2015年7月2日木曜日

ヤオヨロズ第4章 ヨモツヒサメ


     1

 濃密な闇が視野を覆い尽くしていた。
 まるで深い淵を覗きこむような、底も先も何も見えない闇である。
 その世界でスサノヲは、わずかばかり、自らの身体が発する光だけを頼りに歩いていた。そう、彼の身体はぼうっと微光を放っていた。直観的に思ったことは、それは彼が生きているからこその光であり、周囲のすべては死の闇の底にあるのではないか、ということだった。
 すべてが死せる世界。
 完全なる沈黙。完全なる闇。
 その〝死〟のあまりの濃厚さ、重さに、いつしかスサノヲは自分自身がそれに呑まれる恐怖を味わっていた。そして、それが彼を激しく動揺させた。
 ――死?
 スサノヲは自分が死ぬということを、これまで一度も想像したことがなかった。常人と異なり、彼は超人的な肉体と力を与えられていた。ありきたりな脅威の前に、自らの存在が危うくなり、消え去る危険など、感じたことがなかった。
 が、この世界だけは違った。
 闇は果てしなく、どこへともわからず続いていた。いつまで歩けばよいのか、それすらわからない。そのためか、いつしか自分がこの闇の中に溶けて消えてしまうような、そんな恐怖がじわじわと心を侵食していたのだ。
 長い長い洞窟のようなものだった。しかし、距離感はまるでない。時間感覚もなくなる。どれだけ歩いたかということも一切想像できず、いつまでたっても闇が払われる気配もなかった。
 苛立ちと焦り。
 そして恐怖。
 スサノヲの心が乱れ始めてしばらくすると、闇に変化が生じた。
 初めて別な存在の気配が感じられ始めたのだ。
 ――助ケテクレ。
 自分のほんの間近、頬や耳に接触するような感覚で、すうっと冷たい空気が流れていく。
 ――痛イヨ痛イヨ。
 子供の声。
 ――坊ヤ、アア、坊ヤ!
 母親の悲痛な叫び。病で子を死なせてしまった悲しみが、なぜかはっきりとそれと分かる形で伝わってくる。声の主の感情と状況が、そのままスサノヲに伝染してくるのだ。
 と、堰が切れた流れが押し寄せるように、大量の思念が彼にまとわりついてきた。
 ――苦シイ。
 ――熱イ! アア、体ガ燃エル!
 ――水ヲ……。
 ――許サナイ。
 ――寒イ。
 ――呪ワレヨ。
 それは声というより、想いだった。無数の人間の想いが、その人々が置かれている状況とともに生々しく伝わってくる。
 勝利と敗北。栄華と荒廃。
 この地上に勃興した多くの国々と、そこで生きた人々の人生、想い。
 それが今、とてつもない情報量となって、スサノヲの中に入って来ていた。彼らの悲しみや憎しみ、絶望、恐れの大群となって、怒涛のように押し寄せてくる。それは氾濫する大河の水を身一つで受け止めるようなものだった。
 その波涛はスサノヲを呑み込み、彼を粉々に粉砕しようとした。
 ――死ニタクナイ。
 ある一つの想いが、スサノヲに憑依した。それは彼自身が強く想い抱いた感情そのままだったからだ。
 ――ココデ、俺ハ死ヌワケニハイカナイ。
 走り抜ける無数の騎馬、馬車。戦乱。
 スサノヲは剣を抜いた。そして襲い掛かってくる兵士たちを切りつけた。だが、それはいつもの超人的な彼の技でもスピードでもなかった。鉛でも四肢に入っているのではないかというような、恐ろしく鈍重な動きだった。いや、彼にはそう感じられた。
 スサノヲが実感しているのは彼自身の人生ではなく、彼に憑依したある兵士の人生だった。強大な国家の侵略を受け、滅びゆく国。それに抗った男の想いが、そのままスサノヲの意識を占領してしまっていた。
 男には愛する妻と子たち、そして老いた母親がいた。そのすべてを守ろうとしたが、津波のように押し寄せる巨大国家の軍勢の前では、あまりにも非力であり、消し飛ばされてしまう程度のものでしかなかった。矢に射抜かれ、痛みに耐え、押し寄せる騎馬隊に立ち向かった。が、槍が彼の胸を貫き、打ち倒された彼の胴体と頭部を、荒馬たちの蹄がぐしゃぐしゃに潰してしまった。
 ――死ネナイ。ココデ、俺ハ死ネナイ。
 原形をとどめぬほど損傷した肉体を離れた男の魂は、守るべき家族のもとへ飛んだ。が、魂だけとなった彼の目に映った光景は、侵略兵によって子らと母がたわむれに殺され、妻が犯される姿だった。



 絶叫した。それは魂の咆哮だった。
 スサノヲは男と共に、血の涙を流していた。愛する者を殺戮され、奪われ、愛した国もことごとく蹂躙される、その絶望と呪詛、自らの無力さへの呪いが、まるごと憑依した。
 怨霊となって――。

 ――スサノヲ。

 光が。
 あまりにも広大で濃密な闇の中に、光が差した。
 まったく無意識に、スサノヲは自分の胸にある、クシナーダに与えられた領布(ひれ)をつかんでいた。右手には剣を持ちながら、左手ではその領布を。
 領布は明るい光を発していた。その光が、スサノヲを怨霊となった男の意識から切り離した。
 とたんにスサノヲは、たった今まで感じていた圧倒的で濃密な、〝負〟の感情の海から浮上していた。だが、それは危ういものだった。
 彼を呑み込んでいた大洋の中をかき分け、荒波の上にかろうじて這い出たようなものだ。
 ともすれば、海中に潜む怨霊たちは、スサノヲの足を引っ張ろうと手ぐすねを引いて待っている。それにもう一度つかまれてしまったらおしまいだと感じた。
 クシナーダ……。
 彼女の姿、彼女の仕草、彼女の笑顔。
 スサノヲは本能的にそれを想った。岩戸を抜ける前、胸に手を当ててくれた。その彼女の掌から伝わってきた熱さを想った。
 そして剣を鞘に納め、代わりにその領布を振った。

 闇が切り払われた。

 そこには、今や彼から分離された無数の怨霊たちが渦巻いている死の渕が見えた。
 彼らはそこで嘆き、悲しみ、そして呪い続けている。それはおぞましいというより、あまりにも悲哀に満ちたものに思えた。彼らはすべて一様に、救いを求めていた。
 考えるよりも先に、スサノヲは領布を振った。
 それは浄化の光を降らせた。それは霊送りを行ったとき、クシナーダが天界より降らせた、あの白金の粉のような光だった。
 シャンシャンシャンシャンシャン――。
 鈴の音が聞こえた。
「ヨミの亡者たちよ、お前たちの還るべきところへお還りなさい」
 女の声が響いた。そして、さらに高く鈴の音が響き渡った。そのヒビキは、スサノヲが振りまいた光の粉を拡散させ、見渡すかぎりを埋め尽くすように覆わせた。それを浴びた亡者たちは真っ黒な塊から、ぽつぽつとほの明るい光へと変じた。
 その連鎖が見渡す限りへと広がり、あたりは眩いほどになった。無数の光の珠が、怨霊の海を離れ、上空へと昇って行く。
 上のほうに光の穴が開いた。そこへ光の珠は、吸い込まれていく。
 そして、すべて消えてなくなった。
 鈴の音が止まった。
 見ると、その鈴を鳴らしていたのは巫女たちだった。七人、いつの間にかスサノヲの周囲に広がって佇んでいた。いずれも清らかな乙女たちだった。
「ようこそ、ヨミの国へ」もっとも年嵩に見える乙女――といっても、二十歳にもならないだろう――が言った。クシナーダのそれに似た声だった
「そなたらは……」スサノヲは彼女らを一人一人見ながら言った。
「わたしはアワジ。クシナーダの姉です」
「アワジ……」衝撃を受けた。「カガチに殺されたという」
「驚くにはあたらないでしょう。ここはヨミの国。亡くなった者がいて当然」
「そ、それはそうだが……」
「他の者たちも皆、トリカミの巫女だった者たちです。皆、カガチによって命を奪われました」
 呆然と見まわすスサノヲを、無邪気な笑顔が取り囲んだ。クシナーダやミツハと同じような、心地よいヒビキが周囲からふわっと寄せてくる。
「そうか。そなたらがこれまでカガチによって命を奪われた七人の巫女……。しかし、なぜこのような亡者たちの世界に」
「わたしたちはある役目を持ち、ここに留まっておりました」別な一人が答えた。
「役目?」
「それは、あなた様をお待ちすること」また別な一人が。
「俺を?」
「いずれ訪れるあなた様を助けるため」
 問答の受け渡しが続く。
「わたしたちにはわかっておりました。失われるわたしたちの命が、きっと未来を作り出すことを」
「そのために天に還ることなく、ここに留まっておりました」
「あなた様に真実をお伝えするために」
「真実とは?」スサノヲは巡ってきた言葉の元のアワジを見た。
「それを知るために参られたのではないのですか」
 アワジがそう言うや、巫女たちはすうっと引き寄せられるように、それぞれの姿がアワジのもとへ重なり合って行った。彼女らは一つとなり、そして真っ白な光となった。目を開けていられないほどの輝きの中、スサノヲは自然と膝を折っていた。
 それが誰なのか、問うまでもなく、わかったからだった。

 光が収束して行き、そこに顕現したのは、母・イナザミだった。

 このヨミの世界を壊すのではないかというほど、巨大な光の結晶としてイザナミはその存在を顕わした。
 ――いとし子よ。
 そのヒビキ。慈愛に満ちたそのヒビキを受けるだけで、スサノヲは抑えていたものが堪えきれなくなった。仰ぎ見る目に、涙腺が決壊したように滂沱と涙があふれた。
 ――母よ。
 ――よう参られた。このヨミの国へ。
 ――母さん……。
 これほどの人間的な情がどこにあったのかと、スサノヲは自分で訝(いぶか)った。およそ乾ききった、人としての情の失われた人形のような存在として、自分が地上に生まれたと感じていた。このような存在に、どのような存在価値があるのか。何の楽しみも、喜びも、逆に憎しみさえも抱くことのない人形に。
 ――そなたは心なき、魂なき人形ではないぞえ。
 イザナミが告げた。
 ――ここへ参られよ、それがわかる。
 イザナミが両手を広げた。
 それを見た瞬間、スサノヲはそれこそが自分が心底求めていた瞬間なのだと知った。
 ――母さん。
 スサノヲは小さな光の珠となった。それは赤子のような……いや、胎児のようなカタチをしていた。勾玉のような。
 それは回りながら、すっぽりと大きなイザナミの両腕の中に抱かれた。
 そこは暖かく、安らぎに満ちていた。
 そこで彼は、ほんの小さな小さな、一粒の細胞となった。それが二つに分かれ、次には四つに分かれ、次には十六に分かれて……細胞分裂を繰り返して行った。やがてそれはまた、勾玉のようなカタチとなり、そして胎児へと成長して行った。



 母の海だ――と、スサノヲはとろけるような安らぎの中で、自分がかつてなく充足されていくのを感じた。母の胎内で成長しながら、彼は思い出していた。このヨミで体験した無数の人生を。
 それはすべて、彼の人生であった。
 遥か歴史が刻まれる以前から蓄積されてきた無数の人生。幾度も幾度も生まれ変わりながら、時に喜びを、時に悲しみを得ながら生きてきた、当たり前の人としての人生。
 彼らすべての人生は、天界にたった今もあるスサノヲの大きな意識の一部として、この地上で生きてきたものだった。時には男として、時には女として。彼らすべての人生が、細胞の一つ一つとなって、今ここにあるスサノヲの中に組み込まれていった。
 そうすることで、スサノヲは真実、〝人〟となった。
 それは、新たな〝誕生〟の時であった。

 気がつけば、スサノヲは元の姿となり、イザナミの前にひざまずいていた。
 イナザミは圧倒的な光のピラミッドのような存在ではなくなり、普通の人の形をして岩の上に腰かけていた。そして周囲の石段には、先ほどの七人の巫女たちが控えていた。
「いとし子よ」と、イザナミは言った。「よくぞ務めを果たされた」
 人のカタチとなったと言っても、その声音は厳かで、そして同時にやさしくもあった。
「務め?」
「そなたは思うておったろう。なにゆえに自分は、当たり前の人として地上に生まれなかったのか」
「はい」
「このヨミには無数の人の記憶が存在しておる。情報といってもよいし、残留思念といってもよい。今そなたが浄化し、天に送った者たちの情報は、そなた自身に由来する者たちの想いじゃ。それは浄化されぬまま、このヨミに留まっておった」
「わかります」
「それは普通の人にはできぬ技じゃ。クシナーダのような者たちでさえ、生身でこのヨミに立ち入ることはかなわぬ。おそらくヨミに入ったとたん、気が狂ってしまおう。当たり前の人は、ありとあらゆる悲嘆を一身に背負うことはできぬ」
 イザナミの語りとともに、ふっと幻影が現れた。三つの十字架。その中央の十字架にかけられ、苦悶に顔をゆがめる男。――ゴルゴダの丘――という言葉が、スサノヲの脳裏をよぎった。イザナミの想いによって、惹起されてきた情報だと分かった。
「過去、このヨミに立ち入った者は、何らかの形で特別な〝力〟を備えておった。そなたの場合は、このヨミを訪れるため、特別に鈍感に作られたのじゃ」
「鈍感……?」あまりにも意外な言葉に、スサノヲはあっけにとられた。
 イザナミはおかしそうに微笑(わら)った。
「人としての情に共鳴しやすい者ほど、ヨミは恐ろしい世界じゃ。残留思念を際限なく引き寄せ、その者を崩壊させてしまう。そうならぬため、そなたはきわめて共鳴しにくい存在として、この地上に降りたのじゃ」
「地上に降りた瞬間から、はっきりとした確信がありました。自分はヨミに行かねばならない。そして母に会わねばならないと。その想いだけは、絶対の使命として胸にありました」
「それはそなたがその役目を負うて地上に降りたからじゃ。わたしに会うことこそが、そなたのお役目だったのじゃ」
「なんのために、それが必要だったのでしょう」スサノヲは激しく戸惑っていた。「いや、俺は自分がこの世にある意味を知りたくて、ここへ参ったのですが、母に会うことだけが自分の存在意義なのですか」
「そう急くな」イザナミは手をひらひらとさせた。「そうよの。もう一つ、重要な役目があるぞ」
「なんでしょう」
「ここへ来て、肩を揉め」
「は?」
「それも重要なお役目じゃ」
 七人の巫女たちがクスクス笑った。スサノヲは母にからかわれているのだと知ったが、「さあ、早う」と催促され、立ち上がり、石段を登り、母の背後に回った。そして肩を揉み始めた。
「せっかくこうして人のカタチを得ておるのじゃ。ちょっとは人の親子らしいこともしておかねばのう。おお、良い気持ちじゃ」
 イナザミに年齢はなかった。言えば、肉体的な凝りなどあろうはずもなかった。七人の巫女と同じように若々しく、それでいて滲み出る雰囲気の大きさは、まぎれもない母性そのものだった。
「母さん、あの、さっきの続きですが……」
「相変わらずせっかちなやつじゃ」
「すみません」
「はっはっは。そしてくそ真面目じゃ。さきほど、そなたは二つのことを問うたな。一つはなんのためにヨミに来て、わたしに会う必要があったのか。そしてもう一つは、自分の存在する意味」
「はい」
「ヨミを訪れねばならなかったのにも二つの理由があるが、一つはわたしを慰めるためじゃ」
「慰める?」思わず、手が止まった。
「おお。今ここでこうして肩を揉んでおることもその一部というわけじゃ」
 なるほど…と、半ばほど納得して、スサノヲは肩揉みを再開した。
「わたしはこの星のすべてを生み出したヒビキじゃ。人はそれを〝母〟〝地母神〟として認識しておる。しかし、創造の過程では常に澱のようなものが生まれる。人で言えば、そなたが先ほど浄化した残留思念がそれじゃ。それはすなわち、わたし自身の澱でもあるのじゃ。このヨミはそうした世界じゃ。そなたがそうであるように、わたしの大元のヒビキも天界にある。が、ここにあるわたしはきわめてネの世界のヒビキに近い。どういうことかわかるか?」
「つまり、人間に近いということでしょうか」
「その通りじゃ。そのため、時として慰めも必要なのじゃよ」
「その役目を俺が?」
「他に誰がおろう」
「はい」
 そう言われれば、受け入れるしかなかった。
「母を慰める者がいなければ、どうなるのですか」
「恐ろしいことになる」
「恐ろしいこととは……?」
「まあ、考えてもみよ。どのような時代、どのような家族でも、母が崩壊してしまえばどうなるか」
「…………」
 スサノヲが沈黙を守っていると、そばで見守っていたアワジともう一人の巫女が言った。
「子は愛と居場所を失い」
「男は暴走をやめず、あくなき破壊を繰り返す」
「それが地球規模で起こると思えばよい」と、イザナミが引き継いだ。
「それは……母さん、今、とんでもないことをさらっと言われましたね」
「真の創造は陰の中、母性の中にこそある。抑えを失った陽の力、男の力は往々にして破壊に働くものじゃ」
「俺がヨミを訪れなければならなかったもう一つの理由は?」
「そなたがまっとうな〝人〟となるためには、ここへ来る必要があった。それは先ほどの体験で分かったであろう。かの者たちの人生を得ることで、そなたは完全となる。かの者たちの情報は怨念ばかりではなかったであろう。当たり前に生き、そして死んでいった者たちの人生の記憶じゃ。そのすべてが今、そなたの中にあろう」
「はい」
「わたしも慰められた」イザナミの片手が、そっとスサノヲの手の上に置かれた。「そなたを今一度身ごもり、そして生んだ。そうすることで、わたしも満たされ、そなたも満たされた。そうであろう?」
「はい」
 不覚にも涙が滲んできた。母の優しさに触れることで、スサノヲは自分の中に欠落していた部分、風穴のように感じられたむなしさがなくなっていることを知った。
「もうよい」と言われ、スサノヲは母の背後を離れた。そして、また前に膝を折った。
「これでそなたは完全な〝人〟となった。もはや好きに生きるがよい」
「え?」
「この世に生きる意味、存在する意味。そなたはそう言うたな」
「はい――」
「そのようなことは自分で決めよ」
 あまりにも意外な言葉に、スサノヲは返す言葉を失った。
「何もかも他に答えを求めようとするのは怠慢で、甘えじゃ。なんのために人に自由意思が与えられておると思うのじゃ」
「いや、しかし――」
「スサノヲ様」思い余ったようにアワジが言った。「今、地上は大変なことになっております」
 アワジの後、巫女たちは言葉を引き継いでいった。
「ヨモツヒラサカの結界が破られ、ヨミに閉じ込められていた禍津神、ヨモツヒサメが外に出てしまいました」
「ヨモツヒサメは人の悪しきものが凝り固まった存在」
「この地の底には、人が決して手を付けてはならぬ〝死の力〟があります。ヨモツヒサメはその化身でもあります」
「数え切れぬほどの人が死ぬでしょう。これまでの戦いにも増して」
「ヨモツヒサメを放置すれば、世界は滅びます」
「クシナーダもまた、今はカガチによって連れ去られました」
「クシナーダが?!」血相を変え、スサノヲは立ち上がった。
「さて、いかがする?」と、イザナミが問うた。
「母さん、俺は地上に戻ります」
 イザナミは笑い出した。呆然とするスサノヲに、イザナミは言った。
「そなたは今、何を考えた」
「それは――戻って、クシナーダやみんなを助けなければと」
「ならば、それが今のそなたの存在理由ではないのか」
 その言葉は、スサノヲの胸を突くものだった。
「はい……」スサノヲは一度そう答え、そして目を上げ、もう一度、強く言った。「はい!」
 彼はイザナミ、ほかの巫女たちを見つめ、そして最後に今一度、母を仰ぎ見得た。
「ありがとう。母さん」そう言うと、彼は踵を返し、もはや振り返ることもなく走り出した。その姿はすぐに闇に呑まれ、消えてなくなった。
 見送ったイザナミの瞳に憂悶が映し出され、揺らいだ。
「……いとし子よ、すまぬ。せっかく〝人〟になれたというのに」母の顔がゆがんだ。その顔を隠すように右手で覆った。「そなたの役目は本当はあと一つ……。じゃが、あれはわが澱……わが怨念……」


     2

 岩戸を抜け出ると、愕然となる光景が目に飛び込んできた。足元を浸している水の冷たさ以上に、スサノヲは心臓が一瞬にして凍りつくような胸苦しいショックを受けた。
 二つの横たえられた亡骸(なきがら)――それが死体だということは、血に染まった姿で一目でわかった――。
「アシナヅチ……ミツハ……?」
 スサノヲは篝火の中でゆらめくその横顔を認め、周囲を見まわした。亡骸のそばにあるのは、打ちひしがれたイタケルとオシヲだけだった。クシナーダの姿は、むろんない――。
「スサノヲ……」暗い眼をしたイタケルが振り返る。
 水を撥ねて駆け寄り、アシナヅチの横にひざまずく。その白髪と白髭に覆われた、深い皺の刻まれた顔は、冷たい空気の中で凍ってしまっているようだった。
 ――そりゃ、わしがしてもらいたいからじゃ。約束を。
 その顔が、あの人を食ったような悪戯好きな老人の笑みを浮かべることは、もうなかった。
 隣に横たわるミツハも、その白い顔は今はまったく血の気の失せた仮面のようだった。
 ――わたしも、とてもうれしゅうございました。
 あの愛らしく無邪気な乙女の笑顔は、二度と見ることはできないのだと知らされた。
「カガチがここへ来たんだ……カナンのやつらを追いかけて」イタケルが言った。「クシナーダも連れて行かれちまった。すまねえ」
 ぽたっ。
 地についたスサノヲの手の甲に、生ぬるい水滴が落ちた。それはスサノヲ自身の涙だった。幾度も生前のアシナヅチやミツハの、生き生きとした言動や仕草がよみがえってくる。そして、それがよみがえるたび、彼らがそれを見せてくれることは、もう二度とないのだと思い知らされる。
「これが……悲しみか」スサノヲは、自らの顔を流れ落ちる涙に触れ、言った。そしてまた、その悲しみの底から突き上げてくるものを感じながら拳を握った。「これが怒りか……」
「俺は許さない」魂の抜け殻のようなオシヲは、ミツハの笛を握ったままつぶやいた。「カガチもオロチの連中も……それにこのワの国を引っ掻き回したカナンのやつらも……絶対に許さない。あいつらがミツハを殺したんだ」
 それは今のスサノヲには、わかりすぎるほどわかる感情だった。ヨミで彼にもっとも強く憑依してきた男の生とその死にまつわる怨念。
 それと同じものをオシヲは抱き、そう、そしてイタケルもきっと、ずっと抱き続けてきたのだ。守りたい、愛すべき人を奪われた者として。
「イタケル……俺はヨミでアワジという娘に会った」
 その言葉は、気落ちしていたイタケルに活を入れた。
「アワジに?」振り返る彼の眼の焦点が合った。
「他の娘たちも、皆、ヨミにいた」
「なぜ、アワジたちがヨミに……」
「役目があったのだと。俺を待っていてくれた」
「アワジが……」
「アワジたちは言っていた。失われる自分たちの命が未来を作り出すと」
 スサノヲの顔を見るイタケルの眼に、みるみるまた涙が溢れてきた。
「アワジと俺は……ミツハとオシヲのような関係だった。兄妹同然に育って……そんで、俺はアワジのことが……」
「だから、おまえはアワジの妹のクシナーダのことを見守っていたのだな」
 うん、うん、とイタケルはうなずいた。そして、戸惑うようにアシナヅチのほうを見た。「アシナヅチ様も似たようなことを言っていた。失われるものなど何もないと……」
「イタケル、オシヲ」スサノヲは呼びかけた。
 オシヲも虚脱したような眼をスサノヲに向けた。
「俺はヨミで自分の過去の多くの人生を知った。今、この身としてある前の数多くの一生だ……。俺はこの一つ前の人生で、カナンの民だった」
「!」二人は度肝を抜かれたように目を見張った。
「国を侵略され、妻や子供たち、母も皆、殺された……。この今の身は、そのときの焼き直しのようなものだ。エステルの亡くなった弟、エフライムに似ているのもそのためだ。もしかすると、どこかで血がつながっているのかもしれない」
 あの強大な国家(ペルシャ)の侵略を受け、無残に殺され、母親とわが子も殺害され、妻を凌辱された男の人生だった。
「守るべき家族……妻や子を守れなかった、その悔いがたぶん、今もこの身には焼き付いている。どうだ、オシヲ、俺が憎いか? 前の人生でカナンの民だった俺が」
 オシヲは眼を見開いたまま、凝固していた。
「俺は数多くの人生を、数多くの民の中で生きてきた。このワの民だったことも、幾度もある。おまえたちとこうして会うのも初めてじゃない」
 静まり返った岩戸の前の聖地に、しばし、時間だけが流れた。
「俺が……他の民だったこともあるのかな」いつもは大きなヒビキのオシヲが、かすれた声で言った。
「ある」と、断じた。
 スサノヲの瞳の中で、イタケルもオシヲも殺されたわが子たちだった。それは過去世の記憶を持つ今のスサノヲには、疑いようもない自明の理だった。彼らの姿を見ると、過去の子供たちの面影が重なって見え、得も言われぬ懐かしさが湧いてくる。
「おまえたちも前の人生では、俺と一緒に過ごしていた」
 そしておおぜいの侵略兵に凌辱され、そのさなかで息を引き取った妻。

 それはクシナーダだった。

「俺はもう二度と自分の愛する者を失いたくない。おまえたちと同じように、アシナヅチやミツハを殺された悲しみも怒りも、俺の中にはある。だが、これから俺が行うのは、復讐ではない。ただ愛する者を守り抜くための戦いだ」
 オシヲとイタケルは、圧倒されたように無意識に身を引いていた。
 あの静かだったスサノヲが……と、驚きがオシヲを満たしているのがわかった。それはスサノヲの眼の中にあるもの、全身からみなぎらせているものに感応してのことだった。
「おそらく今こうなっているのは、前世の影のようなものだ。俺やおまえたちは愛する者との暮らしが理不尽に奪われる記憶を持ち、その記憶がここでまたもう一度影のように蘇えってきている。しかし、同じことを無意味に繰り返すのが人生ではない」
「変えられるのかな……」ぽつりと、オシヲが言った。
「かならず俺が変える。いや――」スサノヲは両手で二人の肩をつかんだ。「俺たちが変えるんだ」
 まずイタケルが、スサノヲの手をつかみ返してきた。
「アシナヅチ様が昔、言ってたよ。未来はそれぞれの心が作り出すと。一人じゃなく、たくさんの心が集まって未来を作るんだと」
「俺一人では未来を変えることはできない。だから、力を貸してくれないか」
 オシヲの手がそろそろと昇って来て、迷った後、自分の肩にあるスサノヲの手をつかんだ。
「俺、ミツハに褒められる男になりたかった……」オシヲは自分の手の中にある笛を見つめた。
「…………」
「だから、悔しいけど……」オシヲの目から、ぼろぼろ涙が溢れ、こぼれ落ちた。「あいつら、どいつこもこいつも殺してやりたいけど……」
 息を詰めるような時間の後、オシヲは血を吐くように言った。
「……スサノヲに預ける。そうする……。俺が復讐に狂ったら、ぜったい……ミツハ、俺のこと、褒めてくれねえもん……」
 わあああ、とオシヲは泣き出した。絶叫するようにスサノヲにすがりつき、苦悶し続けた。
 岩戸の聖地に、また雪が降り始めていた。
 それは彼らの悲しみも憎しみも、静かに覆い隠すような雪だった。


「来たようじゃな」
 トリカミの里でナオヒが閉じていた目を開けた。
 それは、後退を余儀なくされたカナン軍と、追い打ちをかけてきたオロチ軍が、トリカミの里へ雪崩を打って侵攻してきた瞬間でもあった。
 トリカミは斐伊川の中流から上流にかけて、その周辺に広がる一帯である。その中心の里は現・雲南付近にあった。オロチは東から日本海沿いに進行する主力部隊と、それから枝分かれして現・鳥取の日南市付から峠越えをする部隊があったが、その枝分かれ部隊はキビからの連合軍と合流、万才峠を抜き奥出雲へと侵攻を果たした。
 それはヒバの脇を抜けて峠越えをしたカガチ部隊との合流を意味したが、それがスムースに進んだのは、いうまでもなく険しい山越えを行い、敵の背後をカガチが突くことに成功したからである。
 カナンは当初、山間部のいくつかの峠(現・島根県と鳥取県の境界線付近)で防衛線を張っていたが、カガチが南から防衛線を破り、北からはタジマと児島の水軍が攻めてきたことによって、戦線を維持することができなくなった。最前線の指揮官たちは撤退命令を出し、イズモに主力を構えるカナン本隊への合流を図ろうとした。
 その結果――。
 山間部のカナン軍が後退する場所は、必然的にトリカミになってしまったのである。




 瓦解したカナンの軍は、斐伊川の上流からしゃにむに後退をし、トリカミの里を荒々しく通り過ぎようとした。だが、このときすでにカガチが率いる部隊が、大挙して押し寄せていたのである。
 里の中心部は、打ち建てられた柱と、里の周辺に幾何学的に配置された巨石によって、長く守られてきた。それらが里を守る結界としての機能も果たしてきたからだった。しかし、この巨大な土石流のような情勢の前には、もはや現実的な守りを果たせなかった。
 里人は知る由もなかったが、守りの要であったはずのアシナヅチの命が失われた今となっては、なおさらに――。
 わずかな時間に、静けさに包まれていた里の空気が一変した。甲冑を身に付けたカナンの部隊が、ふらふらになって里に迷い込んできた。それは、少し前にあった出来事の裏返しだった。かつてオロチがカナンによって攻められ、逃げ込んできた。その意趣返しのように、今回は後退するカナンをオロチが追いかけてきた。
 喚声が湧いた。怒涛のようにオロチ兵が侵攻し、カナン兵に襲い掛かった。
 里は血で染まった。
 カナン兵は鎧や、金属を縫いつけた防具を有していたが、この雪と寒さが災いした。重い装備は、深いものではなかったにせよ積雪の戦場では、移動にも戦いにも有利に働かなかった。むしろ兵の体力と体温を奪い、動きを鈍くする足かせだった。
 理性を失ったカナン兵は、やみくもに里の住居に逃げ込んだ。それを追いかけるオロチ兵は場合によって火矢をかけ(カヤを落とされた時のように)、炙り出されてきた敵を殺した。だが、その家にトリカミの里人がいて、逃げ出してきたとしても見境なく殺害した。
「ナオヒ様、このままではここも危険です」山の天候のように、瞬く間に急変した情勢に、ニギヒは老巫女に強く言った。「われらに戦わせてください」
「だめじゃ」
「なにゆえに――このままでは、里人が皆殺されます」
「そなたの手勢は十名ほど。そのような戦力でいかほどことができようか。無駄死にするだけじゃ」
「しかし!」
「剣で立ち向かえば相手を逆上させ、争いが広がり、よけいに里人の命が殺められる。それがわからぬか」
 ニギヒは言葉に詰まり、拳を握り固め、震わせた。
「なら、せめて、守らせてください」血気盛んな皇子は、言葉を食いちぎるように発した。「里人を集め、われらに守らせてください」
「よかろう。じゃが、ニギヒ、生きるより辛い思いをする覚悟はあるか」
「なにを言われます……」
「クシナーダが言うておったろう。立派な心がけじゃと、じゃが、言葉で言うほど簡単ではないと」
「あ……はい」
「そなたにそれができるかどうか、わしに見せてみよ。クシナーダはそなたよりずっと若い乙女の身でありながら、それを為してきた。そなたにそれができるか?」
「どういうことでしょうか」
「スクナという子がおるであろう」
「スサノヲのそばにいつもいた……」
「あの子を連れて、そなたは逃げよ。そしてスサノヲを迎えてまいれ」
「!」
「里人をここへ集め、そなたの手勢にここを守らせるように言い、そしてそなたはスクナと共にここから逃げよ」
「なにを馬鹿なことを……そのような仰せには従えませぬ」
 ふ、とナオヒは笑った。「――ならば、そなたもそこまでの器」
「言っておられることの意味が分かりませぬ」
「よいか、ニギヒよ。失われるものなど何もない」
 老巫女の前にかしずき、その顔を見上げるニギヒの表情に不安定な戸惑い、逡巡が色濃く浮かび上がっては入れ替わった。


「失われるものなどないとしてもな、この世で生きておる者は失ったように錯覚する」
「錯覚……」
「命は錯覚ではない。無意味なものでもない。それを知るためにこのネの世界はある。すべては知るためじゃ」
「知るため……」
「実感するためといってもよい。錯覚の上に成り立つ……そうじゃな、これは遊戯じゃ」
「遊戯……」
「じつは失われるものなど何もない。それでもそなたは失われたと思うであろう。そなたの部下である兵たちを。彼らは死ぬやもしれぬ。しかし、クニの長たろうとするのなら、何を生かし、痛みを伴っても何を選択するのか、考えねばならぬ。時には自分の命を大切にせねば、多くの命を救えぬ時もあるぞ」
「ナオヒ様、すみませぬ……。私には何をおっしゃられているのか……」
「わからぬでも良い。わしの言いたいことは、痛みに耐える勇気を持てということじゃ。わしの言うことを信ぜよ。クシナーダ……あのような若い娘でさえできたことが、そなたにはできぬと?」
「いえ……。クシナーダ様がなされたことなら、私もやってみせましょう」
「なら、スクナと共に一刻も早くここを去り、スサノヲを迎えに行け。里人をここに集めよ。しかし、戦ってはならぬ。ただ、守るのじゃ。そのように兵たちに申し伝えておけ」
「わかりました」
「案ずるな。わしも、そなたの部下たちも、意外にしぶといものよ。生きておるやもしれぬ」にっとナオヒは笑った。


     3

 先行するカガチが率いる先鋒部隊からやや遅れて、ヨサミや巫女たちがトリカミに近づいた。
 近づくにつれ、真っ白な雪が覆った河原、丘、そして森林で、悲惨な光景が目につくようになった。
 トリカミの里へ近づくにつれ、黒煙が空に立ち上っているのも目に入った。クシナーダは事態を悟り、囚われの身でありながら、むしろ先を急いだ。そして目の当たりにしたのは、美しかった里が無残に踏み荒らされ、多くの死体と血が作り出す無残な光景だった。
 そこではまだ戦乱が続いていた。山境の防衛線から後退してきたカナン兵と、追い打ちをかけたオロチ軍が入り乱れての殺し合いが続いていた。そして、その中には足の遅い巫女たちを置いて先行したカガチの姿もあった。
「カガチ、やめさせてください! トリカミの里には手を触れぬという約束です!」
 ヨサミはそのクシナーダの絶叫に、あのカヤを焼かれた時の我が身の悲嘆を重ね合わせた。
 カガチはその声を聴いたかもしれなかった。が、かすかに笑みを浮かべただけで、戦闘をやめようとはしなかった。
 襲い掛かるオロチの兵。逃げ惑うカナンの兵。
 乱入してきた兵士たちに吠えるトリカミの里で飼っている犬。その犬たちも兵の罵声を浴びながら、場合によっては凶刃の被害を受ける。
 里人たちは逃げ隠しているのか、姿はほとんど見えなかったが、おそらくオロチ軍は火を使ったのであろう。里の家屋の数棟から、燃え盛る音と黒煙が上がっていた。その中から逃げ出してくるカナン兵、そして里の人々。
「殺(や)れ殺れ! 殺っちまえ!」
 嬌声が上がり、殺到するオロチ兵たちは、傷を負ったカナン兵たちも、また善意から負傷兵を助けていたであろう里人も、次々に凶刃の餌食にした。それを目の当たりにしたクシナーダは、兵士によって拘束された身をもがきながら、殺される里人の名を一つ一つ絶叫する。
「ミナト! ヤヒコ! ミナワ!」
 クシナーダの叫びを聞いたのであろう、逃げ遅れている里人はすがる思いで、住居を出てきた。そのためにまた矢を浴び、剣で切りつけられる者が続出した。クシナーダは目をそむけ、そしてまた戻し、叫んだ。
「出て来てはなりません! 皆、中にいるのです!」
 発声の限度を超え、声帯が破れてしまうような悲痛な叫びだった。家の中にいたからといって、助かるとは限らない。オロチ兵たちは逃げ込んだカナン兵を捜索し、次々に住居に踏み込んで行き、乱暴を働き続けている。土器の壊れる音や悲鳴が後を絶えない。
 ヨサミはその光景を呆然と眺めていた。なんの感情もなく。
 なにもかもがゆっくりと、時間が粘ったように見える。剣を突き立てられるカナン兵。絶叫。血しぶき。
 逃げ惑う人。人。子ら。あるいは動物たち。
 武器を持たぬ者でさえ、背後から無慈悲に切りつけられる。
 子供であっても、蹴られ、殴られ、そして踏みにじられる。
 泣き叫ぶ声。涙。恐怖。震え。
 そして――

 憎しみと絶望。

 ある時、ヨサミの感情のスイッチが入った。まったく無味乾燥な、白けた情景に見えたそれらが、いきなり色彩を帯び、生々しい現実感を伴って、五感すべてを覆ってきた。阿鼻叫喚が聴覚を満たし、生々しい真っ赤な鮮血が、積もった雪に飛び散るのが目に飛び込んでくる。
「やめて……」震える声がひとりでに口を突いて出た。
 ヨサミは人形のようにぎこちなく、二、三歩前に踏み出した。今また戦闘の巻き添えになり、子をかばって抱いている母親の背が切りつけられるのが目に入る。火がついたように泣き叫ぶ赤ん坊。
「やめて……こんな……」
 高熱を発した時のようにガクガクと全身が震えた。恐怖が全身を這いまわる。そしておぞましさと鋭い嫌悪が胸を鷲掴みにする。
「こんなのをわたし、望んでない……。わたしは……」
 おぞましいのは自分だった。嫌悪を感じているのは、自分自身に対してだった。自らの憎しみと呪いが、この現実を生んだ。すべてではないにせよ、この現実の一部に、ヨサミは自分が根深く関与してしまい、自らの手を血に染めている自覚をはっきりと持った。
 ヨサミは叫んだ。カガチを呼び続けた。やめて、もうやめて、と。
 だが、戦いに没頭するカガチは、そのような言葉を聞き入れる耳を持たなかった。情け容赦なくカナン兵を殺戮して行く。
 ヨサミとクシナーダは叫び続け、そしてやがて力尽きて崩れ落ちるようにその場に腰を落とした。どちらの泣き顔も憔悴しきったものだった。
 二人の背後には、夜を徹する山越えを行ってきて、やはり疲弊した巫女たちがいた。彼女らもこの無残な光景の目撃者となることしかできなかった。
 彼女ら巫女は、いわばカガチの連合軍をまとめ上げる人質のようなもので、親衛隊によって守られているというよりも、事実上は拘束されていた。彼女らはそれぞれ打ちひしがれたクシナーダやヨサミのところへ行こうとしたが、その親衛隊に押しとどめられてしまっていた。
「ヨサミ……」アナトらの目にも涙があった。
 ヨサミの受けている悲しみと衝撃。そして自責。
 それはすべてアナトらキビの巫女たちが共有するものでもあった。この戦闘に参加している多くの者も、キビの国から招集された兵士だからだ。その兵たちがいかに情勢とはいえ、トリカミの里人たちをも傷つけている。命を奪っている。幼子を槍で突き刺し、残忍に高笑いする。女を犯し、欲望を満たす。そして物を奪い、悦に至る。
 その狂気の連鎖がこのトリカミの里で演じられていた。それまでまっとうに生きてきた男たちであっても、殺し合いという恐怖と高揚の中で、狂わずにはおれないのだ。
 長く穏やかな暮らしを保ち、そしてカガチによる支配と横暴にもかろうじて耐えてきたこの里の平和が、ついに破られていた……。
「アナト様」と、声をかけてきたのは、キビの中でもっとも年若いイズミだった。周囲の親衛隊の耳をはばかりながら小声で言った。「申し訳ありません」
「イズミ……?」
 イズミの横顔には苦渋が浮かび、そして鋭い怒りのようなものが立ち上っていた。
「わたしはカガチからキビが離れることに消極的でした。わたしのワケは、カガチの直接支配するヒメジなどからも近いがゆえに……。しかし、わたしは今、自分に腹が立っています。わたしは憶病でした。トリカミのこの様は、わたしたちの責……」
「イズミ……」
「策を練りましょう。きっと何か道があるはず」
 その時だった。アナトたちの背後で、イスズの声が上がった。「アカル様……いかがなされました」
 見ると、イスズが支えているアカルは真っ青になって脂汗を浮かべていた。両手で胸元を押さえて、苦悶に表情をゆがめている。身体が強くないのに山越えを強行したためかと思われたが、そうではないことがすぐにアナトたちにもわかった。
 彼らが踏破してきたヒバの山を遠くに見た瞬間、アナトはぞくりとする戦慄を覚えた。その山の姿そのものが、異様な鬼気をはらんでいたのだ。同時にうっと呻き声を発し、シキが両手で頭を抱えるようにした。アナトも激しい嫌悪感と頭痛に襲われ始めた。
「あれは……」霊視能力に秀でているナツソが指差した。
 曇天の空は、今は降雪を止めていた。その空に、ヒバの山のほうから言うに言われぬ、真におぞましきものが近寄って来ていた。
 すうっと血の気が引いた。これほどの嫌悪を、かつていかなる毒虫や毒蛇にも覚えたことがなかった。アナトは瞬間的に嘔吐するほどのむかつきを感じ、かろうじて耐えながらその気配を自分の周囲から追い払った。が、それは闇の気配の濃厚さに対して、あまりにもか弱いものでしかなかった。
「いや……いや! 来ないで!」ナツソが悲鳴を上げる。
 巫女たちはこのとき、一人の例外もなく凍り付いていた。
 触れてはならぬもの。
 開けてはならぬもの。
 ワの国の巫女たちの間でひそかに伝えられてきた絶対の禁忌――このトリカミが封印してきたもの――が、すでに解き放たれてしまったと知った瞬間だった。
「ヨモツヒサメ……」口にしたくもないその名をアナトの震える唇が発した。
 巫女たちの動きや視線に、なんだ? というふうに親衛隊も空を仰ぐが、彼らにはその姿を確認することはできない。だが、巫女たちには〝それ〟の存在は現実そのものだった。
 ヨミから解き放たれた禍津神――その中でも、もっとも恐るべき〝死の使い〟であった。悪霊の集合体のようなものが、今やトリカミの上空に忍び寄り、漂っていた。それはただ一体でさえ、抗いがたいほどの強烈な〝負〟の磁場を放射しているのに、その数は八体を数えた。彼らは地上に発生する悲しみや憎しみ、そして絶望の想念を吸い上げていた。
 そして――

 笑っていた。

 その笑みを目撃した瞬間、アナトは発狂しそうになった。
「アナト様!」
 声と共にシキやイズミが腕をつかまなければ、そのまま意識を飛ばされてしまったかもしれない。危ういところでそのがけっぷちに留まり、アナトはどっと放出した汗が一挙に凍りつく感触を味わった。


「何を騒いでいる」親衛隊が不審げに言った。だが、そういう彼らにも、否定しがたい不調感が生じているようだった。顔が青ざめている。
「アナト様、このままでは……」シキがおそらく無意識にだろう、勾玉を握りしめて言った。「この里の人は死に絶えます」
 頷きながらアナトは、自分も勾玉を握りしめた。
「皆、心を強く持って。この里に結界を張りましょう」
「アカル様、大丈夫ですか」
 イスズに支えられながら、アカルもなんとか身体を保持する。
 巫女たちは勾玉を掲げ、その光を空に発し、結界を広げようとした。だが、ヨモツヒサメのあまりにも濃密で強烈な闇は、それをみるみる押し包み、呑み込んでしまおうとした。

 ――イイ餌ガアル。
 ――ゴ馳走ダ。

 巫女たちの存在に焦点を合わせたヨモツヒサメの意識が飛んでくる。それは飢えた獣が、餌食となる生き物を目の前にして、涎を垂れ流すようなものだった。その邪悪さ、欲望の根深さは、巫女たちを残らず震え上がらせた。

 ――コヤツラノ恐怖ハ美味。
 ――ハハハハ!

 光の結界がたわみ、ぼろぼろに腐って行くのが見えた。その穿たれた結界の穴から、ヨモツヒサメの禍々しい〝力〟がどろどろと注ぎ込まれてくる。それはみるみる勢いを増し、土砂崩れのように襲い掛かってきた。
 食われる!
 アナトは死を覚悟した。

 その瞬間、事態に変化が生じていた。打ちひしがれていたはずのクシナーダが、いつの間にか立ち上がっていた。そして勾玉を掲げ、光を放っていた。
 その眩い光はヨモツヒサメたちの圧力を押し返し始めた。
「すごい……」シキが感嘆の声を上げた。
 クシナーダは眼を閉じ、そして歌っていた。花の歌だった。

゚・*:.。..。.:*・゚命は昇る陽(ひ)
゚・*:.。..。.:*・゚光となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの大地を温める

゚・*:.。..。.:*・゚命は巡る月
゚・*:.。..。.:*・゚影となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの道を照らす

゚・*:.。..。.:*・゚命はそよぐ風
゚・*:.。..。.:*・゚息吹となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの身を生かす

゚・*:.。..。.:*・゚命はうるわし花
゚・*:.。..。.:*・゚愛となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの心を満たす

゚・*:.。..。.:*・゚花よ花よ花
゚・*:.。..。.:*・゚咲き誇れ
゚・*:.。..。.:*・゚おまえの命のヒビキのまま

゚・*:.。..。.:*・゚花よ花よ花
゚・*:.。..。.:*・゚見せておくれ
゚・*:.。..。.:*・゚愛がこの地を満たすのを

 その歌声がヨモツヒサメの邪気をみるみる中和して行った。
「わたしたちももう一度」アナトは呼びかけた。
 巫女たちは〝力〟を合わせ、結界を今一度押し広げた。そのさなか、クシナーダの歌のヒビキとともに宙を舞うものをアナトは見た。
 天女? 一瞬、そう思った。宙を舞い踊るその女たちの姿は、羽衣をまとった天女そのものに思えた。が、アナトはすぐに気づいた。彼女らはこの里の巫女たちの御霊だと。
 その数は七つ――。
 すでに肉体を失ったトリカミの巫女たちの霊が、今も生まれ育った土地を守り続けているのだった。その巫女たちの舞いとクシナーダの歌声に勇気づけられたように、この地に息づいている草木、花、川、石や土の精霊たちが、地に姿を見せ始めた。それぞれの愛らしい姿で。
 彼らもまた、あらんかぎりの助勢を行っていた。悪しき猛毒の侵入を防ぐため、それぞれの光で、それぞれのヒビキで――。
 結界は拡大し、里全体を包み込んだ。そして、それはもともとこの里が持っていた清浄な〝気〟を維持するために巧妙に配置されたいくつかの巨石と中央の柱とリンクして、強力な結界を構成した。
 ヨモツヒサメたちはその外へ追いやられ、結界内には侵入できなくなった。
「やった……」思わず巫女たちから声が上がる。
 その直後。
「アカル様!」イスズの声。
 ぐったりと力尽きたように倒れかかるアカル。それをイスズが危うく支え、今にも二人とも倒れそうだった。アナトたちも慌ててアカルを支え、昏倒して怪我をするような事態は避けられたが――。


「クシナーダ様!」シキの叫び。
 アナトが振り返った時、勾玉を捧げ上げていたクシナーダの姿はそこになかった。
 彼女は雪原に横たわっていた。


     4

「こっちだよ。早く」
 小さな体のスクナが、山野を駆けて行く。ニギヒはそれについていくだけで精いっぱいだった。薬草取りのため、周辺の土地の獣道や抜け道のことも知り尽くしているというスクナは、時に子供でしか通れないような木々が折り重なった穴を抜けたりもした。華奢な少女とは思えぬほどすばしっこく、体力もあった。
 いい大人のニギヒのほうがむしろ息が上がりそうになったが、里をかなり離れたところでようやく沢に沿った歩きやすいルートに変わった。どうやらスクナは散り散りになったカナン兵やオロチ兵に遭遇する危険を考えて、およそ人が歩くような場所でないところをあえて選んでいたらしい。
「岩戸はこの川の上流にあるんだよ」と、スクナが言った。
「スクナはそこへ行ったことがあるのか」荒い息を整えつつ、ニギヒが訊いた。
「うん。まえに薬草取ってて、たまたま迷い込んじゃったんだ。あとでアシナヅチ様に言ったら、そこが岩戸だって教えてくれた」
「どれくらいかかる」
「半日――ああ、もうちょっとかかるかもしれない」スクナは何気なくニギヒの足もとあたりを見ていた。ニギヒの足ではもう少しかかりそうだと踏んでいるのだ。
「私のことなら心配するな。ついて行くから」
「でも、スサノヲが戻ってきているんだったら、もしかしたらどこかで会えるよ」
「なるほど。そう願いたいな――」
 茂みが騒ぐ音が二人の会話を中止させた。斜面の上方から鎧の立てる音とともに、男たちの話し声も聞こえた。
 ニギヒとスクナは顔を見合わせ、沢に転がっている大きな岩の背後に回った。
 カナン兵たちだった。五人いた。彼らは警戒しながら山の斜面を下ってきた。
「大丈夫だな」
「ああ、オロチのやつらはたぶんもうトリカミのあたりまで進んでいるはずだ」
 彼らはもともと峠を防衛していた部隊だった。しかし、戦況があまりにも不利だったため、一度戦線を後退させたところで、夜陰に道を見失った者たちだった。
「ここからもう少し西へ迂回して、イズモのエステル様に合流しよう」
「…………」
「どうした?」
「いいのか、それで」
「何を言う」
「この戦、俺たちは負けるぞ。あのオロチの大将の戦いを見たか。あの化け物には誰もかなわない」
「なんだって……」
「いや、シモンの言うことはもっともだ」
「ヤコブ、貴様もか!」
「いいか、カイ、冷静になれ」
 彼らは沢へ降りてきたところで口論を始めてしまった。
「数だって違いすぎる。おそらくイズモも落とされる」
「じゃ、どうするんだ。ここは俺たちのために神が下された土地だぞ。ここ以外にどこで生きるというんだ」
「半島に戻り、もう一度、戦略を練り直すのだ」
「馬鹿な、ここまで来て……」
 彼らが早く通り過ぎてくれれば何も問題はなかった。が、彼らは足を止めてしまった。このままでは目に留まってしまう危険を感じ、スクナとニギヒはさらに岩の裏側へ回ろうとした。そのとき、スクナのつま先が小石を突き動かし、これが転がり落ちた。
「誰だ!」
 神経過敏になっていたカナン兵たちの反応は素早く、彼らの眼は岩陰に二人を見出した。
「オ、オロチだな!」
 五人は剣を抜き放ち、いっせいに詰め寄ってきた。
 ニギヒも剣を抜き、岩陰から出た。背後にスクナをかばいながら。
「われらはオロチの者ではない」と、ニギヒは言った。
「オロチでもないのに、なんでこんなところにいる」そう叫んだのは、カイだった。
「私はツクシの者だ。この戦いに巻き込まれたに過ぎぬ」
「なんでもいい。俺たちがここにいたことを報告されたら困る」
「ただの民がそんなご立派な剣を持つかよ」
「きっとカガチの連合国の者だ」
 死の恐怖と戦い続け、ひと夜を逃げ延びた者たちは、保身しか頭になかった。喚き声をあげ、斬りかかってくる。ニギヒは剣を合わせ、押し返した。と思うと、すぐ別な者が剣を突きだしてくる。あわやというところでかわすが、岩場に足を取られ、尻餅をついてしまう。
 斬られる、と思った瞬間、ニギヒに迫ってきていたカイの顔面にこぶしほどの石が命中した。スクナが投じたものだった、頬骨のあたりを押さえるカイがひるんだ隙に体勢を立て直し、ニギヒは巨岩を背に剣を構えた。
 武装も違う。相手が五人もいては、どうにもならなかった。
「スクナ、そなただけでも逃げろ。スサノヲを迎えに行け」
「だめだよ、そんな!」
「スサノヲだと……?」カイはなおも顔面を片手で押さえながら、ふと正気に返ったような反応を示した。
 その時、風が吹いた。山の斜面を風が茂みをざわつかせ、駆け下りてくる。それにつれ、木々に残る雪が舞った。
 その風は二人がよりどころとする巨岩の上に降り立った。
「スサノヲ!」スクナが頭上に立つ影に叫んだ。
 スサノヲは抜刀すると、剣を無造作に一閃させた。その剣圧がとてつもない〝気〟となって、五人のカナン兵全員に強烈な衝撃波を叩きつけた。剣に触れるわけでもなく、彼らは残らず吹っ飛ばされていた。カイは沢に背中から倒れ、ずぶ濡れになる。
 ニギヒが驚嘆の眼差しを送る中、スサノヲは剣を鞘におさめ、二人の前に降り立った。
 やや遅れ、斜面をイタケルとオシヲが下りてきた。そして現場の状態を見て、目を丸くした。

 ヘックショイ! ヘックショイ!――と、幾度もカイはくしゃみを連発させ、鼻水を垂らしていた。しかも左頬は青あざを作って腫れあがっている。
「ちくしょう、踏んだり蹴ったりだ」と、恨めしそうにぼやく。「スサノヲの知り合いだっていうのなら、先に言ってくれよ」
「命があっただけでもめっけものだと思うのだな」スサノヲは冷たく言った。「五体をばらばらにすることもできたのだからな」
 カイが大げさに震えたのは、寒さのせいか、あるいは恐怖を感じたのか。
「モルデ兄さんが言っていたよ。絶対にスサノヲと事を構えてはならぬと。よく分かった」
 彼らは沢の岩場で、しばし、話し合っていた。
「アシナヅチ様とミツハが亡くなったなんて……」スクナがショックをあらわに、力なくつぶやいた。目に涙がある。
「あのままにしておけなくてな、岩戸の近くに弔ってきた。それで戻るのに時間がかかっちまった。すまん」と、イタケルが言った。
「トリカミは今どうなっているんだろう。父さんや母さん……それにナオヒ様も」
 オシヲの言葉に、ニギヒが答えた。
「私が最後に見た時には、逃げ込んできたカナンはほぼ討ち取られていました。私の連れてきた兵たちは、祭殿に里人を集め、それを守っている状態だった。あのまま戦いが終わったのなら、ナオヒ様も、あるいは多くの里人も助かっているやもしれませぬが……」
「しかし、それ以前にかなり里には被害が出ていたんだろう?」と、イタケル。
「はい。里人は逃げてきた傷ついたカナン兵を助け、それが仇となったようです」
「カナン側に付いたと思われたってことか」
「かもしれません」
「カガチのやつ……」オシヲの眼に暗い炎のようなものが揺らめいた。「クシナーダ様にトリカミには触れぬと約束したのに……」
 空気が変わった。
 沈黙が生じた。重い沈黙であり、それはその場に居合わせたカナン兵たちの胸にも、鋭く突き刺さって来るものだった。
 その静けさの中、一羽のカラスが彼らの頭上の木の枝に止まった。スサノヲは眼を上げ、しばらくその黒い影を見つめていた。
「スサノヲ……?」スクナが気づいて、声をかけた。
 やおらスサノヲは、自分が首にかけていた朱の領布(ひれ)をつかみ、それをオシヲに差し出した。きょとんとして、オシヲは見つめ返した。
「オシヲ、この領布を預かっていてくれ」
「え……なんで?」
「いいから。預かっていてくれ」
「うん……」
「未来を信じろ。この世を去ったミツハが、いつかおまえがこの世を去るとき――ずっと先だろうが――そのときには必ず迎えてくれるはずだ。そのときにおまえが、ミツハに誇れるおまえでいるのだ。そのことだけを考えろ」
「ああ……」オシヲは戸惑いながら領布を握った。
「カイ――」スサノヲは身を乗り出した。「カナンは償いをせねばならぬ」
「償い……?」
「〝殺すなかれ〟〝盗むなかれ〟〝隣人の家を欲しがるなかれ〟――おまえたちは、おまえたち自身の存在意義に背いている。おまえたちはいったい、この島国の何百、いや、何千人を殺した? どれほどのものを盗み、そしてどれほどの隣人の家をわがものとした?」
「な、なぜ、十戒を……」カイは真っ青になった。
「そんなことはどうでもいい」
「そ、それは……。その教えは、わが同じカナンの民の中でだけで存在するもので……」
「つまり異教徒の民には適用されぬというのだな」
「そ、そうだ」
「おまえらのいう唯一の神は、いったいどこまでを創造したのだ!」
 スサノヲの怒号は、その場の全員の体を地震のように動かした。
「この地上のすべてではないのか! ならば、このワの国、おまえらが執着する豊葦原瑞穂の国も、おまえらの神が創造したということではないのか! でなければ、この国の権利を主張することなどできぬぞ!」
「…………」
「異教徒ならば殺してよいのなら、おまえらの神はこの地上のすべてを創造していないことになる」
「い、いや、しかし、神は常に信仰に背く者は滅ぼし、選ばれた者だけを救ってきた」
「かの洪水やソドムとゴモラのときのようにか」
「そうだ。神はこの地すべてを創造されたが、神の教えに背く者がいるだけのこと」
「つまり神の教えに背く異教徒なら殺してもよいと?」
「そ、そうだ……」
 そう言ってから、カイは、そして他のカナンの兵士たちは、スサノヲやその場にいる、ニギヒ、スクナ、イタケル、オシヲらの顔を見た。動揺しきった眼差しで。
「それで良いと本気で思うのか――と、エステルに伝えよ」スサノヲは静かに言った。「自分たちだけが選ばれた民、神に愛されていると者だと、世界中に声高に叫んでみろ。そして望むところすべてを手に入れてみようとしてみろ。未来でも同じような者たちが必ず現れ、いたるところに船出し、その土地を神の名のもとに得ようとするだろう。だが、おまえらと同じように、自分たちの神と信仰こそが唯一のもので、他は認めぬという民がもしおまえらとは別に現れ、おまえらに対峙したらどうなる?」
「…………」
「どちらかを完全に滅ぼすまで、その戦いと憎しみは消えることがなくなるのだぞ。それが神の意志だとでもいうのか? 何も知らぬ赤子や、善良な人々を、おまえらがこの地でいかほど殺したか。この先もそれを続けることを、おまえらは人としてそれを望むのか」
「…………」
「神ではない。人として考えよ。そのようにエステルに伝えよ」
「わかった……」
「ならば、行け」
 カイは周囲の様子を見ながら、ゆっくりと立ち上がった。同調したように、他の四人のカナン兵も立ち上がった。
 彼らは去って行った。
「スサノヲ?」スクナが、今一度、不審げに言った。
「みんな、先にトリカミに戻ってくれ。たぶん、そこはオロチ軍が占拠しているだろう。気を付けて、中の様子を探ってくれ」
「スサノヲは?」
「俺はここで一つやることができた。必ず追いかけるから、先に行ってくれ。イタケル、それにニギヒ、オシヲとスクナを頼む」
 スサノヲは上空を見ていた。誰もがその様子に不審を感じていた。今は一刻も早くトリカミに戻らねばならぬはずだった。それ以上に重要な使命はないはずだというのに、スサノヲは何か違うものに意識を向けていた。
 まさか――イタケルは立ち去りながら、嫌な予感に胸をつかまれ、思わず振り返っていた。
 その胸騒ぎ、嫌な感触は、アシナヅチとミツハが殺されたとき、岩戸の前で感じたそれを思い起こさせた。


「これは……どうしたというのだ」
 トリカミに残存するカナンの兵士たちをあらかた血祭りにあげ、戻ってきたカガチは不審と戸惑いを隠せなかった。巫女たちは一カ所に集まり、気を失っているクシナーダとアカルを介抱していたからだ。親衛隊もこの異常な事態に、巫女たちの行動に制限をかけ続けることはできなかった。意識をなくした二人はまるで死人のような肌の色をし、冷たくなっていたのである。血の気というものがなく、かすかに上下する胸が呼吸があることを伝えてくるだけだ。
「何があった」
 巫女たちは沈黙を守っていた。カガチは苛立ち、声を荒らげた。
「アカル……アカル!」
 怒声のような言葉に、アカルは薄く目を開いた。だが、それだけだった。唇は震え、声を発することもできず、また目は閉じられた。
 カガチはみずから手を伸ばし、巫女たちの輪の中からアカルの華奢な体を抱き上げた。
「おい、クシナーダも連れてまいれ」
 巫女たちは連合軍をまとめ上げるための人質のようなもの。死なせてしまっては元も子もない――という打算以上の動揺が、カガチには見られた。みずからアカルを抱き上げ、運ぶ横顔をヨサミはずっと見ていた。



 さきほどまでの、戦場での悪鬼の如きカガチではなかった。トリカミの里の中心部にある家屋の一つに運び込むと、カガチは部下に向けて怒鳴った。
「火を持って来い! 暖めろ」
「カガチ、わたくしたちにお二人を見させてください」イスズが言った。「男ではどうにもなりませぬ。今は一刻を争います」
「……わかった。任せよう」
「衣を着替えさせます。お出になってください。それからここの里人に言って、着替えを持ってこさせてください」
 カガチは床に横たわった二人の巫女を見、それから家を出た。ヨサミはカガチのそばへ、ほとんど本能的な動きで近寄った。
「なにがあった」
「…………」
「答えよ」
「はっきりとはわかりませぬ……」ヨサミは枯れたような声で、ようやく言葉を返した。「なにか恐ろしいものが里を覆っていました。それを二人は……いえ、皆が押し返したように感じました」
「恐ろしいもの? お前は見てはおらぬのか」
「わたしはもう……〝力〟をすべてカガチ様に捧げておりますゆえに」
 チッ、とカガチは舌打ちした。そして向かったのは、少し離れた場所にある大きな祭殿だった。その前にある広場にトリカミの里人が集まっていた。数はざっと百名近く――。子供の泣き声や怪我人の呻き声が聞こえる。戦闘に巻き込まれ、ここへ運び込まれた者も大勢いるのだ。
 その里人の集団を十名ほどばかりの屈強な男たちが守っていた。たまたま逗留していたイト国の客人だという話だったが、いずれも優秀な兵士であり、オロチとカナンが入り乱れた混乱時にも、集まった里人を守って戦い、犠牲者を最小限に留めた。そのような手練れの兵がこの場にいたことに、カガチは胡散臭さを感じていた。
 その兵士たちも含め、里人の集団を、今はオロチ連合の兵たちが包囲していた。
 里人たちはカガチが近寄ってくると、恐れおののきながらも身を乗り出すようにする者もいた。彼らはクシナーダたちが運び込まれたのを見ていて、自分たちの巫女のことを案じていたのだ。
「巫女の着替えを二着、用意しろ」と、カガチは誰にともなく命じた。「聞こえぬのか! 貴様らの巫女が死にかかっておるのだぞ」
 クシナーダ様が……と里人に動揺が走った。女が一人、群衆の中から抜け出てくる。
「衣を取りに行ってもよろしいでしょうか」おずおずと尋ねる。
 カガチは顎をしゃくり、促した。女は駆け出して行った。
「そなたがカガチか」群衆の中から出てきた老婆が言った。「わしも行ったほうが良いと思うが」
「何者じゃ」
「ツクシのアソの巫女、ナオヒという」
「ナオヒ様……?」ヨサミはその名を聞き、少なからぬショックを受けた。
 カガチはそんなヨサミをわずかに振り返り、老巫女に向き合った。
「アソの大巫女様か。お初にお目にかかる」
「わしもクシナーダとアカルの手当てをしたいが、よろしいかのぉ」
「アカルのことを知っておるのか」
「親戚筋じゃからな」杖を頼りにナオヒは歩いてきて、カガチの前に立った。「アカルはその〝力〟と引き換えに、体は極めて虚弱じゃ。それはそなたも知っておるのではないか」
「治療ができるのだな」
「アカルを癒したいのなら、わしを行かせることじゃな」
「癒せなかったら?」
「こんな老いぼれ、いつ命を取ってくれてもかまわぬぞ。アシナヅチを殺めたようにな」
 固唾を呑み、聞き入っていたトリカミの里人を深甚な衝撃が襲った。アシナヅチ様が?! とざわめきが動揺と共に広がる。
「アシナヅチもミツハももはやこの世におらぬであろう? そなたらが命を奪ったのではないか」
「結果的にはそうだな」
 この瞬間、剣呑な空気が里人の間に流れた。いかにトリカミが穏やかな民だとしても、ここに至るまでにカガチの暴虐は、忍耐の限界に達していたと言っていい。その上、首長まで殺されたと聞いて、殺気立つなというのは無理な話だった。
「アシナヅチはカナンとの戦に巻き込まれた。ただ、それだけのこと。今も好んでこの里の者を殺すつもりはない。――だが!」カガチは鋭い眼光と威圧的な声を民の頭上に投げた。「われらの邪魔をするというのなら話は別だ。俺に目障りだと思われぬことだ。あのクシナーダを生かすも殺すも、おまえら次第――」
「ずいぶんと弱々しい言葉じゃ」
「なに?」
「人を信じられぬから、安心するための材料が欲しいのであろう。それにしがみつき、声高に叫ぶ。それはそなたが弱いからじゃ。今までもそのようなやり方をしてきたようじゃが」
「貴様……」カガチは剣を抜き放ち、ナオヒに向けた。
「はっはっは」と、ナオヒは刃の下で笑い声を立てた。「この枯れ木のような老いぼれ一人、殺すことでしか憂さを晴らせぬか。弱い弱い」
 ぶるっと剣が上下に震えた。が、カガチはわずかな葛藤の後、剣を引き、鞘に収めた。
「年寄りには口では勝てぬわ」
 にっとナオヒは皺だらけの顔で笑い、里人たちを振り返った。「――皆、わしの言葉をアシナヅチの言葉と思うて聞いておくれ」
 里人の目が、ナオヒに集まった。
「かように弱き者の脅しに怯え、絶望することなどない。皆、真の強さとは何か、考えるのじゃ」
 そう言うと、ナオヒは里人に背を向け、クシナーダたちが運び込まれた棟へ歩き出した。
 しばらく沈黙があったが、一人の男の里人が動き出した。カガチのそばを通り過ぎ、オロチ兵の包囲の外へ出ようとする。むろん兵士は剣を向け、出すまいとした。
「どけ。まだたくさん怪我人がいるんだ」里人が決然として言った。
「そうだ。亡くなった者も弔わせてくれ」そう言いながら、また別な里人が立ち上がった。
 次々に同調した里人がいっせいに動き出した。
 兵士たちはどう対処していいものか、困惑した。もの問いたげな表情で、自分たちの王を見る。カガチはまた舌打ちした。武器も持たない者たち――しかし、断固として動き出した彼らを押しとどめる術はなかった。あるとすれば殺してしまうことだけだが、それをするのはあまりにも億劫に感じられた。殺意がそこまで掻き立てられないのだ。
「好きにさせてやれ。クシナーダがこちらの手にある限り、こいつらは言うことを聞くしかない。だが、そのイト国の連中からは武器を没収しろ」
 カガチの命令で兵士たちは動いた。イト国の兵はそれに従った。
 祭殿のそばから人が広がっていく。怪我人も、それぞれの家へと運ばれていく。子供たちもそれにつき従った。
 やがて広場には誰もいなくなった。
 そうなるまでカガチは、動かずにそこに立っていた。彼には民たちのことは、何一つコントロールできてはいなかった。
 その背中をヨサミは見続けていた。喉元まで出かかった言葉が出なかった。
 ――アカル様はあなたのいったい何なの。
 そう尋ねたかったのだ。


 ――良イノカ。
 大きなカラスを媒体に、サルタヒコが告げた。
 ――アノ領布ナクシテ、よもつひさめニ対峙ハデキヌゾ。イヤ、タトエ領布ガアッタトコロデ、焼ケ石ニ水デアロウガナ。
「あの領布がなければ、オシヲや他の者が危険にさらされる」スサノヲはつぶやくように応え、そして剣を抜いた。
 ――馬鹿者ガ。一人デ何ガデキヨウカ。
「黙っててくれ」
 ――来ルゾ。
 スサノヲは見た。
 無数の蛾が覆い尽くすように、空が闇に塗り替えられるのを。


     5

「ナオヒ様!」
 入ってきた老巫女を見て、アナトが大きな声を上げた。いっせいに振り返った巫女たちを順に見返し、最後にアナトのもとに視線を戻したナオヒは言った。
「久しぶりじゃな、アナトよ」
「は、はい――」アナトは我に返ったように反応し、老巫女の前に膝を折った。
 他の巫女たちも同様に動こうとするが、ナオヒはそれを制した。「そのような堅苦しいこと、今はよい。それよりも……じゃ」
 横たえられた二人の巫女は、ちょうど濡れた衣を着替えさせられたところだった。まだ意識は失ったままである。
 ナオヒは二人の間にしゃがみ、それぞれ順番に自らの手を心臓のあたりにかざした。
「ふむ……クシナーダは大事ないじゃろう。一度に霊力を使いすぎたのじゃ。この娘(こ)はもともとわりあい丈夫じゃからな。いずれ意識を取り戻すじゃろう」
 ナオヒの言葉通り、クシナーダの頬は少し血色を取り戻しつつあった。
「問題はアカルじゃ」
 アカルはまるで死人のような顔色のままだった。は、は、という短く浅い呼吸が、まるで死期が迫ったかのようにか細い。
「皆で今、〝気〟を注いでおりましたが」と、アナトが。
「それだけでは足らぬ。アカルはな、とてつもなく敏感な霊媒体質を持っておる。そのため、あのものどもの穢れを受け取ってしまったのじゃ。それを吐き出させねば」
「どのようにすれば?」
「そなたらは〝気〟を入れてやっておくれ。わしがやってみよう」
 ナオヒは仰向けに横たわるアカルの身体を転がすように横向けた。老体でも可能なほど、細くて軽い身体だった。巫女たちは輪になり、手をかざした。彼女らの掌から生命の力が、見えざる波となって送られる。その中でナオヒは祝詞(のりと)のようなものを口ずさみながら、しばらくアカルの背を撫で続けていた。そして、あるときポンと背を掌で叩いた。
 けほ、とアカルは喉につかえていた何かを吐き出すように咳き込んだ。すると、にわかに気道が開いたように大きく息を吸い、そして吐いた。
 ああ、と巫女たちは希望に満ちた声を上げた。
 アカルは眼を開いた。が、うっと口元を押さえ、背を波立たせるようにした。嘔吐に耐えているのだ。
「器を……」ナツソがその家にあった大きな鉢を持ってきた。
「我慢するでない。すべて出してしまうのじゃ」
 一瞬、ナオヒの声にアカルは振り返り、誰かということを認識したようだったが、激しい嘔吐感に襲われ、鉢の中に胃の内容物を吐き出した。肉体が受け取ってしまった穢れを猛然と拒絶し始めたのだ。ナオヒはずっとアカルの背をさすっていた。吐くものがなくなっても、えづきはなかなか止まらず、アカルは苦しみ続けた。
 ようやく収まってきたときには、もう精も根も尽き果てたような状態で、またぐったりとなってしまった。
「ナオヒ様……おひさしゅうございます……このような有様で、申し訳なく……」
 意識を失いつつも、そんな言葉を口にした。
「よいよい。今はゆっくり眠るのじゃ」ナオヒはアカルの手を握り、笑顔で眠りの世界に送り出した。
 アカルには幾枚もの布がかけられ、家の中の囲炉裏でも火が焚かれ続けた。やがて彼女の顔にも血の気が戻ってきた。体温も上がってきたようだった。
「よかった……。大丈夫ですね、もう」アナトが心底の安堵を込めて言った。
「うむ……」
「ナオヒ様がこちらにおわしましたとは……ありがとうございます」
 あらためてアナトは、ナオヒの前で身を低くした。他の巫女たちもそれに倣った。
「勾玉のヒビキに引かれたかの……。それはそなたらも同じであろう」
 巫女たちは顔を見合わせた。
「お初にお目にかかる者もおるな」
 この中でヤマトのイスズ、そしてキビの中ではイズミとシキは、ナオヒとは面識がなかった。
「わたくしにもご紹介ください」
 声がして、一同ははっとなった。
 クシナーダがそこに身を起こしていた。まだ少し顔色の冴えないところはあったが、はっきりとした眼差しをしていた。
「クシナーダ様……」
 巫女たち――とりわけキビの四人の巫女たち――は固まってしまった。時間までもが凝固してしまったような後、彼女らはこぞってクシナーダの前にひれ伏した。
「も、申し訳ありませんッ!」叫ぶように言ったとき、アナトの双眸から涙が溢れ出し、床を濡らした。
「申し訳ありません」
 巫女たちは続いて異口同音に言った。
「本当に……本当に申し訳なく思っております。何とお詫びしていいか……言葉もございません」
「アナト様……。わかっておりますよ。あなたがたも家族を囚われ、苦しいお立場」
「しかし、トリカミの里をこのように血で汚し、あまつさえ、ヨモツヒサメを呼び出す結果となってしまいました。何もかも、わたしたちが至らず、カガチに組し続けたため……」
「カガチには逆らえぬでしょう。あなた方も自らの国を守っていたのですから」
 シキやナツソは顔を伏せたまま、声を上げて泣き始めた。それは他の巫女たちにも伝播した。クシナーダは彼女らのほうへ寄り、そして一人一人を抱くように、そっと背に手を置いた。
「もうおやめください。わかっておりますから」
 イスズもクシナーダの前に膝をつき、頭を下げた。
「ヤマトのイスズでございます。わたくしからもお詫び申し上げます」
「イスズ様……あなた様のこと、ずっと感じておりましたし、お噂に聞いておりました。ヤマト・ミモロ山におわす予知の巫女様と」
「クシナーダ様にはとうてい及びませぬ」
「皆様、お顔を上げください。皆様の眼を見てお話しとうございます」
 そう言われ、巫女たちは顔を上げた。キビの巫女たちは頬や鼻を赤くし、いまだに泣き声を押さえられずにいた。クシナーダを前にして、自分たちが胸に溜めていた罪悪感が心情の吐露とともに決壊したようになっていた。ちょうど悪さをした子が、母親の前で打ち明けるときのように。
 この中でクシナーダよりも年若い巫女は、イズミしかいなかった。にもかかわらず、彼女ら全員にとっての母性として、クシナーダはそこに存在していた。それは理屈ではなかった。
「皆様のお辛さは、わたくしは誰よりもよくわかっております。わたくし自身、とても罪深き者……」クシナーダは静かに語ったが、その表情には濃い憂愁の色が滲んできた。「実の姉であるアワジをはじめ、このトリカミの里にいた年上の巫女たちは、ずっとカガチの犠牲になってきました。それはすべて、この時が至るのを待つため、そしてわたくしを生かすためでした」
 衝撃を受け、巫女たちは言葉を失い、クシナーダの告白を聞いていた。
「守ろうとした父母も殺され、最初に姉が連れ去られるとき、姉はわたくしとアシナヅチ様に申しました。何があっても最後までわたくしを生かせ、と。それがすべてを救うことになると……」塑像のように語るクシナーダ。しかし、そのつぶらな瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちた。「姉もまた予知に長けた巫女でした。アシナヅチ様も……わたくしも……ある未来を視ていました。それはある光がここへ到着し、闇を払う未来でした。その光を待つためには、わたくしは生きなければなりませんでした。ひとり……生き残っていくこと……愛する者の死を見送りながら、自分だけが生き続けること……それは何にも増して辛うございました」

 その言葉を戸口のすぐ外で聞いている者がいた。ヨサミであった。
 彼女は家の中で泣き声がしているのを聞き、誰かが亡くなったのかと危ぶみ、戸口のところまでやってきたのだ。だが――。
 ――同じだった。
 ヨサミは痛烈な衝撃と悲しみに胸を貫かれていた。泣き声を上げるのを堪えるため、両手で思い切り口を封じなければならなかった。


 ――クシナーダ様は自分と同じだった。
 たった今まで、ヨサミはそのようなことは想像にすらしていなかった。父母を殺され、愛する国を滅ぼされ、ただ一人生き残ってしまった苦しさ、辛さ、悲しさ、そして孤独。
 それは誰にもわからぬものと思っていた。
 だが――
 ……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……。
 迫ってくる夕闇の中、ヨサミはその場にうずくまり、心の中で繰り返していた。

 クシナーダは涙をぬぐった。が、むしろ彼女の告白を受け、他の巫女たちのほうが泣いていた。年長で冷静なイスズでさえ、涙を禁じ得なかった。
「え……と。あらためて自己紹介を致しませんか」
 クシナーダは気分を変えようとするように、ナオヒのほうを見た。
「そうじゃな。わしは親戚筋のアナト、ナツソ、アカルは知っておるが」
「親戚筋なのですか?」
「……もともとキビのアゾというのは、大巫女様のいらっしゃるアソから取られた地名です」ようやく泣き止みつつ、アナトが説明した。
「アカルのおるタジマのあたりにも、アソ海という砂州で仕切られた海があるのじゃが、それも同じじゃ」と、ナオヒが補足した。
「まあ、海の名前にも?」
「クシナーダなど知らんじゃろうが、昔アソの御山の中にはそれはそれは大きな湖があっての、同じように呼ばれておったのじゃ」
「ナオヒ様はご覧になったことが?」
「あるものか。何千年も昔の話じゃ」
 巫女たちは二人のやり取りにふっと笑った。
 が、その直後、クシナーダが別なものに気を取られた。
「スサノヲ……?」
 彼女の眼は大きく見開かれ、はるかかなたを見るように視線を送った。
 その瞬間、地が揺れた。


 空を満たす闇は、霊視的なものというには、あまりにもリアルだった。もちろん山間に忍び寄る夕闇などでもない。
 そもそもスサノヲには、巫女が持つような霊視能力はなかった。が、サルタヒコと会話するときのように、ある種の波長にはセンサーが働くことがあった。サルタヒコとはまったく異なるが、その〝存在〟もなぜか彼が認識できるチャンネルの一つだったようだ。
 闇は、蛾か蝙蝠かが無数に羽ばたくようなイメージだった。それが集まりながら舞い降りてきた。スサノヲの目の前に――。
 それは一個の人のような形を維持しつつ、茫洋と揺らめく影となった。
〝影〟は嘲笑(わら)っていた。そのように見えたというよりも、それが伝わってきた。
 ――オマエカ。
 言葉にすれば、そのような思念である。〝影〟はスサノヲに関心を示し、同時に嘲笑っていたのだ。
「ヨモツヒサメ……」スサノヲは手にした剣を振り向けた。
 すると嘲笑的なものが、さらに大きくなって押し寄せてきた。
 ――ソノヨウナモノ、ワレラニハ何ノチカラモ持タヌ。
「そうかな……? やってみなくちゃ、わからんだろう」
 言下に、大気がびりびりと震えるような波動が生じ、それはスサノヲに集まり始めた。凝縮されるエネルギーがみるみる増大して行き、収まり切れないものが身体のまわりで爆ぜた。
 爆発するようにスサノヲは〝影〟を斬った。
 その〝力〟は、カイらカナン兵たちを吹っ飛ばしたときの比ではなかった。放出されたエネルギーは周囲の木々を薙ぎ払い、太刀筋に沿って抉り取ったような痕跡を大地に刻み付けた。
〝影〟は跡形もなくなり、粉々に消え去った。
 気配も消えていた。
 スサノヲは周囲を見まわし、剣を鞘に収めた。そして、歩き出した。渓流に沿った道を、イタケルたちの後を急ぎ追うために。

 ビチャ

 音がした。それは普通の川の流れ音ではなかった。流れの中に何者かが足を踏み入れるような、そんな異音だった。

 ビチャ
 ビチャ

 スサノヲの歩みに同調するように、その音は追ってきた。振り返ると、川の流れが異常だった。
 岩も何もない川の流れの真ん中に、何かがいた。二本の脚がそこへ突っ込まれているように、ある二つの場所だけ、流れが迂回しているところがあった。
 ――キヲツケロ!
 それは以前にも聞いた、サルタヒコの警告だった。
 またあの嫌な気配が生じた。無数の蛾が集まるように、真っ黒な羽ばたきが集まり、その川の流れの上に〝影〟となった。〝影〟から無数の触手のようなものが、バネに弾かれるような勢いで伸びた。その一本はスサノヲに向けたものだったが、彼は反射的に横へ飛び退いてそれを避けた。
 が――。
 四方八方へ延びた闇の触手は、渓流沿いに植生する樹木の幹に絡みついた。すると、 樹々はまるで生命を吸い取られたかのように、みるみる枯れた。
 闇の触手は間髪を入れず、スサノヲに襲い掛かってきた。彼は剣を抜き払い、襲来する触手を退けた。彼の放つ〝気〟は、闇の触手に対してまったく無効ではなかった。が、あまりにも数が多すぎた。神速を持つ彼の剣技とて、無限のように増え続ける触手に対応しきれるものではなかった。そして、どんどん森が枯れて行った。
 野獣の吠え声が響いた。
 それは岩戸への往路、遭遇したツキノワグマだった。胸元に鮮やかな月の紋章を持つその熊は、出現するや、猛然と〝影〟に向かって突き進んで行った。
 豊かな恵みを持つ山々を穢し、枯らす存在。
 それに対するはっきりとした敵意をむき出しにし、熊は咆哮し、向かって行った。だが、彼にも触手が突き刺さり、絡み付いた。
 熊は山々を震撼させるような苦しげな喚き声を上げ、飛びかかろうとしたまさにその空中でもがき苦しんでいた。そして――。
 みるみる色を失った。
 灰色のような、白っぽい存在へと変容し、身が――そして骨が――宙に霧散して消えた。
 ――ワレハ〝死ノチカラ〟
 ――ワレニ触レルナ。
 ――ワレニ触レレバ腐レル。
 ――触レレバ滅ビル。
 死そのものの宣告が迫ってくる。たった一体のヨモツヒサメ。
 それにスサノヲはなす術もなかった。
 触手の一つが、スサノヲの胸を貫いた。
「!」
 その瞬間、スサノヲは自らの命がとてつもない勢いで、吸い取られていくのを感じた。



 肉体がそこから、急速に乾燥して、ぼろぼろに崩れていく――。
 絶叫した。
 と、同時に地が揺れた。
 ――ここで俺は死ねない!
 スサノヲは渾身の〝力〟を集め、剣を振った。触手を断ち切り、その身体は川に落ちた。
 ずしん、という重い響きと共に大地が鳴動した。ものすごい地震が生じ、その振動がありとあらゆるものを囲繞(いにょう)した。巨大な自然のうねりにヨモツヒサメも動きを止め、様子を伺った。触手に枯らされた樹々は真っ先に倒れ、そして生きている立派な樹木さえも、みしみしと悲鳴を上げ、しなり続けた。
 そして、山の一部が決壊した。上流で川の流れに制約を加えていた巨岩が動き、転がり落ちた。と、同時に堰き止められていた水が、その決壊した場所を中心に一挙に周囲の山土を粉々に突き崩し破壊しながら奔流となって駆け下った。
 スサノヲはもがき苦しみながら、身を起こした。
 その彼が見たのは、自らに襲い掛かる土石流だった。




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