そして、そのそばに天津甕星(あまつみかほし)の輝きはなかった。
クシナーダはしばらくその光を求めて空を見つめていたが、あきらめたように視線を地上に下ろした。
トリカミの里では朝早くから人々が働いていた。朝餉を作る者たち、戦で失われた家屋を再建する者たち。だが、その朝はいつもと少し違った慌ただしさがあった。
「おはようございます、クシナーダ様」
すれ違う者、気づいた者が声をかけてくる。
「今日から寂しくなりますなあ。皆様、出立で」
そんなことを口にした男の脇を、そばで聞いていた妻が肘で小突いた。あ、と男は自分の口を押えた。気遣ってくれる里人にクシナーダは微笑を返し、ゆっくりと祭殿へと戻って行った。
そこにはすでに巫女たちとカーラ、イタケルが待っていた。旅支度を整えて。
「あら、皆さん――もう行かれるのですか」
驚いてクシナーダは彼らの元へ近寄った。
「はい、できれば、今日中には山を越えておきたいので」と、アナトが答えた。
「そうですか。皆さんも道中はお気を付け下さいね」
「クシナーダ様もご自愛ください」
「ありがとうございます。――あ、少しお待ちください」
クシナーダはアナトのそばにいるシキを見て、ふいに踵を返した。祭殿の階段を上がって行き、そして中から麻布に包まれた長いものを持ってきた。
「シキ様、どうかこれをあなたのもとでお祀り下さい」
クシナーダが差し出したものを受け取り、その感触にシキは驚きの眼で見返した。
「クシナーダ様、これは……」
「フツノミタマの剣です。あなた様はこの剣と何かご縁がありそうです。あなたの国、イソカミでこの剣の御霊をお鎮め下さい」
「わたしなどが――よろしいのですか」
「はい。その剣はきっといつかまた、大きなお役目を果たすときが来ます。それまでイソカミでお預かりください」
スサノヲの剣。フツノミタマの剣。それはスサノヲの魂にも近しいものであろうに――。
「わかりました。大切にお預かりいたします」涙目になってシキは、剣を抱きしめるようにした。
クシナーダは一緒に旅支度を整えているイタケルに眼を移した。
「イタケルも本当に行ってしまうのですね」
ああ、と彼は小さな皮袋に手に応えた。「とりあえずはこの巫女さんたちの護衛をカーラとやって……ついでに種まきでもしてこようかと思う」
「種まき?」
「ここらへんの野山で集めた木の実だ」袋を掌で弄びながら言った。「キビはクロガネづくりのために、あちこち禿山になってるらしい。だから、木を育てることをしたらどうかと思ってな」
「じつはわたしたちも一緒に集めたのです」
アナトが言い、巫女たちはそれぞれの腰紐に結んでいる皮袋を見せてくれた。
「もっとたくさんありますよ」と、背後で荷物を背負ったカーラが、肩の荷を揺らせて見せた。
「たくさんの木を植えて育てて、一色じゃない山に戻す。それがこのワの国中に広がる。どうだ、いいだろ?」イタケルはそう言って笑った。
「いいアイディアです」クシナーダはにっこりとした。
「あ、あいであ?」と、アナト。
「いい考えということです」
そこへエステルがやって来た。一同は向き直った。
「エステル様、キビでお待ち申し上げております。どうか御無事で民を連れて参られますよう」カーラはそう言った。「到着されましたら、わたしがヤマトへご案内申し上げます」
「よろしく頼む。ヤマトか――」エステルの瞳には希望があった。その眼を空の向こうへ向けた。
「四方を山に囲まれた、良い土地でございます」
「うむ。楽しみにしている」
「エステル様も……」躊躇いがちに口を開いたのはヨサミだった。「今日、発たれるのですか」
「ああ。ここ数日は天候もよいだろうと、クシナーダが言ってくれたので」
「そうですか……」
「その……ヨサミ、そなたはキビには戻らぬと聞いたが」
「はい。あの方と――」ヨサミはかすかに後ろを振り返った。
人々から外れたところでカガチは一人、空を眺めていた。
「タジマへ行きます。アカル様のお祀りされていた海と山を、わたしは引き継ごうと思っています」
「そうか。……その……謝って済むことではないと、百も承知している。が、本当にすまなかった」
ヨサミは頭(かぶり)を振った。それは拒否でもなく、まだ全面的な許しでもなく――。
ただ、彼女はこう言った。
「またいつか、お会い致しましょう」
「ああ……ああ!」救われたようにエステル大きな声で応えた。
そうして巫女たちはトリカミを離れて行った。イタケルとカーラも随行し。彼らは南へ。
ヨサミとカガチは東へ。
カガチは最後まで人と和することはなかった。
しかし、かつての彼でもなくなっていることは明らかだった。そしてそんな彼が唯一、身近に置いているのがヨサミだということもまた、たしかなことだった。
この後、カガチとヨサミの間には、タジマ豪族の始祖が誕生する。
カガチはその後、北陸を治めたが、晩年に近づき姿を消した。さらに東国へ向かったとも噂された――。
ヨサミが丹後半島で祭祀を行った地は、後にこう呼ばれた。
吉佐の宮(よさのみや)と――。
朝餉を終えると、エステルたちとニギヒ・ナオヒも出立した。
クシナーダたち里の者は、これを見送りに斐伊川に沿った道を下った。小舟で川を下って行ける地点までだった。
川の港には船が何艘もすでに用意されていた。
ここから斐伊川の河口近くまで下り、そこから大型の船に乗り換え、それぞれ大陸の半島とツクシに向かうのだった。
その川の港まで到着したところで、ニギヒが言った。
「クシナーダ様、またもう一度、お話をさせてください。機会をあらためて参ります」
「あのお話ですか」
「はい。わたしは……とても恥ずかしい思いを致しました」
「と申されますと?」
「いつぞや、クシナーダ様は申されました。民の幸せのために皇子の立場を捨てられるかと。わたしはそのとき、できるとお答えしました。が、わたしは偽善者です」
「偽善者?」
「じつは……わたしにはできることがあるのです。ツクシの争いを治めるために」ニギヒは躊躇いを押しのけるようにして言った。「南のクナ国のある豪族の娘との……その……縁談があるのです。わたしがその地へ行き、その娘と婚姻を結べば、あるいはクナ国との戦を鎮める一助になるやもしれませぬ。いや、そのように努力できるはずなのです。しかし、わたしはこの話を避けてきたのです」
「そうだったのですか」
「皇子を捨てる覚悟があるのなら、その程度のことできなければおかしい……。わたしは巫女の皆様が、自分のできることをなさろうとするその御姿に感動し、同時に自分を恥じたのです。わたしは……この婚儀を受けようと思います。自分の為すべきことを為します」
はっはっはと笑い声を上げたのはナオヒだった。
「肩の力が入りすぎておるな、ニギヒ」
「ナオヒ様……」
「まあ、そなたが何を選ぶか、それはそなたの勝手じゃ」
「またそのようなことを……」ニギヒは困った顔をした。
「クシナーダよ」
はい、とクシナーダは向き直った。するとナオヒは、その痩せた腕で、クシナーダを抱き寄せた。驚き、目を丸くするクシナーダ。
「この老いぼれがそなたとこうして相見えるのはこれが最後じゃろう。じゃがな……」
「…………」
「また会おう」
「はい、また……」
ナオヒは離れた。
「では、クシナーダ様」と、頭を下げようとするニギヒを、やはりクシナーダは呼び止めた。
「お待ちください。オシヲ、あれを――」
随行していたオシヲが、やはり麻布にくるまった剣をニギヒに捧げた。
麻布の中を見たニギヒは驚き、「これは――」とクシナーダを、そして船の用意をしているエステルを振り返った。
「エステル様がスサノヲに下されたカナンの宝剣です。どうぞお持ちください」
エステルは話題に上っていることを察したように振り返り、近づいてきた。そして、カナンの宝剣を見て「それは――」と言葉を切った。
「なぜ、これをわたしに」ニギヒは尋ねた。
「エステル様にはこれを――」クシナーダはやはり随行しているスクナを意識して言った。
スクナは麻布に包まれた円盤状のものをエステルに差し出した。受け取ったエステルは不審げにそれを開き、絶句した。
ニギヒも言葉を失った。
それは〝黄泉返し〟を行った最後にクシナーダの手に現れた鏡であった。
「これは――そなたらが宝とすべきもの。このようなもの、わ、わたしは受け取れん」
「違います。お預けするのです」
「あ、預ける……?」
「互いに大事なものを分かち合う……。そして、それをいつか一つになさってください」
「いつか一つに……」
「このワの国の戦乱は、もうすぐ収束に向かうでしょう。そのときにそれらはきっと、一つになっているはず」
「それは……そなたの予言か」
エステルの問いに、クシナーダは笑った。
「いいえ、願いです。どうかお聞き届けください。このことを経験した幾多の人たちが、いつかこのワの国で一つになることが、わたくしの心からの願いです」
ややあって、エステルは応えた。「わかった」
ニギヒも頷いた。
そうして彼らは船で川を下って行った。見送ったのち、クシナーダたちは里へ引き返した。
「オシヲ、スクナ――」帰路、クシナーダは斐伊川を眺めて言った。「先に帰っていてくれませんか。わたくしはここで少し用事があります」
「え? こんなところで――」オシヲが言った。
が、スクナははっとしてオシヲの袖を引っ張った。そしてクシナーダに応えた。「わかった。先に帰ってるよ。行こう、オシヲ」
「え? え? ちょっと」
オシヲは戸惑いながら年下のスクナに引っ張られていった。他の里人も、クシナーダに異を唱えることはなく、そのまま里へ向かった。
クシナーダは独りになった。
そして、その河原をいつまでも見つめていた。
スクナは気づいていた。洪水のために景色が多少変わっていたが、そこはスサノヲとクシナーダが出会った場所だった。あのときアケビが生っていた木も、奇跡的に残されていた。
ずっと、飽きることなく、クシナーダはその景色を眺めていた。
変わらぬ川のせせらぎ。風に揺れる草木。
あのときはそう――ススキが中洲や河原に揺れていた。その中に、二人はお互いの姿を認めた。
中洲を飛び渡ってきたスサノヲ。
――みかほし? いや、俺はスサノヲ。
――いいヒビキだ……クシナーダ。
クシナーダは道から降り、河原へと向かった。そして歌った。
゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ
゚・*:.。..。.:*・゚あなたの訪れ
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ
゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船
゚・*:.。..。.:*・゚長い年月
゚・*:.。..。.:*・゚ただ、あなただけ
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ
その歌は星の神話というだけではなかった。
それは魂の物語だということを、クシナーダは知っていた。川を隔てて出会う男女。
一年に一度の逢瀬。
魂がこの世で出会い、束の間しか愛し合うことを許されていない。
その悲しさを歌ったものなのだ。
スサノヲはいない。
きっとアシナヅチとの約束を守り、このワの国を守る御霊として、今はヨミへ赴いたのだ。
だけど、きっと。
いつかまた会える――。
追いかけて行こう――。
クシナーダは思った。胸に固く誓った。
あの人の魂をどこまでも追いかけて行こう。
今そばにいなくても。
あッと声を上げ、クシナーダは歌声を途切れさせた。不意に強い風が吹き、彼女がかけていた朱の領布を舞い上げた。そして埃が眼に入り、その痛みに彼女は片手で眼を覆った。
痛かった。
「痛い……」そう口に出した。「痛い……痛い!」
大きな声を出した。そうして彼女は両手で顔を覆い、河原に膝をついた。
涙が溢れてくるのは、埃で痛いからではなかった。そんなものはとっくに洗い流してしまうほど、とめどなく涙は流れた。
「……どうして……? どうして今じゃないの!? わたしはこうして生きながらえているのに、どうしてあなたはここにいないの!? 嘘つき! 死なないって言ったのに!」
子供のようになっていた。幼子が泣くように、クシナーダは河原に突っ伏して泣き出した。大声で。拳で河原の石を叩きながら。
ずっと泣き続けた。
また風が吹いた。
クシナーダは領布のことを思い出した。スサノヲが最期に身に着けていたもの。
それだけがクシナーダのもとに残された、彼との思い出となる品だった。
彼女は身を起こして、涙を拭き、あたりを見まわした。
領布は対岸にまで飛ばされていた。
それを拾う手があった。
クシナーダは操り人形のように、それを見て立ち上がった。
対岸にはスサノヲが見えた。彼が領布を首に回すところだった。
これは願望だ、とクシナーダは思った。願望が見させている幻視だと。
それでもかまわなかった。
いつまでもいつまでも、その姿を見ていたかった。
「クシナーダ」
声が聞こえた。
彼の声だった。
クシナーダは引き寄せられるように足を踏み出した。二歩三歩。そして川の中に入って行った。
冷たい川の水が、意識を鮮明にした。
「スサノヲ……?」
いつか消える幻視だと思った。
だが、彼は消えなかった。それどころか、彼は歩き出し、近づいてきた。足が川の水をざぶざぶとかき乱す音まで聞こえる。
「スサノヲ!」
幻でも何でも構わなかった。彼女は駆け出した。水を撥ね飛ばし、岩を飛び渡り。一度たりとも瞬きもせず、彼の姿を目に焼き付けながら――。
二人は川の中洲で向き合った。
差し伸べる手が震えた。怖かった。触れることなくその姿が消えてしまうことに。
だが、クシナーダの手は彼の腕をつかんだ。
「クシナーダ」スサノヲは彼自身、今の状況が信じられないというように言った。「もう一度生まれることができた……。もともとこの身は、エステルとモルデの子としてあったものだったのだ。エフライムに似ていたのも道理……血がつながっていたんだ。時間はこのネの世界にしかない。だから――」
スサノヲの言葉をクシナーダは大声で遮った。
「そんなこと! そんなことどうでもいい!」
スサノヲは黙った。
「ああ……スサノヲ、あなたなのね。本当にあなたなのね」クシナーダは両手で彼の肉体の感触を確かめながら問うた。
「ああ……ああ、そうだ! クシナーダ!」
スサノヲはクシナーダを抱きしめ、そして抱き上げた。そしてふりまわすように回った。
その遠心力に逆らい、クシナーダは彼の頭を抱きしめ、そして下ろされたときも決して離れずにいた。めくるめく心地の中。
二人は眼と眼を合わせた。
そして口づけを交わした。
歓喜のヒビキが広がった。
まだ蕾さえ生まれていない木々。梅や桜が、そしてツツジが。
みるみる蕾を育て、そして急速に花を開かせた。艶やかに、美しく。次々に。
それは二人を中心にして、広がって行った。
クシナーダのことを案じて、その場に残って一部始終を見ていたオシヲとスクナは、真っ先にその奇跡を目の当たりにした。涙顔の彼らのまわりも、たちまち花で満ちた。
「ヒビキが戻ってきた」驚きに打たれ、ナオヒが振り返った。
そして老巫女は満足げに笑った。船出をしたばかりのエステルとニギヒ、それぞれの大型船は並んで日本海を走りはじめたところだった。
彼らもまた奇跡を目の当たりにした。
離れ行くナカの国の山野が、突如として色づき始めたのだ。本州に近いところを走っていたニギヒの船で気づいた者が大声を上げて指差し、エステルたちもそれに気づかされた。
「なんだ、これは……」モルデが呆然と、狂ったように咲いていく山野を見つめた。
エステルの胸元で勾玉が光っていた。
彼女はそれを手にし、覚った。
「そうか――そうか!」
キビへの道をたどる者たちの中では、シキが真っ先に気づいた。背負っていた剣に、暖かく強いヒビキを感じたのだ。剣の麻布を開き、その輝きを目にし、彼女は他の巫女たちに起きたことの直感を伝えた。
そうするうちに、彼女たちのまわりでも花が次々に開いた。
イタケルとカーラも眼を見張って、花々で満たされていく街道に佇んだ。
「花が……」
ヨサミが足を止め、そしてカガチも後ろを振り返った。
西の方から次々と咲き誇ってくる桜並木。
カガチは眼を細めた。それは彼が誰にも見せたことのない、穏やかな表情だった。
祝福のヒビキが満ちている。奏でているのは花々。
そのヒビキは
やがて
ネの片隅から広がり、
まるい星すべてへと広がった。
まるく青いその星は、回りながら息づいていた。
その星のはるかかなたには、天の川とそれを挟んで輝く星が二つあった。
――クシナーダは、スサノヲの妻となった。
そのためワの女王の出現は、六十年ほど遅れることとなる。
fin
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