岩戸。天にも地の底にも通じる岩戸。トリカミが侵され、穢されるとき、岩戸に封じられていた〝死の力〟がこの世を滅ぼすという……」
「ヨモツヒサメは人の意識の闇が集まったものです。復讐心、憎悪、嫉妬、強欲――そのような意識の集合体ですが、地の底にある手を触れてはならぬ〝力〟――石のようなものの化身でもあります。それを掘り出し、手を触れてはならぬのです。ぷ……ぷるとにうむ……そのような名の化身です。それにはこの世を滅ぼす〝力〟があります。まさに死の化身なのです」
 クシナーダの言葉に、皆、重い沈黙に落ちた。
「クシナーダ様、大丈夫ですか? さきほどから何かお苦しそうなご様子」ややあってイスズが声をかけた。
「はい。ありがとうございます。ご心配には及びません」
 その言葉ほど、彼女は顔色も冴えなかった。ずっと胸に手を当てたままである。
「クシナーダ様」アナトが言った。「わたしは先々代の老巫女から聞いたことがございます。〝ヨミ返し〟という技があると」
「はい……。しかし、そのためにはまず私たちが諍いをやめなければなりません。この地で起きている戦いをやめさせることが絶対に必要です」
 クシナーダはイスズを見た。その眼差しを受け、イスズは感嘆をあらわにした。「本当に……クシナーダ様は何もかも見抜いておられるのですね」
 周囲が何のことかわからず、きょとんとした。ただ一人、ナツソだけが、あ……と思い当たるような反応を示した。
 イスズは彼女らに向かって静かに言った。「皆様、わたくしはこの戦いを終わらせるために参りました。それこそがわたくしが果たさねばならぬ責なのです」
 一同はその言葉にあっけにとられた。イスズにこの戦いの何の責任があるというのか。そして、この戦いを終わらせる、どのような手段があるというのか。
「カーラ、あの者の居場所は?」イスズは、変わらずそこに待機している従者に言った。
「はい。わかっております」
「今宵、わたくしをそこへ連れて行っておくれ」
「はい。しかし、見張りが……」
「この里の者に頼んで、お酒を分けてもらい、彼らに呑ませなさい。あとは、わたくしが彼らを眠らせます」
「わかりました」
「では、行きなさい」
 カーラは頭を下げ、家屋を出て行った。巫女たちに食事を届けるという口実で家に入ったのだが、やや長かった滞在にも衛兵はあまり神経をとがらせなかった。オロチ軍は今それどころではないのだ。今も次々と洪水の現場から、負傷者が里の中へ運び込まれている。
「もし事を起こすとしたら、今宵以外、機会はないでしょう」従者を見送って外の様子を眺め、イスズが振り返った。「わたくしが今夜、ここを抜け出られるように、お力をお貸しください」
「それはできうることなら……」アナトが言った。「イスズ様、いったい何を……あの者というのは?」
「モルデという、カナンの者です」
 巫女たちは顔を見合わせた。
「モルデを生かしてここから解放するのです。それだけが唯一、この争いを止める手だてとなります」
「なぜ、あのような者が」
「それは……」
 イスズが言いかけたとき、クシナーダが前のめりになって倒れた。
「クシナーダ様!」
 巫女たちが動揺して詰め寄る中、クシナーダは胸を抱きかかえるようにして、うわ言のようにつぶやいた。「生きて……」
 覗きこんだナオヒが言った。「クシナーダは今、スサノヲを助けようとしておるのじゃ」
「スサノヲ?」
「この争いの命運を握る男じゃ。今おそらく傷つき、死にかかっておる。クシナーダはそれを助けようとしておるのじゃ。そなたらもわかるじゃろう。病の者を癒そうとすれば、同じ場所が痛くなったりするであろう? それを浄化することで病は治る。それと同じことをクシナーダはしておる」
「何事だ」
 はっとして振り返った。戸口にカガチの巨体があった。その眼が横たわるアカルを、そしてクシナーダを見た。
「約束通り、アカルの命は救った」ナオヒが言った。「が、まだ二人とも予断を許さぬ。今しばらく安静にさせておかねばならぬ」
 カガチは黙って、アカルの顔を覗きこんだ。そのごつい指先で、そっとその頬に触れた。その仕草は似つかわしくないもので、巫女たちを戸惑わせた。しかも、その指先は震えているように見えた。
「よけいな考えは持たず、おとなしくしておることだ。戦いが終われば国に戻れる」
 カガチはそのように告げると、去って行った。


    2

 東の夜空に赤い星が上ったころ、イスズは行動を起こした。衛兵たちはカーラが差し入れた酒を上機嫌で呑み、連日の行軍での疲れも手伝い、焚火のそばで居眠りが付き始めた。
 巫女たちは聞こえるかどうかというほどの声音で、人の神経を和らげる歌を口ずさんだ。その一方、イスズたちはやや遠隔ではあったが、〝気〟を衛兵たちに送り続けた。心地よい〝気〟を注入された人は、猛烈な睡魔に襲われる。疲れていればなおさらだった。
 衛兵たちの意識がなくなるのに、さほどの時間は必要なかった。
「よいですか。わたくしが勝手に行動したのです。皆様は何も知らずに眠っていた」他の巫女たちを諭すイスズの切れ長の目には、静かだが強い意志がみなぎっていた。「何が起きるかわかりませぬ。わたくしが無事に事を成就して戻ってくることを祈ってください」
 アナトたちはうなずき、イスズが衛兵たちの間を抜け、カーラに迎えられるのを見送っていた。里のあちこちで篝火が燃やされているが、やがて二人の姿は闇に同化したように見えなくなった。
「アナト様、わたしは意識を飛ばして、お二人を追いかけます」シキがそう言い、静かに座った。彼女にとっては慣れた技だった。目を閉じて呼吸を整え、幽体を肉体から離脱させる。
 シキの幽体はアナトたちには霊視で追うことができた。
「わたしも遠視を……」
 アナトたちキビの巫女は囲み合うようにして座り、目を閉じた。肉眼を閉じていようと、シキの姿はしっかりと見据えられている。〝力〟は同種の能力を持つ者と共鳴することで高められる。シキが幽体離脱することで、引っ張られるように彼女らの意識も遠隔視が容易になった。
 ナオヒも眠りこけているように見えて、じつはすでにシキと同じく幽体離脱し、イスズの姿を追いかけていた。
 里の中は苦痛で満ちていた。昼間の戦争で傷ついている者たちの呻き、悶え苦しみが夜陰の中、気配として伝わってくる。警備に当たっている以外の兵はトリカミの里の祭殿に集まっていること、里人はそれぞれの家屋で過ごしているらしいことがわかった。
 カーラに連れられてイスズが向かったのは、その祭殿の近くにある物置のような小屋だった。祭殿前の広場には中に収まり切らない兵士たちが野営している。彼らに気取られないように行動しなければならなかった。
 小屋の戸口のところにも衛兵が二人立っていた。指示されるまでもなく、カーラはこの二人にも酒を差し入れたようだった。しかし、疲れと眠気は見せてはいるものの、焚火のそばで話し込んでいて、睡魔に引き込まれる様子はなかった。
 イスズがほとんど無言で出した指示で、カーラが動いた。彼は堂々と彼らの前に姿を現し、笑いながら近寄って行った。酒を差し入れていることもあって、衛兵はカーラに気を許していた。
 隙をついてカーラは二人を襲った。一人は背後からの強打で、もう一人は振り返ったところをみぞおちに入れた拳で気絶させた。カーラは茂みに隠れるイスズを目で呼ぶ一方、衛兵二人は見えないところへ引っ張り込んで隠してしまった。
 イスズが祭殿のほうを気にかけながら急ぎ駆け込んできた。カーラはそのまま戸口のところで警戒に当たる。
 小屋の中に横たわる男は満身創痍だった。露出している腕や脚で傷や痣のない場所を探す方が難しかった。髪はぼさぼさ、髭におおわれた顔はやつれ、眼だけがぎらぎらと輝いていた。女の手ではにわかにほどけないほど両手を背後できつく縛られている。イスズはカーラを呼び、戒めを解かせた。
 両手が自由になったモルデは、その場に座り直した。そして不審げな眼差しをイスズに送った。
「あんた、誰だ……」血流の通い始めたのを確かめるように手首のあたりをさすりながら訊く。
「ヤマトのイスズと申します」
「ヤマト?」その言葉にモルデは引っ掛かりを感じたような反応を示した。
「一緒に来てください。さあ」
「どういうことだ」
「すぐにお話します。さあ、急いで――」
 促すため手を伸ばした瞬間、モルデは厳しい拒絶のこもった動作でイスズの手を払いのけた。
「触るなッ――。異教徒の巫女が」
 それは見ている巫女たちも愕然とするほどの、非常に際立った嫌悪だった。これまでの苦痛と憎悪の分もこもっているとしても、モルデが見せた「異教徒の巫女」への嫌悪は、ほとんど本能的なものとさえ言えた。
「あんた、巫女だろう。身なりを見ればわかる」モルデはそう言いながら、周囲のものにつかまりながら立ち上がった。「俺に何の用だ」
 幽体となってその場に居合わせたシキは、遠隔視をしてそばに来ているアナトの意識が失望しているのを知った。アナトは一度、キビでの交渉でモルデに相対し、彼らカナンの民が持つ強固な選民的思想を見抜いていた。そのとき以来、モルデは何も変わってはいないということの証明だった。
 ――しかし、と巫女たちは期待を込めて思った。
 イスズが彼女らに語った真実。それをモルデに話し、そしてモルデがもしそれを受け入れることができたなら……。
「あなたを逃がして差し上げます」
「俺を……? なぜだ? おまえらはあのカガチの仲間だろう」
「心ならずも……。あなたには真実を知る勇気がありますか。わたくしが知りたいのはそれです。もしそうでないのなら、このままあなたを置いてここを去ります」
「真実だと? どういうことだ?」モルデの顔に苛立ちがあらわになってきた。「持って回った言い方をせず、はっきりと言え」
「わたくしはあなたがたと同族です」
「!」
 このときのモルデの驚愕と混乱ぶりは見ものだった。驚き、猜疑、揺れ動き、そんな感情をぐるっと回ったのち、彼は最後に笑いという表現を選択した。
「ばかな……。はは、何を言い出すかと思えば」
「ヤー・マト」イスズが言った。「その言葉の意味は?」
 それはモルデがさきほど引っかかった言葉だった。


「……神の民……」心を許さぬ警戒を滲ませながらモルデは言った。
「そう。あなた方の元の言葉で〝神の民〟――それがわたくしの国の由来でもあります」
「あんたの……?」
「わたくしはあなたがたより先んじて、この〝もう一つの土地〟――エルツァレトに辿りついていた者の末裔です」
 この瞬間、モルデの顎が外れるのではないかというほど口を開いていた。「あ……あ……まさか、〝失われた支族〟……!?」
「そうです。わたくしたちの先祖は北の王国サマリアが滅び去った後、ここへたどり着いたのです。そうして幾世代も、この地の人々と交わり、溶け合って時代を生きてきました。モルデ、あなたがたは南の王国の末裔でしょう」
「し、しかし、そんな……それなら、なぜそのような異教のわざを……神のご意志に背き、また邪教に堕落したのか」
「愚かな……」
「愚か?」
「わたくしの先祖は長き放浪の果て、この地に辿りつき、真実を知ったのです」
「真実とは……」
「創造されたこの世界にただ一つの神を見る者と、この創造された世界すべてに神を見る者の違いでしかないということに」

 ――唯一の神。そなたらの言う唯一の神というのは、いったいいかなる神なのか。
 ――この地のすべてを創造され、支配されておられる神。
 ――その神のどこが、われらの感じる神々と違うのだ。

 モルデの脳裏に、アナトと交わした言葉がよみがえった。あのときは一笑に付してしまったが、あのやり取りの裏側にあったアナトの言わんとすることは……。
「モルデ、良いですか。神は普遍的なものです。しかし、それは伝える人間によって、否応なく色づけされてしまうのです。人の言葉で神のすべてを表現することはできないのです。それは子供が、大人の考えを把握できないのと同じことです」
 モルデはよろめき、背後の壁にぶつかった。積み上げられていた薪が崩れた。
「そんな……」
「あなたの君主であるエステル様にお伝えするのです。戦い、奪うことをやめれば、この島国で当たり前に生きていけるのです。わたくしたちがその証明です。もしよかったら、わたくしの国に来てもらってよいのです」
 はっとモルデはイスズを見た。捕虜の身であっても、彼にもこの戦況がカナンにとって極めて厳しいものであることは理解できていた。
「あんたの国に……」
「そうです。ヤマトに」
「ヤマト……」落ち着きのない眼が、足元のあたりをさまよった。激しい迷いが彼の心に生じていた。
「わたくしが嘘をついていると思いますか」
「い、いや……」
「いつか、あなたがたのような者が到来すること、わたくしたちは待っていたのです。争い奪うのではなく、共に生きましょう。このワの国で。さあ――」
 イスズの差し出した手。モルデはそれをしばらく凝視していた。
 シキやアナトたちは残らず、このとき祈っていた。イスズの想いがモルデに伝わり、彼を動かすことを。
 モルデの手が、ゆっくりと持ち上がった。
 この国に来たときから、他の異教徒と〝どこか違う〟と感じていた、その漠然とした想いの根源――それが今、イスズという巫女として彼の前に存在していた。
 それと彼は、手を結んだ。
 イスズは、これ以上はないというほどの微笑みを浮かべた。
「神はすべて……。ならばこの世のすべてに神は宿っておられる。このワの地に来て、わたくしたちはそれを知るというよりも実感したのです。すべては貴い。すべてに神性がある。この島国の民は、まるで息をするかのように、その感覚を普通の暮らしにしていた。そしてあなたがたも、わたくしたちの祖先がそうであったように気づくでしょう。このエルツァレト――葦原の国は、本当はわたくしたちにとっても、はるかな……」
「イスズ様、お急ぎください」カーラの鋭い声が割って入った。
 小屋の中の二人は、はっとして動き出した。
 ――カガチが来る!
 幽体離脱しているシキは、あえてそのとき小屋から離れ、上空からの視点を得ていた。そして警告を発した。
 その思念はイスズにも伝わった。
「カーラ、モルデを導き、この里を出なさい。そして彼と共にエステル様に伝えるのです。戦いを終わらせ、違った道を選ぶように。このような手段によらずとも、カナンはこの地で生きられる。わたくしたちの祖先がそうであったように」
 イスズの言葉にカーラは衝撃を受けた。「イスズ様は――」
「おまえはこれより後はアナト様にお仕えするのです」
「イスズ様――」
「お行きなさい!」イスズは鋭い声音で従者に命じた。そして、モルデの背中を押した。
 硬直している男二人をしり目に、イスズは祭殿に向かって歩き出した。篝火に照らされた広場を、巨漢が歩いてくるのが見えた。カーラはそれを見て、モルデの腕をつかんだ。茂みをかき分け、里を出るべく、もっとも近い進路を走り出す。
 イスズはあえて目立つようにカガチに向かって歩いて行った。
「なにやらおかしな気配がすると思うておったが……」カガチは酷薄な眼を下ろして言った。「イスズ……こんな夜中になにをしておる」
「あなたと話をしようと思ってやってきました」
「ほう。なんの?」カガチの視線はイスズの背後の小屋へ動いた。そこにいるはずの衛兵の姿がないことには気づいていた。
「兵をお引きなさい」
「なんの冗談だ」
「あなたは大きな過ちを犯しています」
 カガチの背負う悪霊の如きものがざわめき、イスズに圧力をかけてきた。
「あなたの行いが触れてはならぬものに触れ、解き放ってしまいました。あなたは自分の未来をも、自分で消し去ったのです。しかし今ここで、未来にはかすかな光がある。その光を広げ、未来を呼び戻すためには、ここで兵を収める必要があります」
「ふざけたことを……。あの者を逃がしたな」カガチの眼が小屋を見た。「どういうつもりだ。何を考えておる」
 カガチは予知や読心の能力をヨサミから得ていた。この夜にイスズの動きを察知したのも、その〝力〟と無関係ではなかったろう。が、彼は本来の巫女ほどその能力を使いこなせてもいなかったし、イスズのような巫女が心を閉ざしてしまえば、その考えを読み取ることなどはできるものではなかった。
 ちっと舌打ちし、カガチは祭殿の広場で野営している者たちに叫んだ。「捕虜が逃げたぞ! 追え!」
 疲れ切って眠りに着いていた兵も、その轟くような一声で飛び起きた。
「カガチ様! いったい何が――」
「さっさと追え! カナンの捕虜が逃げた! 探し出し、連れて来い!」
 兵たちは慌てふためき指令に従って散っていく。
「あの者の首をエステルとやらの目の前で切り落としてやるのが趣向よ。おまえなどに邪魔はさせん」
 イスズは眉根を寄せた。
「ヨサミはそれを見て、さぞかし喜ぶだろう。やつらにはただ死ぬよりも惨い思いを味わわせてやる」
「愚かな……」
「イスズ、おまえはいつもそうだ」カガチはゆっくりと巫女の回りを歩きながら言った。「俺を哀れな者のように見下げた物言いをする」
「あなたの行いは、ただ憎しみを生み増やし、育てるだけ。それはいつか自分に戻って来る。それを愚かと言わずして何と言えばよいのですか」
 カガチは腕を伸ばし、大きな掌でイスズの顔面をつかんだ。指の間から切れ長の眼が、ずっと見つめ続けていた。
 カガチの背負うものが、いっそう大きくざわついた。苦悶し、のたうつようにうごめく。
「……そんな眼で俺を見るな」
 頭部を締め付ける握力が強まり、イスズは苦痛に耐えた。が、眼が閉じられることはなかった。
「その眼をやめろ……。その冷たい眼を!」
 カガチはまるでボールでも投げるようにイスズの頭部を地面に叩きつけた。細い首が折れるのではないかというほど暴力的なやり方だった。
 ――イスズ様!
 シキが、そしてほかの巫女たちが意識の叫びをあげた。
 獣のような唸りを発し、カガチは苦しむイスズの身体の上にのしかかった。「やめぬのなら、この場でおまえを犯し、五体を引きちぎってやろうか」
 そう言い、胸元の衣類を引き裂いた。怪力のカガチには造作もないことだったが、衣が裂けるほど引っ張られるのだ。イスズの肌は傷ついた。
「やってごらんなさい」イスズは苦しみながら、それでも毅然とした眼をなくさなかった。「その前に舌を噛みます」
 その眼の中に、カガチはかつて自分に向けられた冷たい女の眼を見ていた。
 ――あんたなんか、生まれなければよかった。
 そう言った母の眼だった。
 その母は、起きた戦乱の中、他の家族もろとも惨殺された。殺される前、侵略兵によって犯され――。
 子供だったカガチは、隠れてそれを見ていた。事後、血の海と化したその場所に、カガチは佇み、骸となった母を見下ろし、思った。
 このような惨い死に方をするくらいなら……

 俺が殺してやればよかった。

 数々の女の面影がフラッシュバックした。それはアワジら、トリカミの巫女たちの顔だった。彼が毎年、殺してきた女たちの顔――それが今、イスズの白い面差しの上に重なり合っていた。そして、母の顔も――。
 イスズは視野が暗くなってくるのを感じていた。カガチの両手が首を絞めつけていた。


 ――イスズ様!
 悲鳴のような声が聞こえる。他の巫女たちが狂ったように騒ぎ立てていた。
 ――見ておくのです。救われ得ぬほどの悲しみを。
 イスズは思念を放った。
 巫女たちは視ていた。イスズの上に馬乗りになり、首を絞めている男の姿を。
 いや、それは巨漢のカガチではなく、少年だった。少年は涙を流しながら、〝母〟の首を絞めていた。すでに息絶えた母の首を、彼はもう一度絞めていた。
 その母の顔は、アカルに似ていた。
 ――それでも……。
 イスズの意識が途切れた。


 離れた場所にある巫女たちの家屋で、アカルとクシナーダは同時に目を覚ました。
「イスズ様……」
 気づくと、キビの巫女たちは抱き合って泣いていた。
 ナオヒはクシナーダと目を合わせると、やるせなく首を振った。


 遠い篝火が照らすイスズの顔は、もう眼を閉じていた。
 カガチはぶるぶると震える両手を見つめていた。よろめき、動かぬイスズの上から離れた。そして彼は吠えた。
 月のない夜空に向かって。


    3

 全身、痛みを発さぬ場所などなかった。身体が熱く、だるい。しかし、そんな状態でありながら、モルデは走っていた。
 松明を持った追手が迫る。カガチに命じられた兵士たちだった。
「待て!」幾度も叫びが背中に突き刺さる。
 息が切れる。長く囚われ、力を失っていたモルデの足がもつれた。とてつもない氾濫を起こした斐伊川が満たした泥に足を取られ、転倒してしまう。
「モルデ様!」カーラが慌てて引き返してくる。
 兵士がそのカーラに斬りかかる。敏捷にそれを避けながら、カーラは相手に足払いをかけた。ひっくり返り、泥に顔を突っ込んだ兵士からモルデがすかさず剣を奪う。
 モルデは雄叫ぶように気合を発した。襲い掛かってくる兵を押し返し、斬りつける。
 生きる。
 俺は生きて、エステル様のところへたどり着く。
 その執念が弱り切っていた彼の身体に活力を与えた。カーラも敵兵の剣を奪い取り、応戦した。が、追手は多かった。たちまち取り囲まれてしまう。
 もはや退路はどこにもなくなった。
 その時だった。オロチ兵のひとりが絶叫を上げた。背後からの攻撃を受け、もがき苦しみながら倒れる。その向こう側から現れた黒い影が、また一人、そしてもう一人、不意を突いて斬りつけた。兵士の持っていた松明が、ぬかるんだ地に落ち、じゅうという音を立てて火を次々に消していく。
 突発的な事態にうろたえる反対側のオロチ兵の背後から、また急襲があった。うわああ、と叫びと共に、兵の背中に突っ込んできたのは少年だった。さらにその隣に出現した男は一人の兵を斬りつけ、もう一人は脚で蹴飛ばした。
 囲みは完全に破れた、思いがけぬ助勢を得たモルデとカーラは包囲を突破した。
「こっち! こっちよ!」少女の声が聞こえる。
 モルデはその声のする方へ走った。
 松明の光が少なくなり、闇の濃度が増した場で、攻防が繰り広げられた。が、夜陰に紛れて襲われたオロチ兵は、動揺を立て直す暇も与えられなかった。カーラと最初の黒い影の男が、それぞれに最後となった敵を打ち倒した。たまたま岩の上に落ち、消えるのをまぬかれた松明の一つを黒い影の男が拾い、モルデのほうへ近寄ってきた。
 その男はニギヒであった。
 そして彼のそばにイタケル、オシヲがいた。オシヲは興奮し、大仕事を成し遂げた後のように玉の汗を浮かべ、荒い息を繰り返していた。
 明かりが近づいたので、モルデは自分を呼んだ少女のほうを振り返った。そこにはスクナがいた。
「モルデ様、大丈夫ですか」カーラがやって来た。これも息が荒い。
「誰かと思えば――小汚えなりをしてるが、おめえ、いつかのカナンのやつだな」イタケルが言った。
 相手はトリカミの里の男だとモルデも知った。
「どういうことだ、こりゃあ。ちっと説明してもらおうか」

 イタケルたちは運に恵まれていた。あの地震をきっかけとする川の大氾濫が起きたとき、彼らはスクナの誘導で川から離れた道を進んでいた。これは当然、川沿いの道に存在するかもしれないオロチ・カナン双方の兵を警戒していてのことだった。岩戸への往路と同じく、復路もスクナが熟知する山中の抜け道へ針路を取っていたとき、洪水は起きた。
 これが結果的に彼らの命を救った。トリカミ近郊へようやくたどり着けば、あたりは戦乱の跡、おびただしい死体が横がっていた。このときイタケルやオシヲは、カナン兵の剣を調達した。どこから敵が出現するかもわからないのだ。
 トリカミの里にある遠い篝火。それだけがこの月のない夜に頼りとなるものだったが、土地勘の明るいイタケルたちにはなんとか夜陰に紛れての行動が可能だった。
 遠目にもオロチ軍が占領しているらしいことは分かった。里の中の状況がどうなっているのか、どうにかして闇にまぎれて侵入する算段を練っている時だったのだ。
 複数の松明の光が里を駆け下りてきたのは。
 その兵たちが何者かを追っているのは明らかで、追われているのは里の者である可能性が高いとイタケルたちは判断した。そのために助勢に入ったのだ。
 しかし、そうではなかった。彼らが助けたのは、見る影もないほどやつれ、みすぼらしい姿となっていたモルデ、そして初対面のカーラという男の二人だったというわけだ。
 彼らはトリカミの里から一度距離を取り、およそ里の者以外は知られることのない洞窟に身をひそめた。
「ヤマトにカナンの仲間がいるってのか」岩の上に腰を下ろしているイタケルは、イライラと貧乏ゆすりをしながら言った。「カーラといったな、あんたもそうなのか」
「はい。私の先祖はおよそ四百年ほど前、ツクシを経てヤマトへたどり着き、そこへ定着しました」
「そういえば……」イタケルは首をひねるようにして言った。「アシナヅチ様が言ってたな。その昔、なんとかっていう方士が多くの民を引き連れて、このワの島国各地へ移ってきたことがあると」
「イスズ様の直接のご先祖です」
「イスズって巫女のことは聞いたことがある。ミモロ山の巫女と言えば有名だ」
「それで……」と、ニギヒが口を開いた。「そなたらはこれからどうするのだ。エステルと言ったな、カナンの姫は。その姫のところへ向かうのか」
「はい。それがイスズ様より与えられたお役目なれば」そういうカーラの眼は、しかし、どこか不安に定まらぬものがあった。自分たちを逃がしたイスズのことが案じられてならないのだった。本音では里へ戻りたいに違いない。


「おい、モルデ」イタケルは言葉を投げつけるような調子で言った。「てめーはどういうつもりなんだ」
「どう……とは?」
 モルデのそばにはスクナがいた。スクナは濡らした布と、採取してきた薬草で、彼の傷の治療を行っていた。
「エステルのところへ戻り、どうするかっていうんだよ。そのイスズが言ったようなことをエステルに伝えるのか」
 沈黙があった。洞窟の中では焚火が燃やされ、モルデの横顔を照らしていた。
「……おそらく、この戦いには勝てぬ」彼はやがて言った。「あのイスズという者がいうことが真実なら、われらはやり方を誤っていた」
「勝てないとわかったら、戦いやめましたってか。ふん、都合よくねえか。てめえらがやらかしてくれた戦のせいでな、いったいどれほどのワの民が死んだと思ってるんだ」
 また沈黙が落ちた。
「あんたらが来なければ、ミツハは死ななかった……」オシヲが枝で焚火を突き刺すようにしていた。「アシナヅチ様も」
「カナンもオロチも殺し合って滅びりゃいい。それが俺らの本音だ」
 イタケルの言葉に対して、モルデは何の反論もしなかった。できなかったというべきだろう。
「それじゃ、だめだよ」
 その声に一同は我に返ったような反応を示した。スクナがモルデの膝に薬草を押し当てながら続けた。「そんなにうまいこと、どっちも滅んだりしない。それどころか生き残った者が、また相手を殺すためにやって来る。……ツクシはずっとそんな日が続いていた。あたしがもともといたナの国だって……」
「その通りだ」ニギヒがうなずいた。
「あたしの住んでいた里は、みんなみんな、殺されてしまった。だから、父さんと母さんはあたしを連れて、大陸に渡ったんだ。殺し合いばかりじゃなくて、人を生かせる方法を探さないといけない。父さんはいつもそう言ってた。あたしが覚えることが得意なので、いろんなものを見聞きさせて、薬草のことや治し方を勉強させたのも、そのため……」
「そういうことだったのか」イタケルはしみじみと言った。「それでナの国には戻りたくても戻れなかったんだな」
「生きている者同士が戦いをやめないと、どうにもならない。戦いはとまらない。死んだ者のことばかり考えたら、どこもかしこも、きっとあたしのもとの里みたいになる」
 もっとも年少のスクナが発した言葉は、イタケルやオシヲの胸にある憎悪の立ち上がりを挫く力があった。オシヲは首にかけている朱の領布を手にし、見つめた。
 ――ミツハに誇れるおまえでいるのだ。
 スサノヲの言葉が脳裏をよぎり、オシヲは領布をぎゅっと握りしめた。苦しげに。
 ちっとイタケルは舌打ちした。腰から下げていた小袋を手に取り、それをモルデの目の前に放り投げる。「食え――干し肉だ。精をつけなきゃ、明日、歩けねえぞ」
 痩せこけた腕を伸ばし、モルデは震える手でそれを取り上げた。中を開くと、鹿の干し肉が詰まっていた。餓死をまぬかれる程度のものしか与えられていなかった男の喉が、ごくりと鳴った。取り出した肉を口に運び、食(は)む。幾度も幾度も噛みしめた。自然と、その頬に涙がひと筋ふた筋と流れ伝った。
「すまない……すまない……!」鳴き咽びながら、モルデは干し肉を食べ続けた。


 もともと白い肌が、今は雪のようだった。巫女たちは横たわる美しい巫女の死に顔を、ずっと見つめ続けていた。
「イスズ様……」
 その名が口々に、涙と共に呼ばれ続けた。
 イスズと血のつながりがあるシキ、イズミはことに大きなショックを受けていた。二人にとっては精神的にも、本当の姉のような存在だったのだ。
 カガチがイスズの首を絞めはじめたとき、幽体離脱や遠隔視によって状況を認識していた巫女たちは、もちろんイスズを救おうとして動き出した。しかし、その時点ですでに里は逃亡したモルデを捜索する兵士たちが走り回り、先刻までうたた寝に引き込まれていた見張りの兵士たちも目を覚ましていた。
 その状況で、彼女らは肉の身を動かして、イスズを救出に向かうこともできなかった。むろん駆けつけることができたとしても、間にあったはずもなかった。
 なす術もないまま、ただ彼女らの感覚はイスズの死を知覚するということしかできなかったのだ。
 白い布がイスズの遺体にかけられた。それを見つめるイズミは、思いつめた表情でつぶやいた。「かならずお心をお継ぎ致します」
 シキとイズミは知らされたのだ。彼女らの身体にも、はるか昔に渡来したカナンの民と同じ血が流れていることを。その血は混淆しながら、ずっと世代を越えて受け渡されてきたが、彼女らはその古い時代の事実を知らずに生きてきた。
 それで良いのだ、とイスズは言った。けれど、この事実を伝承してきたイスズの一族は、この日のあることを半ば予知し、そのとき果たすべき役割があることを自覚していた。そのことだけは心の核に収め、数百年を生きてきたのだ。
 その役目を果たすために自分の命を捨ててでも、というイスズの峻烈な使命感は、とくに若いイズミにとって目の覚めるような衝撃だった。なまじの霊能があるばかりに若くして巫女の地位に押し上げられ、まつりごとの中に組み込まれてしまった彼女は、ワケの国の中にあっても自分の存在意義を見いだせずにいた。誰か他の者でも良いのではないか――常にそんな想いがあった。
 能力として見たときには、アナトやシキの〝力〟には遠く及ばなかった。それだけに、いつの間にかひがみのような気持ちが根を張ってしまっていた。国の都合のために存在している自分。
 イスズの使命感は、それとまさに対比するものだったのだ。
 だが、そのような小さな思いにとらわれているときではない。
 自分のできることをする。
 すっきりと覚醒した意識の中に、強い意志が今は根を張っていた。
「アナト様……提案がございます」
 まだ泣き止まぬ巫女たちの中、イズミは口火を切った。その強い声音に触発されたように、巫女たちは悲しみの淵から少しだけ引き戻された。
「クシナーダ様、ナオヒ様、そしてアカル様もお聞きください。……わたしたちキビがカガチの支配を甘んじて受け入れてきた大きな理由は二つ。一つはクロガネ造りのためと称し、国の多くの者を人質として取られていること。そしてもう一つは、このトリカミを守るためでした。されど今、その理由のうちの一つはなくなった。そういうことではないでしょうか」
 それを聞いたアナトは、袂で涙をぬぐいながら応えた。「……じつはわたしも、まったく同じことを考えていた」
「アナト様も?」
「はい」
「わたしは信じてはいませんでしたが、あのヨモツヒサメは言い伝え通りの恐ろしい存在でした。あれを世に出さぬためにわたしたちは耐えてきたはず。あれが世に出てしまったのなら、わたしたちがカガチに従わねばならぬ理由の一つは、もはやありませぬ。そうではありませぬか?」
「イズミの言う通りです」
「ならば、あとはキビの国から徴収されて、タジマやイナバに送られている者たちを救い出せばよいのでは?」
「それで、わたしたちは自由になると?」
「カガチと袂を分かつべきです」
 キビの巫女たちは顔を見合わせた。
「でも、どうやって囚われている者たちを救出するのです」
「それは……」イズミの強い視線は、アカルのほうへ向けられた。「アカル様ならキビから徴収された者たちがいる山やタタラ場をご存じなのでは?」
 周囲の視線を受け、アカルはうなずいた。まだ顔は蒼ざめたままだ。「わたしは存じております……もともとはタジマもイナバも、わたしの父が治めていた土地ですから」
「ナツソ様……」次にイズミは、ナツソに視線を向けた。「コジマの水軍をカナンとの戦いから引かせ、囚われている者たちの救出に向かわせることはできないでしょうか」
 ナツソは驚くべき提案に目を丸くし、しかし、しばしの思案の後、はっきりと応えた。「わたしからの指示を伝えることができますれば」
「しかし、コジマの兵の中にはカガチの密偵も紛れ込んでいるのでは?」と、アナトが言った。「モルデがキビに秘密裏に交渉に来たときも、カガチには筒抜けになっていた」
「はい」と、ナツソはうなずいた。このキビの巫女の中でももっとも控えめな娘は、しかし、海の民の巫女らしい、奥深いしたたかさを秘めていた。「あの件があってから、わたしはコジマの水軍の中でも、とくに信頼がおける者たちと、そうでない者を組み分けるようにしたのです。非常に重要な伝達を行うときの合言葉も取り決めております。信頼できる者にさえ連絡が取れれば、そして囚われている者たちの場所さえわかれば、そのように動くことは可能です」
 コジマの水軍は、キビの中で唯一、今回の洪水での壊滅的な被害を免れていた。イズモの北面からの侵攻の一役を担って別働隊になっていたためだ。
「ただ、問題はどうやってそれを伝えるかです。わたしたちにはここを出る手段がありません」ナツソは残念そうに言った。
「それは……おそらく大丈夫だと思います」黙って聞いていたクシナーダが言った。「わたくしがかならずなんとか致します」
「ありがとうございます、クシナーダ様」アナトはクシナーダとナオヒ、そしてアカルの方を向き直った。「イスズ様の貴いご意志と同じく、この争いを収めるため、わたしたちも命を捧げます」
 四人のキビの巫女たちは、頭を深く垂れた。
「わたくしも同じ気持ちです」と、クシナーダは応え、みずからも深く頭を下げた。
 そんな若い巫女たちを見ていたナオヒが言った。「それだけでは不十分」
「ナオヒ様?」クシナーダを振り返った。
「そなたらがカガチに反旗を翻したところで争いはなくならん。カガチを止めねば」
「たしかにおっしゃる通りですね」
「あのモルデという者が首尾よくエステルを説得できたとしよう。しかし、カガチはかならずカナンを滅ぼそうとするであろうし、カナンが撤退したところで、カガチの思惑はこの島国全体の制圧にある。いずれは東国やツクシも争いに巻き込んでいくであろうな」
「カガチを倒さねば解決はしないということですね」アナトが言った。「この戦いと洪水でのキビの被害は甚大です。ですが、本国に戻れば、まだある程度の兵力は集めることができます」
「そのような悠長なことをしておれるのかな。そなたらはヨモツヒサメのことを軽く考えておる。あの者どもは人の憎悪や怒りを吸うだけではない、この地上にそれをばらまく」
「ばらまく?」
「ばらまかれた憎悪は人の中で増殖して、いっそう大きなものとなる。それをまたヨモツヒサメは食らう……。魔の循環じゃ。そうして肥え太った〝負〟の力は、たちまち破滅を引き起こすじゃろう。そこへ至るまで、多くの時間があるとは思わぬことじゃ。まして――」ふっとナオヒは笑った。「カガチを並みの兵力で倒せるはずもない」
「カガチはあの剣を得て、その〝力〟によって鬼と化しました」アカルが言った。「あの〝力〟がある以上、並大抵の手段ではカガチを制することはできません」
「剣を奪い取っては?」と、イズミが言った。
 アカルは首を振った。「もはやカガチは鬼神の〝力〟と一体化しております。剣を離すことができても、カガチにはもはや何の変化もないでしょう」
「鬼となった者を救う手段はない」ナオヒが珍しく重い口調で言った。「殺す以外は……。しかし、そのために兵を動かしても、おそらく今はヨモツヒサメの格好の餌食となるであろう。闇に取り込まれ、闇に使役され、よりいっそう世の破滅の助力となろうな」
「カガチを制することができるのはスサノヲだけです」クシナーダが言った。「スサノヲの帰りを待ちましょう。そのとき、いつでも行動を起こせるよう、準備を整えておくのです」
 沈黙が落ちた。その中、すっとアカルが立ち上がった。まだ足元もやや頼りない様子ながら、イスズのそばに行き、かけられた布をめくり、しばし、その顔を見つめていた。
「一つだけ、手段がございます。カガチのことは、わたしにお任せください」
 その言葉はイスズに対して囁かれたものでもあったようだった。


 ――そして。
 スサノヲは意識を取り戻した。建屋の隙間から差し込む朝の光が眼に痛かった。
 鉛が身体に詰め込まれたように重かった。呼吸をして、息を体内に送り込むことさえ、苦労が伴った。
「気が付いたか」
 声が聞こえた。逆光の中に人影が揺れた。


    4

「気が付いたか」
 その人影が発する声には聞き覚えがあった。そばにやって来ることで光の当たる角度が変わり、顔が見えるようになった。
 カイであった。ほかにもカナンの兵士たちが一緒にいる。皆、スサノヲの剣圧で吹き飛ばされた者たちだった。
 状況が見えず、スサノヲはしばらく自分たちがいる小屋の中を見まわしていた。
「このまま死んじまうのかと思ったぜ」
 気力を奮い起こさねば、身体を起こすこともできなかった。これが我が身がと疑うほど力がなく、四肢が重かった。
 ざーっと、スサノヲの胸元から何かが落ちた。不審に思ってみると、それは白い砂のようなものだった。指で触れ、確認する。どうやら塩らしかった。汗が乾いたのかと訝(いぶか)ったが、そんなことで説明できるような量ではなかった。
 見ると、塩が零れ落ちた胸元には、青黒い大きな痣のようなものがあった。ヨモツヒサメに貫かれた場所だった。
「なにがあったんだ。あんたがこんなふうになっちまうなんて」
 問われ、スサノヲは眼を細めて記憶をたどった。
 あの土石流が襲い掛かって来た瞬間。
 反射的にスサノヲは岩から岩へ飛び移り、洪水から逃れようとした。常人には不可能な跳躍だった。だが、ヨモツヒサメから与えられたダメージはあまりにも大きかった。抗いがたい脱力感に見舞われ、意識を失いかけ……。
 羽ばたき。
 ぐいっと上空へ引っ張り上げられる力。
 最後に認識したのは、それとともに見た大烏の面をつけた男の姿だった。その背には巨大な翼があった……。
 サルタヒコであった。その実体を一瞥するのは初めてだったが、スサノヲには自分の手を引っ張り上げているのが、いつもカラスを通じて話しかけてくるあの神だとはっきりわかった。
「俺はどうしてここに?」スサノヲは逆に尋ねた。
「どうもこうも、俺たちが進む先に転がっていた。岩の上に」
「助けてくれたのか、俺を」
 カイは戸惑ったように仲間を振り返った。「ま、まあな。あんたも俺たちを助けたっていうか、殺さずに済ませてくれたからな」
 スサノヲを見つけたときの彼らの狼狽や逡巡ぶりが目に浮かぶようだった。おそらくどうするか、話し合ったのだろう。背後に置き去りにしてきたはずのスサノヲが道行の先に出現したのも不可解だろうし、助けるという行為がカナンにとって利益となるのかという問題もあっただろう。
「ちょうど日が暮れて、この山小屋が見つかったところだった。たぶんこの峠を越えるとき、夜露をしのぐために作られたものだろう」
「すまない。ありがとう」スサノヲは礼を言った。
 彼らの戸惑いはさらに深くなったようだった。
 スサノヲは周囲を見まわした。そばに剣は鞘に収められ、立てかけられていた。
「剣はしっかり握りしめていたよ」
 カイたちは事情をさらに説明した。彼らは洪水が起きたとき、川からは距離を取って迂回路を進んでいた。トリカミが近づくにつれ、オロチ軍との遭遇の危険が増すからだ。それが結果的に彼らの身を守った。
「夜も明けた。俺たちはイズモのエステル様のところへ合流する。あんたはどうする――」と、言いかけたときだった。
 外の様子を隙間から窺っていたカナン兵のひとりが、「静かに」と声を上げた。カイたちは敏感に反応し、剣に手をかけた。カイも戸口に移動し、覗きこんだ。
 スサノヲも動かぬ体を叱咤し、剣を腰に収めた。
 信じがたいものを目撃したというように、カイが低い驚きの呻きのようなものを上げた。目がみるみる大きく見開かれる。「に……兄さん。兄さん!」
 叫んだときには彼は、戸口を大きく開いていた。外へ向かって飛び出していく。
 そこにはモルデとカーラがいた。

 奇跡的な再会を果たした兄弟の感激ぶりは、たがが外れたようなものだった。二人とも涙を流して抱き合い、存在を確かめ合っていた。カイはすでに兄は死んだと思っていたし、モルデもまたこのような場所で弟たち同胞に出会えるとは、夢にも思っていなかったのだ。
 だが、それにも増してカイらを驚かせたのは、先の洪水が南から攻め込んできたオロチ軍の大半を壊滅させたということ、そして――。
「失われた支族がこのワの国へ来ていただって?!」
 それは天地がひっくり返るほどの衝撃だった。
「イスズ様はあなた方が争いをやめるのであれば、ヤマトへあなた方をお迎えするお心積もりです」カーラはそう告げた。
 浅黒いカーラの顔立ちは鼻筋が高く、全体に容貌がカナンの民に似ていた。その顔をカイたちは食い入るように見つめていた。
「俺はエステル様に進言するつもりだ」やせ衰え、頬もそぎ落とされたようになっていたが、モルデの眼だけは強く輝いていた。「皆でヤマトへ行こう」
 もともとオロチとの戦いでは、すでに意見が割れていた彼らだった。あくまでも徹底抗戦を訴えるカイに対して、シモンやヤコブは半島へ撤退することを主張していた。ほかの二人は立場を決めかけていた。そのような状態の彼らでさえ、このプランは丸ごと包括してしまえるものだった。
「失われた支族がいるのなら……」
「そうだ。願ってもない」
「行こう、ヤマトへ」
 ワの地へ侵攻して以来、彼らは戦い続けていた。オロチとの厳しい全面戦争になり、敗退を続け、今や膿み疲れも生じてきていたのだ。いきなり希望の灯がともったように、彼らの眼に輝きが戻ってきた。
「ただ……」モルデは言いかけた。
「ただ、なんだ、兄さん」
「いや、このことはエステル様に直接お話する」
「わかった。とにかく本陣に合流しよう。ここからなら今日の内には本陣へ合流できる。スサノヲ、あんたはどうする。トリカミへ戻るの――」
 カイの言葉は途中で切れた。スサノヲは山小屋の建つ峠の見晴らしの良い場所に佇んでいた。イズモの地が遠望できる。眼下に斐伊川が流れ、その向こうに小高いいくつかの山が連なっていた。
 そこに彼の眼は、常人の肉眼では確認できない、異様なものを視ていた。その上空に暗雲の如きものがあった。それは恐ろしく禍々しい鬼気をはらみながら、生物のようにうごめき続けていた。そこから、まるで黒い雪のようなものが地上に降り続けているのが視えるのである。
 胸を締め付けるような不快感。口の中が金属的な味わいで満ちてくる。
 ヨモツヒサメに違いなかった。
 羽ばたきと共に、近くの木の枝にカラスが止まった。
 ――何ガ起キテイルノカ、ソノ眼デ確カメヨ。
 サルタヒコが伝えてきた。
「俺も一緒に行く」振り返ってスサノヲは言った。「カイ、エステルは無事なのか」
「あ、ああ。まあ、そのはずだけど」カイはいかにも歯切れが悪かった。
「どうした、カイ。エステル様に何かあるのか」と、モルデが尋ねた。
「うん……。まあ、会えばわかるよ。ちょっとこのところエステル様、元気がないっていうか……まあ、それは兄さんの顔を見たら、きっと元気になられると思うよ」
 スサノヲは、本音ではトリカミへ戻りたかった。クシナーダが今どうしているかと考えたら、居ても立ってもいられない心地になる。だが、カーラの話によれば、トリカミを占拠しているカガチとオロチ軍は、洪水の被害を受けた仲間の救助に追われている。態勢の立て直しに血眼になっているという話だ。
 そして、クシナーダもほかの巫女たちと共にトリカミにいる。
 今しばらくの時間の猶予はあるように思えた。身体さえ復調すれば、トリカミとイズモの間の距離など、さして大きな問題ではない、とスサノヲは判断した。ヨモツヒサメから受けたダメージがいかほどのもので、回復に要する時間がどれほどなのか、自分でもはかりかねていたが、今はイズモで何が起きているのか、見定めなければならなかった。
 そう決断せざるを得ないほど、嫌な予感がした。おそらくサルタヒコがカイたちの前にスサノヲを下ろしたのにも、深い意図があると思われた。

 谷間に沿った獣道を下り、一行は斐伊川に出た。
 そこはすでにカナンの勢力圏であり、彼らは防衛線を張っている守備兵たちの手厚い歓迎を受けた。ことにモルデの帰還は熱烈な喜びを持って受け取られ、彼らは現在のカナンの本陣のある場所へ案内された。小舟で川を下り、山を迂回する形で、夕刻にようやく辿り着いたその場所は、複数の小高い山のすそ野であった。(現、神庭谷付近)
 そこでスサノヲは信じがたい光景を見た。
 近づくにつれ、山々を揺るがすほどの歓声が轟くように聞こえてきた。それはまったく意外なことであり、オロチ軍に徐々に追い詰められ、総攻撃を受けて崩れた兵士たちの発するものとは思えなかった。
 山あいに陣を張るカナン軍には、まだこれほどの数がいるのかと驚かされただけではない。彼らは熱狂していた。まるで大戦(おおいくさ)に勝利したばかりのような、とてつもない興奮と喜びが里に満ち満ちていた。
「なんだ、これは……」
 カイやモルデでさえ、この狂乱ぶりには戸惑った。
 その中心にいたのは、刀傷を顔に持つ、隻眼の男であった。
「ヤイル……」モルデが呻くように言った。
 岩場の上に立ち、演説している背高い男はヤイルだった。彼の身振りで兵士たちは静かになった。
「聞け! カナンの民たちよ! 神に選ばれし同胞よ!」
 ヤイルの声が響き渡る。


「野蛮なる民どもの軍勢には神の鉄槌が下された! 我が予言通り、大水が彼らを滅ぼした! そなたらは見たであろう!」
 おお!! と兵たちの声が返す。
「これこそが神の御業である! 神は私にお約束された! はっきりとお言葉をくださったのだ! 我らにこの島国すべてをお与えになると!! こここそが神のお約束された第二の地! 恐れるものなど何もない! 我らには神がついておられる! 愚昧な異教徒どもなど恐れるに足らぬ! 聞け、民よ! カガチは神の火によって焼かれるだろう! これは神の御言葉である!」
 うおおおお――という轟きがまた湧いた。
「皆、耳を澄まして聞くがいい! タジマは間もなく裏切りに遭い、崩れ去るだろう! 真の神への信仰を持たぬ者どもの結束などなきに等しい! 彼らは憎しみ合い、結束は乾いた地の石くれのように脆くなる! もはや我らの敵ではない! キビもまた恐ろしい災厄に見舞われるであろう! 五つの地の邪教の巫女は互いに憎しみ合い、残らず死に絶える! 我らはもはや彼らを打ち倒した! その未来が我が眼には映じておる! そしてこの島国には我ら民が増え、ありとあらゆる地で栄え続けるのだ!」
 地の底から噴き上がってくるような熱気と共に兵士たちはまた怒号のような喚声を上げ続けた。目の当たりにして、スサノヲは珍しく血の気が引くような心地を味わっていた。うすら寒さに皮膚が粟立ってくる。見渡す限り埋め尽くす群衆には理性の働きは微塵もなくなり、盲信的な思い込みだけが膨張し、そしてこの地で一つの意志となって結びつき、さらにいびつで異常なものとなって、今まさに生れ落ちようとしていた。
 茜色に染まる空には、今は雲一つなかった。だが、スサノヲはその上空に視ていた。悪意に満ちた闇の存在を。
 ――オマエノ見タイ神ヲ見ヨ。
 ――オマエノ考エル神ダケヲ信ジロ。
 ――他ノモノハスベテ滅ボセ。
 ――認メルナ。
 ――否定シロ。
 ――否定シロ。
 ――ソシテ殺セ。
 ――殺セ。
 ――ソレガ正シイノダ。
 ――正義ヲ為セ。
 ヨモツヒサメから降りかかってくる思念は、ヤイルの身体にどんどん吸い込まれていた。彼の隻眼は異様な光を放ち、彼が見渡す群衆を魅了し、魂をわしづかみにして力づくで引きずり込んで行く。魔の渦の中に。
「おい! これはいったいどういうことだ!」モルデが近くにいた兵の肩をつかみ、問いかけた。
「どうもこうもあるか。ヤイルが予言したんだ。トリカミから来るオロチが大水で滅びると。それが的中した! ヤイルは予言者だ! 我らの新しい予言者にヤイルはなったんだ!」
 その兵士は涙まで流していた。喜びのあまり震えている。狂気じみた喜悦の顔だった。
「エステル様は?!」モルデは詰問した。
「エステル様?」
「エステル様はどこだ!」
 男はすっかり忘れていたというふうに、ようやく記憶を紡ぎ出した。「ああ、ああ、エステル様……エステル様か。たぶん幕屋にいるだろう」
 その男を突き飛ばすようにモルデは歩き出した。カイら帰還した兵士と、カーラ、そしてスサノヲもついて行った。歩きながらスサノヲは上空のヨモツヒサメに意識を向けていた。
 ヨモツヒサメのほうでもスサノヲのことは認識しているようだった。しかし、このヨモツヒサメはスサノヲに格別な関心はないらしく、攻撃的な意識は見えなかった。むしろヤイルを通じ、カナンの民を扇動することにのみ関心があるかのようだった。
 こんな化け物どもが世に出ていたら……凍りつくような想いが湧いた。
 地上に平和など望むべくもない。争いと憎しみが地に満ち、累々たる死体の横たわる、この世は本物の地獄と化すだろう。その世界ではもはや亡霊や怨念、死神ばかりが跳梁し、渦巻いているのだ。
 心底ゾッとなり、スサノヲは想像を頭から追い払った。
 こうなっては、なにがなんでもエステルにこの戦いを収めてもらわなければならなかった。
 幕屋には衛兵すらいなかった。誰もがヤイルの元に馳せ参じているのだ。その場には、置き去りにされた何か冷たくて空虚な印象さえあった。
 その中にエステルがいた。かつてとは見る影もなく憔悴した顔に、濃厚な憂悶を漂わせ、視線を足元に投げ出していた。人の気配は感じたであろう。が、彼女は眼を上げもせず、腰かけた姿勢のまま、銅像のように固まっていた。
「エステル様……」モルデが枯れたような声を発した。
 びく、とエステルの身に震えが走った。眼が上がり、そして宙をさまよい、目の前にいるモルデの姿を捉えた。
「……モ、モルデ……?」見えない糸に引かれるようにエステルは立ち上がった。「本当にモルデなのか? おお……おお……モルデ!」
 両手を捧げるように前に出し、エステルはまるでぶつかるような勢いでモルデに抱きついていった。


    5

 黎明の空に、二つの星の輝きがあった。クシナーダは収容されている家屋の戸口に立ち、その星の輝きを見つめていた。疲れ切った他の巫女たちより先に目覚めたアナトは、クシナーダのその様子に気づいた。
「おはようございます、クシナーダ様」
 他の者を起こさぬように気づかい、アナトは小さく声をかけた。クシナーダも挨拶を返してくる。
「しばらく前から不思議に思っておりました、あの星……」アナトは言った。「わたしたちがいつも見るものとは違っています。赤の星でもなく、一つ目の大きな星でもなく、輪の星でもなく……あのように明けの明星のそばで輝く星を私は知りませぬ」
「天津甕星(あまつみかほし)……スサノヲの星です」
「スサノヲ様の……? まだお会いしたことはありませぬが、直接天より降られたとお聞きいたしました。わたしたちワの民が伝える物語の荒ぶる神と同じ名を持たれている……まさしく霊妙なることでございます」
「スサノヲは破壊と再生をもたらす〝力〟だと、アシナヅチ様が申されておりました。そのため常に両面を持つと」
「両面?」ドキッとしたようにアナトはおうむ返しに言った。
「破壊者と創造者です。大陸の南方の土地では、シヴァという神が祀られています。破壊と創造の神ですが、そのシヴァは踊る神なのです」
「踊る神?」
「なたらーじゃ……とも呼ばれています。彼の踊りは世界を破壊し、そして再生させます。シヴァはその地でのスサノヲの働きの表現なのです」
 そのような知識を一体どこから得るのかと訝り、アナトはその考えが愚問に近いと思いなおした。クシナーダやアシナヅチの知覚能力は空間や時間を簡単に超えてしまうからだ。
「もしかするとカガチとスサノヲは一対のものなのかもしれません。天津甕星はきっとスサノヲの〝力〟が顕れる験(しるし)なのです」
「わたしはあの星に畏怖を感じます」
「はい。でも、わたくしは今、あの星を見て、安堵していたのです。あの輝きがあるということは、スサノヲの命の輝きもまた失われてはないということ」
「クシナーダ様の御力なら、スサノヲ様のご様子もご覧になられるのでは?」
 クシナーダは首を振った。「結界が張られ、聖域化されているこの里の中ならいざ知らず、今結界の外へ意識を飛ばせば、ヨモツヒサメに心を食われかねません。ただ感じるのです、スサノヲが苦しみながら道を進んでいることを」
「お怪我をされているご様子ですが」
「ただの怪我ではないでしょう。おそらくスサノヲはどこかでヨモツヒサメに遭遇してしまったのです。でなければ、あのような傷を受けるはずもありません」
「強いお方なのですね」
「はい……」
「それに離れてらしても、クシナーダ様はスサノヲ様のことを手に取るようにわかっておられるようです……その……」アナトはある言葉を呑み込み、別な表現を選択した。「クシナーダ様はスサノヲ様を信じておられるのですね」
 クシナーダはうっすらと微笑を浮かべた。その表情には愛する乙女の喜びのようなものが滲んでいた。そして、「はい」と静かに強く答えた。
「アナト様」
「はい」
「わたくしたちは踊らねばなりません」
 その言葉に、アナトはしばらく前にアゾの祭殿で受けた啓示と、そして現れたウズメの神霊から告げられたことを思い出した。
「御霊を集め、浄めよ……。魂で踊り、ワのヒビキでこの世を埋め尽くせ……」
「その通りです。このワの国では、わたくしたちが踊らねばなりません。ワの民は――いえ、人は――歌と踊りでつながり合えます。わたくしたちが昔からこの地でそのようにしてきたように、歌って踊って……天の岩戸を開き、そしてこの闇を払わねばなりません。でなければ、きっとこの国の子らの未来もありません」
「わたしも及ばずながらお力になりとうございます」
「アナト様なくして、きっと岩戸は開かれません。お願いいたします」
 クシナーダに頭を下げられ、アナトは狼狽した。「そ、そんな――クシナーダ様、お顔をお上げください」
 そんな二人のやり取りを、目を覚ましたアカルが見ていた。アナトはクシナーダよりも六、七歳は年上だが、まるで目上の者に相対するように尊敬の想いを隠さなかった。それはアナトらキビの巫女たちが、結果的にこのトリカミに与えた被害に対しての罪障感を持っているからだけでは決してない。
 それはアカルが一番よく知っていた。彼女が、最初にクシナーダにあいまみえたのは六年前だった。カガチがイズモに支配権を広げ、ワの民たちの反撥を抑圧するため、トリカミの巫女を毎年一人ずつ人質にし、挙句に殺すという蛮行に手を染めるようになり、二人目の巫女を連れ去ったときだった。
 アシナヅチから打診を受けて、アカルはトリカミに出向いたことがあった。むろんカガチを抑えるための何らかの手段を講じるためだった。この会談はカガチに察知されるところとなり、アカルはその後、タジマに幽閉されてしまうという結果を招くのだが、クシナーダに出会ったこと自体は、アカルにとって非常に衝撃的な出来事だった。
 まだ十歳くらいの幼い巫女に過ぎなかったクシナーダは、それ以前も以後もアカルが知るありとあらゆる巫女の次元を越えていた。すでに千年二千年という先を透視し、世界の裏側にいる人々とも交流を持つことができた。
「あなたはお母さんね」クシナーダは一瞥して、アカルにそんなことを言った。
「お母さん?」
「あなたがお母さんに見えるの。きっと大事な人」
 その瞳が見ているものは、アカルにはまったく想像もつかなかった。が、少女の精神がこの世の現実の枠をはるかに超越していることは、圧倒的な霊的なヒビキによって伝わってきた。
 だが――。
 アカルは、少女だったクシナーダの言葉の意味が今ようやく氷解したのを知った。イスズの命が消え去るとき――キビの巫女たちやナオヒが共有していたヴィジョンが、アカルにも飛び込んできた。
 少年カガチの母、それはアカルによく似た女性だった。冠島に漂着したカガチが、アカルの顔を見て驚愕したのは、大陸で失った母の面影をそこに見たからにほからない。それが理解できた瞬間、アカルの中でドミノが倒れるようにして、霊的な情報が解き放たれた。
 それはカガチと自分との情報だった。
 カガチは母親に愛されなかった。母親が溺愛していた兄を事故で死なせてしまったからだった。以来、母はカガチに感情のない冷めた目を向け、呪いのような言葉を与え続けた。
 おまえのせいだ。おまえなど生まれなければよかった。
 カガチは渇望する母の愛の代わりに、その呪詛を受け続けて生きてきた。やがて起きた戦乱で家族を皆殺しにされ、生き残り、辿り着いた島国で出会った巫女。
 そこにまた亡き母の面影を見てしまった。
 毎年巫女を殺し続けるカガチの深層にあるものまでもが、アカルには我がことのような痛みとしてわかった。
 自らの肉体に鬼の種子まで育てたカガチの根にあるもの。
 それは、愛されたい、生きたい、という熾烈なまでの欲望だった。その欲望こそが彼の鬼の根源であった。解き放ったのは霊剣の〝力〟だったかもしれないが、救いのない彼の行く末はいずれ似たところへたどり着いたであろうと思われた。
 そして――。
 それを救うのは自分でなければならなかった。
 アカルがカガチの命を救い、巫女としての予感に逆らい、彼を登用しようとする父にも警告を与えず、今の状況を作り出してしまったという責だけではない。ましてやアカルの面差しが、カガチの亡き母に似ているからというのでも、もちろんない。
 もっと根深いものが、アカルとカガチの間には横たわっていたのだ。
「あら、アカル様――」クシナーダはアカルに気づき、すぐに扉を閉めてアナトと共に室内に戻ってきた。「お目覚めでしたか。すみません、お寒うございましたか」
「いえ、大丈夫です」
「お顔色が随分とよくなられました」と、アナトも安堵の色を浮かべた。
「皆様のおかげです」
 他の巫女たちも話し声に誘われるように、次々と目を覚ました。昨日は彼女らの手でイスズを弔った。そのこともあったし、その前夜からの強行軍もあって、彼女らも疲れ果てていたのだ。
 しばらくして食事が運ばれてきた。トリカミの里の者が命じられて、囚われの巫女たちの食事のまかないを行っていた。食事を運んできたのはスクナだった。彼女は見張りに立っている兵士に戸口を開けてもらい、身に余るような大きな木の板に七人分の器を乗せて運んできた。野草や根菜がふんだんに入れられた粟の粥であった。
 スクナと目が合うと、クシナーダはその瞳の中だけで笑って、うなずいた。配膳している最中に、スクナに囁く。
「戻ったのですね。イタケルやオシヲ、ニギヒ様は?」
 スクナも小さく返した。「里の近くの洞窟に隠れてる。イタケルやオシヲは顔が知られているかもしれないし、ニギヒ様はあの通り目立つから」
「そうですね」くすっとクシナーダは笑った。「スサノヲはやはり一緒ではないのですね」
「うん。することがあると言って別れたまま」
「スサノヲの気配は北のほうにあります。たぶん、カナンの本陣のほうでしょう。そこへモルデとカーラという者が向かったはず」
「知ってる。会ったよ。じゃ、スサノヲも一緒かもしれないね」
「そんな気がします」
「おい!」見張っているオロチの兵が怒鳴った。「さっさとしろ! 用が済んだら出ろ!」
 彼らはカーラが食事を運んだあと、イスズが抜け出した前例から警戒を強めていた。
「ちょ、ちょっと待って」スクナが言った。背後に手を回し、腰紐にさしていた花の枝をクシナーダに差し出す。「これ、イタケルが持って行けって」
 まあ、とクシナーダは眼を見張った。「覚えていてくださったのですね」
 それは鮮やかな紅色をした椿の花だった。五弁の花びらが大きなめしべを包んでいる。その明るい色合いは、閉塞感が立ち込めていた室内の空気を変えた。


「生まれた日に、その季節の花を贈るのが、この里のならわしなんだ」と、スクナが兵士に説明した。
 子供にそう言われ、兵士たちは戸惑いつつ、返す言葉もなかった。
「クシナーダ様は今日がお生まれになった日なのですか」と、アナトが尋ねた。
「はい。とても祝っていただく状況ではありませんが……わたくしはこの一年でもっとも日が短い日の生まれです」クシナーダは眼を細めて、椿の花の色と香りを味わった。「ありがとう、スクナ。イタケルにもお礼を言ってね」
 スクナはにっこりしてうなずいた。クシナーダは立ち上がる際に、その耳元に顔を自然に近づけてまた囁いた。
「この花弁がすべてなくなった夜、わたくしたちはここを出ます」
 スクナは返事をしなかった。が、聡明な彼女は眼だけで了解したことを伝えてきた。
「また、ごはんを持ってきて頂戴ね」
 そう言って送り出すクシナーダに、「うん」と返事をしながらスクナは出て行った。
 子供ゆえに気を許しているということもあるのだろう。兵士はさして訝りもせず、スクナが出ると扉を閉めた。
「さあ、いただきましょう」と、クシナーダは明るい声で言った。
「クシナーダ様……今の子と何を……」近距離にいたアナトは、わずかながらやり取りを耳にしていた。
 クシナーダは眼を悪戯っぽくきらきらさせながら、指で押し黙るように合図して、椿の枝を家屋の隅にある間口の狭い土器に差した。それに水も差しておく。それからそっとつぶやいた。「スクナはこれから毎朝毎夕、食事を運んできてくれるでしょう。椿の花びらを状況に合わせ、一枚ずつちぎっておきます。すべてなくなった夜にここを出ましょう。そのための合図に使うのです。いつも話せるとは限りませんから」
「え……しかし、どうやって」
「心配いりません。スクナが戻っているのなら」
「え……」
「でも、花がかわいそう……」と、クシナーダは椿を振り返った。「本当は椿は花びらを散らさず、落ちるときは花が丸ごと落ちるんですけどね」
 巫女たちはきょとんとしていたが、一人、ナオヒだけがにやにやしていた。
「ナオヒ様、このようにお謀りになって、スクナの身を守るためにニギヒ様と共に里の外へお出しになったのですか」と、クシナーダは視線を送った。
「そなたほどではないがの」ナオヒは細い腕で器を取りながら言った。「なんとなく、あの子を逃がしたほうが良いと思うたのじゃ。スサノヲとの縁が深そうじゃしな」
「やっぱり」クシナーダはにっこりとした。「ナオヒ様はお人が悪い」
「そなたほどではない」
 二人は声をあげて笑った。他の巫女たちは戸惑いながら、苦笑のような表情になった。


 獣のような唸り声がしていた。
 トリカミへ来て、三度目の夜だった。ヨサミは毎夜、その唸り声を耳にしていた。いや、もしかするとイスズという巫女が殺されて以降というべきなのかもしれないが、トリカミに根を張って以来、あきらかにカガチの様子はおかしかった。
 常識では推し量れないほどの体力を持つカガチだったが、それ以前はいかなる戦があっても、眠れないなどということはなかった。戦闘で高揚した肉体を持て余したようにヨサミの身体を抱き、そして熱を冷ますと満足して眠りに落ちた。それは飢えた猛獣が腹を満たして眠るのと同じようものだった。それが常だったのだ。
 しかし、トリカミに来て以来、カガチはおかしくなってしまった。熟睡することもできず、何かに責めさいなまれるように、浅い眠りの中でうわ言を口走るようになった。母さん、というはっきりとした声もヨサミは幾度も聞いた。そしてまた獣のような唸り声を発して目覚め、不機嫌に荒い息とぎらついた眼を周囲に放つ。そんなことばかりだった。
 その夜、ヨサミは不安に襲われた。隣で身体を横たえているカガチは、もはやうわ言のレベルではない、はっきりとした苦悶を表わす声を上げ始めたからだ。肉体を蝕む不治の病の痛みにでも襲われているように、彼は唸り、のたうち、吠えた。
「カガチ……カガチ様!」褥を共にする者が死ぬのではないかという恐怖に襲われ、ヨサミは彼の身体を揺さぶった。
 カッ、とカガチは眼を開いた。充血しきった眼だった。
「いかがなされました」
 その眼が動き、ヨサミの顔を捉えた。ううう、という唸りと共にカガチの身体は跳ね上がり、そして一瞬にしてヨサミの身体を組み伏せていた。
 今下を見ていたのに、あっという間にヨサミの眼は上を見ていた。そこにカガチの鬼の形相があった。彼のものすごい腕が伸び、万力のような両手が首に巻き付いてきた。大蛇が瞬間的な動きで敵を締め付けるようなものだった。
 ぎゅうっと締め付ける力が首を圧迫し、ヨサミは両手両足をばたつかせた。苦しいというようなレベルではなかった。涙や血液といったものが、頭部の涙腺や毛穴から圧迫されて噴き出しそうになる。頭が破裂すると本気で感じた。
 だが、すぐに意識が遠のいて行った。
 死ぬのだ、とヨサミは思った。すとんと胸に落ちたのは、この怨讐にまみれた自分にふさわしい最期だということだった。
 顔にかすかに何かを感じた。それは首を絞めながら目の前に迫ってくるカガチの顔から落ちてくる涎や、そして――涙であった。
 この人も寂しいのだ。
 悲しいのだ。
 辛いのだ。
 そう思った。
 いいよ、殺して。
 わたし、あなたに殺されるのでいい。
 ヨサミは死の淵に落ちながら、どこにそのような力があったのか、その両手でカガチを抱いていた。いや、カガチの巨躯は彼女の両腕の長さでは、とうてい抱きしめることなどできなかった。そっとその胴に手を回すことしかできなかった。
 しかし、それは彼女にとって、カガチを抱くという行為だった。
「うおッ――」カガチが怯えたような声を発し、突き飛ばすように離れた。
 一瞬あと、呼吸と血流が戻った身体が、反動のように激しく咳き込み始めるのを感じた。うっ血で青黒くなりはじめていた顔に血の気が戻ってくる。涙も止まらなかった。
 ややあってヨサミは、そこに見た。
 鬼神が吠え、壁に頭や拳を打ち付ける様を。カガチの力が強すぎ、建物自体が倒壊しそうだった。


 ヨサミは褥を抜け出し、荒れ狂うカガチに近づいて行った。
 そして、その背後から彼を抱きしめていた。
 なぜ、そんなことをしたのか、自分でもわからないままに。





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